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カテゴリー「表現とコトバ」の記事

2012年3月 3日 (土)

用語解説

ブログで私が使用している用語の解説(みたいなこと)をしておきたい。
まず、「精神的」と「心的」の違いは、そのアトに「現象」を付けるとワカリヤスイ。「心的現象」というのは、主に身体性(肉体・内臓系統)とココロの関連を扱うときに用いる。この「心的現象(ココロと身体・内臓における関係と了解の精神現象)」と「知覚精神現象」を合わせて「精神現象」と称する。この定義は『心的現象論(吉本隆明・著)』に拠る。ただし、『心的現象論』は精神医学を論じた書ではナイ。
「表出」と「表現」の違いは、「表出」は具体性をいわないが、「表現」になると、どういうカタチ(形態)のものが表出されたのかの具体的な個々、固有のカテゴリーをいうことになる。つまり、表出されたものが、「音声」なのか、「書き文字」なのか、単に「コトバ」なのか、「身体の動き」なのか、「創作された作品」なのかという理解で足りると思う。「表出」はそれ自体が抽象的、観念的、概念的、で、たとえば「視線」や「聴取」や「触手」や「痛感」も表出といえる。

「ゆらぎ」というコトバは、物理学によく登場するが、書き文字や聞いた感じにおいて、何かが「ゆらいでいる」というふうに認識してしまうが、それであながちマチガイというのではナイ。物理学にいえば、「局所的な小さな秩序(エネルギーの規則的な運動)」をいう、と私なりには識知している。近年この「ゆらぎ」が多く論じられるようになったのは、イリヤ・プリゴジンの『散逸構造論』に因る。私はプリゴジンの著作は『混沌からの秩序』しか読んでいないが(それも、またいつものように悪戦苦闘しつつ)、それを理解したのは、ある数学者タレントが視聴率について、視聴率というのは、大鍋のスープの味が小匙(スプーン)一杯でワカルのと同様のことだと、解説したのを聞いたときで、「ちょっと待て、それには大鍋のスープが均質であるという前提が必要なのではナイか」と疑問を感じたときだ。このとき、ああそうか、そういうことかと、エントロピー(熱力学の第二法則)に逆行する、非平衡宇宙の散逸構造というものがやっと理解出来た。そうでナイと、人間のような生物は存在し(生まれてくる可能性が)ナイ。何故なら、固有の人間こそが「ゆらぎ」そのものだからだ。つまり、人間は「散逸構造」であるということも可能だ。
「疎外」というのは、辞書を引いてもなんのことかワカランという読者が多勢だろうと思う。ましてや「表出」=「疎外」といわれると、ますますワカランということになる。さらに「現実」と「虚構」は「疎外関係にある」(というふうに理論づけたいのだが)になると、まったくなんのことだということになるだろうから、本来はマルクスの自然哲学からきているこのコトバは、なるたけ用いないようにしながら、今後もその概念は扱っていくことにしたい。私なりに、「疎外」を用いずに、「疎外」がいえるようになれば、それがイチバンいいのだと考えている。ただし、この「疎外」(あるいは「表出=疎外」)が理解出来ると、ほんとはコトは早いんだけど。

2011年4月18日 (月)

現代日本・誤・百科の「誤」/4月18日

別に退屈でもヒマでもナイのだが、偏執狂なので、気になることは、気にしておく。こないだもいったが、普段はthroughするのだが、そりゃ、ナイでしょというのだけは、こないだと同じようにやっておく。
・・・「布団」は「敷く」ものだが、敷くときに引っ張るので「布団をひく」というひとも多い。電話線や水道管は線上に長くつながるから「引く」という。・・・この解釈が常識的にマチガッテいるのは、広辞苑さへ「引ければ」(多くのものの中から取り出すに該るかと思われる)すぐにワカル。「敷く」よりも「引く」のほうが、用いる意味が多いのだ。たとえば、ギターを弾くは「引く」でもいい。弦を手前に「引く」からである。「弾く」は「はじく」ことだから、ギター演奏でも用いられ、このように書かれるようになった。しかし、演奏行為としては、「弾く」と「引く」によってなされる。電話線や水道管のような細長いものを長くつなげる場合は「引く」でイイ。ただし、平面的なものを広げる場合、平らにする場合は「引く」が用いられる。この学者のいうように・・・敷くときに引っ張るので「布団をひく」というひとも多い・・・というのは、単なるこの学者のドクサ(思い込み)にしか過ぎない。その方言を問わず、日本人は「引く」も「敷く」も同様(同意のものとして)に用いてきている。それから、・・・「ひく」と「しく」は形が似ており混同されやすい・・・の場合、この学者は「形」というコトバで、何のカタチを指示しているのか、不明だ。音声、音感であるならば、他に似たものもある。形態であるならば、この学者はそれを否定している。文字のカタチ、まあ、幼児が間違える程度になら似ていなくもナイ。

2010年7月 7日 (水)

おコトバではありますが・捕捉

付け加えておくならば、シリーズを始めるとき、私には、幾つかの不満があった。まず、ソシュールのいうラングというのは、そんなに悪いものなのか、逆にパロールというのは、そんなにいいものなのか、という素人考えと、同じように、形而上的なものがアカンのなら、戯曲みたいなもん書けへんでという、こちらは嘲笑に似たものだ。私の『寿歌』は、かなり評価を得た反面、毀誉褒貶でか、いわゆるリアリズム志向の劇作家、演劇関係者連中からは、酷評されたようだ。(詳しいことは知らん)。そこで、私は「演劇におけるリアリズム」という自分の考え方を示してみるしかなかった。さて、それが理解されたかどうかも、知らん。・・・ジャック・デリダ(バウアーではナイ)の「脱構築」という考え方は、オモシロイなと思った。しかし、この考えは、ハンカチョーでいうと、ヘーゲルが述べたカントの[仮象]概念と、それほどの差異はナイのではないか。また、フッサールの[還元]とも似たりよったりではないか。・・・私の作品に『血と青空』というのがあるが、このタイトルを聴音像として認識する場合、おそらくさまざまな「像」が生ずるはずだ。「血」「と」「青空」の聴音の意味になんの変化がなくとも、「像」が変化するのはどうしてなのか。この戯曲は、人々の新型ウイルスとの闘いを描いているものだが、タイトルから与えられる像解釈では、アクション劇とも、戦争劇とも、ミステリとも、家族系統の劇とも受け取ることが可能だ。私は、劇団を終えてから後に、『ヴァイアス~愛するものもまた死す』というミステリ劇を書いて、上演(avecビーズ)したが、これをミステリだと思ったひとは殆どいなかったようだ。何が弊害をもたらしているのかは知らないが(ほんとは知っているんだけど)、こと、演劇というのは、文学(小説・et cetera)などに比して、かなり遅れた文化だ。けったいな海外の学説がまかり通っているし、インテリの玩具になっているし、庶民大衆のレクレーションになっているし、世間知らずの演出家と、演技知らずの役者と、作文しか書けない(自称)劇作家が、大きな顔をして闊歩している領域だ。そこへまた、贔屓の観客が、ワッと集まって、およそ2年ももたずに去っていく。労働と、労働力のわからぬ拝金主義者が、ワケのワカランもんをやってもらうより、有効利用して、ショッピングモールをつくったほうがいいなどと、古今、哲学者を一人も輩出したことがナイという街で気勢をあげる。さて、私の次なる仕事は、かくなる拝金主義者どもに、可能性の鉄槌をくらわす「演劇は形而上的でいいじゃないか」というコトバの実践だ。てなことで、明日からまた、旅寝の空で(そういうふうにして、オツムを休息させている)しばし、ここも、開店休業となる。

2010年7月 6日 (火)

おコトバではありますが・14

さて、私たちは、「語りコトバ・話しコトバ・会話・対話」といういわゆるパロールと、それが体系となったラングの中に、群をさがせば、それで、充分に、ソシュール言語学に異議申立をしたことになる。これはさほど難しいことではナイ。たとえば「狂言」がそうだし、「落語」がそうだ。前者はれっきとした「劇」であるし、後者も広義の意味で一人芝居の「劇」と捉えることに、私は異存はナイ。何れも「書かれたコトバ」としての戯曲(台本)に相当するものは存在しない。であるのに関わらず、同じ演目を、和泉流の野村万作師と、大蔵流の茂山千作師が演ずるのとでは、まったくチガウ。(もちろん、私は、端正な和泉流よりも、お豆腐狂言の大蔵流のほうが好きだ)これは、落語も同じで、立川家元がふつうに高座に上がれなくなったいま、東京(江戸)落語は壊滅しているが、こちらは、志ん生師匠よりも、圓生師匠(六代目)のほうが好きなのだ。驚きは、江戸落語である圓生師匠が、噺の中で使う大阪弁の正確さだ。たとえば、それをソシュールふうにいえば、「イヌ」は大阪弁でアクセントが変化すると、「去ぬ」になって、そこを去ることになる。「犬」という名詞が『夏は来ぬ』の「来ぬ」(たぶん、[ぬ]という助動詞、来たり・来たらば)となる。これらの群を関数で記すとf(G)xだ。同じ表音であろうと、意味の構造は普遍のまま、群が与えられる(はたらく)と、そこには「劇言語」が生ずる。つまり、この場合、操作というのは、ある表現だということは、マチガイのナイことだ。・・・とりあえず、この論考は、一度、幕をおろす。他に仕事がつまってきたというのが、イチバンの要因だが、また、日をあらためて、チガウ接近戦をしてみたいと思う。

おコトバではありますが・13

ここで、たぶんなされるであろう批判に前もって応えておく。「日常会話と芝居のコトバとはチガウのではナイか。演劇のコトバは非日常的だし、ソシュールは日常会話を扱っているのではナイか」・・・こういう、「日常」だの「非日常」だのという、それらしくおぼえたコトバで提出される問いは、まったく意味をなさない。なぜなら、私たちは「火星語」を扱っているのではナイからだ。食事時の会話と、論争をしているときの言語はチガウのではないか、床屋談義と国会答弁はチガウのではないか、といっているに過ぎない。・・・たとえば、戯曲において、次のようにト書きが書かれたとする。

彼と彼女、みつめ合っている。やがて太陽は山陰に沈み、夕陽は赤く空を燃やし、山すら影絵となり、満天の星空がふたりを包むが、彼らはまだみつめあっている。

これが、舞台(演じられた演劇)となった場合、おそらく照明は、そのようにシーンをつくるだろう。しかし、この時間経過は、現実のものではナイ。現実に、そんなに長くみつめ合えることなど出来ないからだ。これは、みつめ合う二人の、ココロの表出を、風景として、表現しているものだ。もちろん、それは形而上的なものといえる。これは「みつめ合う」という行為に対して与えられた「操作」だ。「劇言語」においては、こういう「操作」(これを表現とか描写とかいう)はよくみられるものだ。(みられない、かも知れないけど、私なら書いてしまう)。ここで、一つのドラマツルギーを用いると彼が「愛してる」彼女が「私もよ」という、このコトバの交わりのあいだに、一気に、前述したシーンをすべてみせることも出来る。ここでは、何が(どういう操作)が行われているのだろうか。つまり、観客に、何を訴えたいのだろうか。前述したのとは逆に、二人がそれぞれひとことのコトバを交わす、その時間の経過を、情景の変化によってみせたいのかも知れない。ここでは、ソシュールのいう通時態としての言語機能は、まったく機能しない。もちろん、共時態としての機能も同様だ。むろん、デリダのいう脱構築というものでもナイ。ここでは、「劇言語」はまったく違った時間性と空間性の中にある。簡単に例をとれば、関数f(x)に微分(h→0)という操作を行ったともいえるが、もう少しハッタリをかましていえば、ソシュールの言語軸を実数軸にとり、虚数軸という形而上的な軸を直行させ、回転を与えて得た、複素平面上のものだと、いえなくもない。つまり、この「劇言語」は、現実には存在しないが、概念として存在し、かつ形態を持ち、形而上的に認識され得るもの、ということだ。ト書きに用いられている、言語(コトバ)のそれぞれの要素は、ソシュール言語学上でも立派に機能する。しかし、そこには、たとえば、円関数(三角関数)でいう、sinθの傾斜角が複素平面に対して与えられているため、(そのように操作されているため)コトバの座標が、実数上にはナイのだ。だから、そのト書きを読む(あるいは、そのシーンを観る)読者、観客は、すでにラングやパロールなどという形式からは、違った位相に置換されていることになる。

2010年7月 5日 (月)

おコトバではありますが・12

「1、書の記号は恣意的である。たとえば[れ]の字とそれが示す音のあいだには、なんの関係もない」「2、文字の価値は純粋に消極的であり、差異的である。かくして同一人が[れ]の字をつぎのようにいろいろの書体で書くことができる。(このアトにさまざまな書体の[れ]が示される)肝要なことはただ一つ、この記号が運筆上[わ]なり[ね]なりと混同しないことである」「3(略)」「4、記号の制作手段は全然問題にならない、それは体系の関知するところではないからである(これも第一の特質からくる)。白く書こうと、凹字にしようと凸字にしようと、ペンを使おうとのみを使おうと、それらの意義にとってはどうでもいいことである」(『一般言語学講義』)・・・群として[れ]という字を扱えば、この操作は無限にある。大小が変えられるし、先の例示によって、傾斜(回転)が与えられる。また、「2」のように書体を変えることも出来る。たしかに、「1」のいうとおり、どのようにしても、[れ]という字の意義(意味)は変わらない。「4」も同様のことと思える。しかし、ここで変わっていることがある。それは、とりもなおさず「操作された」ということ自体だ。「操作する」ということに関して、ソシュールはあまりに無頓着だ。私たちのように「劇言語」を扱うものにおいては、言語にとって、それが「書かれた言語」から「語られる・話される・対話される、言語」へと操作されることが重要な意義を持つ。そうでないと、演劇は成り立たない。また、ひとは、如何なる場合(情況)においても「私独り」となることは出来ない。ここをヘーゲル的にいえば、「私」というものが、本質的に「一」ではナイからだ。ヘーゲル弁証法は、必ず「対象」を意識としてとりこむので、「対象」の概念が「多」であった場合(まず、それ以外の対象はナイのだが)、「私」は「多」へと「操作」される。ここに「時間」を加えれば、「私」は、群になる。演劇においては、私は私自身に語りかけたり、私を対象とみて語りかけたり、私の対象に語りかけたりする。「劇言語」に現れる私は、一つの役であるから、私は私に役として語りかけつつ、他者(対象としての観客)に語りかける構造を持つ。このときのコトバは、「私が役として語る」私への「操作」と看做してイイ。これも群と考えることが出来る。だが、ソシュールの場合は、必ず、話し手と聞き手が存在しなければ、言語は成り立たないような印象を受ける。・・・ソシュールも「時間」というものを無視しているワケではナイ。ソシュールは「通時態」として、言語に時間を与えている。しかし、「通時態は、目的をもたない」「通時言語学は二つの眺望を識別せねばならない。一は展望的なもので、時の流れを追うもの、他は懐古的でなもので、それをさかのぼるものである」。ところで、「劇言語」の扱う時間は、そういうものとはまるで、違って、いわば形而上的なものなのだ。ソシュールの言語学を実数軸であるとするならば、「劇言語」は、複素平面に滑り込むものだ。

おコトバではりますが・11

話を急いでもしょうがナイので、ちょうど中間点あたりのここいらで、ちょっとマトメておくと、もともとの思いつき(inspiration or motif)は、構造主義やポスト構造主義と称される、それら自体、ポスト・マルクス主義、ポスト実存主義が、言語の構造、体系を重視していること、影響されていること、そうして、それらの大元は、ソシュール言語学であること、で、しかし、ソシュール言語学をハンカチョーに誤読していくと、ウィトゲンシュタイン哲学よりははるかにマシな気配なのだが、かつ、それが「話しコトバ」に重点を置いていること、ではあるが、「劇言語」の入り込む余地がナイ(というか、私たちの要する劇言語とは、コトバに対しての考え方がチガウ)という異和感をもたざるを得なかったということ、という情況があり、それ(ソシュール言語学)に対して、「劇言語」からのいいぶんというものを提示してみたかった、のだが、ソシュール言語学を形而上学としてイチャモンつけている、デリダの思想にも納得がイカナイ、し、脱構築というソシュール言語学に対する批判的措定はオモシロイのだが、そういうことでなく、あからさまにいってしまえば、「劇言語」は、形而上学でいいんじゃないのか」という思いが強く、また、ソシュール言語学は、ヘーゲル弁証法からも反論出来そうであるし(デリダは、ヘーゲルも形而上学として退けている)、とはいえ、最初に、思い出したのが、構造主義というのは、数学から入ったほうがワカリヤスイのではないかという、経験で、では、その、『群論』という考え方を用いて、なんとなくやれるんじゃないかと、妄想(imagination)したのだ。で、ここまで、やっと辿り着いたと。・・・で、つづきだが、A4サイズの紙に任意の点aを置いて回転させるということは、その角度(すなわち距離)、に時間が加わることになり、距離と時間なら速度が出てくるはずだから、これは「力学」としても扱えるし、また、回転させるということと、群が(操作の集合として)関数を扱えるのならば、円関数(三角関数)としても考えていけるのではないか、さらに、点aは「座標」を持つことになるので、直行する数直線を実数と虚数にすれば、複素平面が扱えるのではないか、とすると、複素平面をひとつの形而上のものとして考えられるのではないか、というのが、おおまかな、だいたいの目論見であった。いまのところ、この目論見は、大きく逸脱はしていないはずだ。A4サイズの紙をラングと仮に設定して、含まれる要素としてのコトバを数詞とすると、差異は簡単につけられる。(なぜなら、1<2<3<4<5<6・・<・・nという順序の構造をつければいいからだ)。つまり、ラングというのが、[規約・法規・体系・動かしがたい先見性]ではなく、単に共通規範としての存在であることを示せば、半ば、いいことなのだ。おそらくソシュールは、「ある自然的な構造(言語)」があって、それらが「無構造の集合(パロール)」だったものが、「人為的な構造(ラング)」となり、そこから、ラングが転換して「体系」として君臨したために、主客が逆転して、まず「人為的な体系」が置かれることになり、すべての言語営為は、この体系の中に収束されるか、逆に、この体系からの写像としての存在となる宿命を持つ。てなふうに考えたのだ。その具体例として、「イヌ」はけして「イナ」とはいえない。なぜイヌなのかはまったく恣意的なことなのだが、それが実体であれ、聴覚像であれ、そういう決定性が存在する、ということなのだ。私たちは「劇言語」の立場から、この決定性を、数学の概念を援用しつつ、こえていこうとしている。

2010年7月 4日 (日)

おコトバではありますが・10

さしあたって、異議申立の方法は二つある。演劇そのものから迫るのも手段なのだが、当初の予定(というか、これを思いついたので、こいつを書き始めたワケなんだけど)である、数学の『群』という考え方を援用しながらすすめてみる。現在、数学教育に「集合」があるのかどうか知らないが、『群』というのは、[操作の集合]だ。いいなおせば、「あるもの、ある構造に何かの変化を与える操作」だ。もちろん、私は「数学ⅡB」までしか数学の知識はナイ。だから、これはまったく見当違いの試みかも知れない。しかし、ポスト構造主義者たちの多くが、その論文に数学を含め、その数学があらかた間違っていることを、数学者が一冊の著作にした話は有名だから、まあ、ハンカチョーの私がマチガッテも、世間的な影響などナイだろう。・・・さて、またコップの登場となる。ここにコップがある。コップと茶碗は、実体として観たら、区別はすぐにつく。ところで、ソシュールの言語学では、所記(シニフィエ)と能記(シニフィアン)との関係がこれを現す。前者は、コップという音声による表記だと思えばイイし、後者は、それを聴くことによって得られた像であると思えばいい。つまり実体はなくてもイイ。コップと茶碗は実体を持たなくても、そのコトバ(記号)の差異によって区別される。ところで、そのコップを二つにしてみる。どっちもコップだから、差異はナイ。次に、このコップの一つを横にして置いてみる。目の前には、立てられたコップと、横にされたコップが在る。どちらもコップであることに差異はナイ。わかりやすく二つにしたが、コップは一つでもイイ。最初は立てて、次は横にしてみる。コップというコトバに何かの差異は生じるか。『群』という考え方でいうならば、コップは立てられたものから、横にされたものへと操作されたことになる。しかし、コップという対象の構造に変化はナイ。コップはコップだ。もっと簡単な例を示す。A4サイズの紙を机上に置いてみる。べつに目の前に差し出してみても構わない。この紙を対角線の交わるところを中心にして、右に10°傾けてみる。さらに10°これを36回繰り返すと、紙は360°回転して、元のカタチにもどる。つまり、それは36回、操作されたA4の紙の[集合]ということになる。A4の紙というコトバに何か差異は生じるか。何なら、紙はそのままで、観ているほうの顔を10°ずつ傾けていってもイイ。『群』という考え方で述べるなら、Sの構造(コップ、A4サイズの紙)があって、それに働く操作の集まり(角度を変えていく)として群Gが考えられる。このとき、Sは働きを受ける[もの]であって、Gは働きそのもの、といえる。このとき、Gをoperatorという。数を[もの]と考えれば、+・-・×・÷は、[はたらき]といえる。つまり、演算というのは、[もの]と[はたらき]の対立だ。そうすると、関数fがxに[はたらいて]yになるf(x)=yも、群の応用だ。この場合のfはfunctionであり、パソコンの上部に横一列に並んでいるFがそれだ。コップというコトバの構造(表記・意味)をそのままにして「操作」する群という考え方を使うと、差異というのをコップそれ自体にではなく、操作の集合として、扱うことが出来る。もう一度これをソシュールふうにいいなおせば、Sをラングとすれば、Gはパロールということになる。しかし、この場合のSは有限集合だが、Gで(可能無限)集合をつくることも出来る。たとえば、Gを「数詞」と考えればイイ。操作の数を「位数」と称するが、数詞の位数は、無限につくることが出来るからだ。・・・ところで、A4サイズの紙を10°傾斜(回転)させるということとは、こうもいえまいか。A4上の任意の点aが、10°ぶんの距離を移動した。そこには、それだけに費やされた「時間」が生ずる。

おコトバではありますが・9

パロールは、ソシュールの考えによれば、ラング(コトバの体系)に対するコトバの構造で、それは「話しコトバ」「語り」「会話」ということになる。なぜ「書きコトバ」ではないのかというと、ソシュールが、「書きコトバ」を動かしがたい[体系]と看做したからだ。(たとえば、辞書などを思い浮かべればイイ)。もう少しワカリヤスイ例を挙げておくと、仏教の教典は、残存するものだけで、約三千二百冊もある。なのに、釈迦が生存中に書かれた教典は一冊もナイ。釈迦入滅は紀元前383年とされているが、最初の教典が編纂されたのは、それから100年もアトになってからだ。では、それまで、どうやって釈迦の教えを伝えあってきたのかというと、「結集(けつじゅう)」という、いわば、仏教者代表全体会議のようなものが何度もあって、釈迦の教えの仕分けをやっていたのだ。ソシュールがこの事実を知っていたら、泣いて嬉しがるかも知れない。なにしろ、そこにはパロールが飛び交っていたのだから。『一般言語学講義』では、ソシュールは、呪詛するかのように「書きコトバ」を嫌悪しているふうに読める。というのも「書きコトバ」というのは、ソシュールによると、ラングのアーカイブスのようなものであり、たとえば「富士山」と書いてしまえば、その意味は聴音の像とは、まったく隔絶されて、一つの意味規定を成すからだ。(聴音の場合は、必ず、そこには、話す主体と聞く主体とが存在するので、コトバの像は、自由だという主張だ)。・・・ところで、私たちが、異議申立(けして、ソシュール言語学を侮蔑、批難しているのではナイ)をしようとしているのは、、私たちは演劇というものにおいて、戯曲という「書きコトバ」をもっており、この「書きコトバ」は「話される・語られる・対話、会話される」ことを前提に書かれているという特殊性によって、散文(小説・詩・essay・評論)とは、位相を異にしているからだ。もし、ソシュールがいうように、あるいは、その後にソシュールの影響を受けた思想がいうように、コトバというものが、人間存在に先立って存在する動かしがたい体系であるのなら、私たちの表現はえらく虚しいものになってしまう。ソシュールは、パロールですら、次第にラングに絡めとられていくことに注意をはらう。「書かれた語は、それを映像とする話された語と、はなはだしくまじり合うけっか、主役を奪ってしまう。そのあげく、ひとは音声記号の表記にたいし、この記号そのものと同程度の、さらにより以上の重要性を与えるようになる。いってみれば、人を識るには、相手の顔をみるより写真をみたほうがよいと思うようなものである」(『一般言語学講義』)・・・だとすれば、戯曲というのは、単なる「音声記号」の表記なのだろうか。役者(演技者)をはじめ、演出家、劇作家は、ラングという言語体系の体現者でしかナイのだろうか。ソシュールの言語(記号)学、ラングという体系にたいして、「劇言語」はどう、応えればいいのだろうか。

2010年7月 3日 (土)

おコトバではありますが・8

「つまり、ソシュールは言語記号の各要素は実体的に構造化されているのではなく、各要素と全体との関係、各要素間の関係によって構造化されていると考えたのだ。すなわち、各要素は実体的な意義を持たず、全体および各要素との関係で差異化され、それ自体の価値を持つのである」(志賀隆生・『ソシュールが生みおとした記号論』)・・・なんのことかワカラナイのは私も同じなので、うへっなどと思わないでもイイ。ソシュールの説いた、ラングと、その価値、体系について簡略に述べたものらしいのだが、このアト「コップはコップという実体としてわれわれの眼に入ってくるのではなく、コップという言葉によって、コップと他を区別し、理解するのである」という文言が前述された文言のoutput、具体例のように記されている。これをそのまま砕いていえば、まず、コップという「実体」というものはナイということになる。コップならコップというコトバがあって、一方には茶碗というコトバがあって、コップは初めて、コップとして認識されるといいたいようだ。たぶん、この解釈は、マチガッテいるか、コトバ足らずかだ。・・・ソシュール自身には著作はナイ。講義をまとめた『一般言語学講義』(小林英夫訳)と、膨大なサブテキストがあるが、『一般言語学講義』を査読するのは私の能力では至難につきる。ただ、漠然と理解出来ることは(というか、私なりに誤読してみると)、たとえば、コップというのが、言語(を記号と解釈した場合の)要素であるとして、これらが、ある集合Mに含まれるとすると、その部分集合としての要素(コップ)が別の部分集合としての要素(茶碗)と違うというのは、実体としてではなく、コップというコトバによる「差異」が決めるということになり、集合Mにコップを要素として分類する場合、そこには実体としてのコップは含まれず、概念(コトバ-言語記号)としてのコップが含まれることになる。と、なると、私たちは、目前のコップを手にして、じゃあ、これは、ナンなの、と首を傾げてもいいはずだ。たぶん、ソシュールがほんとうにいいたかったのはこうだ。「私たちがコップというとき、コップという実体を示して、コップという必要はなく、コップという発声と、それを聴覚で捉えた認識(像)があれば、それは、明らかに茶碗とは分別(差異化)されるもので、言語というものは、そういう伝わり方をするものだ」・・・話を簡単にするとこれだけのことなのだが、では、なんのためにソシュールはそんなことがいいたかったのだろう。・・・ここで、「AはBである」を思い出してみよう。これでコップをヘーゲルふうに解釈すると「コップは(コップと意識されたコップ)である」といってイイように、ソシュールふうにいえば、「コップは(コップというコトバ)である」といってイイはずだ。何故なら、実体としてのコップは必要なく、聴覚によって生じた像が相手に伝わればいいのだから。そうすると、ヘーゲルが[意識]の中に「対象」をとりこんだように、ソシュールの場合は、コトバの中に「対象」をとりこむことが出来る。つまり、「私は(私に私と意識された私)である」と同様、「私は(私というコトバによって存在する私)である」といえる。もしこれが、文法、法規、規律、規範、体系、であるならば、そうしてそれをラングと称するならば、ラングの内に、あらゆる「対象」はとりこまれ、「私」ですら、実体をなくしてしまう。なぜなら、ヘーゲルが、互いの人間を互いの[意識]の中に相互に運動させて弁証法として用いたように、ソシュールの場合、互いはコトバ(記号)として存在させられてしまうからだ。これを拡張すると、表現や思想もまた、コトバという記号のラング(体系の)中にしか存在をゆるされないことになってしまう。おそらく、ソシュールが持った言語への危機感というのはそれだ。そこで、対概念としてのパロールというものを機能させるのだが、さらに、ソシュールは、畏怖すべきことに気づく。