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カテゴリー「仏教・宗教」の記事

2023年1月 5日 (木)

アト千と一夜の晩飯 第四十夜 信仰について

「信仰はすべて狂信である」これは呉智英センセのコトバ(命題)、「反証出来ないものは科学ではない」これは科学哲学の親方(というか私にいわせれば科学哲学を信仰しているintelligentsiyaの拠り所)カール・ポパーのコトバ。もうひとついっとくか。「子供はすべて神の子です」これは、私が24歳のとき名古屋駅前で洗礼を受けることになった、だいたい同年の女性が、後に出会ったとき妊娠していたので、そう応えるだろうとはおもっていたが問うたときの答。彼女はキリスト教系団体で集団生活(commune)にいたので、一応父親を訊いてみた。名古屋駅前、丁度、私は鬱病を発症(現象)、気分を変えようと下駄に眉毛を剃り落としての格好で歩いているときに、その少女に呼び止められ鬱病現象の攻撃性(aggressive)から「そんなに愛を説くのなら、いまから駅裏のホテルに行って愛し合ってみるか」と云う私に「いいです」と即答されたので、こっちの負け。ホテルには行かずその場で洗礼(そこの団体の口伝形式で)を受けることになった。かなりイイカゲンなことだが。駅前の映画館で『神々の深き欲望』(今村昌平監督)なんてのを上映していたから、なんか出来すぎだなあとおもいつつ。その後、あるルートで牧師の認可証を購入。こういうのを持っていると、徴兵を逃れ、故郷の菩提寺(浄土真宗)の、やっかいな付き合いも拒否出来るとのおもいがあったので。
ハナから再考していく。いま問題(話題、なのかも知れないがメディアが頻繁にとりあげている宗教二世のおハナシ)から演繹するに、呉センセの命題は「真(正しい)」とおもえる。私は安倍晋三元首相をヤった無職山上徹也容疑者(奈良地検が殺人罪で起訴)を誰がなんと云おうと「テロ」などとはおもっていない。ありゃあ、個人的宗教二世の怨恨だろう。ココロの奥底で「よくヤッた、エライ」などとはおもっている。
ポパーの定義については、この定義そのものが怪しい。逆に「科学は反証しか出来ない」といっておいたほうがまだマトモだろう。諸説百般、だから科学はオモシロイのだが。科学哲学こそ宗教臭くてやりきれない。学問をして威張っている、或いは庶民大衆を小馬鹿にしている(intelligentsiya)なんかが、ジェンダー・アクションのある神社の官主や寺の坊主、ガッコの教諭と同じにみえる。
三つめは、日本にはまだ徴兵はないので、そっちのほうでは認可証は役立たずだが、面倒な地元の菩提寺や檀家組合などにはある程度は防波堤にはなった。現在、私には故郷は無い。/私が故郷を棄てた/のではなく、/故郷が私を棄てた/ことはエッセーに書いた(収録された単行本があるがタイトルを忘却)。駅前のマリアがどうしているかは不明。子供がちゃんと教育を受けらていればイイがとおもう。駅前の洗礼(らしき)後、しばらく私はクリスチャンだと詐称していたが、これは営業用だな。私が何故キリスト教徒になれないかを描いたのが『寿歌』であるとワカルまで十年以上かかった。。
現状は「信心無し」ということにしている。とはいえ、一休(子供のころの頓智の方ではナイ)は好きだし、『般若心経』は記憶している部分だけを唱えながら、画仏壇に線香はあげている。死んだところで私というエネルギーは重力にでもならない限り、この宇宙から消滅することはナイのは自明の理。現身体性を終わった後、どういう波動でこの宇宙に在るのか、ワカラナイが興味あるところ。天の川銀河はすでにアンドロメダ銀河との衝突を始めているらしいが、そういう「の」が眺められたらなあと希求している。
/雪ふるや どうなることでも ないにせよ/
/哀れやな ウクライナに 在るわたし/
/貼るカイロ 足の裏だけ ふゆのはる/

2022年2月 7日 (月)

Sophism sonnet・69,8-12

「空」と「無」ってどうチガウの

やや、というか、かなり生臭い話題がつづいたので、気分転換でもしよう。
「空虚」というコトバが前回出てきたので、仏教でいう「空」について私が勝手に学んだことかんがえたことを述懐する。(再々やっているのだが、こういう空虚で生臭い情況のときは、そういうことをかんがえると脳髄も一息つく)
といいつつ、物理学にひょいと飛んでしまうのだが、現在の物理学における主流(あるいは主張)では、この宇宙がインフレーションからビッグバンで開闢する以前、〈そこ〉はいったいナンデあったのかということについて、「時間も空間も無い」ところということになっている。つまり「完全な無」だ。これはこうしないと、宇宙開闢が何処でどんなふうに起こったのかいつまでたっても収束点列してその瞬間に辿り着けナイからだ。ここでふつうのヒトは、そういうことが書いてあるホンを「投げる」。ほんとうにゴミ箱に投げたヒトだってあったはずだ。私も困った。「時間も空間も無い」トコロが在るのだから。いい方を変えればそういうトコロがなければ宇宙は開闢できない。つづめていえば「無が有る(在る)」という極めつけの矛盾を物理学はさらっと云ってのけるのだから、アホラシクて付き合いきれない。
そこで、仏理学のほうに「重ね合わせ」てかんがえてみるという私独特の思考を試みた。要するに『般若心経』だ。かの有名な「色即是空 空即是色」だ。仏理学では大乗系の「空論」の教説として知られている『維摩経』があるが、この教説の要(かなめ)である「不二の法門(ふにのほうもん)ふうにいってしまえば、「色即是空 空即是色」とは、「色」(物質や感覚、およそニュートン力学的な生成)と「空」(非ニュートン力学的な生成)は「不二」(分けてかんがえてはいけない)ということになる。簡単いうと「一緒」「同じ」なのだが、この解説はかなり一般的仏理学の説明でしかない。何が「同じ」何が「一緒」なのか、まで言及しないと意味がナイ。ということは、かつてこのブログにおいても『般若心経とは何か』で展開したので、ここではそれは繰り返さない。もちっとチガッタ斬り込み方を試みる。(切り込みでなく斬り込みだぞ)
わざわざ「色」と「空」をニュートン力学的な生成からの視点にしたのは、開闢以前の〈場・トコロ〉を「熱量平衡状態」の〈場・トコロ〉として、これを「空」とかんがえ、「色」はそこに「熱量」が生じることとして、「色即是空 空即是色」で宇宙開闢を描いてみたのだ。「色即是空 空即是色」の読み方を「色即ち空と成し、空即ち色と成す」という読み方にしたのは、前述した『般若心経論』にも記した。従って、仏理学的にも物理学的にも、「時間も空間も無い」トコロ(場)というのは、「熱量平衡状態」のトコロ(場)で、たしかにそこには「時間も空間」と呼べるものは無いといえば無いワケだし、カラっぽの空間も無いのかと反論されれば「カラっぽの空間」というのはコトバの上での同義反復でしかなく、そういった概念の空間というものは存在しない(空間とは称することができない)と応えるしかナイ。ここで、私たちは「カラッぽ」というものが「空間」だ、という意味づけ乃至(ないし)は概念を棄てねばならない。
「頭が空っぽ」というのは、「脳髄の平衡状態(思考不能)」を云っている。まるでいまの日本の政治を形容しているようだが、それなら狡猾よりマシだ。狡猾な政治、策謀だけの政策よりは、「空っぽ」のほうがまだマシなのだ。(と、居直っておこう)
むしろ、不可思議なことは、そのような「熱的死・熱量平衡状態」な「空」に「何処から」〈時空〉を生じさせる量子(しかナイのだが)が入り込んできたかのほうだ。
こいつについては、私は「空」に「何かが(量子が)コロンと出てきた」という現状物理学の考え方の、外部(が在るとして)からの進入とかんがえるより、内部にコヒーレンスな相転位があったとするほうがイイのではないかとおもっている。
さて、私が思考出来るのは現状そこまでで、古希を目前にして、私は私の脳髄は未だ働いているナという奇妙な安心を得る以上のことは、出来ないでいる。出来ないとはヤラナイことではナイ。はめると痛い義歯に慣れるより義歯を私の口腔に合わせるほうがアタリマエだ。

2022年1月19日 (水)

Sophism sonnet・69,7-5

Sophism sonnet・69,7-5
フィクション

いまごろの若いひと、Z世代だかなんだか私の語彙でいうと「明日来るひと」に該当するのだが、そこまで世界を転じなくてももう少し上の若い人は日本の国会の「一杯のかけそば・騒動」なんかは知らないとおもう。の、ですが。
日本がね、中華大国よりうんと豊かだった世界。中華大国では自転車が道路狭しと大衆が乗って走っていて、自動車なんかの類は夜になってもヘッドライトつけへんねん。何故かというと視えるから。前が。多少視えなくても障害物も、対向車もナイ、そんな世界やった頃のこと。日本の国会でひとりの議員さんが最近読んだ『一杯のかけそば』というハナシに涙したので、ちょっとここで朗読させてもらう、いうて、本、読まはった。
粗筋は特にヘンテツもナイ、貧困の親子三人が蕎麦屋でかけ蕎麦を一杯頼む。蕎麦屋の亭主も女房も三人なのに一杯とは妙だなとおもいつつ、云われたとおりテーブルに置く。親子はその一杯のかけそばを分けつつ食ったというハナシ。蕎麦屋の亭主とかみさんは、厨房にしゃがみつつ涙を拭ったのであった。そうして、それを聞いていた国会議員さんたちも涙ぐんだのであった。
まあ、いまの世の中でしたら、こういうのはほんとうに実話としてあるでしょう(ほんとうにはもっと悲惨な親子心中もありました)。かけそばは親子心中の最後の晩餐だったのかも知れません。しかし、これは虚構の、いうてみたら寓話。つまり「創った噺」虚構、fiction。ということが「ワカッテ」(ここがオカシイんですけど)本を読んだ議員も泣いた議員も〈騙された〉とこんどは怒ったんですネ。ここで私たちが教訓とすべきは、国会議員のセンセ方は国会の最中にゲームしているくらいですから、ゲームが虚構だということは識っているのでしょうけど、どうも虚構というものと現実というものの区別が曖昧だということです。COVID-19が現実であるのに、ここまで来るとfictionじみてvirtualじみているので実感が薄くなっているのではナイでしょうか、ねえ。でないと、この危急、火急のときにのんびりし過ぎなのに「先手を打っている」とか、いうてはるんですな、ソーリ大臣。先手も後手も一手ずつでっせ打てるのは。それを忘却してらっしゃるのじゃナイでしょうか。

:『般若心経』は「大般若経」からのsamplingとremixによるイノベーションであると、かつて学習したのだけど、どうもそうではナイらしく、「大般若経」には『般若心経』に該当する部分は無いらしい。(らしいというのは私の怠慢で「大般若経」を読んでナイもんですから)。つまり、偽経の類に入るらしく、いわば創作教典になるワケですが、そうなると作者の思想にこれまた驚嘆するところ。
研究者において「観自在菩薩」は、読者自身(在家)のことであるとしているひともいるんですが、これもオモシロイ。釈迦入滅時に阿南に遺したコトバ「自燈明」と連鎖していきますから。

2020年1月 6日 (月)

港町memory 73

親鸞の教え、「念仏一声、往生極楽」は(親鸞本人の)予想をはるかに上回って下層階級(ここでは公家や武家以外の農民、百姓)に浸透したばかりか、これが、一種の階級闘争となっていくという観方が、マルクス主義歴史論者の理屈でありましょう。
たしかに、/死んだら往生/は、ある種の/怖いもんナシ/の心情となったことにマチガイはアリマセン。つまり、いうところの「一向一揆」は、一度ならず何度も起こっていて、応仁の乱を挟んでもかなりの盛り上がりをみせております。浄土真宗は蓮如の頃は通称一向宗と称され、向かうところが一つなら、武士も坊主も百姓もおんなじやナイケ、と相成ります。しかし、歴史とは皮肉なもので、このあたりから下克上というアレ、社会科で習いましたなあ、アレが、戦国時代を形勢し、戦国大名の台頭も始まるワケでござんして、呉越同舟が如き寄り合い所帯のニワカ連合は、それぞれのおもうところがケッキョクはバラバラだったためにまとまりがつかなくなってきます。坊主は武家を武家は坊主を互いに利用せんとしていたのですが、さらにここに商人という銭儲けの衆がからんで参りますに、次第に烏合の衆と様変わりして参ります。そうなりますと、明日の敵は今日の友、階級闘争は権力闘争へと変貌を余儀なくされます。
この混迷と錯乱を最も敏に畏れ、天下統一の障壁となると見抜いたのが織田信長だったようです。(ようです、と曖昧にいいますのは、他にもそりゃあ、いたでしょうけど、防御制圧したのが信長だからです)。信長は延暦寺に火を放ちます。僧兵なんてのがいましたからねえ。延暦寺から敵視されて蹴っ飛ばされていた本願寺派の蓮如などは、ここぞ幸いとばかりに布教活動に専念して、みごと浄土真宗中興の祖となるんですな。
階級闘争も権力闘争の前には力不足の感、否めず、信長も歴史の運命には逆らえず(本能寺の変)要するに、なんでんな、今日の浄土真宗が顕在するのは血で血を洗う争闘の結果ともいえるワケです。(それが悪いというワケではなく、宗教というものは必ずそういった一面を持つということです。蓮如上人は彼なりに、戦には反対していましたから)。
私の無知なる意見を付け加えさせて頂くと、一向一揆を含むいわゆる戦国時代の戦争は、ふつうかんがえられているクラウゼヴィッツの「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」(『戦争論』)の兵力戦というよりも、「総力戦」(軍事以外もあらゆる分野を総動員して行う戦争)であり、勝利者が国家であるとは限らない(坊主の宗派の檀家拡大とかネ)、に、近いのではないかと、そんな雰囲気ですナ。
一向一揆のresearchを終わります。

2020年1月 5日 (日)

港町memory 72

冥途の旅はあったほうがイイとおもっております。極楽浄土なんてのはキリスト教のパライソ(ポルトガル語のParaíso、 パラダイスparadise、天国・楽園を意味するキリシタン用語)と同じですから、あるのかないのかどうでもヨロシイ(教派によっては、行けない御仁もあるようでして)、そこへいくと浄土系は阿弥陀如来の浄土へと行くワケですが、これはもう南無阿弥陀仏の一発(一声)で誰でも行けるというふうに親鸞上人が法然浄土仏教をさらに解体してしまったワケです。仏教の始祖釈迦牟尼は、そういうものは「霊魂不説」と退けられております。私のように名古屋駅前で、名も知らぬ教派の少女から一応、洗礼のようなものを授けられ、その後、釈迦の思想に共感、共鳴しているものにしてみれば、ニーチェのいうように、キリスト教徒はイエス・キリストただ独りのというのが納得がいきます。要するに『自燈明』。キリスト教もアトは要するにアトからの物語で、聖書(Bible)もまた、初代法王(十二人の弟子の中のペテロ)が適宜つぎはぎしたものですので、矛盾だらけなのはアタリマエ。(だからダメだといっているのではアリマセン。いいコトバもたくさんあります)。
浄土系は修行がありませんから、菩薩という存在を認めないので(どうも地蔵菩薩は別扱いらしいんですが)『般若心経』も読経しません。私はこのブログで何度も書いておりますように、仏教経典は『般若心経』と『妙法蓮華経』『維摩経』の三つが在ればそれてヨロシイとかんがえている衆生でござんすから、母親の祭壇の前では、朝、夕『般若心経』の前半あたりまでをあげておりました。(後半部分は宣伝文句ですから必要ありません)最後にギャーテエーうんちゃらなんていってそんで終り。
『法華経』は仏典の中でも革命(社会改革)の思想書ですから、北一輝や石原莞爾、さらには宮澤賢治などが傾倒したのはアタリマエです。
ところで、一向一揆は浄土系の革命闘争なんですが、何故、浄土系にそんなことが起こったのか、これは今年、調べてみます。
それはともかく冥途の旅はあったほうがイイ。四十九日の歩き旅なんてのは、なかなか現世では出来ません。ガイドブックすらございません。これこそが死んでからの(現世を離れてからの)唯一の愉しみでござんしょう。もちろんお釈迦様はそんな旅なんざ、露ほども口にはされておりませんが。
親鸞上人にしてみましても、かの「面々のお計らい」というコトバはだいぶんに誤解されて伝わってしまっているようで、私の解釈ではこれは釈迦がアーナンダに遺したコトバ、いわゆる遺言(いごん)の『自燈明』に該るとかんがえているのですが、どうも「かってにしろ」とおもわれているようです。かってにすればイイんですけど。
蛇足ですが、『教誨師』(きょうかいし・2018年制作、日本映画。死刑囚と対話する教誨師を主人公にしたドラマ映画。大杉漣の最後の主演映画で、大杉はエグゼクティブ・プロデューサーも務めている)をDVDで観ました。いうなれば、ルイス・ブニュエルの『ナサリン』の日本版です。海外映画(洋画)ですと、こういうものもスンナリとくるんですが、どうも、お国柄、じゅうぶんに感涙するんですが、「ツクリ」が目につきます。コトバを変えていうと、ハナからハナシがワカッテしまう。いや、それでも、じゅうぶんにハートフルではありますよ。

2019年12月10日 (火)

港町memory 66

「死と生の境界線をどうするか」、という問題は難しそうでいてさほど難しくナイのではないか、これが、このところのideaです。
「死と生の定義」をこうかんがえればどうだろう。この二つは分けてかんがえてはいけない。何故なら〈同じもの〉だから。これは、大乗仏教の経典(宗派によっては経典と認めず、教説とするものもある)『維摩経』の不二法門(ふにほうもん)のかんがえかたです。不二法門とは、「空論」とならんで『維摩経』の中心を成す教義ですが、具体的にいえば、/互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではなく、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはほんらい二つに分かれたものではなく、一つのものである/というかんがえかたですが、個人的には、仏教経典はこの『維摩経』と『法華経』『般若心経』を読んでいればそれで充分という気がします。
そのかんがえかたでいうと、「死という任務」は「生の最期の任務」ですから「死」は「生」の中に在り、「生」は「死」の中に在ります。境界というものは存在しないのです。それはあたかも、線分で描かれた円周の内と外と同じです。円には内も外もありません。線分には面積がナイのですから、内と外を分けることは出来ません。πの値はあくまで便宜上のもので、いつまでたっても答えが出ないのは当然のことです。

私の考えでは、人間が火葬で熱エネルギーとして放散、質量転化(熱力学の第二法則・エントロピーの法則)されるにせよ、土に帰るにせよ、そこで、人間の〈ニュートン力学的存在〉は終焉します。
この宇宙には(とはいっても、96%は未解明らしいんですが)力(エネルギー)は四つしかありません。宇宙の四つの力とは、重力、電磁気力、弱い核力、強い核力です。これはもともとは一つであったものが、ビッグバンの後四つに分かれたとの見解がおおよその物理学者の統一見解です。(核力というのは、素粒子がくっついたり離れたりする力だとだけimageしていればイイです)。重力はたしかにあるのですが、検出されたことはありませんでした。しかし、最近やっと実験施設でその存在が確かめられました。電磁気力は、最も親しみやすく、このPCを動かしているのも電気ですし、ネットは電波です。
磁気は磁石で子供のときから知っているアレですナ。プラス(+)とマイナス(-)があります。電気も同じです。これを電荷と称しています。
と、ここまでを知っておいてもらった上で、どうもテキ屋のオオジメのようで申し訳ナイのですが、長くなるので、本論は次回にします。

2019年11月28日 (木)

港町memory 63

思いつくままになりますが、あちこちへと思考を飛ばしながら、ヤっていきます。
地獄というものはナイ、ということは前述しました。これはクリスチャンでもある社会学者で思想家の橋爪大三郎さんのコトバですが、それについては、詳細を語ってらっしゃらないので、私は私なりにイエスと「罪(原罪)」の消滅について記しました。
ちょいとかんがえてみればワカルことだとはおもうんですが、もし地獄というものがあるとして、それは誰が何のためにつくったのでしょう。この世の悪人を罰するため、と、簡単にいえばそういうことですが、これはどうかんがえても(ちょいとどころではなく、どうかんがえても、です)オカシイのです。地獄というものを神仏の創作物、造物だとすると、ニンゲンはわずか百年程度の人生における罪業で、永遠の苦しみを受諾しなくてはならないことになります。日本には終身刑はありません。死刑に次ぐものとしては無期懲役くらいです。しかし、地獄の刑罰は永遠です。
そのようなものの必要性がいったい何処に在るのでしょう。
連続殺人で、五人殺した悪人とやらがいるなら、あの世とかで五回殺されればそれで帳尻はあうはずです。戦争で一度に千人殺したなら、その千人の中の一人として一度殺されれば算盤は合います。だいたい、戦争での殺人は殺人とはいえません。戦争そのものが「悪」だからです。ならば、戦争それ自体を地獄とやらに送ることのほうが重要です。(それは無理。なるほど、神仏の力の限界ですナ)
「死刑」ついても、前回の「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」が大きく関係してきます。「一人称の死」の場合はたいてい化けて出て、自分を殺したものを殺します。「二人称の死」の場合は、かなり複雑ですが、自らが「自分は死刑になっても仕方ない」と認知するのと、冤罪とではだいぶんにチガイマス。「三人称の死」の場合、これが最も多いのですが、これは「社会的な死」ですから、社会が加害者に「死刑っ」と命じれば加害者が「ヤダっ」といっても「死刑」になります。社会的に死刑が廃止になれば、死刑は廃止になるのは当然のことですが、そうなると「私刑(lynch)」が増えるかも知れません。この「三人称の死」と死刑についても、私なりに前述しました。
では逆に天国とか極楽はどうでしょう。これは創造者、造物主は明確に神仏です。
仏道では六道輪廻という教義のある宗派が多数あって、六つの輪廻転生(死後の世界)があります。ここでキリスト教のいう「天国」に近いものは「天界」です。天界では、最低でも九百万年の命があります。しかしその命が終わると、地獄でも最悪の最低層の「無間地獄」の苦しみの六倍の苦しみが待っているとされています。
そういうものがいったい何のために必要なのか、記されているテキストは存在しません。
「天国」は永遠の生を授けられるところです。他にどんないいことがあるのか、教派によってチガイマスから、一慨にはいえません。ダンテの『神曲』にしたって、地獄と煉獄は書き込まれているのですが、天国になると、あっさりしたものです。作曲家のリストも、『神曲』の構想をもとに『ダンテ交響曲』を作曲しようとはしたのですが、天国を描写するのは不可能ではないかとワーグナーに意見され、けっきょく、煉獄を描いた第2楽章の終結部で天国を象徴する「讃歌」を置くに留めていますから、天国はそうとうimageしにくいのではナイかというのが私の感想です。地獄も、たいていの教派、宗派で似たようなものですが、私も『日和見主義』以外の観点から、地獄というものは存在しない、とかんがえているのですが、ただし「この世以外の」という文言が付きます。「この世」以上のどんな地獄があるというのでしょうか。とてもimage出来ません。切り刻まれたり焼かれたり、血の池で溺れたり、針の山やら氷の世界、その程度の(いや、もっとひどい)地獄は「この世」のいたるところに在ります。
さて、では、そういうものをかんがえに入れないで、死後(というか、正確には生が終わった後)のことを次回は妄想することにします。

2018年11月11日 (日)

塾長lecture ⑩

羯帝 羯帝 波羅羯帝 波羅僧羯帝

菩提僧莎訶

般若心経

これは閉幕のコトバとでもいうべきで「真理に行けるものよ 汝に幸あれ」というふうな意味になります。

では、わたしたちもしめくくりましょう。『般若心経』の教えとは「色と空を〈分けてはイケナイ〉〈分けられるものではナイ〉」でした。依って「色不異空 空不異色 色即是空 即是色異」なのです。

わたしたちは、わたしたちの肉身を輪郭として、その内と外を分けてしまっているが、それは誤謬、錯誤、錯覚なのです。

わたしたちと世界/宇宙は、「色」と「空」のように「分けられるものではナイ」それはちょうど演劇において舞台と役者が分けられるものではナイということと同じです。

ひとつ具体例を示すと、半径1の円の面積(Π/パイ)の面積が求められないのは、円を線で閉じて内と外を分けてしまっているからです。線には面積が無いのですから、内と外は ほんとうは分けられないのだから、この営為は膨張していく宇宙の全面積を求めていることになります。それは不可能です。  

このかんがえを拡張していけば、わたしたちの生と死も分けられるものではナイ。という未踏の理に辿り着きます。生や死がナンであれ、ただ分けられるものではナイとしかいいようがナイのは、わたくしが修行未熟な衆生だからですが。

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』は、わたしたちの存在をこう述べていることになります。

/わたしたちは、世界、宇宙と、わたしたちに「分けられるものではナイ」。わたしたちこそ「色」で在り「空」だからです。従って〈空〉とは何かと問われたら「わたしのことだ」と応えればイイ/ということになります。

 

付記

『人間交差点』(小学館)「ひびわれた土」にみる般若心経

名作マンガ『人間交差点』(作・矢島正雄、画・弘兼憲史)の一作に「ひびわれた土」があって、陶土と焼き物を愛しすぎてパートナーの女性を殺めるに至る青年に、僧侶がこう説く場面がある。印象深く、的を射ているので、そのコトバを記しておく。

「人間なんて、そんな強いものじゃない。・・・とかく人を愛すと無垢なものを求め過ぎる。垢れのない心を求める。しかしそれも愛する者の欲だ。

君は自分の運命を意識し過ぎたのだ。自分は土と共にあると思い込んでいた・・・しかし、人に運命があるとしたら、独りで生まれ独りで死んでゆく・・・それだけじゃないのかね。生命が迷いに始まり生病老死に終わる以上、生死輪廻。所詮、人は独りであり空なのだ」

ここにいわんとされているのは、キリスト教とは違って仏教は「愛」もまた「苦しみ」だと説いていることだ。この僧侶(和尚)は知っている。悟りなどナイということを、悟ったものなど存在しないということを。と、そういうことが〈悟り〉ではナイのかね、と、訓戒しているのだ。

 

 

後期  

およそ『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』における〈空〉はその文字から「空間」と誤解されるのだが、これは「時空」と解しても大きな逸脱ではナイ。むしろ〈空〉とは〈時間〉に近い概念といえる。仏教の三宝印のうちの二つは「諸行無常」「諸法無我」だからだ。前者は現象を後者は自己存在の空間性を時間的に扱うからだが、とはいえ、この「時間」というモノを〈非在〉としなければ〈空〉はその意味を失うことになる。何故ならば〈空〉に於ては「時間」はその尺度から在って無いものだからだ。従って「時間」も便宜上の存在と捉えなければならない。(私たちは量子力学さへも、ニュートン力学の範疇でしか思考することが出来ない。少なくとも古典量子力学はそうだった)

「菩薩」や〈空〉については仏教の「小乗 上座」に於も大乗に於も数多の宗派に於も、その存在を認めたり否定したりしているが、その選択を教典、法に依拠するか否かについては たいていが「法・教典」を学ぶことを重視とする、になっている。釈迦仏陀は阿弥陀如来の弟子だとする浄土系仏教や、阿弥陀如来や大日如来など認めない法華宗系、禅宗などそれぞれに「法・教典」は存在する。 

わたくしは釈迦入滅の「遺言/いごん」であるところの『自燈明 法燈明』を重んじて「自らを照らす明かり」を「諸法の明かり、法・教典」より優位としていることに注視し、よって『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』の解説もその姿勢で記述した。

 

2018年11月10日 (土)

塾長lecture ⑨

ここで数式をおもいだしながら〈空〉を定義してみます。

〇〈等式の両辺に同じものを加えたり、両辺から同じものを引いたりすることが許されるのはそのような操作をした結果、両辺がともに「意味」を持つときのみである〉

そこで、「在る」というコトバを「成る」に置き換える操作をしてみます。すると「空とは 色/五蘊 が 色/五蘊に〈成る〉ことである」になります。

主語を換えてみます。

「色/五蘊 は 空において 色/五蘊に〈成る〉ことである」というふうに記述出来ます。

〇〈等号は換言すれば「右辺と左辺が思想的に同じ表現である」という重要な定義でもある〉

この定義に従って「色即是空 空即是色」をわたくしなりに訳してみると

「色は空の表現で在り/表現として成り/、空は色の表現で在る/表現として成る/」になります。 

これは色と空を「分けてはいけない」という最初のルールから逸脱することなく成立します。

 

無無明 亦無無明尽/むむみょう やくむむみょうじん/ 

乃至無老死 亦無老死尽/ないしむろうし やくむろうしじん/

ここは要するに十二因縁による苦しみを謳いあげて、それらを空が救うということが略式に述べられているだけです。

このあたりになると現在の苦しみの原因が前世にあるなど、もはや釈迦の思想の領域を逸脱して釈迦入滅以降の勝手なコジツケ仏教に堕しています。 

こういうものは無視してイイとわたくしはかんがえます。

 

無苦集滅道/むくしゅうめつどう/

これは「四諦」について、それを過去世の因縁のせいにしているだけのバカバカシイ部分ですので、よって無視します。(過去世という〈時〉が設定(規定)不能)

以下、

無智亦無得 以無所得故 菩提 依般若波羅蜜多故 心無 礙 無 礙故 無有恐怖

遠離一切 倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚

故説般若波羅蜜多呪 即説呪日

これらは訳すほどの価値はまったくナニもアリマセン。何故なら、『般若心経』の宣伝文句の羅列に過ぎないからです。すべて〈般若の智恵〉によって〈空〉は理解出来、そうしてそれが理解出来たら〈般若の智恵〉さえも〈空〉となって仏法の教えを学ぶこともなくなる、で締めくくられています。

最近流行の、テレビ、ラジオの通信販売のご託のようなものです。

2018年11月 9日 (金)

塾長lecture ⑧

是故空中 無色無受想行識/ぜこくうちゅう むしき むじゅそうぎょうしき/

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法/むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう/無眼界 乃至無意識界/むげんかい ないしむいしきかい/ 

さてここから、関をきったようにこんどは〈無〉のon paradeが始まります。「色、つまり事象、現象、さらに精神世界や感覚の世界も〈無い〉ということになる。なぜならそれらはすべて〈空〉だからだ」という展開なのですが、贔屓目に読んでもこの論理展開、理路はかなり苦しいものでしかアリマセン。なぜなら「あらゆるものは無い」以上のことはなにも述べていないからです。ですから「般若の智恵」における〈空〉とはそういうもの(「あらゆるものは無い」)ということになります。 

そうすると〈空〉を理解するために、わたしたちは〈般若の智恵〉というものを手に入れなければならなくなります。けれども、それは菩薩としての修行が必要という展開になります。つまり/そう簡単にワカルものではナイ 理解するには修行が必要だ/の類になります。

もういちど述べれば「空だからあらゆるものは無い」としかここでは語られてはいません。よって論理の展開を述べると、無いものに「執着/しゅうじゃく」しているから煩悩の虜となるので、その執着を棄てる修行をして煩悩から逃れなさい。それが〈空〉を識るということだという展開になります。

そうすると、その展開に与しないわたしたちは、コトバを変えれば、わたしたちの存在をかけて「あらゆるものは無い なぜならあらゆるものは〈空〉であり〈空〉とはあらゆるものは無いということだ」という同一性、自同律に対して「在るものは在る」という同等の反証を投げかけねばなりません。そうして「在るものが在っても」空という概念は成立するという理路を導き出さねばなりません。

なぜなら〈空〉とはけして〈無〉ではナイからです。「空は〈存在〉スル」ゆえに〈空〉だといいたいのです。

ここでの『般若心経』の最大の誤謬は「在る」と「無い」を「分けて」しまっている」ことだとおもわれます。分けられないものを分けるからマチガッテしまう。ほんらいヤってはイケナイことをヤってはイケナイと述べた自体が誤ってそれをヤってしまっているのです。

ほんらいならここは「〈空〉だから 在るものが無い 無いものが在る」といいきるべきなのです。 

たとえば「永遠というものには終わりが無い」「無限というものは限りが無い」のですが、「永遠」は〈在る〉し「無限」も〈在る〉。かつ、さまざまな「永遠」や「無限」が在る。そうするとこれは「永遠だから終わりの無いものが在る」「無限だから限り無いものが在る」というふうに記述出来ます。だから是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界も、そのごとく読んで理解したほうが正しいとおもわれます。くだいて読めば /事象、現象は空ゆえに無いかのようにみえても存在し、それらが一時的にみえるのは、〈生成/現出〉と消滅を繰り返しからであって、それらはさまざまに限りが無く在り、感覚の世界も精神世界もじっさいに手の上に乗るようなものではナイので無いかのようにおもえても無いワケではナイ。それらは空においては〈生成/現出〉と消滅を繰り返し、終わりが無いかのように在る/になります。

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