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カテゴリー「本」の記事

2011年11月16日 (水)

『表裏井上ひさし協奏曲』(西館好子)読後感

後半部分に書かれた夫(井上さん)の傷害にも至る暴力を除けば、たいていのことは、何処の家のどの夫婦にもある、似たりよったりのこととしかいいようはナイ。結婚というのは、個人と個人の自由な意思によって出来るが、実際は育った家と家のチガウ者どうしが、家ごと結ばれることだ。だから、平穏を望むのならば、なるたけ似たような環境に育った者どうしがくっついたほうがイイに決まっている。西館さんと井上さんはこの出発点で終焉を潜在的に孕んでいたようだ。
井上さんの暴力沙汰というのも、私自身の幼童期の家庭がそうであったから、特に「裏」の顔をみせられたというふうにも衝撃を受けなかった。ただ、それは、私の幼童期が特殊であったからだけなのかも知れないけれど。
作家が孤独であるとか、孤高であるとか、そんなものはどうでもイイことだと思っている。それはひとの苦しみの中にさえ入らない。釈尊の四苦八苦は、生・老・病・死の四苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)- 愛する者と別離する苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)- 怨み憎んでいる者に会う苦しみ、求不得苦(ぐふとくく)- 求める物が得られない苦しみ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)- あらゆる精神的な苦しみで、「孤独」などというものは取り上げていない。せいぜい、最後の付け足しのようにある五蘊盛苦に入れればいいのかなという程度のものだ。私も孤独を苦しいことなどと感じたことは一度もナイ。「孤独はどんな人間にも平等に与えられたものだ」(劇団『青い鳥』の葛西佐紀さんのコトバ)。
ただ、この二人の決定的な間違いは、「演劇」に足を踏み入れたことだ。映画も演劇も、錢の飛び交う業界ともなると、善人などいるワケがナイ。たまにその中に「ふつうのひと」がいるだけだ。私は35年の間、この「悪人」と「ふつうのひと」の往来が可能なように細心の注意を払ってきた。ちょうど「狂気」と「正気」を往来するように。「風通しを良くすること」「閉じないこと」、それは保全のために危うい作業だが、それしか私に出来る方法はなかった。そんなことは、演劇の業界だけではナイ話だろう。どの業界にも地獄、極楽はあるに違いない。ただし、何で食っても五十歩百歩とはいうが、そもそも、「演劇」は「食えない」。
私は「表」の井上さんには恩義がある。私のことを「10年にひとりの才能だ」と、最初に認知して頂き、かつ「この作者は軽くものを書いているふうにみえるが、ほんとうは骨身を削っている」と、おそらく我が事がそうであったことに類推して、私を援護してくださった。この「コトバ」にはいまもって、感謝している。
好子さんは、何をいったって、男をつくったのは不味かった。ここは物書きの井上さん相手には、不利だ。別れるキッカケは何度もあったんだろうから、そこは地獄と思いつつも思い切らないとしょうがナイ。ほんとうの「悪妻」として、逃げりゃよかったんだ。両親と一緒に、錢をうまいことガメて。作家なんて書く事しか能がナイから、幾らでも騙せるんだぜ。(劇作家、さらに演出家は別。こやつらは、作家と違って、狡知に長けているのが多い。おれもテキ屋だからナ)。
まあ、あんまり気分の良くなる本ではなかったナ。夫婦なんてのは、端から観ているよりはるかに複雑怪奇なもんだからナ。

2009年8月16日 (日)

朝のユリイカ

今朝方、起き掛けふいに、ああそうか、いま躁の領域に入ってるんだと了解。抗鬱剤を3錠から1錠にしていたその1錠も服用をやめる。そいで、ゆんべ、あんな長文のaggressiveな文章ここに書いたんだなあと、納得。あれから、やはりやや興奮して、鎮静のために寝床で読んだのが、自由律俳句の『カキフライが無いなら来なかった』(幻冬社・せきしろ×又吉直樹)なんだけど、これがオモシロイ。せきしろさん一句め・・「落ちた歯磨き粉ここで一番白い」・・又吉さん一句め・・「二日前の蜜柑の皮が縮んでいる」・・、ということで、すぐにマネをして一句・・「いつもワカラナイあなたの怒る理由」・・これは私に向けた奥さまのコトバをほぼそのまま。次のオリジナルの一句も奥さまにいわれたことをヒントにしているのだが・・「ロマンチストただし二流私の肩書」・・で、石川美南さんの『夜灯集』も届く。最初の一首だけ読む。・・「人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす」・・、モノクロームの写真(橋目侑季)も素晴らしい。、そうそう、前述の『カキフライ・・・』の中の写真も私がよく撮るような風景写真でgoodよ。終りに一句・・「また流してみたい甲子園のような汗」・・

2009年5月14日 (木)

哲学とは何か

池田晶子『私とは何か』(講談社)を読了。賛同するところ、否定したいところ、いろいろとあるが、彼女の功績はつまるところ『哲学』というものを物々しい書籍から解放したところだろうと知る。その無鉄砲とも、鉄火肌ともとれる文跡が彼女のすべてなのだろう。印象に残ったのは酒についてのエッセイで、「酒はスピリッツというではないか」というひと言だ。なるほど、気がつかなかった。ところで「私とは何か」、私の場合「私とは私の隣人である」と劇作家ふうに命題をたてておこう。私を愛するように隣人を愛さねばならぬが、隣人などそう簡単にみつかるものではナイ。また〔愛する〕ということがよくワカラナイ私にとって、〔愛されたい〕という希求もナイ。私は私の隣人であるが、彼はいつも静かに黙している。所在もワカラズ、正体も知れないが、時折、私とともにあって、こうやって書き物などをするのである。

2009年3月14日 (土)

ジケイ

久生十蘭『金狼』を読み終える。まるで川島旦那の前期の映画を観ているようで、登場人物のイメージが、そのときの俳優たちに重なってくる。かつての東京。氾濫するルビ。それはともかくとして、コスチュームがいまひとつワカラナイので、ネットのフリマで『服飾事典』を購入した。ただでさへ装束オンチなのに、何を着て男女が登場しているのかが、ワカラナイと、キチンと書き込まれた文章の味が半減してしまう。とはいえ、久生十蘭など読んだら、もう小説は書けなくなるだろうなあという予感は裏切られて、こういうふうのなら私にも書けそうだなという見通し(パースペクティブ)のようなものが沸ふつと過っていき、勇気が出る。『金狼』は戯曲の作法を活かしたもので、余計にそんな気がしたのだろう。同じ出版元の国書刊行会からはこの下旬に『演劇の教科書』という訳書が出版される予定になっている。3780円という高価な本だが、割り勘でビール一杯に支払ってる額と差ほどカワラナイとおもえばたいした値ではナイ。タイトルのジケイはスラング。フランス語かと思えばスラングからオキナンチューのコトバまでルビになってるから久生十蘭の世界はたしかに動画である。