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カテゴリー「表現とコトバ」の記事

2025年5月24日 (土)

À bout de souffle-10

ああそうか。ソシュールさん、ウィトくんの言語学(「言語ゲーム論」)は言語の〈表現解〉ではナイと。
主筆「だって、数学は表現ではナイでしょ。言語を数学的に捉えていけば、事象のみ、意味のみの表象になりますから、感性は抜け落ちて現象を表出することは出来なくなります。そういった言語も必要ではあります。しかし、言語全般をそうだというのは「鯛焼き」を造っているのと同じです。型にハメて焼いているだけ。「鯛焼き」は相対的価値もありますし、等価価値にもなります。しかし、〈表現〉としての価値はどうでしょう。餡子をさまざまに変えることですかネ。
ところで「ハナモゲラ」より以前に遡って、私たちはその相似、類似をみつけることが出来ます。たとえば、少年少女向け活劇『七色仮面』の主題歌です。このドラマは少年少女向け活劇なのですが、他の少年少女向け活劇と一線を画すところがあります。ほぼ全編に少年少女の登場人物が殆ど無いことです。主役も少年少女ではありません。第一部『コブラ仮面』は原作者(川内康範)が自ら脚本を担当していますが、第二部『キングローズ』は結城三郎で、そのうち一話には「三つ数えろ」というサブタイトルがあり、このドラマが大人向けハードボイルド路線を狙っていたと予想されます(とはいえ、七色仮面の能力として、瞬間移動が特撮として取り入れられており、まるっと超能力者としても描かれています)。それはいいとして、主題歌ですが、その中につぎのような歌詞があります。/デンデントロリコ やっけろ/です。「この世にあだなす(仇成す)ものたちを」やっつけるのですが、果たして/デンデン トロリコ/とはどういうやっつけ方でしょう。ワカランけれど、そういうやっつけ方なのです。その方法は本編にも出てくるワケがアリマセン。これはもう、音か擬態語です。言語以前です。というか、言語発生以前の言語素です。私たち子供はともかくその歌詞の意味などどうでもよく、その音(擬態語)に〈共鳴〉してこの主題歌を歌っていたワケです。/デンデン トロリコ/からは、仇成す悪人が/デンデン トロリコ/とやっつけられる様子が想像できます(いまの世の中、そういうことが想像出来ない、の、がいっぱいいますが)。
いま少しよく似ている例は、植木等さんの一連の青島ソングでしょう。ηスーイスーイスイダララッタ スラスラスイスイスイ スイノスイダララッタ スラスラスイスイスイ、と、なんですかね、これ。ゴリガーン ゴリガーン ゴリガン野郎っお、と、どんな野郎なのか想像つくところが恐ろしい。これなんかウィトくんなんかに読ませたら(聴かせたら)「こんなものはコトバではなく掛け声にしか過ぎない」と一蹴されるでしょう。しかし、掛け声を言語の領域で括らなければ、日本民謡は軒並みアウトです。ヤーレンソーラン(ソーラン節)から、ヨイトヨイヤマッカ ドッコイサノセ(江州音頭)。そういえば今は亡き森山加代子さんの『ジンジロゲ』という歌もありました。あれなんか小学生の頃、登下校の道筋でみんなで歌って大笑いしてましたが、何がオモシロカッタのかな。
ともかくこれらは「ハナモゲラ」の素です。/はなもげら おおそれたかみ さんびなす/
付句/ヤメよろこがす したらめったり/ で、つづく

2025年5月19日 (月)

À bout de souffle-9

駄筆「そのintelligentsiyaを主筆は鼻で笑うのですね。
主筆「いえいえ、そんな失礼なことはしません。どうせなら腹で笑います。合衆国の大衆もインテリの/上から目線/過剰意識(心気症)に卑屈になってトランプ劇場のチケット買うくらいなら、憚ることなくテキサス・カットのステーキ食ってビール飲んで、腹で笑っていれば良かったのです。コーフンしてマガ、マガなんて投票なんかするから、コーフンした結果にしかならないのです。
なるほど、えーと、ここら辺りでタモリさんの『ハナモゲラ語』にもどらないと。
さて、『ハナモゲラ語』の基本は「ハナモゲラ」だ。では、「ハナモゲラ」とはいったい「何」か。主筆は「あれは、〈ノッケクオリア〉だなあ」という。クオリアとは認知哲学(科学)によれば、先述のフッサールの現象学的考察に近い。また、哲学の永い問題提起であります。カントさんにせよ、ニーチェせんせにせよ、「神にしか認識出来ない=客観」の/モノ/という/モノ/が存在しました。ニーチェせんせは/モノ/の認識を「それぞれのヒトのそれぞれの解釈」にしました。では「ハナモゲラ」は、といえば、「それぞれのヒトのひらめき」ということが出来ます。イメージというものでもナイ。解釈された事物でもナイ。いわば/一瞬のヒッティング/です。まさにinspiration。エジソンは「天才とは、99%の努力と1%のインスピレーションだ」といっています。(もっとも、これは99%の努力のタイセツさを述べたものという解釈もされていますが)同時代人で交流電気の発明者ニコラ・テスラは「天才とは、99%の努力を無駄にする、1%のひらめきのことである」とエジソンを揶揄しています。さしずめ主筆ならどっちがお気に入りですか。
主筆「1%のひらめきも無駄にしない99%の努力。努力というより好奇心に近いですネ。とはいえ、〈ひらめき〉というものも無意識領域の発想に入る気がしますが。
だ、そうです。タモリさんも遊び仲間から仲間外れにされて、ネグレクトの状態になったときなんかは、ずっと坂道に座って、その坂を昇り降りするヒトを日(ひ)がな、眺めていたそうです。この観察力がのちに森田一義をタモリにするのです。劇作家の岸田國士老師も「タイセツなのは想像力よりも観察力だよ」と述べていらっしゃいます。
では、その即自的な「ひらめき」が他人にどうやって通じるのか。と問題はそこにいくのですが、これはうんと頭のいいヒトのヒントをお借りしましょう。養老センセは「理解というのは共鳴なんだ」とズバリおっしゃっています。どうも養老センセのコトバはどれをとっても宝蔵院流の槍術のようで、避けきれずに一突きされる。もっとも宝蔵院流槍術は突くだけではアリマセン。斬ることも出来る、いわゆる十文字槍ですが。で、主筆も一突きされて、「うーん、なるほど」になります。
片方が「ハナモゲラ~~~」と云う。語る。音を出す。響かせる。たとえばうんと時代を遡ってHomo sapiens穴居時代。氷河期の真っ只中の洞穴生活。外は吹雪いている日が多い。いまでいうインドアな生活が多くなる。周りは洞窟。入り口や、天井の穴から風が入ってくる。洞穴を通り抜けていく。その音を、ヒトは聞く、聴く。そこでまず先史人類は外の自然と風の吹き抜ける音を聴いて〈共鳴〉する。風の音を真似る。声を出す。言語はまだ無い。喉は鳴る。唇も鳴る。「イヒュー、ウウウウー、ビイウー」。つぎに風の音ではナイ音を風のように出してみる「アアアッアー、ガガカガガアアア~~~、オオオオオオウウウウウッ」それを聴いていた近くのヒト、遠くのヒトがそれを真似る。「アアアッアー、ガガカガガアアア~~~、オオオオオオウウウウウッ、クックックックウウウウウウ~」ここに感情が乗っかってくる。悲しいとき「ルルルルルルオウオウオウっ」楽しいとき「ハハハハハハハイエイエイエオオオ」。さらに、喜怒哀楽の感情を抜きにしても、その記憶で声音を出すことを覚える。これが音楽の始まり、演劇の始まり。
主筆「そうなんです。それがウィトくん言語学には無いんです。ソシュールにも無い。しかし、ウィト言語学やソシュール言語学が無くても演劇は成立します。演技を創ることは出来ます。全編、お芝居は共鳴だけの音声でも成立するのです。これが、/〈文法・ルール・論理〉がナイ、のに通じる/という命題のいわば「解」です。そうしてこの言語形態は「表現価値形態」といえます。~で、つづく

2025年5月17日 (土)

À bout de souffle-8

駄筆「ウィトゲンシュタインは多くの友人知己をして『論考』が理解されなかったことを嘆いていますが、それについてはどうなのでしょう。
主筆「コトバというのは、自分がワカッテいればイイんじゃないかにゃ。自分にもワカッテいないことを語るヒト、多いから、それはダメよ。特に政治屋とか一夜漬けのコメンテーターに。
駄筆「主筆が書かれる戯曲は「ワカラナイ」とよく云われるそうですが。
主筆「それはネ、演じる役者の守備範囲においてです。狭いヒト多いから。それとね、宮崎駿ショー(アニメ)は、ワカッテいる顔するヒト多いのよ。アニメはいいよね。歌舞伎と一緒でワカラナクとも観ていられるから。ジャズだってそうじゃナイの。理屈でワカッテ聴くものじゃナイけど、不思議とワカッテ聴いているんだから。「マイルス・デイビスのペットは悲しい」って、AIは表記することが出来ても理解しているワケじゃナイし、表現ではナイでしょ。宮崎さんは彼の無意識の表現だから、解釈、分析が本格的というか本気で取り組むとオモシロイけど難しいのだけどね。まんま溶け込んで融和して観ていると気分はイイかもね。
ウィトゲンシュタインくんは、感触だけでいうと、言語をクラッシックのスコアのように数式化出来るとおもったんだろうな。クラッシックのスコアだって、そのままオーケストラが演奏して管弦楽が成立するなら指揮者は不要ですよ。演劇でいうなら演出というのは、役者の動きをコントロールするヒトじゃアリマセン。「あなたはこう動け」などという演出はちょっとどうかナ。たとえば、このあいだの私どもの舞台では、出演者が揃って荒野に咲く「花」を観るのだけど、「花を観る視線は何処に合わせればイイですか」という質問に「自分がみえたところでイイよ」にしたけど、イイカゲンでしょう。でも、それがオモシロイのです。役者の意思 (こいつも無意識領域)というのはバカになりません。指揮者も演奏する連中に云うのよ「吹雪だっ、風雪だ。その中で凍えながらも必死で演奏しているのだ」「今日最愛のヒトを失くしたのだ」とおもって下さいとかね。これで楽団、演奏者の気持ちというか立ち位置がハッキリします。演劇なら心情のsituationが。
駄筆「ウィトくんはそれが望みというか、そういうことに至る共通規範を言語に与えたかったのじゃナイでしょうか。
主筆「それは言語学者や哲学者の夢、望みじゃナイでしょ。むしろ科学者のソレでしょ。言語をクオリアから解き放つというか。コトバのコンテクスト(文脈、背景、状況、意味)の統一というか。そういうのは演劇でも平田オリザ王子が試みたようです。つまり「机」といえば、その演目の全ての出演者が同じ「机」をイメージするという仕掛けです。そうなると演出もやりやすい。けど、それはコトバを換えれば〈独裁下〉とか〈専制下〉と同じです。『言語ゲーム』もゲームである限り、そういうルールから始まります。
/哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは考えたのである。(ウイキより)/
これも、数学者らしいかんがえです。哲学者の仕事がそういうものだとは私も識らなかったナ。そういう仕事だったにせよ、哲学者たちが「言語の使い方を誤っていたために生じた」のが哲学の客観の問題なのではアリマセン。哲学は論理的統一ではアリマセン。コトバの使い方をマチガッタので、問題が生じたワケでもナイ。ものごとの意味を統一すること、「机」のイメージを揃えりゃイイってものじゃナイのです。方法的独我論ならフッサールが現象学で提唱しましたが、それはあくまで方法的なものです。整数論が詩的なのと同じ。哲学は感性を論理化しますが、まず論理対象を感性で捉えられなければ、その哲学者はアカンです。「古池やかわず飛び込む水の音」を英訳するとThe sound of an old pond and a frog jumping into the water.になります。これを小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、Old pond―frogs jumped in―sound of water.としました。どっちが正しいかと、議論することに意義がありますかね。前者はウィトくんいうところの「事象」です。後者は「現象」です。「事象」即ち象(しょう)に事(こと)は、表現は入り込みません。「現象」は象を現すのだから表現のことです。世界というものを科学的に捉えるには「事象」の命題で、ということが、『論考』なのでしょうが、「科学的」というコトバ(副詞)自体がすでに表現です。ウィトくんのような作業はいうなれば「メタ哲学」、哲学を哲学(あるいは言語学)しちゃうのですが、この仕事、作業はすでにカントさんが気付いて『純粋理性批判』でヤってらっしゃる、とおもいます。カントさんの場合は/何が哲学するのに値するか/ですけど。じゃあ、こうもいえる。何が演劇の言語に値するのか。各自のイメージの統一でしょうか。まったくそうはおもわない。都はるみさんは、自分の持ち歌の中の歌詞の〈波止場〉を外国、シカゴの港か何処かをイメージして歌っていらしたそうですけど、それでも、ちゃんと演歌になっています。この記号設置のケッタイな面白さ。
駄筆「なるほど、主筆のいうところの/ウィトゲンシュタインの言語論は演劇では役に立たない/という主旨がなんとなくワカッテきました。しかし、そんなことを一介の劇作家が軽く述べて、大丈夫ですかね。
主筆「intelligentsiyaには鼻で笑われるでしょうね。
~なことで、つづく

2025年5月15日 (木)

À bout de souffle-7

ウィトゲンシュタインくんの場合、このヒトは数学に長けていた(バートランド・ラッセルから天才といわれた)ので、言語においても、どうしても数学的先験先行紋切り型になってきます(ラッセルを継ぐ記号論理、記号言語のpioneerですかね)。『論考』と「言語ゲーム」に関する著書は読みました(難しいのか文章が下手なのかが判別しにくいのと、解説、評論書の類も同様のことがいえる)。彼は、ハイデガーと並んで二十世紀最大の哲学者なんて称されて、荷が重かったのか、ちょっと背負っちゃったのか、生き方(生活の仕方)が下手だったのか、小学生の女の子にバカにされて、少々同情はしますが、どうして数学で有名なヒトは思考が窮屈になってしまうのか、そうですね、数の学ですからねえ(偏見ですが)。ましてさらに哲学ですから(さらに独断)、似たような感触で、彼の支持者のintelligentsiya諸氏が彼のことをかなり評価するというか、「イカれて」しまうのはワカリマス(矜持の問題か-おらぁ、ウィトゲンシュタイン理解しとるんよ-というふう)。何となく印象としては孅(かよわ)きランボーってとこでしょうか。「孅」という漢字は、主に「細くて、弱々しい」という意味で使われます。ランボーというのは、あの戦争アクション映画のヒーローではありません。/世間知らず/で片づければそれまでなんですが、で、主筆、どうなのですか。
主筆「とりあえず、彼が述べている/難しいこと/を羅列して検討していきますかネ。
1「世界は起こっている事の総体である」
これ、かなり大雑把だけど、「と、かんがえているヒトの脳に起こっているモノである」と付けましょうか。大雑把だという理由はですね、「総体」という捉え方にあるのですが、「世界では起こっていることの一部も世界である」ともいえるのです。また、「世界は起こっていることの一部と一部の関係である」とも。さらに「起こっていないことも世界である」ともいえるというのが私のかんがえです。さて、つぎ、
2「起こっている事、すなわち事象とは、諸事態の存立のことである」
「在立(ざいりゅう)」には、二つの意味があって「立ち続ける」と「生存する、存在すること」という意味です。どっちでもイイのだけど。ここで留意すべきは「事象」のほうです。事象は「現象」とはチガウということです。具体的文脈でいえば、朝のラジオの天気概況などを「事象」で述べれば「本日は晴天です」で「現象」で現せば「本日は気持ちのよいスッキリとした青空が広がっています」なんです。つぎに、
3「事象の論理像が思想(思考対象)である」
ということで、「事象」の何であるかを述べてはいるのですが、「事象の論理像」というのはイメージ化(象)された論理が「事象」であって、それを対象にするのが「思想」なんだ、ということですが、「事」の「論理」は「思想」で「思考対像」である。になり、クルっとまわって、それが「事」だ。にもどってきます。つまりこれをウィトくんお得意の記号で現すならA=A=A=A=Aになります。観てのとおりマチガイではアリマセン。スッキリしています。が、何もいっていないのと同じです。ひとつ私にいえるのは、思想が「現象」に立ち入ると、あるいは思想に「現象」が立ち入ると「感性」を伴う、とかんがえています、ですね。
4「思想は有意義な命題である」
これなどは、思想は命題を「意義ある」と「意義無い」に振り分ける。と、述べたほうが真っ当だとおもうのですが、ウィトくんは排中律のヒトなのでしょう。つぎの命題5は記号式が登場するのですが、それはルール違反ギリギリというか、つまり、あたかも記号も言語である、言語は記号である、という証明をやっているような言語学なのに、その証明に記号を含ませるという、私にはそういうウィトくんの勝手がすんなり了解出来ません。括弧閉じ、なのかな。中国語はワカラナイのですが、と「断っている」のに中国語で応えられているような感触ネ。すっ飛ばします。(もちろん、私(主筆)は、記号は記号であり言語は言語であるとおもっています)。
6「命題は諸要素命題の真理関数である」
真理関数とは、命題の「集合」のひとつなのですが(と、こう書くと如何にも数学に達者という感じがするでしょ。コピペなんだけど)。高校生の頃からいつもここで躓きますね。この集合では命題に含まれるコトバ(言語)がいつも一定の意味を最初(ハナっ)から付与されているからです。たとえば、女性が男性に「あんたなんかきらいよ」という、この「きらい」は演歌などでは、「好き」の変化球になります。「きらいさ、きらいさ、男なんて大っきらいさ」という歌詞に唄われている「きらい」は、ほんとうには「嫌い」ではナイんだなあ。ウィトゲンシュタインが小学生の女の子に簡単に騙されたのも理解出来るナア。「女のいやはイヤではナイ」という短い名言もありますから。つまり言語には/語られたどおりではナイ/コトバ、読み方、認識も多くあるということですけどネ。京女のコトバなんかはその典型。
6「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
「語りえない」ことについて語ろうとして演劇の「科白」は生まれたという立場ですから、私などはネ。言語限界を世界限界としたウィトくんのスタイルはかっこイイのですが、コトバはそんなにカッコいいものでもナイです。/しどろもどろ/もありますから。言語には限界というより「制限」というほうがよく似合う。~でと、つづくのだ

2025年5月12日 (月)

À bout de souffle-6

「表現価値形態」として、避けて通れないのがタモリさんの「ハナモゲラ語」です。「ハナモゲラ語」の特徴は〈文法・ルール・論理〉がナイということです。しかし、ここは重要なことなのですが/通じないと駄目/というところです。その辺りで、主筆の提唱している「氷河穴居期言語発生説」と似ているところがあります。そこんところを、並行、交差させながらかんがえていきます。
〈文法・ルール・論理〉がナイ、のに/通じないと駄目/、とはどういうことなのでしょう。
この「〈文法・ルール・論理〉がナイ、のに/通じないと駄目/、とはどういうことなのでしょう」という文章(文脈)自体もヘンな感じです。何がヘンなのか、まず主格(主語)がナイので、ワカリニクイということなのですが、主語(主格)をつけると、こうなります。「ハナモゲラ語」は〈文法・ルール・論理〉がナイ、のに/通じないと駄目/」、こうするとかなりワカリヤスクはなります。タモリさんはソシュール言語学を〈なんだかアヤシイ〉と感じていたと、とある文献(『タモリ学』戸部田 誠、文庫ぎんが堂)にはありますが、ともかくも早稲田でジャズ研に所属ですから、流行りの言語学に触れることはあったでしょう。言語や音楽には普通のヒト以上に興味と好奇心を持っていらしたのですから、そういう情況は当然です。ソシュールがヘンならウィトゲンシュタインも大いにヘンだと思われたでしょう。双方の類似点を挙げていくことは面倒ですので、ひとかたまりに、どちらも「発語」されたコトバの構造に関する仮説だということは同じだ、とここではいっておきます。何故、仮説なのかというと、主筆の思考領域では、「説」というものは『エネルギーの保存則』以外は全て「仮説」ということになっているからです。仮説がアカンということではアリマセン。仮説で充分なのです。そのほうが気楽でイイ。頑迷に自説にしがみつくのは骨が折れる。ふーん、なるほどそういう「説」もあるのか、くらいで丁度イイのです。
主体をハッキリさせるという意図で/発話が言語/が主幹というソシュール言語学の王様マークに主筆は疑問を持っていました。と同時によく耳にする「差異」「一体一対応」にも。まずソシュール言語学って何よ、を/AIに訊ねて/みます。
「ソシュールは、言語を「構造」で捉え、言語は単に言葉の羅列ではなく、相互に意味を区別し合うシステムであると考えました。つまり、言語は「差異(区別)の体系」であるというのです。また、言語は「ラング」(言語体系)と「パロール」(発話)の2つに分けられるとしました」これがAI(グーグル提供)の答です。いやあ、AIって便利だなあとおもいます。とはいえ、ある程度の知識がナイと「なんのこっちゃ」になります。主筆は「懐かしいなあ。こういうの三十年以上前にヤったなあ」と相好(そうごう・顔つきのこと)を崩します。「なんのこっちゃ」の方にもワカル(らしい)解説もあったので、そっちのほうも記しておきましょう。
/ざっくり、ソシュールのどこがすごいのかというと、「言語で世界ができている」ということを見事に説明したからです。私たちは、普通、目の前にまず物理的対象が実在的に存在し、それに言葉のラベルを貼り付けていると考えています。たとえば、「猫」という実体が先に外界に実在していて、それに「ネコ」という言語のラベルを貼り付けたのだと考えます。しかし、この世の動物がすべて猫だったら、わざわざ「猫」と言わなくてもいいでしょう。犬がいるから猫がいるという感じで、あらゆる語は他の語との「差異」によって規定されていると考えられるのです。先に世界が区切られているのではなく、言語で世界を区切っている。たとえば、ゴミを可燃物や不燃物に分別するようなもので、言語が世界の分別をしているのです。では、言語と物はどのように結びついているのか。ソシュールは、言語には、シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)があるとしました。それは、コインの裏表のように一体化しています。シニフィアンは音声の聴覚的な映像によって形成され、シニフィエは言語記号がその内部に持つ概念(意味)として形成されます。シニフィアン(記号表現)は、「猫」という文字や、「neko」という音声です。シニフィエ(記号内容)は猫のイメージや、猫というその意味内容です。これらをあわせて「シーニュ」(記号)と呼びます/。
/おお、お見事だ/。というか喝采する方々が多かったのでしょうね。しかし、主筆のようなへそ曲がりはそうはいきません。
駄筆「これ、ダメなんですか。
主筆「オカシイと、おもいませんかんヤマト。
駄筆「何処がでスカンジナビア。
主筆「幾つかあるのですが、まず、この論理でいくと、猫より先に「猫」というコトバの存在が必要なのじゃナイでしょうか。アタリマエのことですけど。ソシュールさんは、このアタリマエのことにどうカタをつけたのか。たとえばですね、猫は洋の東西を問わず鳴き声は「ニャー」とか「ミュー」とかでしょ。鶏だと「コケコッコー」は日本で亜米利加では「クックドウドウドウ」というそうですが、何故「ネコ」「cat」なんですかね。鶏は英語では「hen」と「chicken」でしょ。たしかにソシュールさんのいうとおりに猫と鶏は「cat」と「chicken」によって「差異化」はされます。しかし、誰がそれを最初に「ヤった」のかです。シニフィアンは/音声の聴覚的な映像によって形成される/とのことですが、猫「cat」の、どの部分が音声として聴覚的に映像化されるのでしょうか。鶏のどの部分が同様に「chicken」で聴覚映像として鶏になるのでしょうか。この辺りが私には全くワカラナカッタです。もっとケチをつけてみましょうか。猫が歩いてきて目の前を横切った。初めてその動物を観たひとが、その動物の像を観て「おお、キャットだな」この映像感覚は、何処から表出されたのでしょうかということです。むしろ、「ニャー」「ミュー」と鳴いたなら、その傾向をアテる音声にならねばなりません。そうすると、今度は世界的に「ニャー」や「ミュー」が共通規範として含まれて然るべきでしょ。しかし、それぞれの国で猫の銘々は、ぜえ~んぜんチガイます。「neko」「cat」です。これなら有名な逸話であるカンガルーの語源の誤解。/クック船長がオーストラリアを訪れた際に、先住民に動物の名前を聞いたとき、「カンガルー」と答えたことが、この名前を広めたとされている。「カンガルー」という言葉が「あなたの言っていることがわからない」という意味だと誤解されていたという逸話があり、これは伝説であり、実際には先住民の動物の名前として使われていたとされている/。のオハナシのほうがオモシロイ。~でと、つづく

2025年5月 9日 (金)

À bout de souffle-5

ここに/指輪=表現主体/と/所有者=(指輪の関係者、了解者)/がある。と、このような並べ方が出来ます。指輪=指輪の所有者です。この場合の=は、右辺と左辺の関係の何かが等しいということを示してはいるのですが、それを「両者の関係の強さ・引き合う強さ(引力)」ということにしてみます。所有者にとって、その指輪は「母の形見」かも知れません。たとえ夜店で売られている廉価なものだとはいえ、初恋の相手からプレゼントされたものかも知れません。それはいうなれば両者の関係の強さ、力、が〈価値〉であるということです。この価値形態こそが「表現」です。この指輪にある価値は「固有性」ですし、その価値は「固有値」ということが出来ます。従ってdiamondの指輪と等式では並べることは出来ません。あえて並べれば/diamondの指輪 <「固有値」のある指輪/になります。(もっともそうとは限らず両辺の関係としての記号は≠、≧、≦、であるかも知れませんが)
では、この固有の指輪に交換価値は無いのでしょうか。そんなことはありません。もしこの固有の指輪を「紙幣」や「数字」と交換するとすれば、〈rate・レート、〉いわゆる「評価」「評価価値」が問題にされます。固有のものを評価して、普遍的な価値を一時的に持たせるのです。
生前、ゴッホの絵画は一枚しか売れませんでした。ムンクの絵画はかなりのあいだ、美術館の中でも倉庫でもなく、軒下に雨ざらし同然だったことも逸話にはあります。けれどもいまではどちらとも、億単位です。評価が変わったのです。このような価値は別名として「投資価値」ともいえます。将来、価格上昇のものに投資する。これも一種の交換価値の方法です。そこには「投資家」の〈読み〉があります。現在のセメント産業などはその主なものですが、ここではそういう物質以外の「表現価値」を形態として扱います。
芸術、芸能も表現分野ですから、その「価値」に相当します。「母の形見」という固有のものはともかく、芸能ということでかんがえれば古典芸能は価値の下落はさほど無いものに分類されます。ですから封建的ともいわれそうですが、『風姿花伝』などは一子相伝の技術論的価値でもあります。実際、「銭には換えられない」といわれるようなものが、古典芸能に多いのは事実です。しかし、「売り物・買い物」である以上は、価値形態にチガイはアリマセン。では、そのような古典芸能が現代まで生き延びてきた理由は何でしょう。ひとつには「庇護」でしょう。これは現在でもそうでしょう。人間国宝といわれる無形文化財に選出されるのは圧倒的に古典芸能です。たとえば「能・狂言」はいまから四百年前の表現を再現します。ヒト、演者、だけではなく、装束も四百年前のものです。その「技」の多くは「形・(型)」ですから伝承しやすいことが現存している理由です。この「形」の表出を「形象表出」と主筆は呼称しています。これに対して演者の気持ちの現し方を「心象表出」と称します。この二つは別個に存在するものではなく、いわば状態ベクトルとして、重なり合っているとかんがえるとワカリヤスイのです。状態ベクトルの利点として、これらの表出は〈物象化〉に囚われることが少ないのです。表出のどちらかに重きをおくのは一種のバランスとしてはアリとしても、どちらかだけを一方的に重要視することは〈物象化〉になります。この最たるものは、スタニスラフスキー・システムにみられます。スタ・システムの欠点のひとつは弁証法の誤読、誤解だといえるでしょう。これはソ連社会主義芸術論の優越的論理の失敗です。レーニン、スターリンは云うに及ばず、マルクスの『芸術論』ですら、首を傾げるものでした。
とはいえ主筆にはクラッシック・バレエの歴史的遺産については、未だにワカラナイことが多いようです。あきらかにクラッシック・バレエの技術は本質的なものです。あらゆる舞踏の土台となるもので、それは「固有値」です。コンテンポラリーにせよ、暗黒舞踏にせよ、その基本(土台)はクラッシック・バレエです。ですからクラッシック・バレエの固有値としての歴史は源流を辿って研究されているはずなのですが、主筆は残念なことに、未だに出くわしてはいません。基本のバターンを幾つか教えてもらったことがあって、その経験で「こいつはスゲエ」と感じ入ってはいるのですがネ。~とりあえず、つづく

2025年5月 5日 (月)

À bout de souffle-4

ところで「この箒ははるか昔、鎌倉、室町時代の寺院で用いられた由緒あるものです」に対して量産された家電の電気掃除機は「商品価値」として、太刀打ち出来ません。もはや古くて掃除道具としては使用出来ない「箒」に電気掃除機は負けたワケです。これは「使用価値」が「交換価値」にはならないという証左だといえます。(このあたりは「表現価値形態」に近い部分です)。
『資本論』の「価値形態」については、もう一つ重要な約束事があります。『資本論』の中の有名な等式を使ってみましょう。
20エレのリンネル=一着の上着⇒(20エレのリンネルは一着の上着に値する)ですが、この「一着の上着」についての具体性は比較の上で何も解釈がありません。つまり、そういうことに拘らなくてもイイということです。ではマルクス『資本論』はこの等式で何を示したいのかというと、商品を比較する場合に右辺と左辺が何であるか(どういう形態なのか)と、それがいえればいいワケです。リンネルの価値は他の交換価値(商品)との比較においてしか示せないということを、この等式は物語っています。コトバを換えると、20エレのリンネルは一着の上着という交換価値(商品)で「相対的に示されている」のです。これを「相対的価値形態」とマルクスは名付けました。では、一着の上着とは何でしょう。一着の上着とは20エレのリンネルと等しい価値を持つものだ、ということで「等価(価値)形態」にあるとしたワケです。さて、重要なのは次の定義にあります⇒/一着の上着は20エレのリンネルの「等価形態」にあるのだが、これを同時に「相対的価値形態」として両辺に置くことは出来ない/のです。右辺と左辺を置き換えることは出来ます。そのときは、各々の「相対的価値形態」も「等価形態」に入れ代わります。つまりリンネルにせよ一着の上着にせよ、同時に同じ価値形態として両辺に存在させることは出来ないのです。これは、数学的に等式のルールとしても定義されています。/等号は、左辺の記号(商品)を右辺(の商品)で定義するために使うことが出来る/です。右辺と左辺を同時に、つまり同じものを置いてみるのは/比較していることにはならない/ワケです。「一着の上着」=「一着の上着」では各々の「相対的価値形態」と「等価形態」の入れ代わりがナイということで、商品価値の比較にならないということです。けれども-
けれども、「一着の革の上着」と「一着の麻の上着」であれば、同じ一着であっても、チガイは明らかです。もちろん、どちらかが「相対的価値形態」であり「等価形態」だと振り分けられますが。この形態は比較するのに「相対的」でもなく「等価」でもない何かです。極端にいえば「絶対的」ですし、「不等化」です。この「絶対的」と「不等化」をもっとワカリヤスク比較してみましょう。
一個の指輪があります。残念ながらダイアモンドではなくクリスタルです。もう一個指輪があります。こちらは1カラットのdiamondです。さて、価値はどちらが高いでしょう。単純に比較すれば、クリスタルよりdiamondの指輪のほうが商品としての価格は上でしょう。ところが、ここに〈表現主体〉というものを関係させてみるのです。(表現主体はあくまで指輪です。ここは慎重に脳に刻んでおかねばなりません)。何と関係させるのかというと、/指輪と指輪の所有者/です。所有者と指輪にはどんな関係があるのか。このあたりから「表現価値形態」へと論理は入り込んでいきます。~とりあえず、つづく

2025年5月 2日 (金)

À bout de souffle-3

表現の加速度は、マルクス経済学の定式による「表現=疎外」から、表現を救出するために主筆(北村想)が創りだした方程式です。これは、いわば『資本論』の価値形態論からのスピン-オフです。(相対的価値形態と等価形態を(=)で結ぶアレね)。この価値形態から、マルクスは「貨幣」を導き出しました。というよりも「貨幣」を導き出すための段取りのようなものですから、マルクスのそれまでの著作で触れられていた〈表現〉は捨象されています。主筆はそこで、〈表現〉というものの「価値」を導き出せるのではないかとかんがえたのです。具体的には右辺でも左辺でもよろしい。「表現価値形態」という価値を並べて商品との価値の比較を試みたワケです。
等式の(=)記号にはいく通りもの意味があるのですが、主筆自身はこの数式の基本的な約束事をマルクスは簡単に(方法論的に)throughしてしまったために、といいますか特に拘らずに(重んずることを必要とせず)貨幣を導くために用いたために、貨幣そのものが〈幻想〉の領域に入り込んだとかんがえています。簡単にいえば「なんとなく」になってしまったというワケです。マルクスの唯物論弁証法はヘーゲルの観念論弁証法を唯物論的に批判しながらのものですから、〈幻想〉や「なんとなく」などは思いの外だったのでしょう。
貨幣はいまのところ主に紙幣です。さらにいうなら昨今は単なる数字でもあります。この数字には「変動」があります。江戸時代の小判ではありません(こやつも価値変動はありましたけど)。単なる「紙」「数字」ですが、けれどもこれには〈なんとなく価値がある〉という幻想領域が、実利領域以外に属しています。単なる「紙」「数字」に価値があるとは常識的に認められることではアリマセン。けれどもこの単なる「紙」「数字」は物質や時間と「交換」することが出来ます。交換出来る以上は価値ではあるのです。千円札という印刷物(紙)は、千円分の食品や交通費や労働時間と交換出来ます。それは何故でしょうか。ナニがその価値を保証しているのでしょうか。仮にそれがひとつのシステムというものであったとしても、そのシステムを信じ込んでいるのは〈なんとなく幻想〉でしかアリマセン。ですが、これ以上の経済学的論理展開は主筆には難しかった(面倒くさかった)ようです。その代わりに「表現価値形態」を発想しました。では、「表現価値形態」とはなにかですが-
まず、『資本論』の価値形態論の「等号」からかんがえていきましょう。ふつう、私たちの理解する「等号」は「左辺と右辺が等しいことを表す記号」になっています。たとえば次のようなものです。/精米5㎏=62ギガのUSB/これは何をいっているのかコトバを換えていうと「左辺のものは右辺のものと〈交換〉が出来る」ということです。価値が等しいのですから、そうなります。つまり、「交換価値が同じ」だということです。(ここで、経済学者ですらよく間違えます。使用価値と交換価値は同じだという錯誤、錯覚、勘違い、使用価値が高ければ交換価値も上がるはずだ、です)。たとえば「箒」と「電気掃除機」では、使用価値はまったくチガイマス。誰も箒と電気掃除機を同等に交換出来るとはおもいません。すると、経済学の大学教授でさえが述べる「使用価値が高いのだから交換価値も上がる」は正解のようにおもえます。これは精米5㎏と使用価値が62ギガのUSBと同じなので、「交換価値」も同じだということになります。では何故マルクスはここで(=)の左辺と右辺のものを「使用価値が同じ」としないで、わざわざ「交換価値が同じ」と定義したのでしょう。この場合の(=)は、左辺と右辺の/何が同じ/なのでしょう。簡単にいえば「商品としての価値が同じ」と考えられます。これを「商品価値が同じ」とします。ではこの「商品価値」はどこで決まるのか。経済学的には5㎏の精米を造った労力と62ギガのUSBを造った労力が同じということなのですが、「米を造るには1年もかかるべ」と「62ギガのUSBを開発するのに何年かかったとおもうのだ」という交換する両者(この/両者の/という主体がほんとうはタイセツですが)の言い分があるでしょう。そういう両者の仲立ちに便利なものが「銭」なのです。「貨幣」「紙幣」なのです。つまり「交換価値」を〈物象化〉したものが「銭」なのです。机上に並べられる〈モノ〉が「銭」です。「銭」は交換両者(主体)にとって、同等の価値があります。「銭」は交換する両者の労力や〈交換物=商品〉の使用価値がどうであれ、交換価値が同じであれば、同額(同価格)で交換できます。~とりあえず、つづく

2023年7月 4日 (火)

時世録・23

生成AI(人工知能)「ChatGPT」はまだテキ屋の商品の段階だとおもいます。この程度のものを「技術の成果だ」「科学の進歩だ」などと、啖呵きって世間に出して、私は科学者というものはもう少し恥を知っている人種だとおもっていましたが、それをまったく裏切るにはなかなかのシロモノです。
ちょっと他の科学、私たちの身近な医学と比較してみましょう。薬品が薬品として流通を認められるまでの過程です。ふつう研究所での完成から市販までかなり急いで10年かかります。此度のCOVID-19メッセンジャーワクチンで私たちはそのことをよく勉強させてもらいました。詳細は『時世録・18』にも書いてあります。
担架をきって世に出したはいいが、不備が多い、となると、たとえば自動車の場合は全て引き上げてやり直して、これなら良しというところで、今一度世の中にもどってきます。リコールです。生成AI(人工知能)「ChatGPT」もリコールして、仕切り直したほうがイイ。
ガッコなんかは阿呆の源、莫迦の義経ですから、生成AI(人工知能)「ChatGPT」の不備を学んで、「学習」しようという流れもありますが、これが、薬品の場合だとどうなります。
100人服用したら、三人死んだので、アト5人ばかり具合が悪くなったので、そういうことをよく「学習」しておこう。ですみますかね。
「テキ屋の商品の段階」と書いたのではテキ屋の連中に失礼なので、これはもう「詐欺」だといったほうがよろしい。詐欺の手口は巧妙です。日本の公共放送がニュースとお報せでその手口を毎日のように放送していますが、ありゃあ、あんた、時代後れも甚だしい。あんな原始時代の手口なんかもう存在しません。私も一度、電話があって某ウェブサイトの支払いが未払いになっているので、いますぐ17万円振り込むようにという詐欺電を受けたことがあります。私はこの方面では阿呆でも莫迦でもナイので(だって半世紀、演劇をヤッているんですから)、口調から「詐欺」だとワカリマシタが、確証をとるために、そのウエブサイトがどんなサイトか訊ねました。案の定アダルト・サイトでした。で、私がそこを視聴した日付を訊ねました。「昨年の〇月〇日」ということでしたので、これは法規上、支払い請求義務期間をズレているので、詐欺だと確信出来ました。つまり相手の義務違反ですのでほんとうに私が視聴していても支払いはしなくてもよろしい。と、ワカリマシタと返事して、警察に電話、そこから警察の「詐欺係」に電話が繋がり、と、こでは、私はその回線を疑っていましたから、researchして、ホンモノであるところまで、調べました。
これは日本の電話詐欺の手口がお粗末だから私にも対応出来たワケですが、たとえば隣国の韓国などは、まず、カモを選んでその名簿蒐集から始めます。で、偽の警察も、詐欺係も、銀行窓口も、相談室も設置します。カモが念のために確認するのはそのあたりだからです。これがまだ第一段階なんです。恐ろしいです。
さて、生成AI(人工知能)「ChatGPT」にもどりましょう。まず、素人だろうが、文章のプロだろうが、その丁寧な文章に驚きます。ここで、「ChatGPT」文だと気づくひとはかなり少ないでしょう。専門家は専門的な質問をします。ここでも、おそろしくデータの多い「ChatGPT」はなかなか間違えません。で、データにナイよう質問をします。ヤッと「ChatGPT」はしくじります。
私たちのような専門知識のナイものはどうすればよいでしょう。さて、私も騙されるかも知れませんが、ここで、生成AI(人工知能)「ChatGPT」と人間のチガイ。決定的な相違だけ識っておけばイイとおもいます。私たち人間は「ひとのカタチをした自然」です、が、生成AIにはこの「自然」というものが存在しません。私たちと生成AIのチガイは「自然」であるかどうかなのです。私たちは自然に働きかけてモノを創ります。生成AIはデータだけが頼りで、データでモノを創ります。
テキ屋商品も「自然」から創られたものです。COVID-19ワクチンもそうです。生成AI(人工知能)「ChatGPT」はこの「自然」をすっ飛ばすんです。ですから「氷がとけるとどうなる」と訊ねて「水になる」と応えた場合、当方の「春になるが正しいんだよ」という反論におそらく「ChatGPT」は、かなりデータの中を走り回るでしょう。
ともかくも、まだ地球が『禁断の惑星』になるには早すぎます。アト100年、生成AI(人工知能)「ChatGPT」は出番待ちですね。

2022年1月19日 (水)

Sophism sonnet・69,7-5

Sophism sonnet・69,7-5
フィクション

いまごろの若いひと、Z世代だかなんだか私の語彙でいうと「明日来るひと」に該当するのだが、そこまで世界を転じなくてももう少し上の若い人は日本の国会の「一杯のかけそば・騒動」なんかは知らないとおもう。の、ですが。
日本がね、中華大国よりうんと豊かだった世界。中華大国では自転車が道路狭しと大衆が乗って走っていて、自動車なんかの類は夜になってもヘッドライトつけへんねん。何故かというと視えるから。前が。多少視えなくても障害物も、対向車もナイ、そんな世界やった頃のこと。日本の国会でひとりの議員さんが最近読んだ『一杯のかけそば』というハナシに涙したので、ちょっとここで朗読させてもらう、いうて、本、読まはった。
粗筋は特にヘンテツもナイ、貧困の親子三人が蕎麦屋でかけ蕎麦を一杯頼む。蕎麦屋の亭主も女房も三人なのに一杯とは妙だなとおもいつつ、云われたとおりテーブルに置く。親子はその一杯のかけそばを分けつつ食ったというハナシ。蕎麦屋の亭主とかみさんは、厨房にしゃがみつつ涙を拭ったのであった。そうして、それを聞いていた国会議員さんたちも涙ぐんだのであった。
まあ、いまの世の中でしたら、こういうのはほんとうに実話としてあるでしょう(ほんとうにはもっと悲惨な親子心中もありました)。かけそばは親子心中の最後の晩餐だったのかも知れません。しかし、これは虚構の、いうてみたら寓話。つまり「創った噺」虚構、fiction。ということが「ワカッテ」(ここがオカシイんですけど)本を読んだ議員も泣いた議員も〈騙された〉とこんどは怒ったんですネ。ここで私たちが教訓とすべきは、国会議員のセンセ方は国会の最中にゲームしているくらいですから、ゲームが虚構だということは識っているのでしょうけど、どうも虚構というものと現実というものの区別が曖昧だということです。COVID-19が現実であるのに、ここまで来るとfictionじみてvirtualじみているので実感が薄くなっているのではナイでしょうか、ねえ。でないと、この危急、火急のときにのんびりし過ぎなのに「先手を打っている」とか、いうてはるんですな、ソーリ大臣。先手も後手も一手ずつでっせ打てるのは。それを忘却してらっしゃるのじゃナイでしょうか。

:『般若心経』は「大般若経」からのsamplingとremixによるイノベーションであると、かつて学習したのだけど、どうもそうではナイらしく、「大般若経」には『般若心経』に該当する部分は無いらしい。(らしいというのは私の怠慢で「大般若経」を読んでナイもんですから)。つまり、偽経の類に入るらしく、いわば創作教典になるワケですが、そうなると作者の思想にこれまた驚嘆するところ。
研究者において「観自在菩薩」は、読者自身(在家)のことであるとしているひともいるんですが、これもオモシロイ。釈迦入滅時に阿南に遺したコトバ「自燈明」と連鎖していきますから。