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カテゴリー「鬱病(鬱疾患)」の記事

2023年6月25日 (日)

時世録・22

並行に脳は使われた。
最近、評判らしい「デカミス(警察やら弁護士やら記者がらみで若いヒロインがいての、ミステリ・コミックを読みつつ、具体的には『クジャクのダンス誰がみた?』ですが)、/最近、多いなあこういうコミック/。「海老オペラ」とはいうけれど、こういうのが「文化の廃れ」の前兆なんじゃないだろうなと、ちょいと心配になりつつ、しかし、『ダイマシン』といい『イリオス』といい、リチャード・ウーには完敗だなあとおもうのだ。物語のinspirationというか、situationのぶったまげさというか、要するに刑事ミステリ(小説)を漫画にしているその他大勢の時流屋連中に、アキレスの亀の如く平然と(あきらかに放り投げ作品も含めて)差をつけフラッグを立て続けているのは、そうしてそれがもう、山風さんを抜いているのは、驚くしかナイのだ。つまりコミックとしての虚構の〈世界〉を悠然と武器にして、逆にリアルな「デカミス」を書いているということだ。コミックは『ミステリとはいう勿れ』からなのか(これは少女が主人公ではないけれど、少女・女性が重要な登場人物として登場する)、あちこち、そういう「デカミス」の増殖、雨後の竹の子なのだが、なんだか、時代劇が衰退したときのように、みょうにリアリズム(時代劇でいうなら時代考証)を持ち込もうとして、そいで、つまりstoryにrealismを持たせようとしているのだが、考えても(考えなくても)みよ、『ドグマグ』『黒死館』『虚無供』のどこにリアリズムなどというゲスがある。演劇というものも戦後リアリズム演劇なんてのが云いだされて、romanticism文学は蹴散らされ、で、けっきょくそのリア(リズムの)王さまも、唐十さんの現代幼童歌舞伎に押し流され、不幸なことに、唐さんの疾病で、今度は伝統芸の歌舞伎のほうが取り沙汰となっている。しかしながらリアリズム演劇は、この厚顔無恥がとおもうほどに何食わぬ顔してのさばっているのだ。
と、まあ、並行の一つはそんなふうなこと。
もう一つは自殺念慮について。
ひょっとすると、これは老年性鬱病なのかも知れない。と推論してしまった。意味なく(意味はあるんだろうけど)この年齢(私、71歳)になると、半世紀に及ぶ演劇人生で犯した罪の数々、ペテンの数々が、自らの嘘として、自己許容出来ない性格、資質を持つものには、襲って来る刻なのかも知れない。以前は、あのときああしていれば、あの娘は助かった、扶けることがでけたのに、と悔やんでいたものが、ちょいと波がカタチをかえて、ああしなかったから、こうしたから、いま、あの娘はこんなに(どんなんかは詳しく知らんのだが)なったんだぞ、と、自責になっていて、それが自罪となり、自殺念慮への誘いとなっている。と、こうい理屈なのだが、そこで、もうそりゃああんた、罪は罪、罰は罰、世の中が罪と罰で出来ていなければ、神様も出番はなかろう。けだし、私は神でもこの世界の住人でもナイ。どっから来たのかワカランけれど、来たんだからもうすぐ還るから、それまでは、もう「成り行き」ということで、泣いておこう。
さて、水菜と油揚とキノコの煮出しでもつくろう。晩飯だ。

2023年6月24日 (土)

時世録・21

朝の目覚めのときだった(かつ、たまにであった)恐怖感が昨今しばしば昼間にも生じるようになった。〈不安〉ではナイのだ。抗不安剤(つまりはtranquilizerだが)というのはあるが、けっこういまでも服用しているが、不安で服用しているのではなく離脱症状を防ぐのに止めることが出来ないからで、止めるのには、以前、二種類のクスリをヤメタときのように2~3年かかる。その頃には余命が尽きかけているので、今更ヤメルことなど出来ないのだが、しかし、恐怖感というのには鬱病歴の長い私も経験がナイ。坑恐怖剤なんて知らんしな。
で、沈思黙考。ああ、そうかとおもいあたった。やはり鬱病からの余波なのだが、「自殺念慮」が根底にあるらしく、それを怖がっているようなのだ。広末くんのことについては、けっきょく、損したのは彼女だけじゃネエのか、と漠然、感じている。ま、それはイイのだ(良くはナイけど他人事だからな)。上沼クィーンの「もう、私らのいていい世界やナイんやわ」という独白には、心底抉られた。ありゃ、イカンよ。わしらに死ねいうてるのとおんなじやん。
ロ×ウ戦争はいろいろ勉強になった。欧州というのはそんなに裕福でもナイのだ。それは新興アジアも同じ。どこも貧富の差の表と裏。合衆国は老害。日本はアト40年で国家としては消滅してしまうらしいが、おらあ、蒔けるだけの種は惜しみなく蒔いておく。先月のユニセフと国境なき医師団への寄付は6万円をこえた。こっちもそれくらいの飲み食いはしたからな。
キツイことに最近アルコールが入ると頸椎、膝,、指の関節炎なんかが痛む。その痛みを消すためにさらに飲むと、翌朝、ひでえ痛みで目が覚める。これ、アトどんだけ続けるつうの。
で、もう生きたくナイというツマラナイ気分になる。これを誤魔化しているうちに、無意識マグマになって、自殺念慮という恐怖感に苛まれるという寸法。
しかし、夏は越さないとな。出版だよ出版。ツレの生活の目処も僅かでもつけておかないとな。腐敗の激しい季節には死にたくねえな。もうココロが腐敗しかかっているのに、フィジカルにあちこち壊れているのに、北村想は商標登録に恥じないように去逝するのだ。詰め将棋のように果ててたまるかっての。小説、完稿させないとな。
よって、いまから飯。生きるために飯。飯は嘘をつかない。口当たりのいいことばかりいうヤカラなんかその口にアタッテ勝手に死ね。アホラシイ。シラジラシイ。ウルトラシー(古いな)。しかし、ちょっとは恐怖心薄れたナ。

2023年5月15日 (月)

時世録・11

ここのところ鬱病特有の現象、早朝覚醒が続いている。そういう現象のナイ鬱病者もいらっしゃることは識っている。鬱病の現象(ふつうは症状というのだが、このほうがピッタシなのだ)は個々それぞれ、処法無我、四面楚歌、だから。
当方の早朝覚醒はタチの悪いほうで、ふつうなら起床時刻は7時過ぎなのだが、これが5時過ぎに目が覚める。なんとか6時までがんばろうと布団で横になっている。もちろん眠れない。6時過ぎ或いは面倒になって、もう起きる。それから朝食の時間までしょうがなくPCかcomicか。で、飯食って(別に富裕層ではナイのですが、パンは全粒粉混合です。このてのを食べ始めるとふつうの食パンはもう食えない。口の中の感触と、食道の通りが良くてよくあるパンの胸つかえがナイ。胃もたれもなく、高級食パンを買うならこっちのパスコのやや安いのを買ったほうがイイ。のだけど、消費期限が短いのが難点だな)、で飯食って仕事に移ろうとした頃に強烈な眠気がヤってくる。何度も本を開いたまま、あるいはパソコンを前にして、気絶する。きょうなんかは、もうこれは駄目だと、自棄で寝ることにした。自棄寝だ。1時間弱眠る。こういう現象が鬱病の早朝覚醒なのだ。
ちょっと原稿の用事があって、鬱病の国別頻度をresearchしてみた。すると、たしかにアメリカも日本も多いのだが、アメリカの場合、その理由が社会的(会社的かな)に因を持つのに比して、日本の場合は個人的なストレスが多い。これはお国柄なんだろうか。
で、最も鬱病の少ない国というのがジャマイカなのだ。そうじゃないかなとおもっていたらそうだったというべきか。なんでか、は簡単な理由で、ネットでも触れていなかったが、自生大麻がふんだんにあるせいだ。ジャマイカは貧困国だ。医師も少ないし、医師にかかれる病人も少ない(病人はふつうに多い)。銭がナイので医療費がナイだけのことだ。で、たいていは、自生大麻で治してしまう。タダだからな。疾病は治らなくとも、疾病が原因の痛みや苦しさ、しんどさだるさ、気分の悪さ、大麻で治してしまう。これでは鬱病の出番はナイのだ。
もちろんだが、原稿にはそのことは書かなかった。書けないというのが正しいのだけれど。薬用大麻も麻薬大麻もへったくれもナイ。こう鬱剤の副作用と離脱作用で苦しむより、台所の竈で大麻焚いたほうが簡単で、なんしろ、タダだからな。ジャマイカでは、大麻に対して阿片窟の隠微な暗さなんてナイのだ。アヘン・スクワットしなくともイイ。
そうそう、今朝は早朝覚醒から帳簿付けなんかヤってたんだ。そのせいかまた眠くなってきた。晩飯の仕度はヤっちまったんで、本日昼寝はヤメて、サボ寝だな。銭の無い老時期というのもイイものだ。
アメリカのデフォルト、どうなるんだろうなあ。ウクライナの反転功勢うまくいくのかなあ。しょせん、泣くのは貧乏庶民なんだから、どうでもイイや。

2023年1月11日 (水)

アト千と一夜の晩飯 第四十三夜 寝る前にまた

昨晩はふとおもった、調べた、かんがえた。
〇ヒトは「関係」と「了解」のスキーム(概型、枠組み、位相空間と、簡単におもっておいて下さい)を持つ。関係は二人称(以上)と一人称に分かれる。一人称の場合無意識領域がこれを司る。関係が一人称にせよ意識的になった場合スキームは了解に移る。関係の意識的了解は錯誤や誤謬が起きやすい(妄想などもここに入る)。関係が一人称で無くなった場合(固有で操作出来る範囲を逸脱したばあい)の了解を鬱病と称する。従って鬱病は人称を持たない。固有の別の力に左右される。おそらく量子力学的な(私は重力だとおもっているけど)ものと思われる力学的エネルギーの現象と捉えられる。(メンタルもエネルギーを持っています)
量子力学的エネルギーのその現象というのは、こういえる。あたかもブラックホールと似たような現象あるいは状態。自らの重力によって自らが押しつぶされるそのような現象、状態。これを鬱病という。
〇防衛費が国民総生産(GDP)の2%になって、アメリカからトマホークを購入するそうだが、いったい日本の防衛力(自衛隊の軍事力)は如何ほどのものか、アメリカから新たにミサイルを買わねばならない程度なのか。私たちが知っているのはせいぜいイージス艦とパトリオット(地対空ミサイル)くらいなんだけど。で、リサーチしてみた。ふつうに自衛隊のサイトに入ったって、軍事だから大雑把なことしか書いていない。そこで、こういうのにもいるのである。/自衛隊オタク/だ。いやあ、もう事細かに調べこんでますワ。驚くほどです。で、その軍事力にも驚きました。敢えてここには書きませんが、そういうのを私が書いたり話したりするのはどうもなんでか知らんけど、アカンようなので。ですから、その/オタク氏/の末尾のことばの一部だけをそのまま書いておきます。
/はっきり言ってこれだけの兵力を有する島国と戦争して勝てる国はせいぜいアメリカくらいです/
事細かなその資料をつらつら拝見、拝読して、私もそうおもいましたワ。「核」なんか専守防衛、抑止力として、日本にはまったく必要ナイですわ。
戦争云々という前に「日本国憲法」の「前文」くらい読んだほうがイイ。また、「日米安全保障条約」がどんなものかも、知っておいたほうがイイ。
〇万年、末端血行不良(俗にいうシモヤケ)に、鬱病でお世話になっている精神科医から当帰四逆加呉茱萸生姜湯(とうきしぎゃくかごしゅゆしょうきょうとう)という漢方薬を薦められました。メンタルな冷え性の方に効果があるそうです。明日、院外処方箋薬局に届き次第服用開始します。

2022年9月23日 (金)

last job revision 11

114~119(了)

114・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」「夢」「独り言」、これらの量子ビットは、意識、無意識、超自我、の、フロイト関連量子ビットに加えられて、鬱病、鬱疾患の本態へと近づいているはずだ。
115・無意識は、意識の抑圧によって蓄積されたエネルギーの領域(場)だ。そのエネルギーをcontrolするべく超自我が「疎外」によって無意識の作用素からのoutputをマチガッテしまう確率が(たとえば〈云いマチガイ〉など)が在る。
116・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」などの無意識領域contents、の抑圧のoutputは状態ベクトル(波束の収縮)とはならないまま、ほんらいとは異なった現象としてoutputすることが確率としては有り得る。この「固有状態」が〈鬱病〉と称されている状態だ。
117・鬱疾患はその〈病態〉となる。鬱病は、無意識相応のエネルギーを有している。というよりも、「116」における「固有状態」のエネルギーそのものなのだ。その現象形態が鬱疾患として現れる。これを医学・薬学・医療界では「病態」「疾病」として扱ってきた。
118・しかし、ほんとうはそうではナイ。鬱病、鬱疾患は疾病ではナイ。無意識のエネルギーは波動方程式(状態ベクトルに至らない・波束の収縮にはならない波)のまま、「混合状態」において作用素のfunction(変容)を受けることになる。これは逆行した表出(自らに向けてのoutput)だ。これが鬱疾患と称されるものだ。(この量子を、存在は確実なのに観測不能、という観点から、蓋然的に〈重力波〉としておく。これは鬱病の〈本質〉を波動で示せば蓋然的には重力波であると仮定したことになる)。
119・鬱病への対応(方法)は理屈で述べればそれほど難しいことではナイ。
〇〈夢〉や〈独り言〉のような(対自的・即自的)communicationを創出し(⇒同等のエネルギーを持つ重力波を創出し)これに依って、自身の「記憶」に自身の「認識の同一性」を重ねて状態ベクトルを創り出せばイイ。
〇無意識・鬱病のエネルギーに対して同等のエネルギーを以て「混合状態」から「純粋状態」への相転位で、状態ベクトルを創り出すか、逆にエネルギーの対消滅を謀ればイイ。これは(「表現=疎外」という定義・定式から)疎外に相当する「表現」を導けばイイということだ。
〇この〈魔法〉を何といおう。具体的に如何にしよう。そのための〈実験・実践〉の段階として、自らが自らに明確にcommunicate出来る表現(〈夢〉や〈独り言〉のような(対自的・即自的)communication)を探してみる。
〇ひとつには「手話」による「独り言」としてのcommunicationだ。
〇手話は明確にcommunication言語だが、他とチガウところは、その方法、手段にデジタル(像)とアナログ(音)の両義性を備えていることだ。これは独り言として特異だが、発語者(当事者)としては了解しやすいcommunicationだ。

以上、鬱病、鬱疾患への対応の私的な手段、試行の方法論理はここまでとなる。なんやかんや面倒な論理を展開してきた結果が「手話」とは、私自身おもいもしなかった。
「手話」が鬱病や鬱疾患の呪縛を解きほぐしてくれるのだろうか。ともかくはこれを実験の段階へと営為させるのが成り行きだ。

と、同時に、ぼちぼちになるが「乖離=同化」という命題を「演技論」と合わせての論理で検討してみたい。

2022年9月22日 (木)

last job revision 10

103~113

103・面倒くさいいいまわしになるが、「ほんらい表現、表出されるべく「言語」による「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて(表出=鬱疾患)された情況」とは、ほんらいの無意識のエネルギーの「超自我」によるcontrolが意味を持つという普通の流れが、/三点セットに対する「疎外」によって、〈了解〉させられた情況/といえる。
104・「103」でいう「疎外」が、inputであるのか、作用素であるのか、outputであるのかは、問題にしなくてイイ。可換的(どうでも交換が可能)だからだ。ただ、作用素から「固有状態」でoutputされた場合には、固有性には変わりはナイが、その作業においては〈本質〉が現れるということだけは、記憶しておいてイイ。
105・このうち「communication(伝達)」の齟齬については、鬱病に対してかなり多大な影響を有するようにおもわれる。何故なら、これは対他的な「言語」との関わりが強いからだ。ラカンが揶揄気味に述べた「言存在」はけっこうオモシロイのだ。「言語」の〈了解〉が主体-主格の〈存在〉に関わってくるからだ。これはフロイトの「云いマチガイ」と同等の迫力があるとおもわれる。
106・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」という〈了解〉の三点セットと「鬱病」「鬱疾患」についてもう少し探りを入れていくが、ここで、「communication(伝達)」に「独り言」という特異な形態も付け加えておきたい。
107・「独り言」は対自的、もしくは即自的なものだ。道を歩きながらブツブツと呟くものから、「日記」という文言に至るまで、語る相手を自分にしていることから、小説のように読者という他者の存在を対象にしたもの、誰か他者をimageしての独り言もあり、さらにいうなれば、フロイトの『夢判断』における〈夢〉も言語そのものではナイが、「独り言」の範疇に含めることが出来る。
108・フロイトの『夢判断』を読んだかなりむかし、途中で嫌気がさしたことが思い出される。おそらくその理由は、当事者の夢に登場する事物、事柄をフロイトが何かにどうしても〈対応〉させようとしていることについての、精神分析的介入が鬱陶しかったのだとおもわれる。カール・ポパーのフロイトに対する「似非科学」というレッテルもまた、こういった聞きての一方的解釈が「反批判」を許容しない方法論だったからにチガイナイ。
109・「独り言」は「communication(伝達)」に含まれる対自的、即自的なものだが、「夢」などはあきらかに他人のためにみているものではナイ。その点では極めて即自的な営為だ。
110・ついでだから、フロイトの「夢」についての解釈を拾っておく。
/夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。/
111・ここに何気なく「記憶」が顔を出している。「夢」が「記憶」から引き出されるものなのかどうかの判断は留意して、「110」を私なりに加筆・修正してみると次のようになる。
/夢の素材には記憶も当然であるが含まれる。夢が虚構であるのなら、記憶という現実が必要だからだ。どの現実を選択するか、その選択方法は意識的なものではなく無意識的である。無意識的である以上そこには「抑圧」の力が加わっており、一見すると乱雑な夢の内容は無意識に基づいた力の発散、放逐であり、統合性という合理をデコンストラクション(既存の枠組みや体系を解体し、新たに構築し直すこと)によって、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な苦渋を希釈させるものである。それは無意識の消費による心的再生産であると考えることができる/。
112・「夢」が「独り言」のcategoryだとすると、それは多大なエネルギーを持った無意識であり、逆にたどれば、「独り言」は現実世界においては意識的にimageを再生させる力を持っている。
113・この営為、構造で/「独り言」の力を量子力学的に述べれば、それは「自らに自らを重ね合わせる」状態ベクトル/だといえる。

2022年9月21日 (水)

last job revision 9

93~102

93・この表出が具体的には、身体的、精神的な苦痛、苦難をともなう状況のことであり、もとより人体という自然が、身体性としても精神性としても、そういう「疎外」(作用素、あるいは固有状態)に対応出来るmechanismを「本質」として持ち得ていないからだとおもわれる。
94・この命題(仮説)(「93」)において、/言語が言語として表現され得ない/とは、当人にとってどういうことの(何の)因果で生ずることなのだろうか。
95・「無意識を意識化して表現」するその表現は何のための営為なのか。ここにきて、私たちは「communication(伝達)」という鬱病、鬱疾患に対するまったくチガッタ視点、視向、観点、試行に辿り着いてもよさそうだ。つまり鬱病、鬱疾患の「了解」だ。
96・交互の「communication(伝達)」を情報の交換として限っていえば、そこに含まれて取り沙汰されるのは各自の「記憶」と、相互の「認識の同一性」だとおもわれる。
97・「無意識」という領域(スキーム)には「記憶」が存在して当然のことだが、「意識」にとってそれは「忘却」ということになる。「記憶から一旦消されたのだが、〈無意識〉はそれを「記憶」している」というワケだ。(もちろん心身の何処にそんな場所があるのか、いわゆる外的、内的、心的、環界、どこに在ったって、あるいは、在るとおもっているだけのものであっても、特に差異、支障はナイ。ここでは仏教の「毒矢の譬え」と同じように、何故、無意識が存在しているのかは一義的なことではナイ。存在しているという事実だけが重要なのだ)。
98・「認識の同一性」になると、対他的な双方に、同じように存在するのかどうかはまったく不明瞭だ。それでも言語(や、それに類似したもの)が通じれば、おおむね普遍的にcommunicationを保つことは出来る。弁証法では「対立物の相互浸透」と称されるが、まったくの「同一」でなくとも双方の〈了解〉に至ればイイのだから。(もちろん誤解のままと、いうものもあるだろう。しかし、それはそれで〈伝達〉にはチガイナイ)。この部分については哲学において多数の意見、異議、解釈があるのだが、ここでは「97」を拡張活用して論じないでおく。
99・鬱病、鬱疾患に「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットが「視点・視向・観点・試行・情報」として、介入、滑り込んでいく。それは直観としか云いようがナイのだが、この直観(直感)は手放さないほうがイイとおもわれる。
100・この論考のハナ(初頭)に示した定義めいたものをおもいだしつつ、三点セットを置換してみる。「鬱病とは、ほんらい表出されるべき〈モノ〉が内外に疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう。この〈モノ〉を鬱病における鬱疾患と名付けておく」と、だいたいこのようなものだったが、そこで、この〈モノ〉を「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットで置換してみる。すると「鬱病とは、ほんらい表出されるべき「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」というふうになる。
101・さらに「92」における、「鬱病、鬱疾患とは、言語が言語として表現されずに表出されたときの疎外である」の、ここにも同じことをヤッてみると「鬱病、鬱疾患とは、「communication(伝達)」「記憶・記録」「認識の同一性」が表現されずに内外に疎外されて表出された〈モノ〉である」になる。
102・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットをこの場合、鬱病、鬱疾患の〈了解〉と呼んで差し支えナイ。

2022年9月20日 (火)

last job revision 8

78~92

78・抑圧されていたエネルギーが、本来的には言語表出されるべきとき、作用素において作用なきまま(「固有状態」のまま)表出されようと試みられたら、無意識のエネルギーを統べる「超自我」は、別のどんな手段を選ぶのか。その選択肢の中には、本来的な言語変換のためにさらなる「抑圧」を加えるという手段を以て「固有状態」を拒む確率もあるはずだ。
79・そのような無意識へのさらなる抑圧は、表現という意識的な表出を拒んでの「意識へのさらなる抑圧」とは別の「固有状態・表現」とに「無意識的」に変容する確率もある。
80・あるいはそれは「抑圧」された無意識下のエネルギーが、意識的に表現されずに、そのまま作用素に留まることになる場合もある。これは蓄積といいなおしてもイイ。
81・単にimageとして示せば、これは量子の活動状態が作用素において「混合状態」のままに留まるということになる。
82・量子の活動状態の領域が「混合状態」にある場合、波動は収束せず「重なり合わないままの状態」で、いわば無分別に右往左往、成り行き任せに動き回ることになる(ようにみえるのはあくまでニュートン力学の認識から量子の運動を観察しているからなのだが)。
83・「82」のような「状態」になった場合、「outputされた表現」は(「77」のような)状態になる。-固有状態としてinputされたときと同じ固有状態がoutputされる-。
84・定義(定式)上「表現され得ずして疎外されることはナイ」ので、「混合状態」でエネルギーがそのまま「意識による抑圧でより強い状態」となったとき、outputされたものは、無意識→(超自我のcontrolによる)意識→表現=疎外ではなく、無意識は意識された表現になり得ないまま、無意識→無意識=疎外としてoutputされたものになる。
85・outputされたモノの向き(ベクトル)は、作用素の影響が無く、超自我でcontrolされていないので、「外向き(対他的)」にも「内向き(対自的・即時的)」にもなるという確率を残す。
86・このような場合の量子が現実存在として何かに該当するのか、これは知る限りにおいて「重力量子・重力波」に該る、と仮定することが出来る。
87・これは試みに「四つの力」のうちで最も弱い「力」を充ててみたということだけなのだが意外にこれが都合がイイのだ。(「作用素」における影響が「力」の大きさの点から少ないであろうという推測から、つまり都合がイイので充ててみたというのがほんとうのところなのだけど)。
88・状態ベクトルが不完全な(収束しない)ままoutputされることが起きるということ、「起きるべきは起こるべくして起きる」は、量子力学的には確率としてあり得るとする。
89・極論すれば、疎外が表現ではなく疎外のままで作用素(function)からoutputされる。あるいは通過する。あるいは逆行すらすることも確率としてはあり得ることになる。
90・以上が、量子力学的には厳密に正しくはナイとしても(だいたい量子力学のことなど現在時点はほとんどワカラナイままだもんですので、私も私にワカル限りで思考しております)、具体的(現実的)に、言語が言語として表現されずに表出するという現象を私たちは経験している(或いは垣間見ている)。
91・およそ「鬱病」の表出としての「鬱疾患」とは、そのような現象(あるいは形態)にみえる。(また当人にとっては感覚される)。
92・とりあえずまとめてみれば、「鬱病、鬱疾患とは、言語が言語として表現されずに表出してしまった(表現された)ときに受ける疎外」である。(この場合の表現は対自的、対他的、さらには即自的をも含むだろう)。

2022年9月19日 (月)

last job revision 7

69~77

69・マルクスは『資本論-〔第1篇 商品と貨幣〕』において、労働で造られた商品や素材に二つの価値形態を設け、それを左辺、右辺に分け、双方の価値形態(たとえば、リンネルや、一着の上着や、石鹸や、小麦)を「=(等号)」で結んで、そこから「貨幣」という商品が何であるかを炙り出す(導き出す)のだが、この場合、「=」が数学的に何を示しているかについての説明は一切ナイ。また何れの場合の右辺と左辺の関係も単純にこの記号「=」で示している。これは杜撰という他ナイ。(たぶん『資本論』の欠陥はここにある。蛇足ながら、2022年現在世間を騒がせているQ統一教会(勝共連合)のテキストにおける共産主義への批判は、誰の著作かは不明だが、わりと緻密に共産主義は正しいが人間には無理だと説いている。マルクスについては「暴力革命」を是としつつ帰納的に共産主義革命を目指したのが失敗だと、その失敗の要因も示している。Q統一教会関係議員は与野党ともに、いいわけや選挙の票読み以外に、「因果応報」「自縄自縛」について黙考してみることだ。さて、しかしながらこのanti-communismの労作textも「貨幣」においては、単に「価値」の比較を批判しているだけで、「価値形態」の「形態」を無視しているところに欠点がみられる。労働においても「労働」と〈労働力〉の判別はつけていないようだ。この点については、日本の『資本論』批判、間違い論者、の多くがそうだ。それはアインシュタイン「相対性理論」批判をするときに、知らずにか、こっそりとか、ニュートン力学を持ち込んでいることと相似している)。-詳細は拙著『恋愛的演劇論』で「演技」と〈演技力〉はチガウと論じているところを参照-どうも、齢七十をこえてからaggressiveの度合いが強くなってきている。これは国政の阿呆ぶりに比例しているようだ。本筋、本論に戻る。
70・Hysterieを疾病ではない現象(蓋然的には情況でもイイ)として捉え、それを定式である「表現=疎外」に当てはめれば、Hysterieは何らかの表現だと代替することが出来る。つまり「Hysterie=疎外」である。
71・「表現」として表出するものは「疎外」と「=」になる。この場合の「=」は使用価値や交換価値が「同じ」というものではナイ。双方の労働に費やされた時間が同等ということでもナイ。もちろん価格でもナイ。ここでの「=」はほんとうは「形態」に充てられるべきものだ。或いはこの「=」の意味は「表現されたモノは表現した当人に同等の疎外を与える」と読むのが妥当だろう。
72・ここで哲学や医学からも逸れて、Hysterieという現象は(「疎外」なんだから)「表現」だとしてみる。ただし、「無意識のエネルギー」のままでの「固有状態」の放出である、は固守しておく。
73・まずそれ(Hysterie)は言語とはチガッテ、身体的「表出」による表現に近似する。それが言語による放出であっても、言語という「系(system)」からはおそらく逸脱しているとおもえるからだ。
74・言語が「無意識を意識化するための手段である」ならば、言語系から逸脱したHysterieという「形態」は「無意識というエネルギーの意識的な表現」であるのか。
75・そうではなく、Hysterieなどの身体系現出は「言語され得ないものの表現」、つまり「固有状態」である限り「無意識の無意識」的な表出ということになる。それは「言語によって表出(或いは表現に昇華したとして)されるべきものが、言語以外という現象のままで表出された表現」ということになる。
76・これは「固有状態」であるのだから、いいかえれば、言語系で表現されるはずのものが、身体系的に表現されてしまっただけで、「本質」に変容はナイ。というか、Hysterieには「本質」の残存だけが現れる、ということになる。
76・さらにいいかえれば、Hysterieは、その最も弱い表現「云いマチガイ」が身体系的に拡張されて表出された「形態」ということになる。誰がHysterieを正しい形態とおもうか。なんやかんや云うても「マチガイ」には変わりない。こういう悟性的な論理にケチをつけられても当方は対応出来ない。よって無視する。
77・つまり「Hysterieとは身体系な云いマチガイ」といえる。従ってそれは「無意識」に在る「固有状態」であり、ゆえに「本質」を担っている。このシステムはこう書き換えられる。「表現(ここでは例としてHysterieという固有状態)のinput→作用素(ここでは〈疎外〉という固有状態)→output(ここでは本質をともなった固有状態のままの表現)」

2022年9月18日 (日)

last job revision 6

64~68

64・フロイトが「無意識のエネルギー=リビドー」を感知、察知、体験的に発見したのは女性のヒステリー発作の原因を治療(research)している途上においてだ。ここで私が興味を引かれるのは彼の発見(research)そのものより、Hysterieというものが、「~が起きる」「~を起こす」という述語を伴うということだ。
65・この場合の「起きる・起こす」を用いた文節で有名なものを一つ挙げる。「Que Sera Sera」。訳すと「起きるべきことは起こるべくして起きる」。ヒッチコックの名作映画『知りすぎた男』でドリス・ディが歌った「ケ・セラ・セラ」の「なるようになる」という訳は意訳である。というよりこの言語「Que Sera Sera」は映画用に創られた造語で、どこの国のどの地方のコトバとしても存在しない。(1954年の映画『The Barefoot Contessa(裸足の伯爵夫人)』こっちも佳作だが、物語のコンテンツとしては家訓として用いられている)。
66・さて、「疎外」だが、とりあえず「疎外」の意味を哲学(マルクスの自然哲学・経済学)でresearchすると「人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が、逆に人間を支配するような力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう」となる。この状態は云いなおせば「自分が自分でありながら、その自分のせいで自分のおもいどおりにいかぬこと」となる。(付記しておけば、シッダルータ=釈迦の出家の因となる疑問、疑義はそこにあった。ただし、何故おもいどおりにいかないのだろうではなく、おもいどおりにいかないと、何故、ヒトはこれほどまでに苦しむのだろう、というシッダルータの自問の普遍性である)。「起きるべきことは起こるべくして起きる」という多少、因果論めいた意味づけは「おもいどおりにいかない」とは逆のようにも読める。前者「おもいどおりにいかない」は主体が鮮明(当人・自身)だが、後者は主格が無い。いわば前者は自己災厄だが、後者は自然災害のようにも読める。
67・主語と述語を「分けることが出来ない」ものとしての了解は一休禅師のいう、ヒトの存在はほんらい「無漏(:むろ 仏教用語 漏泄する不浄なものが尽きていること。けがれがない,煩悩がないこと」であるということも示している。おそらく一休禅師の場合は、この場合の作用素を「純粋状態(量子力学において、状態ベクトル(重ね合わせ)の生じる状態であり、これに反して「混合状態」では状態ベクトルは起こらない。波動関数(シュレーディンガー方程式)も通用するのは「混合状態」までで、ここでシュレーディンガーは有名な「シュレーディンガーの猫」という矛盾命題を残して、量子力学からは遠ざかった。しかしながら彼の講義「生命とは何か」は人間が扱えるのは分子までだとしながらも、それは「分子生物学」の門を開くことになる)」において論じているので、「人間があるべき自己の本質を失う状態」とは解釈していない。
68・マルクスの「疎外論」での「表現=疎外」における価値形態の等号は、作用素においてoutputされた「情況」ではなく「本質」に位置づけられる。いうなれば何れも「固有状態」である。

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