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カテゴリー「宗教哲学」の記事

2019年7月15日 (月)

港町memory 30

つらつらつれづれと書いていますが、原作は560ページの長編で持ち歩くのには不便な長編だったそうで、原作のレビューをサクサクと読みましたが、こりゃあ、尾崎将也脚本の大手柄なんじゃないかなと、圧倒的WOWOWドラマ勝利なんだなあと感じました。
脚本と戯曲はチガイマスが似たりよったりの部分もあります。ザックリcutする。スッキリcharacterを変える。なにしろ、テレビ(や、映画、舞台)は「目にみえます」から。永作博美、市原隼人、杉本哲太を相手に活字じゃかなわない。
戯曲を書くコツはなんですかと訊かれると/視覚的(みえるよう)なせりふを書きなさい/と応えますが、手品のタネを教えても手品が出来るとは限りません。と、いうか、「それって、どういうことですか」と問い返されます。で/観音さまというのは、音を観る菩薩です/といいますてえと、「亜スペルがーってこわいねえ。自分のこと菩薩だなんていってるよ」てな顔されます。
で、あらすじのつづきです。が、その前に、
/かつての恋人の弘志(市原隼人)が、弁護士の矢田部(田中哲司)に美紀のことを話し始める/
この部分は、おそらく原作ではさほど重視されていない(書き込まれていない)のではないかとおもわれます。法廷部分は緻密に書き込まれていて、退屈したとrevueがありましたが、で、尾崎さんはさほど書き込まれていない、love scene、このepisodeをみごとなplotに脚色したんだろうというのが、同業者としての私の推測。
美紀と弘志の束の間の幸福。これがとてもよろしゅうござんす。/不幸中の幸い以外に幸いなどというものはナイ/です。
/今度は警視庁に逮捕された美紀(永作博美)は、鳥飼(大倉孝二)の取り調べでも否認を続ける。逮捕の現場に居合わせた弁護士・矢田部(田中哲司)は美紀の弁護を名乗り出る。一方、この事件に興味を持ったテレビ局のディレクター・高井(甲本雅裕)と立花(藤本泉)は、過激な報道で美紀を追い詰めていく/
この辺りで、美紀の過去と、家事代行業をしていた先の独居老人の不審死が浮かび上がってくるのですが、それらはつまり偶然の連鎖でしかナイに関わらず、あろうことか、美紀自身が「自分と関わりのあったひとは不幸になるのではないか」という関係妄想を持ち始めます。これが眠狂四郎あたりがいうぶんにはカッコイイんですけど、美紀はそうはいかない。虚無なひとではありませんから。
ともかくあらすじを最後まで記しておきます。
/ついに美紀(永作博美)は、馬場(北村総一朗)の事件で起訴される。美紀に関わる老人たちの不審死が次々と明らかになる中、美紀を守るために弘志(市原隼人)が取った行動も裏目に出てしまい、報道は過熱する。美紀は何も語らず、ついに裁判が始まると、美紀の正体が徐々に暴かれていく/
ドラマでは弘志との出逢いも、弘志が美紀を信頼する根拠も、ネットカフェの急病人に対する美紀の緊急処置にありますが、たぶん、原作では、美紀に看護師資格などはなかったのではないかというのが、私のまたまた推測。なんでかというと、そういう職業経験は美紀にはカッコ良すぎてともかく/不幸なヒト=美紀/には不似合いになる。このへんは読み物と見せ物のチガイ。ビンボを徹底してビンボにすると、ドラマでは不幸を通り越してお笑い落語長屋になっちまいます。そこでドラマでは、不幸をテキトーにsaveして、美紀はアホではナイ。Communication能力は優れている。なのに、〈沈黙〉が支配する。という/謎/を追います。
美紀の沈黙も具体的にいうと/取り調べでも否認/なんですけど、美紀にとっては否認というよりも/ほんとうのこと/をボソっといっているに過ぎない。それは自分の人生に自信がナイから、に起因している。善かれとおもってヤッた家事代行で、雇い主が次々と不審死しているんですから。こうなるともう、サマリタン問題にマルキ・ド・サドの『ジュスティーヌ~あるいは美徳の不幸』(ただし渋澤龍彦、訳の初期稿)まで加算されてくる。しかし、ああ、それ、いいですねえ。永作さん主演で。それも観たいナ。
ともかくも視聴者の興味は(と、いうより脳裏の夜霧、いや過りですね、これはもう)「何故、彼女が黙っているのか」だけに収斂されていきます。と、同時にもう一つサマリタン問題としては、「この世間でナニかをスルということは、理由よりもアリバイのほうが必要なのではないか」という不安あるいは恐怖感のようなものがココロの底を這いずり始めます。自らが生きるために他人に何かスルということは、たとえそれが善行であっても、善行として成されるか(作用するか)どうかは〈関係の確率〉に決定される。とすると、/何もシナイ/のがイイのかって、そんなこと現実に出来そうにアリマセンから、私たちの存在というのは、サマリタン問題的に分析しちまうと、生きていくだけで〈悪〉に成ることがある。
と、ここで終わっちまったら、インテリの偽悪、絶望ドラマでしかアリマセン。
さあ、そこで、WOWOWドラマチームは賭けに出ます。美紀に沈黙を破らせるのです。
永作(山本美紀)博美にこういわせます。
「私にもし、罪があるのなら、希望を棄てたことだとおもいます」
こういうせりふは、よほどの勇気、覚悟、決意がナイと書けない。三流ドラマや似非劇作家、疑似脚本家ならともかく、こういうせりふはせりふ自体ではなく、ドラマであれば永作博美さんの演技を心底信頼しないと書けない。
ドラマは山本美紀の無罪で結審、永作(美紀)博美は、市川(弘志)隼人と、船で旅立つhappy endingになりますが、そのあたりは、なんとなく往年の日活アクション映画のラストシーンを彷彿とさせます。胸を撫で下ろすところです。
結語。つまり、サマリタン問題、善きサマリア人のたとえの答とは仁慈と憐みではなく、信仰義認でもなく、ヒジョーに単純ながら、「希望」だったということになります。原作レビューではラストシーンが/物足りなかった/拍子抜けした/呆気なかった/という落胆の傾向が多くみられます。ここも活字と動画の差です。
昨今、何が難しいかというと〈希望〉を語ることです。/希望/を書くことが最もアポリアな課題なのです。パンドラの函は底からぬけて、最後に残るはずだった〈希望〉が真っ先にどっかいっちゃったもんですから。
けれども〈希望〉を書かねばなりません。たとえどんなに絶望に侵されていても。どんなカッコワルイ生活をしていても、平気で希望が書けるようになったら、一流でんな。 

2019年7月14日 (日)

港町memory 29

さて、あらすじです。
/東京・赤羽で資産家の老人・馬場(北村総一朗)の変死体が発見され、赤羽所轄の刑事・伊室(杉本哲太)と西村(臼田あさ美)は警視庁の刑事・鳥飼(大倉孝二)とチームを組み捜査に当たる。すると、容疑者として家事代行業の女・山本美紀(永作博美)が浮上する/
この馬場さんは独居です。変死体というのは、椅子に坐ったまま(後ろから紐状のもので)首を締められて殺されていたからです。馬場さんは資産家ですが、それは殆ど不動産です。そこで、不動産屋の女が登場します。300万円の商談が成立して現金を手渡したが、それはみつかったのかと、逆に刑事(伊室と西村)に訊ねます。もちろんみつかっていません。これは大事な伏線だというくらいならミステリファンでなくてもわかります。
刑事二人は聞き込みで馬場さんの女関係から、昨今出入りしていた山本美紀の存在を知ります。しかし、これは家事代行業です。とはいえ、犯行当時(殺されたその日)出入りしていたのは彼女だけです。長男も現場に顔を出します。この長男が真犯人だということはミステリファンにはすぐにワカリマス。あまりに登場のタイミングが良すぎます。
ところが、どうしたって怪しいのは山本美紀です。捜査も彼女を対象に絞り込まれます。彼女は犯人なのか、そうでナイのか。ここで、この(一応)ミステリが、「Who done it = 誰が犯行を行ったか」に重点を置いているのなら、そちらに物語は傾斜していきますが、そうではナイ。むしろ物語の傾向(興味)は「Why done it=なぜおこなったか、犯行に至った動機の解明を重視」にベクトルを向けています。さらにこれは、次第に山本美紀が取調室や法廷で殆ど「語ろうとしない=沈黙」は何故かという「Why」になります。ここがこのドラマのstandard(立脚点・立ち位置)なところです。視聴者はそこに引きつけられていきます。サマリタン問題をmotif(あるいはtheme)にしている部分に該ることが、これまた次第にワカッテきます。
あらすじには書かれていませんが、時系列として、市川くんが港にいるところがintroductionです。

/赤羽署の刑事・伊室(杉本哲太)らは、目の前で埼玉県警に美紀(永作博美)を連行されたことで焦っていた。一方、埼玉県警の刑事・北島(菅原大吉)は美紀の事情聴取を始めるが、美紀は罪を認めない。そんな中、かつての恋人の弘志(市原隼人)が、弁護士の矢田部(田中哲司)に美紀のことを話し始める/
拘留には期限があります。美紀の黙秘と意味深なだけの自供(たとえば埼玉県警に述べた「貧乏は悪いことですか」赤羽署での供述「9万6千円のマンションを借りたのはガスの取り口が二つあったからです」など)からは得るところはありません。で釈放になるのです。しかしまた赤羽署でまた逮捕。このときに、家事手伝いだけでは不相応な高めのマンションを借りた(そのお金は馬場さんから借用している・・・これはちゃんと供述している)理由は、恋人の市川くんと交際が始まっていたからだとおもわれます。少なくともWOWOWドラマでは、そう解釈するしかナイ。
弁護士の矢田部はダメ弁に描かれていますが、原作ではそうではナイようです。しかし、テレビ・ドラマとしてはそのほうが、絵やcharacterとしてオモシロイ。小説には小説にあったcharacterの描き方があり、テレビ・ドラマにもそれなりの描き方がありますから、そういうところでの優劣はアリマセン。けれども、原作を先に読んでいたひとにはどうしても違和感が生じるでしょう。(こういうことがあるので、私、二つとも、というのはなるたけ避けています)
さて、視聴者にも、美紀の沈黙の理由の一つがワカッテきます。というか、美紀は沈黙(いわゆる黙秘権の行使)などはしていないのです。ほんとうのことをポツリポツリと語っているのですが、それでは彼女を犯人には出来ない。決定的にゲロを吐かさなければ、というのがケーサツですから。
ケーサツは取り調べのプロです。私もサツ廻りの新聞記者にいろいろと逸話を聞きましたが、たとえば、こういう尋問法もあります
ケ「〇時〇分、オマエはほんとうに〇〇にはいなかったんだな」
ヨ「いませんでした」
ケ「絶対にか」
ヨ「はいっ」
ケ「よし、これで犯人はオマエだということが確定出来た」
ヨ「ええっっっ」
引っ掛けなんですけどね、アリバイ崩しの一方法で、容疑者を錯綜、混乱させる手口です。
(まだつづきます)

港町memory 28

気になっている方もいるかも知れませんので、サマリタン問題(今後『善きサマリアンのたとえ』はこのように称することにします)にフリードリッヒ・ニーチェがどうサラっと応えているかを記しておきます。手元にtextがありませんから、これは超訳ならぬ超記憶訳になってしまいますが、ニーチェはだいたい次のようにいっています。「道端にヒトが倒れている。そこに通りかかって、そのヒトにどうしました、大丈夫ですかと声をかけたり、抱き起こしたりするのは人間の人間としての/アタリマエ/の営為であって、その営みには宗教上の信仰や道徳も教義、方針なども一切関与する余地などナイ。それをさも宗教上(キリスト教)の愛だの善意だの信義だの信仰の領域に引っ張り混むなどは狂気の沙汰だ」くらいのことは怒鳴り散らしていたと記憶しています。(あんまりサラっとはしてませんね。上方ぼやき漫才のようです。よって、これには私、大笑いしましたけど。哲学の書を読んで笑ったのはニーチェくらいでしょうか。しかし、ニーチェはここでタイセツなことも述べています。真にキリスト教徒はたったひとりだけだ。イエス・キリストがそうだ。つまりニーチェはキリスト教を全否定してなんかいないのです。ローマン・カトリックを唾棄しているのです)。

私自身は、このサマリタン問題を以前『画学生とパン屋の女子店員』のたとえで、このブログにあげたことがあるので繰り返しはしませんが、そのときの私自身の感想は、「情が仇」「善意の悪意」とでも要約してしまいましょうか、当人の意思とは裏腹に、誠意や思慕、努力や献身がまったく〈負〉の作用としての結果することが世間には数多あり、それは、なんらかの関係のあるものに対して〈関係の確率〉として必ず生じてしまうものだが、確率であるがために関係者の関与は極めて消極的に制限される。という一つの〈絶望〉的な悲哀でした。
しかし、佐々木老師原作のWOWOWドラマ『沈黙法廷』はミステリとは銘打っていますが、まったくミステリではなく、サマリタン問題の〈絶望〉に立ち向かって、〈希望〉を導き出しています。(まあ、多少の無理、コジツケ、力業に傾斜している部分がナイとはいえないんですが、虚構、小説としては私はそれでもヨイとかんがえます。まして、役者の演技がそれを凌駕しています)。

私なりの、あらすじを書いてみます。
従ってここからは、ネット語の「ネタバレ」とかいうものに相当しますから、先に作品を読みたい或いは観たい方はどうぞそうして下さい。けれども、私はこの「(ネタバレ注意)と書かれることもある」という掲示ものものあまり好まぬほうで、手品のタネをバラシても、その手品が出来るかというとそうでないのと同じだから、優れた作品ならば、そんなことは気にしないでイイとおもっています。名人の落語は何度でも聴くでしょう。私にしても、このドラマについてのみいえば、原作小説を先に呼んでいても、観たとおもいます。永作博美さんのファンですし、市原くんとは映画の仕事で親子を演じたことがあるので、というのが理由です。ふつうは、/どっちも/食べることは殆どしません。それについてはそういう機会があれば説明します。
あらすじは、/ドラマ「沈黙法廷」のあらすじ一覧 | ザテレビジョン(0000927957)/をsamplingします。(ネット検索の結果、これが最もうまくまとめてあった)
長くなってきましたね。では、いちおう、〈つづく〉にしておきましょう。

2019年7月12日 (金)

港町memory 27

佐々木譲さん原作のWOWOWドラマ『沈黙法廷』(永作博美・市川隼人、他)について、もちろんDVDでしか観ていないのですが(しかも最近)、これくらいのものが書けないと小説家とはいえないなあと、物書きとして、べつの道の劇作家のほうに逸れた自分にほっとしているところです。その理由を述べる前に、このドラマのthemeあるいは重要なmotifであろう「善きサマリア人のたとえ」について、長くクドクなりますが、記しておきます。なんしろ/亜スペルがー/だそうですので。
/善きサマリア人のたとえ(よきサマリアびとのたとえ、英語: Parable of the Good Samaritan)とは、新約聖書中のルカによる福音書10章25節から37節にある、イエス・キリストが語った隣人愛と永遠の命に関するたとえ話である。このたとえ話はルカによる福音書にのみ記されており、他の福音書には記されていない/(編纂者のローマ法王一世がのちのちの議論を嫌ったんでしょう。なんしろ、鶏三回のひとやからね)
「ある人がエルサレムからエリコへ下る道でおいはぎに襲われた。 おいはぎ達は服をはぎ取り金品を奪い、その上その人に大怪我をさせて置き去りにしてしまった。たまたま通りかかった祭司は、反対側を通り過ぎていった。同じように通りがかったレビ人も見て見ぬふりをした。しかしあるサマリア人は彼を見て憐れに思い、傷の手当をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった。翌日、そのサマリア人は銀貨2枚を宿屋の主人に渡して言った。/介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います/— ルカによる福音書第10章第25~37節
このたとえ話は教派によって解釈が異なるが、主題についての解釈は大きく分けて二つある。
一つは、仁慈と憐みを必要とする者を誰彼問わず助けるように、愛するように命じられた教えであるとする解釈(正教会、カトリック教会ほか)。
もう一つは、ユダヤ教的律法主義・キリスト教的律法主義の自己義認の誤りを論破するためのたとえ話であって博愛慈善の教えではないとする解釈である。この解釈は「人は善行ではなく信仰によってのみ義とされる」信仰義認の立場をとるプロテスタントが採る。(もちろん、ウィキペディアからの丸写しだということは断っておくが、これはよくまとめられた文言だと私はおもう)二つめがなんだか難しそうなのは、簡単にいってしまうと、キリスト教というのはなんで信仰するのかというと、そらもう、死後、天国に行くためにですが、善行がそれ決めるのではなく、信仰それ自体がそれ決めるワケでんな。この辺りはムスリムとおんなじかんがえなんですけどね。そやから、狂信的でなくても、なんぼでも神さんのためになら自爆テロやってもええんです。テロでの人殺しはけして善行ではありませんが、信仰のほうがタイセツなんでござんす。
さて、もう一つ、私の浅学によると、あのニーチェは明言こそ避けているが、このサマリタン論議に関して『アンチ クリスト』でサラッと述べている。(超訳も出版されていますが、そんなに長編ではナイので、読むなら白水社のニーチェ全集あたりが良いかとおもいます。ニーチェの著作の中でも、標的がはっきりしているので面白いです。ほんとうに笑えます。感動もします)
さらにもう一つ、サマリタン論議に想を得た『person of interest』(放送チャンネル‎: ‎CBS 放送期間‎: ‎2011年9月22日 - 2016年6月21日)も、ある解釈といえなくもありません。
このサマリタン問題、まさに〈問題〉です。紛争沙汰になった事例もあります。ウィキ、丸写しさせていただきます。
/ある夏の夜の深夜に、日本にある自宅クリニック前の路上で急病人が発生した。クリニックの医師が診察したところ、上気道閉塞を疑われる所見で挿管は不可能と判断された。救急車を手配して、転送のため近所の大学の救急救命センターに電話中、患者は吸気のまま呼吸が停止し呼びかけにも反応がなくなった。(首が腫れた状態で、喉仏の隆起もなく、気管切開が困難な状態であったが、一刻の猶予も許されないまま、)緊急で気管切開を行い、気管切開自体は成功したが、血管を傷つけてしまい、出血多量で死亡した。その医師を待っていたのは、警察による業務上過失致死罪の容疑による取り調べであり、さらには、当夜、あれだけ「助けてください」とその医師にとりすがった患者の妻からの弁護士を介しての損害賠償請求の通知であった/(平沼高明「良きサマリア人法は必要か」週刊医学のあゆみ第170号pp953-955、1994年)
さらに
/日本国内の医師に対して行われたあるアンケート調査によると、「航空機の中で『お客様の中でお医者様はいらっしゃいませんか』というアナウンス(ドクターコール)を聞いたときに手を挙げるか?」という質問に対して、回答した医師全員が上記の緊急事務管理の規定と概念を知っていたにも関わらず、「手を挙げる」と答えたのは4割程度に留まり、過半数が「善きサマリア人の法」を新規立法することが必要だと答えたという。より最近のアンケート調査では、89%もの医師が医療過誤責任問題を重要視し、ドクターコールに応じたことのある医師の4人に1人が「次の機会には応じない」と答えている/
長くなりました。んでもって、これを土台にして、『沈黙法廷』がなぜ名作、逸品、秀逸かをゴチャゴチャいうことにします。(次回につづく)

2015年12月28日 (月)

私想的生活-07

シミュラークルをおもちゃにしてだいぶ遊んでいるが、いまのところ、うつ病との闘病中なもんで、stress、frustration、の鬱憤ばらしする方策がナイので、とはいえ、こんな駄文ですら書けない(書く気力が失せる)という時間帯もあるのだ。書くことしか能がナイ私のようなケチな売文業者が、書く気もないとなると、なるほどこれぞ〈うつ病〉かと再認識する他はナイ。うつ病の鬱のほうはまだ周囲に迷惑をかけないが、これがaggressiveに躁転することがある。ちょっとしたことに腹が立つのだ。また、それを抑制、制御することがその時象では不可能なので、あとから、つまらんことに立腹したなあと自己嫌悪がやってきて、もう混乱、赤面逆上の極みとなる。
立腹とまではいかないが、「イジメ」てのをすることもある。いまはもう面倒なので、私は宗教評論を仕事にしているので、話をするなら10分千円請求しますよと、追い返すようにしたが、暇つぶしにそういう族(輩)をイジメたこともある。
その前に、そういえばこんな〈脅し・カツアゲ〉もやったな。いわゆる「手かざし」が流行していた頃で、路頭千里、巷に俄づくりの手かざし信者が跋扈して、「ちょっとよろしいですか」と、寄りついて来ることがあった。「手かざし教」の派生から御家騒動、分裂騒ぎ、GLAの高橋信次(故人・・・だが、彼自身の予言によると、21世紀初頭には生まれ変わっているはずなんだけど・・・)元主催との超能力(霊能力)合戦にいたるまで識っているこちとらとしては、何処の分派だか知んないが、ちょいとからかってみるかと虫の居所、「ああ、よろしいよ。なになに、そうか、手かざしでそんなに威力があるか。いやあ、いまオレ、具合悪くて困ってんだ。ちょいとやってくれるか。まあっ、立ったままもなんだから」と、適当なベンチに座って「いっとくけどな、坊や、オレはインチキや誑かしは大嫌いでな、そっちも命懸けでやってくれ」と、銃刀法ギリギリで持ち歩いているナイフをちらつかせて、「具合良くなんなかったら、その手のひらの真ん中にコイツをグサッという条件でいこうか」てなことをいうと、「あっ」とかナンとか、いって、「またアトにします」「いいよ、待ってるけど」と、走り去るその坊やのアトを尾けて、「おい、まだか」と、肩を叩いたりして、ほんとにロクなことやってナイな。
で、「イジメ」のほうは、たいてい女性二人なんだけど、玄関先で、向こうの自己紹介がすむと、「つまり、あなた達は神を信じているんですね」とやんわり始める。もちろん、肯定する。そこで「あなた達の信じている神様はどんなふうな神様ですか」と問いかける。「聖書に書いてある神です」とたいてい答える。そこで「聖書に書いてある神とはどんな神様ですか」と問う。もちろん、「これこれしかじかの神です」と答える。彼女たちもいろいろ勉強はしているから、その〈神〉についてさまざまに述べる。そこで、「その方の身長と体重はワカリマスか」と間、髪を入れずに問うと、例外なく二人は顔を見合わせることになる。「それは神ですから、身長とか体重は、あってナイようなものです」と無難に応える。そこで、片方ずつに今度は、「あなたはどんなイメージを持っていますか」と訊くのだ。つまり、〈神〉というのは、元ネタが、イメージでしかないシミュラークルだということを知らしめるワケだ。「神という存在は、あなた方がどれだけ口をすっぱくしてその実在を説いても、どこまでいってもイメージの産物でしかナイんです。仏教徒だって釈迦牟尼の顔なんて知ってる者はいません。だからさまざまな仏像があります。あなた達のエホバも創られたイメージです。つまり、あなた達、あなた、あなたが、それぞれ神をイメージした途端にブリキ、それは偶像崇拝になります」と、こんふうになんだけど、この教派は、イエス信仰もマリア信仰も認めていないので、シミュラークルの程度がかなり高いと思ってイイ。(と、きょうはこのへんまで、と)

2014年2月 2日 (日)

私とは[何か]

タイトルのとおり、私とは[何か]という存在だし、そういう対象だ。つまり[何か]なのだ。コトバを変えていえば「私という[何か]デアル」し「私という[何か]ガアル」ということだ。そういう[何か]という存在、対象に「何か」と問いかけても詮ないことだ。それは、たとえば「酒」に「酒とは酒か」と問いかけているのと同じだからだ。
私に問いかけるのに答えるのが私なら、時にはいいふうに、時には悪いふうに答える(応える)しかナイ。
ただ、「酒」という存在、対象、をメタファーでいうことは出来る。「酒は百薬の長」とか、「酒は最も信じられる友人」とか、そんなものはいくらでも出来る。それと同じように、「私」という存在、対象、もいくらでもメタファーで語れる。「私は世界(自然)の表現であり、世界(自然)は私の表現である」という命題もまたメタファーだ。それは、拙著『恋愛的演劇論』に記した。
仏教(たとえば禅宗)でいえば「私は[何か]ではナイ」という無常論になる。諸行無常、諸方無我、だからだ。
また、呼吸ならば、がんばれば意識的に1分くらいは止めることが出来るが、心臓の拍動をいくらがんばっても意識的に1分止めることは不可能だ。(医薬品でなら、仮死状態をつくり出すのに、これは可能らしいが)。つまり「脳意識は身体と互いに互いでありつつ、互いに関係し、了解し、互いに変容させる」
宇宙というものは、私を含んで、宇宙という。ということは論理的にいうならば、私の死んだ(消失した)宇宙は、私の存在した宇宙とはチガウということになる。そうなるんだから、どうチガウんだといわれても、しょうがない。
死後の世界、来世、あの世、というものが存在するのか否か、釈迦はこれを考えてもワカラナイ(答の出ない)ものは論じても意味がナイと退けたが、なんでワカランのかというと、理由は簡単で「あってもオカシクはないし、なくてもオカシクはない」につきる。
科学的根拠のようなものを持ち出すなら、何事も対称性で成立している宇宙なんだから、「この世」があるなら「あの世」もあるだろうということも、いえなくはナイ。文学的にいえば「生まれて来たのだから、死んで去る」ところもあるだろうということだ。ともかくも、その96%が何であるのかがまだワカッテいないというのが宇宙なんだから、その中には「あの世」くらいあっても不思議ではナイ。
そのあたりは、私はほんとうにどうでもイイと思っている輩だが、輪廻転生だけは勘弁してもらいたい。「これが人生か、よしもう一度」と、ニーチェ先生のいうような気力はナイ。人生はなるほど、善し悪し丁度、オモシロ可笑しかった。だが、もうこれきりにしてもらいたいという念のほうが強い。まだアト何年生きるのか寿命のことは与り知らぬが、こういうものは一度でイイ。理由は「何にせよ、疲れる」。
天界というところもいろいろと階層があるらしく、最上階は「有頂天」と称され、ここに生まれ変わったひと、その住人は、最も短命でも九百万年の寿命があるといわれる。しかし九百万年だろうと一億年だろうと、終りはあるのだ。で、終わるとどうなるかというと、地獄の十六倍の苦しみが待っている、ということになっている。終わったら何処かへ行かねばならない。これを輪廻という。疲れるどころの騒ぎではナイ。
「生まれてきて良かった」、そう思えれば、アトは野となれ山となれ。

2013年12月25日 (水)

釈迦は正しいか(続)

たぶん、読者は四苦八苦の最初に「生」とあるのを重複ではないかと思われているのに違いない。あるいは、数学の集合を使えば、(病・老・死)⊂(生)になる。(ここで死を生の部分集合にするのは微妙なんだけど)。釈迦自身も「生きることは苦しみ(思うようにならないこと)だ」といってるんだから、最初の四苦の頭に「生」がくるのは、妙なのだが、これは、「病気でなくても、老いがなくても、死ななくても、生きることは苦しみだ」と訳すしかしょうがナイ。そのアトの八苦も具体的だから、そういう具体的な苦しみがなくても、生は苦しみだ、と、釈迦はいったことになる。つまりand in the end (何事もない)であっても苦しみなのだ。
仏教は釈迦に始まる。その以前には仏教はナイ。これは呉智英センセイもそう仰っている。だから、現在の仏教がどんなに釈迦仏教から違ったものになっていても、またその過程において、さまざまな解釈による似非仏教(真言宗や禅宗だってみなそうだ)になっていても、釈迦がこの世を、人生を四苦八苦だと述べていることに異論を唱える仏教者は存在しないはずだ。
そこで「釈迦は正しいか」というタイトルの疑問にやっと辿り着ける。
もちろん、そういう疑義を呈した以上、私は「正しくない」と考えている。つまり四苦八苦には反証が出来る。順を追っていく。「生」は便宜上、後回し。
「病」-「病、病人は、看護されるという喜びを受け取る。そこに博愛のあることを享受することが出来る。かつ、癒えていく嬉しさをも。やがて、医学は病気から、痛みや苦しみを緩和し取り除くだろう」
「老」-「老いることは、未知の楽しみだ。それは好奇心を満たす。そうして、若気のいたりの恥など二度とナイことに安堵する」
「死」-「死は何事にも[終り]が在るということの安心だ。この世間(うきよ)とおさらば出来るという、ココロの安寧だ」
「愛別離苦」-「この苦しみあればこそ、芸術は生まれたといってイイ」
「怨憎会苦」-「とにかく、出逢えばこそ、怨みをはらすことが出来る」
「求不得苦」-「これがなかったら、科学技術の発展はなかっただろう」
「五蘊盛苦」-「これがなかったら、あらゆるスポーツ、そうして演劇も生まれなかったろう」
手っとり早くいえば「思い通りにならない」ことは人間にとって「アタリマエ」のことなのだ。声高に「生は苦しみだ」なんていう必要はどこにもナイのだ。そりゃ、居直りか。いいえ、いうならば「反抗」です。お前、Christianか。いいえ、そうなれないことは、拙作『寿歌』で書きました。
余談だが、最近発見されたらしいアルベール・カミュのメモに「キリスト教を信ずるには、キリスト教はあまりにも血に汚れている」とあったそうだが、これは、ほんものかどうか真贋がいまだついていない。

釈迦は正しいか

釈迦の本名は、パーリ語ではゴータマ・シッダッタ、サンスクリット語では ガウタマ・シッダールタだが、どっちの言語も私には学問がナイので、単に釈迦族の王子としての釈迦と記す。本名の意味は「目的を成就した者」。伝説によると、そう親から命名されるまで、生まれてから五日間眠っていたそうだ。伝説にのっとっていえば、生まれてすぐに七歩歩いて、かの有名な「天上天下唯我独尊」と宣言したそうだが、この「天上天下唯我独尊」については、異説がある。問題は「我」をどう解釈するかだけなのだが、釈迦が自身のことをそう称しての「我」なのか、「我」は「私」、この「私」を普遍的に扱って「自己」「個人」と解し、固有の「私」こそ尊いとする説だ。ここから、日本国憲法のように国民主権という概念も導けるし、ひとの命はみな平等に尊いという理屈も導ける。もちろん、実存主義や現象学も導ける。どっちにせよ、伝説だから、あまり問題ではナイ。
釈迦は頭脳明晰かつ厭世的な子供で、十二歳のとき、カビラ城の外の農地で行なわれた五穀豊穣の祈願祭(「田起こし」の祭事)で、冬眠から目覚めた小さな虫を、鳥が飛んできて銜えて去った(つまりは弱肉強食なのだが)のをみて、「地獄」と呟いたそうだが、これも伝説。ただし、七歳のときに、ヴェーサミッタ師のもとに勉学に出向かせたとき、すでに、釈迦の学識は、天文学や数学などにおいても、師匠以上に備わっていて、何も教えることはなかったといわれる。
とにかく、出家したがって親(王様とお妃・・・産みの母親はすぐに死んでいるから、その妹)は困ったようだ。釈迦の思想の根源にある(と思われる)「四苦八苦」は、それ自体が釈迦の悟りというものではナイ。このへんは、誤解されている部分が多い気がする。「四苦八苦」はあくまで釈迦の出家の決意、覚悟の糸口になったもので、仏伝にある「四門出遊」がそれにあたる。「四門出遊」とは、カビラ城にある四つの門から順次、王に勧められて遊楽(まあ、ピクニックのようなもんですな)したとき、えーと、何でそんなことを王がさせたのかというと、これも釈迦が出家に拘っていたことに因があるのだが、つまり、ちょっと息抜きをさせようとしたらしい。ところが、釈迦はまず東の門から出たときに、いまにも死にそうに衰えた老人の姿をみる。(と、これは、釈迦解脱のさいに登場する梵天の化身だとされている)ここで、釈迦は「老い」の姿を観る、というか、梵天からみせられたということになる。もちろん、遊楽どころではナイ。そのまま釈迦は城に引き返した。次は南の門。同様に梵天の化身のやつれた「病人」を観る。直帰。次は西の門。梵天今度は「死人」となって横たわっている。直帰。最後に北の門。ここでは、梵天はいきいきとした沙門の姿をみせる。沙門とは、婆羅門以外の出家修行者だ。こうなるともう直帰どころではナイ。すぐにでも出家。
だから、釈迦の思想の最も根底にある「四苦八苦」は、自らの体験なのだが、梵天による誘いということになる。もちろん、梵天は、釈迦の厭世、憂鬱、煩悶が何であるかを釈迦に具体的に示してみせただけなのだが。ただし、四苦八苦の「苦」とは、仏教においては、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味するらしい。と、坊さんだったか、佛教大学だかの学生にに聞いたんだけどね。ここから、山岸会の創始者、山岸巳代蔵は、独自の思想(というか、思考法というか、解釈を導き出すのだけども、ここではそれについては割愛)。
ともかく、その四苦八苦を具体的にいえば、根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、つまり根本的な四つの思うがままにならないこととして、それに加えて、「愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること」「怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと」「求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと」「五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと」の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。のだが、さてと、つづく。だ。

2012年7月 3日 (火)

ヨブ

ヨブとは旧約の『ヨブ記』のヨブだが、半月板断裂、睡眠時無呼吸障害の次ぎは、全身の麻疹だ。アレルギー体質ではないので、最初は、風疹にでもやられたかと思ったが、どうもそうでもナイようなので、医者に行って、抗ヒスタミン注射と飲み薬をもらった。蕁麻疹とは違ってひどく痒いということはナイが、熱るのはほてる。まんず、私の疾病は99%は原因不明なので、しょうがナイ。私はヨブのような義人ではナイが、どうも何か手違いが神のほうであるらしい。もちろん、まだ良くはなってくれない。
ところで、『ヨブ記』の主題は、ルシフェルとヤハウェの論争につきる。つまり天使長ルシフェルが「神のためひとはあるのか、ひとのために神はあるのか」という問答(論争)を神に仕掛けたことからヨブがその試験台にされたということだ。
ルシフェルの任務は地上の人間の監視を含む。つまり、多くの天使(三級九隊)の中では、もっとも人間に通じていたのだ。やがて、このことが発端になってか(どうかは知らんけれど)ルシフェルは叛乱を起こすことになる。大天使ミカエルを長とする天使軍との闘いだ。ちなみに、ミカエルは大天使だが、天使の中でのクラスは中の上だ。ルシフェルもまた同クラスだ。
そんなことはどうでもイイが、というか、そんなことは、ひととは関係のナイところでやってくれればイイのだ。
ヨブは、神に従順だが、一つ疑問を唱える。罰というものは、悪しきものに対して与えられるものではナイのか。なのに何故、善良で信仰厚い自分が試されねばならぬのか。
『ヨブ記』は多くの文学者や哲学者に影響を与えている。
ふつうの理屈であれば、つうか、論理を持ち合わせているものであれば、全知全能であるはずの神に、ヨブに対する試練の結果がワカラナカッタわけがあるまい。したがって、これは結果が云々の事象ではナイとするのが常識的だ。よーするに、ヤハウェとルシフェルの問答(論争)そのものが問題なのだ。
その点、仏教は、ひとを試すなどということがナイ。常に「ひと」というものを追求していく宗教としては、仏教が、キリスト教に先んじている。つまり、キリスト教が決定論的な宗教なのに対して、仏教は、非決定論なのだ。自然は非決定的だ。自然の道理としては、仏教のほうが勝っていると思うのは、単なる私の増長だろうか。

2010年8月31日 (火)

ライプニッツの神と、演技と

『ハイ・イメージ論Ⅱ』(吉本隆明・福武書店)の「自然論」から、ライプニッツの神学を考察する、ある部分を抜き出してみる。(ここはずいぶんと興味をひくところだからだ)。「なぜ自然の事象はいまあるように実在して、別様に実在していないのか、そのわけをかんがえてみる。そのわけはそこにある実在の物体にも、精神のなかの物体の表象にもみつけることができない」・・・ここで、著者は、唯物論者にも、またヘーゲル流の観念論者にも釘を打ち込んでいる、とみていい。しかし、私たちが興味をもつべきは、このアトの考察だ。「物体はそれじたいでは運動にも静止にも無関心(イナート)だから、運動を起こしている事象の根拠をその物体には求められない。物体が現にやっている運動は、以前の運動の継続だから以前の運動に原因があり、以前の運動はそのまた以前の運動からやってきたもので、どこまで遡っても、なぜ運動する事象がこのようであって、別様でないのかは、わからないままだ。だとすればひとつの事象のありさまがそうであるわけ、しかもほかのわけがいらない十分なわけは、このたまたまおこっている事象の系列の「外(原文太字)」になければならない」・・・私たちはいつものごとく、この「物体」を「演者」に置換し、「運動」を「演技」と置き換えることにする。その置き換えが可能なワケは、演じることの経験者なら実際に体験していることだが、演者が、演技をもって、何か(この場合は「役」になるが)を演技している場合、その「演技」はまさに「運動」と呼ぶにも似て、あたかも、意思するままに動いているのではなく、ごく「自然」に、まるで「自身の系列の[外]からの力」で動いているように感じてしまうことが数多あるからだ。この現象は、ほんとうなら「稽古論」として、論じられるべきものだ。「なぜ、芝居というものは何度も同じ稽古を繰り返すのか」という問いかけに論理的に答えられる演劇やワークショップの指導者がどれだけいるのか、それぞれの指導者にこの問いをぶつけてみたいものだが(暑いのと、眼のピント調整の老化で、目前の字がぼやけて、鬱陶しいから、気分も鬱陶しくなって、そんなことをいうだけですわ)、キェルケゴーやハイデガーの実存主義哲学の解釈でいえば、その現象は[反復]という概念でとらえられ、マルクスなどの唯物論弁証法でいえば[量質転化]で述べられるものだ。もちろん、ライプニッツが考えたように、事象の運動を動かすものが、それじたいの系列の外からやってくるということは、演技という運動の力がけして外からやってきているものではナイのと同様、ありえないものだが、私たちが考えるべきは、それがあたかも[外]からの力のように、あるいは、自身の意思ではないかのように「身体」が動いてしまうと感じることへの人間の「自然」だ。ここでいう「自然」とは、三流演出家の呪文のようなコトバ「もっと自然にやって」の自然と同じ自然だ。「成すがまま」「ありのまま」という、偉い宗教者のオコトバに最もよくみうけられるものと同意だ。王道をひた走っているecologyとは何の関係もナイ。少なくとも、この時点でいえることは、「稽古」というのは、不自然なものを自然なものへと回帰させる営為であり、そう考えると、人間という自然は不自然なものであるとするのが正しい観方であり、それが(稽古過程を経て)自然なものになったとき、あたかも、自らの力以外の力(誤解をおそれずにいうなら、自身以外の環界的自然)に外的自然(身体)が操られているような感覚を受けるという、「受動的体験」とでも称すべき体験をするということになる。

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