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カテゴリー「かようきょく」の記事

2019年7月 3日 (水)

港町memory 24

/『無法松の一生』)は、岩下俊作の小説。福岡県小倉(現在の北九州市)を舞台に、荒くれ者の人力車夫・富島松五郎(通称無法松)と、よき友人となった矢先に急病死した陸軍大尉・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流を描く。
1943年(昭和18年)に大映が『無法松の一生』の題名で映画化して以降、映画・テレビ・舞台で度々取り上げられ、後に作者本人が『無法松の一生』と改題した。/(ウィキペディアより抜粋。当方月々2500円のkampanijaでござんす)
私はこれをまず、貸本屋の貸本マンガで読んだのが最初です。(生涯でもっとも読書量の多い)小学生の頃でした。なんだか好みの作品で、何処が好きなんだか、よくワカラナイんですけど、何度も借りて読んでます。
で、次はテレビ・ドラマで配役が、富島松五郎:南原宏治、吉岡良子:南田洋子でした。
伊丹万作老師の脚本で、ベネチア映画祭大賞受賞作は、三船敏郎、高峰秀子さんのコンビでした。他にも多数の方々が映画や舞台で演じられておりますが、映画のほうは、三船敏郎、高峰秀子さんのコンビのorthodox standardだけは観ています。で、ドラマ自体はベタなドラマなんですけど、なんで私、このハナシが好きなんだろうとずっと不思議でした。ワカラナイけど、泣くんですナ。泣くんだけどワカラナイんです。
で、ご贔屓のFM番組『歌謡スクランブル』で中村美津子さんのデビュー30周年記念のアルバム、歌唱時間21分余の長編歌謡浪曲『無法松の恋 ~松五郎と吉岡夫人~』をいつものようにふっと聴いていたんですが、(この番組、不思議なことにふっと聴いた歌でインスパイアされることが多い)なるほど、無法松の恋で、~松五郎と吉岡夫人~というタイトルからして(えらく説明的でダサいタイトルだなあとはおもうんですけど、そのとおりの内容です)「ぼんぼんが~」とかなんとかよりも、そのふたりの「恋」に傾斜していってまして、松五郎が雪の中(雪の中は将棋の阪田三吉だったかな)で最後は死んでるワケですが、その亡骸に縋り付いて、良子夫人、自身の心情の本音を吐露する部分が入っています。(原作を読んだことがナイ、というより興味がナイので原作の表現は知りません。たぶんアルんでしょうけど)ここで、松五郎が自分(未亡人・良子)に恋をしていたことは充分に知っていたと告白するワケです。これはもうキリスト教的にいえば告解ですナ。しかし、時代が時代(いまと、そんなに変わらんのですが)だったんでしょう。人力車夫と軍人の未亡人の恋というのは、法規上は未亡人ですから問題はナイとしても、世間からすればこれはもう銃殺刑並みです。しかし、純愛なんです。矢島正雄老師の『人間交差点』に移行してもどうにもならないでしょうねえ。ともかく、この部分はこのドラマの中でのイチバンのdramatic、highlight、climaxでござんす。
ですから、幼少ではありましたが、そういうことはうすうすだか、ズキズキだか、感じながらマンガを読み、テレビ・ドラマを観て、映画も観たんでしょう。別に、無法松の松五郎の献身なんてどうでも良かったんです、私にしてみれば。この吉岡の奥さん、未亡人・良子の葛藤、表にはけして出さない葛藤を/愛と孤独/として、哀しみとして感じていたのだとおもいます。
私にとって/愛と孤独/というものは、そういうものなんだなあと、最近、少しずつワカッテきております。アスペルガーとしてはなかなかの奮闘でござんす。
〔愛と孤独〕は、人生の/疾病/です。疫病といってもイイ。
罹患すると、特効薬どころか対症療法もありません。致死率も高い。
とはいえ、治ってしまえば、後遺症はまったくありません。稀に、アルコールやドラッグに逃げるひともいますけど。銭に逃げるひともいます。異性交遊に逃げるひともいます。それらは後遺症ではなく、それはそれで、一つの疾病です。

では、ハートランドの時間になりました。
本日も私、仕事がナイんで、ビール飲んでは昼寝です(家飲みしかしないんですけど)。で、ときどき書いてます。
寝てる時間と書いてる時間だけは痛みと鬱から、逃げられますので。

2014年12月 6日 (土)

望郷(nostalgie)

ゆんべ(2014/12/04)はハコさんのライブ。(山崎ハコ『デビュー40周年!新アルバム「歌っこ」発売記念ライブwith安田裕美』~in plusone west~)。ライブってのも久しぶりだが、ハコさんのアルバムは多く持ってるのにライブは初めて。多く持ってるが全部持ってるワケではナイ。当のハコさん自身、全部持ってないようでして。手に入らないものが諸事情によって、多いのだ。帰り際に、クリスマス・プレゼントというカタチで、拙著『DUCK SOAP 家鴨石鹸あるいはセリフを覚えたあと役者はなにをするかという問いをめぐる土曜日の黄昏と夜と夜中』を贈る。ライブのタイトルも長いが、こっちの戯曲の本のタイトルも長い。
と、ここまで書いたところで、ちょっと中断。
ライブはハコさんのトークを含めて二時間、さらにアンコール。本割一曲目に『望郷』。これで、こちとらは、もうウルウル。いい選曲です。『望郷』は何だったか、avecビーズの公演の冒頭でも使ったなあ。好きですよこの歌。不肖私がカラオケでよく歌うのはこの歌と『海かがみ』で、『海かがみ』は故人になられた島倉千代子さんへの楽曲ですが、ハコさんバージョンももちろんあります。これまた故人の原田芳雄さんが、イントロを聞いて「ツェッペリンかよ」と絶賛した、とは、ハコさん本人の弁。シングルカットされておりますが、CDではあんまりみかけません。なにかのアルバムには入ってるはずです。私はシングルで持っております。最近、40周年記念ということで、むかしのアルバムの復刻版がCD化されておりますので、懐かしい歌がどどっと聞けます。
ライブ本割では美空ひばりさんへのトリビュート『りんご追分』ライブバージョンが最高。思わず声をかけたくなりましたが、何しろ、会場には年配のコアなファンが多いので遠慮しておりましたが、やはりここはと「お見事っ」と一声。
アンコール一曲目は予想どおりで、昨年12月公演『グッドバイ』(シスカンパニー)のending Themaの『夜の日傘』(作詞、私)。安田さんのアレンジング・ギターの演奏で、ハコさん、スタンダップでの歌唱。こんな日が自分の人生で来るとは、ハコさんデビューの頃、ラジオから流れるハコさんの『飛びます』を聞いていた、食えない作家の私に想像出来ただろうか。お互い、生きてて徳(得)することもある。
ステージは終わって、物販とサイン会。どんな大きなコンサートイベントも、チケット売り上げだけで黒字になることはありません。(おそらく『嵐』にしてもです)。演劇と違って、ステージングやスタッフ、会場費などに銭かかるから仕方ないねん。そこで、物販の売り上げが、収入。いってみれば、私たちの職業と同じテキ屋稼業です。最近、健さんのアトを追うように亡くなられた文太さんが、晩年、農業を始められて「映画は虚業だが農業は実業だからな。いってみれば映画はウソだからな」とおっしゃってましたが、その理屈には私、与しません。(この論理に興味があれば私の演劇論集『恋愛的演劇論』を読んでチョウダイ )。サイン会は長々と続きます。私、挨拶するのを客席の隅で待っておりますと、店員がコーラを持ってきてくれまして、「オレ、頼んでナイよ」といいますてえと、てえと物語、ハコさんからの「Take cola to him」だそうで、いや、お気遣いに感謝。で、サイン会終わって、挨拶を交わして、ナンダかいっぱいお土産貰って、帰途。
公私ともに相方の安田裕美さんが、岸部一徳さんを丸くした感じで、アレンジ・ギターテクも抜群ですが、ハコさんにはピッタリの、いいひとで(という印象で、ひとこと喋っただけなんですが)妙に安心。ハコさん、また、仕事ご一緒しましょう。

2009年11月 4日 (水)

堕天使のいいぶん(even)

鬼束ちひろが、何を考えているのかは知らん。他人のことはワカランから。ところで、『月光』の歌詞を入手出来たので、こないだの『堕天使の失墜』でスルー(through)した部分を、もうちょっと書いてみる。彼女の詞が身体性からの表出であり、その身体性というのは幻想のものだ、というところだ。彼女の詞(ここでは『月光』)をひとことでいうと、これは「独り言」というしかナイ。独り言の対象は自分自身だ。その場合の自分自身というのは、現実の身体ではなく、幻想の身体(べつに観念的なといってもいいが、観念的というコトバはかなり広範囲に用いられているので、概念として、誤解されるおそれがある)だ。この幻想としての身体(性)は、現実の身体のパラ位置にあるという、対概念ではなく、客観的な視線を棄ててしまった本質直観されたものだ。歌詞の冒頭で「私の神の子供」と(英語で)自身を規定しているのはそのための、前提であるといえる。したがって、そのアトの詞はその視線で観たものと、そこから受けた心情と、で、綴られていくので、スキーマ(schema 枠組み)というものは、除去される(というか、のっけから問題にされていない)。歌詞は彼女の幻想の身体を通過して変容されているので、「腐敗した世界」「この鎖」「不愉快に冷たい壁」「「哀しい音」「効かない薬」などに対応する現実は存在しない。それらはすべて、独り言が産み出した無機的な自然(世界)の産物であり、無意識的に彼女自身のことだから、彼女自身に還元されるからだ。歌詞の末尾が「どこにも居場所なんて無い」というコトバで終わるのは、当然といえば、当然のことだ。なぜなら、対象としている世界(自然)は、変容された彼女自身という世界(自然)なのだから、彼女と世界(自然)との関係は、彼女の世界(自然)に対する特殊な了解の中に消化されていく。そうしてこの特殊な了解というのは、彼女の幻想の身体(性)そのものだ。「貴方なら救い出して」「私を 静寂から」は、その帰結としての〔孤独〕を訴えるものなのだろうが、おそらくタイトルの『月光』は、その象徴とみていい。気がつけば、冴えざえとした月の光の中に立っている(それを観ている)だけの、私、が彼女の立ち位置なのだろう。ただ、映像を観る限り、彼女の素足(裸足)と手の動きは、唯一、彼女の有機的な自然としての身体の拠りどころのように感じる。

2009年11月 1日 (日)

堕天使の失墜

まんず、『滑ってトル散乱するウミガメ』は、補足も含めて、ワカリヤスク手をいれたので、いま一度読んでいただければ幸いである。・・・さて、You cubeで、復帰した鬼束ちひろを観たのだが、(といっても、私は『トリック』の『月光』しか詳しくは知らんのだけど)その前に予備知識として、『Jポップの日本語』(見崎鉄・彩流社)からひろってみると、彼女の歌詞が難解なのは、著者によると、歌詞の意味が難解なのではなく、スキーマ(schema 思考の枠組み)が与えられていないということで、あるらしい。著者は、末尾に「いずれにしても、鬼束はもう少し言葉を磨くべきだろう」と注文をつけるが、私はまったくそういうふうには思わなかった。この女性歌手の自作の歌詞は、おそらく身体性から出てくるものではないか、と思っただけである。その身体性はまったく幻想のものなのだが、コトバに音楽性が殆どナイに関わらず、即興的な原始の音楽性を感じた。たぶん、それは彼女の幻想する身体性から表出されてくるものだ。で、You cubeを観たのだけど、ああ、なるほど、このひとは、最初は、汚れた世界に降り立った天使であるという思いだったのが、それを否定して、そうではなく堕天使であるというところへ、失墜してしまったなという感想である。ただし、その堕落の仕方が中途半端で、一生懸命なもんだから、観ているものとしては、あるやりきれなさだけが、伝わってくる。プロは、一生懸命なんかになっちゃアカン。とだけ、述べておく。