無料ブログはココログ

カテゴリー「仏教・宗教」の記事

2017年11月18日 (土)

色即是空について②

ここはひとこと、で、述べておく。

現在、私が問題にしているのは、というより、その方向で思案しているのは、「色即是空空即是色」が〈現象〉なのか〈表現〉なのか、というあたりで、〈現象〉を示しているのにはチガイナイが、それじゃあ、生まれて死んで、が、味気なさ過ぎるというこれ「人情」。そこで、これを〈表現〉とするには、どういう「解」と「方程式」が必要なのか。また、それを拡張して、演劇つうもんをかんがえる。と、自問と試行錯誤を反復しているが、けしてこれは暗中模索というワケではナイ。とはいえ、日がな一日、そればかりというワケではナイので、バラバラのpieceを集めては棄てというふうかねえ。

 

色即是空について①

「色即是空空即是色とはなにか」というタイトルでもイイのだが、とりあえず、一般的に口にされるのが「色即是空」だけなので、そのようにしてみた。

もちろん、この「色即是空」は『般若心経』に登場するもっとも有名な文言だ。そうしてもっとも誤解されている文言でもある。

何故、誤解されているのかというと、そんなに難しい理由からではナイ。『般若心経』では、この「色即是空」のすぐ後に「空即是色」とある。これは、一見して反復、繰り返しのようでもあるが、そうではナイ。これは「色即是空空即是色」で一文として読まなければ、何の意味もナイ。また、その読み方を「色(物質)は即ち、是れ空(実体はなく)、空(実体)のナイものは色(物質)である」と読むと、文章としても意味をなさない。これは「空」を、空間概念として読むことによるマチガイで、空間概念としての「空」は、老荘思想の「空」だ。仏教は「何もナイ(実体がナイ)」ことを「無」と表現している。従って、この場合の「空」は、空間概念における「何もナイ」ではなく、時間概念としてのblankと考えなければ、スジが通らない。

読み方を、「色は即ち是、空であり、空は即ち是、色である」という「色=空」の「等号」の使い方で読むとマチガイが起こる。この「等号」は「同等」「等しい」という意味の「=」ではナイ。数式における「=」の意味は十種類以上あるのだ。その中で、この「=」は、次のように読むのが正しい。

「色は即ち是、空と成る、空は即ち是、色と成る」

読み方を換えれば、「生成は消滅となり、消滅は生成となる」。これは『資本論』の基本概念の「生産=消費」と同じことだ。なにかが生成されれば、なにかは消滅し、なにかが消滅すれば、なにかが生成される、ということだ。生産されるということは消費されることであるのが『資本論』ならば、なにかが生成されるということはそこに在ったなにかが消滅することだし、なにかが消滅するならば、なにかが生成されている、よって「不生不滅」なのだ。という読み方が正しい。この読み方に至った読み方をしているのは、『法華経』に傾倒した宮沢賢治と、その作品の『春と修羅(序)』くらいかなあ。

2017年10月28日 (土)

法然-親鸞のかんがえ

法然、親鸞などなどのいわゆる「浄土系仏教」は何をどうかんがえたのか、について凡俗の私はこうかんがえた。

まず、それまでの「仏教」、ここでは上座(小乗)仏教の否定。小乗仏教はともかく修行を積んで(これを菩薩行というのだが)如来となり、その後、衆生を救うというシステムを持っている。法然-親鸞は、このシステムを「結集」以降の教示として、それは釈迦のほんとうの考えではナイと、これを退けた。ここは首肯してもよいところだ。現に、釈迦の最後の弟子である阿南(アーナンダ)は「結集」による仏陀の教えの仕分けとまとめ(経典)を否定して破門扱いとなったワケなのだから、「結集」における上座仏教(の教示-経典)は上座派の勝手な「かんがえ」として認めなくてもヨイ、というのはもっともだ。

では、そのような上座仏教(経典)を否定して、前方に釈迦仏陀、後方に衆生の信仰という地平に立って、どのような釈迦-仏陀の教えを拠り所とすればよいのか。

ここで、法然-親鸞は、ずいぶんおもいきった態度、姿勢、方向性を選択するのだが、つまり、〈釈迦仏〉そのものを括弧にくくってしまうのだ。で、代替として〈阿弥陀仏〉という別の仏をひっぱり出す。釈迦は現実に存在した人間だが、阿弥陀如来や大日如来、釈迦の次に如来となるとされている薬師寺如来は、現実に存在したワケではナイ。

けれども、法然-親鸞にとっては、仏というものは、〈ある概念〉であればそれでよかった。

つまり衆生を救済する〈概念〉、もしくは〈価値〉としての存在であれば、それで事足りた。

浄土系仏教派は『般若心経』(つまりは『大般若経』)を認めてはいない。というより、これを認めると、浄土系の教義には矛盾が起こる。具体的にいえば、菩薩行を否定しているのだから、その菩薩(観自在菩薩)が看破した世界の有り様(色即是空 空即是色)は当然否定すべき対象となる。「この世界が〈もの〉ではなく〈こと〉」であるということは、形而上学的には認知出来ても、仏教が本来やらねばならいことは、自身の修行ではなく、衆生の救済「覚有情」に尽きる。「自力」ではなく「他力」なのだ。この辺りまで至ると、仏教というよりキリスト教の思想と類似してくる。

仏教とキリスト教の違いは多々あるが、現存した釈迦とイエスとの違いは明白で、釈迦は修行したが(その前には多くの、当時の最高の学問を教育されている)、イエスはそのまま神の子だから、修行などナニもやってはいない。(おそらく大工の子だからまともに学問もしていないはずだ)。

ちなみに、釈迦は、遊行から苦行へ、それを両方とも否定して、のちに菩提樹と称される樹木(ピッパラ)のもとで瞑想したとされているが、瞑想なら、いっとう最初に「終わっている」釈迦は、出家して最初に、インドでは聖人と称されていた二人の者のところに次々と訪れ、二人のもとで「瞑想」の修行を〈終えて〉いる。終えているというのは、この二人の聖人からそれぞれ後継者の誘いを受けながら、「こんなものはテクニックに過ぎない」と「瞑想」の修行を一蹴しているところから明らかだ。

従って、釈迦が最後に座して行ったのは、〈瞑想〉ではなく〈思考〉だとしたほうが正しい。

彼は「かんがえた」のだ。

何を、か。この〈穢土〉をどう受け入れ、さらにはどうするのか。その答えが、〈悟り〉と称されているものであるのは、いうまでもナイ。だから、釈迦は「悟りを得た」のではなく、「悟りを拓いた」というべきだ。(予め悟りなどというものが、何処かに存在するワケではナイからネ)。

さて、法然-親鸞の仏教(釈迦仏陀)からの逸脱、あるいは仏教の解体は、釈迦が行ったように、この「かんがえる」ところまで遡る。つまり、釈迦と同じように、この穢土からの衆生の救済を如何にせんと、「かんがえた」のだ。

すでに、釈迦仏陀という悟りを拓いた覚者がある。その後継としての上座仏教がある。仏陀を否定せずに、仏教を否定するという矛盾と、法然-親鸞は真っ向から対峙することになる。

そこで「阿弥陀如来」という「仏」の登場ということになる。彼らは上座仏教を否定、解体して、そこから逸脱し、自力から他力へのシステムをつくり上げた。つまり、上座仏教は、法然-親鸞で終わっていることになる。

だが、これは、菩薩行をも否定することになる。菩薩行を基に穢土の革命を描いた『法華経』を真髄とする日蓮が浄土系仏教派を糾弾したのはアタリマエのことだ。

法然-親鸞の浄土系仏教のシステムでは、衆生は死してのち、「往生」することになる。そこで初めて修行があって、「成仏」することになる。現世で修行などしなくとも、一応は、誰でも阿弥陀如来の仏国、「浄土」へと往くことは出来る。けれども、『般若心経』における菩薩の智恵の教えでは、「浄土」も「もの(物質・物体)」ではなく「こと(事象・現象)」にしか過ぎない。この考え方は、浄土系においては受け入れられない。「浄土」は存在するのが前提なのだから。

法然-親鸞は、かくして上座(小乗)仏教を廃した。浄土系仏教の企ては、その辺りに在ったとおもわれる。

かんたんにいうと、この程度が私の「かんがえ」というべきかなあ。

2017年10月12日 (木)

「自燈明 法燈明」について

釈尊が、遺言(いごん)として、阿南(アーナンダ)にいい遺した「自燈明 法燈明」は、仏教の説く普遍的な教えを述べたのではなく、目前のアーナンダに対する遺言だったことに、まず留意したほうがイイ。そのこと自体がやがて、釈迦の思想の中心になっていくことは確かだとして。

釈尊は、阿南との説法の旅の途上、自らの死後、自らの教えがさまざまにマチガッテ統一されていくことをみとおしていた。というより、それが釈尊のいわゆる〈危惧〉でもあった。(つまりは、結集というアレなんだけどネ)。「結集」とはいうものの、コノ決起集会がやがて釈尊の教えを分派し、滅劣に統合されることは、釈尊には充分予想のつくことだった。さすがにというべきで、ワカッテいたのだ。然るに、アーナンダに対しては、遺言のカタチで「アーナンダよ、私の死後、如何に私の名のもとに〈法〉が説かれようと、アーナンダよ、自ら自身をこそ、燈明とするのだぞ」と述べたのだ。

釈迦の予見どおり、結集により、小乗各派閥は、おのおのの如是我聞の持ち寄りを仕分けして、これを統べ、釈迦仏陀の法とした。第一回の結集に阿羅漢の身分ではなく特別に参加を許された阿南は、この〈法〉にただひとり首肯しなかった。よって、破門同然の身となった。

阿南(アーナンダ)への遺言として託された釈迦のコトバは、そのまま普遍的に受け取ると「法より自己がタイセツ」というふうに錯誤、誤謬となってしまう危うさを含んでいる。

ここは難しいところだが、よく考えたほうがイイ。この〈法〉は、「権威」「権力」と名を変え、手を変え品を替え(品は、科、としたほうがイイようにおもうけど)、蔓延っていく。

釈尊の思想はあくまで「自燈明」であって「自己」ではナイ。何故なら自己我など、無いのだから(「諸法無我」)。

釈尊の教義は、待(対)機説法だから、イエスの辻説法に似て、矛盾をほじくりだすことは出来なくはないが、本質(土台)となる思想は揺るがない(ブレはナイ)。

再々、確認すべし。

2016年7月10日 (日)

涙、壊れているけれど⑱

キチ がいい

 

毎月一度か二度、帰郷したときは、実家の近隣の神社で御神籤を引くのが習慣になっていて、たいてい、(一回100円なんだが)二度引いて、その中間をとるようにしている。納得がいくときは、一度。あまり良くないのを引いたからといって二度引くワケではナイ。良すぎるのもどうかと思うから、二度。で、「吉」がイイ。

やはり気になるのが「恋愛」で、極端にいえばアトはどうでもイイ。要するに女運でしょ。

「愛情を信じなさい」「ためらわず告白せよ」「将来、幸せになる」と続いているので、ここはもう、どうにもならないものは神頼み、書かれたとおりにしている。

私の場合年齢的な問題も大きいので、春を待ってはいられない。といって、焦ってカス掴んでたら、もう取り返しがきかない。そこで、「犬も歩けば棒にあたる」で、あたるを幸い、「果報は寝て待て」で、焦らず果報を待つ、と、バランスとタイミングでやってみている。まあね、恋愛にならなくてもイイんですよ。傍に女性の影でもありゃね、それで上出来。

神社へのお参り、ありゃねえ、「お願いごと」が先に立っちゃダメ。「祈願」「誓願」というのは、賽銭投げて、鈴鳴らして、手を打って、〈誓う〉のが正しい。「誓いを立てる」ワケです。そこまでは自力。アトはおまかせで他力なんです。だいたい、10円や100円で願い事が叶うワケがない。1000円でも1万円でも一緒。だいたい賽銭というのは、祈願成就したときに、ほんとうはお礼のためにするもので、願い事を銭で契約するものじゃアリマセン。誓い、自力です。願い、他力です。私なんか神社でも「自燈明・法燈明」やってんだから。何度も書きますが、「自燈明」を「自らを燈明とせよ」というのは誤訳ですよ。ほんとうは「自ら燈明としたものに向かって行きなさい」あるいは「自らの燈明と出来るものを求めなさい」です。そういう修行をしなさいなんです。で、「真理(法)となる燈明を求めなさい」なんです。これがアーナンダ(阿難陀)の聞いた釈尊の遺言(いごん)です。釈迦入滅のとき、傍にいたのはアーナンダだけです。ですからアーナンダは釈迦の遺言を聞くことになった、というより、釈迦に訊いたんです。釈迦が自分はもう死ぬだろうっていうもんだから、アーナンダ、当然の如く「師匠に死なれたら、そのアト、私たち、私はどうすればよいのでしょうか」と訊ねたんです。そこで、釈迦が応えたワケです。修行の在り方を釈迦は阿難に伝えたんです。「如是我聞」の「我」とは主にアーナンダを示します。これを、最初の結集(そこいらの弟子たちで阿羅漢以上の地位のものが、釈迦のコトバをまとめるという作業)のときに、正直に阿難くん、いうたもんやさかい、そら都合が悪おまっせ。まとめなアカンのに「自燈明」では、まとまるもんもまとまらない。そんでもって、哀れ、阿難くんは、仏教史上では悪人扱いされることになります。

つまりぃ、ほんとうの仏教(釈迦の教え)は、すでにここで終わっています。もちろん、これは私の学問した釈迦の思想においてのことですけど。

と、いうことはいまの仏教はおしなべて、インチキとまではいいませんが、釈迦の思想とは関係ありません。とはいえ、このアーナンダのコトバに耳を傾けた連中もあるにはあったんです。それが、禅宗に伝わったのではないかと仏教史は考えているようです。何故なら、〈悟り〉というものは、他宗派には存在しません。法然や親鸞が悟ったなどという話はありません。空海も最澄も、日蓮もです。(彼らが偽物だといってるんじゃありません。彼らなりの自燈明でしょうから)

恋愛も、「自燈明・法燈明」であります。「あんたが好きになったもんに向かっていきなさい」そうして「ほんとうの愛なるものを求めなさい」でございます。私はなんべんも挫折しておりますが、たかが六十三年の修行です。修行はまだまだ続けてよろしやんか。恋愛修行、六十四年目に入ります。諸法無我・・・これは、次回。

 

2016年1月20日 (水)

♡~16

きょうは具合が良くないので、運が悪かったと思っていただこう。アグレてるので、何かにアタラナイと気がすまないのだ。つまり、うつ病の症状がひどくて、機嫌が悪いのだ。
『史上最強の哲学入門・東洋の哲人たち』(飲茶・マガジン・マガジン)。1700円して、アマゾンで購入したが、内容はコンビニ本程度で、『バキ』まで持ち出してきて、板垣啓介さんにカバーイラストまで描いてもらって、著者はShame on you!.だ。fo shameともいうけどね。私は、インド哲学、老荘思想、禅に関しては教養程度にしか知らないので、一応学問した仏教についてだけ、「ケチ」をつけておく。その前に一つくらい褒めておいてやるが、哲学というものは、「途中から」「ある個人だけを」取り上げてもワカラナイという著者のいいぶんは正しい。思想とはチガッテ、哲学は連綿たる系だからだ。ニーチェの『超訳』なんて読んでも、日めくりカレンダーと同じなのだ。
著者は、サルトルにイカレているようだから、たいていのお年頃はワカル。しかし、サルトルを「二十世紀最大のカリスマ哲学者」などと臆面もなくいま口にしたら、多くの哲学関係者や昨今の哲学者には、笑われるだけだ。少なくともハイデガー研究者は、サルトルなど相手にはしていない。せいぜい哲学ジャーナリストと位置づけている程度だ。他にも、サンプリングの形跡から幾つかの哲学者を多少は齧ったらしいと見当はつくが、それはまあいいや。仏教、つまり釈迦の思想において、この著作はあんまり大雑把なので、著者は今一度、仏教史はやりなおしたほうがイイ。それだけでも、釈迦の悟りと十二因縁や八正道は、何の関係もナイということくらいはワカル。かつまた、「因縁」など釈迦は説いていないということも。(それは俗説、あるいは上座仏教の〈結集〉におけるマチガイなのだ)。「結集」において、アーナンダ(釈迦の侍従)の存在を取り沙汰しなかったのは、この著者の学習は史上最低クラスで、よくも史上最強てなこというたな。範馬勇次郎がクシャミしてるわ。
『般若心経』の解説も、そこいらの解説本の受け売りで、著者自身の争闘はまったくみられない。たとえば「色即是空 空即是色」を、「色は即ち是れ空である。空は即ち是れ色である」と訳すのは、私の学んだ観点からは、マチガイなのだ。これは「色は即ち是れ空となり。空は即ち是れ色となる」と訳さないと、『空論』の意味がとれない。「結えば庵、解けば草原」といわれれるが如く〈色即是空 空即是式〉とは、ひとことでいえばたったこれだけのことだ。何故、「空」であって「無」ではナイのかという疑問から始めないと、『般若心経』はワカラナイのだ。「色」と「空」とが対立概念ではナイということを(いうなれば「不二の法」)学びとらねば、「空論」はワカラナイ。「色・物質、現象」が消え去ることが「空」ではナイ。また、『般若心経』それ自体もまた「色・空」である集合に入るという矛盾を克服することも出来ない。
数式で書けば「色=空」になるのだが、問題は、この「等号・=」にある。等号のルールも幾つもあって、「右辺と左辺が等しい」だけが等号のルールではナイ。「色=空」のばあいは「左辺の記号を右辺で定義する」という用い方の「=」だ。また、異なる物理単位を持つ量は等しいとか等しくないとかを考えることに意味はナイので、等号でつなぐことは出来ない。
ともかくも、あの百年前の原始模型の図は何とかしろ。
魔が差してこの書籍を購入した良心的なひとびとには、述べておく。釈迦の思想の核心は、「自燈明 法燈明」「諸方無我」「涅槃寂静」に尽きる。たとえば、「死ぬ」ということが「怖い」ひとは、死などはナイ。それは「涅槃寂静」(煩悩を棄て、静かな境地に入ることだとされているが、そんなにんげんなどいない。誰のものでもナイ、自分だけの眠りに眠ること、とすればイイ)と思うだけで、ココロ安らかになるだろうし、「私」という存在がなんだかワカラナイひとは「諸法無我」(にんげんは表現する存在だから、常に〈表現された自己〉としてしか存在しない)と思えばイイ。
付け足していえば、釈迦は「因縁」「因果」を否定した。原因も結果も予め存在するものではナイ、と説いたのだ。では、どうすればイイ。それが、「自燈明 法燈明」だ。くだいていえば「自らの燈明となるものを探せ(探求せよ)、そうしてそれを真理の燈明とせよ」ということになる。

2015年8月31日 (月)

And in the End⑲

And in the End⑲
「釈迦は悟った」ということになっている。悟らねば仏陀とは呼ばれなかったろう。しかし、釈迦が悟ったかどうかについての客観的な判断は誰にも出来ない。身も蓋もなくいってしまえば、釈迦は悟ったと思い込んだだけかも知れない。「悟り」というものが〈真理〉ならば、それが真理だという〈基準〉というものが、必要になってくる。さらに、「悟り」というモノは「先験的」に存在するものでなくてはならない。でなければ、悟りの数は、そう思った固有の数だけ存在することになる。
この程度のことに釈迦が気付かなかったとは思えない。「自燈明、法燈明」という釈迦の遺したコトバは、そこに重点が置かれている。従って、小乗(上座)仏教の「結集」以降の仏教は、まったく無視してなんら釈迦の思想を損なうものではナイ。この「自燈明、法燈明」という命題は、「唯我論」に陥らぬように発せられた巧みなコトバだ。ベクトルが逆なので「法」に囚われることも防いでいる。安直にいってしまえば、「矛盾」している。これは欠陥ではナイ。ここに「妙」が在るのだ。「妙」とは〈いうにいわれぬほどすぐれていること。きわめてよいこと。また、そのさま〉。あるいは〈不思議なこと。奇妙なこと。また、そのさま〉を意味する。
私たちは、この妙あるパラドクスに従って、「釈迦は悟った」ではなく、「釈迦は私たちに悟りへの道程(導程)を開いた」と心得ておいたほうがイイように思う。
釈迦にインスパイアした「悟りへの道程」は、私たちが現在の仏教学から教えられるものとはまるでチガウ。十二因縁も、八正道も、小乗(上座・出家)仏教が、都合よく後付けしたもので、こんなものは、はやいとこ棄ててかかったほうがイイ。ひろさちや老師も、釈迦の「悟り」とは、「この世界が〈縁起〉の構造・・・相互依存関係・・・になっていることを発見した」と述べているが、素人の強みで私が述べるとするならば、それは逆なのだ。つまり、釈迦の「悟り」とは「この世界が〈縁起〉の構造・・・相互依存関係・・・になっている、〈と、人間は思い込んでいる〉という発見」が、私なりの解釈だ。
もし、この世界が〈縁起〉の構造(相互依存関係)であるならば、私たちはそこから脱することが出来ない。それでは、婆羅門のいう輪廻と似たようなものだ。つまり決定論的、必然的法則関係の存在を認めねばならない。私の考えは、ひろさちや老師の命題を次のように少しだけ書き直すだけでイイ。曰く「この世界が〈偶然〉の構造・・・確率的相互依存関係・・・になっていることを発見した」
「人間が思い込んでいるような〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉は存在しない」これが、釈迦の発見、「悟り」であり、では、どうするかという「道程」への導きだ。(注意しておくが〈法〉 とは、仏教において「真理」を意味する。けして「法則的自然観」ではナイ)。
「世界は偶然によって生じる」はエピクロスのコトバだが、釈迦のそれは、さらに微細で深度がある。
もちろん、釈迦が量子力学(どころかニュートン力学も)を知っていたワケではナイことは明白だ。ただ、相互依存関係の弁証法を「あれでもナイ、これでもナイ」として選択したと思われる。この「あれでもナイ」をd/yとし、「これでもナイ」をd/xとする微分係数と関数座標面をかんがえればイイ。〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉は存在しないということは、量子力学的公理でいえば「重ね合わせ」こそがこの世界の実相で、何かを原因として、結果が生じているということではナイということになる。
もちろん、量子力学においても、波動関数のように、偶然や確率によらない決定論的な法則は存在する。それは、このマクロの世界においても直観出来るものだ。しかし、釈迦の発見は、非直観的なものだ。その非直観的自然観(法則的自然観の正反対)こそが、釈迦の思想を形成していく。
如何にして〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉を脱する(断ち切る)か。これが釈迦の求めたものであり、私たちを「悟り」に導く思想なのだ。どういうことかというと、「世界のことは何も決定されていない」よって「世界(私)は変わって(変えて)いける」ということになる。ここから三宝印「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」が発想される。三宝印は、存在の在り方の真実を説くのではなく、もっと〈積極的な主張〉なのだ。
「自燈明」とは、自らを以て燈明とせよ、ではなく、自らを照らす燈明を求めてこそ、燈明とせよ、であり、「法燈明」とは、この世界の在り方の真理の明かりを求めてこそ、燈明とせよ、になる。

本論を記すにあたって、「空論」と「無二の法門」が説かれた『唯摩経』はたいへん参考になった。ただし『唯摩経』は在家仏教者の書であるゆえ、小乗(上座)からは仏典(教典)とはみなされず「仏説」というふうに称されている。
「色即是空 空即是色」(般若心経)にあるように、なぜ「無」を用いずに「空」としたのかという理由(筋道)は、「空」の意味そのものの解釈にある。この「空」は老子の説いた「空」とはまったくチガウものだ。私はなんとか辿り着いたが(ヒントは、この文言だけが反転した繰り返しになっていることだ)、一つ読者もお考えになられることを願う。

2015年8月 9日 (日)

And in the End・捕捉

釈迦の思想にもどる前に、少しだけ捕捉しておく。「シュレーディンガーの猫」については、量子力学の「観測論」に対するシュレーディンガーの揶揄だったことは理解出来たと思う。つまり、endless。しかし、これは波動力学の限界であって、量子力学の限界を意味しない。量子力学の「観測理論」においては〈密度行列〉がさらに必要になる。
さて、ただし、だ。要するに「観測」において「確率的」に量子の動きは完全に記述出来るのだが、それはしかし、測定された量子においての話だ。そこで、測定されない量子は、どんなふうに動いているのだろうか。何ら測定していない、検出器にはひっかからない量子(簡単にいっちゃうと、誰も観ていないときの量子)だが、それを「観測」すれば、「シュレーディンガーの猫」の矛盾に陥る。ここでは、あくまで、観測者(人間)も観測装置も、観測実験もナイ場合の量子の動きを「もし、それがみえたら」ということで述べると、そんなとき量子は「あれでもナイ、これでもナイ」というまったく〈デタラメ〉に動いている。〈デタラメ〉といういい方が不満なら「偶然」と称してもイイ。あるいは「量子力学」の測定というのは、あくまで、量子を「観測」によって捉えたところの「確率」であって、「観測」によって捉えない量子の状態を量子力学は、どんな状態も「共存」すると記述する。この「共存」という概念(category)をもう少しいうと、最近やたらめったらもちいられる「共有」とは全く異なる。たとえばある量子が「イマ、ココ」にあって、「ツギ、ドコ」に動くかは、東南西北の方向に全て存在するということだ。よってつまり、「偶然」。これは、測定と測定のあいだの量子の動きは、捉えられないから、〈デタラメ〉「偶然」としかいいようがナイといっているのではナイ。「〈デタラメ〉、偶然でしかナイと記述することが完全(正しい)な記述であって、何か、人間の知らない神秘的な、あるいは決定論的なメカニズムは自然には存在しない」という主張なのだ。ニュートン力学に慣れ親しんでいる私たちにとっては、とてもイメージすることは困難に思われる。
そうすると、次なる疑問が当然、提出される。
「では、ニュートン力学と量子力学の〈つながり〉〈境目〉、どの辺りでどのように、量子力学はニュートン力学と融合、あるいは相転移するのか」
この問題については、ミクロとマクロの単位でそれを分別しても該らない。私の考えでは、ニュートン力学が、量子力学に進入することは全くナイとしてもイイが、量子力学の、その概念的な自然観は日常的にも活用可能だと思われる。視点を変えていうと、私たちは量子力学の動き(ふるまい・状態)を、「確率」「偶然・デタラメ」と称しているが、それらは、あくまで、私たちの脳裏がイメージした位相からすると、そう称するしかナイからそうしているだけで、量子力学的自然のほうが自然本来の在り方だとすれば、「確率」も「偶然・デタラメ」も、ナイのだ。これは、よく誤解されている光速度と似ている。私たちは光の速度は秒速30万㎞と教わったし、たしかに、観測するとそうなる。観測すると、ということは、観測者がいて、stop watch で計測すればという相対的な速度だが、実際には光の速度には時間はナイ。絶対的には光速度というのは、ナイということだ。どういうことかというと、1㎞進もうと10億㎞進もうと、光がその距離を移動するのに要する時間は0秒だということだ。

2015年7月25日 (土)

And in the End⑱

(ほんらいなら「混合状態・純粋状態」などの「波の重ね合わせの状態」についての説明もあるのだが、ここでは特に必要ではなく、かえって錯綜するだけなので、端折る)。端的にいってしまえば、ノイマンが、対象と観測装置の干渉によって波動関数が限りなく続くといったのには、かなり大雑把なところがある。すごく簡単なことなのだが、「観測者が実験室で扱う装置が、全体として量子力学的状態にあるとは、とても考えられない」と、まあ、これだけのことだ。私たちの視線で観た月のことを思い出せばイイ。私たちの視線と「月」が干渉しあって、波動関数の波になるということは実際に、あり得ない。
とはいえ、検出装置(フィルムなど)については、厳密な検討は必要だ。たとえば、フィルムについては、一枚のフィルムを細かく分割し、分割された部分が直径が数ミクロン、その中に含まれる原子の数は10の18乗程度が標準とされている。
この検出装置に電子が一個、痕跡を残したとする。タイセツなのは、この電子一個は以下のごとくだということだ。
○一個でも「重ね合わせの原理」において「重ね合わせ」は行われている。このことは、電子という量子一個は、それ自体で以下の三つの形態を物語る。
1、量子一個は、全体と同じである。
2、量子一個は、全体と関係している。
3、量子一個は、全体の部分である。
このあたりのことは、拙著『恋愛的演劇論』に詳しいので、それを買って、買って、買って、読めばワカル。
ノイマンのいうような「意識」「超越自我」などのオカシナ観測者の主観による影響は、検出装置を正しいものに設定すれば、起こり得ない。「観測は、ミクロの対象とマクロの装置との客観的、物質的な相互作用であって、主観というコトバの印象が与えるような、非物質的、非因果的なものではナイ」(町田茂『量子論の新段階』)
では、装置なしではミクロの対象は存在を肯定出来ないのだろうか。そういうこともナイのだ。他の物質との相互作用によらずにその存在を知ることの出来る物質というのはナイからだ。これは物質がミクロだろうがマクロだろうが共通の客観性だ。
「密度行列」についても、拙著『恋愛的演劇論』に詳しいので、それを買って、買って、買って、読めばワカルので、前述したが、量子の時間についてもう一度述べるなら、量子が検出装置と相互作用する前の時間はt=-∞、だし、検出装置を通過して相互作用したアトは、t=+∞、になる。「猫」の場合も、観測の「瞬間」というコトバが使われるが、これはあまりに安易で、それはマクロにおける「瞬間」でしかナイ。ミクロの量子の場合の瞬間は「無限大」の時間として扱える。
以上、量子力学的な横道において、私たちに残された問題があるとすれば、では「時間」とは何なのだ。という、オソロシイ難問(アポリア、Aporia,「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」「困惑」「当惑」)だけだ。
それについては、いまのところ、以下の思いつきを箇条書きするしかナイ。

/時間が物質ではナイとすると、意識が対象としているモノではなく、それ自体になる。あるいは等価になる。/しかし、確かに時間は物質ではナイ。にも関わらず物理学的に扱われる。/蜻蛉の1時間と人間の1時間は違うのだろう。では、何が違うのか。/物質の相互作用によらずに存在を知る物質は存在しないのなら、相対的な時間は物質なのか。/
カントでいえば先験的なモノなのか。/例えば、二種類存在するというのはどうか。意識としての時間。時間子という量子としての時間。この世界全てを量子力学で観ればそれもある。/と、すると、時間はエネルギーを持つことになる。/光が粒子であり、しかし、質量は0であり、時間も0であるけど、粒子として物質であるのと同じように、時間もそれと等価なのかも知れない。/ともかく、光と何か関係してることは考えられる。つづめていえば、光の属性なのかも。/暗闇という状態は存在しない。ただ、波動をヒトが可視的に捕らえられないだけだ。/ある時は、それを光として捉え、ある時は時間として捉えるという「等価原理」があるのでは。/すると、老いていく、エネルギーの減衰、というのは、光としてのエネルギーを減衰していくこと。等価原理としていえば、時間にエネルギーを持ち去られることになる。/

でと、おつかれさま、としかいいようがナイが、ここらで、量子力学領域から、釈迦の思想(思考)へ還ろう。

2015年7月24日 (金)

And in the End⑰

「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。ここで、ちょっとタイセツ(重要)な手続きをふんでおかねばならない。それをふまないと、ウンコを踏んでしまったり、糞で置かねばならなくなったりするからだ。それは、「測定」と「観測」というコトバの定義、その差異についての正しい認識だ。んで、定義しておく。「測定とは、ある装置を使って実験し、最終的にある計器の目盛りを読み取り、その数値から、ある対象のもつある性質について知る。つまり、得られた数値から、対象の始めの状態についての情報が得られるような過程」をいう。「観測とは〈厳密〉には、装置が与えた測定値を観測者が観る過程までを含む」ものをいう。これは、町田茂さんの定義なのだが、ナンダヨ一緒じゃないか、前者はうまく観測者を消しているだけじゃないか、と、半畳入れたくなる。本人は微妙なものだとことわってらっしゃるが、もちっと簡単に分別することは出来る。私のような門外漢にもワカルように私が私にいうならば、たとえば「顕微鏡を観測者が視ている。覗いている」これはどうしたって「観測」に該る。実験されたデータが次々と送られてくる。いまなら3Gなんかのデータ通信で。それを科学者が読み取る。そこから得られる数値は測定値だから、これは「測定」になる。この場合、観測者は実験(測定)に全く関与していない。
ここまでなら、量子力学も問題なくやっていけた。ところが、後者についても疑義が発生した。「測定装置」をどう考えるか、だ。これは、私が演劇論をあーだこーだと考えてた際に、さまざまな「学」から何か演劇に使えるものはないかと、量子力学に手を出したときに、のっけから疑問だったものだ。(私は量子力学が勉強したかったワケではナイ。数学や哲学や、物理学や、およそ演劇とは縁遠いものから、演劇に応用出来るものが何かナイかと、類推〈Analogy・アナロジー〉したり、引用したりと、よくいわれるところの思考のanarchismとやらをやっていたとき、いってみるならそれぞれの概念をカスタマイズ〈customize・必要に応じて自分流に変換していく〉していたときの道程の中に量子力学という便利なものがあったというワケだ)。
で、のっけの疑問というのは、前述したと思うが、電子がスリットを通ってフィルムに到達して痕跡を残すとき、フィルムもまた量子のかたまりだから、それは、ほんとうに電子の痕跡といえるのか、反応ではないのかという、そういうものだ。
ここで、先にカタをつけておくべきだからそうするが、電子を一個発射して、フィルムに一つの点(電子の痕跡)が出来る場合も、電子という量子の「重ね合い」は生じている。何故なら、その量子は、○Aと○Bを同じに(つまり波動として)通過してきたからだ。一個の電子は○Aと○Bを通過した波の干渉なのだ。
もとえ、「測定装置」もまた量子のかたまりだ。では、何処で量子は最終的に観測出来るのだろうか。この問いを投げかけたのは、時の大数学者フォン・ノイマンで、数理経済学者なんかは、ノイマンの「ゲーム理論」なんかを、まさに「どや顔」で解説するのだが、そのわりには、現在の世界的不況がどうにかなっているとは思えない。(遠山啓老師が生きてらっしゃった頃、数理経済学については、「ちょっと勇み足なんじゃないの」みたいな発言をされている)。
「シュレーディンガーの猫」の場合、「猫」は観測(測定)の対象のように述べられている。では「猫」の何を測定しようとしているのだろうか。もちろん、蓋を開けたときに、生きているか死んでいるかということをだ。が、観測過程というのは、ミクロの対象と測定装置との相互作用の過程をいう。量子力学においては「波束の収束」が起こったときを測定の結果とする。「波束の収束」というのは、波形でいうならば、最も強い波形が現れた部分。ダブル・スリットの干渉縞でいうならば、最も密度の濃い部分をいう。つまり、「重ね合わせ」が最も多い部分だ。量子力学の場合、先述したようにたとえ一個の量子でも「重ね合わせ」だ。従って、「重ね合わせ」はあちこちに起こる。いわゆる「波束」というものだ。量子力学が〈確率〉を扱うのは、その「波束」が、もっとも収束する部分を測定するからで、これは確率でしかナイ。コトバをかえれば測定装置との相互作用によって、「波束の収束」がイチバン高く生じたところ、そこを測定最終地点とする。
ところが「猫」はどうだ。蓋を開けるまで結果は50%の確率しか持たない。これでは、観測の意味がナイ。そこでシュレーディンガーは、量子力学はこんなもんだよと、さっさと足を洗って、分子生物学の方向に進んだのだ。
フォン・ノイマンのいいぶんを聞こう。
「測定しようとするミクロの対象があるとします。もちろん、これは波動関数で表されるものです。干渉を起こし得るでしょう。それを何かの装置、たとえばフィルムを使って検出するとします。ミクロの対象もフィルムも相互作用しますから、衝突によって起こった事象の変化は、これも一つの波動関数に過ぎません。ここでも干渉が観測されます。さて、私たちはそれらを肉眼で観ることが出来ます。フィルムからの視覚刺激は網膜に入ります。すると網膜も同様に干渉を生じ、波動関数で現されることになります。そうなると、さらに視神経、脳、とどこまでいっても干渉は起こり、波動関数で現されることになります。
これはキリがありません。量子力学においては、すべてが重なった状態ですから、どこかで、非因果的過程に転移して波束の収束が起こらねばなりません。とすると、それは〈意識〉もしくは、〈抽象自我〉ということになります」
ついに観念論に到達したワケだ。
実は、シュレーディンガーは、このノイマンのいいぶんを得て『量子力学の現況』という論文を書き、そこに「猫」を登場させて、ノイマンへの批判とした。ノイマンの理論からすれば、猫も観測装置と同じになる。波動関数の中にある。よって「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせ(干渉)が生ずるというものだ。
同じことを別のバージョンでいうならば、この実験を一つの実験室で私がやって、蓋を開けて「猫」の「生死」を確認したとき、死んでいたらそのサインを出すとする。手を挙げるだけでイイ。そのアトにあんたはんが、そこに行く。すると、あんたはんからしてみると私も観測装置の一部となるので、あんたはんが自分で実験室を覗いてみるまでは、私は手を挙げた状態と挙げない「重ね合わせの状態」になる。これではキリがナイ。「シュレーディンガーの猫」をかのように解説している量子力学の本も、私は読んだことがある。この本は状況は述べているが、本質はまったくthroughしていて、けっきょく、無駄骨だった。
しかしながら、ノイマンのいいぶんでいくと、これはもう「唯我論」の世界に突入なのだ。
だから、要するにシュレーディンガーは、「猫」という対象もまた装置に変ずるので、キリがナイぞという揶揄を、この実験で述べたのだ。先述したように、足を洗いたくもなるというものだ。
では、「波束の収束」は測定出来ないのだろうか。そうではナイのだ。そこには、測定装置がマクロで、対象がミクロだという、事象と相互作用との関係と、量子の持つ「時間」とが加わってきて、「密度行列」という波動関数では現せない量子の動きがあるのだ。しかし、この辺りは、本論とかなりかけ離れたから端折ってもイイんだけどね。ついでだからなあ。

より以前の記事一覧