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カテゴリー「思想」の記事

2016年11月27日 (日)

百姓日記⑪

思考の半片

 

 

おでんの季節だ。具材によく使われる「はんぺん」は「半片」とか「半弁」「半平」てなふうに書く。この名称はわりに歴史順序があって、「かまぼこ」は、練り魚食品が竹の輪状態であったので「竹輪」と称され、それを二つに真っ向唐竹割り、これを板に貼り付けたので「蒲鉾」と呼ばれ、つまり「鉾」だってんだけど、半分にしたから、似た素材のもので、「鉾」ではナイものは「半片」となった。

以上、雑話終わり。

最近、近辺に女性がいないので、退屈極まりなく、たかが「あばらの骨」とはいえ、秋刀魚だって丸かじりすると、骨も美味いのだから、要するに不味い日常で、人間、暇になるとろくなことは考えないのだが、性犯罪に走るよりはマシだろうというワケで、以下のことを考えている。

〇時間と重力を考察するには、やはり量子力学が必要だ。ああ、面倒だけど、量子力学のやんなおしだぁ。

〇ふつうのヒトが悟りを得て仏になるには、どう考えても寿命が短すぎる。(だいたい、釈迦牟尼仏の次に仏陀になることが約束された菩薩(修行者)である弥勒菩薩でさへ、56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされてはいるが、で、いま何をしているかといえば、兜率天で修行しているのだ。ここで、この数値が大袈裟でその100分の一だとしても、人類としてのヒトが生きられる年数ではナイ)。そこで、菩薩だろうが、ヒトの男女だろうが、成仏(仏になることが出来る)と説いている「法華経」のサンスクリット原典が最近発見され、和訳が終わったのが本になったので、そいつをベンキョーしている。

こういうことをしていると、たいてい横道に逸れて、演劇関係の論理へとshiftしてしまう。

量子力学の「相互作用」においては、対象と対象は「1対1対応しない」のだ。これは示唆に富んでいる。相互作用というのは、「電子を一個飛ばしてフィルムに到達する、この測定」という、つまり「作用」なのだが、これが、私を長年悩まし続けたもので、フィルムというのも物質であるのなら、到達は、測定結果ではなく、電子とフィルム素材による反応なんじゃないのかと、つまり結果ではなく途上なんじゃないかと、その一点の納得を得るためにいったいどんだけ銭つこうて、ぎょうさん本読んだか、銭と時間を返せといいたくなるところなのだが、この問題は、エライ物理学の外人の学者も日本の学者もやっぱり悩んでいたんだよね。量子力学の「相互作用」からどんな示唆を得られるかというと、対象である二人の〈役〉があって、せりふを交わしても、「対応しない」場合がある(あってもイイ)ということが戯曲では多いという、ところだ。これは日常でもそうなんだけどね。

もう一つ。めったやたらと現れる「プランク定数」について。これねえ、ほんとに至る所に登場すんだけど、おまえ何なのよといつも思ってたのよ。まあ、難しい説明を書きつらねてもワカンナイだろうから、簡単にいってしまうと、「量子力学においては、物体から放射される電磁波は連続的なものではなく、不連続な〈飛躍〉のエネルギー量子」で、その定数をいうんだけど、戯曲において、は、せりふの〈飛躍〉がオモシロイのだから、なあるほど、私自身が常々、ウィトゲンシュタイン言語学が演劇には不向きだと主張していたエビデンスはこれだよねと、こんなところで納得しているのだ。

と、ここまで書いて、そうだよ、これ『恋愛的演劇論』書いてた当時も勉強したところだよナ、と、いやあ、思考というのはなかなか記憶になりにくいんだなあ。半片にしかならないんだなあ。これは歳のせいじゃねえんだ。

で、アト二つ半片、これは欠片かも知れないが、

〇マルクスの『資本論』の価値形態論、「貨幣」についての、相対的価値形態と等価価値形態から貨幣を求めるあの論理は、イコール(等号=)の使い方が数学的に欠陥を持っているんではナイだろうか。これについては新たな疑問だから、ちょっと考えてみるワ。

〇私にとってadolescence というのは、私の〈病態〉だなあと、最近しみじみ思いますワ。つまり、アドレッセンス症候群ネ。ときどきその世界に入り込んじゃうのだナア、六十四歳になっても、十六歳の世界にふんわりとネ。こないだも、(以下personなので略)

そうしてオマケ、

〇環境が同じなのに、うつ疾患になるものと、そうでナイものがあるとするならば(実際そうなのだけど)、うつ病の因子は自己自体としか考えようがない。とすれば、論理的には、これは自己疎外であって、さらに原生的なものなのだから、純粋疎外ではナイ。よって〈死〉という自己消滅によってしか完結(治癒)しない。死ぬということは治癒する(生きる)ということではナイので、これは矛盾だ。つまるところ、うつ疾患というのは〈自己矛盾〉ということになる。この矛盾がヘーゲル的なのかスピノザ的なのか、いいかえれば、「実矛盾」なのか「可能矛盾」なのか、いまのところ解明出来ない。もし、希望があるとすれば、スピノザ的な「可能矛盾」であれば、何らかの〈止揚〉によって、解決の糸口がつかめると思われるのだが。

2016年9月21日 (水)

百姓日記①

まず

 

過去の栄光、現在の名誉、そんなものは私にはありません。

私にあるのは、バランスの崩れそうな二本の足で踏ん張って歩く未来だけです。

 

これから、出無精、閉じ籠もりの私は〈旅〉をします。

まず、陸前高田を経由して、下北恐山。

浮世の地獄は観厭きたから、レプリカでも。

 

次は佐渡島。

日本でイチバン、能舞台の多いところです。

何故なら、世阿弥はここに流刑になったから。

流刑になってもなお、能舞台を遺した。

「完全なカタチ」を彼はみつけた。

それは無限の彼方にある。そこに行く方法だけをみつけた。

うんと身近にあるもので、それを知ることは出来る。

私たちは風を感じることは出来るが掴むことは出来ない。

花は、その風に揺られることが出来る。

それによって、私たちは、風と花のカタチを知る。

『風姿花伝』(花伝書)とはよくぞ名付けた。

 

日本のいろんなところの「風と花」観にでかけます。

百姓とは、農民のことではありません。

「百」の「姓」です。

「汝、隣人を愛するのではなく、隣人となる人を愛せよ」

「死ぬ順番などナイ。生き残る順番があるだけ」

「ワカラナクなったら、やりなおせばイイのだ」

「臨機傲慢」

「時間は分散できる」

「旅の重さ、とは、旅の重力のことだ」

 

2016年8月 7日 (日)

途端調風雅③

トンチンコンカン

 

2Bの鉛筆で真横に線を引く。真っ直ぐに線を引く。黒い線が伸びていく。鉛筆で文字を書こうと思ったが、黒い線一本で充分だと途中で考え直して、線を引く。

書こうと思った文字は、〈鎮魂〉。

鎮魂は、日本人がもっとも得意とする儀式だ。魂は鎮めればヨシとされる。しかし、鎮魂は錯綜する。

「殺されたもの」と「人殺し」をいっしょに鎮魂することは出来ないという了見からだ。

けれども、「殺されたもの」にドラマがあったように「人殺し」にもドラマはあったのだ。と、我がドラマツルグはかく語る

ドラマは存在した確かなものだ。しかし〈魂〉は、そんなものあるのかないのかワカンナイものだ。それを鎮めて、それでヨシ。それでヨシとするものに対しては、鉛筆の黒い線一本を報いることで充分だ。と、我がドラマツルグはかく語る。

鉛筆の黒い線は、ドームも、ヘイワゾウも、未だに燃えるゲンシロも、神道の擬制も貫いて、ただ、伸びてゆく。

この鉛筆の黒い線、これがトンチンコンカンという我がドラマツルグだ。

/赤蜻蛉 右に左に 飛べど悩みて /

2016年6月25日 (土)

涙、壊れているけれど⑤

どうなんのかねえ

 

こう多く、多くったって、世界の何処かで毎日戦争で殺されている人数に比べりゃたいしたことはナイんだけどね。まあ、ふつうのニチジョウとしては多いよ。

死ぬんだよな、ヒトは。それはワカッテマス。愛も孤独もワカランといったら、よくそれで「物書き」稼業がやってられるねえ、なんて顔されるんだけど、もう一つ、死ぬということについて、むかああしし、大江健三郎の『セブンティーン』読んでからしばらくは、人並みに「恐怖」というんですか、怖かったです。けれども、この死ぬが、〈死ねる〉に変容してからは、そういうことはなくなりましたねえ。ヒトは何やってもけっきょく、死ぬのなら、人生というもの、生きるというもの、その営為は徒労にしか過ぎないのではなかろうか、ということもやはり、考えました。思い悩みました。けれども、詩人で評論家の鮎川信夫さんがね、やっぱり似たようなこと思ったりしたときにね、「だから書くんだ。この世界に生まれてきたこと、生まれてきてから起こったこと、そんなのはみんなギフトなんだから、そのお返し、返礼として、書くんだ」と、「書く」ということはそういうことだと、なんかでおっしゃったか、それ、読んだかしたときに、ああ、そうなんだと納得がいきました。なるほど、それで中井英夫さんのも『虚無への供物』、つまり〈供物〉なんだなと、腑に落ちた。

ヘミングウェイが、あの〈漢・おとこ〉がですよ、「書けなくなったから、死ぬ」って自殺しました。よくワカリマスよ。『老人と海』、若いときに読んだ、ちっともオモシロクもなんともナイ。けど、六十過ぎてから読んだ。胸つまらせる名作ですよ。老人にとって「海」とはこういうもんなんだ、若いひとが、ビーチでゴーゴーなんていってるのとはまったくチガウ。偉いのかバカなのか、加山雄三さんが、永遠の若大将とかで、~う~っみよぉぉ~、なんて歌ってらっしゃいますけど、七十を過ぎてなおね。ヘミングウェイ書くところの「海」は、老人にとっては、釣り上げた魚の骨だけ持ち帰るようなところなんだ。けれど、老人はそれでイイと、それでヨシとする。この哀しみに若いときは追いつけなかった。で、やっとそれに追いついた。そうなんだよなあ。

で、どうなんのかねえ。

いや、死ぬよそりゃ。いまだってシュレディンガーの猫みたいに五割の確率で死んでんだから。けれど死ぬんじなくて、〈死ねる〉。これが人生の最後の希望、唯一の救いですよ。だからね、「非業の死」というのはどうしていいのかワカンナイね。ほんとにワカンナイのよ。

で、どうすんのかなあ。どうしたらイイんですか。一休禅師のように七十七歳で子供孕ませて(正妻にですからね。他にも一休さん、あちこちで女つくって子供生ませてますから)そいでさらに十年生きて、「狂雲記」なんて、そりゃシャレがきつ過ぎます。

だから、どうしょうかなあ。朝起きて、考えることのイチバンは、その日の飯のことです。食えるかどうかじなくて、ナニ食ったらいいかなあって、もう、面倒だから今日も湯づけにするかとか、たまには煮物でもつくるかとか、これがね、今日はどのお姉ちゃんと遊ぼうかとかだったら、もうジョージ秋山の『浮浪雲』(まだ、これ連載続いてんだってね、こないだ弟に教えてもらってびっくりしたよ)だよねえ。それなら、いいよなあ。いや、そんなにイイかね。自分が歳とったなあって、思い知らされるのがオチじゃナイの。だって、ワカンナイだもん、お姉ちゃんの話題にしていることについていけないんだもん。このオレですら、ついていけない。「これからは、頭の半分は仕事のことを、半分は女のことを考える、そういう人生をおくる」って、六十になる前に、ある女性に大見得きったら「健康的ね」と、いわれましたね。それはね、「あなたにそんなこと出来るワケないじゃん」といわれたのと同じです。たしかに、仕事アリマセン、女アリマセン。ナイものをどうやって考えればイイか、哲学だね、まったく。いいよ、そういう哲学やってみようか。

なんて、開き直ってると、比較人類学のフィールドワークにおいては、カントやニーチェ、ハイデガーなんて、とくに問題にするでもなく、ごくごくアタリマエに、つまり哲学として扱うんじゃなく、自然学として扱ってんだから、引っ繰り返りました。

ああ、疲れた。もうオワリ。

2015年12月20日 (日)

私想的生活-04

『微分方程式と現象学と演劇と〈シミュラークル〉』というナンだかが、「めずらしいもん屋」に並んでいた。それぞれ個々はめずらしいものではナイ。しかし、四つ並べるとたしかに「めずらしい」もののように眼に映る。このナンだかを一冊の書物としてもイイ。そのほうがイメージしやすいだろうから、そうする。そうすると、この『微分方程式と現象学と演劇と〈シミュラークル〉』というのは書物のタイトルということになる。タイトルは本の〈部分〉だ。けれども、この〈部分〉を読んだだけで、この本の中身(全体)が漠然とみえてくる。みえてこなくても、こうなんじゃないかと〈思いこむこと〉は出来る。そういう識知営為はすでに、この書物に記されていることを実践していることになる。どういうことかというと、つまりある種の入れ子、メタ、みたいなものだ。解りにくいのならこういっとくことにする。夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』には本文の中に『ドグラ・マグラ』という精神病患者の小説が研究用展示物として登場する。あるいは、セルバンテス『ドン・キホーテ 後編』の中には、『ドン・キホーテ 前編』が出版されている書物として登場する。それと同じ。(ナンノことやよけーにワカランようになったやろ。私はいまうつ病と闘病中で、要するにキチガイに刃物ではなく、私の場合はキチガイに書き物なのだから、仕方がないとアキラメテもらう。これをアキラメデスの原理という)
まあ、順序よくいこうじゃないか。ずっと私の読者であるひとにはよけいなことになるかも知れないが(つまり、またかよっ、だが)、北村想ビギナーのためにも、あるいはお復習いとして、いま一度記しておく。「微分方程式」とは何ぞや。
私は戯曲の私塾でもそれ自体をレクチャーすることもあるし、それを活用してレクチャーすることもある。もちろん、微分方程式の計算なんかやったこともナイし、そんなふうに使ったこともナイ。ただ、この「考え方」は応用が利くので、戯曲を書くことについて、さらに拡張して、演劇について語るときに用いる。微分方程式とは、「部分から全体を創りだす」作業をいう。この場合「部分」とは「微分係数 dy/dx」のことで、いわゆる「微分」だ。微分というのは、成分d(x.y)の比率を求めることだからだ。(この比率を係数という)。そこで、では「全体」とは何かというと、アタリマエのことだが、関数y=f(x)のことになる。storyやsequenceを「全体」というのなら、plotやsceneは「部分」というふうに考えても差し支えナイ。成分d(x.y)の比率というのは、戯曲においては、(日記的/説話的)を指す。
微分方程式のポイントは2点、①抽象化、②一般化。これは微分方程式が数学であるという宿命のようなもので、日常世界の事象を数学記号で現すのだから、どうしても抽象化することになり、さらにそれに普遍性を持たせるためには一般化しなければならない。①をフッサール現象学の造語でいうならば、それぞれのドクサ(思い込み)による客観性をいったん括弧に括るという〈エポケーするという〉「本質直観」に該り、②はそれぞれの何方さんにも納得出来るように妥当な基準を定める「想像変容」になる。だから順序としては①→②になるのだが、微分方程式の注意点として、ある「事象」→「抽象化」→「一般化」→「概念・法則化」としたものを、こりゃ便利とばかりに「概念・法則化」(数式)→「個々の固有値」(日常)に持っていこうとすると、これが、出来ない(というより、そうしてはイケナイ)のだ。何故なら、抽象化され法則化された数式(微分方程式)を日常に着地させようとすると、着地点(具体性)が無数にあることから、けっきょく定まらない結果を産んでしまう。この有名な失敗例を挙げれば(失礼ながら)「スタニスラフスキー・システム」というメソッドがそうだといわざるを得ない。
ここで、さきほどの戯曲の成分(日記的/説話的)を(現実/虚構)というふうに、大雑把ではあるが、まあそんなふうにもいえるワイナと思うので、そうしてみる。・・・これは拙著『恋愛的演劇論』に詳しい・・・さらにこれを(現実[実数]/虚構[虚数])と拡張すれば、戯曲は「複素数平面」(三次元的に捉えれば複素数空間)での表現ということになる。さあ~らに、ここから逆視して世界(自然)を眺むれば、「もし、この世界(自然)が、〈私の〉表現であるとすれば、現実それ自体というのはナイ。虚構それ自体というものもナイ」ことになる。
ニーチェまでいくと世界(自然)と〈私〉との関係・了解を「解釈」としたが、カントになると「もの自体」は、それを主観でしか観ることのできない個々が個々あるので(でなければ「私の考え」という考えを放棄、破棄しなければならない)、それを識るのは神ばかり、になるのだが、この辺のことは、今回は述べていくと面倒だからすっ飛ばす。
で、さて、〈シミュラークル〉なんだけど、疲れたので(つづく)にしとくワ。

2015年12月19日 (土)

私想的生活-03

「めずらしいもん屋」てのがあるそうなんですがね、ほんとなのかね。ほんと、ほんと。何売ってるの。だから、めずらしいもん、よ。たとえば。髑髏、頭蓋骨なんかあるね。そんなものは、めずらしくナイじゃない。いや、その中でもめずらしいのが、たとえば〈織田信長の十六歳のときの頭蓋骨〉とか。そりゃあり得ない。あり得ないのでめずらしいんですよ。じゃあ、その店でイチバンめずらしいものってのは、何なの。それは〈ちっともめずらしくナイ〉ってのがあって、それがイチバンめずらしい。なるほどね、「めずらしいもん屋」なのにめずらしくもナイものが在ると、それは、イチバンめずらしいということか。そういうことですよ、旦那。
〈織田信長の十六歳のときの頭蓋骨〉というのが存在するということを、哲学で説いたのが、ボードリヤールだ。ボードリヤールについてちびっとだけ解説しておくと、/『消費社会の神話と構造』(1970年にフランスで刊行)が代表的な著書で、本書では、大量消費時代における「モノの価値」とは、モノそのものの使用価値、あるいは生産に利用された労働の集約度にあるのではなく、商品に付与された記号にあるとされる。たとえば、ブランド品が高価であるのは、その商品を生産するのにコストがかかっているからでも、他の商品に比べ特別な機能が有るからでもない。その商品そのものの持つ特別なコードによるのである。つまり、商品としての価値は、他の商品の持つコードとの差異によって生まれるのである。現代の高度消費社会とは、そういった商品のもつコードの構造的な差異の体系である。高級車には高級車の、コンパクトカーにはコンパクトカーの持つ記号がそれぞれ存在し、それらを自ら個性として消費するのである。こうした「記号」という商品の価値が、本来の使用価値や生産価値以上に効力を持つ社会を「消費社会」と本書ではよんでいる。この思想の背景にはマルクスの価値形態論とソシュールの記号論が控えており、こうした分析を、生産物に限らずあらゆる社会事象や文化に援用したのが本書の特徴である/と、これは『ウィキペディア』の解説なのだが、要するに「マルクスの価値形態論とソシュールの記号論」からサンプリングしてきたものをリミックスしたものだと思えばイイのではないかな。「コード」とか「差異」が、交換価値となるというのは、商品というのは無機的なものではなく、有機的な〈表現〉という価値を有していて、同じ価格のドレスを、ある女性(消費者)が選択するときに、どちらの〈表現〉を気に入るか、ということだ。と、私の脳のテンプレートにはファイルされている。ポスト構造主義の書籍の中では、比較的ワカリヤスイ本だったという記憶がある。(といってもワカルところ、興味のあるところしか読まないのは、私の読書術なんだけど)。
というワケで、〈織田信長の十六歳のときの頭蓋骨〉は、ボードリヤールふうにいうと、〈シミュラークル〉ということになるのだが、〈シミュラークル〉というのは、ボードリヤールの展開した哲学における彼自身の「造語」で、似たものにシミュレーションてのがあるが、簡単にチガイをいえば、シミュレーションは「模倣」「複製」、いわゆるコピー、レプリカのことだから、元ネタが存在するのに対し〈シミュラークル〉には元ネタはナイ。似たモノに火のナイところに煙をたてる「流言蜚語」「噂」の類があるが、ボードリヤールは、消費者は、そういう類に踊らされやすく、いまの社会の消費ってのは、そういう神話的なもんだよという、警鐘、啓蒙というのをやったんだと思う。
たとえば、関東大震災(1932年-大正12年-9月1日11時58分32秒、関東にて発生)の際、「朝鮮人が井戸に毒をまいた」という流言蜚語、噂、が飛び交って、朝鮮人が大虐殺された、ここには二重の〈シミュラークル〉が現出している。まず、「朝鮮人が井戸に毒をまいた」というのは「噂」であって、元ネタがナイ。〈織田信長の十六歳のときの頭蓋骨〉と何のかわりもナイ。さらに、朝鮮人大虐殺では、ロンドンのナショナル・アーカイブスで朝鮮独立運動派が諸外国の外交官にばら撒(ま)いた謀略宣伝用小冊子に書かれた数字はなんと2万3059人の朝鮮人が殺されたことになっているが、当時東京に何人の朝鮮人がいたのかというと、政府統計によると約9千人だから、近県の朝鮮人在住者近県に 約3千人をたとえ加えても、1万を少しこえるだけで、これもまた〈シミュラークル〉なのだ。ボードリヤールふうにいえば、なんだけど。
しかしながら、私はこの〈シミュラークル〉という概念を、なるほどそうですかと認めているワケではナイ。(続く)

2014年4月12日 (土)

小悟

私には「嫁」が在り「母親」が在り、「私」が在る。と、そう想っていた。
しかし、そんなふうに自分と他者とを「分けて想う」ことは妄想だった。
「嫁の中に母親が在り」「母親の中に嫁が在り」「私の中に嫁と母親が在る」。
分けて考えることは必要だが、いくら分けても、ほんとうは「一つ」なのだ。
嫁の言行、母親の言行、私の言行、これらに苦慮したり、喜んだり、されど、これらは、「一時的な現象」にしか過ぎない。これを仏のコトバで「空」という。『般若心経』における「空」の意味がイチバン私を悩ませたが、(つまりなぜ「無」ではナイのか)「空」とは、「一時的な現象」をいうと、識るに至った。
たとえをいえば「何も無い空間が在る」ということだ。空間は在るのだが、空間には何も無いのだ。それを、一時的な現象はあるが、それらは「空」に過ぎない。という。
すなわち、すべては一時的な(そのものの)現象に過ぎない。この「そのもの」を『般若心経』では「色」と称する。従って「色即是空、空即是色」。
『般若心経』もまた「書かれたもの」に過ぎぬ。といって、「書かれたもの」自体を単なる文字として否定しても、「書かれてあること」をココロすることは否定出来ない。
何も彼も、分けて考えることは可能だし、必要なのだが、それに「疎外」されることを「苦」というのだな。何も彼も一時的に成り立ちはする。それを「縁」という。されど、それは不変に固定的なものではナイ。
「尋ねず求めず」「棄てず取らず」、そういうつもりでいたが、まだまだ未熟な修行者だった。ナア。

2013年12月20日 (金)

吉本学派の躓き

吉本隆明さんのファンは多い。それが、吉本さんの人柄に向かってであるか、吉本思想に対してであるかは千差万別だが、吉本主義者、吉本学派、吉本エピゴーネンと、形態に多少のズレはあるにせよ、吉本さんを追従してきた者、人々は多く存在する。この人々が、躓く。ありていにいうと、吉本さんがワカラナクなる、あるいは、不信、不審。この契機は大まかに二つある。一つは『ハイイメージ論』の解りにくさ。もう一つは、極めて鮮明な、吉本さん自身のオウム事件に対する麻原擁護。
不出来な吉本学徒の私からいえば、前者については、つまり『ハイイメージ論』は、吉本さんの賃仕事だとしか認識していない。あれを、『共同幻想論』と同列に扱うのは、無茶というものだ。かといって、クオリティが劣っているということでもナイ。いうならば、何ら体系を持っていないだけだ。つまり、演繹的な理論の集積でしかナイ。むしろ、その伝でいうならば、『共同幻想論』に連なるものは、吉本さんの後年の仕事における「アフリカ的段階」ではないかと思える。これは、もちろん、マルクスの「アジア的段階」を受けての発想なのだが、ハイイメージという現代の視点の逆方向に、アフリカ的段階は読み取れるはずだ。オウム-麻原擁護に対する基盤には、この「アフリカ的段階」が存在することはいうまでもナイ。いうまでもナイのだが、どういうワケか、かの呉智英センセイまでもが、単に感情論的にしか、麻原擁護についての反駁、批評をされていない。(余談でいうなら、呉センセイの『つぎはぎ仏教入門』は、衆生、有情に対する啓蒙にも成り得ていないし、仏教者への批判には届いていない感が否めない。呉センセイにしてはめずらしく、手抜きを感じる。というか、編集者、出版社に書かされた缶詰仕事程度にしか思えない。例えば、宗教は信じないが、その有用性は認める、では話にならないのではないか。宗教の何を信じないのか、もし、それが非科学的だということならば、宗教とは、もともと信仰の対象であって、信仰には科学も、非科学的も無縁のものだ)。また、麻原擁護において、吉本アカン論、吉本マチガイ説、を、首をとったとばかりに声高に流布した連中もそれと同類と見做してイイ。私には、「アフリカ的段階」は、吉本さんの晩年における最大の収穫だと考える。これは、レビィ・ストロースの非欧州文明史観とは、まったく違う観点から、人文科学に斬り込んだものだと思える。その特徴は、吉本思想らしく、大衆の生活実態から発せられているということだ。麻原擁護と、オウム-テロとは位相が違う。オウム-テロに関しては、「固有の倫理」という概念をして、批難がなされている。この二点を、アンチ吉本は、理解できないのか、知ってて知らんふりなのか、持ち出そうとはしてこない。そういう論評は、もはや廃れた、全学連崩れの一派の得意とする論調と、何のチガイもナイ。
追い打ちをかけるように、フクシマの原発事故勃発時、雑誌『試行』の論説で原発の安全性を述べたくだりを持ち出して、吉本ダメ宣言を流布したマスコミも、マスコミらしいなぁとしかいいようはナイ。何度も書いていることだが、被災地とは何処か、被災者とは誰か、これを「風評被害」のひとことで片づけるマスコミの、いつものように何処吹く風気取りには、田作の歯ぎしりにしかならないのは承知で、唾棄している。

2013年8月 9日 (金)

剰余価値と「消費=生産」、資本 について(続)

マルクスを経済学者だと思ったり、共産主義国家を名乗る国々の思想的バックボーンだと考えているひとは多いと思う。でも、それは、じぇーんじぇん勘違いだ。また、マルクスはヘーゲルの観念論弁証法を否定して唯物論弁証法を提唱したひとだと解説している入門書めいたものもあるけど、これも的外れだ。マルクスには自然哲学もあるし、社会民俗学的な考察もある。芸術論もある。それに、現在の社会主義国家、ロシア、中国、等々のマルクス主義というのは、前者はレーニンがマルクスを解釈して自身の学説とした、マルクス≡レーニン主義だし、後者はマルクス≡毛沢東主義だ。(≡は物理学にもちいる「○○を定義とする」の記号)後者は毛沢東という中国共産党の指導者がマルクスを自分なりに解釈したのに過ぎない。日本共産党の場合は、マルクス≡スターリン主義と称して差し支えない。(スターリン主義とは、一国社会主義のことで、社会主義国を建国、強化、繁栄させ、他国へもその影響が及んで社会主義国が増えるという理屈)。だから、いちがいにマルクス主義と名乗ってはいても、解釈の仕方がまるで違う。私にいわせれば、どれもがマルクスの思想とは関係ナイ。だいたい、共産主義国家というものは存在するワケがナイ(ので、社会主義とはいってるけど)。何故ならマルクスの述べた共産主義というのは、国家を過渡期の存在としてしか認めない。もっというならば、国家を消滅させるための機能的手段として国家を必要としているだけだからだ。
演劇について書くのに、ちょっと飽きてきたところなので、私の理解している限りのマルクス思想をやってみることにする。
マルクスが主張したことは、一言につきる。それは「価値」というものだ。この場合の価値とは「生きる価値」の価値でもあり、「家族の価値」でもあり「恋人の価値」や「牛丼一杯280円」とも同じ意味だ。マルクスは要するに「価値」とは何かということについて、『資本論』を書いたといっても過言ではナイ。
もちろん、いま『資本論』を読むと、首肯出来ないところは在る。その部分は、すでに現代の科学が追い抜いてしまった部分で、マルクスもまた「時代の子」だったのだ。ミシェル・フーコーなどは、マルクス思想をある時代のエピステーメとして、積み重なる年代史の一地層として片づけてしまっている。
マルクスはヘーゲルの観念的弁証法を否定して、唯物論弁証法を打ち立てたのだろうか。そんなに粗雑なことをマルクスはヘーゲル思想に対してはやってはいないことは、たとえば『経済学批判要綱』が如何にヘーゲルの弁証法の影響の下に書かれているかだけで充分ワカル。むしろヘーゲルの弁証法には畏敬の念をもって、これをサンプリングして、リミックスしているのだ。その途上において、あまりに精神主義な部分は退けたと考えるほうがイイ。唯物論というと、まるで人間の観念や意識や精神を認めない理論のように喧伝されているが、それはまったく逆で、物質と人間との関係において、非科学的な部分を捨象していく過程において、人間の観念とは何かについて多くを考えている。唯物論弁証法を学ぶと、殆どが人間の観念(精神)作用について説かれていることに驚くはずだ。いってみれば、それは実存主義を科学的に解析していったようなものだ。人類が誕生するより先に宇宙には物質があったのだから、物質が優先される、てなことをレーニンは述べているが(どういう経緯があったのかはよくワカラナイが)そのレーニンですら、図書館にこもりきりで、ヘーゲルの著作は読破している。ついでにいうなら、現代の脳科学では、脳の機能や作用を説明できるのは哲学でいうとカントまでで、ヘーゲル的な脳機能(作用)は未だ説明出来ないでいる。
ここで、弁証法そのものについて言及しておくと、もっとも簡単にそれを述べるとするならば、いま、私の前にコップがあるとする。私はそれをコップだと判断する。(ここまではカントの対象認識)。ところが、人間の脳はそこで思考をストップさせない。次に、私はそれをコップと判断した、と、いう私を認識する。私-コップが、(私-コップ)-私になる。これは延々と続く。私はそれをコップと判断したという私を認識した私を認識している。というふうに。従ってこの精神現象をヘーゲルは「運動」だと定義した。弁証法とは精神現象が運動だということを主張する。
余談だが、シェリングの弁証法解釈はヘーゲルのそれを消極的と呼んだ。何故ならヘーゲルの対象認識(例におけるコップ)は「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、「あるとはどのような事態であるか」について答えていないからだ。(続く)

2013年3月11日 (月)

善人とは誰か、悪人とは何か

いい本、創って、やりたいことやって、早くgood byeといきたいもんだ。good byeはgoodなんだからgoodなんだろう。とはいえ、そう簡単にbye-byeさせてくれないから私はいつも南部麒六の満身創痍癖を味わうことになる。誰が悪いということでもナイ。といって誰が正しいとも思えない。では、何が善で何が悪なのか、コレステロールじゃあるまいし、そう単純なものではナイ。要するにこれを「関係」が生じさせる作用だとする。関係は「了解」と対応して動くと考えると、それは運動のようなものだ。だから作用が生ずるのはアタリマエなのだが、この作用、いわゆる「結果の轍」というのが、疎ましい。
吉本さんの「関係の絶対性」は『マチウ書試論』でキリスト教からmotivationを得ているけれど、のちのちそれは「親鸞」の思想に辿り着く。「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」と来るのだ。ここでは、明確ではナイけれど、というより、あたかも不明確を前提としているかのように善人と悪人とが分けられて、要するに阿弥陀仏の本願によってどっちも往生する。弥陀の本願は全ての衆生が往生するまでは自らも仏にならないということだ。だから阿弥陀仏が存在するというのは矛盾になる。だから阿弥陀仏にすがって他力本願で往生する、というのも矛盾になる。つまり他力の大将の他力はまったく運動していない。ニュートン力学においての運動方程式(第二法則)F(力)=m(質量)×a(加速度)だが、このF(他力)が働いていないのだ。それは作用(世間)をみればワカル。これがほんまの「往生しまっせだ」。
善と悪というのは、およそその作用のさらに「結果」であって、善人がいて善をするのではなく、悪人がいて悪をするのではナイ。そんなものはマーベル・コミックス(Marvel Comics)の世界にしかナイ、マンガでっせ。
とはいえ「関係の絶対性」というのはニュートン力学でしか通用せず、量子力学にまで行き着くと、「関係の偶然性」「関係の確率性」になってしまう。量子力学においては、この「関係の絶対性」というヘーゲルやマルクスにおける弁証法的なaufhebenは、あっさりきれいにすっかり消えてなくなる。つまり「絶対」というコトバが消滅するからだ。量子力学というと、何か自然に対する特殊な観方のように思えるが、そうではナイ。自然それ自体がそうなのだ。で、あるならば、世間の様態は量子力学のモデルに近い。
私の理屈では「夢(虚構)」と「現実」はべつものではナイ。相平面と複素数平面という平面に関数として存在する。(これはこの晩秋上梓される予定の『恋愛的演劇論』を読んでもらえばイイ)。従って「夢を現実のものにしよう」という言説などは、まったく意味をなさない。ある舞台創造をして、スタッフが実現させる夢とは、演出家のegoではナイ。もし、そう考えるならば、スタッフは「献身」か「犠牲」のものとなる。フーコー流にいうなれば、権力と服従の問題でしかナイ。舞台にある夢(虚構)は倫理的には観客の欲望だ。観客の欲望というのはいつも「極限」だから、大きさと向きは確かに在るのだが、行き着くところがナイ。献身でも犠牲でもナイ、「食う」ためでイイではないか。それもまた「極限」だ。いま「食えない」が「食う」ために大きさと向きは確かに在るのだから。
私はいま二本の戯曲をパラレルに創作しているが、何れもテーマ(のようなものがあるとすればだけど)は、冷酷な善人と温和な悪人の、固有の時間を空間でベクトル変容させた内容になっている。ベクトル変容なんてコトバに驚いてちゃいけねえ。要するに、ベクトルなんだから、その大きさと向きを変容させてるってことだ。こういうコトバを私はハッタリで使っているワケではナイ。ただワカリヤスイのだ。(私にとってはだけど)。
でと、結語。私はいわゆる悪人か、善人か。どんなに私が善かれと思っても、関係は絶対性であり「偶然性」であり「確率性」だ。だから、結果、いつもマルキ・ド・サドとアルベール・カミュが握手してハグハグしているようなもんになる。
私は親鸞より一休(宗純)が好きだなあ。だって、一休の反抗はただごとじゃナイもんな。親鸞には愛は感じないが、一休にだけは、私は宗教者としても、人間としても強い愛を感じること出来る。あんなにひとが愛せたらなあ。ただ、悔しまぎれかも知れないが、いわせてもらえば「愛を他人まかせにするな」。愛は他力ではナイのだ。かといって自力でも成り立たぬ。愛に翼などはないぞ。翼を下さいなんてあまえていてはイケナイ。ともかく一緒に歩くことだ。愛を捜さんとすれば、文字通り歩くことだ。のろけていうのではナイが、歩いている時間はいまの嫁さんとが、最も多い。

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