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カテゴリー「病歴」の記事

2024年1月 5日 (金)

時世録・52

以前鬱病で通院していた精神科は、入りやすくするために「内科」の看板も挙げていたのだが、挙げている以上はその治療もせねばならず、とはいえ、血圧一つ計るのがうまくいかないというふうだったので(いまはたいていの病院、医院はマシンですけどね)、風邪くらいしか診療対象はなかったのだが、そこで、風邪をひいて、まだ、抗生剤が出る時代だったから(いまは出ませんよ。出す医者がいたらそこはヤメなさい。効かないんですから)、抗生剤も投薬され、医師がいうには「四日は続けて服用してください、でないとキンタイセイになりますから」なのだったが、当時、私はこの「キンタイセイ」というコトバがワカラナカったので、当然ながら質問してみた。と、「菌が耐性を持ってしまうんです」とのことで、ああ、それで「菌耐性」かと、以来、他の医師と話すときも、抗生剤投与になると「菌耐性」というコトバは使うのだが、さて、此度、シス・カンパニー公演の『シラの恋文』を観る、あるいは観たみなさま。東京は7日からだから、この「菌耐性」というコトバは、福岡公演のさい、観劇していた医師から「耐性菌じゃナイですか」という指摘受けて、そのせりふがまだ若いこのせりふだったので、「菌が耐性をもつので」に訂正した。それについては、現在通院中の総合医療医師にも訊ねたが「菌耐性」とはいわないそうで、しかし、「菌が耐性を持つ」のなら「菌耐性」といってもよく、「耐性を持った菌」ならば「耐性菌」なんじゃないですかと、副詞と名詞の用い方じゃないのかと詰め寄ったのだが、やはり「そうはいいません」と一蹴されたから、仕方なく若い俳優に恥かかせてもなあと、せりふを訂正した。
しかしだぞ、医師たち。おめえらは、「花粉症」といい、「盲腸炎」といい、「蓄膿症」といい、「パニック症候群」というてるやないか。すべて、そんな病名の疾病はあらへんやないか。「アレルギー性鼻炎」「虫垂炎」「副鼻腔炎」「心臓神経症」やないのけ。
まあ、ええけんどナ。

で、昨日、アカデミー賞受賞のミシェル・ヨーの『バナ・バナ(略しています)』を観たが、なんのことはナイ、ああいうのを書いてんだよワタシは。そうすると、小劇場演劇の場合はイイ。客も頭イイからな(と、おもうんだけど)。これが、賃仕事になると必ず役者から「難しい」といわれる。プロデューサーは「難しいけど、私は好きなの」と、さすがにまだ、勘がイイ。「重なる世界というのがあって」と字幕がでてきたときは、ざまあみろっ、という気になったなあ。とはいえ、映画解説なんかにゃ「夫の気が変になり~~」とか書いてある。チガウのよ。とはいえ(連発だな)、SNSで、「恋というものがあんなふうに成立するのはロマンです」(というふうなこと)が書かれていたのにはホッとした。


2022年12月16日 (金)

アト千と一夜の晩飯 第三四夜 孤独死とはなんだ 5

鬱病の現象(症状とはもう称しないことにしている)で、毎日の稽古参加は無理なものだから、一日おきということで参加しているのだが、合間の一日をのんびり過ごしているというワケではナイ。そうは上手く出来てはいない。とはいえカラダのほうはやはり楽なので、のんびりとかんがえごとなど独りでしている。のんびりしているのかしていないのか、たいてい稽古のことを〈反省・ここでいう反省は、後悔を含む倫理的定義ではなく、ヘーゲル弁証法における反省、省みることを云う〉しつつだから、逆にひどく落ち込むこともある。稽古というのは鬱病特有の躁状態でしかなく、ヤっていることはみなマチガッテいるのではないかなどとおもったりする日もある。そんなのに付き合ってばかりもいられないので、活字の読書なんてのをヤってみたりする。最近は『おどろきのウクライナ』(大澤真幸×橋爪大三郎/集英社新書)を時節がら読んだり、いま、その末尾宣伝にあった『三島由紀夫 二つの謎』(大澤真幸/集英社新書)を読んだりしているのだが、後者のほうがミステリを読むようにオモシロイ。どうも前者は、日本の最高頭脳の対談にしては、やや通俗的に過ぎるような気がするからなのと、後者は「謎」に挑んでいるところが/名探偵みんな集めてさてといい/を彷彿させるからなのだが。私もまた同じ大澤老師が扱っているように「謎」だとおもっていたので余計にオモシロイのだ。
ところで、それについてここで自説を展開する気はナイ。
やはり、稽古だなあ。今回の演目でavecビーズは解散、最終公演ということになるのだが、そこで、私が企んだのは、ここからネタバレになるのだけれど、そういことは気にしないタチだから述べてしまうが、/小劇場演劇/などとメディアが持て囃す以前の、私たちのコトバで云えば「自主制作演劇」みたいなのを創りたいということで、そこで、ここまでにワカッタのは、よーするに小劇場演劇というのは「明日くるひと」による「明日くる演劇」だったんだなあということだ。つまり「若い」ヒトのものだったんだですよ。オレだって若かったもの。そうか、いまの世界は「若い」ヒトはそれどころじゃナイのだろう。ゲームしてるか、アニメ観てるか、コミック読んでいるか、仕事も銭も、そうして肝腎の「明日」が無いのだ。卑近に云うなら「暇がナイ」。まあ、明日になったら今日だから永遠に明日なんて来ないのだけれど。ともかく空いた時間は働かないと、いや働いても明日食えるかどうかワカラナイのがいまの「明日くるひと」で、こうしたことから私は「小劇場演劇が終わったいま」なんていいふらしているのだが、かつて活躍したロートルは何をしているかというと、ひでえのになると、自分の書いた戯曲の全集を出版するのに財を放出してるってんだから、そんな昨日のコトをほじくって棚に飾ってどうすんのと云いたくもなる。私も残すところ、アト千と一夜なのだが、ひとつだけヤッてみたいことがあって、いまの稽古と鬱病がとりあえずカンカイしたら、とりかかる。まだまだ孤独に死ぬことは出来ない。てなと云うと死亡フラッグになって、明日の朝、突然死んでたりするんだからナア。

2022年12月11日 (日)

アト千と一夜の晩飯 第三三夜 孤独死とはなんだ 4

フロイトの場合、その基本的な理路は意外に簡単に述べることが出来る。ようするに「無意識」があって、それは、本来的に封じこめられたものなのだが(忘却されたかのような)本音にはチガイナイ。それを「意識」化するのが「超自我」だ。ヒトはこの意識によって行動する。まあこんだけ(主筆の知識としては)。しかし、深く沈むれば、無意識というのは/「無」の「意識」/ではナイ。そんなものなら仏教になる。誰が訳したのか、これは英語ではUnconsciousであり、その意味を訪ぬれば「意識を失っている状態」、もっと卑近にいえば「なんとなく」である。無意識というのは「なんとなく」なのだ。そういえばなんとなく生きているもんな。つまりヒトは意識的に生きているのではナイ。意識的に生きねばならない状況ということもあるにはあるが(火事場から逃げるとかネ)、たいてい無意識に生きている。誰が「意識」的に恋をするか(銭で意識的にsexはするだろうが)。そうするてえとフロイトの定めた公式はあやしいのではないかという疑義が起きてくる。「無意識」という領域に「心的ナなんやかんや」が封じ込まれるのではなく、ヒトは本来無意識的な存在なのではナイか。で、ときに「意識」的になる。超自我もへったくれもナイんじゃないのけ。たぶんユングはほんとうはそんなふうにかんがえたのではないか。それがいつのまにか「無意識」という領域が単独、独立して存在するといいかえられたのじゃないか、などと穿ったりする(主筆程度の能力では)。
アドラーの心理学にも疑義はつけられる。ようするにアドラーの云っていることは「倫理性」あるいは「理性的配慮(判断)」があってのことではないか。親に殴られても我慢して強い子になる(主筆のようにドメバに耐える)。つまり逆境(主筆の場合は虐待)を反面教師として「修行・或いは反抗」する。しかし、ここには「関係性」はあるが「環境性」がまったく欠落している。戦争になって徴兵されたら、好き嫌いや理性(戦闘訓練はそういう面もあるやも知れぬが)で敵を殺すワケではナイじゃないか(たぶん、戦場では感情反応だろう)。この(環境という客観)の欠陥をポパーは突いてきた。だからアドラー心理学は似非科学だと切り捨てた。しかしポパーのいう科学哲学のイイカゲンさは/ともかく反証出来ぬものは科学ではナイ/という命題の中にいつも浮遊している。このポパーの命題が真だとすると、科学はいつまでたっても〈真理〉には辿り着けない。ポパーの云う「反証」はソフィストのゼノンの矢、現代数学風にいうなら「収束点列」といいかえることだって出来る。「反証」を重ねていく、繰り返していく。そうしてある「定理」「法則」に辿り着く。ところが、その「定理」「法則」はもはや/反証出来ない/のだから、似非科学に引き戻されることになる。そうなると反証ではなく「証明不能」の範疇だ。ポパーの科学哲学の着地点(或いは原点)はそこにしかなくなるのではないか。反証ではなく「半鐘」だ。落語『火炎太鼓』の「オジャンになる」だ。科学哲学(者)の著書を主筆は幾冊か読んだが、結論は/こいつらは阿呆だ。科学にも哲学にも無識だ。てめえらだけ頭がイイとおもってやがる/。と、主筆は持病の鬱病の悪化期で、aggressive、感情的になっている。だからこんなに前説が長くなるのだが、本論では何を述べればいいのかくらいは記憶している。
鬱病の〈負減-マイナス〉をアドラーの公式に依って〈正加-プラス〉に出来ないものだろうか。以前論じられた「独り言=独り手話」は遅々としてだがつづいている。これはフロイトから導いたものだ。初期量子論(だいたいコペンハーゲン派解釈の破綻まで)ではあるが、このまま十九の乙女子の乳房を舐めもせずが如くに死ねるものか(なんちゅう譬でありましょうか)
んで、つづく

2022年12月10日 (土)

アト千と一夜の晩飯 第三二夜 孤独死とはなんだ 3

前説代わりにアルフレッド・アドラーという心理学者の逸話をひとつ。
/アドラーは心理学の講義を行った後、用意された昼食を学生たちと楽しんでいた。だが、ひとりの女性は、サンドイッチと飲み物だけの昼食が続くことに腹をたてて云った。「毎日アドラー先生にサンドイッチを食べさせるなんてひどい。先生のような偉大な方に」と。アドラーは女性にこう云った。「いいですか。もしも私の中に偉大さというものがあるとすれば、私が食べたもののためではありませんよ」/ここにアドラーの人格はすでに殆ど現されている。
アドラーはフロイトとも交流があった。しかしフロイトのいわゆる「無意識→意識」という図式には賛成していなかった。アドラーは、医学の知識を通じて社会をよりよくしようと考えていた。/私たちは、自分の経験からの衝撃、いわゆる外傷に苦しむのではなく、まさに自分の目的に合致する外傷を作り上げているのです。私たちは、自分の経験に与える意味によって自分を決めています/(人生の意味の心理学)。無意識の中に抑圧された性衝動やトラウマが人間の意識や行動に大きな影響を与えると考えたフロイト。それに対しアドラーは過去の衝撃的な経験そのものよりも、その経験を心の中にどう位置づけるかという「意味」こそが人間の行動を支配していると考えた。貧しい家庭で育った子供が「だから自分は恵まれた人生を送れない」と考えるのか、それとも「逆境をはね返してみせる」と奮起へのバネとするのか。自らが置かれた環境にどんな「意味」を与えるかによって、人生の結果も大きく変わる。これがアドラーの個人心理学だ。このあたりは、黒澤明『隠し砦の三悪人』のあの秋月家の生き残りである雪姫の有名なせりふに応用されている。auditionで選ばれた雪姫役の女優はほぼ素人だったため、聾唖(に化けている)という設定になっていたが、一カ所、衝撃のせりふをもって、自分の命を奪いに来た敵将を叱咤説得するのだが、それは、映画を観たほうがイイ。感動のシーンだ。
もうひとり交流のあった科学哲学者のカール・ポパーはアドラーの個人心理学は疑似科学だと批判している。 ある時、ポパーは小児患者の症例をアドラーに報告した。しかし、アドラーはその患者を診た事さえないのに、自分の劣等感理論によってその事例を事も無げに分析してみせた。こういうことをするとポパーによって、アドラーの個人心理学はどんな事例も都合よく解釈でき、反証可能性の無い理論はニセ科学であるとされてしまう。どっちが阿呆か、「科学哲学」者たちのご本を何冊か読むとよくワカル。読んでみればヨロシイ。主筆も読んだ。あいつらはほんまに阿呆だ。
ある種の寄生体を宿すオオカミはリーダーになりやすいが、リスクを冒す傾向が強い。1995~2020年に採取したオオカミ229匹の血液から、トキソプラズマという小さな寄生虫が感染した痕跡があった。この寄生虫はネコ科動物の腸に生まれ他の動物も渡り歩く。健康であれば症状はほとんど出ないが、脳や筋肉に巣くう。寄生体がオオカミに何をしたのかはよくわからないが、調査チームの一人は「脳を操っている気がする。ホルモンの分泌を変え、リスクの高い行動を促しているのかもしれない」と疑う。
と、本日は前説だけで終わる。日経、毎日、の電子版からサンプリング、リミックスして、自説を加えただけだけど。前説なので、次は本論を述べる。
つまり、つづく。

2022年12月 9日 (金)

アト千と一夜の晩飯 第三一夜 孤独死とはなんだ 2

ゼロコロナにロシア侵攻。あちこちで「専制(独裁)主義」の横暴とそれに対する批判、抵抗が試みられているが、日本だって、専制(独裁)企業の花祭りはこの生活圏(日本)に住むものにとって批判、抵抗の対象にしたいところだ。たとえばエネーチケー、たとえば、電子機器会社、観もしないものに二倍銭を出せと云い、壊れてもいないのに買い換えなければメンテもupgradeもナシだと云い。これらは コンプライアンス(法令遵守)の逸脱ではないのか。独占禁止法か゛企業どうしの法令であれば、企業と消費者との法令はどうなってんだろ、この国は。
以上、前説オワリ。きんののつづき
たとえば、ほんの日常生活の依頼も、鬱病者にとっては苦吟になる。
〇「主筆は昼飯も晩飯も自炊ですやろ。まあ、昼は自分だけやからナンデモええとして、晩飯、連れ合いに/今晩は鍋にしますか/と、連れ合いとしては、主筆の心身状態を考慮して簡単な献立(野菜を切るだけでイイ)を頼んだとします。たまたま、そういうことがあったので、蒸し返しているワケではけしてナイんですが、ワカリヤスイので一例として挙げておきましょう。
●「鍋がどないしたんや。いつも冬になったらつくって食うてるやんけ。
〇「鬱病者は、その症状の重いとき、このいつもなら簡単な鍋の準備がどういうものになるかちゅうこってすな。
●「鍋やろ、野菜と、鶏肉かなんか買うてきて、切って、だし汁つくってそんでほぼオワリやないんか。
〇「普通のときならそれでオワリなんですが、鬱病者は普通ではナイ。ここで、/外に買い物に行かねばならない/という簡単な作業に対して、/どうやったら外に出られるか/をかんがえるところから始めねばならんのですわ。
●「えっ、そんな、捕虜とか拉致で捕まっているワケでもナイのに、ポイと自転車で坂を下ったらスーパーやんけ。
〇「しかし鬱病者はどうしても外に出なければならない事情を必死でかんがえます。しかも特種な事情ではなく、いつものようにthrough出来るナニか。で、いつも外に出るときのことをあれこれ冷や汗一斗でかんがえて、そうか、洗濯物の乾燥にコインランドリーに行こうということに決めます。そのためにあまり溜まってはいないんですが、洗濯をする。
●「ちょっと待て、なんでソコからやねん。
〇「ワカリマセン。洗濯をして乾燥機にかけて、乾くまでの30分を活用すれば、スーパーで買い物が出来る、と、そういことなんでしょう。で、そうします。さて、スーパーでまた思慮に沈みます。/鍋とはなんだったろう。何を買えばいいのだろうか/でんな。
●「いつものことなんやろ。
〇「正常であれば、いつものことです。鬱病は正常ではナイんです。これが鬱病です。健常者からみれば、そんなアホな、でんねんけど。買い物済んで野菜を切るために包丁を持つまでが、また似たような心的状況でんな。
●「なんや知らんけど、鍋一つやろ。そやのに孤独死に引き寄せられる気分になってきたで。
〇「でっしゃろ。こんなこと、理解せえ云うほうが無茶ですわ。そやけんど鬱病者当人にとってはこんな日常的な営為がまるで爆発物の解体作業のようにプレッシャーになるんですな。鬱病者のおもいは一つ/日常から乖離したい/かなあ。ここが死ぬか生きるかの別れ道ということになってくるのですワ。
●「たかが鍋が、なべがあっ。そら、無理やで、理解も了解も配慮も考慮もせえちゅうほうがオカシイわ。
〇「他者だけでなく、鬱病者当人にもそれは出来ませんねん。これやから、鬱病はもう地回りに難癖つけられてるようなもんです。

:というところでもちっとつづけましょう。

2022年12月 8日 (木)

アト千と一夜の晩飯 第三十夜 孤独死とはなんだ

/警察庁によると2019年、全国で行方不明者は約8万7千人。行旅死亡人は年間600~700件ほどが官報に公告される。高齢者の孤独死に関する公的な全国統計はないが、ニッセイ基礎研究所が2011年に発表した推計では年間約2万7千人に上っている/(毎日・電子版、ここで「行旅死亡人」という耳慣れないコトバが登場するが、これは「死んだのが誰なのかワカラナイ」死に方をしている遺体のことをいう)
「孤独死」だってそれ以上に定義がワカラナイ。文字通り読めば独りで死ぬことなのだが、ふつう心中でもナイ限り、いや厳密に云えば心中すらも、死ぬのは当人独りなんだから、「死ぬ」というのはすべて「孤独」なのだ。ところで、この「死ぬ」というのはどういうことなのだろうか。生物学的には、「脳死」だろうし身体的に内臓活動の停止だろう。もうちょっとチガウ角度から観れば/この世界との関係を断たれること/といえなくもナイ。では「あの世」はあるのか。釈迦牟尼曰く「霊魂不説」。そういうことはいくら論じてもかんがえても答の出ないことなので説くことは不可能だということだ。新興宗教のけっこう多くは、熱エネルギーの第一、第二法則から「霊魂不滅」を声高に云う。たしかに、孤独死だろうが集団死(まあ、戦死とかかな)だろうが、生物学的にではなく、物理学的に「死ぬ」ということはエネルギーの消滅を意味しない。とはいえ、霊魂として残るということはまず有り得ない。何故なら「霊魂」とやらがナンダかワカラナイのだから。
ともかくも「死ぬ」ということがどういうことなのか自体がワカッテいるようでワカッテいない。たしかにこのニュートン力学的世界からニュートン力学的、生物学的に不在になることはマチガイナイ。じゃあ、どうなる。hereafter(死後、ここからアト)は、どうなる。それは諸説あるし今夜の話題ではナイので、本論にもどる。
わたくしが述べたいのは「孤独死」というのはアカンのか、という疑義だ。もう少し絞り込んでいうと、誰にも理解されず死ぬというのも孤独死だが、それはアカンのか。これはわたくし自身の立場でもある。だいたい鬱病なんてものは終に誰にも理解されない。鬱病それ自体が死因になることはナイが、鬱病による〇〇で死ぬことは年間で3~10万人だろうと推定されている。推定というのは、勘定の方法がナイから、推定なのだ。多いのが自殺だが、双極性障害の場合、うつタイプは自殺が多いけれど、幸いにもクスリの効果が大きく、入院さへすれば自殺は防げる。ごく大雑把にいわれる鬱病の場合、自殺も多いことは確かだが、自殺念慮は鬱病自体の特徴によってたとえ生じても「自殺出来ない」状況にさへあれば防げる。これは防ぐというよりも当人にとってはより残酷な刑罰のようなもので、たとえば、/おまえが、自殺するならこの子の命は無いぞ/と人質なんかをとられたら、死ぬワケにはいかない。みたいなものだ。鬱病者は苦しみながら「生きなければ」ならない。それなら「孤独」だろうがなんだろうが、死んだほうが楽なのだ。いや、ほんとに楽かどうかは、それで死んだ者に訊ねたことがナイのでワカラナイが。
:て、ことで、つづけます。

2022年2月 9日 (水)

Sophism sonnet・69,8-13

無題放免

「剰余価値について」というのがSophism sonnet・69,8-13のタイトルでこれをお読みになった方もあるとおもうが削除した。理由は鬱疾患の症状が書かせた文章(文案)だからだ。2/4あたりから強い鬱疾患の症状があったのだが、ともかく2/7にブースターワクチン(三回目接種)だったので、それまでなんとか誤魔化して(鬱疾患における対策、対応には誤魔化すというのも必要な手練手管なのだ)。
ともかく接種は終わって、熱が低体温(といっても35,6℃だから医療的には低体温とはいわないが)、血圧は多少高く、143-85だったが、私のような高齢者でこの年齢(六十九歳)の平均値は145-90だから、まあ、たいしたことはナイ。ただ、さすがに副反応というだけあって、ヒトの弱みに(弱点にかな)付け込んでくる。鬱疾患の症状がひどくなってきた。自殺念慮が強く、普通は朝だけのeventなのだが、これが日中、四六時中続く。その反動というか、打ち消しとでもいうか、ここでは書けない〇〇・・・nの連中をスコープ・ライフル(狙撃銃)でひとり一人狙い撃ちしたくなる。Aggressiveになって、いろいろなことに腹が立ってくる。しかし、そういうのは、鬱疾患の症状が治まれば「まったくマチガイ」ということで納得するので、ただ、いつものように(ではナイが、不機嫌と無口になるのだが、出来るだけ)振る舞っている。とはいえ気力の落ち込みで何にも出来ない。以前にも書いたが、「喉が乾いて水が欲しい、目の前にコップ一杯の水がある。手が届くのに取ろうとする意欲が消されている」という意味で出来ない。出来ることをと、何かブログを書くと、「なんじゃ、これはっ」になって赤面逆上。ただただ「泳ぎたい」という欲望だけはある。素潜りで50mばかり泳いでクロールでターン。きっと気分がイイだろうなとおもう。
こういうときはいつも、パソコンも付き合いが良く、動作が妙になる。朝からデスクトップのアイコンが変化したままだ。
晩飯は何をつくっていいのかワカラナイ。とりあえず浅蜊の味噌汁の準備だけはした。
アルコールでもぶち込むかとおもうが、経験上こういうときの酒は痛みを誘発する。
本日は精神科の担当医との電話診療の日で、ともかく現状を報告して終り。世間では精神科の診療についての誤解が多い。私はいまの医師とは長い付き合いなので、たいていこちらが報告をして、向こうがcommentをして10分で終わる。それ以上時間をかける精神科医はヤブである。何かクスリを出すなんて医師はキケンである。下手な役者の何が下手か一回の演技で見抜けない演出家や、別のtakeをと、さまざまなtakeを要求する監督もヘボだとおもったほうがイイのと同じ。客観でも主観でもナイ高画質な視観(high image)を求めないとダメだ。 

2021年9月16日 (木)

無学渡世・第二幕の13

/日本精神科病院協会は15日、全国の精神科病院に入院中に新型コロナウイルスに感染した患者のうち、235人が重症化しても治療設備が整った別の病院に転院できずに死亡した、との調査結果を発表した/
/同協会の山崎学会長は記者会見で「医療体制が逼迫したというだけではなく、精神科患者だから転院を拒まれた例もあると思われる」と話した/(二つとも@niftyニュース2021/09/16から抜粋)
あるんですヨ、こういうこと〈いま〉でも。もちろん、私も当事者として経験しております。
それはまあ、世間と協会の問題ですから、別にコメントありませんということにして、
私の「とんでも学説」は日々遅々として進んではおります。感覚的にですからエビデンスは何もナイのですが、どうしても鬱疾患と重力は無関係ではなさそうだ。重力場とその励起が疾病の症状に関係しているのではないか。といった程度なんですがね。
重力子が発見出来ないのは(重力波でなら実験場で昨年だったか世界初観測されました)重力子が陽電子のようにともかく充満していて、ディラックの海のような状態なんじゃなかろうか。と、「とんでも」では、この程度のレベルでしか了解出来ない。
つまり、太陽や月に慣性重力があるように、ヒトにも慣性重力、さらには加速度重力があるはずだ。よってそのエネルギーの作用で鬱疾患の症状は左右される。
週のはじめから二人芝居の稽古に入りました。実に奇妙な二人芝居です。台本を読みつつ、それに加筆やカットなど訂正しながら、舞台が進行しますから。むかしあった『11:PM』の大橋巨船司会、あの番組を観ているような感じですワ。稽古中はエネルギーが安定しているので疲労感はナイのですが、入る前と終わったらどどっとキツイですネ。しかし鬱疾患の症状でどんなに易疲労があっても稽古はします。それやんないと自信がつかない。「やれる」という確認のためにヤっているワケです。
来年2022年の三月にシス・カンパニーでなんとか舞台がパブリックで上演となりやんした。詳細はシスのホームページ観て下さい。主役の方のことはまったく知らないで書いてるんですが、このあいだ顔写真みて、「ああ、この方ならなんとか」なんておもってますな。ひでえ脚本スタッフでやんすな。元乃木坂の若手が初舞台です。可愛いひとですよ。ミステリでちょっと隠れテーマにジェンダー入ってます。と、宣伝でござんす。
いろいろ「妄想的同化能力」(fictionでは想妄同気の法なんて書いてますが)発揮して稽古しちょります。
ゆんべは久しぶりに普通に眠れたので、ほっとしている稽古初めのここんとこです。

2021年8月15日 (日)

無学渡世・第二幕の12

ため息交じりでちょっと整理してみると、鬱疾患について私は次の二つのことを一発狙っているらしい。
・ともかく、かくなるワカラン鬱疾患という疾病のまま、それが原因、要素でなくとも死ぬのは癪なのだ。治らないことは重々ワカッテおります。いっとう最初の診察のアト、「この病気は治りません」といわれたからな。それでショックを受けたということはナイが、「なんか損したなあ」(イチバン損したのはいわゆる症状としてE.D〈勃起不全・射精困難〉になったことですナ〉という気になった。だから、この鬱疾患が「ナンで」あるのかは、自燈明。納得して死にたい。
・鬱疾患を精神病領域から離脱させて、力学的に捉えたい。何故なら力学には熱力学もあれば、散逸構造論も含まれる。それには、自然の本質を解く(説く)量子力学が便利そうだ。
便利そうだといっても、発展途上の最新科学において半可通の私の理解は一知半解でしかない戯言である。しかしまあ、それはいいやとかんがえる。ボーアやアインシュタインだってマチガエたんだからな。

そうそう「励起状態」という語彙が気になっていたので調べてみた。
/量子力学的な系の原子・分子などのとりうる状態のうち、最もエネルギーの低い基底状態よりもエネルギーが高い状態/だそうで、つまりそれが「粒子」と理解されているのか。ふーん。これ(「励起状態」)はこれでhintだな。たとえば、/量子力学的な系の原子・分子などのとりうる状態のうち、エネルギーのもっとも低い状態/を〈うつ状態〉とモデル化してみると、「粒子」である「励起状態」は/エネルギーが高い状態/という状態で、これはふつうにいう〈躁状態〉ということが出来る。私たちはいともたやすく鬱疾患の量子力学的なモデルを一つ、手に入れたことになる。
ここで/原子・分子/と断り書きがしてあるのは、ニンゲンのような生命体を生物として扱うとき、量子力学それ自体としては扱えないことをいっていることになる。シュレディンガーは量子力学には懐疑的だったが、彼の講演『生命とはなにか』はやがて分子生物学の基礎となる。原子・分子レベルまで拡張すると、身体として分析、解析が可能だということになる。鬱疾患をニュートン力学系ではなく、量子力学系の分子レベルで比喩、例示していくとどうなるのだろう。ここで、「励起状態」をもう少し詳しく、毎月、銭払っているウィキペディアでみてみる。
/量子力学において、励起状態は、系のハミルトニアンの固有状態のうち、基底状態より高いエネルギーの全ての固有状態を指す。励起は、光、熱、電場、磁場などの外場によって引き起こされる。励起により、基底状態にあった固有状態は励起状態へ、励起状態にあった固有状態はより高いエネルギーを持った励起状態へ移る/。

2021年8月12日 (木)

無学渡世・第二幕の11

/私たちは鬱疾患者は常にどこかで「私」と干渉(関係)する場合、何か「ズレた」感覚で干渉(関係)している/と、これが作用素を通過したoutput(出力)だとすると、そうして、これが「固有状態」だとすると、input(入力)したときも、/私は何か「ズレた」感覚で干渉(関係)していた/ということになる。しかし、入力したときの私は私でしかナイ。この矛盾は、/私→「私」と作用素で変容したことになる/、という「固有状態」の在り方の掟破りからきている。波束の収縮は入力のときにすでに「ズレた」感覚で起きていて、作用素(この場合ダブル・スリット)を通過したことになる。つまり、結果が原因を変えたということができるということになる。これは時間軸的には、ニュートン力学系では扱えない。
この/結果が原因を変える/というかんがえは、「因果」のまったくの可逆現象なのだが、いわゆる「遅延洗濯実験」として現在の出来事(事象)によって過去を変えることが可能になる、と大真面目に議論されたこともあった。それは、量子が波なのか粒子なのか未だ解決していなかったむかしのことで、実験そのものも、量子が波か粒かを検討すべき実験だった。これは実験そのものの中にほんのちょっとニュートン系力学が交じっていることの立証によって否定されているが、タイムマシンめいたmiracleもそのオマケだったといわざるを得ない。
ところで、あまり詳しくは解説出来ないが、「固有状態」で波束の収縮現象が観測されるのはシュレディンガーの波動関数においても、作用素の状態が「純粋状態」と称される場合のみで、「混合状態」ではそれは生じない。それには「密度行列」を必要とするのだが、また、量子を粒子として現象させているものは/電磁場の量子的な励起状態/という、私の手には終えないところ以上に量子力学は進んでいるのだが、あまりに鬱疾患から離れるとmemo程度が混乱してしまうので、その辺りの学習はここまで。
私のかんがえも、もちろん、そういうタイムマシンのような現象を肯定しない。けれどもこの入力と出力の関係を解消するのには、ここにおける一切のニュートン力学系を排斥しなくてはならない。たとえばそれは、電子が一個の粒子で飛んでダブル・スリットに入るときに波になり、スクリーンに到達するときに粒子となる、という運動そのものを否定してしまう(このボーアが提唱した相補性も実験で否定されている)。電子は発射されたときから波であり、粒である(これが現在は電磁場の量子的励起状態とかんがえられているソイツね。しかし、まあ、粒々のほうがかんがえやすいので、粒子ということにすると、作用素を通過するとき(ダブル・スリット通過の場合はハッキリと波というとイメージしやすいのだが)、そうすると、スクリーンに到達したときの痕跡は波束の収束なのだろうか。そもそも「スクリーン」とは何なのだろう。今一度問う。スクリーンの痕跡は波束の収束なのか。それとも電子と「スクリーン」との融合という現象でしかナイのではないか。鬱疾患という波は、どこで「ズレないで」重ね合わさっているのだろうか。鬱疾患の波の正確な重ね合わせは可能なのだろうか。これは/正確に波が重ね合ったとき、鬱疾患は終息する/という命題の解になるはずなのだが。たぶんスクリーンへの到達は鬱疾患の終息を意味しない。
さあ、いうだけいって、書くだけ書いて、ますます道のりは困難になってきた。聳え立つ断崖を眺めて私はそんな場所に立っている

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