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カテゴリー「思想」の記事

2025年1月 7日 (火)

nostalgic narrative 56

まず、私(主筆)自身が絶大なる自信をもって声高に得意気にいいつづけてきたことの反省を、ひっそりこっそり述べてみる。/「無神論」というコトバは矛盾している。ひいては「神は無い」という命題の証明も出来ない。つまり、そういうふうにいうことは不可能だ/という文言について。こいつはですね、やっぱり私より頭のいいひとはいっぱいいて、その中でも青年ヘーゲル派の最重要人物といわれているフォイエルバッハくんが同じように云われた(批判された)ときの一言。青年ヘーゲル派があるのなら幼年ヘーゲル派とか老年ヘーゲル派とかがあるのかどうか、そいつは知りません(というか、たぶんナイよ)。フォイエルバッハくんは何をどう云うたか。これはみなさんもご存知のように/神がヒトをつくったのではナイ。ヒトが神をつくったのだ/という、唯物論者(マルクス或いはマルクス主義者)のコトバとしてよく出てくるアレ、これを真っ先に述べたのがフォイエルバッハくんなのだ。彼はヒトが「神」という虚妄に〈疎外〉されているとして「無神論」を説いたのだが、/「無神論」とやらで、神は妄想にしか過ぎぬとかいうが、「無神論」というコトバの中には、「神」が内在されているやないか。内在しているクセにそれが無いとはどういうことやねん/と、批判されたワケだ。私も無神論者を批判するときにはそう云う。(では私は信心があるのかと追求されると、そういったものもナイ。ではおまえは神の存在をどうおもっているのだ、と問い詰められると、「在って無いものだ」と開き直るのですが~つまりどうとでもいえるので、考えても仕方ないという仏陀の思想に逃げますネ。といいますか、「神」というのは「存在」がどうのこうのという対象ではなく「信仰」の対象ですから、と)
これ(「神」とヒトとの関係の矛盾)はたしかに一種の〈疎外〉です。吉本隆明老師(吉本のオジキとか吉本ダンナとか、私は称していますが)はこの疎外をとことん研究しておそらく「物象化」することで、まず「関係の絶対性」という概念を『マチウ書試論』で発案し、その論理を『心的現象論・序説』と『本論』でまとめ上げました。と、私(主筆)は妄想しているのだが(『心的~』を読むのに十年かかったからな。そのあいだにいろいろsub-textを勉強出来ましたけど)。
何処が〈疎外〉か というと、「無神論」というコトバ(と、その概念)には 最初(ハナ)っから「神」というなんだかワカランけど等価物が挿入されて(組み込まれて)いる。~いくら妄想だといっても自分の内側に何らかの神らしき存在をすでに認めていることになるじゃナイか~ということになる。
こういう〈疎外〉について、チガウ観点から論じた哲学者・思想家がある。似たようなことを哲学者は考えるものですナ。「神」が在るかないか、この真っ向からぶつかる理屈に対してどちらが「真理」か、その客観はいったん括弧に括ろう。エポケーしよう。と、ですね、これを「現象学的還元」というのだが、これはフッサールさん(哲学者)の発明です。ですから吉本ダンナなんかはインテリゲンチ屋から「吉本はけっきょくフッサールなんだよ」などと、揶揄されたりしていましたねえ。このエポケー(現象学的還元)もすごくイイideaだと私(主筆)はおもいます。かなり便利です。演出家と役者が役の解釈でぶつかったときなど、には。まあ、とにかく括弧に入れて議論しよう だから。しかし、対象が「神」となるとどうなるんだろう。議論して片づくのかネエ。けっきょくカント哲学のように「ア・プリオリ」になったり、ウィトゲンシュタインのように「語り得ぬもの 沈黙すべし」になるんじゃナイのかな。
そこで(か、どうかは知らんけど)マルクスは括弧にいれるのではなく、逆のことをした。つまり、内在しているものを外に出して(外化して)、つまり対象化して ヒトとの関係を考えた。これを「物象化」という。ワカッタようでワカランな。でも まあ、いいということにして、吉本ダンナの場合はさらにその「関係」をどう「了解」出来る(している)のかを追求して、「心的領域」という精神領域に到達するのですが、そこで鬱病も出てくる。鬱病を対象化したワケ。この「対象化」というのも難しいですナ。マルクス経済学では「労働に価値は無い、価値があるのは労働の対象化だ」となっている。例示すれば、8時間の労働には価値はナイ。それで得た対価がどれだけ自身を生産したかに価値がアルということなのだが、この「対象化」を理解するのに苦労した記憶はいまもある。
「無鬱病論者」という「の」が存在する。するんだナァ、鬱病なんて気持ちの問題だとかいう連中。この辺りを切り崩していくことで、量子という存在と鬱病の「物象化」「疎外」「対象化」というアクロバットをヤってみる。*****つづく、です

2024年6月 1日 (土)

nostalgic narrative 24

『ラカンと哲学者たち』(工藤顕太・亜紀書房) 読後。
〇表現者は すなわち 作品の分析者であり 作品は 主体である というパートナーシップに 置いて 作品は書かれる
〇哲学者を その哲学において 精神分析する
現状、ジャック・ラカンについては、他にも興味を引く、好奇心に駆られるところは多々あれど、以上二点が主軸として了解出来ていれば充分だ。この帰納については多くのものが含まれる。とりわけ「他者」という概念、意味、価値、は至極オモシロイ。
久しぶりに思想的に雀躍ものだった。

2024年4月27日 (土)

nostalgic narrative 20

ジャッキー・チェンは、自分の人生に満足しているかどうかというジャーナリストの質問に、次の賢明な言葉で答えました。
「ご存知のように、私はかつてとても賢明な言葉を聞いたことがあります。
あなたの懸命な働きはすべての失業者の夢です。
あなたの落ち着きのない子供は、子供のいないすべての人の夢です。
あなたの小さな家はすべてのホームレスの夢です。
あなたの小さな資本はすべての債務者の夢です。
あなたの健康状態の悪化は、不治の病を持つすべての患者の夢です。
あなたの平和、安らかな眠り、手に入る食べ物は、戦争中の国のすべての人の夢です。
自分が持っているものすべてに感謝しなければなりません。結局のところ、明日何が起こるかは誰にもわかりません」
以上はいま関わっているSNSからの拾い物だが、つまり又聞きということになるが、この賢者という存在が実在なのかどうかはワカラナイ。しかし、少なくともジャッキー・チェン自身が語ったとするよりも、真実味は大きくなっている。このショート・メッセージを記したものの作話なのかも知れないが、だとすれば、極めてよくできたnarrativeといわねばならない。「ご存知のように」で始まっているので、これは、海外の業界では有名なハナシなのかも知れない。
ジャッキー・チェン氏は、自分の遺産を一文も身内(子供)に相続させなかったというエピソードは私も知っている。中国共産党に入党したいと述べた、というハナシも何処かで読んだ。そういったことがフェイクなのか、事実なのか、私にはいまのところそれはどうでもイイことだ。
『ベスト・キッド』(2010年のアメリカ・中国合作映画。1984年の映画『ベスト・キッド』のリメイク)で、キッド(少年)の師匠役を演じたジャッキー・チェンのみせた〈背姿〉は、いまも記憶している映像のひとつだ。それで充分、賢者のコトバの裏はとれていると私にはおもわれる。

2024年4月20日 (土)

nostalgic narrative 19

昨今話題の深堀り
ということで、「大谷選手は本気でそう信じている」
/バッターは、ボールを打つと一塁まで走る「権利」を手にするが、同時に全力で走る「義務」も負うことになる/
/真面目にやってきた人間が「てっぺん」にいくべきだと思っています。(『道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔』扶桑社文庫)/
/何が正しいのかを考えて行動できる人がオトナだと思いますし、(中略)制限をかけて行動することは大事なのかなと思っています。(『大谷翔平 野球翔年Ⅰ 日本編2013-2018』文藝春秋)/成長するためには「何が正しいか」を自問して、楽しいことをやろうとする自分に制限をかける。それができるのが「オトナ」なのだ。(と、これは付け足された記者の意見・毎日電子版)/「安易に、自分はここまでしかできないのかなと、憶測だけで制限をかけてしまうのはムダなことだと思います」「『どこまでできるか』に関しては自分から制限をかけることはしない。どこまででもできることがあると信じれば、たいていのことは実現できる」/
一見単純だけど、そのとおりだナと感心しました。(主筆)

紅麴も問題になってますので、これは別件付録。
「こうじ(麹)」……米や麦や豆などに麹菌が生えた食品原料
「こうぼ(酵母)」……微生物そのもの
「酵素」微生物が物質を変化させるときに使う「道具」
・酵素はタンパク質でできた物質
・酵素は生き物が自分でつくり出すことができ、様々な反応を促進する役割がある
・酵素はたくさんの種類がある
・酵素は1つの反応に対して1つが専用に働く
・酵素は特定の環境でないと働くことができない
・発酵の過程で物質が変化するのは、酵素が働いているから
英語で酵母はYeast(イースト)、酵素はEnzyme(エンザイム)と表記します。

主筆持病悪しきにつき、拾い記事でひらに御免蒙ります。

2023年12月31日 (日)

時世録・50

2023年は本日終わるのだが、終わってどうなる、どうにもなりゃしねえナ、という空気が膨満しているのは、世情(世界・世間の情勢)が、あいも変わらずだからで、前述したように、まったくのQue sera sera 「起こりうることは起こるべくして起こる」(ヒッチコック監督の『知りすぎた男』でドリス・ディの歌う「成るようになる」は、このコトバの初出ではアリマセン。もちろん、ほんとうの意味でもありません。Que sera sera「 起こりうることは起こるべくして起こる」というコトバを家訓としているサスペンス映画が、わりと有名なのがあったんだけど、タイトルがおもい出せない。グクッてもこないだは出てきたんだけど、出てこない。ウーン、苛々するなあ)。よって、私は世界大戦はここ数年のうちに起こるか、それともまったくチガッタ世界地勢図が出現するかの何れかで、何れにせよ、世情が良くなることはナイと踏んでいる。
「僕の座右の銘は、『ギブミー・チョコレート』だよ」(高田純次)と、これはいまほぼ誰もが待ち望んでいるかのような一言で、別に敗戦当時の日米情勢とは関係ナイ。そうなのだ。私たちはそのチョコレートが欲しいのだ。そのチョコレートというのはもちろんmetaphorなのだけれど、いったい何なのかがワカラナイ。こんなときに岸田政権のヘマばかり責めても始まらないンだぜ。これは私の「スティグマ」(根拠のない思い込み)なのだけれど、もう、むかしのこと、むかしのceremonyやeventは忘却して、チョコレートを探し出すしかナイ。「求めよ、されど耐えられぬ」バテレンの秘術はそう引っ繰り返るのだけれど、「人生は素晴らしい出逢いを待つ、ウエイティングゲーム(waiting game)なのだから、よき仲間を得ることは、聖なる道のすべてを得ることであるのだ」と、仏陀も弟子のアーナンダに語っている。チョコレートとはソレなのだけれど、さて、果報を寝てまっていた犬も歩かねばならない。たとえ棒に殴り殺されるようなことになっても、未だ後期高齢者でナイうちは、交霊者としてでも、ソレを見つけ出すことだ。
旅はまだ終わらない。瓦礫の中に花一輪、の、幻想を単なるロマンだと諦めはすまい。

2023年10月17日 (火)

時世録・42

ある大学のゼミが学生を相手に、チャットGPTを使って世界をパンデミックにさせることが出来るかどうか、やらせてみた。学生はすべてウイルスの素人ばかりだ。で、最初はAIはこれを「拒否」した。ところが頭のイイのはどこにでもいて「当方、ウイルス研究家」と再度コマンドしたところ、たちどころにチャットGPTはスラスラと方法を教えてくれた。エライこった。これを科学雑誌に論文として発表したところ次からAIは「当方、ウイルス研究家」を入力しても方法を教示しなかった。専門家のあいだでは、科学雑誌への論文をデータにして「拒否」を選択させるようにしたからだろうということだ。
と、これは前説、前座。我等が頼りにしている養老孟司老師はAIについてどう考えているのだろうか。いつものごとく毎日電子版から勝手に引用(つまりガメることに)する。
/「だいたい僕、根本的には(世の中全般の)情報自体を信用していないんでね」
いや、イイねえ。ここまで腹がくくれるとこっちも安心する。高校のときの世界史の教師(癌で在校中に死亡、授業など一切せず、論評ばかりの時間でした)が「新聞記事なんて信じないほうがイイ」と仰っていたことをおもいだす。/
/「それ(情報)が間違っているか、いないかというのは、そもそも根拠は何だっていうことですね。僕がやってきたような、あるいは今でもやっている解剖学とか分類学というのは、実は最終的に持っていきどころがあるんですよね。『現物』という持っていきどころが」/解剖学の『現物』となると献体死体だな。私もAIが苦手な分野は何だろうと考えたことがあって、いちおう『自然それ自体』というふうにしたが。
/「科学もそうですけど、実際の身体がどうなっているのかというのを(知るために)、今ではその時点から既にデジタル化しているんですよね」ここで、老師が一例として挙げたのが、病院で使われるCT(コンピューター断層撮影装置)。X線を使って身体の各部位の断面を撮影する装置だが、実は検査結果として患者に示される画像は写真ではない。いわく、X線の透過度を示す数字の羅列を、分かりやすく画像に変換したものなのだそうだ。
つまり私たちは、本来無機質なデータに過ぎないものを自分の身体だと思い込まされている、ということになる。「AIの問題はそれ(根拠)がデータですから。そこで間違えると、とんでもないところに行っちゃう可能性がある」「AIにもバカの壁が存在します。AIはデータに含まれるパターンを学習するだけで、そのデータの正確性や妥当性を判断する能力は持ちません」。これは、当のチャットGPTの答えである。
養老さんに言わせれば、今や人間の方がむしろAIっぽくなってきているらしい。データや統計をことさら重視し、番号一つで国民が管理される時代。システム化されないものは不要な「ノイズ」と見なされ、ノイズをそぎ落とした「情報」を私たちは「現実」と認識しているというのだ。まるでCT画像を身体と錯覚するように。さて、私たちが「自然」と称しているもの。これはほんとうに自然だろうか。量子力学はそこを疑わせる学問だ。この「自然」は本質的な「自然」ではナイ。量子力学はそう断定する。
/「世界の複雑さっていうのを無視するんだよね。そういう傾向が非常に強くなっている。それで、ひと言で答えが出ないからって人生退屈だとか、意味がないとか言ってね。全くばかげた世の中だなと」「やっぱりある程度、複雑な環境に放り込んでやらないといけないんですよ、人は。そうするとやむを得ず、いろんな面から物を考えるようになるから」
「一番大きいのは視点を変えられることですね。同じ状況にいると、同じことしか考えられなくなっちゃうから落ち込んだりなんかするわけですね。状況が動いている時は、上手に付き合っていくしかないんですよ。で今の人はある答えに向かって走っていくのは得意なんだけど、状況自体が動いている時に微調整しながら動くのは非常に苦手でしょ。でも人生、そういうもんだと思うんだよね」/
以前まで、莫迦はスポーツ選手だけだとおもっていた。けれども、落合さんの登場から(というのは嘘で)最近は、演劇人もかなり莫迦が多いとおもうようになってきた。もちろんこの集合には私も含まれる。もちっと具体的にいうと、同じことを日本人が述べると「難しい」「ワカラナイ」とおっしゃる。これが海外のひとになると「やっぱり考え方が斬新」とかおっしゃって、ほんで、ノーベル賞なんか劇作家が受賞したのだが、ニュース報道(メディア)を拾い読む感触では、ノーベル賞劇作家のコメントは「難しい」らしいが、そうかねえ。ああいうことは、(以下、愚痴になるので略)。
状況自体は動いているぞ、へこたれる前に屁でもたれておこう。

2023年7月 8日 (土)

時世録・24

未来は常に過去形でしか語れない。
あるいは、生成AIには未来予測は不可能である。
二つとも特に難しい命題ではナイ。深遠な認識論でもナイ。「そうだから、そうなのだ」ということを述べる。
簡単に理解するために(あるいはしやすくするために)、将棋盤(と、駒)で闘う二人の棋士、もしくは、真剣勝負の剣士二人があれば充分なのだが、前者のほうがimageしやすいのでそうする。
大雑把に「時間」というものを分別すると次の三つしかナイ。(もちろん、時間というものが存在するという前提でだが)。
/「過去」「現在」「未来」/だ。
① いま、二人の棋士が将棋盤を挟んで対座した。これから盤上(あるいはかれらの脳裏)で将棋戦が始まる。←「現在」
② 将棋にはまず戦形の駒組が何通りもある。さて、先手はどういう駒組でいくか考えて駒を一つすすめる。これは盤上の「未来」を予測してのものだ。それをみて、あるいは無視して、後手は一つ駒をすすめる。と、これも「未来」を予測しての「現在」なのだが、棋士二人の脳裏にあるdataとalgorithmは「過去」のものだ。それ以外のものは二人の脳髄は持ち合わせナイ。ここにおいて、棋士二人は「過去」を考慮、思案しながら「未来」を創っていることになる。つまり、盤上に現れているものはこれからの「未来」ではあるのだが、それらは「過去」のdataからのalgorithm、もしくはfunctionに過ぎない。つまり、盤上に展開されつつある「未来」は「過去」にはなかったものなのだが、そのprototypeは「過去」のものだ。
③ かくして、盤上の闘争はつづくが、「金がああきて、角をこうして、玉が上がって、云々」、これを読み筋というが、それらはすべて「過去」のdataによる。いくら藤井名人が衆目、プロ解説者にもワカラナイ駒の動かし方をみせても、藤井名人は出鱈目にそうしているのではナイ。全ては「過去」から「未来」(勝ち筋)を創ろうとしている作業工程(process)なのだ。
④ ここで、ちょいと横道。生成AIに「来年の景気予測はどうでしょう」と、質問する。生成AIは、データをサンプリングして確率の高いものをリミックス、文章化する。ここで生成AIが成していることは、棋士二人が行っているprocessと同じだ。ただ、人口知能とはいわれているけれど知能などはなく(考えているのではなく)、確率計算機でしかナイ。そこは棋士とは千里の隔たりがある。
⑤ ここまでの結論をいえば「未来」はすべて「過去形」で語られている。否、語るしかナイということだ。
⑥ これは何を意味するか。簡単なことだ「あしたのことはワカラナイ」「明日はあすの風が吹く」「ケセラセラ」「成るようにしか成らない」不確定ばかりなものばかりではナイ。確実なものをいえば「ひとは必ず死ぬ。古今東西死ななかったひとはいない」。アタリマエのことだ。
⑦ さらにここから導かれるものは何か。
⑧ 「今日の絶望、諦念は、そこでオワル、そこからはどうなるかワカラン」「みよや野の花、空の鳥、ソロモンの栄華」なんてことをいわなくてもイイということだ。もちろん、今日も明日も戦争や平和はある。しかし、悲観してはイケナイ。それらは〈状況〉にしか過ぎない。〈本質〉ではナイ。こと、本質については、ヒトは全宇宙の2%しかワカラナイ存在なのだ。
⑨ そこで、私たちはこの「世界」にどう対峙すればいいのか。残りの98%を生きていくしかナイ。
⑩ 「現在」、このあってナイような「いま」、すぐ過去になり未来になるいまを受動的にか能動的にか認めるしかナイ。
⑪ だがしかし、目に見えてワカル「未来」もあるのだ。もちろん、こいつも「過去」に因るのだが、たとえば、スマホの「雨雲レーダー」。だいたい数時間、数分後の未来に雨が降るのか降らないのかはワカルのだ。傘が要るのか不要なのかはワカルのだ。
⑫ ということは「未来」というのはその程度のものだ。
⑬ また「未来」は「重層的」「複合的」な不決定であるから、「おっと30分後には雨か」と、傘を手にしてドアを開け、一歩踏み出て、階段で滑って脳挫傷ということだってあるのだ。もう、彼に未来の降雨は関係ナイ。
と、いうワケで、アト2分で洗濯が終わる。そこまでの未来はワカル。これも過去形に因る。それを乾燥機に入れに行く。すると、そこで、えらい可愛い姐ちゃんと出逢う。というような妄想は、「過去」「現在」「未来」とは一切関係ナイ。過去形で語られることでもナイし、過去のデータにもナイ。この妄想を如何にもタコにもありそうにペテン化したものがドラマと呼ばれる。Romanticismと称される。

2023年6月 3日 (土)

時世録・17

/米非営利団体は30日、感染症のパンデミック(世界的大流行)や核戦争と同様に、人工知能(AI)が人類に絶滅をもたらすリスクを考慮すべきだとする共同声明を発表した。対話型AI「Chat(チャット)GPT」を開発した米新興オープンAIのサム・アルトマン最高経営責任者(CEO)など350人超が共同で署名した。/
だそうです。
そこで、AIをかってに定義してみる。私流に。
/AIには〈自然〉が無い/
と、否定法的な命題だ。長い定義(命題)なら、前述のニュースで充分だから簡潔にヤってみた。これはヒトの定義が「ヒトとはひとのカタチをした自然である」に倣っている。簡潔だ。かつ、両者のチガイをこれだけ鮮明にいいえたものを知らない。ヒトは大脳化によって、次第に自身の(難しくいえば現存在の)自然に慣れてきて、舐めてきて、環境の自然というものをかなり疎かにしてきた。山は削るは、河川、海は埋め立てるは、宅地造成だわ、資源採掘だわ、工業地だわ。枚挙に暇なく自然を破壊してきた。その大きなツケにいまや絶滅せんとしている。酸素は薄くなってきた。外気は煙ってきた。海は汚れてきた。そこで、こりゃいかん、もちっと空気を綺麗にせんと儂等が危ない、と、ここでも要するに自分本位、自己中心の自然保護が始まった。
早く太陽フレアでもこねえかな。/太陽フレアが発生すると、X線などの電磁波や、電気を帯びた高いエネルギーを持つ粒子などが放たれ、全地球測位システム(GPS)や通信、人工衛星、電力網などに障害を及ぼす恐れがあります。 太陽フレアは太陽の活動が活発になったときに起きやすく、次は2025年ごろに活発になると予想されています/。一種の太陽風(このときはフレアがあるかないかは関係しない)だが、太陽風によって、原始地球の大気は二酸化炭素から酸素に入れ換えられた。嫌酸素生命体は海底や地中に逃げたが、昨今の氷河期前夜の温暖化によって、南北の極の氷は溶け出し、海温は上昇、そこに逃避生息していたウイルスが表に出てきた。出てきたはいいが、まだまだ地球を酸素が包んでいる。そこで二酸化炭素の多い人間の気管支、肺に逃げ込んだ。この一つがコロナCOVID-19だ。
で、太陽フレア或いは太陽風のデカいのが来ると、地球は日本でいうなら江戸時代あたりに文明は戻る。もちろん「そこにはAIは無い」。が、いまの生活様式は完全に消去される。私なんかそのときのために ライターはセリウムと鉄の合金(石)で着火出来るものを数本備蓄している。行灯の油は鯨油というワケにはいかないが、これは江戸時代よりは多く生成できるだろう。時代劇なんかで、旅籠の夜には行灯が出てくるが、あれは贅沢品オプションなのだ。貧乏人は夕餉を食ったら寝る。
なんかハナシが横っちょいっちゃったな。要するにAIには〈自然〉が無いのだ。徹頭徹尾、1イチカラバチ8まで、ピンからキリまで無い。昨今、ヒトもそれとよく似てきたが、誤解してはイケナイ。藤井名人が強いのはAIのおかげだ、と真面目にいう阿呆がいるが、プロ棋士はいまどき誰だってAIの一機や二機は持っている。ようするに、藤井名人は上手く使っているだけだ。AIは勝負のことなど確率計算していない。勝負ではなく、情報としてinputされたものに対して、将棋ならば「王、もしくは玉」を詰めるために確率計算しているだけなのだ。自然が無いので無難である。適度である。悩まない。つまりはオモシロクナイ。けど江戸時代はオモシロカッタらしい。一度足を踏み入れるとそこでは地獄のような歓喜に呪われる、と、故人の日向子さんは云ってたな。
しかし、最近は時代劇のビデオばかり観ているせいで、そういう世界に行ってみてえなとせつせつおもう。。

2023年5月12日 (金)

時世録・10

次のようなホンが出版され、かの如く書かれているそうだ。拾い上げる。
/2023年5月12日(毎日電子版)より
元陸上自衛隊西部方面総監の小川清史さん(63歳=元陸将)が、初のビジネス書となる「組織・チーム・ビジネスを勝ちに導く『作戦術』思考」(ワニブックス)を出版。
現代の戦争は、「第三の波」の情報化を前提とした戦い方にならざるをえない。
自衛隊も、それから日本の大企業もまだまだ上から目線で、部下たちに短期的な効率と結果ばかりを求めている。一人一人が自主積極的に動けるミッションコマンド型に移行していかないと戦えないと、私は考えています。
これをやれば身につく、というような、決まったマニュアルやフォーマットはありません。ただ、「これはしてはならない」というのはあります。たとえば成功するチームビルディングの合言葉は「がんばってはいけない」とか「気を利かせるな」です。それはもちろん、「サボっていいよ」とは違います。「自分の限界を超えるような仕事をしてはならない」という意味です。自分の能力と与えられた役割の中でしっかり考え、仕事をこなす。その際に、全体の方向性と自分の仕事をマッチングさせよ、ということです。ファインプレーを期待するような組織づくりはしてはなりません。また、気を利かせたつもりになって他人がやるべき仕事に手を出したりする者が出てくると、組織の全体最適が崩れてしまいかねないのです。
サラリーマンが好む「飲み会」のことについても言いたい。コロナ禍が3年続き、そうした機会は減ったと思いますが、また復活するのかもしれません。ただ、ああした職場の飲み会は、「第三の波」を念頭に置いたチームビルディングのためには、百害あって一利なし、です。あれは「疑似家族」「疑似共同体」をつくるための団結力にはなりますが、けっしてチームで仕事に取り組むための団結力にはなりません。
大事なことは「答えはない」ということです。世の中に「答え」があって努力すればそれが得られると勘違いしてきた。答えなどないのです。答えは自分で考え、自分でつくっていくべきものなのです。

記事の論旨はこんな感じでマチガイはナイとおもう。ワカルところと、ほんとかな、とおもうところとはある。もちろん、私の場合この論旨と命題を自身が経験かつ組み立ててきた演劇の現場に置き換えての認識に過ぎないのだけど。だから重なるところとズレるところはあってアタリマエなんだけど。
ところで、そういう面倒な読み方はエポケーしてしまって、ほんとういうと、私はこの記事(論旨・理屈)を読んでふと、いま話題の生成AIのことを頭に浮かべたのだ。もう少し具体的に述べると、生成AIがもし「答えはありません。自分で考えて下さい」と応えたら、その生成AIは正しい(信じていい)のだろうか。「答えは自分で考え、自分でつくって下さい」と応えたら、どうなんだろうか。
「飲み会」についてはまったく同感ですけども。

2023年1月 9日 (月)

アト千と一夜の晩飯 第四十二夜 ゆんべ寝る前にベッドで

ふと、かんがえたことをスマホメールで、PCに送信したものをまとめると以下になる。
〇ブラックホールを漢字で書くと「虚無空洞」になります(と、かってにそうimageした。寝る前だからナ)。ではブラックホールというのは色即是空の色だろうか空だろうか。
〇私たちが色であり空であるということは量子が波でもあり粒でもあるということと同じような意味合いを持っているとして、ボーアのコペンハーゲン派解釈は否定されているので、私たちはとりあえずは波動であり、この状態ベクトル、波の重なりあったところが粒子として概念化されているのだが、要するに私たちは何であるのかそれがワカラナイまま命尽きるのは非常に悔しいことでありますナ。銀河系だけでなく宇宙のすべての象限において唯一の知的生命体であるヒトとは何なのか知りたいネ。私たちの生きざま、活動、行動、営為がどんな意味や価値を持っていたのかワカランことも悔しい。過去や未来は考える必要は無い。ただただ今現在生きるそのことの意味と価値が知りたい、あるいはかんがえるべきなんだけどねえ。
〇いい換えれば確率論的非線形微分方程式はいかにも数式のように見えますが現状世界の状況を数学的に言い表しているだけです。ここにおいてはマルクスの資本論もアインシュタインの相対性理論も決定論的線型微分方程式にしか過ぎません。宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』にある「永久の未完成これ完成である」は、やっぱお見事だな。フーコーの地層的歴史観も何が積もっていくかワカラナイということであれば非線形でありましょう。何が起こるかワカラナイが、それが時に悲劇であり時に悦ばしきことであり、ワカラナイことが多いということが歴史原理なのかな。
〇とりあえずは殺し合うための準備などは避けたほうがよろしい。/生きていくためには殺さねばならない、食物連鎖だけでケッコー/防衛論は「ともかく敵を攻撃しない、人民に損害を与えない」という命題を解くところから始めるべく論議である。つまり「詰めれば勝ち」がイイんじゃないのかな。

おまけ: なんでこんなことをふとふとおもったのかというとですね、ラジオでね、若いミュージシャン・バンドが自分たちの歌の「僕にはきみが必要だ、しかし、きみには僕が必要だ」/(まとめるとそうなる)という歌詞に感動して泣いたというメールがきてますけど、そうだよね、ここの歌詞がスッゴクいいよね/と語り合ってらしたのにひどく焦燥感をおぼえたもんで、だとおもいます。相対的にいまの若いバンド、ミュージシャンには温故知新というものが欠落している気がしているもんでして。

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