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カテゴリー「表現とコトバ」の記事

2023年7月 4日 (火)

時世録・23

生成AI(人工知能)「ChatGPT」はまだテキ屋の商品の段階だとおもいます。この程度のものを「技術の成果だ」「科学の進歩だ」などと、啖呵きって世間に出して、私は科学者というものはもう少し恥を知っている人種だとおもっていましたが、それをまったく裏切るにはなかなかのシロモノです。
ちょっと他の科学、私たちの身近な医学と比較してみましょう。薬品が薬品として流通を認められるまでの過程です。ふつう研究所での完成から市販までかなり急いで10年かかります。此度のCOVID-19メッセンジャーワクチンで私たちはそのことをよく勉強させてもらいました。詳細は『時世録・18』にも書いてあります。
担架をきって世に出したはいいが、不備が多い、となると、たとえば自動車の場合は全て引き上げてやり直して、これなら良しというところで、今一度世の中にもどってきます。リコールです。生成AI(人工知能)「ChatGPT」もリコールして、仕切り直したほうがイイ。
ガッコなんかは阿呆の源、莫迦の義経ですから、生成AI(人工知能)「ChatGPT」の不備を学んで、「学習」しようという流れもありますが、これが、薬品の場合だとどうなります。
100人服用したら、三人死んだので、アト5人ばかり具合が悪くなったので、そういうことをよく「学習」しておこう。ですみますかね。
「テキ屋の商品の段階」と書いたのではテキ屋の連中に失礼なので、これはもう「詐欺」だといったほうがよろしい。詐欺の手口は巧妙です。日本の公共放送がニュースとお報せでその手口を毎日のように放送していますが、ありゃあ、あんた、時代後れも甚だしい。あんな原始時代の手口なんかもう存在しません。私も一度、電話があって某ウェブサイトの支払いが未払いになっているので、いますぐ17万円振り込むようにという詐欺電を受けたことがあります。私はこの方面では阿呆でも莫迦でもナイので(だって半世紀、演劇をヤッているんですから)、口調から「詐欺」だとワカリマシタが、確証をとるために、そのウエブサイトがどんなサイトか訊ねました。案の定アダルト・サイトでした。で、私がそこを視聴した日付を訊ねました。「昨年の〇月〇日」ということでしたので、これは法規上、支払い請求義務期間をズレているので、詐欺だと確信出来ました。つまり相手の義務違反ですのでほんとうに私が視聴していても支払いはしなくてもよろしい。と、ワカリマシタと返事して、警察に電話、そこから警察の「詐欺係」に電話が繋がり、と、こでは、私はその回線を疑っていましたから、researchして、ホンモノであるところまで、調べました。
これは日本の電話詐欺の手口がお粗末だから私にも対応出来たワケですが、たとえば隣国の韓国などは、まず、カモを選んでその名簿蒐集から始めます。で、偽の警察も、詐欺係も、銀行窓口も、相談室も設置します。カモが念のために確認するのはそのあたりだからです。これがまだ第一段階なんです。恐ろしいです。
さて、生成AI(人工知能)「ChatGPT」にもどりましょう。まず、素人だろうが、文章のプロだろうが、その丁寧な文章に驚きます。ここで、「ChatGPT」文だと気づくひとはかなり少ないでしょう。専門家は専門的な質問をします。ここでも、おそろしくデータの多い「ChatGPT」はなかなか間違えません。で、データにナイよう質問をします。ヤッと「ChatGPT」はしくじります。
私たちのような専門知識のナイものはどうすればよいでしょう。さて、私も騙されるかも知れませんが、ここで、生成AI(人工知能)「ChatGPT」と人間のチガイ。決定的な相違だけ識っておけばイイとおもいます。私たち人間は「ひとのカタチをした自然」です、が、生成AIにはこの「自然」というものが存在しません。私たちと生成AIのチガイは「自然」であるかどうかなのです。私たちは自然に働きかけてモノを創ります。生成AIはデータだけが頼りで、データでモノを創ります。
テキ屋商品も「自然」から創られたものです。COVID-19ワクチンもそうです。生成AI(人工知能)「ChatGPT」はこの「自然」をすっ飛ばすんです。ですから「氷がとけるとどうなる」と訊ねて「水になる」と応えた場合、当方の「春になるが正しいんだよ」という反論におそらく「ChatGPT」は、かなりデータの中を走り回るでしょう。
ともかくも、まだ地球が『禁断の惑星』になるには早すぎます。アト100年、生成AI(人工知能)「ChatGPT」は出番待ちですね。

2022年1月19日 (水)

Sophism sonnet・69,7-5

Sophism sonnet・69,7-5
フィクション

いまごろの若いひと、Z世代だかなんだか私の語彙でいうと「明日来るひと」に該当するのだが、そこまで世界を転じなくてももう少し上の若い人は日本の国会の「一杯のかけそば・騒動」なんかは知らないとおもう。の、ですが。
日本がね、中華大国よりうんと豊かだった世界。中華大国では自転車が道路狭しと大衆が乗って走っていて、自動車なんかの類は夜になってもヘッドライトつけへんねん。何故かというと視えるから。前が。多少視えなくても障害物も、対向車もナイ、そんな世界やった頃のこと。日本の国会でひとりの議員さんが最近読んだ『一杯のかけそば』というハナシに涙したので、ちょっとここで朗読させてもらう、いうて、本、読まはった。
粗筋は特にヘンテツもナイ、貧困の親子三人が蕎麦屋でかけ蕎麦を一杯頼む。蕎麦屋の亭主も女房も三人なのに一杯とは妙だなとおもいつつ、云われたとおりテーブルに置く。親子はその一杯のかけそばを分けつつ食ったというハナシ。蕎麦屋の亭主とかみさんは、厨房にしゃがみつつ涙を拭ったのであった。そうして、それを聞いていた国会議員さんたちも涙ぐんだのであった。
まあ、いまの世の中でしたら、こういうのはほんとうに実話としてあるでしょう(ほんとうにはもっと悲惨な親子心中もありました)。かけそばは親子心中の最後の晩餐だったのかも知れません。しかし、これは虚構の、いうてみたら寓話。つまり「創った噺」虚構、fiction。ということが「ワカッテ」(ここがオカシイんですけど)本を読んだ議員も泣いた議員も〈騙された〉とこんどは怒ったんですネ。ここで私たちが教訓とすべきは、国会議員のセンセ方は国会の最中にゲームしているくらいですから、ゲームが虚構だということは識っているのでしょうけど、どうも虚構というものと現実というものの区別が曖昧だということです。COVID-19が現実であるのに、ここまで来るとfictionじみてvirtualじみているので実感が薄くなっているのではナイでしょうか、ねえ。でないと、この危急、火急のときにのんびりし過ぎなのに「先手を打っている」とか、いうてはるんですな、ソーリ大臣。先手も後手も一手ずつでっせ打てるのは。それを忘却してらっしゃるのじゃナイでしょうか。

:『般若心経』は「大般若経」からのsamplingとremixによるイノベーションであると、かつて学習したのだけど、どうもそうではナイらしく、「大般若経」には『般若心経』に該当する部分は無いらしい。(らしいというのは私の怠慢で「大般若経」を読んでナイもんですから)。つまり、偽経の類に入るらしく、いわば創作教典になるワケですが、そうなると作者の思想にこれまた驚嘆するところ。
研究者において「観自在菩薩」は、読者自身(在家)のことであるとしているひともいるんですが、これもオモシロイ。釈迦入滅時に阿南に遺したコトバ「自燈明」と連鎖していきますから。

2022年1月13日 (木)

Sophism sonnet・69,7-4

それほど、滋賀県民は莫迦ではナイ

「徹底ローカル」地域の持続可能性に立脚する
嘉田由紀子・参院議員
2022年1月13日(毎日電子版)
で、嘉田由紀子元滋賀県知事がゆうてや(は)る。「琵琶湖の湖底は一部で低酸素状態にあるが、専門用語を避けて「琵琶湖が息苦しい」と伝える。擬人化し、カタカナ語を避け、ひらがなを使う。政策を伝えるにはくらし感覚に訴えることが原点ではないか」
私は物書きとして、こういう県民(私も元県民でした)一般人を莫迦にした上から目線の「見下しコトバ」に対しては敏感に反応するほうでんねん。このかたが専門用語というふうに示しているコトバはどう読んでも「低酸素状態」やないやろか。それを「琵琶湖が息苦しい」と伝えるということでっけど、なんでんねんそれ。そっちのほうが意味ワカランのちゃいまっか。文学でっか。「詩」でっか、副詞的活用でっか。「低酸素状態」くらい読んで字の如しで、よ~おワカリまっけど。
ああ、そうか、お得意のスローガンか。そういやこの方、知事選のときの政策は「もったいない」というスローガン一発で、なんやワカランかったけど当選しや(は)った。バックに何(誰)がおるんか知らんけど、滋賀県の県民ミュージカル文化の黒幕のこというてんのやったら、たしかに「琵琶湖が息苦しい」はピッタリのコピーやとおもいますわ。私、国松さんのファンですし、誤解されても何でも、あんさんみてたらジェンダーみたいクソくらえや、いうときますワ。

:今年70歳、もう惜しくはナイ余命。最近、大人げなく、感情的にでもいいたいことを云うようになった。

2021年5月20日 (木)

無学渡世・二一の追記(追鬼でもいい)

/河村氏は大村氏のこの発言(河村氏が首謀者だという大村知事の発言:北村・注)に反発。「首謀者という言い方はそもそも犯罪を連想させる言い方。僕はリコール運動をしてきたことは確かだが、リコール自体は犯罪ではない。(大村氏は)自分が対象になって面白くないだろうが、リコールは大事な活動だと言っておいて自己矛盾も甚だしいのではないか」と反論した。(毎日新聞 2021/5/19 19:54 最終更新 5/19 21:59)より/
こういうのを/盗人猛々(たけだけ)しい/或いは/引かれ者の小唄/という。後者をあまり耳にしたことのない主に若い方たちに簡単に意味を記すと「負け惜しみの強がった駄弁」になる。
また、これはあきらかに「詭弁」という類のものだ。政治家には失礼かも知れないが「閣僚の国会答弁」といってもイイ。
河村は自身のことを犯罪者扱いされたことに対して憤っているが、法的に「推定無罪」がある限り、河村が犯罪者ではナイのは明白なことだ。しかし、「首謀者」であることにマチガイはナイ。
また、「リコール運動」自体は犯罪ではナイが、それが非合法的政治活動、法律違反であれば歴然とした「犯罪」であることにマチガイはナイ。自動車に乗るのは犯罪ではナイが、駐車違反、スピード違反が犯罪であるのと同じことだ。
大村知事は「首謀者」を、犯罪を「連想」させる言い方で述べたのではなく、河村を犯罪者と名指していることもアタリマエの読み方だ。それを/リコール自体は犯罪ではない。/などというのは「すり替えの詭弁」でしかナイ。
よって、河村は「犯罪者」だとは立憲国家においてはいえないが、「首謀者」であるということは、文脈上何の問題もなくいえる。
では、なぜ河村が「首謀者」だということが〈結論〉出来るのか、もちろん、大村知事側にそれ相応の証拠があるからだ。密偵、公安、機密調査員をバカにしちゃいけませんぜ、河村のダンナ。そんな芸当はそこいらの政治家なら幾らでも使う(用いる)のだ。それくらいオマイサンにだってワカッテいるだろう。
河村は、市長を辞任する必要などはまったくナイし、私もそんなことにかまっているのではナイ。ただ、「僕は『応援団』だから関係ナイ。むしろ被害者」という嘘を謙虚に認めて、「はい、私が謀りました」といえばそれでいいのだ。
神は認識の対象ではなく信仰の対象だ。医療は信頼の対象ではなく認識による了解の対象だ。しかし、市長ともなれば、いくらヤスイ税金を集めようと、コトバや行為、行動、言動が嘘であれば、それは、市長としての対象ではナイ。
いい加減、寝覚めの悪い朝とはおさらばしたらどうだ、河村。

2021年2月13日 (土)

無学渡世・九

前記の付記のようなもんなんですけど、私はね、東京オリ・パラのCOVID-19問題なんか、単純な確率計算で解決出来るような気がするんです。コンピュータ「富嶽」てのがあるんだから。
女性の、とかジェンダーのとかは、識者どうしでとか、茶飲み談義でもいいし、男と女の問題は男と女が存在するあいだ続くでしょうから、ずうっとやればいいとおもいます。(ちなみに、私ゃ「お互いさま」という解決は最もダメだとおもってます)だから、それはそれ、これはこれ、というかんがえね。私、今度のシンキロウさんの発言ね、叩かれましたけどね、「あれっ、〈言論の自由〉とかいうの、憲法で保障されてんじゃナイのかな」と、ふと、ふと、です、すんません、おもいました。だって、こちとら表現の自由とかで飯食ってるもんですから。戯曲に理想的な女性ばっかり出すワケにいかないもん。
で、「富嶽」あるでしょ、確率計算出来るはずですよ。そんなさ、Π(パイ)の計算なんかやるんだったらさ、まず、Πの値が出る確率をなんで先に計算しねえんだろとおもうヤカラなもんで。
それより、東京オリ・パラ、何処のお国からどういうひとが来日して、どんな接触があったらclusterがどれだけ出るとか、観客がどの競技を観たらどれだけのclusterが出るとか、確率でいくらでも計算出来るんじゃないのかえ。なんで、やんねえの。そういうの、宝の持ち腐れっていうんじゃないのかねえ。そういうの「富嶽」にはむいてないんでなんていうなよ、ナッ。データが無いからなんていうなよな。データなんて、仮想(virtual)でいくらでも創れるじゃん。
数理学者、ナニヤッてんの。数学者じゃなくて、「理」なんかくっつけて威張りやがって。
と、クマゴロさんのように怒っちゃうよ、もう。

無学渡世・八

理屈をこねるが、行動が感情的な方のことを「面倒なひと」「めんどくさいひと」という。で、だいたいアタっているとおもいますが。
丁寧に説明をしているつもりが、コトバの中で愚痴をこぼすと時世にそぐわぬ一言になって、当人にはおもいもよらぬ大事故(まるで、テロの旅客機がビルに突っ込んだような事故)になってしまう。東京オリ・パラのしんきろう会長発言は、これがあれよあれよとどれよどれよで、なんだか「面倒なこと」になって、謝罪があって、メディア叩きがあって、会長のジニン劇があって、と、たとえば「忖度」という読みにくく判断しにくい漢字がありますが、辞書を引けば(あるいはウイキでもよろしいが)/忖度(そんたく)は、他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮することである/ということになりますが。この場合、主体も客体もハッキリしない。主語と述語もハッキリしない。東京オリ・パラに対して使っていいのかどうかもワカラナイ。だいたい東京オリ・パラとの関係も、私はオリンピック憲章に目を通したことがナイので(いったい、何人の日本人が読んでんだ)、よくわかりません。
何をコメントしても、double meaningになりそうなので、私は三匹の猿になってしまいますが、私など大衆からみて、どうかんがえても、憲章など読まなくとも、この世界情勢で、オリンピックを開催するということは、どう忖度しても「オカシイ」としかおもえナイのです。(まだ、帝国日本大本営のインパール作戦のほうがマトモにおもえるんだわね)。
電子版で毎日新聞と日経とを読んでいますが、「いまこそ、オリンピックをっ」と心底、おもわれているかた、右も左も、保守もliberalも問いません、精神論でも、根性論でもイイんです。納得出来るなら。ですから、ハッキリ述べて頂きたい。寄稿して下さいませんか。
これ、切ないお願いです。

2019年9月14日 (土)

港町memory 43

毎月無料で送って頂いている『名古屋シネマテーク通信』はたいてい隅から隅までずずずいっっ~っと、読ませてもらっております。
2019/09/10(№447)は、たぶんそういう記事が出ているだろうなあとおもっておりましたが、『あいちトリエンナーレ2019 表現の不自由展』のコラムが三つもありやした。で、比べっこしましたが(もちろん、物書きとしての読み方としてであります。批評家ではござんせんので)、んで、私は「しょう」さんの『視角と死角』がおもしろうごさんした。性奴隷の像と称されている像の正式名称が「平和の少女像」だということを初めて識りました。(そういうこと、新聞・報道・マスコミは書いたりいったりしていたんでしょうけど、テレビ観ませんので)。河村名古屋市長が「日本国民が踏みにじられた」と発言されていることも初めて読んだ次第でどうも浮世離れしております。しかし、「しょう」さん指摘のとおり、この市長の発言はベクトルが変だよなあ。〈性奴隷〉といういい方を韓国がいい出したのなら、踏みにじられたのは「韓国の国民」ですし、少女が性奴隷にされたなら、日本国民は「踏みにじった」ほうになるワケですから。コトバがオカシイです。パフ。
この像は戦時慰安婦の像ですから、戦争の犠牲者は、男性兵士だけでは無いといことのappealなんでしょうけど、たしかに戦時は〈性奴隷〉も〈性暴力〉も在りました。そんな資料はどの国でも処分されているでしょうけど、韓国も、戦時中は韓国の女性を慰安婦として、韓国兵士が性処理していましたし、もちろん、日本軍も日本女性を慰安婦としてましたし、敗戦直後の日本なんかは、一般婦女子の貞操だか、操だかを進駐軍(占領軍ですね)、の兵隊たちから守るってのに、政府は日本国中のプロに募集をかけていわゆるP屋をおっ建てておりますし、そういう施設は幾つも出来まして、そこには「御国のため」「一般女性のため」と義を賭して勇んで参加したプロもいたろうし、「これはいい銭儲けになる」という打算な方もあったでしょう。タダじゃありませんでしたから。慰安婦になったおもいはそれぞれだったとかんがえたほうが妥当でしょう。
ともかく、この少女が戦争の悲惨な犠牲者であるならば、まず、当事国である韓国こそが、その裔、関係者に手厚い庇護、慰安をすべきだと常識としておもいますし、日本だって兵士は靖国に祀って軍神さまで参拝されてんですから、同じ犠牲者、奴隷とされた女性には慰謝料くらいは支払うべきでしょう。それは、勝った国負けた国ともに、何れの国も何れもの使命、仕事です。(この辺りで韓国が何故〈強気〉なのかは、最近ブログに上げております)
戦時性暴力でいうなら、敗戦直後に米兵による性暴力事件は多々あったんです。これは、私、自身の駄小説『怪人二十面相・伝』を執筆したときに、まだ便利なウィキなどが使えなかったので、いろいろと資料にあたりました。けっこう悲惨でしたね。いっぱいあったんですね。戦中と戦後を一緒にしてはイケナイのでしょうか。そうじゃねえだろ、いっしょだよ。どこまでが戦中で、どっからが戦後なんだよ。どこで線引くんだよっ、ということになります。
沖縄などはとくに多かったようです。(ようです、でスイマセン。かなり前の執筆で資料も書庫にしかありませんので)。
ついでにいうなら、沖縄戦で米兵の白人兵士の戦死者はまずいません。なぜなら、沖縄戦で戦ったのは殆どカラード(南アフリカ共和国の住民のうち、アジア系移民、およびオランダ移民とアフリカ人との混血によって生まれた人々の総称。~以上ウィキ~ 要するに米国に移民した有色人種の総称、俗称。いまでいうならメキシコからの難民など)だからです。
これは、私が実際、沖縄のタクシー運転手のオジサンから~兄貴は従軍、私はまだ子供だったけど~、という四方山話で聞いたハナシです。戦った兵士と終戦後上陸してきた兵士は顔や色がチガッタと、そんなハナシでしたね。
沖縄は、返還されるまで、その頃はベトナム戦争の兵士の慰安所としてたくさんの「料亭」が機能しておりました。これは、私が実際に沖縄に「行った。観た。そうだった。浜辺で貝も拾ったけど」のハナシでござんす。竹中労さんなんかは足で、沖縄女性の8割(0歳児から90歳までを含む)が売春の経験があることをリサーチしてらっしゃいますねえ。
なるほど、「過去」の慰安婦性奴隷を政治政略に使うのも国家ですし、ひたかくすのも国家です。「過去」などという妄想の中にしかナイものをどうこう議論するのもよろしゅうござんすが、「いま」の表現の自由をこそ、少女像の足元で論じるべきだと、ちょっとだけカッコよくいわせて頂きまし・・・えっ、あの議論って、中止になったの。いやもう浮世離れもここまでくると、世棄て人だな。

2012年3月 3日 (土)

用語解説

ブログで私が使用している用語の解説(みたいなこと)をしておきたい。
まず、「精神的」と「心的」の違いは、そのアトに「現象」を付けるとワカリヤスイ。「心的現象」というのは、主に身体性(肉体・内臓系統)とココロの関連を扱うときに用いる。この「心的現象(ココロと身体・内臓における関係と了解の精神現象)」と「知覚精神現象」を合わせて「精神現象」と称する。この定義は『心的現象論(吉本隆明・著)』に拠る。ただし、『心的現象論』は精神医学を論じた書ではナイ。
「表出」と「表現」の違いは、「表出」は具体性をいわないが、「表現」になると、どういうカタチ(形態)のものが表出されたのかの具体的な個々、固有のカテゴリーをいうことになる。つまり、表出されたものが、「音声」なのか、「書き文字」なのか、単に「コトバ」なのか、「身体の動き」なのか、「創作された作品」なのかという理解で足りると思う。「表出」はそれ自体が抽象的、観念的、概念的、で、たとえば「視線」や「聴取」や「触手」や「痛感」も表出といえる。

「ゆらぎ」というコトバは、物理学によく登場するが、書き文字や聞いた感じにおいて、何かが「ゆらいでいる」というふうに認識してしまうが、それであながちマチガイというのではナイ。物理学にいえば、「局所的な小さな秩序(エネルギーの規則的な運動)」をいう、と私なりには識知している。近年この「ゆらぎ」が多く論じられるようになったのは、イリヤ・プリゴジンの『散逸構造論』に因る。私はプリゴジンの著作は『混沌からの秩序』しか読んでいないが(それも、またいつものように悪戦苦闘しつつ)、それを理解したのは、ある数学者タレントが視聴率について、視聴率というのは、大鍋のスープの味が小匙(スプーン)一杯でワカルのと同様のことだと、解説したのを聞いたときで、「ちょっと待て、それには大鍋のスープが均質であるという前提が必要なのではナイか」と疑問を感じたときだ。このとき、ああそうか、そういうことかと、エントロピー(熱力学の第二法則)に逆行する、非平衡宇宙の散逸構造というものがやっと理解出来た。そうでナイと、人間のような生物は存在し(生まれてくる可能性が)ナイ。何故なら、固有の人間こそが「ゆらぎ」そのものだからだ。つまり、人間は「散逸構造」であるということも可能だ。
「疎外」というのは、辞書を引いてもなんのことかワカランという読者が多勢だろうと思う。ましてや「表出」=「疎外」といわれると、ますますワカランということになる。さらに「現実」と「虚構」は「疎外関係にある」(というふうに理論づけたいのだが)になると、まったくなんのことだということになるだろうから、本来はマルクスの自然哲学からきているこのコトバは、なるたけ用いないようにしながら、今後もその概念は扱っていくことにしたい。私なりに、「疎外」を用いずに、「疎外」がいえるようになれば、それがイチバンいいのだと考えている。ただし、この「疎外」(あるいは「表出=疎外」)が理解出来ると、ほんとはコトは早いんだけど。

2011年4月18日 (月)

現代日本・誤・百科の「誤」/4月18日

別に退屈でもヒマでもナイのだが、偏執狂なので、気になることは、気にしておく。こないだもいったが、普段はthroughするのだが、そりゃ、ナイでしょというのだけは、こないだと同じようにやっておく。
・・・「布団」は「敷く」ものだが、敷くときに引っ張るので「布団をひく」というひとも多い。電話線や水道管は線上に長くつながるから「引く」という。・・・この解釈が常識的にマチガッテいるのは、広辞苑さへ「引ければ」(多くのものの中から取り出すに該るかと思われる)すぐにワカル。「敷く」よりも「引く」のほうが、用いる意味が多いのだ。たとえば、ギターを弾くは「引く」でもいい。弦を手前に「引く」からである。「弾く」は「はじく」ことだから、ギター演奏でも用いられ、このように書かれるようになった。しかし、演奏行為としては、「弾く」と「引く」によってなされる。電話線や水道管のような細長いものを長くつなげる場合は「引く」でイイ。ただし、平面的なものを広げる場合、平らにする場合は「引く」が用いられる。この学者のいうように・・・敷くときに引っ張るので「布団をひく」というひとも多い・・・というのは、単なるこの学者のドクサ(思い込み)にしか過ぎない。その方言を問わず、日本人は「引く」も「敷く」も同様(同意のものとして)に用いてきている。それから、・・・「ひく」と「しく」は形が似ており混同されやすい・・・の場合、この学者は「形」というコトバで、何のカタチを指示しているのか、不明だ。音声、音感であるならば、他に似たものもある。形態であるならば、この学者はそれを否定している。文字のカタチ、まあ、幼児が間違える程度になら似ていなくもナイ。

2010年7月 7日 (水)

おコトバではありますが・捕捉

付け加えておくならば、シリーズを始めるとき、私には、幾つかの不満があった。まず、ソシュールのいうラングというのは、そんなに悪いものなのか、逆にパロールというのは、そんなにいいものなのか、という素人考えと、同じように、形而上的なものがアカンのなら、戯曲みたいなもん書けへんでという、こちらは嘲笑に似たものだ。私の『寿歌』は、かなり評価を得た反面、毀誉褒貶でか、いわゆるリアリズム志向の劇作家、演劇関係者連中からは、酷評されたようだ。(詳しいことは知らん)。そこで、私は「演劇におけるリアリズム」という自分の考え方を示してみるしかなかった。さて、それが理解されたかどうかも、知らん。・・・ジャック・デリダ(バウアーではナイ)の「脱構築」という考え方は、オモシロイなと思った。しかし、この考えは、ハンカチョーでいうと、ヘーゲルが述べたカントの[仮象]概念と、それほどの差異はナイのではないか。また、フッサールの[還元]とも似たりよったりではないか。・・・私の作品に『血と青空』というのがあるが、このタイトルを聴音像として認識する場合、おそらくさまざまな「像」が生ずるはずだ。「血」「と」「青空」の聴音の意味になんの変化がなくとも、「像」が変化するのはどうしてなのか。この戯曲は、人々の新型ウイルスとの闘いを描いているものだが、タイトルから与えられる像解釈では、アクション劇とも、戦争劇とも、ミステリとも、家族系統の劇とも受け取ることが可能だ。私は、劇団を終えてから後に、『ヴァイアス~愛するものもまた死す』というミステリ劇を書いて、上演(avecビーズ)したが、これをミステリだと思ったひとは殆どいなかったようだ。何が弊害をもたらしているのかは知らないが(ほんとは知っているんだけど)、こと、演劇というのは、文学(小説・et cetera)などに比して、かなり遅れた文化だ。けったいな海外の学説がまかり通っているし、インテリの玩具になっているし、庶民大衆のレクレーションになっているし、世間知らずの演出家と、演技知らずの役者と、作文しか書けない(自称)劇作家が、大きな顔をして闊歩している領域だ。そこへまた、贔屓の観客が、ワッと集まって、およそ2年ももたずに去っていく。労働と、労働力のわからぬ拝金主義者が、ワケのワカランもんをやってもらうより、有効利用して、ショッピングモールをつくったほうがいいなどと、古今、哲学者を一人も輩出したことがナイという街で気勢をあげる。さて、私の次なる仕事は、かくなる拝金主義者どもに、可能性の鉄槌をくらわす「演劇は形而上的でいいじゃないか」というコトバの実践だ。てなことで、明日からまた、旅寝の空で(そういうふうにして、オツムを休息させている)しばし、ここも、開店休業となる。