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カテゴリー「本」の記事

2022年12月27日 (火)

アト千と一夜の晩飯 第三九夜 A=〈非NaruA〉を解いてみる

ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』には『豊穣の海』との類似点がある。主人公のゴッセンが愛し亡くした妻パトリシアは実は生きていて、かつゴッセンのことなどまったく知らないというところ、輪廻転生の代りに殺されても次のゴッセン「第2の肉体」が準備されている等だ。けれど、昨今はそういうplotの映画や小説はけっこう多いので、三島由紀夫が『非Aの世界』を読んだのか参考にしたのかは、一切問わないことにする。どっちでもいいことだからだ。ここではタイトルどおりに「A=〈非NaruA〉を解いてみる」で論旨を進めていく。「孤独死とはなんだ」のSpin-offとおもってもらってイイです。
まずA=nA(と、今後は記すが)の等式で問題にすべきなのは〈=〉という等号がどういう意味をもって左辺と右辺をつないでいるのかということです。〈=〉等号という記号を定義すると「数学という思想を表現する基本的な記号」(『数式を読みとくコツ』・杉原厚吉・日本評論社)になる。「右と左はおんなじ」だけではアカンのです。〈=〉にはかなり多くのルールや取り扱い説明がある。そこで、此度は「AはAではないことによってAとなる」と読んでおきませう。Aに「三島由紀夫」を導入。「Aではない」に「三島由紀夫ではない」を導入。そうすると、A=nAは「三島由紀夫は三島由紀夫ではないことによって三島由紀夫となる」になる。三島由紀夫は例えば彼の嫌悪していた(ほんとうはライバル視していた)太宰治ではナイ。従って「三島由紀夫ではない」は「太宰治」でもイイワケだ。というより、三島由紀夫は三島由紀夫ではないものになるべく努力して三島由紀夫になった。これで、もう、『豊穣の海』のlast plotの謎も阿佐ヶ谷自決の謎もあっさり解ける。少なくとも私はそうかんがえてそれで納得している。三島由紀夫未だ若き頃、太宰は嫌いだと云いつつも太宰の宴席に出席したことがある。太宰の文学仲間や編集者たちの集いだ。そこで太宰「キライだからって、ここに呑みに来ているんだから、ほんとはそうじゃナイんだろ」と一笑。この頃三島はまだ酒が呑める年齢ではなかったと記憶している。上村一夫の劇画では(作品は忘れたがコマの絵は鮮明に覚えている)三島由紀夫は緊張のあまりただブルブルふるえている貧弱な若者だった。三島はしかしこの頃から太宰にだけは負けたくないとかなり強くライバルなんて程度ではなく闘争心を持つ。なにしろ太宰には『魚服記』や『女生徒』等々、三島が書きたい、あるいは好みそうな、あるいは書いたような作品は山ほど在る。『右大臣実朝』もそうではなかったか。大嫌いで/山出しの田舎者/と貶しているにしては意識し過ぎなのだ。で、太宰はサっちゃんと入水自殺。これが新聞にデカデカ。もう負けられねえ。向こうが心中ならオレは割腹だ、クーデタ(coup d'état)だ。その前にbody buildingだ『太陽と鉄』だ。太宰担当記者の記録によると太宰の肉体は痩せっぽっちではなく、けっこう逞しかったらしい(津軽の百姓の遺伝子だろうな)。おまけにマッチョではないが肉質が良く(いわゆるもち肌)、たぶんたくさんの女性にモテたのはその肉体に因るところが大きい、のではないか。マッチョにはしてみたが、さほど三島はそっちで持てたということはなく、銀座の蝶々のあいだでは「あの先生はご自分の作品のことを云われるとムっとされるけど、腕の筋肉ひとつ褒めればイチコロよ」と情報が飛んだ。さすがに運動神経までは鍛えられなかったらしく、ボクシングや空手は稽古試合を観た石原慎太郎の言では「子供のケンカみたいだった」らしい。戦中疎開の太宰は荷車に夫人をのせて「空の荷車より、何か載せているほうが扱いやすいんだ」とバランス感覚も良かった(これは夫人の『回想の太宰治』津島美知子から)。けっこう貧弱そうにおもわれている太宰だがそれはfictionの中のハナシ。だいたい、何度も(偽装)心中から帰還しているのだから。しかし、太宰もまた天皇には畏敬以上のものを持っていた。冗談じゃネエと三島由紀夫が、金閣寺の最上層部で究極の極楽浄土をあらわした茶室「究竟頂」を主人公にこじ開けようとさせたのは、何も部屋の中を観るためではナイ。扉を開けること自体が目的だったのだ(と、この辺の意味は推測して頂きたい)。開けてしまえば「玉手箱」、つまり『天人五衰』のlast plotとなる。
以上が『豊穣の海』を読みもしないで(ただし、三島の自決は予知しているのです。私、丁度、高校生の頃でした。後々、あらすじとlast plotを識って大笑い。斜読程度はしたかも)評論だけを読んでミステリを推理するこの方法を「ほオッカムりの剃刀」と称する。これが私のA=nAの解である。

2022年8月16日 (火)

Sophism sonnet return 04

ついでにちょっと

古書店(「古本屋」いったほうがなんとなく気安いのだが)で、100(と裏内表紙にエンピツで書いてあったから百円。元値は300円)の『新しい共産主義批判』(著者・不明、記されていない。ただ、世界基督教統一神霊協会とある。発行者も同じ、発行所は光言社、東京渋谷区。以前の持ち主のinitial、名前など記入あり。内部にもside line あり)を購入(B6だからちょうどcomicサイズ。310ページ)したは名古屋にでてきてからだから、お姐さんとの経緯とは、あんまり関係ないのだが、まあ、ついでだから。発行年月日は昭和四十三年(1968)。
ここで、国際勝共連合、世界平和連合、UPFジャパンという3団体の会長を務める、梶栗正義氏の一連の騒動後、初めてメディアのロングインタビューを挿入。「1968年に創設されました。当時は冷戦の真っただ中で、世界では共産主義勢力が拡大していました。そこで文総裁は世界平和を実現するにあたって、神を否定する唯物思想である共産思想が世界にネットワークを広げている現状に強い危機感を抱き、これに対抗をするため、国際的に連携して相対峙あいたいじしなくてはいけないという考えに至りました」
つまりこのtextは、会員が学習用に所有していたホンなのだな。たぶん、よくワカランかったろうとおもう。

『新しい共産主義批判』の序文には、本署の目的は/統一原理を応用して共産主義論を見当批判、克服を試みようとするものである/。なので、本署の第一章は「統一原理」の解説、以下は共産主義(マルクス時代の環境とマルクス主義の成立から始まる)についての「原理」応用における批判に費やされている。
第一章は宗教教典なので、ワカリヤスクいえば、いまの本屋の棚を占領している「魔法合戦comic」のidea資料のように読めばイイ。一応は聖書(Bible)の文鮮明における解釈なのだが、当然のことながらkatholiekや他のChristian教会からも「異端」(いわゆる「外道」)と正式にお墨付きが出ている。しかし、「魔法合戦comic」の原作だと思えばそれなりに聖書よりスジは通している。これは本家の聖書(Bible)のほうが矛盾が多いからなのだが、そこが聖書の読みがいともいえる。「原理」のほうは気張って「科学」を標榜し、スジを通さんとして噛み切れない馬脚の肉。宗教は科学でないところがイイのだから、兎の角でイイ。とにかく。
第二章以下の共産主義(マルクス)批判においては、こっちのほうが原理解説よ丁寧で、マルクスの人間性から入り、まず「価値論」を共産主義の生命線と狙いをつけて批判が始まり、ヘーゲル弁証法から「唯物論弁証法」を批判して終わる。いわゆる、胆(きも)を叩っ斬るという論法で、本署の作者はこっち(たぶん「マルクス・スターリン主義」)のほうをけっこう学習していて、んでもって、「原理」との論戦で論破されたかなんやかんやで、あったのだろう。だいたい、当初読んだとき私なんかなんも勉強しとらんかったんで、いまも学習したというほどはしてないので、本署の論理の流れにはいちいち頷いて、「そのとおりやないケ」と感心してえええええええ、んで、しかしこれと、かの「献金」「霊感商法」がどっから出てきてどうして主流になったのか、なんでまた「家庭」が大事、合同結婚(四ヶ月の禁欲)やら、性的(まあ、たいていの宗教は『古事記』だってオメコのホンなんですが)「血分けの儀式」なところが強調されて(だいたいサタンとの肉交なんてのはもうほんま、comic)、邪教=カルトに変貌、変容していったのか、私にはよくワカラン。
おもうに/聖書は〈スットコドッコイ〉と、〈泣かせるぜ〉が混交しているからイイのではなかろうか/と、信心の無い私なんかは猛暑の夏、世界の33,9%の真理を会得して、コロナ・オミクロンを防戦しつつ、なるほど、「Q統一協会・教会は政治・経済的にはanti communismなのだから、政治家にも寄り添うワナぁとはおもったりしている。 

2019年6月22日 (土)

港町memory 21

印象が確かなあいだに、印象を書いておきますが、これは〈批評・評論〉ではござんせん。私は物書きでして、評論家ではありませんので、その点についてはまったく無責任です。
ひょんなことから『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』(大島真寿美・文藝春秋)を読むことになってしまいまして、(どういう〈ひょん〉なのかは、面倒になりますので省略)読みました。
太宰治老師の名言に「人生は退屈な映画を最後までみる勇気が必要だ」(とかなんとかだったとおもうんですけど、正確ではナイでしょう)というのがあるんですが、この小説を読み出した半分(いわゆる前半とでもいいましょうか)はその〈勇気〉を持たねばならないなという覚悟をしました。ところが、残り半分(いわゆる後半)は、そうでもなくなってくる。あきらかに、前半は下手です。私が編集者なら、かなりsuggestしていたとおもいます。
ずいぶんとベテラン(中堅なのかな)なのに、それに、この作品、今年度後期の直木賞候補ですから、そのようなホンに対してのほほんとこういうことをいえるのも私の特権だとおもって下さい。(どういう特権かというと精神疾患者ですので)。
そのずいぶんと、なのに文章が素人です。amateurさんが書かれるような書き方が多々あります。それと、これはもちろん前半なのですが、「話体」と「文章体」の融合にあきらかに失敗しています。挑んでいることは理解出来ました。これ、うまくいくと読む方もstressが少ないんですけど。どうもチグハグの範疇にあるもんですから、読むのがしんどい。ところがそれが、後半になると、俄然、良くなってます。元は連載小説だったので、そのへんは仕方ないのかも知れませんが。後述しますが、後半ではまたチガウところで良くなってます。
それとこれは作者の資質なのかどうかワカリマセンが、「諄い(くどい・これは〈口説い〉でも正解)です」。何がかはよくワカランののですが(評論家ではアリマセンので)要するに、クドイ。文章自体がなのか、同義反復なのかが判然としないんですけど、よく飲んだらクドクなるひとっているじゃナイですか。そのひとのハナシを聞かされているようにクドイ。あのですね、関西弁というのはただですらクドイんです。関西出身・在住の作家さんではナイようなので、登場人物が関西弁を用いる場合、そこは注意せなアキマセン。ともかく、これは常人には許容範囲なのかも知れませんが、「あんたはアスペルガーね」とよくいわれる私にとっては、ともかくクドイ。(クドイという不平もここまでクドクなってきました)。
それと、これは直木賞候補ですから、芥川賞よりも大衆向けなはずですが、扱っているのが、古典芸能です。これは私のような不勉強には辛い。能狂言、歌舞伎あたりまでならついていける部分はあるんですが、なんとまあ、浄瑠璃ときている。
主人公の半二というのが浄瑠璃の戯作者(狂言作者でもイイのかな)で、その半生を扱っているので、浄瑠璃作品が多々出てきます。浄瑠璃作品と主人公との関係について、あたかもNHK大河を観るかのように虚構は虚構として読んでイイのですが、出てくる作品は実在しますから史実を曲げるワケにはいかないので、こっちは、浄瑠璃の原作の知識が必要になってくる。いまブームらしいですけど(たとえば文楽なんかはチケットとれないらしい)、まともに勉強したことのナイ輩にとってはキビシイ。とはいえ、これは、ヤってみると悪いことではありませんでした。教養程度に知っていたところから、一気に、浄瑠璃とは何かという考察まで進むことができました。これはアリガタイことでした。
後半から登場して、ここで一気にqualityの上がる『妹背山婦女庭訓~いもせがわおんなていきん~』なんてのは、まさに伝奇ロマン、山田風太郎老師の作品がごとき妖気、それでいてstoryは和風Shakespeare、さらには、泉鏡花につらなるがごとき美学の仕掛けが実にオモシロイ。
後半は、ここに至る主人公半二さんの思考と経験の描写が、これはたしかに読ませるのです。さすれば、もう前半はその布石にしか過ぎないので退屈なのも仕方ないかとおもいますが。(いやあ、しかし、十作以上、浄瑠璃の作品にあたらねばならなかったというのは、アスペルガーでしか出来ないことでしょう。これをたった二日でヤったというのもアスペルガー。アスペルガーというのは症候群ではありません。人類進化の能力の段階なのです)
ともかく、そういう意味で、ひさしぶりに勉強になりました。
しかし、小説としては、私は(あくまで私はです。私は直木賞選考とはなんの関係もアリマセン)「何を読めば」いいのか、殆どのところでよくワカリマセンでした。
いい方を変えると、「もっと書かねばならない」とおもわれるところが、かなり端折ってあり、「そんなもん書かんでも、どうでもええやん」とおもわれるところがいっぱいで、「どう読めば」いいのか、後半の盛り上がりを除いては、「読み方」がワカラナクテ、苦労しました。それは、この作品のlevelとは関係のナイことで、私の嗜好性だけの問題ですけど。
さらにいうならば、私、劇作家(狂言作者)ですので、かくなるback stageものはあまりに身近過ぎて、苦手なのかも知れません。「世界がこの小説のように美しければナア」てなことを何度も感じましたですけど。
また、人形浄瑠璃と歌舞伎について、その〈人形〉と〈役者=生身〉のチガイに触れている部分もあるのですが、その辺りの考察は少々薄っぺら過ぎる(というか、まともに思想、研究したことはナイようにおもえましたが、たぶんそうでしょう。理路で攻めねばならないところを感性で逃げているフシがありますから)。
まあ、このブログは読者max150人ですので、こういう印象感想で、オシマイとします。

2011年11月16日 (水)

『表裏井上ひさし協奏曲』(西館好子)読後感

後半部分に書かれた夫(井上さん)の傷害にも至る暴力を除けば、たいていのことは、何処の家のどの夫婦にもある、似たりよったりのこととしかいいようはナイ。結婚というのは、個人と個人の自由な意思によって出来るが、実際は育った家と家のチガウ者どうしが、家ごと結ばれることだ。だから、平穏を望むのならば、なるたけ似たような環境に育った者どうしがくっついたほうがイイに決まっている。西館さんと井上さんはこの出発点で終焉を潜在的に孕んでいたようだ。
井上さんの暴力沙汰というのも、私自身の幼童期の家庭がそうであったから、特に「裏」の顔をみせられたというふうにも衝撃を受けなかった。ただ、それは、私の幼童期が特殊であったからだけなのかも知れないけれど。
作家が孤独であるとか、孤高であるとか、そんなものはどうでもイイことだと思っている。それはひとの苦しみの中にさえ入らない。釈尊の四苦八苦は、生・老・病・死の四苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)- 愛する者と別離する苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)- 怨み憎んでいる者に会う苦しみ、求不得苦(ぐふとくく)- 求める物が得られない苦しみ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)- あらゆる精神的な苦しみで、「孤独」などというものは取り上げていない。せいぜい、最後の付け足しのようにある五蘊盛苦に入れればいいのかなという程度のものだ。私も孤独を苦しいことなどと感じたことは一度もナイ。「孤独はどんな人間にも平等に与えられたものだ」(劇団『青い鳥』の葛西佐紀さんのコトバ)。
ただ、この二人の決定的な間違いは、「演劇」に足を踏み入れたことだ。映画も演劇も、錢の飛び交う業界ともなると、善人などいるワケがナイ。たまにその中に「ふつうのひと」がいるだけだ。私は35年の間、この「悪人」と「ふつうのひと」の往来が可能なように細心の注意を払ってきた。ちょうど「狂気」と「正気」を往来するように。「風通しを良くすること」「閉じないこと」、それは保全のために危うい作業だが、それしか私に出来る方法はなかった。そんなことは、演劇の業界だけではナイ話だろう。どの業界にも地獄、極楽はあるに違いない。ただし、何で食っても五十歩百歩とはいうが、そもそも、「演劇」は「食えない」。
私は「表」の井上さんには恩義がある。私のことを「10年にひとりの才能だ」と、最初に認知して頂き、かつ「この作者は軽くものを書いているふうにみえるが、ほんとうは骨身を削っている」と、おそらく我が事がそうであったことに類推して、私を援護してくださった。この「コトバ」にはいまもって、感謝している。
好子さんは、何をいったって、男をつくったのは不味かった。ここは物書きの井上さん相手には、不利だ。別れるキッカケは何度もあったんだろうから、そこは地獄と思いつつも思い切らないとしょうがナイ。ほんとうの「悪妻」として、逃げりゃよかったんだ。両親と一緒に、錢をうまいことガメて。作家なんて書く事しか能がナイから、幾らでも騙せるんだぜ。(劇作家、さらに演出家は別。こやつらは、作家と違って、狡知に長けているのが多い。おれもテキ屋だからナ)。
まあ、あんまり気分の良くなる本ではなかったナ。夫婦なんてのは、端から観ているよりはるかに複雑怪奇なもんだからナ。

2009年8月16日 (日)

朝のユリイカ

今朝方、起き掛けふいに、ああそうか、いま躁の領域に入ってるんだと了解。抗鬱剤を3錠から1錠にしていたその1錠も服用をやめる。そいで、ゆんべ、あんな長文のaggressiveな文章ここに書いたんだなあと、納得。あれから、やはりやや興奮して、鎮静のために寝床で読んだのが、自由律俳句の『カキフライが無いなら来なかった』(幻冬社・せきしろ×又吉直樹)なんだけど、これがオモシロイ。せきしろさん一句め・・「落ちた歯磨き粉ここで一番白い」・・又吉さん一句め・・「二日前の蜜柑の皮が縮んでいる」・・、ということで、すぐにマネをして一句・・「いつもワカラナイあなたの怒る理由」・・これは私に向けた奥さまのコトバをほぼそのまま。次のオリジナルの一句も奥さまにいわれたことをヒントにしているのだが・・「ロマンチストただし二流私の肩書」・・で、石川美南さんの『夜灯集』も届く。最初の一首だけ読む。・・「人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす」・・、モノクロームの写真(橋目侑季)も素晴らしい。、そうそう、前述の『カキフライ・・・』の中の写真も私がよく撮るような風景写真でgoodよ。終りに一句・・「また流してみたい甲子園のような汗」・・

2009年5月14日 (木)

哲学とは何か

池田晶子『私とは何か』(講談社)を読了。賛同するところ、否定したいところ、いろいろとあるが、彼女の功績はつまるところ『哲学』というものを物々しい書籍から解放したところだろうと知る。その無鉄砲とも、鉄火肌ともとれる文跡が彼女のすべてなのだろう。印象に残ったのは酒についてのエッセイで、「酒はスピリッツというではないか」というひと言だ。なるほど、気がつかなかった。ところで「私とは何か」、私の場合「私とは私の隣人である」と劇作家ふうに命題をたてておこう。私を愛するように隣人を愛さねばならぬが、隣人などそう簡単にみつかるものではナイ。また〔愛する〕ということがよくワカラナイ私にとって、〔愛されたい〕という希求もナイ。私は私の隣人であるが、彼はいつも静かに黙している。所在もワカラズ、正体も知れないが、時折、私とともにあって、こうやって書き物などをするのである。

2009年3月14日 (土)

ジケイ

久生十蘭『金狼』を読み終える。まるで川島旦那の前期の映画を観ているようで、登場人物のイメージが、そのときの俳優たちに重なってくる。かつての東京。氾濫するルビ。それはともかくとして、コスチュームがいまひとつワカラナイので、ネットのフリマで『服飾事典』を購入した。ただでさへ装束オンチなのに、何を着て男女が登場しているのかが、ワカラナイと、キチンと書き込まれた文章の味が半減してしまう。とはいえ、久生十蘭など読んだら、もう小説は書けなくなるだろうなあという予感は裏切られて、こういうふうのなら私にも書けそうだなという見通し(パースペクティブ)のようなものが沸ふつと過っていき、勇気が出る。『金狼』は戯曲の作法を活かしたもので、余計にそんな気がしたのだろう。同じ出版元の国書刊行会からはこの下旬に『演劇の教科書』という訳書が出版される予定になっている。3780円という高価な本だが、割り勘でビール一杯に支払ってる額と差ほどカワラナイとおもえばたいした値ではナイ。タイトルのジケイはスラング。フランス語かと思えばスラングからオキナンチューのコトバまでルビになってるから久生十蘭の世界はたしかに動画である。