アト千と一夜の晩飯 第四十四夜 なんとかカントか
昨年暮れ、読書用の眼鏡の度数が合わなくなってきたので(といっても左はガラスで右目だけなんだけど)行きつけ老舗の眼鏡屋で検眼、度数を調整したレンズに変えたのだが、これが紆余曲折、一度目は店舗ではうまく合っていたのが、帰宅して同じホンを開いてみるとこれがバランスが悪い。変だなとおもいつつ、そのうち慣れるだろうと一週間、やっぱりどうも具合が悪い。涙目になってきた。そこで二度目。検眼士が変わって(最初の方がお休みだったので)やり直して、今度こそOK、と帰宅してやっぱりダメ。ほんの僅かななのだが合わない。このほんの僅かが辛いので、ともかく元にもどしてもらった。つまり合わなくなってきた元の眼鏡が見るぶんには楽なのだ。しかし、これでは何もせずにレンズ代金を支払ったことになる。老舗の眼鏡屋は三回までレンズの交換は無料ケアということになっているので、三度目の正直、きわめて慎重に検眼。で、検眼士云うには、レンズ工学としてはこれが限界ですね。度数の合わなくなった最初のものよりはマシなのだが、スッキリみえるというほどではナイ。しかしそこから一つ上げると一度目と同じになる。ということで、妥協。というよりまあ/いい加減/ということにして、やっとなんとか読書が出来るようになった。
で、カントの『純粋理性批判』に再度取り組む。ああそうそうそうだったなあ、カントさんのヤったのは、対象を見るということについて、悟性と感性を二重に組み合わせて認識させるという、対象(物自体)がどうであれ、問題は観ている者の認識(知覚・識別)のほうを問題にすると、コペルニクス的転回をしたのだったなあと、記憶が蘇る(つまり、そんなこと忘れていた。ここがイチバン大事なんだけどネ)。ところで、以前とはチガッテふと疑問が起こる。ちょっと待て、じゃあ,〈眼(脳の外部分)〉というものはどういうシステムで対象に対してどんなアルゴリズムでfunctionして脳に認識させているのか、そこんところがカントさんにはすっぽり抜けているような気がしたのだ。
対象(物自体)の認識(知覚)には、三つの要素がある、と勉強したぞ。1眼の構造、2対象物の構造、3媒介する光線。
たしかにカントさんのコペルニクス的転回は哲学としては/なるほど/なんだけども、いまひとつもやもやするのはなんでなんだろうということなのだが、あっそうか、マスクかと思い当たった。コロナのせいで稽古場はかなり厳重な処置は施しているものの、みなマスクをして稽古しているのだが、衣裳合わせのさい役者さんにマスクを外してもらった。で、驚いた。イメージがチガウのだ。勘狂うのだ。演じる側としては、「知覚・識別」に用いる悟性と感性以前に対象(他の役者さんたち)がベツモノになる(ワケではナイのだが、マスク有る無しでは同じ対象なんだけどチガウんだろなあ)。カントの『純粋理性批判』は「決定論的」なのか「確率論的」なのか。よくワカランようになってきたのだが、ともかく早めにマスク無し稽古にしたほうがよさそうだなとだけはおもいましたワ。