nostalgic narrative 6
避難所・考
Asyl (アジール)、網野善彦歴史観によるとアジールは歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する。ギリシア語の「ἄσυλον」を語源とする。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」になるのだけど、そんなたいそうなことを論じようとおもっているワケではナイ。能登震災の避難所において、現在三百数十の避難所のうち、自治体の設置している避難所以外の避難所が百三十~四十未満ばかりあるというニュースを聞いた。(数がハッキリしないのは主筆のせいではナイ。全貌は依然としてワカンナイからだ)この自治体以外の避難所の特筆すべき点は、一つの避難所の避難民の少なさだ。だいたい十数人らしい。倒壊をまぬがれた肥料小屋、といえど狭い場所ではナイ、耕作用具なども置かれていたフラットな広い場所とおもわれる。約十数人が避難とはいうが、もっと少ない人数、たとえば四~五人くらいかも知れない。このアジールのイチバンの利点は、二次災害(大きなものでは感染)が防ぎやすいということだろう。目配り気配りが効き易いので、病人の手当ても(薬品や医療備品さへ持ち出せていたら)大きな避難所より利便性が大きい。食料の問題がどうか心配になるところだが、公設の二次避難場所においても食料難はけっこう大きく、二次避難が二割に満たない理由とされているのだから、ドッコイドッコイじゃないのかな。こういったおよそ全体のアジール(避難所)の半数に近い避難所には、もっと少ない人数の(たとえば一家族、あるいはパートナーどうし)ものがある確率は高いとおもえる。なぜなら、そのほうが「避難」というものがしやすければ、当然そうするだろうからだ。
今後幾つも起きるだろう災害における避難所の在り方はもっと研究、研鑽されてイイのではないかとおもう。ともかくはアジールしか救済してくれるところは無いのだから。被災者を大勢集めるところを「避難所」だなどと考えている無能極まりないガバメントが、想定どおり如何に役立たずかはもう立証されているのだから。まともな成果の出せる営為なら、コンプライアンスから外れていても、残り物のカレーくらい食っても、被災者から邪魔者扱いされるワケはナイだろ。部外者からの苦言より問題なのは、黙して語らぬ被災者なのだ。おそらく被災者は、なんだかワカランよそ者に対してなんだかワカランかったから黙ってるしかナイ。桃太郎ではナイ他の誰が掟破りで入り込んでも同じことだったにチガイナイ。それは、芸人松本が訴訟の相手にしているのは、文春出版社であるのに、被害者の女性の言説を争点にしている数多のコメンティターと同じだ。ビートたけしの一括は、浅草経験がいわせる重いものがあるが、けっきょくは「女の扱い方」「遊びの仕方」についてしかいっていないところで美談となっているのに、あんたいつだたか、似たようなことで自殺しかけたんじゃないの、と、主筆は焦燥をもよおして、ココロ静めるために今日は舞う雪を観ている。ほんと、雪は「ナニ、ヤってんだろね」とただヒラヒラしている。
私は災害からの避難場所が何処かは知っているが、いまの住居が破砕や倒壊するような大きな災害であれば、何処に逃げても時間の問題という気がしているので、備蓄出来ることが可能なものを多くはナイが備蓄(順繰りに消費)している程度だ。
大きなところに避難する余裕はナイとおもっている。まず、メンタルな問題で真っ先にヤラレルのは自分だとワカッテいるからだ。建造物の耐震度合いを識っておくこともタイセツだろうが、まず、第一にかんがえるべきは自分自身の「度合い」だ。どれだけ耐えられるのか。
災害では、全ての人々が被災者だ。病人も、医者も看護師も、福祉役人も、消防団員も、原発職員も、だれもかれも。一発でパァッと消滅させられる「核」なら別ですけどね。
ここにきて、トランプなどの高笑いなど聞かされていたんじゃ、生きていく気がしなくなる。