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カテゴリー「ブログ小説」の記事

2019年11月 6日 (水)

第二十九回

第二十九回

 南蛮蕎麦が蕎麦に鶏肉を和えたのに比して、開化蕎麦のほうは、チャンポン麺に似た拵えで、沖縄のソーキ蕎麦に野菜を入れたタンメンという感触の蕎麦だった。ちなみにタンメンというのは「温麺」「汁蕎麦」が基本の、日本の温麺でいうところの卓袱(しっぽく)のことで、ほんらいならば、うどんや蕎麦に山菜が入っている。中国では汤面という特殊な漢字になり、英語ではtangmianとなる。雑にいってしまえば、野菜ラーメンのことだ。開化蕎麦のほうはここにソーキ、つまり豚肉の塊が入っている。牛ばかりが、開化したワケではナイということだ。

んなことより、もう物語のbreakが長すぎて読者は、何処までハナシが進んだか忘れているだろうけど、作者の趣味の小説〈出来たとこまで小説〉なので、堪忍ナ。では、つづき。

 しかし、残念ながらこの不思議なdateは実現しなかった。朧が断ったのではナイ。
 両者にほんの数秒の沈黙があった。別に互いに照れていたのでもナイ。幾らなんでもそれほど純情無垢に生きてきてはいない。単純な唖然呆然の体(てい)。
 両者の沈黙を破ったのは、邪魔者、というより本筋が入ったからで、両者、ともに殺気を察した。
「なるほど、面目にかけてということかの。伴天連の頭目らしいのがお出ましか。某が相手ではなかろう。お嬢、遊んでみるか」
「そうね。ひとりひとりは面倒だから、それに頭目を斬ればこのゴタゴタは済むことだしね」
 右近の眉間がかすかに捩り、朧の視線に敵手が映った。
 まるで死に装束のような浅葱色、貫頭衣の出で立ち(古代ローマで上流階級の下着ないし下層階級の普段着として着用されたもので、日本でも弥生時代には一般的衣服であった。簡単にimageすれば、マカロニウェスタンなどでみられた南米のポンチョ)。辮髪(べんぱつ)と称される髪形で、それが、sunglassesなんぞをして、腕組みしつつ直立不動ながら、宙に浮いている。
 朧も右近も、瞬時にその場から消えた。そのあまりのあざやかさに、
「女人ト、甘くミタのが油断だったのだろう。この気配の消し方ハ、見事ダ」
 辮髪は周囲に気のantennaを拡げたが、受信された気配はなかった。
「逃げたワケではあるまいが、これでは勝負にならぬぞ、オンナっ」
 仕方なくなのか、そう、朧に対してバテレン親分は声を放つ。しかし、応答はナイ。
 辮髪は次に自身の右の掌を観た。掌には動画像が映し出されている。
が、そこにも朧の姿はナイ。
「隠遁を極めているのか、それとも異界に入ったか。己が妙掌鏡にも映らぬとは」
 と、突然に辮髪の顔が青ざめた。
「まっ、まさか」 
 と、発するや否やの出来事だった。辮髪の腹が裂けた。血肉、腸とともに、外に飛び出たのは不知火朧。朧は、辮髪の体内に潜んだのだ。
「朧十忍が一つ、胎内隠遁」
えげつないこと、山風老師の真似のような術だ。

2019年10月14日 (月)

第二十八回

 月面の様相は姿を変えて、何処やらの荒野に朧は放心したようち立っていた。彼女の術は彼女からかなりのenergieを奪う。そのphysical、mentalな消耗係数には常人におそらく生きてはいられないだろう。
が、しかし、回復もまた常人のレベルではナイ。その朧に、
「不知火朧、何度観てもなかなかの怖いお姉さんだ。いや、強敵だとでもいったら、喜ぶのかな。或いは、驚愕、になるのか」
 我に返った朧は振り返りもせず、声の主に天心通の術(音の場合は天心通、映像の場合は心眼通という通称を用いる)で応えた。いわゆるtelepathyというcommunicationだ。
「右近かっ」
 右近も同様の通信で応答をした。
「そうだよ」
「私の闘いぶりをご観覧だったのかい」
もちろん、右近の姿は何処にもナイ。すぐ近くなのか、一里向こうなのか、気配もナイ。
「まあね。愉しませてもらうつもりだったが、のっけから、術者としての差があり過ぎるとはおもっていた。その通りだったが」
「楠木右近にとっては伴天連の幻術など、意に介せずといったところかい」
「そうでもナイ。他の剣客の方々もお見事な闘いをされているからな。寸でのところでの命のやりとり、立派なものだ」
「気楽なものだね。おのれの命を狙うものたちの闘いを高みの見物とは」
「仕方あるまい。こっちは朱鷺姫の簪なんぞを預かった身上だからな。しかし、もう殺し合いには厭きたというところが正直なところだ。とはいえ、そちら方は命懸けだろうから、お相手はせねばならぬが」
 幾度も朧の唇に変化があったのを右近は観ているようだった。朧は真空の鋭利な塊を創って、時空を貫きながら吹き矢のように右近に向けて飛ばしていたのだが、それらはみな右近の三寸手前のところで、いつだったかの禅坊主崩れの剣のようにcurveを描き、いずこかに消え去っているのを心眼通で当の朧は観ていた。
「この術も効果ナシね。会得修行三年、破られるときは一瞬」
 朧の頬が笑い崩れた。
「そう自棄になるな。どうだ、まだ闘っている御仁が在るかも知れぬが、蕎麦でも一つ」
「えっ」
 脱力。朧、気が抜けた。targetから蕎麦に誘われるとは。
「いやあ、南蛮もんと闘っているところで、ふと思い描いたのが、南蛮蕎麦なんだが、この尾張の飯屋町に開化蕎麦というのを食わせる店があってな。南蛮蕎麦とはまたチガッタ味わいで、幕末のおり、伊庭八郎が懇意にしていた店らしい。店主は二代目だが」

2019年9月26日 (木)

第二十七回

「この空間は、実在空間ね。いったい何処だかはワカラナイけど、幻魔術とやらの手妻で創った幻ではナイことだけは私の五感が私に報せているワ」
 南蛮黒装束はギヤマン製とおもわれる被りもので頭のてっぺんから首まで辺りを覆っていた。そこから太い管が肩から背負った行李のようなものに繋がっている。つまりは酸素ボンベなのだが、では、朧はいったいそのような文明の機器ナシで、如何にして月面などに立っていられるのか。これには、朧を月面まで呼び寄せた敵手の南蛮伴天連のほうが驚愕していた。月面の忍者と魔術師の闘い。前代未聞の展開が始まろうとしていることだけは確かなことだった。
 いつ頃、いつの時代だったかは記憶にナイ。というか判明しない。ふいに青白い雲に包まれてカラダの浮遊感覚とともに意識が喪失した。
 目覚めたとき、他に十人ばかりの自分と同じ幼童がいた。場所は定かでナイ。所在無さげというより、挙動不審、路頭に迷う、といったふうで、誰もがワケがわからず思考停止の状態におかれているようだった。
 そのうち継ぎ目のナイ緑の装束の男とも女ともつかぬものが数名姿をみせて、聞いたことのナイ、コトバというより音そのもので会話らしきものを始め、ちらちらとコチラを穿ちながら、やがて近寄ってきて、また眠りに落された。
 時間というものあったのかどうか、成長せぬままに、幼童たちはそれぞれ各々奇妙な修行をさせられ、あるいは施されといったほうが正確かも知れないが、次に我にかえったときは異国に在って、不思議な術を会得していた。
 これが、南蛮マンがいま、月面で辿り起こした記憶だ。
 が、しかし、南蛮マンはそんなおのれの修行の、記憶に血の通っていない不自然さ、を、異国から渡ってきた幻燈を観たときのような按配の悪さが重なるような感覚で、ある不信感として知覚していた。
「ゲツメン」
 と、南蛮もんじゃ焼きは呟いた。
 その訝しげな独り言に応えるように、朧が、艶かしい唇を動かした。
「そうなのね、ゲツメンというのね。月面、お月さまのことかしらね」
「ナゼ、オマエは、その姿デ」
 その月面に立っていられるのかと、訊ねたかったのだろう。
「これは、あなたの記憶よ」
 先に、朧がその問いに応えた。
「ナニッ」
「伴天連幻魔術というものが、どんなものか、詳細は知らない。けれども、似たような類の術や技なら、私、朧十忍はほぼ会得しているの。この魔法だか幻術もかなりの高度な幻術だということはワカル。だからね、もう、ご納得出来たかしら。あなたが、私にかけた幻魔術とやらをそのままあなたにお返ししたの、朧十忍の一つ、〈閻魔鏡〉。この世界はあなたが操っている幻の世界じゃナイのよ。私に操られているあなたの世界。どう、けっこうジッポンの忍びもヤルでしょう」
 すでに、この時点で勝負は決していた。
 南蛮ギヤマン頭が後退った瞬間、頭部の金魚鉢は破裂した。その内部の頭蓋もろともに。

2019年9月21日 (土)

第二十六回

 さて、柳生のほうはどうしたか。亜十郎は周囲を感知捜索したが、気配のナイところをみるとどうやら遠方に在るらしい。
「まんず、いわれるところでは天下最強の尾張柳生だ。後れはとるまい。しかし、面倒なことになったな。恨むぜ帆裏藤兵衛。こちとら銭にもならねえ妙な刺客を相手にしなくちゃならなくなった。四面楚歌だか、四剣八槍だか知らねえが、試し殺しの相手にでもしてみなきゃ、しょうがネエっか」
 もちろん、柳生のことを按じているワケではナイ。殺人依存とまではいえないが、名付けてみれば武芸依存症状。いまの精神医学のコトバで近いものがあるとすればgamble dependence.これは賭け事であるgambleに依存することではなく、使命、仕事、mission、役目、等々に対してそれが間に合うか、出来るか出来ないかという状況を自ら呼び込むことに拠って得るところの快感の享受、早いハナシ、原稿の締め切りをギリギリ(あるいは破ってしまう)物書きなどの多くは、このgamble dependenceといって過言ではナイ。
 さて、南蛮対決ばかりの連続では厭きもくるだろうとおもわれるので、ちょいとsceneを変える。とはいえ、南蛮幻術のplotはまだつづくのだが。趣だけでも、ネと。
 尾張と三河を結ぶ幾つかの街道、その何れも不知火朧は往来したことがあった。しかし、このような奇妙な山沿いの街道は朧には初めての経験だった。街道にしては珍しく曲りくねっていて、迷路のようになっている。そのことから朧はすでに伴天連幻魔術の手中に自身が在るとの覚触は得ていた。東郷十兵衛と別れてから尾けて来るものの在ったことを感知していたからだ。だが、この様な架空の山道に誘い入れていったい南蛮野郎はナニをするつもりなのだ。ナニをされても一向にかまやしないのだが。
 簡易な黙視分析をしたところ、およそ、殺気や殺意の類は周囲には無い。
 高度な術である天読、地聞、風嗅、それぞれを用いても気配が無い。
 しかし、何か仕掛けて来るだろうという予感だけはあった。かつその敵手はおそらく南蛮幻術四剣八槍の中でも一、二の腕の者。それもまた朧の磨き抜かれた闘勘が察知していた。
 殺気、気配が無いということが、敵手の手腕を語るに足りていた。忍法歴史上最強といわれる忍び、不知火朧に対峙して無感、非在感を貫きながらかつ攻撃の時を待っている。
 朧はおもいたって、足下の石ころを礫のように投げてみた。と、その石礫は同じように朧の元にもどってきた。それは朧の額を直撃した。なるほど、やはりそうか。これと似た忍法なら在る。忍法〔鏡返し〕。もし、クナイを投げれば、それは同様に朧を襲うだろう。火を吹けば火が襲いかかるだろう。もちろん、すべて朧はこれをいとも簡単に避けているのだが。
「面白い魔法を使いなさるねえ」
 と、合点のいった朧はそういうと、瞳を閉じた。今度は気配を探しているのではナイ。
 朧の姿が次第に薄くなっていく。そのカラダを透かして向こうの景色がみえる。そうしてまったく朧は透明に、つまり、かき消えてしまった。
 おそらく敵手にも朧の存在は無に感じられているであろう。
 無音のまま、街道沿いの木々が倒れ始めた。砂利は風に舞って吹雪いた。敵手南蛮チャンポンが朧を探しているに相違なかった。
 やがて、かくなる探査攻撃も無意味と知った敵手は、その姿を現した。まったくの灰色の大地。太陽の消えた荒野。クレーターが遠くにみえる。月面のような、いや、そこはまさしく月面だった。かの周回衛生、月の上だった。そこに南蛮黒装束の者が立っていた。そうして、その前面にやがて朧も姿を現した。

2019年9月 7日 (土)

第二十五回

「鞭剣(ウルミ)ってエモノだな。噂には聞いていたが、ホンモノを観るのは初めてだ」
 別の何処かで南蛮相手の羽秤亜十郎、唇を歪めて笑った。
「しかも、鉄製や鋼ではナイ。そいつもギヤマンか」
鞭剣(ウルミ)は名前の示すとおり鞭状の剣なのだが、例のちょっと病的、変態的な(と私-作者の感想だけど)オリンピック競技の新体操にあるリボンを思い描いていただくと理解が早い。新体操がsynchronized swimmingと並んでなぜ不健康なeroticismを醸しだすのかは、私(作者)にはよくワカラナイが、まあ、こんなふうにおもったりする。/たとえば、普通の体操競技を全裸でやったとして、新体操のほうも全裸でやったとして、どうしたって、新体操のほうは「見せ物」だよナア/。
それはともかく羽秤亜十郎の立ち会っている敵手の武器がそれだった。
武器はリボン状態の薄っぺらい帯状の剣なのだが、素材はdiamantであることはマチガイなさそうだ。そうなると、剣スジが常人ならばみえないといってよい。見切りが出来ぬことを念頭におかれた武器だということだ。まず、剣そのものの長さがワカラナイ。撓り、曲がり、渦状になり、あるいは直線となって襲ってくる。中国が発祥とも中東アジアの部族のものだったともいわれているが、何れにせよ殺傷能力のほどは不明だ。
闘っているのが羽秤亜十郎でなければ、ほんの数分でケリはついただろう。もちろん、敵手の南蛮もそのつもりだったらしいのだが、不知火朧と互角の腕を持つ亜十郎を敵にしてはそうはいかない。
亜十郎は当初は軽業のようにそれ躱していたが、
「面倒なオモチャだなあ」
 と懐から網目の武具らしきものを取りだした。だらりと下げると猟師の使う網のようにみえた。というか、まさに形状はそれと同じで、ただそれが極細の鎖帷子のごとき材状で編まれていたというチガイがあった。
 これは、武具というより忍具とでもいうものだ。クナイなどを一斉に避けることも可能だし、敵手の身体をくるみとることも出来よう。
 どういう名がついているのかはワカラヌが、向かってくる鞭剣にめがけて、魚を獲るようにこれを拡げた。次に亜十郎の手首が数度くるくると回転した。鞭剣を絡めとったのだ。
 勝負はここで着くはずだった。
 が、しかし、敵手南蛮人は羽秤の鎖網をいともたやすく絡めとられている鞭剣で破砕させた。
「ほーっ、それがdiamantの強さなり、けりか」
 亜十郎、臆ともせず、今度は小弓を取り出すと矢を放った。まるで、こやつの懐は猫型ロボットのポケットの如しだ。
 もちろん、そんな小さな矢で敵手を貫こうなどとは亜十郎、考えてはいない。 
 南蛮装束に頭巾を被った敵手の姿は、今度のところは実体として、眼中にある。これは幻魔術の影隠れが羽秤亜十郎には通用しないと読んでのことだろう。
 亜十郎の小弓が放った矢は、南蛮の額をめがけて飛んで行く。この攻撃が何の攻撃なのか、南蛮渡りには見当つきかねた。あまりにアタリマエの撃種だったからだ。
 と、その矢が目前でcurveを描いた。放たれてからcomma01second。矢は南蛮野郎の右肩を掠めただけだったが、矢先の逆、矢の緒尾に着いていた羽根が無くなっていたのに気がついたろうか。それはまるでその場の空気抵抗を反対に利用したかのようにして、南蛮男の手の甲に落下していた。そうして、まるで蜘蛛の巣のように密着した。
 これは何のマネだ。南蛮焼きのたじろぐ様子が羽秤には観てとれた。
「蠱術の一種なんだけどね。試すのは初めてだが、さすがに敷島の無頼にはそいつを試す気はしなくてねえ。けれどもてめえが南蛮で、かつ帆裏藤兵衛の仇となりゃ、ヤッてみたくもなるってもんさ」
 羽秤亜十郎、ほくそ笑んでいる。
 その羽秤亜十郎を伴天連幻魔術が襲い始めた。
「そっちも、いよいよ本番ってことかい」
 亜十郎の周囲の風景が変わり始めた。無数の羽秤亜十郎が周囲に立っているのだ。
「ギヤマン鏡の無限というヤツだな」
 羽秤は少しも恐れているふうではナイ。
 無限の羽秤亜十郎、実体ではナイ鏡の世界の羽秤亜十郎は、実体(ほんもの)の羽秤亜十郎に向かって各々の攻撃を開始した。あるものは剣、あるものは槍、あるものは投げ縄、あるものはゴム輪、あるものは勝利の踊り、あるものハンマ・ユージロウの真似をしてオーガを叫び『赤いハンカチ』を歌うに至るまで、およそ考えつく(かよ、そんなもの、というか、ユージロー違いしているのだろう)すべての無駄なものも含めての無限のfighting styleだ。
 実体(ほんもの)のほうは腕組みをして、余裕綽々とそれを眺めている。
 と、南蛮蕎麦のカラダがグラリとゆれて、膝が折れ地に着いた。と、ともに無限に出現した鏡の亜十郎の姿が次々と消えていった。
「いったろ、蠱術だと」
 南蛮うどんはおのれの手の甲を観たようだ。あの矢尻の羽根はそこにはナイ。ほんの少しの血筋の跡が残っているだけ。
「虫は今頃、あんたの心臓に達しているはずだ」
 羽根にみえたのは、毒を孕んだ生物だったようだ。蠱術はそういった毒のある虫や動物を用いる術だ。あの羽根にみえた毒虫は、南蛮揚げの血管を流れながら心臓に到達するや、そこで何らかの強い毒を吐き出したとみえる。
「なかなか効果抜群だな。今度はこいつを右近の野郎に試してみるとするよ」
 鏡の幻術が消え去ったとき、羽秤亜十郎の姿はなく、南蛮弁当の亡骸だけが転がっていた。
 羽秤亜十郎、蠱術まで会得しているとは、さすが賞金稼ぎ、コヤツ人殺しの天才やも知れぬ。

2019年8月19日 (月)

第二十三回

 羽秤亜十郎は、三間を後方にあたかも慣性重力を利用したかのように飛んだ。
 が、着地した刹那、おそらく敵手ギヤマンの投擲武器、透明の細長い手裏剣のようなものだろう、それが亜十郎を襲った。これを下手に弾いていたら、羽秤亜十郎は大火傷を負ったにチガイナイ。投擲具の中には強度の酸が仕込まれていたからだ。ギヤマンが砕けると中身の強酸が飛散するというワケだ。
 そこでなんと、亜十郎は数発の投擲武器を素手で、まるで曲芸師のように受け留めると、それを四方八方に投げ返した。ギヤマンの武器は家屋の庇や戸に当たって砕け、ブススッと煙が上がった。滅多やたらに投げたのはもちろん、その方向に敵手がいると読んだワケではなかったからだ。が、しかし、何処に在ろうと敵手もその様子を観ているはずだ。その観察視線を逆に羽秤亜十郎は探索したのだ。これは極めて高度な術と術の争闘が行われていることになる。羽秤亜十郎、破門の禅坊主とはいえ、こやついったいどんな術をどれだけモノにしているのか、ますます計り知れない。

 柳生玄十郎の観ている空に黒い雲が湧いてきた。金魚鉢に墨でも落としたような具合だ。
「伴天連幻魔術というのが始まるのかな」
 皮肉をこめて玄十郎は呟いた。
 黒雲から雨が降り始めた。
「風流なことをやるもんだな」
 と、このとき、羽秤亜十郎の声が玄十郎に届いた。
「避けろ、その雨は竜水だっ」
 竜水というのは硫酸のことだ。
 ふと玄十郎が袖をみると、雨水が当たった部分が燻っている。
 その袖を振り回しながら、竜水の雨を避け玄十郎は羽秤亜十郎の指示のもと、黒雲の外に走った。しかし、雲は次第に大きさを増し、竜水の雨は激しくなってくる。とても袖で防げる量ではナイ。玄十郎、肩に熱い痛みを幾つか感じた。硫酸は鉄をも溶かす。さすがの柳生新陰流もこれには窮した。
 そのとき、鳥の鳴き声が玄十郎の頭上に聞こえた。悲鳴に近い禍々しい声だ。
 と、玄十郎の目の前に鳶が一羽、音をたてて落ちた。喉元に小柄が刺さっている。その喉元には鳥自体の半分はあるだろう、ギヤマンの球が結びつけられていて、球に瞬く間に罅が入るとその筋状に球は割れ液体が流れ出た。
玄十郎、よく観ると球体には細かな穴が開けられている。天から降ってきた竜水の正体はそれだったのだ。鳶を使って、雨水に交えて竜水を撒き散らしていたようだ。
 見上げると黒雲は消えている。
「羽秤亜十郎どの、お主がヤってくれたのか」
 そう叫んで、玄十郎、羽秤亜十郎の飛んだ辺りをみたが、亜十郎の姿は見当たらない。
 しからば、誰が。
「やれやれ、柳生新陰流も硫酸の雨にはカタナシでござったな」
 その声に玄十郎、なにやら凍りついたような面持ちで振り向いた。
 胡座をかいて座っている着流し長羽織の男がみえた。陰陽巴の紋所、この男が仇敵楠木右近っ。

2019年8月 7日 (水)

第二十ニ回

 南蛮鬼退治のアルバイトを追えて、東郷十兵衛は朧と邂逅し、また別れ、柳生玄十郎は江戸徳川の頃には盛んだった道場の、廃墟と化した跡地に立っていた。
「死に損ないの柳生かい」
 その声は羽秤亜十郎だ。
「お主は、たしか」
「たしかも何も、賞金稼ぎの禅坊主くずれ、羽秤亜十郎。ひょんなことで、異人の幻術使いと闘う羽目になっちまったがナ」
「拙者に用事があるワケではあるまい」
 玄十郎の連れない返事に頭を掻いて羽秤亜十郎は煙管を銜えると、
「そうだ。オレの用事は、賞金を稼ぐことだけだ。だけなんだが、旧知の者からの誘いにのって、奇妙な異人の幻術使いを敵にまわしたことはいま喋った通りさ。玄十郎さんよ、あんたもそうらしいが柳生新陰流っ、たぶん仇の楠木右近と相まみえるまでに面倒に巻き込まれたようだナ」
 玄十郎は右近の名を聞いてもとくに動じる様子はナイ。
「楠木右近のことを如何ほど、知っているのだ」
 と道でも訊ねるように亜十郎に質してきた。
「強ええっ。強いんだナァ。悔しいほど強いっ。人魚の肉でも喰らったのか、かなりのむかしからこの世に生きているらしい。で、だ。それ以前は、あの世に生きていたらしい」
「あの世」
「そう聞いた。あの世が終わったので、この世に来たとか、そう聞いたナ。知っているのはそれくらいのことかな。お宝のことなんざ、あんた、興味ナイだろうしね。」
 この男、正気か。玄十郎の瞳に羽秤亜十郎はそう映っただろう。
「楠木右近、まったくふざけた野郎だ。あんたが首を捻るのも無理はねえ。しかし、あんた、小汚ねえ武士くずれと、南蛮人の屍体を観たろう。血反吐を吐いていたほうは、昨夜の用心棒仕事を請け負った帆裏藤兵衛という拙者の旧知のものだ。セッシャは、ソヤツに誘われたってワケだがね。帆裏藤兵衛、血風塵という必殺の技をもちいるはずが、それを使った痕跡はナイ。よーするにっ、俺のみるところあれは相討ちではナイ」
「では、南蛮人は誰が倒したのだ。まさか、その、」
「そのマサカりかついだ金太郎飴だ。南蛮人の額には、そやつの武器とおもわれるギヤマンの鞭が突き刺さっていたろう。あんな真似が出来るのは楠木右近以外、いねえ。何故、ヤツが参戦したのかは訊かれても知らん。まさか藤兵衛の仇を討ってくれたワケではねえしな。おそらく、南蛮人のほうが右近に仕掛けて逆に倒されただけのことだろう。右近というヤツはそれくらいのことは平然と、いや、気の向くままにヤル男だ。まったくいけ好かネエ」
 玄十郎は羽秤亜十郎の苛立ちを察すると、
「ひょっとすると、お主も以前同様のことを、その右近とやらに」
「図星っ。そういのも柳生の技かい。ああ、ヤラれたねえ。悔しかったねえ。とはいえ、こっちはまだ生きてるんだけどナ」
 と、いうや、口に含んだ爪楊枝を玄十郎に向けて吹いた。もちろん、殺意はなかったろう。ちょっと亜十郎のほうも気の向くままに、玄十郎の腕を試したというところか。
 玄十郎は眉間をめがけて、盲点の中を飛んで来る爪楊枝を小指で弾いた。
「この戯れた遊びのようなものが、お主の技ではあるまいな」
「いやいや、ほんとうの遊び心さ。しかしさすが尾張柳生。みえぬものを小指で弾くとは」
「相手の武器がみえるかみえぬかなどは問うところではナイ。危険が迫れば腕でも指でも勝手に動くようにまで、鍛練は積んでいる」
「柳生新陰流春の風とかいう技、いや技というより心の動きだな。かの昔、石舟斎が宮本武蔵にもちいたのもそれか」
 かつて宮本武蔵が、柳生石舟斎に挑んだとき、石舟斎が武蔵に「汝の剣は」と質したのに、武蔵は「電光石火」と応えた。反対に武蔵が石舟斎に同じことを質すと石舟斎は「そよふく春の風」と応えたといわれる。このとき、石舟斎は帯刀していなかったので、如何な武蔵といえども自慢の見切りが成らず、〔無刀取り〕を畏れて斬りこめなかった。で、退散と相成ったが、これは武蔵の負けとみてイイ。『五輪の書』には「諸流の兵法者に行合ひ六十余度迄勝負をなすといへども、一度も其利をうしなはず」とあるが、武蔵は負けそうな試合は必ず避けているか、事前に逃走している。
 では、右近に対して玄十郎が〔無刀取り〕で挑んだとしたらどうなるだろう。後の先の完成形とまでいわれる柳生新陰流の極意〔無刀取り〕、攻撃して来ぬ相手に右近はどう対処するのか。これは東郷十兵衛の示現流秘儀、抜かずの剣にも同様のことがいえる。ますますワクワクしているのは作者だけであろうか(たぶん、そうとチガウかナ)。
「無駄話はここまでのようだな」
 羽秤亜十郎地に伏せて、地面に耳をあてた。柳生玄十郎は、逆に空に顔を向けた。
「南蛮人のほうも次々と簡単に倒されたとあっちゃあ、矜持が崩れるとみえる。敵は二人とみたが、どうだ」
 亜十郎、いうとカラダを起こした。
「確かに二人。ひとりはすでに身を潜め、ひとりは静かに近づいて来る」
「あんた、どっちにする」
「とりあえずは、向かって来るほう、ということにしておくか」
 玄十郎は鯉口を切った。

2019年7月25日 (木)

第二十回

 投擲されたものが判別つかない。さすがのこの剣客東郷十兵衛にも無理はなかった。朧はナニかを投げたワケではなかったからだ。ナニか、は、目に見える物体ではなく真空状態に変容された気体だった。
「朧十忍が一、飛影刀っ」
 と、バリッと何かが破れる音がして、何もなかった空間に毛深い腕がみえた。
「diamantのmanteauでカラダを包んでいたのね。裸眼ではみえぬワケだ。しかし、もはや、捉えた。なるほど、異人。毛深いとは聞いていたが、そのとおりだったようね」
 diamantの素材については殆ど知識のナイ東郷十兵衛には判然とはしなかったが、朧は異人の幻術使いたちが、渡屋というギヤマンを扱う大店を狙ったワケを識った。(まあ、要するに他に日本で商売されているものが何なのか、武士としてはワカラナカッタともいえますが)。
 身を隠すものを引き裂かれた幻術使いは、路上に裸身を晒して立っていた。
「オソルべきというべきか、ニンポウ」
 毛深い大男は、そう呟いた。
「恐怖はこれからだよ」
 朧は右手の指を弾いた。少なくとも十兵衛にはそうみえた。と、いうか、そのようにしかみえなかったといったほうが正しい。
 次なる朧の忍法は何なのか。見守る東郷十兵衛も、これを受けて立つ毛深い異人も固唾を飲んだ。
「いまのは、ただ指を鳴らしただけよ」
 ほんらいなら、ズッコケなのだが、東郷十兵衛も毛深い異人も、ズッコケが下手なので、敢えて、その格好はやめた。どうも、ズッコケには正当なカタチがあるらしいのだ。それは吉本新喜劇が発明、開発してきたものらしい。まず右足をある角度で出すところから始まるらしいのだが、ここでそのformを解説していても仕方ないので、当方(作者)もヤメルことにする。
「順序でいけばお次はそっちの番ということで、南蛮幻魔術とやらをみせてもらいましょうか、毛深い異人さん」
 朧は自信にあふれた面持ちで、敵手に対して屹立している。
 贔屓の歌手グループ、ザ・クロマニヨンズなら「かかってこいっ」という掛け声を入れるだろう。
 十兵衛も興味津々、次なる魔法を待っている。 
 と、裸身を覆っていた異人の体毛が風に草がゆれるような動きを始めた。しかもそれは一本一本が生き物のように、まさに細い蛇のようにくねりながら伸び始めた。
「蝶々の次は蛇なのね。動物を仕込むのがうまいワケね」
 異人の異変に朧はまったく動じない。十兵衛は重心を踵に移した。正中線は保たれている。十兵衛自身の守りは何が起こっても対応出来る態勢になっている。
「それが毒蛇であっても、所詮は幻術、さて、もう一度指を弾くけど、今度はただ弾くだけじゃないのよ」
 いったとおり、朧の右手の指が弾かれた。
 と、蛇と化した体毛が体毛にもどり、さらにそれらはバッサリと斬り棄てられたように地に落ちた。
 東郷十兵衛は、この女忍びらしき強者が、いま、自身の敵ではないことに内心安堵していることに気がついた。不甲斐ないといえばそれまでだが、朧の忍法はさほどに東郷十兵衛ほどの達人を畏怖させたのだ。
 朧が三度目の指鳴を成したとき、敵手の南蛮毛深い男のカラダは溶解していった。
「朧十忍が一、とろとろ」
 忍法の命名はイマイチだとはおもったが、十兵衛の目には敵手の敗北の姿がそのとおりに映った。これで、伴天連幻魔術の四剣八槍の何人が倒されたのか、十兵衛には勘定が出来ぬことではあったが、まるで、倒されるために出てきたような連中だなと感慨深い面持ちでもあった。
「ご無礼を仕りました。今後の御武運をお祈りいたします」
 いうと、女忍びの姿は東郷十兵衛の視覚から消えた。
 楠木右近を追っているというておったが、その右近とやらは、かのような練達の忍びが手こずるような腕前なのか、立ち合ってみたいものだ。東郷十兵衛、そうおもいつつ丹田に気を込めた。つくづく武芸者の業は哀しい。

2019年7月23日 (火)

第十九回

 高笑いに含まれた殺気に威嚇されたか、影は細かく分散すると蝶になって舞い始めた。
「伴天連幻魔術、死黒蝶、ご覧頂くとスルカ」
 と、術者の声は未だ何処から聞こえてくるのか見当はつかない。ただ、朧に対する畏怖も混じってか、常人にはワカラヌ乱れを含んでいたようで、
「拝見しましょうか、伴天連坊主の手品遊び」
 朧は、その僅かな気の乱れに気づいているようだった。
 東郷十兵衛は得体の知れぬものどうしの罵りあいを聞きつつも、未だに刀の柄に手をかけてはいない。妙な成りゆきに苦笑いさへみせている。 
 女忍びは地面を滑るように東郷十兵衛の真横に擦り寄ると、十兵衛の顔を観ることはせずに、囁いた。
「渡屋の貴殿の用心棒仲間と、南蛮渡来の幻魔術との闘いはそれぞれ見物させてもらいましたワ。キヤツらは本体の在り場所を常に隠しながらあなた方と相対していましたね。それがキヤツらの戦闘方法なんでしょうけど。けれども、そんな戦術は私には通じません」
 黒い蝶は数を数倍に増やして十兵衛と朧の周囲を飛び回っていた。
「まるで稚戯のような術ね」
 朧の唇がやや尖るようになって、黒い蝶を一旋すると、おびただしく飛び回っていた蝶の群れは、ことごとく地に落ちた。
 敵手がこの黒い蝶で何をしようとしたのかが、東郷十兵衛にはワカラナカッタ。
「おそらく、寸時に、この地べたに落ちた黒蝶は私たちに一斉に襲いかかってきたでしょう。刀で振り払ってもヒラヒラとそれをかわし、私たちにほんの少し傷をつけたにチガイアリマセン」
 朧は地べたの蝶を一匹拾うと十兵衛にそれをみせた。
「極めて薄いdiamantです。羽根は鋭く、毒が仕込んであります。投擲されたものは避け易いのですが、浮遊するものは刀ではなかなか払い落とすことが出来ぬものです」
「ギヤマンか。なるほど、南蛮伴天連が渡屋を襲ったのも、それなりにワケがったということだな。キヤツラはギヤマンの価値を識っているということか」
「ええ、渡屋が大儲けしているということをね」
「で、わしらにはこれだけか」
 東郷十兵衛は懐から金子を取り出した。
「おカネが目的じゃナイんでしょ」
「それはそうだが、どうも銭というものは手にしてしまうと不思議とココロがゆれるものだの」
「お武家さんも人の子というコトですね。ところで、こんなところで油を売っている場合でもナイんで、旦那、ちょっと屈んでいただけますか」
「んっ」
「南蛮の賊の実体が何処に在るのか、探してみますから」
 東郷十兵衛、首を傾げながらも朧のいうとおりにした。蹲んだのではナイ。屈んだのだ。コノ態勢のチガイは、東郷十兵衛の武芸者としての枠を物語っている。屈むということは、低い姿勢にありながらすぐに攻守の何れにも身体を向けることが出来る。
 と、刹那、女忍びの身体が独楽のように足を軸に数回転した。上半身にある手は千手観音のようにみえた。朧は自らを回転させながら、何か投擲したようだが、十兵衛には投げられたモノが何だったのか判別つかなかった。

2019年7月18日 (木)

第十八回

 東郷十兵衛は渡屋からの守料を懐に、それを確かめるかのように握ってみたが、この仕事ほんらいは金子目当てではなかった。維新の世に自身の剣を如何にすべきか、剣とともにどう生き抜くべきか、戦国の時代より受け継がれてきた薩南示現流も自分の代で終わることは百も承知だったが、東郷十兵衛に去来するのはそのおもいだけだった。先祖がそうしたのと同様に百姓でもやっていればイイのかも知れないが、どうも当世はそのような気ままな暮らしすらゆるしてくれそうにナイ。とするならば、たしかあの伴天連幻魔術、四人は倒されたが四剣八槍と号していたからアト八人は残党が在るはず。これを機会として、我が示現流果てるまで、我、敗れるまで血にまみれてみるのも一興かも知れぬ。そんな物騒なこともココロの片隅にはあった。
 そんな東郷十兵衛のココロの声に応えたかのように、聞き慣れない声がした。
 それは抑揚や発音の奇妙さからして、この国の者の喋り方ではなかった。
「迂闊といえば、ウカツ。油断といえばユダンだった。維新とやらの端国ガ敷島にどのような武芸者、強者が遺っているノか、この国オ制圧するに如何ほどの戦力が必要か、researchのつもりが、四人もの同じ旗下の道士を失うとワ。何事も侮るべきではないな」
 東郷十兵衛ほどの使い手にも、その声がどの方向から発せられているのか判断が出来なかった。おそらくそれはその者の術にチガイはないのだが。
「伴天連幻魔術の異人の方かな」
 と、立ち止まった十兵衛は俯き加減のままいってみた。
 応えはなかったが、ここまで十兵衛を尾行してきたのなら、十兵衛にも気づかれなかったその気配の消し方はそうとうの術者でしか出来ぬものだ。しかし、東郷十兵衛は剣に手をかけようとはしない。もちろん、東郷十兵衛はすでにその身体を何処からやって来るやも知れぬ敵に対して構えてはいた。
 東郷十兵衛の気は静かに丹田におくられ呼吸は六十秒に4回の腹式呼吸になっていた。全身は脱力して、何処からのどのような攻撃にも反応出来る準備が整っていた。
 だが、おそらく伴天連幻魔術の異人もそれを察知しているにチガイナイ。
 従って両者のみえざる睨み合いが暫し続くことになったのだが、この張りつめた気の闘争を弾き飛ばすかのように一本のクナイが飛来した。
 それは何処かに向けて投げられた類のものではなく、あきらかに両者、東郷十兵衛とその敵手の気力の糸を切り落とすために投擲されたものとおもえた。十兵衛はクナイの投げ手がいるであろう方を一瞥した。不敵、とでもいうべきか微笑みを交えて女がひとり腕組みをしながら立っていた。それは異人ではナイ。また東郷十兵衛の敵でもナイようだ。それは十兵衛自身にも理解出来た。何故なら殺気がまるで向けられていなかったからだ。
 女人の姿格好から、市井の民ではナイことはすぐにワカッタ。黒装束ではなかったが、忍びの者らしい。一重の朱衣に白い腰帯。履物は特殊な足袋だ。いくら維新でさまざまな格好のひとがあちらこちらを闊歩しているとはいえ、新種の芸妓でもなければそんなcostumeはナイだろう。
「敵ではござらぬようだが、味方というふうでもなかろう。拙者か、それとも未だ姿をみせぬほうか、何れに御用か」 
「東郷十兵衛どのですね。不知火朧と申します。貴殿を追尾してきたのではありません。ご存知かも知れませんが、楠木右近と名乗る武芸者を追ってきたら、そちら方の争闘に巡り逢ってしまったという次第です。僣越とは存じますがお教えいたしましょう。貴殿を狙っている気配を消した敵は、貴殿の真下に在ります。」
 とはいえど、そこには東郷十兵衛の影が在るのみ、のようにみえた。
 が、
「なるほど、さすが忍び。おそらく其処許も同じ類の術をおつかいになるとみゆる。それゆえ、この、」
 と、十兵衛のコトバはそこまで。いままで十兵衛の影だったモノがするりと地面を蛇行して、そのまま垂直に立ち上がった。それから例のカタコトの和語だ。
「武芸者だけではなく、ニンジツとやらに多少は長けたものもこの国には未だ健在スルとミエル」
「ほっほっほ。伴天連幻魔術などとは洒落臭い。如何ほどのものか。ジポンには武士(もののふ)も、忍法も健在ぞ」
 朧の高笑いは邪悪な影を包み込むように、その姿なき者に浴びせられた。

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