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カテゴリー「哲学」の記事

2012年4月19日 (木)

如是想解・47

力について: 神と虚無とが等価(だという命題をたててみると)、神が在るから虚無もある(という解が求められれば)、神なき世界とは、ただ生きる力の強いものが生きる世界になる。しかし、「生き続ける」とは、何が生き続けているのだろう。「ほんとうの力」とは何だろう。人間・人類にそなわっているモノはすべて、生存の手段と方法であって、それらは善悪の規準にはならない。要するに「生の保存」ゆえ、そこには固有の倫理しかないように思える。つまり、狡猾であるとか、姑息であるとか、強欲であるとか、人非人だとか、嫉妬深いとか、日和見だとか、裏切りだとか、それらはみんな、生存するゆえの致し方なき営為でしかナイ。そういうことに長けたものが、進化的に生存してきたのだと考えざるを得ない。
つまるところ、この世が生きるに値するかしないかの判断の規準はナニであって、誰が決めるのだろうか。これは、哲学の問題ではなく、おそらく力学の課題だと思われる。

2011年9月19日 (月)

向かえば虚構

パソコン(かつては原稿用紙)に向かえば是れ即ち虚構
物に向かえば是れ即ち虚構
他者に向かえば是れ即ち虚構
自身に向かえば是れ即ち虚構
カラダに向かえば是れ即ち虚構
ココロに向かえば是れ即ち虚構
コトバに向かえば是れ即ち虚構
自然に向かえば是れ即ち虚構
現在、過去、未来、時に向かえば是れ即ち虚構
森羅万象に向かえば是れ即ち虚構
およそ向かうところ万事全皆是れ即ち虚構
虚構に向かうも叉是れ即ち虚構
よって虚に往きて 虚に還る

2011年9月15日 (木)

無常に対する疑問・続

ところでこの「無常」というのは、東欧的思想(仏教)なのだが、西欧ではコウイウものはドウイウふうになってるのだろうか。西欧であるのだから、いわずと知れたキリスト教ということになる。西欧哲学の場合、おおまかにいえば、その始祖的存在であるプラトンから、あんまり変わっていない、というか、西欧哲学はその脚注と展開、補完、継続・・・なのだ。要するにプラトンのいったことはたった二つだ。「イデア」と「対話術」。プラトンは、のっけから、この世界の外(としかいいようがナイのだが)に「イデア」という、この世界の理想的な設計図が存在するとした。(ほんとにそう思ったのか、仮にそうしたほうが物事が考え易いと思ったのかは知らんけど)。設計図があるのなら、その通りに如何にこの世界を造形していくか、だけが問題になるだけだ。そこで、それを「対話術」(これは後に弁証法となる)として、相談しましょう、ということにした。実に単純明快な哲学だ。ここから哲学はは、アリストテレスからデカルト、カント、ヘーゲル、マルクスと連綿と受け継がれていく。現行のポスト構造主義もまた、その下流に在るに過ぎない。さらに、アリストテレス哲学は、キリスト教神学のスコラ哲学へと取り入れられる。これは二千年続くのだからエライもんだ。「無常」が、とどまるところのナイ、儚き移ろいであるならば、キリスト教の天国は、絶対静止系だ。仏教では、天界の住人にすら衰退がみられ、地獄に落ちることになっている。つまるところ、西欧哲学はキリスト教によって、「動き」を止められている。何故なら、天国というのはこの世の外に在るが、それはこの世の連続に過ぎないから、この世界の時間も速度(運動)もそれ自体としては意味をなくす。西欧哲学世界のひとびとは、この世では、時間の矢による物理学で、やがては滅するが、天国に生まれ変わって、「永遠」という途方もないところで暮らすことになる。
しかし「無常」は違う。この世のことだ。仏教にも、もちろん、念仏衆においては「極楽浄土」があるにはあるが、ここでは、天国や極楽について、あるのかナイのかワカランものについては言及しないことにする。
問題は「無常」という「運動-動いているもの」だ。「無常」を①②と矛盾なく存在識知するには、「恒常」がどうしても必要になる。でなければ「無常」を否定せねばならぬ。しかし、「無常」は在るのだ。
かくして、天才は思案熟考の末、小悟を得る。
「無」、これが「絶対静止系」だ。「無常」の存在を求めて、「無」とは何かを悟る。
「無常」という運動、「動いている」ものに対して「静止している」ものは「無」以外には存在しない。例えていえば、数学の関数グラフを考える。縦軸と横軸の中心、交わるところに在って、静止しているものは「0」即ち「無」。「無」とは「何もナイ」ということではナイ。そういってしまうと「何もナイものが在る」ことの矛盾にはまるだけだ。
「無」とは「動か[無]い」ということだ。コトバを換えていえば「無常」と二項対立するものは「無」ということだ。「無常」、動くもの全てに対して、即ち森羅万象、この世界に対して「動か無い」ものとして「無」が存在する。「無常」に対しての我が疑問は、解決に至る。喝っ。

無常に対する疑問

何かが「動いている」という事象については、二つ条件が必要だ。一つめは、「動いている」モノを観察している者が存在する。一つは、観察している者は静止していなくてはならない。もちろん、地球はスゴイ速さで自転していて、誰もそれを観察などしてはいないのだから、前者は不要だといわれそうだが、自転しているという事象をいうには、観測する以外に手だてはナイ。また、これを観察(観測)する場合、同じ速度で動いていては、けっきょく同じスピードで走っている電車が二台あって、どっちもが動いていないように感じるのと同じだ。アインシュタインの相対性理論においても、静止している観測者から観て、動いているモノは、逆に動いているほうから観ると、静止している観測者が動いているようにみえるという相対性をいう。(ここから例のウラシマ効果が出てくるのだか、それはここでは取り上げない)
ともかく、私のいいたいのは以下の2点だ。
①動いているというのは、動いていることを観察しているものが必要になる。
②動いているものを観察しているものは、静止していなくてはならない。
①の場合再度述べるが、天体などの運動は宇宙時間にして135憶年前からなので、観察する者(人類)とは無関係なのではないかという、反論必至だろうが、この反論については、単に「現在はそうである」と示せばそれでイイ。②についても、単純にこう書き換えてもイイ。[動いているということは、何かが止まっていなければ成立しない概念だ]

さて、ここから本題の疑問に転ずる。仏教でいう「無常」とは常ならむことであって、ものごとに恒常的なものはなく、すべては、移り変わっていく、ということだ。鴨長明のかの『方丈記』も「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし・・・」と、物事の移り変わりを水の流れに例えている。ところで、この「移り変わり」というのは「動いている」ということだ。つまり「無常」もまた「動いている」ということをいっている。それは、森羅万象(世界すべてが)そうだといっていることになる。ところが、この「無常」を先の①②の命題に当てはめてみると、おかしなことになってくる。「無常」という場合、「無常」であることを証明するために、①②を満足させるモノが必要になる。しかし、それを存在させると、「無常」は「無常」でなくなってしまう。何故なら、「無常」というのは先述したように世界全体の事象をいうのだから、①②を認めると、①②はこの事象から外のものになってしまう。外のものが在るのかどうかは別にして、問題は内部なのだから、外のものの干渉は受けない。
まとめていいなおしてみると、こういうことになる。「無常」を認めるとすれば、「無常」という「動き」を動きとして存在させるためには、「ナニか」が止まっていなければならない。かつ、「無常」というものが、人間における発明であるならば、「無常」という動きを止まって観察(観測)している者が存在しなくてはならない。
卑近にいってみよう。誰しも「年をとったなあ」と思うときがある。そのとき、「年をとった」という「動き」を認識している存在は誰なのか。他ならぬ自分だ。では、自分のどの部分がそういわせしめているのか。ここでも、自分の中にある「静止点」が必要になってくる。「子供の頃に比べると、青年の頃に比べると」と、自分の「現在」がいわせているのなら、自分の「現在」は「静止点」か。そんな矛盾はナイ。何故なら、自分の「現在」が「年をとった」それ自体なのだから。・・・・(つづく)

2010年7月 7日 (水)

おコトバではありますが・捕捉

付け加えておくならば、シリーズを始めるとき、私には、幾つかの不満があった。まず、ソシュールのいうラングというのは、そんなに悪いものなのか、逆にパロールというのは、そんなにいいものなのか、という素人考えと、同じように、形而上的なものがアカンのなら、戯曲みたいなもん書けへんでという、こちらは嘲笑に似たものだ。私の『寿歌』は、かなり評価を得た反面、毀誉褒貶でか、いわゆるリアリズム志向の劇作家、演劇関係者連中からは、酷評されたようだ。(詳しいことは知らん)。そこで、私は「演劇におけるリアリズム」という自分の考え方を示してみるしかなかった。さて、それが理解されたかどうかも、知らん。・・・ジャック・デリダ(バウアーではナイ)の「脱構築」という考え方は、オモシロイなと思った。しかし、この考えは、ハンカチョーでいうと、ヘーゲルが述べたカントの[仮象]概念と、それほどの差異はナイのではないか。また、フッサールの[還元]とも似たりよったりではないか。・・・私の作品に『血と青空』というのがあるが、このタイトルを聴音像として認識する場合、おそらくさまざまな「像」が生ずるはずだ。「血」「と」「青空」の聴音の意味になんの変化がなくとも、「像」が変化するのはどうしてなのか。この戯曲は、人々の新型ウイルスとの闘いを描いているものだが、タイトルから与えられる像解釈では、アクション劇とも、戦争劇とも、ミステリとも、家族系統の劇とも受け取ることが可能だ。私は、劇団を終えてから後に、『ヴァイアス~愛するものもまた死す』というミステリ劇を書いて、上演(avecビーズ)したが、これをミステリだと思ったひとは殆どいなかったようだ。何が弊害をもたらしているのかは知らないが(ほんとは知っているんだけど)、こと、演劇というのは、文学(小説・et cetera)などに比して、かなり遅れた文化だ。けったいな海外の学説がまかり通っているし、インテリの玩具になっているし、庶民大衆のレクレーションになっているし、世間知らずの演出家と、演技知らずの役者と、作文しか書けない(自称)劇作家が、大きな顔をして闊歩している領域だ。そこへまた、贔屓の観客が、ワッと集まって、およそ2年ももたずに去っていく。労働と、労働力のわからぬ拝金主義者が、ワケのワカランもんをやってもらうより、有効利用して、ショッピングモールをつくったほうがいいなどと、古今、哲学者を一人も輩出したことがナイという街で気勢をあげる。さて、私の次なる仕事は、かくなる拝金主義者どもに、可能性の鉄槌をくらわす「演劇は形而上的でいいじゃないか」というコトバの実践だ。てなことで、明日からまた、旅寝の空で(そういうふうにして、オツムを休息させている)しばし、ここも、開店休業となる。

2010年7月 6日 (火)

おコトバではありますが・14

さて、私たちは、「語りコトバ・話しコトバ・会話・対話」といういわゆるパロールと、それが体系となったラングの中に、群をさがせば、それで、充分に、ソシュール言語学に異議申立をしたことになる。これはさほど難しいことではナイ。たとえば「狂言」がそうだし、「落語」がそうだ。前者はれっきとした「劇」であるし、後者も広義の意味で一人芝居の「劇」と捉えることに、私は異存はナイ。何れも「書かれたコトバ」としての戯曲(台本)に相当するものは存在しない。であるのに関わらず、同じ演目を、和泉流の野村万作師と、大蔵流の茂山千作師が演ずるのとでは、まったくチガウ。(もちろん、私は、端正な和泉流よりも、お豆腐狂言の大蔵流のほうが好きだ)これは、落語も同じで、立川家元がふつうに高座に上がれなくなったいま、東京(江戸)落語は壊滅しているが、こちらは、志ん生師匠よりも、圓生師匠(六代目)のほうが好きなのだ。驚きは、江戸落語である圓生師匠が、噺の中で使う大阪弁の正確さだ。たとえば、それをソシュールふうにいえば、「イヌ」は大阪弁でアクセントが変化すると、「去ぬ」になって、そこを去ることになる。「犬」という名詞が『夏は来ぬ』の「来ぬ」(たぶん、[ぬ]という助動詞、来たり・来たらば)となる。これらの群を関数で記すとf(G)xだ。同じ表音であろうと、意味の構造は普遍のまま、群が与えられる(はたらく)と、そこには「劇言語」が生ずる。つまり、この場合、操作というのは、ある表現だということは、マチガイのナイことだ。・・・とりあえず、この論考は、一度、幕をおろす。他に仕事がつまってきたというのが、イチバンの要因だが、また、日をあらためて、チガウ接近戦をしてみたいと思う。

おコトバではありますが・13

ここで、たぶんなされるであろう批判に前もって応えておく。「日常会話と芝居のコトバとはチガウのではナイか。演劇のコトバは非日常的だし、ソシュールは日常会話を扱っているのではナイか」・・・こういう、「日常」だの「非日常」だのという、それらしくおぼえたコトバで提出される問いは、まったく意味をなさない。なぜなら、私たちは「火星語」を扱っているのではナイからだ。食事時の会話と、論争をしているときの言語はチガウのではないか、床屋談義と国会答弁はチガウのではないか、といっているに過ぎない。・・・たとえば、戯曲において、次のようにト書きが書かれたとする。

彼と彼女、みつめ合っている。やがて太陽は山陰に沈み、夕陽は赤く空を燃やし、山すら影絵となり、満天の星空がふたりを包むが、彼らはまだみつめあっている。

これが、舞台(演じられた演劇)となった場合、おそらく照明は、そのようにシーンをつくるだろう。しかし、この時間経過は、現実のものではナイ。現実に、そんなに長くみつめ合えることなど出来ないからだ。これは、みつめ合う二人の、ココロの表出を、風景として、表現しているものだ。もちろん、それは形而上的なものといえる。これは「みつめ合う」という行為に対して与えられた「操作」だ。「劇言語」においては、こういう「操作」(これを表現とか描写とかいう)はよくみられるものだ。(みられない、かも知れないけど、私なら書いてしまう)。ここで、一つのドラマツルギーを用いると彼が「愛してる」彼女が「私もよ」という、このコトバの交わりのあいだに、一気に、前述したシーンをすべてみせることも出来る。ここでは、何が(どういう操作)が行われているのだろうか。つまり、観客に、何を訴えたいのだろうか。前述したのとは逆に、二人がそれぞれひとことのコトバを交わす、その時間の経過を、情景の変化によってみせたいのかも知れない。ここでは、ソシュールのいう通時態としての言語機能は、まったく機能しない。もちろん、共時態としての機能も同様だ。むろん、デリダのいう脱構築というものでもナイ。ここでは、「劇言語」はまったく違った時間性と空間性の中にある。簡単に例をとれば、関数f(x)に微分(h→0)という操作を行ったともいえるが、もう少しハッタリをかましていえば、ソシュールの言語軸を実数軸にとり、虚数軸という形而上的な軸を直行させ、回転を与えて得た、複素平面上のものだと、いえなくもない。つまり、この「劇言語」は、現実には存在しないが、概念として存在し、かつ形態を持ち、形而上的に認識され得るもの、ということだ。ト書きに用いられている、言語(コトバ)のそれぞれの要素は、ソシュール言語学上でも立派に機能する。しかし、そこには、たとえば、円関数(三角関数)でいう、sinθの傾斜角が複素平面に対して与えられているため、(そのように操作されているため)コトバの座標が、実数上にはナイのだ。だから、そのト書きを読む(あるいは、そのシーンを観る)読者、観客は、すでにラングやパロールなどという形式からは、違った位相に置換されていることになる。

2010年7月 5日 (月)

おコトバではありますが・12

「1、書の記号は恣意的である。たとえば[れ]の字とそれが示す音のあいだには、なんの関係もない」「2、文字の価値は純粋に消極的であり、差異的である。かくして同一人が[れ]の字をつぎのようにいろいろの書体で書くことができる。(このアトにさまざまな書体の[れ]が示される)肝要なことはただ一つ、この記号が運筆上[わ]なり[ね]なりと混同しないことである」「3(略)」「4、記号の制作手段は全然問題にならない、それは体系の関知するところではないからである(これも第一の特質からくる)。白く書こうと、凹字にしようと凸字にしようと、ペンを使おうとのみを使おうと、それらの意義にとってはどうでもいいことである」(『一般言語学講義』)・・・群として[れ]という字を扱えば、この操作は無限にある。大小が変えられるし、先の例示によって、傾斜(回転)が与えられる。また、「2」のように書体を変えることも出来る。たしかに、「1」のいうとおり、どのようにしても、[れ]という字の意義(意味)は変わらない。「4」も同様のことと思える。しかし、ここで変わっていることがある。それは、とりもなおさず「操作された」ということ自体だ。「操作する」ということに関して、ソシュールはあまりに無頓着だ。私たちのように「劇言語」を扱うものにおいては、言語にとって、それが「書かれた言語」から「語られる・話される・対話される、言語」へと操作されることが重要な意義を持つ。そうでないと、演劇は成り立たない。また、ひとは、如何なる場合(情況)においても「私独り」となることは出来ない。ここをヘーゲル的にいえば、「私」というものが、本質的に「一」ではナイからだ。ヘーゲル弁証法は、必ず「対象」を意識としてとりこむので、「対象」の概念が「多」であった場合(まず、それ以外の対象はナイのだが)、「私」は「多」へと「操作」される。ここに「時間」を加えれば、「私」は、群になる。演劇においては、私は私自身に語りかけたり、私を対象とみて語りかけたり、私の対象に語りかけたりする。「劇言語」に現れる私は、一つの役であるから、私は私に役として語りかけつつ、他者(対象としての観客)に語りかける構造を持つ。このときのコトバは、「私が役として語る」私への「操作」と看做してイイ。これも群と考えることが出来る。だが、ソシュールの場合は、必ず、話し手と聞き手が存在しなければ、言語は成り立たないような印象を受ける。・・・ソシュールも「時間」というものを無視しているワケではナイ。ソシュールは「通時態」として、言語に時間を与えている。しかし、「通時態は、目的をもたない」「通時言語学は二つの眺望を識別せねばならない。一は展望的なもので、時の流れを追うもの、他は懐古的でなもので、それをさかのぼるものである」。ところで、「劇言語」の扱う時間は、そういうものとはまるで、違って、いわば形而上的なものなのだ。ソシュールの言語学を実数軸であるとするならば、「劇言語」は、複素平面に滑り込むものだ。

おコトバではりますが・11

話を急いでもしょうがナイので、ちょうど中間点あたりのここいらで、ちょっとマトメておくと、もともとの思いつき(inspiration or motif)は、構造主義やポスト構造主義と称される、それら自体、ポスト・マルクス主義、ポスト実存主義が、言語の構造、体系を重視していること、影響されていること、そうして、それらの大元は、ソシュール言語学であること、で、しかし、ソシュール言語学をハンカチョーに誤読していくと、ウィトゲンシュタイン哲学よりははるかにマシな気配なのだが、かつ、それが「話しコトバ」に重点を置いていること、ではあるが、「劇言語」の入り込む余地がナイ(というか、私たちの要する劇言語とは、コトバに対しての考え方がチガウ)という異和感をもたざるを得なかったということ、という情況があり、それ(ソシュール言語学)に対して、「劇言語」からのいいぶんというものを提示してみたかった、のだが、ソシュール言語学を形而上学としてイチャモンつけている、デリダの思想にも納得がイカナイ、し、脱構築というソシュール言語学に対する批判的措定はオモシロイのだが、そういうことでなく、あからさまにいってしまえば、「劇言語」は、形而上学でいいんじゃないのか」という思いが強く、また、ソシュール言語学は、ヘーゲル弁証法からも反論出来そうであるし(デリダは、ヘーゲルも形而上学として退けている)、とはいえ、最初に、思い出したのが、構造主義というのは、数学から入ったほうがワカリヤスイのではないかという、経験で、では、その、『群論』という考え方を用いて、なんとなくやれるんじゃないかと、妄想(imagination)したのだ。で、ここまで、やっと辿り着いたと。・・・で、つづきだが、A4サイズの紙に任意の点aを置いて回転させるということは、その角度(すなわち距離)、に時間が加わることになり、距離と時間なら速度が出てくるはずだから、これは「力学」としても扱えるし、また、回転させるということと、群が(操作の集合として)関数を扱えるのならば、円関数(三角関数)としても考えていけるのではないか、さらに、点aは「座標」を持つことになるので、直行する数直線を実数と虚数にすれば、複素平面が扱えるのではないか、とすると、複素平面をひとつの形而上のものとして考えられるのではないか、というのが、おおまかな、だいたいの目論見であった。いまのところ、この目論見は、大きく逸脱はしていないはずだ。A4サイズの紙をラングと仮に設定して、含まれる要素としてのコトバを数詞とすると、差異は簡単につけられる。(なぜなら、1<2<3<4<5<6・・<・・nという順序の構造をつければいいからだ)。つまり、ラングというのが、[規約・法規・体系・動かしがたい先見性]ではなく、単に共通規範としての存在であることを示せば、半ば、いいことなのだ。おそらくソシュールは、「ある自然的な構造(言語)」があって、それらが「無構造の集合(パロール)」だったものが、「人為的な構造(ラング)」となり、そこから、ラングが転換して「体系」として君臨したために、主客が逆転して、まず「人為的な体系」が置かれることになり、すべての言語営為は、この体系の中に収束されるか、逆に、この体系からの写像としての存在となる宿命を持つ。てなふうに考えたのだ。その具体例として、「イヌ」はけして「イナ」とはいえない。なぜイヌなのかはまったく恣意的なことなのだが、それが実体であれ、聴覚像であれ、そういう決定性が存在する、ということなのだ。私たちは「劇言語」の立場から、この決定性を、数学の概念を援用しつつ、こえていこうとしている。

2010年7月 4日 (日)

おコトバではありますが・10

さしあたって、異議申立の方法は二つある。演劇そのものから迫るのも手段なのだが、当初の予定(というか、これを思いついたので、こいつを書き始めたワケなんだけど)である、数学の『群』という考え方を援用しながらすすめてみる。現在、数学教育に「集合」があるのかどうか知らないが、『群』というのは、[操作の集合]だ。いいなおせば、「あるもの、ある構造に何かの変化を与える操作」だ。もちろん、私は「数学ⅡB」までしか数学の知識はナイ。だから、これはまったく見当違いの試みかも知れない。しかし、ポスト構造主義者たちの多くが、その論文に数学を含め、その数学があらかた間違っていることを、数学者が一冊の著作にした話は有名だから、まあ、ハンカチョーの私がマチガッテも、世間的な影響などナイだろう。・・・さて、またコップの登場となる。ここにコップがある。コップと茶碗は、実体として観たら、区別はすぐにつく。ところで、ソシュールの言語学では、所記(シニフィエ)と能記(シニフィアン)との関係がこれを現す。前者は、コップという音声による表記だと思えばイイし、後者は、それを聴くことによって得られた像であると思えばいい。つまり実体はなくてもイイ。コップと茶碗は実体を持たなくても、そのコトバ(記号)の差異によって区別される。ところで、そのコップを二つにしてみる。どっちもコップだから、差異はナイ。次に、このコップの一つを横にして置いてみる。目の前には、立てられたコップと、横にされたコップが在る。どちらもコップであることに差異はナイ。わかりやすく二つにしたが、コップは一つでもイイ。最初は立てて、次は横にしてみる。コップというコトバに何かの差異は生じるか。『群』という考え方でいうならば、コップは立てられたものから、横にされたものへと操作されたことになる。しかし、コップという対象の構造に変化はナイ。コップはコップだ。もっと簡単な例を示す。A4サイズの紙を机上に置いてみる。べつに目の前に差し出してみても構わない。この紙を対角線の交わるところを中心にして、右に10°傾けてみる。さらに10°これを36回繰り返すと、紙は360°回転して、元のカタチにもどる。つまり、それは36回、操作されたA4の紙の[集合]ということになる。A4の紙というコトバに何か差異は生じるか。何なら、紙はそのままで、観ているほうの顔を10°ずつ傾けていってもイイ。『群』という考え方で述べるなら、Sの構造(コップ、A4サイズの紙)があって、それに働く操作の集まり(角度を変えていく)として群Gが考えられる。このとき、Sは働きを受ける[もの]であって、Gは働きそのもの、といえる。このとき、Gをoperatorという。数を[もの]と考えれば、+・-・×・÷は、[はたらき]といえる。つまり、演算というのは、[もの]と[はたらき]の対立だ。そうすると、関数fがxに[はたらいて]yになるf(x)=yも、群の応用だ。この場合のfはfunctionであり、パソコンの上部に横一列に並んでいるFがそれだ。コップというコトバの構造(表記・意味)をそのままにして「操作」する群という考え方を使うと、差異というのをコップそれ自体にではなく、操作の集合として、扱うことが出来る。もう一度これをソシュールふうにいいなおせば、Sをラングとすれば、Gはパロールということになる。しかし、この場合のSは有限集合だが、Gで(可能無限)集合をつくることも出来る。たとえば、Gを「数詞」と考えればイイ。操作の数を「位数」と称するが、数詞の位数は、無限につくることが出来るからだ。・・・ところで、A4サイズの紙を10°傾斜(回転)させるということとは、こうもいえまいか。A4上の任意の点aが、10°ぶんの距離を移動した。そこには、それだけに費やされた「時間」が生ずる。