アト千と一夜の晩飯 第四十夜 信仰について
「信仰はすべて狂信である」これは呉智英センセのコトバ(命題)、「反証出来ないものは科学ではない」これは科学哲学の親方(というか私にいわせれば科学哲学を信仰しているintelligentsiyaの拠り所)カール・ポパーのコトバ。もうひとついっとくか。「子供はすべて神の子です」これは、私が24歳のとき名古屋駅前で洗礼を受けることになった、だいたい同年の女性が、後に出会ったとき妊娠していたので、そう応えるだろうとはおもっていたが問うたときの答。彼女はキリスト教系団体で集団生活(commune)にいたので、一応父親を訊いてみた。名古屋駅前、丁度、私は鬱病を発症(現象)、気分を変えようと下駄に眉毛を剃り落としての格好で歩いているときに、その少女に呼び止められ鬱病現象の攻撃性(aggressive)から「そんなに愛を説くのなら、いまから駅裏のホテルに行って愛し合ってみるか」と云う私に「いいです」と即答されたので、こっちの負け。ホテルには行かずその場で洗礼(そこの団体の口伝形式で)を受けることになった。かなりイイカゲンなことだが。駅前の映画館で『神々の深き欲望』(今村昌平監督)なんてのを上映していたから、なんか出来すぎだなあとおもいつつ。その後、あるルートで牧師の認可証を購入。こういうのを持っていると、徴兵を逃れ、故郷の菩提寺(浄土真宗)の、やっかいな付き合いも拒否出来るとのおもいがあったので。
ハナから再考していく。いま問題(話題、なのかも知れないがメディアが頻繁にとりあげている宗教二世のおハナシ)から演繹するに、呉センセの命題は「真(正しい)」とおもえる。私は安倍晋三元首相をヤった無職山上徹也容疑者(奈良地検が殺人罪で起訴)を誰がなんと云おうと「テロ」などとはおもっていない。ありゃあ、個人的宗教二世の怨恨だろう。ココロの奥底で「よくヤッた、エライ」などとはおもっている。
ポパーの定義については、この定義そのものが怪しい。逆に「科学は反証しか出来ない」といっておいたほうがまだマトモだろう。諸説百般、だから科学はオモシロイのだが。科学哲学こそ宗教臭くてやりきれない。学問をして威張っている、或いは庶民大衆を小馬鹿にしている(intelligentsiya)なんかが、ジェンダー・アクションのある神社の官主や寺の坊主、ガッコの教諭と同じにみえる。
三つめは、日本にはまだ徴兵はないので、そっちのほうでは認可証は役立たずだが、面倒な地元の菩提寺や檀家組合などにはある程度は防波堤にはなった。現在、私には故郷は無い。/私が故郷を棄てた/のではなく、/故郷が私を棄てた/ことはエッセーに書いた(収録された単行本があるがタイトルを忘却)。駅前のマリアがどうしているかは不明。子供がちゃんと教育を受けらていればイイがとおもう。駅前の洗礼(らしき)後、しばらく私はクリスチャンだと詐称していたが、これは営業用だな。私が何故キリスト教徒になれないかを描いたのが『寿歌』であるとワカルまで十年以上かかった。。
現状は「信心無し」ということにしている。とはいえ、一休(子供のころの頓智の方ではナイ)は好きだし、『般若心経』は記憶している部分だけを唱えながら、画仏壇に線香はあげている。死んだところで私というエネルギーは重力にでもならない限り、この宇宙から消滅することはナイのは自明の理。現身体性を終わった後、どういう波動でこの宇宙に在るのか、ワカラナイが興味あるところ。天の川銀河はすでにアンドロメダ銀河との衝突を始めているらしいが、そういう「の」が眺められたらなあと希求している。
/雪ふるや どうなることでも ないにせよ/
/哀れやな ウクライナに 在るわたし/
/貼るカイロ 足の裏だけ ふゆのはる/