nostalgic narrative 2
貼り付けるだけではノーがno(「能がない」ということだが、常用的なものではナイ。ちょくちょく戯曲なんかにこのての遊びを用いると罪なことになる。たとえば、これをときどき「脳が無い」とする御仁あれど、ワザとならば、認めてもイイ。「能がない」は英語になるとひと言になる。incapable, incompetent,あるいは英文的にはunequal to,さらに「必要条件を満たさないさま」と訳されて(not meeting requirementsになる)なので(もう何が、なのでか、忘却している読者が多いだろうが)前回の貼り付けに主筆として、おもうところを述べてみる)
/高村薫さんのインタビューから拾ったコトバから。「おそらく大きなターム(期間)で、時代が変わったんですね。人類の歴史は今、これまでとは別の次元で動き出していて、未知のゾーンに入っている」「矛盾とダブルスタンダードの中にこの世界はあるし、私たちはそういう時代を生きています」、、、大きなターム(期間)でというより、私の感触でいえば、カタストロフィな変わり方のようにおもえてならない。朝、いつものように起きてみるといきなり「七十歳ですよ」といわれたよな「えっ」てな感覚ネ。七十歳どころかもう七十一歳なんだけど、ここまで生きられるとはおもっていなかったので、「どうすればイイんだ」と虚(うろ)たえている間に、世界のあちらこちらで戦争は起きる、日本の近隣にミサイルが飛び交う、ドローンなんてのは空撮の道具かと認識していたのが、そんなんじゃナイ。一度に数十発発射されてそれぞれが敵を攻撃する武器、兵器になってる。たしかに「未知のゾーンに入った」のは実感出来る。世の中では「新自由主義」てのが勃興して、さらに「反新自由主義」まで、跋扈しているというから、ポスト構造主義なんていってたむかしが昔になった。マルクス主義は死なずと(ほんとうはスターリニズムなんだけど)日本共産党なんてまだあるというのも、もう世界七不思議になっている。被災地でカレーの味見して帰ってきたアヤツは、何処に入れたらいいんだろう。被災といえば、生きていて「大災害=大地震」を次々と三度も経験させられた。年始にウイーンフィルを聴く余裕もナイ。矛盾とダブスタ、たしかに、今年合衆国の大統領がトランプになったら、民主主義は終わるか、ベツモノに書き換えられるかするだろう。「独裁資本主義」というのかね。とはいえ、一応選挙での選出なんだから「民主独裁資本主義」か。たしかに「矛盾」だなあ。合衆国のそういうことは、不完全性定理の提唱者、数学者のゲーデルが合衆国憲法を査読したときに「解」をだしたことなんだけどなあ。
「大事なことは、むしろ私たちが当事者ではないことです。どちらの側に立つのでもなく、例えばこの戦争はなぜ起きたのか、今起きている事実は何なのか、この戦争はどう収束させるべきなのか、を考える。それは私たちが離れた場所にいる『他者』だからできることです」、、、、と、それは理想なのだけれど、世界の事象はそう簡単にデカップルしてはくれない。ああ、哀れやなウクライナ、悲しむべきやゼレサンスキー大統領。このロシア×ウクライナ有事で私たちが学んだことは、けっきょく、戦争は何が何でも勝てば官軍で、ロシアの戦略というのは、おもうにただ一つしかない「屍をノリコエテ死ね、さらに死ね。その屍のむこうが勝利だ」かな。戦争犯罪もヘッタクレも無い。プーチンのヤったことは、自国の民のピンからキリまでの屍の山を築くかの二百三高地をお手本の楯にして、シンガリに「核」をぶら下げ、けっきょく人命の物量がその差だったということだったという、戦争の本質を貫いたことだけだ。兵站、兵器、の消耗ね。戦争は将棋のように駒にキリなどナイ。兵(ひょこ)を二重三重につぎ込んで、それでまだ足らないのなら、飛車が足らなければ飛車を、角、銀、金が無くなったら余所から資源と交換してくる。この策略が悪人にしか出来ないことなのだ。ロシアがなにゆえ大国と呼ばれているのか、ノッケから欧米はここを読み違え、ゼレンスキーはその読み違えをアテにして、メディアの応援に乗せられて「戦争は戦場で行われている」ということを知らなかったのは、プーチンではなくゼレンスキーのほうだったのではナイかとおもえるほどだ。(つづく)