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カテゴリー「宗教哲学」の記事

2015年12月28日 (月)

私想的生活-07

シミュラークルをおもちゃにしてだいぶ遊んでいるが、いまのところ、うつ病との闘病中なもんで、stress、frustration、の鬱憤ばらしする方策がナイので、とはいえ、こんな駄文ですら書けない(書く気力が失せる)という時間帯もあるのだ。書くことしか能がナイ私のようなケチな売文業者が、書く気もないとなると、なるほどこれぞ〈うつ病〉かと再認識する他はナイ。うつ病の鬱のほうはまだ周囲に迷惑をかけないが、これがaggressiveに躁転することがある。ちょっとしたことに腹が立つのだ。また、それを抑制、制御することがその時象では不可能なので、あとから、つまらんことに立腹したなあと自己嫌悪がやってきて、もう混乱、赤面逆上の極みとなる。
立腹とまではいかないが、「イジメ」てのをすることもある。いまはもう面倒なので、私は宗教評論を仕事にしているので、話をするなら10分千円請求しますよと、追い返すようにしたが、暇つぶしにそういう族(輩)をイジメたこともある。
その前に、そういえばこんな〈脅し・カツアゲ〉もやったな。いわゆる「手かざし」が流行していた頃で、路頭千里、巷に俄づくりの手かざし信者が跋扈して、「ちょっとよろしいですか」と、寄りついて来ることがあった。「手かざし教」の派生から御家騒動、分裂騒ぎ、GLAの高橋信次(故人・・・だが、彼自身の予言によると、21世紀初頭には生まれ変わっているはずなんだけど・・・)元主催との超能力(霊能力)合戦にいたるまで識っているこちとらとしては、何処の分派だか知んないが、ちょいとからかってみるかと虫の居所、「ああ、よろしいよ。なになに、そうか、手かざしでそんなに威力があるか。いやあ、いまオレ、具合悪くて困ってんだ。ちょいとやってくれるか。まあっ、立ったままもなんだから」と、適当なベンチに座って「いっとくけどな、坊や、オレはインチキや誑かしは大嫌いでな、そっちも命懸けでやってくれ」と、銃刀法ギリギリで持ち歩いているナイフをちらつかせて、「具合良くなんなかったら、その手のひらの真ん中にコイツをグサッという条件でいこうか」てなことをいうと、「あっ」とかナンとか、いって、「またアトにします」「いいよ、待ってるけど」と、走り去るその坊やのアトを尾けて、「おい、まだか」と、肩を叩いたりして、ほんとにロクなことやってナイな。
で、「イジメ」のほうは、たいてい女性二人なんだけど、玄関先で、向こうの自己紹介がすむと、「つまり、あなた達は神を信じているんですね」とやんわり始める。もちろん、肯定する。そこで「あなた達の信じている神様はどんなふうな神様ですか」と問いかける。「聖書に書いてある神です」とたいてい答える。そこで「聖書に書いてある神とはどんな神様ですか」と問う。もちろん、「これこれしかじかの神です」と答える。彼女たちもいろいろ勉強はしているから、その〈神〉についてさまざまに述べる。そこで、「その方の身長と体重はワカリマスか」と間、髪を入れずに問うと、例外なく二人は顔を見合わせることになる。「それは神ですから、身長とか体重は、あってナイようなものです」と無難に応える。そこで、片方ずつに今度は、「あなたはどんなイメージを持っていますか」と訊くのだ。つまり、〈神〉というのは、元ネタが、イメージでしかないシミュラークルだということを知らしめるワケだ。「神という存在は、あなた方がどれだけ口をすっぱくしてその実在を説いても、どこまでいってもイメージの産物でしかナイんです。仏教徒だって釈迦牟尼の顔なんて知ってる者はいません。だからさまざまな仏像があります。あなた達のエホバも創られたイメージです。つまり、あなた達、あなた、あなたが、それぞれ神をイメージした途端にブリキ、それは偶像崇拝になります」と、こんふうになんだけど、この教派は、イエス信仰もマリア信仰も認めていないので、シミュラークルの程度がかなり高いと思ってイイ。(と、きょうはこのへんまで、と)

2014年2月 2日 (日)

私とは[何か]

タイトルのとおり、私とは[何か]という存在だし、そういう対象だ。つまり[何か]なのだ。コトバを変えていえば「私という[何か]デアル」し「私という[何か]ガアル」ということだ。そういう[何か]という存在、対象に「何か」と問いかけても詮ないことだ。それは、たとえば「酒」に「酒とは酒か」と問いかけているのと同じだからだ。
私に問いかけるのに答えるのが私なら、時にはいいふうに、時には悪いふうに答える(応える)しかナイ。
ただ、「酒」という存在、対象、をメタファーでいうことは出来る。「酒は百薬の長」とか、「酒は最も信じられる友人」とか、そんなものはいくらでも出来る。それと同じように、「私」という存在、対象、もいくらでもメタファーで語れる。「私は世界(自然)の表現であり、世界(自然)は私の表現である」という命題もまたメタファーだ。それは、拙著『恋愛的演劇論』に記した。
仏教(たとえば禅宗)でいえば「私は[何か]ではナイ」という無常論になる。諸行無常、諸方無我、だからだ。
また、呼吸ならば、がんばれば意識的に1分くらいは止めることが出来るが、心臓の拍動をいくらがんばっても意識的に1分止めることは不可能だ。(医薬品でなら、仮死状態をつくり出すのに、これは可能らしいが)。つまり「脳意識は身体と互いに互いでありつつ、互いに関係し、了解し、互いに変容させる」
宇宙というものは、私を含んで、宇宙という。ということは論理的にいうならば、私の死んだ(消失した)宇宙は、私の存在した宇宙とはチガウということになる。そうなるんだから、どうチガウんだといわれても、しょうがない。
死後の世界、来世、あの世、というものが存在するのか否か、釈迦はこれを考えてもワカラナイ(答の出ない)ものは論じても意味がナイと退けたが、なんでワカランのかというと、理由は簡単で「あってもオカシクはないし、なくてもオカシクはない」につきる。
科学的根拠のようなものを持ち出すなら、何事も対称性で成立している宇宙なんだから、「この世」があるなら「あの世」もあるだろうということも、いえなくはナイ。文学的にいえば「生まれて来たのだから、死んで去る」ところもあるだろうということだ。ともかくも、その96%が何であるのかがまだワカッテいないというのが宇宙なんだから、その中には「あの世」くらいあっても不思議ではナイ。
そのあたりは、私はほんとうにどうでもイイと思っている輩だが、輪廻転生だけは勘弁してもらいたい。「これが人生か、よしもう一度」と、ニーチェ先生のいうような気力はナイ。人生はなるほど、善し悪し丁度、オモシロ可笑しかった。だが、もうこれきりにしてもらいたいという念のほうが強い。まだアト何年生きるのか寿命のことは与り知らぬが、こういうものは一度でイイ。理由は「何にせよ、疲れる」。
天界というところもいろいろと階層があるらしく、最上階は「有頂天」と称され、ここに生まれ変わったひと、その住人は、最も短命でも九百万年の寿命があるといわれる。しかし九百万年だろうと一億年だろうと、終りはあるのだ。で、終わるとどうなるかというと、地獄の十六倍の苦しみが待っている、ということになっている。終わったら何処かへ行かねばならない。これを輪廻という。疲れるどころの騒ぎではナイ。
「生まれてきて良かった」、そう思えれば、アトは野となれ山となれ。

2013年12月25日 (水)

釈迦は正しいか(続)

たぶん、読者は四苦八苦の最初に「生」とあるのを重複ではないかと思われているのに違いない。あるいは、数学の集合を使えば、(病・老・死)⊂(生)になる。(ここで死を生の部分集合にするのは微妙なんだけど)。釈迦自身も「生きることは苦しみ(思うようにならないこと)だ」といってるんだから、最初の四苦の頭に「生」がくるのは、妙なのだが、これは、「病気でなくても、老いがなくても、死ななくても、生きることは苦しみだ」と訳すしかしょうがナイ。そのアトの八苦も具体的だから、そういう具体的な苦しみがなくても、生は苦しみだ、と、釈迦はいったことになる。つまりand in the end (何事もない)であっても苦しみなのだ。
仏教は釈迦に始まる。その以前には仏教はナイ。これは呉智英センセイもそう仰っている。だから、現在の仏教がどんなに釈迦仏教から違ったものになっていても、またその過程において、さまざまな解釈による似非仏教(真言宗や禅宗だってみなそうだ)になっていても、釈迦がこの世を、人生を四苦八苦だと述べていることに異論を唱える仏教者は存在しないはずだ。
そこで「釈迦は正しいか」というタイトルの疑問にやっと辿り着ける。
もちろん、そういう疑義を呈した以上、私は「正しくない」と考えている。つまり四苦八苦には反証が出来る。順を追っていく。「生」は便宜上、後回し。
「病」-「病、病人は、看護されるという喜びを受け取る。そこに博愛のあることを享受することが出来る。かつ、癒えていく嬉しさをも。やがて、医学は病気から、痛みや苦しみを緩和し取り除くだろう」
「老」-「老いることは、未知の楽しみだ。それは好奇心を満たす。そうして、若気のいたりの恥など二度とナイことに安堵する」
「死」-「死は何事にも[終り]が在るということの安心だ。この世間(うきよ)とおさらば出来るという、ココロの安寧だ」
「愛別離苦」-「この苦しみあればこそ、芸術は生まれたといってイイ」
「怨憎会苦」-「とにかく、出逢えばこそ、怨みをはらすことが出来る」
「求不得苦」-「これがなかったら、科学技術の発展はなかっただろう」
「五蘊盛苦」-「これがなかったら、あらゆるスポーツ、そうして演劇も生まれなかったろう」
手っとり早くいえば「思い通りにならない」ことは人間にとって「アタリマエ」のことなのだ。声高に「生は苦しみだ」なんていう必要はどこにもナイのだ。そりゃ、居直りか。いいえ、いうならば「反抗」です。お前、Christianか。いいえ、そうなれないことは、拙作『寿歌』で書きました。
余談だが、最近発見されたらしいアルベール・カミュのメモに「キリスト教を信ずるには、キリスト教はあまりにも血に汚れている」とあったそうだが、これは、ほんものかどうか真贋がいまだついていない。

釈迦は正しいか

釈迦の本名は、パーリ語ではゴータマ・シッダッタ、サンスクリット語では ガウタマ・シッダールタだが、どっちの言語も私には学問がナイので、単に釈迦族の王子としての釈迦と記す。本名の意味は「目的を成就した者」。伝説によると、そう親から命名されるまで、生まれてから五日間眠っていたそうだ。伝説にのっとっていえば、生まれてすぐに七歩歩いて、かの有名な「天上天下唯我独尊」と宣言したそうだが、この「天上天下唯我独尊」については、異説がある。問題は「我」をどう解釈するかだけなのだが、釈迦が自身のことをそう称しての「我」なのか、「我」は「私」、この「私」を普遍的に扱って「自己」「個人」と解し、固有の「私」こそ尊いとする説だ。ここから、日本国憲法のように国民主権という概念も導けるし、ひとの命はみな平等に尊いという理屈も導ける。もちろん、実存主義や現象学も導ける。どっちにせよ、伝説だから、あまり問題ではナイ。
釈迦は頭脳明晰かつ厭世的な子供で、十二歳のとき、カビラ城の外の農地で行なわれた五穀豊穣の祈願祭(「田起こし」の祭事)で、冬眠から目覚めた小さな虫を、鳥が飛んできて銜えて去った(つまりは弱肉強食なのだが)のをみて、「地獄」と呟いたそうだが、これも伝説。ただし、七歳のときに、ヴェーサミッタ師のもとに勉学に出向かせたとき、すでに、釈迦の学識は、天文学や数学などにおいても、師匠以上に備わっていて、何も教えることはなかったといわれる。
とにかく、出家したがって親(王様とお妃・・・産みの母親はすぐに死んでいるから、その妹)は困ったようだ。釈迦の思想の根源にある(と思われる)「四苦八苦」は、それ自体が釈迦の悟りというものではナイ。このへんは、誤解されている部分が多い気がする。「四苦八苦」はあくまで釈迦の出家の決意、覚悟の糸口になったもので、仏伝にある「四門出遊」がそれにあたる。「四門出遊」とは、カビラ城にある四つの門から順次、王に勧められて遊楽(まあ、ピクニックのようなもんですな)したとき、えーと、何でそんなことを王がさせたのかというと、これも釈迦が出家に拘っていたことに因があるのだが、つまり、ちょっと息抜きをさせようとしたらしい。ところが、釈迦はまず東の門から出たときに、いまにも死にそうに衰えた老人の姿をみる。(と、これは、釈迦解脱のさいに登場する梵天の化身だとされている)ここで、釈迦は「老い」の姿を観る、というか、梵天からみせられたということになる。もちろん、遊楽どころではナイ。そのまま釈迦は城に引き返した。次は南の門。同様に梵天の化身のやつれた「病人」を観る。直帰。次は西の門。梵天今度は「死人」となって横たわっている。直帰。最後に北の門。ここでは、梵天はいきいきとした沙門の姿をみせる。沙門とは、婆羅門以外の出家修行者だ。こうなるともう直帰どころではナイ。すぐにでも出家。
だから、釈迦の思想の最も根底にある「四苦八苦」は、自らの体験なのだが、梵天による誘いということになる。もちろん、梵天は、釈迦の厭世、憂鬱、煩悶が何であるかを釈迦に具体的に示してみせただけなのだが。ただし、四苦八苦の「苦」とは、仏教においては、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味するらしい。と、坊さんだったか、佛教大学だかの学生にに聞いたんだけどね。ここから、山岸会の創始者、山岸巳代蔵は、独自の思想(というか、思考法というか、解釈を導き出すのだけども、ここではそれについては割愛)。
ともかく、その四苦八苦を具体的にいえば、根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、つまり根本的な四つの思うがままにならないこととして、それに加えて、「愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること」「怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと」「求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと」「五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと」の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。のだが、さてと、つづく。だ。

2012年7月 3日 (火)

ヨブ

ヨブとは旧約の『ヨブ記』のヨブだが、半月板断裂、睡眠時無呼吸障害の次ぎは、全身の麻疹だ。アレルギー体質ではないので、最初は、風疹にでもやられたかと思ったが、どうもそうでもナイようなので、医者に行って、抗ヒスタミン注射と飲み薬をもらった。蕁麻疹とは違ってひどく痒いということはナイが、熱るのはほてる。まんず、私の疾病は99%は原因不明なので、しょうがナイ。私はヨブのような義人ではナイが、どうも何か手違いが神のほうであるらしい。もちろん、まだ良くはなってくれない。
ところで、『ヨブ記』の主題は、ルシフェルとヤハウェの論争につきる。つまり天使長ルシフェルが「神のためひとはあるのか、ひとのために神はあるのか」という問答(論争)を神に仕掛けたことからヨブがその試験台にされたということだ。
ルシフェルの任務は地上の人間の監視を含む。つまり、多くの天使(三級九隊)の中では、もっとも人間に通じていたのだ。やがて、このことが発端になってか(どうかは知らんけれど)ルシフェルは叛乱を起こすことになる。大天使ミカエルを長とする天使軍との闘いだ。ちなみに、ミカエルは大天使だが、天使の中でのクラスは中の上だ。ルシフェルもまた同クラスだ。
そんなことはどうでもイイが、というか、そんなことは、ひととは関係のナイところでやってくれればイイのだ。
ヨブは、神に従順だが、一つ疑問を唱える。罰というものは、悪しきものに対して与えられるものではナイのか。なのに何故、善良で信仰厚い自分が試されねばならぬのか。
『ヨブ記』は多くの文学者や哲学者に影響を与えている。
ふつうの理屈であれば、つうか、論理を持ち合わせているものであれば、全知全能であるはずの神に、ヨブに対する試練の結果がワカラナカッタわけがあるまい。したがって、これは結果が云々の事象ではナイとするのが常識的だ。よーするに、ヤハウェとルシフェルの問答(論争)そのものが問題なのだ。
その点、仏教は、ひとを試すなどということがナイ。常に「ひと」というものを追求していく宗教としては、仏教が、キリスト教に先んじている。つまり、キリスト教が決定論的な宗教なのに対して、仏教は、非決定論なのだ。自然は非決定的だ。自然の道理としては、仏教のほうが勝っていると思うのは、単なる私の増長だろうか。

2010年8月31日 (火)

ライプニッツの神と、演技と

『ハイ・イメージ論Ⅱ』(吉本隆明・福武書店)の「自然論」から、ライプニッツの神学を考察する、ある部分を抜き出してみる。(ここはずいぶんと興味をひくところだからだ)。「なぜ自然の事象はいまあるように実在して、別様に実在していないのか、そのわけをかんがえてみる。そのわけはそこにある実在の物体にも、精神のなかの物体の表象にもみつけることができない」・・・ここで、著者は、唯物論者にも、またヘーゲル流の観念論者にも釘を打ち込んでいる、とみていい。しかし、私たちが興味をもつべきは、このアトの考察だ。「物体はそれじたいでは運動にも静止にも無関心(イナート)だから、運動を起こしている事象の根拠をその物体には求められない。物体が現にやっている運動は、以前の運動の継続だから以前の運動に原因があり、以前の運動はそのまた以前の運動からやってきたもので、どこまで遡っても、なぜ運動する事象がこのようであって、別様でないのかは、わからないままだ。だとすればひとつの事象のありさまがそうであるわけ、しかもほかのわけがいらない十分なわけは、このたまたまおこっている事象の系列の「外(原文太字)」になければならない」・・・私たちはいつものごとく、この「物体」を「演者」に置換し、「運動」を「演技」と置き換えることにする。その置き換えが可能なワケは、演じることの経験者なら実際に体験していることだが、演者が、演技をもって、何か(この場合は「役」になるが)を演技している場合、その「演技」はまさに「運動」と呼ぶにも似て、あたかも、意思するままに動いているのではなく、ごく「自然」に、まるで「自身の系列の[外]からの力」で動いているように感じてしまうことが数多あるからだ。この現象は、ほんとうなら「稽古論」として、論じられるべきものだ。「なぜ、芝居というものは何度も同じ稽古を繰り返すのか」という問いかけに論理的に答えられる演劇やワークショップの指導者がどれだけいるのか、それぞれの指導者にこの問いをぶつけてみたいものだが(暑いのと、眼のピント調整の老化で、目前の字がぼやけて、鬱陶しいから、気分も鬱陶しくなって、そんなことをいうだけですわ)、キェルケゴーやハイデガーの実存主義哲学の解釈でいえば、その現象は[反復]という概念でとらえられ、マルクスなどの唯物論弁証法でいえば[量質転化]で述べられるものだ。もちろん、ライプニッツが考えたように、事象の運動を動かすものが、それじたいの系列の外からやってくるということは、演技という運動の力がけして外からやってきているものではナイのと同様、ありえないものだが、私たちが考えるべきは、それがあたかも[外]からの力のように、あるいは、自身の意思ではないかのように「身体」が動いてしまうと感じることへの人間の「自然」だ。ここでいう「自然」とは、三流演出家の呪文のようなコトバ「もっと自然にやって」の自然と同じ自然だ。「成すがまま」「ありのまま」という、偉い宗教者のオコトバに最もよくみうけられるものと同意だ。王道をひた走っているecologyとは何の関係もナイ。少なくとも、この時点でいえることは、「稽古」というのは、不自然なものを自然なものへと回帰させる営為であり、そう考えると、人間という自然は不自然なものであるとするのが正しい観方であり、それが(稽古過程を経て)自然なものになったとき、あたかも、自らの力以外の力(誤解をおそれずにいうなら、自身以外の環界的自然)に外的自然(身体)が操られているような感覚を受けるという、「受動的体験」とでも称すべき体験をするということになる。

2010年8月 9日 (月)

革命について

スピノザの神学や、道元の哲学からは、「革命」というものはやってくることが出来ない。それはこの欄でも記したように、この宇宙全てが神なり仏だからだ。『西遊記』を読んだひとなら誰しも疑問に思うのが、孫悟空のキント雲があれば、天竺までひとッ飛びなんじゃなかろうかという、実に真っ当なギモンだ。しかし、キント雲は、天竺方向には飛べないアイテムなのだ。このキント雲を使って、孫悟空とお釈迦さまが、賭けのようなものをしたプロットがある。お釈迦さまは、「汝、我が手のひらから、飛び出してみよ」といい、孫悟空は「お安いご用だ」とばかりにキント雲に乗って、ずいぶん飛んだところに、五本の柱がそそり立っている。どうやら、これが空の果てかと、そこに筆で書き置きし、小便をひっかけて帰ろうと思うと、これが、お釈迦さまの手のひらの中という、あれだ。スピノザや道元の世界・宇宙はかくの如しだ。しかし、スピノザは、カトリックからは、異端とされている。カトリックにとっては「神と人間とが同じである」では困るからだ。従って、悪魔というものが創造される可能性のを残す。Satanというのはヘブライ語で「敵」という意味だ。もともとは天使だから、堕天使で、ルシフェルという。これが、天国北部の天軍の司令官だった。神に叛乱したのは、何も一天使だけではナイ。叛乱軍とあるからには、大勢だ。その先陣がルシフェル(Satan)だ。ミルトンによると、Satanの背丈は四万フィートだという(1フィートは30,5㎝)。ともかくも、「革命」というのは悪魔から初まったのだ。だから「敵」というよりも「革命家」と呼ぶに相応しい。聖書解釈では、創世記に人間を創造したときの神のコトバは「私たちに似せて・・・」であって、この「たち」というのが、いったいナニを示すのか議論されたことがあった。けっきょく、神は唯一の存在なので、天使たちということに落ち着いたようだが、最初のSatanたち天使叛乱軍と闘ったのが、大天使ミカエルだ。闘いに敗れたSatanは、地獄の最下層で半身氷づけになっているという話もあれば、神から七千年の余裕を与えられて「神なくして、ひとがひとを統べることが出来るかやってみよ」というワケで、いま、せっせとその最中だという話もある。また、ハルマゲドンの地で、最終戦争が行われるということにもなっている。これは新約の『黙示録』だが、ひでえのは、この戦争で、巻き添えをくうのは人間だということだ。叛乱天使軍でもなく、神軍天使でもなく、そのいずれにも加担しないで、ただただ地上の任務についている天使もあるが、さすがに地上任務の天使だけあって、叛乱天使軍には同情的だ。とはいえ、sympathizerあたりがせいぜいで、じっと自分の無力を疎んじながら、それでも、ちょっと人間に手を貸したりすると、天使特有の波動というものによって、そのひとの人生を狂わせることがあるのだから、ますます自責の念は重く、いっそ堕天使にでもなっちまって、革命のひとつもやってみるかな、と、夢想しながら、三つ葉のおひたしなんかを食っているのだ。

2010年8月 7日 (土)

限界と制限

スピノザの神学(『エチカ』)の「基本姿勢」(あるいは絶対世界といってもいいが)は[神即自然]だ。ここからアインシュタインは量子力学のコペンハーゲン派解釈に対して~神はサイコロをふらない~と、それ否定した。[神即自然]という概念に最も近いものを日本の仏教哲学に求めると、曹洞宗始祖道元の「一切衆生 悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)『正法眼蔵』」になる。いい方をかえれば、こっちは[仏即自然]だ。「悉有」は「全存在・全世界・全宇宙」のことだからだ。そこで、道元は、この世界がすべて仏性であるのなら、修行の意味(何のために修行をするのか)という疑問を解くために中国に渡った。その答はまことに単純なもので、しかし、なるほどというところがある。簡単にいってしまうと、「悟り」というのは悟ろうとして悟るものではナイ、悟りのほうからやって来るもので、修行は、そのための方法ではナイ、もし、そうだとすれば、悟ろうとすること自体が欲望になるからで、修行はそれ自体がすでに悟りなのだ。なぜなら、修行とは、悟りを受け入れることだからだ。と、まあ、これでも頭がクルクルしそうだが、「悉有」であるならば、つまり全宇宙の事物が仏性であるならば、それに気づくこと、それを受け入れることが修行であり、悟りだ、という論理だ。悩んでいるときは、その悩みが悟りだし、苦しいときはその苦しさが仏性そのものだという論法だ。これは、容器と水というたとえにすると、もう少しワカル。私は演劇を学ぶものに、レクチャーするとき、あなたという「容器」の中に演劇という「水」を入れるのか、演劇という「容器」の中にあなたという「水」を入れるのか、かんがえるようにいう。もちろん、私自身は前者で、私という「容器」の中に、演劇という「水」を入れただけだ。奇しき偶然というもので、道元の修行の説き方も同じく、仏性というものは、修行するものの中に入ってくるものだ、という考え方、哲学だ。というよりも、本来が、人間(衆生)たるや仏性を持つのだから、それに気づけばイイだけのことなのだ。これを、わりに流布されているコトバでいうと「受け入れる」ということになる。健康だけがイイことなのではない。病んでいるときは、病むことに仏性を見出すこと、貧困のときは、貧困の中に仏性を受け入れること、というワケだが、なるほど、これはたしかによく出来ていて、たとえば『般若心経』などは、結果的には、この宇宙は「智恵」であると、智恵が考えているだけだという解釈になる。「生死の中に仏なければ生死にまどわず」という『生死』についての教えも簡略で、「迷いを悟りによって超越しようなどと考えなければ、迷うことはない」という逆説めいたものだ。・・・しかし、ほんとにそうなんだろうか。私のような凡夫、衆生、有情は、こういってしまう。「はい、たしかに仰せのとおり、理屈では納得、理解いたしました。よおくワカリました。そのとおりだと思います。しかしながら、やっぱり、しんどいときは死にたくなりますし、ひとを恨みますし、悔いては泣きますし、教えのことなんか吹っ飛んでしまうのです。仏性にありてさへ、何故に、かくも安穏せず、煩悩が残るのでしょうか」「また、[受け入れよ]とおっしゃっても、やっぱり、現在のアフリカの難民の子どもたちの悲惨さや、かつてのナチスの残虐行為や、ポル・ポト政権のやったことなど、どうしても受け入れられません」・・・道元の仏教哲学はスピノザの神学より、すぐれたもののような気がするが、そこにはやはり、「哲学としての制限」あるいは、自力本願としての禅宗の制限、が存在するように思われる。それは限界というものではナイとしても(つまり修行が未熟なために未完成のものであるとしても)、実生活の現実においては、そうはうまくいかないよ、という気がするのだ。ただし、これは「制限」であるから、実生活の制限内においては、真理として受け取ってもかまわないと思うけれど。

2010年7月28日 (水)

ワカラナイということはわかっている

現在の時空で起こる事象を科学で証明、あるいは解説程度出来るのは、4%だ。また、宇宙を構成している元素は、これも4%に過ぎず、このエネルギーに対して、74%がダークエネルギー、22%がダークマターと称される未知のenergyだ。この未知のenergyの質量による引力への反発によって宇宙は膨張しているわけだが、要するに96%、この宇宙は何で出来ているのかがワカッテいないということは、わかっている。私たちは、宇宙を、日常的な思考傾向から、球体のように考えがちだが、現在のところ、宇宙図を描こうとすると、これが、一粒の水滴のようになる。romanticに考えると、宇宙は、涙のひとしずくなのだ。星占い、星座占いを否定する者のいいぶんは、地球からみえる星座も、それぞれの天体は何光年も離れていて、関係性はナイというものだが、その何光年も離ればなれの天体が、地球からみると、星座になるということが、逆説的にいえば、タイセツなことなのだ。もちろん、私は、占星術というものは信じていないが、占星術を考え出した人間の創造性は信じている。・・・私は、宗教者が山籠もりなどして、悟ったなどという話を聞くたびに、悟るために何故、山籠もり(滝に打たれたりとかネ)などしなければならないのか、まるでワカラナイやからなので、ほんとうに悟るためには、そういう隔絶された場所ではなく、たとえば、職場であったり、町中であったり、実人生の現場がそういうところなのだから、釈尊の真似だけしていればいいってもんじゃねえだろうと、いまなお、そうひねくれて考えているが、というのも、瞑想したり、修行したりして悟ったものなど、そういう環境とは関係のナイ人生の現場においては、けっきょく独りよがりのオスマシ顔にしか過ぎないと判じているからで、たとえ、人間はその人間の個的、共同性によっての領域においてでしか、どんなものに対しても答を得られないとしても、そういうところで、自覚、覚悟したものでなければ、みんなウソである。東京で、元劇団員のある者と、飯を食う機会があったが、彼女は、何かを学問したワケではないが、いってみれば、自分の人生の経験値をヘーゲル弁証法の[反省]と、キェルケゴール、ハイデガー実存主義の[反復]とで構築しており、「生き方」というのがナンであるかという答を、彼女なりに編み出していて、それは道元の思想に近いものであった。この先は、その「生き方」をどう生きるかという、さらなる人生があるのだろうが、元劇団員たちが、それぞれに自立の道に進んでいるということは、一緒に演劇をやって良かったなあと、自身の演劇の方法が、誤謬も多くあるのだろうが、恨み辛みもかっているのだろうが、さほど、間違いではなかったと、ある安堵をおぼえるのだ。

2010年5月27日 (木)

一度、座れ

道元の禅(曹洞宗)思想は、スピノザの神学に似ている。道元は「仏性」というものが、この世界のすみずみに行き渡っているものであるとして、もちろん、人間もまた仏性を持つとした。よって、曹洞宗の禅では只管打坐(しかんたざ)を最も重要な修行としていて、このコトバは道元の著作『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』でもしばしば用いられる。簡単にいえば「ただ坐れ」だ。もちろん、ただ坐るだけではナイ。坐ったとき、すでにその者は、釈迦が瞑想のために座禅したときと同じであるというのが教えで、「悟り」というものは、外から入ってくるものではなく、降って湧くようなものでもなく、すでに修行している人間の内に存在するものだから、悟るというのは、それを自覚(知ること)であるというのが、根本だからだ。つまり、仏-世界-人は、それで一つの宇宙だというのだ。スピノザもこれと同じことをいったがために(神-世界-人間)異端とされた。何故なら、カソリック(正統)では、神は神であるし、人間は人間であるからだ。と、話は飛んで、鬱病を座禅で克服した話はあまり知られていないが、要するに「ただ坐る」だけなのだから、鬱病患者にとっては、あまりキツイことではナイ。もちろん、坐り方はあるのだが(眼は薄目にして、約二間先-5~6m先を観る。呼吸は鼻先で、出来るだけゆっくりと行う。足は無理に組まなくてもいいが、組み方はある。何も考えないでいる、というのが正しいのだが、そんなことは出来ないので、何か一つのことに思考を集中させると、次第に他のことは考えないで済む)、これを毎日20~30分、実践する。目に入るものが邪魔であるならば、達磨のように、壁に向かうと、存外やりやすい。特に何かを自問して、答えを出すという目的はナイ。むしろ、何も問いかけないことがタイセツなのだ。坐るのは朝でも夜でも、いつでもイイ。眠くなってくれば、寝てしまえばいい。つまりは「意味のないこと」をやるということだ。ただ、現在の都市環境は、こういうふうに坐ることすら許してくれない。今度、蛙の声が聞こえる田舎に戻ってきたので、私も一度試してみようかと思っている。・・・政治世界がドタバタとうるさいご時世だ。国内も国外も、レミングの行進のさまを観るかのようだ。為政者も、一度、坐ってみることだ。それくらいの「余裕」をみせろよというのが、昨今の情勢に対する私の感想だ。

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