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カテゴリー「宗教哲学」の記事

2023年2月 1日 (水)

アト千と一夜の晩飯 第四十七夜 little think・2

〇「悟り」というものには〈ルール〉があります。
① それ(悟り)は釈迦と「同じものでなければならない」
② それ(悟り)は釈迦と「同じものであってはならない」
これを「悟りのparadox」といいます。「悟り」は主に禅宗が重視した修行の目的です。(浄土系の宗派には「悟り」そのものがありません。従って菩薩という存在もありません。もちろん『般若心経』も読経しません)
では、このparadoxは文字通り〈矛盾〉なのでしょうか。
そうではナイのです。仏教用語でいう「不説」ではアリマセン。このparadoxからが悟りを拓く修行の始まりです。修行といえど、密教修験道のように危険で厳しいものだけをいうのではありません。火渡りなどのperformanceもまったく無縁です。山奥の日常からかけ離れた場所で悟ったところで、山から降りてくればたいていが役にたたないものばかりです。病傷が回復したり、超能力が身についたりするワケでもありません。
ここで、ひとつ、hintになるepisodeを挙げておきます。釈迦は阿南と説法をひろめる旅をしていました。あるとき、阿南がついつい口にしてしまいました。
「お師匠さま。私はこうして何年もご一緒に旅をつづけておりますが、悟ることなど何もありません。仲間たちはサンガ(宿坊・修行場)で毎日修練しているのでしょうが、私はいつまでお師匠さまと旅をつづけねばならないのでしょう」
釈迦は阿南に応えました。
「私が入滅の後、そこいら中の弟子たち高僧と称される者たちは、誰がイチバン私のコトバを理解しているか、誰が悟った者に近いかと、寄り集まって談合会議をするだろう。そのような集まりこそが危ない山間の夜の闇なのだ。阿南よ、私はおまえに私たちの行く手を照らす灯籠を預けた。灯籠は山間の夜の闇を照らすだろう。その灯のなかで観てごらん。魔物、妖怪がうようよしていることがワカルだろう。けれども、その灯で邪悪なものたちは私たちに近づくことすら出来ない」
釈迦の予想どおり、入滅後、何度も結集(けつじゅう)という会合が開かれました。阿南は位が低く羅漢でもなかったのですが、一回目の結集のとき、釈迦と最後までともにあったということで、結集に招かれました。さまざまな「如是我聞」が披瀝されるなか、阿南に発言の機会が与えられました。阿南は「私は師匠の歩く夜道を照らすため,灯籠(日本でいう提灯のこと)を持たされていただけです。師匠が最期に申されたコトバは、/阿南よ、自燈明 法燈明だよ/です。この結集の場に在るのは法燈明ばかりです。
その後、阿南が結集に召喚されることはありませんでした。

〇塩対応 というコトバがある。/そっけない、愛想のない、冷淡な接し方/を指す云い方のことで、 いわゆる「しょっぱい」対応という 意味。 「しょっぱい」は主に味の塩辛さを表現する語であるが、この他に、表情などに不快さが表 れている様子を指すことがある。「(相手を)舐めている」という表現が連想されている場合もある。
と、辞書にはあったが、さて、岸田首相は育児休業中のリスキリング(学び直し)を後押しするとした自身の国会答弁が批判されていることを巡り「本人が希望した場合にのみ取り組める環境整備をすることが大事だ、という趣旨だ」と、訂正した。これは、当人の岸田首相がリスキリングしたほうがイイ。こんな答弁は詭弁にしか過ぎない。長男が外遊で購入したお土産を公費だというくらいだから、なかなかの「育児」をヤってらしたのだとおもう。ほんとにリスキリングが必要だ。
「防衛費」ならびに、そのものに対する「増税」に反対している国民は/心情的には/さほど多くはナイ。このご時世だ。「ちょっと実験でもやんべえ」とかいって、日本近海にでも戦術核弾頭ミサイルを撃ち込む確率のある近隣国家があるのだから〈アタリマエ〉といえばそうなのだ。
しかし、アメリカから購入する反撃能力のトマホークは、何処を防衛するのかというと台湾有事における沖縄諸島だというくらいは、これもよほどのうすのろ莫迦でナイかぎり国民はすでに識っている。ところが、そんなこときは国会でも与野党含めひとこともコトバにったことはナイ。沖縄方面軍の旅団が師団に格上げされてもだ。
もう、国会自体が間違った意味で〈異次元〉になっちまっているナ。

2022年8月16日 (火)

Sophism sonnet return 04

ついでにちょっと

古書店(「古本屋」いったほうがなんとなく気安いのだが)で、100(と裏内表紙にエンピツで書いてあったから百円。元値は300円)の『新しい共産主義批判』(著者・不明、記されていない。ただ、世界基督教統一神霊協会とある。発行者も同じ、発行所は光言社、東京渋谷区。以前の持ち主のinitial、名前など記入あり。内部にもside line あり)を購入(B6だからちょうどcomicサイズ。310ページ)したは名古屋にでてきてからだから、お姐さんとの経緯とは、あんまり関係ないのだが、まあ、ついでだから。発行年月日は昭和四十三年(1968)。
ここで、国際勝共連合、世界平和連合、UPFジャパンという3団体の会長を務める、梶栗正義氏の一連の騒動後、初めてメディアのロングインタビューを挿入。「1968年に創設されました。当時は冷戦の真っただ中で、世界では共産主義勢力が拡大していました。そこで文総裁は世界平和を実現するにあたって、神を否定する唯物思想である共産思想が世界にネットワークを広げている現状に強い危機感を抱き、これに対抗をするため、国際的に連携して相対峙あいたいじしなくてはいけないという考えに至りました」
つまりこのtextは、会員が学習用に所有していたホンなのだな。たぶん、よくワカランかったろうとおもう。

『新しい共産主義批判』の序文には、本署の目的は/統一原理を応用して共産主義論を見当批判、克服を試みようとするものである/。なので、本署の第一章は「統一原理」の解説、以下は共産主義(マルクス時代の環境とマルクス主義の成立から始まる)についての「原理」応用における批判に費やされている。
第一章は宗教教典なので、ワカリヤスクいえば、いまの本屋の棚を占領している「魔法合戦comic」のidea資料のように読めばイイ。一応は聖書(Bible)の文鮮明における解釈なのだが、当然のことながらkatholiekや他のChristian教会からも「異端」(いわゆる「外道」)と正式にお墨付きが出ている。しかし、「魔法合戦comic」の原作だと思えばそれなりに聖書よりスジは通している。これは本家の聖書(Bible)のほうが矛盾が多いからなのだが、そこが聖書の読みがいともいえる。「原理」のほうは気張って「科学」を標榜し、スジを通さんとして噛み切れない馬脚の肉。宗教は科学でないところがイイのだから、兎の角でイイ。とにかく。
第二章以下の共産主義(マルクス)批判においては、こっちのほうが原理解説よ丁寧で、マルクスの人間性から入り、まず「価値論」を共産主義の生命線と狙いをつけて批判が始まり、ヘーゲル弁証法から「唯物論弁証法」を批判して終わる。いわゆる、胆(きも)を叩っ斬るという論法で、本署の作者はこっち(たぶん「マルクス・スターリン主義」)のほうをけっこう学習していて、んでもって、「原理」との論戦で論破されたかなんやかんやで、あったのだろう。だいたい、当初読んだとき私なんかなんも勉強しとらんかったんで、いまも学習したというほどはしてないので、本署の論理の流れにはいちいち頷いて、「そのとおりやないケ」と感心してえええええええ、んで、しかしこれと、かの「献金」「霊感商法」がどっから出てきてどうして主流になったのか、なんでまた「家庭」が大事、合同結婚(四ヶ月の禁欲)やら、性的(まあ、たいていの宗教は『古事記』だってオメコのホンなんですが)「血分けの儀式」なところが強調されて(だいたいサタンとの肉交なんてのはもうほんま、comic)、邪教=カルトに変貌、変容していったのか、私にはよくワカラン。
おもうに/聖書は〈スットコドッコイ〉と、〈泣かせるぜ〉が混交しているからイイのではなかろうか/と、信心の無い私なんかは猛暑の夏、世界の33,9%の真理を会得して、コロナ・オミクロンを防戦しつつ、なるほど、「Q統一協会・教会は政治・経済的にはanti communismなのだから、政治家にも寄り添うワナぁとはおもったりしている。 

2022年2月12日 (土)

Sophism sonnet・69,8-15

修行に道を求めんとすれば試練あるまじきと覚ゆ

何がキライといって「神の試練」と云うキリスト教の「狂信」に近い、いや、そのもの、の教義、信仰だけは駄目だ。キライというより「許容できない」部類になる。(もっとも、呉智英センセイにいわせると信仰というのはおしなべて「狂信」だそうだけど)。だからなのか、その逆なのか、旧約では『ヨブ記』はよくワカラなかった。この作品はキリスト教作家にとっていろいろと題材にされて問題化、文学化されているそうだが、『ヨブ記』自体は駄作だといまでもおもっている。それで『ドブ記』なんぞを戯曲(『港町memorial』)に挿入したことがある。私自身はもちろん、『ヨブ記』のparodyのつもりで書いたのだが、劇中劇であるこちらのほうが本歌より好きだ(自画自賛)。
芥川龍之介文士の『蜘蛛の糸』はたぶん芥川としては仏教に対するirony(皮肉)のつもりだったのだとおもうが、そのとおりに受け取っている読者はあまりいないのではないかとおもう。教訓童話の類として理解、了解、されているようだ。
二十歳代の半ばだったか、名古屋駅の駅前で少し年下のクリスチャン少女との問答に負けて洗礼をその場で受ける羽目になったので、私自身、仏教よりはワカリやすい(と当時はおもっていた)キリスト教の教徒の端くれになろうと努力(だったとおもう)はしたが、これには少年のころ読んだ『聖書物語』というイエス・キリストの伝記が影響しているのだけれど、チェスタートンの『正統とは何か』を読むまでは疑問だらけで、高校卒業のときに配布された無料のギデオン版新約には、underlineや疑問符が書き込まれている。かなり好きなコトバもある一方でワケのワカラン矛盾もあり(これは、聖書自体がイエスの辻説法の寄せ集めだから仕方ないと、ユダヤ教徒のハリイ・ケメルマンの説明で納得がいった)そのあたりを整然と解読してくれた『正統とは何か』のほうに『聖書』より長く影響を受けた。チェスタートンにせよケメルマンにせよ、ミステリを書いている(前者『ブラウン神父(シリーズ)』、後者『九マイルは遠すぎる』や、曜日をタイトルに入れた「ラビ・シリーズ」)というところが論理的でキリスト教に対する評論が的確なのだろうとおもわれる。しかしチェスタートンもまた「進化論」についてはかなりのコジツケに近い推察説明をしており、これはチェスタートン得意のparadoxではすまないぞ、とキリスト教がなぜにそこまげ科学を遠ざけるのか依然として不可解だった。
人気のあるカトリックのマザー・テレサについてはもはや論外に近く、「神の試練」を振り翳(かざ)す、というより振り回しながらの伝導の姿勢は聖書を法(真義)とすればコンプライアンスからの逸脱(聖書違反)といえるのではないか(マタイ福音・chapter 6、chapter 7、ここには、私は丸印なんかを付けている。いわゆる「6」の後半は有名な「ソロモンの栄華」を譬えに、~みよや野の花、空の鳥~を説いたところで、若い頃挫けそうになると、ここを読んだ。章の1では「自分の義を、見られるために人の前で行わないように」と偽善者について記されている)。マザー・テレサの貧者のための療養所では、医学知識のあるものは誰も存在せず、シスターたちが不潔このうえない治療を、豊富にあるはずの寄金をどこに使ったのか、わざわざ貧弱な結構で建造し、病もまた「試練」と解いているなんざ、許されるべきではないだろう。
私はハッキリと盃を返した(棄教)したワケではナイが、吉本隆明老師が親鸞に打ち込んでいったあたり、それ以前の『ハイ・イメージ論』で吉本学派の多くが吉本学を離れたときは、『ハイ・イメージ論』は好きだったが『親鸞論』のほうが肌に合わず、どうも根がエピクロスやスピノザ好みなものだから、一休宋純あたりへ傾倒し、カトリック、プロテスタントとも相対化してしまうと、牧師の資格は便利だからうまいこと使って仏教のeventから逃避し、シッダルータ釈迦牟尼の人間臭さに愛着している。
そうなると、タイトルのように「修行に道を求めんとすれば試練あるまじきと覚ゆ」なんてカッコイイことの一つも云ってみたくもなるものだ。特に修行なんかしてはいないが、「これも修行と諦めよう」と嘯き、居直らないと、とても「我が人生に悔い無し」どころか我が人生なんてヨレヨレで肯定出来たもんじゃナイからだ。
 
: 余談になるが、拙作『寿歌』はけっきょくのところ「私がどうしてもキリスト教徒になれない理由」というテーマ、モチーフを内包している。「いいかげん」なの者は古希近くになっても「いいかげん」なのだ。ただ、シッダルータの「悟り」はこの「いい加減」あたりに在るという感触はなんとなくもっている。

2020年12月 7日 (月)

無学渡世・一

ニイちゃんシリーズ(えっ、シリーズだったのか)も厭きてきたとこで、ときどきは、このてのものも挟んでおく。というのも、もはや、鬱病の真っ只中に頸椎狭窄からくる神経の痛みが重なって、なんかしてないと首吊ってしまうので、ともかく、一日の大半は痛みと鬱疾患特有のしんどさで動くことも出来ず、まったく皿一枚洗えないんだから、アホラシイとしかいいようがナイのだが、それが、人間には業(カルマ)てのがあって、私は〈書く〉ということをヤっているあいだは、世界が別になるらしく、こんなふうに書いているのだけれど、いま、ヤッてるのは、やっぱり仏教の学問(というほどでもナイんだけど)で、このほど、他の教義と比較すればなんかワカルかなと、『老子講義』なるものを買いこんで、老子(つまり『道教』)の思想と比較検討(というほどたいたものでもナイんだけど)してみることにした。
まず、motivationとして、仏教の三法印(さんぼういんは、仏教において三つの根本的な理念を示す仏教用語である)は、諸行無常「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」諸法無我「すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである」
涅槃寂静「ニルヴァーナは、安らぎである」)と、まあ、えらく難しくウイキには書かれてあるのだが、ふつうは、諸行無常は「何事も常であるものはなく、移り変わる」と訳され、
諸法無我は「これが私(自分)だといえるもの(我)は存在しない」と訳され、涅槃寂静は「涅槃、つまり死ぬということは、寂静たるやすらぎである」と、平易に訳されているのだが、この涅槃というのは、ニルヴァーナというインド仏教特有で、いわゆる輪廻(カースト)からの解脱なもんだから、そういうものの無い(無くなったカタチで中国から輸入された)日本仏教においては、訳しようがナイので、先述の如くなったのだろうとおもわれる。
ところで、そもそも、その辺りからかんがえていくと、仏教というものには「死」というものに値する概念が無いのだ。だいたいがカーストには「死」が無いので、当然そうなる。キリスト教になると、カルヴァン派の予定説(カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする)はプロテスタントの特異なものとして、ともかく天国に行こうとすると、とりあえず「死ななくてはならない」。ところが、仏教にはそいつが無い。「死ぬ」という概念がすっ飛んでいて、従って、日蓮などが、浄土系の教義を激しく口撃論戦したのはアタリマエだのクラッカーになる。死んで極楽というのは「大嘘」ということになるからだ。そのへんは、親鸞、蓮如のインテリの仕掛けということで、まあ、構わないのだが、私の発見(かなあ)は、そういうだいそれたことではなく(私は別の観点から〈死〉というものについては疑義を感じているが、それはまた別のところで)、最も有名な「諸行無常」なんだけれど、これ、「諸行常無」と並べ方を変えると、コロっと老子の道教になってしまうのだ。つまり「常なるものは無く、すべては移り変わる」とする仏教のお宝文句を「もろもろのものは常に無い」と読むと、なんらかのモノが在るようにみえるのは、ヒトが在るように決めただけで、ほんとうは、この世には何ンにも無いんだよ、という道教の根本思想になる。ナンニも無いのに苦しいだの愉しいだの、欲をつっぱらかしたり争ったりしても、意味ないんだ。というのが老子の教えらしい。これは、仏教の『般若心経』にかなり近いのだが、案外、仏陀釈尊は、この辺りは学問していて、「悟り」ってのは、「これが悟りだ」といえば「それが悟り」になるのだが、そうした途端、その「悟り」には縛りが付くので、「悟りはこうだとはいえない」と悟ったのかもしれない。そうすると、「悟り」の矛盾も氷解する。(「悟り」の矛盾というのは「悟りというのは、釈尊が悟ったものと同じでなくてはならないが、個々それぞれのものだ」という論理矛盾)。
なるほど、老子の思想、「始まりはすべては無名(タオ)でありますので、世界はとどのつまりみんな無名ですから、有るに縛られているよりも、名も無いものと自由に生きましょう」、と、こりゃもうエピキュロスだなあ。(エピキュロスはデモクリトスの原子論を思想の基底とする、原子論的唯物論や原子論的自然観を展開した御方。かのカール・マルクスはヘレニズムの学派に着目した古代ギリシャ哲学の研究を行っており、『エピクロスの自然哲学とデモクリトスと自然哲学の差異』という博士論文を執筆している。原子論とは、目には見えず、それ以上分割できない「原子(アトム)」が、無限の「空虚(ケノン)」の中に運動しながら、世界が成り立つとする説で、エピキュロスによる簡単な解説によれば、この世には目に見えない自然(名も無き自然)があって、そういうのが、自由に飛び交っているんじゃないかなあ、~まあ、量子のことですな~になる)。つまりアリストテレスなんて木っ端微塵にされているのだ。たとえば、老子のいっていること(無名-タオ)とはこうだ。「ここに布がある、頭に巻けばハチマキ、キンタマ隠してケツにまけば褌(下帯ともいう)。どっちかは勝手にヒトが名付けて決めたことだ」これはもうハイデガーなんぞを待つまでもナイことですナ。
タオを「道」とする道教学派もあるのだが、そうすると、逆にまた道という縛りがついてしまって不自由になるので、これはチガウとおもうな、オレ。
にしても、「死」は仏教において何処にいっちゃうのだろうか。この辺りが学問のしどころ勘どころ、オモシロどころというところかな。

2020年11月18日 (水)

港町memory 157

院外処方箋薬局の入り口付近までやって来ていながら、クスリを受け取ることを忘却しているニイちゃんとおばさん。ひとの生き方というのはそんなものかも知れぬ。
シッダルータは坐る。
「なんや、ワカランけどかんがえよう。何かまちごうた。なんや、なんやろ」
おそらく、やがて、シッダルータは自分のマチガイに気づくだろう。
「そうかっ、そやっ、そうやねん。自分が救われたいために修行なんかしてしもうた。ほんまの修行は、ひとを、ひとを救うために何をしたらええのんか、かんがえることやったのに」
悟りをひらいた釈迦牟尼は半眼のまま、瞑想をつづける。何故なら、きょうの悟りは明日はアジャパーになっているというのが悟りだからだ。きょう救えるものが明日救えるとは限らないからだ。仏教の持つ「諸行無常」「諸法無我」はdynamismな運動だからだ。
ニイちゃんは、ニイちゃん自身を救えぬまま、死ぬかも知れぬ。しかし、ひょっとするとシッダールタと同じようなことを、おもいだすかも知れぬ。そんなことはワカラナイ。ましてや、おばさんのことはぜんぜんワカラナイ。
バイデンもトランプもひとなど救えぬ。おそらく殺す数のほうが多いだろう。
野良犬が一匹、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんの前を通りすぎた。こいつらアホかというような目をして。と、左右田一平ふうのnarrationで、幕となる。

次回から、タイトルは変わります。内容は似たようなもんです。

2020年11月16日 (月)

港町memory 156

ひつこいのだが、釈迦牟尼(シッダルータ、シッダールタともいう)は、出家する以前に、バラモン教から次第に変遷を遂げるヒンズー教の教義の当時解り得るすべてを学んで識知していたとかんがえてマチガイナイ。で、なければ、「悟り」という〈もの〉が存在するということがシッダルータにとって既知であったワケがナイ。(バラモン教というのは、民族宗教を外部のものが命名したもので、ヒンズー教との判然たる区別といったものは存在しない)。
「悟り」とは、バラモン(ヒンズー)において、ある奥義、頂点の秘儀、あるいはそれを超越するものだということも、それが噂(rumored)やレジェンド(legend・いい伝え・伝説)の類であったとしても、無論、承知(あるいは理解、了解)していたはずである。よってシッダルータにとって、「悟り」の修行とはバラモン(ヒンズー)の奥義を究めるというより、それを超えるということに他ならなかったが、その根本的な目的の「状態Vektor(作用素)」が〈謬見〉ではないかと気付いたのは、六年間の修行の失敗に対しての疑問からであった。
/ひょっとしたら、なんかチガウことをしてたんと、ちゃうんやろか/とシッダルータは、修行で瀕死の状態に在って、それこそ、べつの意味では覚ったのだ。〈作用素〉というのは、functionされたナニかのことだ。〈状態Vektor〉も同じようなもので、数学でいえばVektorの合成、量子力学でいえば、波の重ね合わせが近いだろうか。イメージでいえば〈微分幾何学〉になる。つまり、linear(リニア・直線)ではナイ、曲線を含む三次元微分のことだ。
これだけワケのワカラン難しいコトバを並べられると、ニイちゃんが鬱病になるのも仕方がナイと諦めがつくだろう。
簡単にいえばシッダルータは/この修行はアカン/と、そう結論したといっていい。
では、どうすればいいのか。/あかん、とりかえしつかへん/の心境だったろう。
と、ニイちゃんは瞑想、いや妄想した。そうして、
「まあ、一息いれようとおもって、坐ったんじゃナイでしょうかねえ」
と、おばさんに対してだか独り言だか、いうでもなくいわぬでもなく、その半々で口にした。
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしていたおばさんは、
「いまな、院外処方箋薬局に行ったらな、」
えっ、行ったのかぁっっ。
「この処方箋ではクスリは出せませんていわれたワ」
30秒ほどで玄関払いされたようだ。
「何故です」
「年齢をちょっと誤魔化しただけやねんけどな」
「幾つにしたんです」
「二十八歳」
「それ、ちょっとですか。半世紀以上の誤魔化しじゃナイですか」
「ニイちゃん、何を渋い顔してたんや」
「ボクは、釈迦の悟りについてかんがえてたんです」
「ひつっこい、やっちゃなあ」
「この世に「悟り」というものがあると、なんでシッダルータは識ってたんでしょうか」
「誰どに、おせ~てもろたん、ちゃうんか」
「誰にですか」
「そんなん、あれやがな、阿弥陀如来にとちゃうか。なんかお経にはそう書いたるで」
「浄土系の親分ですか。釈迦の師匠ですか。そうすると、その阿弥陀如来には誰が教えたんですか」
「そこが、仏教のスゴイとこや。仏教はな、バテレンとちごうて、/光あれっ/とかが無いねん。つまり、この世の始まりが無いねん。そんで終りも無い」
「そうしたら、何があるんです」
「途中だけちゃうか」
「途中だけっっ」
「ナンニも始まらへんし、終わらへんのが仏教や。これを永遠ではなく永円ちゅうねん。遠くやナイねん。親指と人指し指ででける円やな。つまり環(わ)っか、やナ。そやからわしが二十八歳でもエエねんで」
このepisodeというか、storyも終りそうにないな、とニイちゃんはため息するのだった。
しかし、この世間(うきよ)である。こういう浮世離れしたハナシを書いているときは、キの字が引っ込むような気がする作者であった。
/コロナというのは自動車の名称でもある。コロナ(CORONA)は、トヨタ自動車が1957年から2001年まで生産・販売していた、セダンを中核とするCDセグメント(欧州仕様の車種のこと)相当の乗用車である。トヨタ車として初めて日本国外でも生産された車種である/。もちろん、売り上げはダダ漏れ状態らしい。連鎖で世間(うきよ)もタイヘンですわ。

2019年12月18日 (水)

港町memory 68

(承前)
これ(ニュートン力学的世界)と(量子力学的世界)は般若心経の「色即是空・空即是色」で捉えるとワカリヤスイとおもわれます。
たとえばヒトを〈色〉という実体とするならば、量子力学の領域は〈空〉になります。
何故なら、量子はすべて波動(波)だからです。波動なのに、どうして量子という粒子の名称がついているのでしょうか。これは、ダブル・スリットによる実験(slitとは、切り込み、隙間のこと。これは思考実験ではなく実際の実験です)で、よくワカリマス。たとえば、電子という量子を一個、穴(切り込み、隙間)が二つ穿ってあるスリットに向けて発射し、その向こうがわのスクリーンに到達させるという実験です。電子は一個ですから、スリットのどちらかの穴を通過するはずなんですが、実験の結果では、ダブル(二つの)穴を同時に通過したことがワカッテいます。ところが、スクリーンには一個の電子の到達痕しか残りません。つまり、電子はスリットを通過するとき、いったん波に変わり、さらにまた粒子となってスクリーンに到達したワケです。いったん波になることは、次々と電子を飛ばしてスリットを通過させると、スクリーンに干渉縞が現れることで証明出来ます。電子の次々の時間を一秒ごとにしても一時間後にしてもたとえ百年ごとにしても同じ干渉縞になります。つまりたった一個の電子でも、いったん波となってスリットを抜けた以上は、干渉するということです。何故こんな不可思議なことが起こるのか、それは量子という運動の本質だとしか答えようがアリマセン。/量子というものは、波だか、粒子だか、なんだかワカラナイもの/、これが現在の(といっても私の知り得る限りのですが)量子力学の量子に対する定義です。(量子そのものは、energyの最小単位です)。すでに古典量子力学と称されているニールス・ボーアの量子解釈である〈相補性〉=「量子はあるときは波でありあるときは粒子である」(いわゆるコペンハーゲン派解釈)は、すでに実験によって否定されています。
さてと、ハナシをもどして、波、波動も実体ではナイのかと、おっしゃる方には、次のような解釈をひとつの例として述べておきます。前提としての注意ですが、「空」は「無」ではアリマセン。
/音楽とは、波動=音=〈空〉が分子段階に相転移して〈色〉=実体となったものだ/
私たちは音楽(演奏・歌唱)を聴きますが、音そのものは音波という単なる波にしか過ぎません。それが波動の作用素(作用素については後述しますが、簡単にいえば、なんらかの作用によって生じた結果)として音符に書かれ、楽譜になり(と、この辺りを分子段階としておきます)、演奏、歌唱が出来る音楽となり、私たちはそれを感受します。単なる音(波)には音楽としての実体はありませんが、私たちの聴く音楽は実体です(波としてではなく音楽として感受できますから)。そこで楽譜〈色〉という分子段階をもとの音、単なる波にもどせばすなわち〈空〉になるということです。これが「色即是空 空即是色(色即ち是れ空と成り、空即ち是れ色と成る)」のかんがえかたです。(つづく)

2019年11月21日 (木)

港町memory 59

「厭神論者」「嫌神論者」という存在(ひと)もいます。「献神論者」だっているでしょうけど。「厭神論者」「嫌神論者」という存在者は、ともかくも、神が在るということは認めてはいるのです。その上での嫌や厭ですが、「反神論者」とはチガイマス。「悪魔崇拝」というのでもナイのです。私の立場に似てはいますが、私の場合をそんなふうに名付けるとすると、「抗神論者」とか、「無視神論者」「不問論者」てな具合ですかね。
要するに神様がヤルことなんかどうでもイイ、というより、こっちから手出しが出来ないことについてはどうこういっても仕方がナイというふうなんですが、成されるがままというのも癪なので、満身創痍感が強いので、心情的には抗ってみるといったふうですかね。ハルマゲドン戦争(ヤハウェとサタン=ルシフェルの闘い)は永遠の遠くからずっと続いていて、そうなると、私なんかは、どっちかの二級天使なのかも知れませんが、どっちの味方なんだかワカンネので、ワカロウともおもわないながらも、「こりゃ、ネエだろう」という「試練」だか、「災厄」を目の当たりにすると、「辛いねニンゲンは」とおもいます。
たとえば、私の母親は九十歳ですが、口腔癌で、毎日、口や鼻から血を流します。ほぼ一時間単位で。血には驚きはしませんが、その処置はもう素人では無理だと判断したので、看護師二十四時間常駐の施設で、現在の訪問医療のdoctorの医療が出来るところを探しました。
えれえ高額です。クラモチくんも癌で死ぬ前、保健治療が終わるとき(つまりそのアトは保健外になるので、一ヶ月200~300万円かかる)いみじくも、いつもと同じ口調でいいました。「銭の切れ目が命の切れ目だからなあ」
そこで「緩和ケア」なる「死に方」がいまの世界では用意されている。私はこれに頭を抱える。つい昨日、医師、看護師、訪問看護師、ケアマネ、私、弟、当然患者本人(母)とカンファレンスしながら、私に過ったことは「我々は何を何の為に闘っているのだろう」という矛盾と不条理に満ちたな問いです。
患者の死期を遅らせるためなら、患者の苦しみはその分、長引きます。だいたいにおいて「緩和ケア」というものは「楽に死ぬ」という大義名分がありますが、それはのっけから矛盾だということは誰もがワカッテいる。
「生病老死」、いわゆる釈尊の説いた「四苦」は「苦しみ」だから、そこからはニンゲンは逃れられません。つまりは「苦しい」のです、死ぬということは。というか死ぬこと自体は苦しくはありませんが、そこまでの仮定は苦しい。極端にいうなら、ヒトは一生かけて死ぬのです。
カンファレンスが終り、みなさん立ち去られてから、母は疲れて居眠っておりましたが、捨てぜりふのように私はこういいました「面倒くせえナ死ぬことは、願わくば猫の如くふらっと消えて、だれのお世話もお手間も面倒もかけずに、歩けるうちにオレはカタをつけたいね」
釈尊は「解脱」といい、ニーチェは「永劫回帰」をいい、キリスト教は「天国」が売り物で、「天国」については「実に入りにくいところだ」といったり、「誰しも行ける」といったり、罪があるだの「原罪」だの。釈尊の教えは、まったくもう百花繚乱、私は原始仏教の釈尊の遺した「自燈明 法燈明」「諸行無常」「処法無我」「涅槃寂静」だけしか信用してませんけど。
真っ当ななクリスチャンは、キチンと「地獄なんてものはナイんです」とはいいます。そりゃそうです。あったらイエスの諸行はみパーになっちゃう。ゴルゴタの丘で「全てのひとの罪をいっさい背負って処刑された」ひとりの、ニーチェにいわせれば唯一のキリスト教徒の仕事はパーになるということです。
「罪」とか、原罪とか、そういうのもう、反吐が出ます。好きで生まれたんじゃナイのに、生まれたときからニンゲンは罪人(つみびと)で、そんで斬り人教徒(おっと、うまい誤字だなあ)にならないと罪は消えないなんて、そういうのを「手前味噌」というのです。和製英語でいえばmatch pompですな。
いま目前で血を垂らしている者を前にして「ひとは原罪があって」とか、「死んだら極楽浄土に行けて」とか説教しているほど、ヒトは長閑な存在ではナイのです。
「死ぬとは何か」は、「死んだらどうなるか」より重要な、生きているものの課題です。 

2019年7月15日 (月)

港町memory 30

つらつらつれづれと書いていますが、原作は560ページの長編で持ち歩くのには不便な長編だったそうで、原作のレビューをサクサクと読みましたが、こりゃあ、尾崎将也脚本の大手柄なんじゃないかなと、圧倒的WOWOWドラマ勝利なんだなあと感じました。
脚本と戯曲はチガイマスが似たりよったりの部分もあります。ザックリcutする。スッキリcharacterを変える。なにしろ、テレビ(や、映画、舞台)は「目にみえます」から。永作博美、市原隼人、杉本哲太を相手に活字じゃかなわない。
戯曲を書くコツはなんですかと訊かれると/視覚的(みえるよう)なせりふを書きなさい/と応えますが、手品のタネを教えても手品が出来るとは限りません。と、いうか、「それって、どういうことですか」と問い返されます。で/観音さまというのは、音を観る菩薩です/といいますてえと、「亜スペルがーってこわいねえ。自分のこと菩薩だなんていってるよ」てな顔されます。
で、あらすじのつづきです。が、その前に、
/かつての恋人の弘志(市原隼人)が、弁護士の矢田部(田中哲司)に美紀のことを話し始める/
この部分は、おそらく原作ではさほど重視されていない(書き込まれていない)のではないかとおもわれます。法廷部分は緻密に書き込まれていて、退屈したとrevueがありましたが、で、尾崎さんはさほど書き込まれていない、love scene、このepisodeをみごとなplotに脚色したんだろうというのが、同業者としての私の推測。
美紀と弘志の束の間の幸福。これがとてもよろしゅうござんす。/不幸中の幸い以外に幸いなどというものはナイ/です。
/今度は警視庁に逮捕された美紀(永作博美)は、鳥飼(大倉孝二)の取り調べでも否認を続ける。逮捕の現場に居合わせた弁護士・矢田部(田中哲司)は美紀の弁護を名乗り出る。一方、この事件に興味を持ったテレビ局のディレクター・高井(甲本雅裕)と立花(藤本泉)は、過激な報道で美紀を追い詰めていく/
この辺りで、美紀の過去と、家事代行業をしていた先の独居老人の不審死が浮かび上がってくるのですが、それらはつまり偶然の連鎖でしかナイに関わらず、あろうことか、美紀自身が「自分と関わりのあったひとは不幸になるのではないか」という関係妄想を持ち始めます。これが眠狂四郎あたりがいうぶんにはカッコイイんですけど、美紀はそうはいかない。虚無なひとではありませんから。
ともかくあらすじを最後まで記しておきます。
/ついに美紀(永作博美)は、馬場(北村総一朗)の事件で起訴される。美紀に関わる老人たちの不審死が次々と明らかになる中、美紀を守るために弘志(市原隼人)が取った行動も裏目に出てしまい、報道は過熱する。美紀は何も語らず、ついに裁判が始まると、美紀の正体が徐々に暴かれていく/
ドラマでは弘志との出逢いも、弘志が美紀を信頼する根拠も、ネットカフェの急病人に対する美紀の緊急処置にありますが、たぶん、原作では、美紀に看護師資格などはなかったのではないかというのが、私のまたまた推測。なんでかというと、そういう職業経験は美紀にはカッコ良すぎてともかく/不幸なヒト=美紀/には不似合いになる。このへんは読み物と見せ物のチガイ。ビンボを徹底してビンボにすると、ドラマでは不幸を通り越してお笑い落語長屋になっちまいます。そこでドラマでは、不幸をテキトーにsaveして、美紀はアホではナイ。Communication能力は優れている。なのに、〈沈黙〉が支配する。という/謎/を追います。
美紀の沈黙も具体的にいうと/取り調べでも否認/なんですけど、美紀にとっては否認というよりも/ほんとうのこと/をボソっといっているに過ぎない。それは自分の人生に自信がナイから、に起因している。善かれとおもってヤッた家事代行で、雇い主が次々と不審死しているんですから。こうなるともう、サマリタン問題にマルキ・ド・サドの『ジュスティーヌ~あるいは美徳の不幸』(ただし渋澤龍彦、訳の初期稿)まで加算されてくる。しかし、ああ、それ、いいですねえ。永作さん主演で。それも観たいナ。
ともかくも視聴者の興味は(と、いうより脳裏の夜霧、いや過りですね、これはもう)「何故、彼女が黙っているのか」だけに収斂されていきます。と、同時にもう一つサマリタン問題としては、「この世間でナニかをスルということは、理由よりもアリバイのほうが必要なのではないか」という不安あるいは恐怖感のようなものがココロの底を這いずり始めます。自らが生きるために他人に何かスルということは、たとえそれが善行であっても、善行として成されるか(作用するか)どうかは〈関係の確率〉に決定される。とすると、/何もシナイ/のがイイのかって、そんなこと現実に出来そうにアリマセンから、私たちの存在というのは、サマリタン問題的に分析しちまうと、生きていくだけで〈悪〉に成ることがある。
と、ここで終わっちまったら、インテリの偽悪、絶望ドラマでしかアリマセン。
さあ、そこで、WOWOWドラマチームは賭けに出ます。美紀に沈黙を破らせるのです。
永作(山本美紀)博美にこういわせます。
「私にもし、罪があるのなら、希望を棄てたことだとおもいます」
こういうせりふは、よほどの勇気、覚悟、決意がナイと書けない。三流ドラマや似非劇作家、疑似脚本家ならともかく、こういうせりふはせりふ自体ではなく、ドラマであれば永作博美さんの演技を心底信頼しないと書けない。
ドラマは山本美紀の無罪で結審、永作(美紀)博美は、市川(弘志)隼人と、船で旅立つhappy endingになりますが、そのあたりは、なんとなく往年の日活アクション映画のラストシーンを彷彿とさせます。胸を撫で下ろすところです。
結語。つまり、サマリタン問題、善きサマリア人のたとえの答とは仁慈と憐みではなく、信仰義認でもなく、ヒジョーに単純ながら、「希望」だったということになります。原作レビューではラストシーンが/物足りなかった/拍子抜けした/呆気なかった/という落胆の傾向が多くみられます。ここも活字と動画の差です。
昨今、何が難しいかというと〈希望〉を語ることです。/希望/を書くことが最もアポリアな課題なのです。パンドラの函は底からぬけて、最後に残るはずだった〈希望〉が真っ先にどっかいっちゃったもんですから。
けれども〈希望〉を書かねばなりません。たとえどんなに絶望に侵されていても。どんなカッコワルイ生活をしていても、平気で希望が書けるようになったら、一流でんな。 

2019年7月14日 (日)

港町memory 29

さて、あらすじです。
/東京・赤羽で資産家の老人・馬場(北村総一朗)の変死体が発見され、赤羽所轄の刑事・伊室(杉本哲太)と西村(臼田あさ美)は警視庁の刑事・鳥飼(大倉孝二)とチームを組み捜査に当たる。すると、容疑者として家事代行業の女・山本美紀(永作博美)が浮上する/
この馬場さんは独居です。変死体というのは、椅子に坐ったまま(後ろから紐状のもので)首を締められて殺されていたからです。馬場さんは資産家ですが、それは殆ど不動産です。そこで、不動産屋の女が登場します。300万円の商談が成立して現金を手渡したが、それはみつかったのかと、逆に刑事(伊室と西村)に訊ねます。もちろんみつかっていません。これは大事な伏線だというくらいならミステリファンでなくてもわかります。
刑事二人は聞き込みで馬場さんの女関係から、昨今出入りしていた山本美紀の存在を知ります。しかし、これは家事代行業です。とはいえ、犯行当時(殺されたその日)出入りしていたのは彼女だけです。長男も現場に顔を出します。この長男が真犯人だということはミステリファンにはすぐにワカリマス。あまりに登場のタイミングが良すぎます。
ところが、どうしたって怪しいのは山本美紀です。捜査も彼女を対象に絞り込まれます。彼女は犯人なのか、そうでナイのか。ここで、この(一応)ミステリが、「Who done it = 誰が犯行を行ったか」に重点を置いているのなら、そちらに物語は傾斜していきますが、そうではナイ。むしろ物語の傾向(興味)は「Why done it=なぜおこなったか、犯行に至った動機の解明を重視」にベクトルを向けています。さらにこれは、次第に山本美紀が取調室や法廷で殆ど「語ろうとしない=沈黙」は何故かという「Why」になります。ここがこのドラマのstandard(立脚点・立ち位置)なところです。視聴者はそこに引きつけられていきます。サマリタン問題をmotif(あるいはtheme)にしている部分に該ることが、これまた次第にワカッテきます。
あらすじには書かれていませんが、時系列として、市川くんが港にいるところがintroductionです。

/赤羽署の刑事・伊室(杉本哲太)らは、目の前で埼玉県警に美紀(永作博美)を連行されたことで焦っていた。一方、埼玉県警の刑事・北島(菅原大吉)は美紀の事情聴取を始めるが、美紀は罪を認めない。そんな中、かつての恋人の弘志(市原隼人)が、弁護士の矢田部(田中哲司)に美紀のことを話し始める/
拘留には期限があります。美紀の黙秘と意味深なだけの自供(たとえば埼玉県警に述べた「貧乏は悪いことですか」赤羽署での供述「9万6千円のマンションを借りたのはガスの取り口が二つあったからです」など)からは得るところはありません。で釈放になるのです。しかしまた赤羽署でまた逮捕。このときに、家事手伝いだけでは不相応な高めのマンションを借りた(そのお金は馬場さんから借用している・・・これはちゃんと供述している)理由は、恋人の市川くんと交際が始まっていたからだとおもわれます。少なくともWOWOWドラマでは、そう解釈するしかナイ。
弁護士の矢田部はダメ弁に描かれていますが、原作ではそうではナイようです。しかし、テレビ・ドラマとしてはそのほうが、絵やcharacterとしてオモシロイ。小説には小説にあったcharacterの描き方があり、テレビ・ドラマにもそれなりの描き方がありますから、そういうところでの優劣はアリマセン。けれども、原作を先に読んでいたひとにはどうしても違和感が生じるでしょう。(こういうことがあるので、私、二つとも、というのはなるたけ避けています)
さて、視聴者にも、美紀の沈黙の理由の一つがワカッテきます。というか、美紀は沈黙(いわゆる黙秘権の行使)などはしていないのです。ほんとうのことをポツリポツリと語っているのですが、それでは彼女を犯人には出来ない。決定的にゲロを吐かさなければ、というのがケーサツですから。
ケーサツは取り調べのプロです。私もサツ廻りの新聞記者にいろいろと逸話を聞きましたが、たとえば、こういう尋問法もあります
ケ「〇時〇分、オマエはほんとうに〇〇にはいなかったんだな」
ヨ「いませんでした」
ケ「絶対にか」
ヨ「はいっ」
ケ「よし、これで犯人はオマエだということが確定出来た」
ヨ「ええっっっ」
引っ掛けなんですけどね、アリバイ崩しの一方法で、容疑者を錯綜、混乱させる手口です。
(まだつづきます)