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カテゴリー「仏教・宗教」の記事

2017年10月12日 (木)

「自燈明 法燈明」について

釈尊が、遺言(いごん)として、阿南(アーナンダ)にいい遺した「自燈明 法燈明」は、仏教の説く普遍的な教えを述べたのではなく、目前のアーナンダに対する遺言だったことに、まず留意したほうがイイ。そのこと自体がやがて、釈迦の思想の中心になっていくことは確かだとして。

釈尊は、阿南との説法の旅の途上、自らの死後、自らの教えがさまざまにマチガッテ統一されていくことをみとおしていた。というより、それが釈尊のいわゆる〈危惧〉でもあった。(つまりは、結集というアレなんだけどネ)。「結集」とはいうものの、コノ決起集会がやがて釈尊の教えを分派し、滅劣に統合されることは、釈尊には充分予想のつくことだった。さすがにというべきで、ワカッテいたのだ。然るに、アーナンダに対しては、遺言のカタチで「アーナンダよ、私の死後、如何に私の名のもとに〈法〉が説かれようと、アーナンダよ、自ら自身をこそ、燈明とするのだぞ」と述べたのだ。

釈迦の予見どおり、結集により、小乗各派閥は、おのおのの如是我聞の持ち寄りを仕分けして、これを統べ、釈迦仏陀の法とした。第一回の結集に阿羅漢の身分ではなく特別に参加を許された阿南は、この〈法〉にただひとり首肯しなかった。よって、破門同然の身となった。

阿南(アーナンダ)への遺言として託された釈迦のコトバは、そのまま普遍的に受け取ると「法より自己がタイセツ」というふうに錯誤、誤謬となってしまう危うさを含んでいる。

ここは難しいところだが、よく考えたほうがイイ。この〈法〉は、「権威」「権力」と名を変え、手を変え品を替え(品は、科、としたほうがイイようにおもうけど)、蔓延っていく。

釈尊の思想はあくまで「自燈明」であって「自己」ではナイ。何故なら自己我など、無いのだから(「諸法無我」)。

釈尊の教義は、待(対)機説法だから、イエスの辻説法に似て、矛盾をほじくりだすことは出来なくはないが、本質(土台)となる思想は揺るがない(ブレはナイ)。

再々、確認すべし。

2016年7月10日 (日)

涙、壊れているけれど⑱

キチ がいい

 

毎月一度か二度、帰郷したときは、実家の近隣の神社で御神籤を引くのが習慣になっていて、たいてい、(一回100円なんだが)二度引いて、その中間をとるようにしている。納得がいくときは、一度。あまり良くないのを引いたからといって二度引くワケではナイ。良すぎるのもどうかと思うから、二度。で、「吉」がイイ。

やはり気になるのが「恋愛」で、極端にいえばアトはどうでもイイ。要するに女運でしょ。

「愛情を信じなさい」「ためらわず告白せよ」「将来、幸せになる」と続いているので、ここはもう、どうにもならないものは神頼み、書かれたとおりにしている。

私の場合年齢的な問題も大きいので、春を待ってはいられない。といって、焦ってカス掴んでたら、もう取り返しがきかない。そこで、「犬も歩けば棒にあたる」で、あたるを幸い、「果報は寝て待て」で、焦らず果報を待つ、と、バランスとタイミングでやってみている。まあね、恋愛にならなくてもイイんですよ。傍に女性の影でもありゃね、それで上出来。

神社へのお参り、ありゃねえ、「お願いごと」が先に立っちゃダメ。「祈願」「誓願」というのは、賽銭投げて、鈴鳴らして、手を打って、〈誓う〉のが正しい。「誓いを立てる」ワケです。そこまでは自力。アトはおまかせで他力なんです。だいたい、10円や100円で願い事が叶うワケがない。1000円でも1万円でも一緒。だいたい賽銭というのは、祈願成就したときに、ほんとうはお礼のためにするもので、願い事を銭で契約するものじゃアリマセン。誓い、自力です。願い、他力です。私なんか神社でも「自燈明・法燈明」やってんだから。何度も書きますが、「自燈明」を「自らを燈明とせよ」というのは誤訳ですよ。ほんとうは「自ら燈明としたものに向かって行きなさい」あるいは「自らの燈明と出来るものを求めなさい」です。そういう修行をしなさいなんです。で、「真理(法)となる燈明を求めなさい」なんです。これがアーナンダ(阿難陀)の聞いた釈尊の遺言(いごん)です。釈迦入滅のとき、傍にいたのはアーナンダだけです。ですからアーナンダは釈迦の遺言を聞くことになった、というより、釈迦に訊いたんです。釈迦が自分はもう死ぬだろうっていうもんだから、アーナンダ、当然の如く「師匠に死なれたら、そのアト、私たち、私はどうすればよいのでしょうか」と訊ねたんです。そこで、釈迦が応えたワケです。修行の在り方を釈迦は阿難に伝えたんです。「如是我聞」の「我」とは主にアーナンダを示します。これを、最初の結集(そこいらの弟子たちで阿羅漢以上の地位のものが、釈迦のコトバをまとめるという作業)のときに、正直に阿難くん、いうたもんやさかい、そら都合が悪おまっせ。まとめなアカンのに「自燈明」では、まとまるもんもまとまらない。そんでもって、哀れ、阿難くんは、仏教史上では悪人扱いされることになります。

つまりぃ、ほんとうの仏教(釈迦の教え)は、すでにここで終わっています。もちろん、これは私の学問した釈迦の思想においてのことですけど。

と、いうことはいまの仏教はおしなべて、インチキとまではいいませんが、釈迦の思想とは関係ありません。とはいえ、このアーナンダのコトバに耳を傾けた連中もあるにはあったんです。それが、禅宗に伝わったのではないかと仏教史は考えているようです。何故なら、〈悟り〉というものは、他宗派には存在しません。法然や親鸞が悟ったなどという話はありません。空海も最澄も、日蓮もです。(彼らが偽物だといってるんじゃありません。彼らなりの自燈明でしょうから)

恋愛も、「自燈明・法燈明」であります。「あんたが好きになったもんに向かっていきなさい」そうして「ほんとうの愛なるものを求めなさい」でございます。私はなんべんも挫折しておりますが、たかが六十三年の修行です。修行はまだまだ続けてよろしやんか。恋愛修行、六十四年目に入ります。諸法無我・・・これは、次回。

 

2016年1月20日 (水)

♡~16

きょうは具合が良くないので、運が悪かったと思っていただこう。アグレてるので、何かにアタラナイと気がすまないのだ。つまり、うつ病の症状がひどくて、機嫌が悪いのだ。
『史上最強の哲学入門・東洋の哲人たち』(飲茶・マガジン・マガジン)。1700円して、アマゾンで購入したが、内容はコンビニ本程度で、『バキ』まで持ち出してきて、板垣啓介さんにカバーイラストまで描いてもらって、著者はShame on you!.だ。fo shameともいうけどね。私は、インド哲学、老荘思想、禅に関しては教養程度にしか知らないので、一応学問した仏教についてだけ、「ケチ」をつけておく。その前に一つくらい褒めておいてやるが、哲学というものは、「途中から」「ある個人だけを」取り上げてもワカラナイという著者のいいぶんは正しい。思想とはチガッテ、哲学は連綿たる系だからだ。ニーチェの『超訳』なんて読んでも、日めくりカレンダーと同じなのだ。
著者は、サルトルにイカレているようだから、たいていのお年頃はワカル。しかし、サルトルを「二十世紀最大のカリスマ哲学者」などと臆面もなくいま口にしたら、多くの哲学関係者や昨今の哲学者には、笑われるだけだ。少なくともハイデガー研究者は、サルトルなど相手にはしていない。せいぜい哲学ジャーナリストと位置づけている程度だ。他にも、サンプリングの形跡から幾つかの哲学者を多少は齧ったらしいと見当はつくが、それはまあいいや。仏教、つまり釈迦の思想において、この著作はあんまり大雑把なので、著者は今一度、仏教史はやりなおしたほうがイイ。それだけでも、釈迦の悟りと十二因縁や八正道は、何の関係もナイということくらいはワカル。かつまた、「因縁」など釈迦は説いていないということも。(それは俗説、あるいは上座仏教の〈結集〉におけるマチガイなのだ)。「結集」において、アーナンダ(釈迦の侍従)の存在を取り沙汰しなかったのは、この著者の学習は史上最低クラスで、よくも史上最強てなこというたな。範馬勇次郎がクシャミしてるわ。
『般若心経』の解説も、そこいらの解説本の受け売りで、著者自身の争闘はまったくみられない。たとえば「色即是空 空即是色」を、「色は即ち是れ空である。空は即ち是れ色である」と訳すのは、私の学んだ観点からは、マチガイなのだ。これは「色は即ち是れ空となり。空は即ち是れ色となる」と訳さないと、『空論』の意味がとれない。「結えば庵、解けば草原」といわれれるが如く〈色即是空 空即是式〉とは、ひとことでいえばたったこれだけのことだ。何故、「空」であって「無」ではナイのかという疑問から始めないと、『般若心経』はワカラナイのだ。「色」と「空」とが対立概念ではナイということを(いうなれば「不二の法」)学びとらねば、「空論」はワカラナイ。「色・物質、現象」が消え去ることが「空」ではナイ。また、『般若心経』それ自体もまた「色・空」である集合に入るという矛盾を克服することも出来ない。
数式で書けば「色=空」になるのだが、問題は、この「等号・=」にある。等号のルールも幾つもあって、「右辺と左辺が等しい」だけが等号のルールではナイ。「色=空」のばあいは「左辺の記号を右辺で定義する」という用い方の「=」だ。また、異なる物理単位を持つ量は等しいとか等しくないとかを考えることに意味はナイので、等号でつなぐことは出来ない。
ともかくも、あの百年前の原始模型の図は何とかしろ。
魔が差してこの書籍を購入した良心的なひとびとには、述べておく。釈迦の思想の核心は、「自燈明 法燈明」「諸方無我」「涅槃寂静」に尽きる。たとえば、「死ぬ」ということが「怖い」ひとは、死などはナイ。それは「涅槃寂静」(煩悩を棄て、静かな境地に入ることだとされているが、そんなにんげんなどいない。誰のものでもナイ、自分だけの眠りに眠ること、とすればイイ)と思うだけで、ココロ安らかになるだろうし、「私」という存在がなんだかワカラナイひとは「諸法無我」(にんげんは表現する存在だから、常に〈表現された自己〉としてしか存在しない)と思えばイイ。
付け足していえば、釈迦は「因縁」「因果」を否定した。原因も結果も予め存在するものではナイ、と説いたのだ。では、どうすればイイ。それが、「自燈明 法燈明」だ。くだいていえば「自らの燈明となるものを探せ(探求せよ)、そうしてそれを真理の燈明とせよ」ということになる。

2015年8月31日 (月)

And in the End⑲

And in the End⑲
「釈迦は悟った」ということになっている。悟らねば仏陀とは呼ばれなかったろう。しかし、釈迦が悟ったかどうかについての客観的な判断は誰にも出来ない。身も蓋もなくいってしまえば、釈迦は悟ったと思い込んだだけかも知れない。「悟り」というものが〈真理〉ならば、それが真理だという〈基準〉というものが、必要になってくる。さらに、「悟り」というモノは「先験的」に存在するものでなくてはならない。でなければ、悟りの数は、そう思った固有の数だけ存在することになる。
この程度のことに釈迦が気付かなかったとは思えない。「自燈明、法燈明」という釈迦の遺したコトバは、そこに重点が置かれている。従って、小乗(上座)仏教の「結集」以降の仏教は、まったく無視してなんら釈迦の思想を損なうものではナイ。この「自燈明、法燈明」という命題は、「唯我論」に陥らぬように発せられた巧みなコトバだ。ベクトルが逆なので「法」に囚われることも防いでいる。安直にいってしまえば、「矛盾」している。これは欠陥ではナイ。ここに「妙」が在るのだ。「妙」とは〈いうにいわれぬほどすぐれていること。きわめてよいこと。また、そのさま〉。あるいは〈不思議なこと。奇妙なこと。また、そのさま〉を意味する。
私たちは、この妙あるパラドクスに従って、「釈迦は悟った」ではなく、「釈迦は私たちに悟りへの道程(導程)を開いた」と心得ておいたほうがイイように思う。
釈迦にインスパイアした「悟りへの道程」は、私たちが現在の仏教学から教えられるものとはまるでチガウ。十二因縁も、八正道も、小乗(上座・出家)仏教が、都合よく後付けしたもので、こんなものは、はやいとこ棄ててかかったほうがイイ。ひろさちや老師も、釈迦の「悟り」とは、「この世界が〈縁起〉の構造・・・相互依存関係・・・になっていることを発見した」と述べているが、素人の強みで私が述べるとするならば、それは逆なのだ。つまり、釈迦の「悟り」とは「この世界が〈縁起〉の構造・・・相互依存関係・・・になっている、〈と、人間は思い込んでいる〉という発見」が、私なりの解釈だ。
もし、この世界が〈縁起〉の構造(相互依存関係)であるならば、私たちはそこから脱することが出来ない。それでは、婆羅門のいう輪廻と似たようなものだ。つまり決定論的、必然的法則関係の存在を認めねばならない。私の考えは、ひろさちや老師の命題を次のように少しだけ書き直すだけでイイ。曰く「この世界が〈偶然〉の構造・・・確率的相互依存関係・・・になっていることを発見した」
「人間が思い込んでいるような〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉は存在しない」これが、釈迦の発見、「悟り」であり、では、どうするかという「道程」への導きだ。(注意しておくが〈法〉 とは、仏教において「真理」を意味する。けして「法則的自然観」ではナイ)。
「世界は偶然によって生じる」はエピクロスのコトバだが、釈迦のそれは、さらに微細で深度がある。
もちろん、釈迦が量子力学(どころかニュートン力学も)を知っていたワケではナイことは明白だ。ただ、相互依存関係の弁証法を「あれでもナイ、これでもナイ」として選択したと思われる。この「あれでもナイ」をd/yとし、「これでもナイ」をd/xとする微分係数と関数座標面をかんがえればイイ。〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉は存在しないということは、量子力学的公理でいえば「重ね合わせ」こそがこの世界の実相で、何かを原因として、結果が生じているということではナイということになる。
もちろん、量子力学においても、波動関数のように、偶然や確率によらない決定論的な法則は存在する。それは、このマクロの世界においても直観出来るものだ。しかし、釈迦の発見は、非直観的なものだ。その非直観的自然観(法則的自然観の正反対)こそが、釈迦の思想を形成していく。
如何にして〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉を脱する(断ち切る)か。これが釈迦の求めたものであり、私たちを「悟り」に導く思想なのだ。どういうことかというと、「世界のことは何も決定されていない」よって「世界(私)は変わって(変えて)いける」ということになる。ここから三宝印「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」が発想される。三宝印は、存在の在り方の真実を説くのではなく、もっと〈積極的な主張〉なのだ。
「自燈明」とは、自らを以て燈明とせよ、ではなく、自らを照らす燈明を求めてこそ、燈明とせよ、であり、「法燈明」とは、この世界の在り方の真理の明かりを求めてこそ、燈明とせよ、になる。

本論を記すにあたって、「空論」と「無二の法門」が説かれた『唯摩経』はたいへん参考になった。ただし『唯摩経』は在家仏教者の書であるゆえ、小乗(上座)からは仏典(教典)とはみなされず「仏説」というふうに称されている。
「色即是空 空即是色」(般若心経)にあるように、なぜ「無」を用いずに「空」としたのかという理由(筋道)は、「空」の意味そのものの解釈にある。この「空」は老子の説いた「空」とはまったくチガウものだ。私はなんとか辿り着いたが(ヒントは、この文言だけが反転した繰り返しになっていることだ)、一つ読者もお考えになられることを願う。

2015年8月 9日 (日)

And in the End・捕捉

釈迦の思想にもどる前に、少しだけ捕捉しておく。「シュレーディンガーの猫」については、量子力学の「観測論」に対するシュレーディンガーの揶揄だったことは理解出来たと思う。つまり、endless。しかし、これは波動力学の限界であって、量子力学の限界を意味しない。量子力学の「観測理論」においては〈密度行列〉がさらに必要になる。
さて、ただし、だ。要するに「観測」において「確率的」に量子の動きは完全に記述出来るのだが、それはしかし、測定された量子においての話だ。そこで、測定されない量子は、どんなふうに動いているのだろうか。何ら測定していない、検出器にはひっかからない量子(簡単にいっちゃうと、誰も観ていないときの量子)だが、それを「観測」すれば、「シュレーディンガーの猫」の矛盾に陥る。ここでは、あくまで、観測者(人間)も観測装置も、観測実験もナイ場合の量子の動きを「もし、それがみえたら」ということで述べると、そんなとき量子は「あれでもナイ、これでもナイ」というまったく〈デタラメ〉に動いている。〈デタラメ〉といういい方が不満なら「偶然」と称してもイイ。あるいは「量子力学」の測定というのは、あくまで、量子を「観測」によって捉えたところの「確率」であって、「観測」によって捉えない量子の状態を量子力学は、どんな状態も「共存」すると記述する。この「共存」という概念(category)をもう少しいうと、最近やたらめったらもちいられる「共有」とは全く異なる。たとえばある量子が「イマ、ココ」にあって、「ツギ、ドコ」に動くかは、東南西北の方向に全て存在するということだ。よってつまり、「偶然」。これは、測定と測定のあいだの量子の動きは、捉えられないから、〈デタラメ〉「偶然」としかいいようがナイといっているのではナイ。「〈デタラメ〉、偶然でしかナイと記述することが完全(正しい)な記述であって、何か、人間の知らない神秘的な、あるいは決定論的なメカニズムは自然には存在しない」という主張なのだ。ニュートン力学に慣れ親しんでいる私たちにとっては、とてもイメージすることは困難に思われる。
そうすると、次なる疑問が当然、提出される。
「では、ニュートン力学と量子力学の〈つながり〉〈境目〉、どの辺りでどのように、量子力学はニュートン力学と融合、あるいは相転移するのか」
この問題については、ミクロとマクロの単位でそれを分別しても該らない。私の考えでは、ニュートン力学が、量子力学に進入することは全くナイとしてもイイが、量子力学の、その概念的な自然観は日常的にも活用可能だと思われる。視点を変えていうと、私たちは量子力学の動き(ふるまい・状態)を、「確率」「偶然・デタラメ」と称しているが、それらは、あくまで、私たちの脳裏がイメージした位相からすると、そう称するしかナイからそうしているだけで、量子力学的自然のほうが自然本来の在り方だとすれば、「確率」も「偶然・デタラメ」も、ナイのだ。これは、よく誤解されている光速度と似ている。私たちは光の速度は秒速30万㎞と教わったし、たしかに、観測するとそうなる。観測すると、ということは、観測者がいて、stop watch で計測すればという相対的な速度だが、実際には光の速度には時間はナイ。絶対的には光速度というのは、ナイということだ。どういうことかというと、1㎞進もうと10億㎞進もうと、光がその距離を移動するのに要する時間は0秒だということだ。

2015年7月25日 (土)

And in the End⑱

(ほんらいなら「混合状態・純粋状態」などの「波の重ね合わせの状態」についての説明もあるのだが、ここでは特に必要ではなく、かえって錯綜するだけなので、端折る)。端的にいってしまえば、ノイマンが、対象と観測装置の干渉によって波動関数が限りなく続くといったのには、かなり大雑把なところがある。すごく簡単なことなのだが、「観測者が実験室で扱う装置が、全体として量子力学的状態にあるとは、とても考えられない」と、まあ、これだけのことだ。私たちの視線で観た月のことを思い出せばイイ。私たちの視線と「月」が干渉しあって、波動関数の波になるということは実際に、あり得ない。
とはいえ、検出装置(フィルムなど)については、厳密な検討は必要だ。たとえば、フィルムについては、一枚のフィルムを細かく分割し、分割された部分が直径が数ミクロン、その中に含まれる原子の数は10の18乗程度が標準とされている。
この検出装置に電子が一個、痕跡を残したとする。タイセツなのは、この電子一個は以下のごとくだということだ。
○一個でも「重ね合わせの原理」において「重ね合わせ」は行われている。このことは、電子という量子一個は、それ自体で以下の三つの形態を物語る。
1、量子一個は、全体と同じである。
2、量子一個は、全体と関係している。
3、量子一個は、全体の部分である。
このあたりのことは、拙著『恋愛的演劇論』に詳しいので、それを買って、買って、買って、読めばワカル。
ノイマンのいうような「意識」「超越自我」などのオカシナ観測者の主観による影響は、検出装置を正しいものに設定すれば、起こり得ない。「観測は、ミクロの対象とマクロの装置との客観的、物質的な相互作用であって、主観というコトバの印象が与えるような、非物質的、非因果的なものではナイ」(町田茂『量子論の新段階』)
では、装置なしではミクロの対象は存在を肯定出来ないのだろうか。そういうこともナイのだ。他の物質との相互作用によらずにその存在を知ることの出来る物質というのはナイからだ。これは物質がミクロだろうがマクロだろうが共通の客観性だ。
「密度行列」についても、拙著『恋愛的演劇論』に詳しいので、それを買って、買って、買って、読めばワカルので、前述したが、量子の時間についてもう一度述べるなら、量子が検出装置と相互作用する前の時間はt=-∞、だし、検出装置を通過して相互作用したアトは、t=+∞、になる。「猫」の場合も、観測の「瞬間」というコトバが使われるが、これはあまりに安易で、それはマクロにおける「瞬間」でしかナイ。ミクロの量子の場合の瞬間は「無限大」の時間として扱える。
以上、量子力学的な横道において、私たちに残された問題があるとすれば、では「時間」とは何なのだ。という、オソロシイ難問(アポリア、Aporia,「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」「困惑」「当惑」)だけだ。
それについては、いまのところ、以下の思いつきを箇条書きするしかナイ。

/時間が物質ではナイとすると、意識が対象としているモノではなく、それ自体になる。あるいは等価になる。/しかし、確かに時間は物質ではナイ。にも関わらず物理学的に扱われる。/蜻蛉の1時間と人間の1時間は違うのだろう。では、何が違うのか。/物質の相互作用によらずに存在を知る物質は存在しないのなら、相対的な時間は物質なのか。/
カントでいえば先験的なモノなのか。/例えば、二種類存在するというのはどうか。意識としての時間。時間子という量子としての時間。この世界全てを量子力学で観ればそれもある。/と、すると、時間はエネルギーを持つことになる。/光が粒子であり、しかし、質量は0であり、時間も0であるけど、粒子として物質であるのと同じように、時間もそれと等価なのかも知れない。/ともかく、光と何か関係してることは考えられる。つづめていえば、光の属性なのかも。/暗闇という状態は存在しない。ただ、波動をヒトが可視的に捕らえられないだけだ。/ある時は、それを光として捉え、ある時は時間として捉えるという「等価原理」があるのでは。/すると、老いていく、エネルギーの減衰、というのは、光としてのエネルギーを減衰していくこと。等価原理としていえば、時間にエネルギーを持ち去られることになる。/

でと、おつかれさま、としかいいようがナイが、ここらで、量子力学領域から、釈迦の思想(思考)へ還ろう。

2015年7月24日 (金)

And in the End⑰

「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。ここで、ちょっとタイセツ(重要)な手続きをふんでおかねばならない。それをふまないと、ウンコを踏んでしまったり、糞で置かねばならなくなったりするからだ。それは、「測定」と「観測」というコトバの定義、その差異についての正しい認識だ。んで、定義しておく。「測定とは、ある装置を使って実験し、最終的にある計器の目盛りを読み取り、その数値から、ある対象のもつある性質について知る。つまり、得られた数値から、対象の始めの状態についての情報が得られるような過程」をいう。「観測とは〈厳密〉には、装置が与えた測定値を観測者が観る過程までを含む」ものをいう。これは、町田茂さんの定義なのだが、ナンダヨ一緒じゃないか、前者はうまく観測者を消しているだけじゃないか、と、半畳入れたくなる。本人は微妙なものだとことわってらっしゃるが、もちっと簡単に分別することは出来る。私のような門外漢にもワカルように私が私にいうならば、たとえば「顕微鏡を観測者が視ている。覗いている」これはどうしたって「観測」に該る。実験されたデータが次々と送られてくる。いまなら3Gなんかのデータ通信で。それを科学者が読み取る。そこから得られる数値は測定値だから、これは「測定」になる。この場合、観測者は実験(測定)に全く関与していない。
ここまでなら、量子力学も問題なくやっていけた。ところが、後者についても疑義が発生した。「測定装置」をどう考えるか、だ。これは、私が演劇論をあーだこーだと考えてた際に、さまざまな「学」から何か演劇に使えるものはないかと、量子力学に手を出したときに、のっけから疑問だったものだ。(私は量子力学が勉強したかったワケではナイ。数学や哲学や、物理学や、およそ演劇とは縁遠いものから、演劇に応用出来るものが何かナイかと、類推〈Analogy・アナロジー〉したり、引用したりと、よくいわれるところの思考のanarchismとやらをやっていたとき、いってみるならそれぞれの概念をカスタマイズ〈customize・必要に応じて自分流に変換していく〉していたときの道程の中に量子力学という便利なものがあったというワケだ)。
で、のっけの疑問というのは、前述したと思うが、電子がスリットを通ってフィルムに到達して痕跡を残すとき、フィルムもまた量子のかたまりだから、それは、ほんとうに電子の痕跡といえるのか、反応ではないのかという、そういうものだ。
ここで、先にカタをつけておくべきだからそうするが、電子を一個発射して、フィルムに一つの点(電子の痕跡)が出来る場合も、電子という量子の「重ね合い」は生じている。何故なら、その量子は、○Aと○Bを同じに(つまり波動として)通過してきたからだ。一個の電子は○Aと○Bを通過した波の干渉なのだ。
もとえ、「測定装置」もまた量子のかたまりだ。では、何処で量子は最終的に観測出来るのだろうか。この問いを投げかけたのは、時の大数学者フォン・ノイマンで、数理経済学者なんかは、ノイマンの「ゲーム理論」なんかを、まさに「どや顔」で解説するのだが、そのわりには、現在の世界的不況がどうにかなっているとは思えない。(遠山啓老師が生きてらっしゃった頃、数理経済学については、「ちょっと勇み足なんじゃないの」みたいな発言をされている)。
「シュレーディンガーの猫」の場合、「猫」は観測(測定)の対象のように述べられている。では「猫」の何を測定しようとしているのだろうか。もちろん、蓋を開けたときに、生きているか死んでいるかということをだ。が、観測過程というのは、ミクロの対象と測定装置との相互作用の過程をいう。量子力学においては「波束の収束」が起こったときを測定の結果とする。「波束の収束」というのは、波形でいうならば、最も強い波形が現れた部分。ダブル・スリットの干渉縞でいうならば、最も密度の濃い部分をいう。つまり、「重ね合わせ」が最も多い部分だ。量子力学の場合、先述したようにたとえ一個の量子でも「重ね合わせ」だ。従って、「重ね合わせ」はあちこちに起こる。いわゆる「波束」というものだ。量子力学が〈確率〉を扱うのは、その「波束」が、もっとも収束する部分を測定するからで、これは確率でしかナイ。コトバをかえれば測定装置との相互作用によって、「波束の収束」がイチバン高く生じたところ、そこを測定最終地点とする。
ところが「猫」はどうだ。蓋を開けるまで結果は50%の確率しか持たない。これでは、観測の意味がナイ。そこでシュレーディンガーは、量子力学はこんなもんだよと、さっさと足を洗って、分子生物学の方向に進んだのだ。
フォン・ノイマンのいいぶんを聞こう。
「測定しようとするミクロの対象があるとします。もちろん、これは波動関数で表されるものです。干渉を起こし得るでしょう。それを何かの装置、たとえばフィルムを使って検出するとします。ミクロの対象もフィルムも相互作用しますから、衝突によって起こった事象の変化は、これも一つの波動関数に過ぎません。ここでも干渉が観測されます。さて、私たちはそれらを肉眼で観ることが出来ます。フィルムからの視覚刺激は網膜に入ります。すると網膜も同様に干渉を生じ、波動関数で現されることになります。そうなると、さらに視神経、脳、とどこまでいっても干渉は起こり、波動関数で現されることになります。
これはキリがありません。量子力学においては、すべてが重なった状態ですから、どこかで、非因果的過程に転移して波束の収束が起こらねばなりません。とすると、それは〈意識〉もしくは、〈抽象自我〉ということになります」
ついに観念論に到達したワケだ。
実は、シュレーディンガーは、このノイマンのいいぶんを得て『量子力学の現況』という論文を書き、そこに「猫」を登場させて、ノイマンへの批判とした。ノイマンの理論からすれば、猫も観測装置と同じになる。波動関数の中にある。よって「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせ(干渉)が生ずるというものだ。
同じことを別のバージョンでいうならば、この実験を一つの実験室で私がやって、蓋を開けて「猫」の「生死」を確認したとき、死んでいたらそのサインを出すとする。手を挙げるだけでイイ。そのアトにあんたはんが、そこに行く。すると、あんたはんからしてみると私も観測装置の一部となるので、あんたはんが自分で実験室を覗いてみるまでは、私は手を挙げた状態と挙げない「重ね合わせの状態」になる。これではキリがナイ。「シュレーディンガーの猫」をかのように解説している量子力学の本も、私は読んだことがある。この本は状況は述べているが、本質はまったくthroughしていて、けっきょく、無駄骨だった。
しかしながら、ノイマンのいいぶんでいくと、これはもう「唯我論」の世界に突入なのだ。
だから、要するにシュレーディンガーは、「猫」という対象もまた装置に変ずるので、キリがナイぞという揶揄を、この実験で述べたのだ。先述したように、足を洗いたくもなるというものだ。
では、「波束の収束」は測定出来ないのだろうか。そうではナイのだ。そこには、測定装置がマクロで、対象がミクロだという、事象と相互作用との関係と、量子の持つ「時間」とが加わってきて、「密度行列」という波動関数では現せない量子の動きがあるのだ。しかし、この辺りは、本論とかなりかけ離れたから端折ってもイイんだけどね。ついでだからなあ。

2015年7月18日 (土)

And in the End⑯

And in the End⑯
さあ、ここまで、よくワカランかっただろうと思う。少しはワカッタが途中でワカランというひともいたろう。しかし、これを全てワカルように懇切丁寧に書いていくと一冊の書籍になってしまう。
もう少しワカリヤスク書きたいのだが、残念なことに私はこのブログ欄に図を描く方法を知らんのだ。そのリテラシー(読み書きの技術)さへ駆使出来れば、百聞(書き)は一見というワケで、ああ、そういうことかとすぐに理解してもらえるのだが、まことに残念。
とはいえ、出来るだけのことはやってみる。まず、「量子力学においては古典力学のような〈法則的自然観〉というものはナイ。観測されていない自然というものは、客観的には運動していない」というのは、どういうことかというと、読んだ通りのことで、量子の運動(動き)には何の法則性もナイということだ。けれども「法則性がナイという法則はアル」のだ。ある客観性というものだが、それが、「これを観測すると、一つの結果を観ることは出来る。しかしそれは、あくまで、自然の中の〈一つ〉にすぎない」ということになる。この一つの結果を観る客観性は、ハイゼンベルクの提唱した不確定性関係としてよく知られている。この不確定性関係は数多の物理学の新書や哲学関連書、入門書、ガイドブックなどで〈不確定性原理〉と書かれていることが多い。しかし、これは原理ではなく、あくまで量子力学の幾つかの原理から導かれた結論といっていい。まともな量子力学の書籍においては「関係」と称されている。(未だに〈原理〉と書かれているなら、そのての本は棄てなさい。たいてい他の事項もアヤシイから)。いまその「不確定性関係」について詳細を書く時間も紙数もナイので(それで一冊の本になる)、ここでは省く。興味のある方は、そのての一冊本なら書店の何処かに並んでいるはずだから、捜してお読みになればイイ。
次に「これは、観測者の関与や観測機器に因るものではナイ。それらは一切、観測には入り込まない」というのは、たとえば、これも素粒子物理の新書の中でさへ、「観測者が顕微鏡をのぞくとその眼から出た波動(光)で、対象が影響を受ける」てなことが書いてあったりする。こんなのをいったいどれだけ読まされたか。読むたんびに、納得のいかない思いだけが残った。たしかに極々微細には、対象に眼からの波動はぶつかるのだが、語弊をおそれずにたとえをいえば、それは、私たちが月をみたら、どれだけ月の動きに影響があるかといっているのと同じ程度で、たしかに月もまた量子の塊なのだから、その動きに影響はナイとはいえない。が、六十億の地球人が一斉に月を観ても、月が微動だにスルことはナイ。
そもそも、イチバン重要なのは、そういうところで、量子の観測においては観測者が入り込む(関与する)ことはナイ、ということのほうなのだ。これが、「シュレーディンガーの猫」における、シュレーディンガーの皮肉をこえていくにはタイセツなのだ。
そこで、まず私たちはここまで転戦する。「古典力学では、運動量は一つだが、量子力学では、それは三つになる。○物理量(位置、速さ、方向)自体、○その測定値、○数学的表現(作用素)」だ。では何故、三つにもなるのかというと、量子というものが「波動」でもあり「粒子」でもあるという(もちろん、「波動」でもなく「粒子」でもナイという逆のいい方も可能なのだが)、これまたどうしてもイメージ不可能なモノだということを理解することから始めなければならない。適当な「オッカムの剃刀」でもあればイイのだが、ここにはそういう便利なものはナイ。だから、何故「波」であって「粒」なのかという、これこそ量子の〈原理〉を了解する作業から始める。これが理解出来れば、「重ね合わせ」ということがどういうことなのか、ワカッテくる。そうすると「猫」が生きているのと死んでいるのとの「重ね合わせ」だといわれてしまうのかという理由もワカル。
これには有名な「ダブル・スリットの実験」を解説していくのが最も適切だ。図が描けないので、苦肉の策でこんなふうに記す。
□→・・これは電子銃だ。ここから矢印の方向に電子を飛ばすことが出来る。
| ○A  ○B |・・これは実験用スリットでAとBに○こういう穴があいている。二つ穴があるのでダブル・スリットという。                    |/////////|・・これがフィルム(検出装置としてもイイ)。いまその素材の量子については便宜上、問題にしない。
これを並べる。              
□→~~~~~| ○A  ○B |~~~|/////////|
電子銃から発射された電子は~~と進んでスリットの○を通り~~と進んでフィルムに到達する。フィルムが感光する。といった具合だ。
たとえば、電子を一個発射して、それがフィルムに到達、感光がみられたとする。
□→~~~~~| ○A  ○B |~~~|///////・//|(図P)
と、こんなふうになる。ここで私たちは電子の粒子が○Aか○Bかを通ったというイメージしか持てない。たとえば電子をパチンコ玉に見立て直せば、その通りだ。けれども、それは古典力学(ニュートン力学)のカテゴリーならば、そうだということだ。ほんらい、この実験では、電子を次々に発射すると、フィルムの感光に縦縞の干渉縞が現れることから、量子(電子)の波動性をいうことに用いられるのだが(つまり電子は○A○Bの両方を同時に通っている)、
あえて、この(~~~~)の部分について言及してみよう。つまり、電子がスリットに到達、通過、フィルムに到達する、その過程において、量子はどんなふうになっているのか、ということだ。そのときは「粒」なのか「波」なのか。
(図P)においては、フィルムに到達しているその状態は「粒」だが、たとえ1時間の間隔をおいて、電子を発射しても、1秒間に数万個の電子を発射しても、フィルムには縦縞の干渉縞が現れることから、一個ずつだろうが、数万個一挙にだろうが、量子(電子)は一個の場合でも数万個の場合でも、時間の間隔にも関係なく、「波」であり「粒」として移動しているといわざるを得ない。では(~~~~~)の部分では、どこまでが波状で、どこが粒状なのだろうか。この状態を量子は、物理量(位置、速さ、方向)自体、と、数学的表現(作用素)として、運動しているのだが、(~~~~~)の部分においては、粒でもなく波でもなく、量子力学的状態として移動しているとしかいえない。ここが古典力学との大きなチガイだ。物理量自体としては、不確定性関係によって、位置と速さ、方向は同時に求められない。しかし、数学的表現としてなら、シュレーディンガー方程式によって、複素数平面の関数として求めることは出来る。これを波動関数というのだが、複素数ゆえに、二元数(実数と虚数の二つの単位を持つので)だ。(古典力学や日常世界は一元数)。複素数だということは虚数を含むので、観測機器には引っかからない。計器の目盛りに現れるということはナイ。
シュレーディンガーは、量子を「波」と考えて波動力学という量子力学を提唱した。これは一つの量子の在り方だ。「波」ということならば、量子は「重ね合わせる」ことが出来るということだ。(これを「重ね合わせの原理」というのだが、つまり「猫」が「生死の重ね合った状態にある」というのは、この辺りからきている)。
数学的には、こういうことが出来るのは、ベクトルだ。よって、波動関数の状態から、さらに波動関数を求めていくことを「状態ベクトル」と称して、これを波動力学における作用素と称する。
要するに、「シュレーディンガーの猫」において、「猫」は「生死の重なり合い」に在るということはワカルが、生死のほどは、蓋を開けないとワカラナイというのは、まさにこのことだ。では、「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。        

2015年7月10日 (金)

And in the End⑮

訃報ありて寂寞の夜に独り在りこれを孤独といわば腑に落つ

まず、量子力学に対する誤謬、錯誤がなぜ専門の物理学者においても起こりうるのか。つまりや、その御方たちの書かれた書籍を私は何冊も読んでんねん。ほんで、やっぱりオカシイと疑問符を持ち続けてきた。だから、著名な社会学者やミステリ作家が、それを応用、引用したマチガイは無理もない、としかいいようがナイねん。
ともかく、一つずついく。
☆古典力学(ニュートン力学)はマクロのものを扱うので、マクロのものとマクロのものを比較する場合、認識の仕方は同じだ。
☆そうしてそこ(の自然)には〈法則的自然観〉というもの、いいかえれば「秩序」というものがある。
☆理論は、その外部に対象を持っている。
☆すべての理論は作業仮説をその内に持っている。
ところが、
☆量子力学においては〈法則的自然観〉というものはナイ。どういうことかというと、観測されていない自然というものは、客観的には運動していない。けれども、これを観測すると、一つの結果を観ることは出来る。しかしそれは、あくまで、自然の中の〈一つ〉にすぎない。(これは、観測者の関与や観測機器に因るものではナイ。それらは一切、観測には入り込まない。・・・これが、ちと重要なとこなんや。ここでたいてい間違えるからなあ)
☆もう一つ、錯誤につながるものの代表として、「私たちは古典力学をイメージすることは出来るが、量子力学をイメージすることは出来ない」のに、ついつい、量子力学をイメージしてしまうところだ。たとえば、量子(電子としておくが)が、スリットを通過した、というイメージを私たちは、どうしても古典力学的にイメージしてしまう。しかしそれはマチガイなんや。電子は「量子力学的にスリットを通過している」のだ。それを「時間」で捉えると、マクロの時間はT=h→0でも量子力学の時間はT=∞になる。つまり古典力学でいう「瞬間」は、量子力学においては「無限大」の中の一つでしかナイということだ。瞬間的に電子がスリットを通過した、というのはあくまで古典力学のイメージにすぎない。これは、古典力学における「時間」と量子力学における「時間」とは、別々に現実に存在する、ということだ。
☆古典力学において理論的対象を数学の方程式で現すと、一つの「解」が求められる。これは測定対象の予想(現象)と1対1対応する。しかし、量子力学においては、1対1対応しないのだ。量子力学においては、その法則として「決定論的なもの」・・・これは偶然も確率もナイ(波動関数はここに入る)ものと、「確率的、偶然的対応」・・・これ非直感的というのだが、この二つがある。
☆古典力学では、運動量は一つだが、量子力学では、それは三つになる。
○物理量(位置、速さ、方向)自体、○その測定値、○数学的表現(作用素)・・・作用素とは、波動関数(状態ベクトルという)を他の波動関数に変える作用をいう。で、状態ベクトルいうのは何や、というと、「波と波の重ね合わせ」のことを、そう称するんや。つまりや、量子というのは「重ね合わせ」の状態だと、おおまかにいうとそういうこっちゃ。
☆もし、どうしてもイメージしたかったら、ある量子がダブルスリットを通過するとき、それは(シュレーディンガー方程式における複素数平面の)雲だとイメージしてもイイ。これがスリットのA、Bを通過して(ほんまは波動、波なんやけど)、フィルムに到達するときは粒子として到達すると、そう考えればイイ。
☆そうすると、量子というのは、一個それ自体で干渉していることになる(重ね合わせになっているということや)。
これだけ、量子力学と古典力学とでは、根本的な差異があるのだが、私たちは何故、この両方の世界を生きているのだろうか。というより、量子力学と古典力学の関係はどうなっているのか。これについては、
☆古典力学は、量子力学が相転移したものだ。と、考えておけばイイ。
まんず、面倒なことは省略して、ここまで解説したが、「シュレーディンガーの猫」をとっ捕まえるには、もう一つ、難問がある。これぞ、私もまた、さまざまなそのての書籍を読んで、合点のいかなかったことなんやけど、たとえば、「電子の観測をするのに、いま一個の電子をフィルムに飛ばして、フィルムに電子の痕跡が出来た」という文言は、どうしても納得出来ないでいた。そやかて、フィルムもまた量子の集まりやないか。ほな、それは電子の痕跡ではなく、電子とフィルムの反応(相互作用)とチガウんか。フィルムは決して測定装置には入らない。というものだった。これは、どの書籍に該っても明確な解説も説明もナイ。マクロなものもミクロの集合だとするなら、何を「測定装置」と呼べばいいのか。いったい、量子の測定など出来るのか。
これについては、私の「疑義・疑問」は正しかったらしく、最近になって、「観測理論」と、この分野は称されて、物理学者のあいだでも喧々囂々、侃々諤々、議論されていることがワカッタ。
んで、やっと、まともな「観測理論」に巡り逢った。町田茂さんのものだが、このひとは唯物弁証法をキチンと学ばれていることが、著作を読むうちに理解出来た。
さて、昼飯の拵えしようっと。「猫」をとっ捕まえるのは、もうちょっとやで。もらろん、そこから釈迦の思想にもどるのも、アトちょっとや。

2015年6月25日 (木)

And in the End⑭

「シュレーディンガーの猫」から私はナニを求めようとしているのか。もちろん、釈迦が「デタラメ」と喝破した宇宙(世界)とはどんなものだったのか、という、その〈感覚的識知〉でもイイし〈直観的論理〉でもイイ。前述したように、釈迦は「宇宙は混沌を常としている」というインドの恒常的認識を発展させて、「しかし、それは静止、停止しているのではなく。たえず運動している。その運動は秩序のあるものではなく、いわば、ゆらいで動いているといったものだ」ということを考案した。もちろん、当時に物理学的用語はなかったので、釈迦は「それが因縁というものだ」と考えた。因縁は結果ではナイ。結果を導くものだ。「その因縁の運動が結果として現象するものが、ある〈秩序〉と呼ばれる」。従ってそれは偶然の結果ではあるが、偶然ではナイ。何故なら、数多の偶然のうち、何らかの必然的な偶然が生む〈秩序〉なのだ。これは、現代のコペンハーゲン解釈のコトバでいうと「固有値」というものだ。しかし、それはあくまで現象であるから、また消えてなくなるものだ。(これはおそらく〈空〉の思想に関連づけられる)。「ほんとうは、そのように宇宙は存在する」という、「混沌(カオス)」から〈空〉へと、宇宙の姿を「デタラメから生じる秩序という現象の生滅の繰り返し」と捉えた。だから、私たちは、この「デタラメ」がどんなものかという領域に入っていけばイイ。察しのイイ読者は気付いているだろうが、それは「確率」というものだ。それには「シュレーディンガーの猫」という、シュレーディンガーの突き付けた「確率」に対する疑義の検討が適しているのではないかと思われた。
「シュレーディンガーの猫」を具体的に記すと(例によってウィキペディアからひろったものだけど)以下のようるになる。
/まず、蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性物質を一定量と、ガイガーカウンターを1台、青酸ガスの発生装置を1台入れておく。もし、箱の中にある放射性物質が崩壊して粒子を出すと、これをガイガーカウンターが感知して、青酸ガスの発生装置が作動し青酸ガスを放出する。必ず猫は死ぬ。しかし、放射性物質が崩壊せず粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せず、猫は生き残る。一定時間経過後、果たして猫は生きているか死んでいるか。
この系(システム)において、猫の生死は粒子が放出、青酸ガスが出たかどうかのみにより決定すると仮定する。そして、粒子は原子核の崩壊にともなって放出される。このとき、例えば箱に入れた放射性物質が1時間以内に崩壊して粒子が放出される確率は50%だとする。この箱の蓋を閉めてから1時間後に蓋を開けて観測したとき、猫が生きている確率は50%、死んでいる確率も50%である。したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1だと解釈しなければならない/。
猫が生きているか死んでいるかは蓋を開けたときにしかワカラナイ。なら、ナンなの、これはナンの実験なのと思うのは当然で、私も最初これを読んだときは、ナンのことだかさっぱりワカラナカッタ記憶がある。当初、私はこれを〈確率〉の問題だと考えた。蓋を開けるまで、箱の中の猫は「半分生きていて、半分死んでいる」という状態に置かれているということになるからだ。しかし、
/量子力学(コペンハーゲン解釈)において粒子は、様々な状態が「重なりあった状態」で存在しうる/
この粒子がいわゆる「猫」なのだが、つまり、量子力学的表現としては「半分生きていて、半分死んでいる」という非決定的なものにならざるを得ない。ここが量子力学のクセモノたる所以だ。
/「重なりあった状態」は、観測機器によって粒子を観測することで、いずれかの状態に収束すると考える。また、シュレーディンガー方程式は、原子の位置を一定の範囲に広がった確率分布(波動関数)として与えるが、観測されると、ある位置にあることが確定する。この実験で猫の生死を決定する粒子も同様である/。
「原子の位置を一定の範囲に広がった確率分布(波動関数)として与える」、の広がっているところは、複素数平面のことをいう。数式を用いずに波動関数についていうと、
/座標表示や運動量表示したシュレーディンガー方程式は単純な代数方程式ではなく、線型偏微分方程式である/
偏微分とは多変数の関数に対して、その変数を一旦固定して定数と見なし、一つの成分のみを変数として動かして、その成分方向への瞬間の増分を与える微分法をいう。微分は関数から得られる二つの成分の「比」(これを係数という)なのだが、ここでは、上記のように一つの成分を定数とみなしている。線型というのはグラフでみれば直線だということになる。
/シュレーディンガー方程式を適用するには、系を構成する粒子の運動エネルギーと位置エネルギーの和をとったハミルトニアン(エネルギーに対応する物理量)を、シュレーディンガー方程式に代入する。得られた偏微分方程式を解くことで系の時間変化についての情報を含んだ波動関数が得られる/
要するに波動関数というのは微分方程式の一種だ。微分方程式というのは、ニュートン力学(古典力学)の武器だ。猫の生死は、波動関数による粒子の位置の確定によって(要するに線型偏微分方程式として)「ワカッテ」いなければならない。「いずれかに収束する」ではなく、「いずれに収束する」かが、決定されて然るべきなのだ。(シュレーディンガーの波動力学は、ニュートン力学の範疇にあると記したのは、このことをいいたかったからだ)。
猫が生きているか死んでいるかが〈確率〉の問題となる(つまり「重なり合った状態」が、どんな「固有値」を持つかは確率でしか求められない)量子力学に、シュレーディンガーが反発したのは当然のことだといえる。(と、私は考えた)
私たちは経験上、猫が生きている状態と猫が死んでいる状態という二つの状態を認識することができるが、このような重なりあった状態(半分生きていて半分死んでいる猫)を認識することはない。これが科学的に問題となるのは、例え実際に妥当な手法を用いて実験を行ったとしても、観測して得られた実験結果は既に出た結果であり、本当に知りたいことである「重なりあった状態」ではないため、検証のしようがない。従って実験そのものには意味がないということになってしまう。
ここで、私も行き詰まった。おそらく私の思考の何処かが錯動している。んでもって、もっぺん、やんなおし、ということにしたのだが。そこで、やっとこ理解出来たのは、量子力学を素人学問でやり始めた頃からつきまとっていた疑念と、「シュレーディンガーの猫」がナンの観測実験かという、実に単純な答えだ。

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