アト千と一夜の晩飯 第三九夜 A=〈非NaruA〉を解いてみる
ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』には『豊穣の海』との類似点がある。主人公のゴッセンが愛し亡くした妻パトリシアは実は生きていて、かつゴッセンのことなどまったく知らないというところ、輪廻転生の代りに殺されても次のゴッセン「第2の肉体」が準備されている等だ。けれど、昨今はそういうplotの映画や小説はけっこう多いので、三島由紀夫が『非Aの世界』を読んだのか参考にしたのかは、一切問わないことにする。どっちでもいいことだからだ。ここではタイトルどおりに「A=〈非NaruA〉を解いてみる」で論旨を進めていく。「孤独死とはなんだ」のSpin-offとおもってもらってイイです。
まずA=nA(と、今後は記すが)の等式で問題にすべきなのは〈=〉という等号がどういう意味をもって左辺と右辺をつないでいるのかということです。〈=〉等号という記号を定義すると「数学という思想を表現する基本的な記号」(『数式を読みとくコツ』・杉原厚吉・日本評論社)になる。「右と左はおんなじ」だけではアカンのです。〈=〉にはかなり多くのルールや取り扱い説明がある。そこで、此度は「AはAではないことによってAとなる」と読んでおきませう。Aに「三島由紀夫」を導入。「Aではない」に「三島由紀夫ではない」を導入。そうすると、A=nAは「三島由紀夫は三島由紀夫ではないことによって三島由紀夫となる」になる。三島由紀夫は例えば彼の嫌悪していた(ほんとうはライバル視していた)太宰治ではナイ。従って「三島由紀夫ではない」は「太宰治」でもイイワケだ。というより、三島由紀夫は三島由紀夫ではないものになるべく努力して三島由紀夫になった。これで、もう、『豊穣の海』のlast plotの謎も阿佐ヶ谷自決の謎もあっさり解ける。少なくとも私はそうかんがえてそれで納得している。三島由紀夫未だ若き頃、太宰は嫌いだと云いつつも太宰の宴席に出席したことがある。太宰の文学仲間や編集者たちの集いだ。そこで太宰「キライだからって、ここに呑みに来ているんだから、ほんとはそうじゃナイんだろ」と一笑。この頃三島はまだ酒が呑める年齢ではなかったと記憶している。上村一夫の劇画では(作品は忘れたがコマの絵は鮮明に覚えている)三島由紀夫は緊張のあまりただブルブルふるえている貧弱な若者だった。三島はしかしこの頃から太宰にだけは負けたくないとかなり強くライバルなんて程度ではなく闘争心を持つ。なにしろ太宰には『魚服記』や『女生徒』等々、三島が書きたい、あるいは好みそうな、あるいは書いたような作品は山ほど在る。『右大臣実朝』もそうではなかったか。大嫌いで/山出しの田舎者/と貶しているにしては意識し過ぎなのだ。で、太宰はサっちゃんと入水自殺。これが新聞にデカデカ。もう負けられねえ。向こうが心中ならオレは割腹だ、クーデタ(coup d'état)だ。その前にbody buildingだ『太陽と鉄』だ。太宰担当記者の記録によると太宰の肉体は痩せっぽっちではなく、けっこう逞しかったらしい(津軽の百姓の遺伝子だろうな)。おまけにマッチョではないが肉質が良く(いわゆるもち肌)、たぶんたくさんの女性にモテたのはその肉体に因るところが大きい、のではないか。マッチョにはしてみたが、さほど三島はそっちで持てたということはなく、銀座の蝶々のあいだでは「あの先生はご自分の作品のことを云われるとムっとされるけど、腕の筋肉ひとつ褒めればイチコロよ」と情報が飛んだ。さすがに運動神経までは鍛えられなかったらしく、ボクシングや空手は稽古試合を観た石原慎太郎の言では「子供のケンカみたいだった」らしい。戦中疎開の太宰は荷車に夫人をのせて「空の荷車より、何か載せているほうが扱いやすいんだ」とバランス感覚も良かった(これは夫人の『回想の太宰治』津島美知子から)。けっこう貧弱そうにおもわれている太宰だがそれはfictionの中のハナシ。だいたい、何度も(偽装)心中から帰還しているのだから。しかし、太宰もまた天皇には畏敬以上のものを持っていた。冗談じゃネエと三島由紀夫が、金閣寺の最上層部で究極の極楽浄土をあらわした茶室「究竟頂」を主人公にこじ開けようとさせたのは、何も部屋の中を観るためではナイ。扉を開けること自体が目的だったのだ(と、この辺の意味は推測して頂きたい)。開けてしまえば「玉手箱」、つまり『天人五衰』のlast plotとなる。
以上が『豊穣の海』を読みもしないで(ただし、三島の自決は予知しているのです。私、丁度、高校生の頃でした。後々、あらすじとlast plotを識って大笑い。斜読程度はしたかも)評論だけを読んでミステリを推理するこの方法を「ほオッカムりの剃刀」と称する。これが私のA=nAの解である。