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カテゴリー「仏教・宗教」の記事

2018年11月11日 (日)

塾長lecture ⑩

羯帝 羯帝 波羅羯帝 波羅僧羯帝

菩提僧莎訶

般若心経

これは閉幕のコトバとでもいうべきで「真理に行けるものよ 汝に幸あれ」というふうな意味になります。

では、わたしたちもしめくくりましょう。『般若心経』の教えとは「色と空を〈分けてはイケナイ〉〈分けられるものではナイ〉」でした。依って「色不異空 空不異色 色即是空 即是色異」なのです。

わたしたちは、わたしたちの肉身を輪郭として、その内と外を分けてしまっているが、それは誤謬、錯誤、錯覚なのです。

わたしたちと世界/宇宙は、「色」と「空」のように「分けられるものではナイ」それはちょうど演劇において舞台と役者が分けられるものではナイということと同じです。

ひとつ具体例を示すと、半径1の円の面積(Π/パイ)の面積が求められないのは、円を線で閉じて内と外を分けてしまっているからです。線には面積が無いのですから、内と外は ほんとうは分けられないのだから、この営為は膨張していく宇宙の全面積を求めていることになります。それは不可能です。  

このかんがえを拡張していけば、わたしたちの生と死も分けられるものではナイ。という未踏の理に辿り着きます。生や死がナンであれ、ただ分けられるものではナイとしかいいようがナイのは、わたくしが修行未熟な衆生だからですが。

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』は、わたしたちの存在をこう述べていることになります。

/わたしたちは、世界、宇宙と、わたしたちに「分けられるものではナイ」。わたしたちこそ「色」で在り「空」だからです。従って〈空〉とは何かと問われたら「わたしのことだ」と応えればイイ/ということになります。

 

付記

『人間交差点』(小学館)「ひびわれた土」にみる般若心経

名作マンガ『人間交差点』(作・矢島正雄、画・弘兼憲史)の一作に「ひびわれた土」があって、陶土と焼き物を愛しすぎてパートナーの女性を殺めるに至る青年に、僧侶がこう説く場面がある。印象深く、的を射ているので、そのコトバを記しておく。

「人間なんて、そんな強いものじゃない。・・・とかく人を愛すと無垢なものを求め過ぎる。垢れのない心を求める。しかしそれも愛する者の欲だ。

君は自分の運命を意識し過ぎたのだ。自分は土と共にあると思い込んでいた・・・しかし、人に運命があるとしたら、独りで生まれ独りで死んでゆく・・・それだけじゃないのかね。生命が迷いに始まり生病老死に終わる以上、生死輪廻。所詮、人は独りであり空なのだ」

ここにいわんとされているのは、キリスト教とは違って仏教は「愛」もまた「苦しみ」だと説いていることだ。この僧侶(和尚)は知っている。悟りなどナイということを、悟ったものなど存在しないということを。と、そういうことが〈悟り〉ではナイのかね、と、訓戒しているのだ。

 

 

後期  

およそ『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』における〈空〉はその文字から「空間」と誤解されるのだが、これは「時空」と解しても大きな逸脱ではナイ。むしろ〈空〉とは〈時間〉に近い概念といえる。仏教の三宝印のうちの二つは「諸行無常」「諸法無我」だからだ。前者は現象を後者は自己存在の空間性を時間的に扱うからだが、とはいえ、この「時間」というモノを〈非在〉としなければ〈空〉はその意味を失うことになる。何故ならば〈空〉に於ては「時間」はその尺度から在って無いものだからだ。従って「時間」も便宜上の存在と捉えなければならない。(私たちは量子力学さへも、ニュートン力学の範疇でしか思考することが出来ない。少なくとも古典量子力学はそうだった)

「菩薩」や〈空〉については仏教の「小乗 上座」に於も大乗に於も数多の宗派に於も、その存在を認めたり否定したりしているが、その選択を教典、法に依拠するか否かについては たいていが「法・教典」を学ぶことを重視とする、になっている。釈迦仏陀は阿弥陀如来の弟子だとする浄土系仏教や、阿弥陀如来や大日如来など認めない法華宗系、禅宗などそれぞれに「法・教典」は存在する。 

わたくしは釈迦入滅の「遺言/いごん」であるところの『自燈明 法燈明』を重んじて「自らを照らす明かり」を「諸法の明かり、法・教典」より優位としていることに注視し、よって『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』の解説もその姿勢で記述した。

 

2018年11月10日 (土)

塾長lecture ⑨

ここで数式をおもいだしながら〈空〉を定義してみます。

〇〈等式の両辺に同じものを加えたり、両辺から同じものを引いたりすることが許されるのはそのような操作をした結果、両辺がともに「意味」を持つときのみである〉

そこで、「在る」というコトバを「成る」に置き換える操作をしてみます。すると「空とは 色/五蘊 が 色/五蘊に〈成る〉ことである」になります。

主語を換えてみます。

「色/五蘊 は 空において 色/五蘊に〈成る〉ことである」というふうに記述出来ます。

〇〈等号は換言すれば「右辺と左辺が思想的に同じ表現である」という重要な定義でもある〉

この定義に従って「色即是空 空即是色」をわたくしなりに訳してみると

「色は空の表現で在り/表現として成り/、空は色の表現で在る/表現として成る/」になります。 

これは色と空を「分けてはいけない」という最初のルールから逸脱することなく成立します。

 

無無明 亦無無明尽/むむみょう やくむむみょうじん/ 

乃至無老死 亦無老死尽/ないしむろうし やくむろうしじん/

ここは要するに十二因縁による苦しみを謳いあげて、それらを空が救うということが略式に述べられているだけです。

このあたりになると現在の苦しみの原因が前世にあるなど、もはや釈迦の思想の領域を逸脱して釈迦入滅以降の勝手なコジツケ仏教に堕しています。 

こういうものは無視してイイとわたくしはかんがえます。

 

無苦集滅道/むくしゅうめつどう/

これは「四諦」について、それを過去世の因縁のせいにしているだけのバカバカシイ部分ですので、よって無視します。(過去世という〈時〉が設定(規定)不能)

以下、

無智亦無得 以無所得故 菩提 依般若波羅蜜多故 心無 礙 無 礙故 無有恐怖

遠離一切 倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚

故説般若波羅蜜多呪 即説呪日

これらは訳すほどの価値はまったくナニもアリマセン。何故なら、『般若心経』の宣伝文句の羅列に過ぎないからです。すべて〈般若の智恵〉によって〈空〉は理解出来、そうしてそれが理解出来たら〈般若の智恵〉さえも〈空〉となって仏法の教えを学ぶこともなくなる、で締めくくられています。

最近流行の、テレビ、ラジオの通信販売のご託のようなものです。

2018年11月 9日 (金)

塾長lecture ⑧

是故空中 無色無受想行識/ぜこくうちゅう むしき むじゅそうぎょうしき/

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法/むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう/無眼界 乃至無意識界/むげんかい ないしむいしきかい/ 

さてここから、関をきったようにこんどは〈無〉のon paradeが始まります。「色、つまり事象、現象、さらに精神世界や感覚の世界も〈無い〉ということになる。なぜならそれらはすべて〈空〉だからだ」という展開なのですが、贔屓目に読んでもこの論理展開、理路はかなり苦しいものでしかアリマセン。なぜなら「あらゆるものは無い」以上のことはなにも述べていないからです。ですから「般若の智恵」における〈空〉とはそういうもの(「あらゆるものは無い」)ということになります。 

そうすると〈空〉を理解するために、わたしたちは〈般若の智恵〉というものを手に入れなければならなくなります。けれども、それは菩薩としての修行が必要という展開になります。つまり/そう簡単にワカルものではナイ 理解するには修行が必要だ/の類になります。

もういちど述べれば「空だからあらゆるものは無い」としかここでは語られてはいません。よって論理の展開を述べると、無いものに「執着/しゅうじゃく」しているから煩悩の虜となるので、その執着を棄てる修行をして煩悩から逃れなさい。それが〈空〉を識るということだという展開になります。

そうすると、その展開に与しないわたしたちは、コトバを変えれば、わたしたちの存在をかけて「あらゆるものは無い なぜならあらゆるものは〈空〉であり〈空〉とはあらゆるものは無いということだ」という同一性、自同律に対して「在るものは在る」という同等の反証を投げかけねばなりません。そうして「在るものが在っても」空という概念は成立するという理路を導き出さねばなりません。

なぜなら〈空〉とはけして〈無〉ではナイからです。「空は〈存在〉スル」ゆえに〈空〉だといいたいのです。

ここでの『般若心経』の最大の誤謬は「在る」と「無い」を「分けて」しまっている」ことだとおもわれます。分けられないものを分けるからマチガッテしまう。ほんらいヤってはイケナイことをヤってはイケナイと述べた自体が誤ってそれをヤってしまっているのです。

ほんらいならここは「〈空〉だから 在るものが無い 無いものが在る」といいきるべきなのです。 

たとえば「永遠というものには終わりが無い」「無限というものは限りが無い」のですが、「永遠」は〈在る〉し「無限」も〈在る〉。かつ、さまざまな「永遠」や「無限」が在る。そうするとこれは「永遠だから終わりの無いものが在る」「無限だから限り無いものが在る」というふうに記述出来ます。だから是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界も、そのごとく読んで理解したほうが正しいとおもわれます。くだいて読めば /事象、現象は空ゆえに無いかのようにみえても存在し、それらが一時的にみえるのは、〈生成/現出〉と消滅を繰り返しからであって、それらはさまざまに限りが無く在り、感覚の世界も精神世界もじっさいに手の上に乗るようなものではナイので無いかのようにおもえても無いワケではナイ。それらは空においては〈生成/現出〉と消滅を繰り返し、終わりが無いかのように在る/になります。

2018年11月 8日 (木)

塾長lecture ⑦

舎利子 是諸法空相/しゃりし ぜしょくほうくうそう/  

不生不滅 不垢不浄 不増不減/ふしょうふめつ ふくふじょうふぞうふげん/

〔シャーリープトラよ 五蘊は一時的にカタチあるものではあるが ほんらいは 空である 生まれもせず 穢れもなく 清らかなものでもなく 増えも減りもしない〕

ほぼ直訳すればこのようになります。五蘊は「生まれもせず 穢れもなく 清らかなものでもなく 増えも減りもしない」ものですが、いっときはカタチ(相)ではあるのです(増えも減りもしないということは物理量だということだ)。何故ならそれらはほんらいは〈空〉だからということなのですが、マスマス〈空〉に困ってしまいます。わたしたちには、そもそもその〈空〉というものがナンなのかが未だにのみこめない状態(状況下)にあります。 

何故、五蘊が「一時的にカタチあるもの」なのか、その理由も示されていません。ここは仏教にくわしいものにとっては、あらゆるものはいっときのものだ/「諸行無常」/と合点はいくのでしょうが、しかし、いずれにせよこの場合の〈カタチ〉とはあきらかに〈物理量〉をいっていることは確かです。(カタチである以上は物理量をともなっているのは物理学的にアタリマエのことです。たとえば、私のカラダはカタチですが、物理量を持っています。物理量とは重さや長さなどのことです。そうして、わたくしも五蘊の範疇に在るものです)。 

部族の王子として生まれ、歌舞音曲、遊学に親しみ、録を食み嫁をもらって子供もつくったもの(お釈迦様ですが)に「この世はすべて、ゆめまぼろしで〈空〉である」てなことをいわれたところで「ふざけんじゃねえぞっ」というほかアリマセン。この世界がゆめまぼろしなら、わたくしたちは、もちっとマシなゆめまぼろしをみたいものです。たとえそれが〈空〉だとしてもです。

そこで、わたくしは五蘊や空は〈ゆめまぼろし〉だという論理、摂理にはとうてい「与従 くみしたがえ」ない場に立つことにいたします。    

/この世界はゆめまぼろしではナイ。確かに〈存在〉スルのだ/

/ゆめまぼろしのようにおもえることがあるのは、現実と虚構が関数として存在しているからだ/

これが、わたくしの立っている場です。

『般若心経』はたしかに智恵の書ですが、〈空〉を論理、理路の破綻の逃げ道、逃走経路として用いることはしてはならなりません。世の中にはそういう類の〈空〉論が多すぎます。 

もし、すべてがゆめまぼろしであるならば、前述したように『般若心経』は大きな〈矛盾〉を持つことになります。なぜなら、『般若心経』自体もまた、ゆめまぼろしと化すからです。

それを結語としているこの教典/教説には、衆生のひとりとして、菩薩にケンカを売るつもりで「否/non」を突き付けねばなりません。

五蘊や空の〈存在のしかた〉をこそ問題としなければ、五蘊や空であるわたしたちがナンであるのかはワカラナイままで終わってしまいます。

2018年11月 7日 (水)

塾長lecture ⑥

受想行識 亦復如是/じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ/

受、想、行、識は精神活動/心的現象/とかんがえればイイのですが、この四つの精神活動も同じく実体の無いものだということになります。同じくとは〈空〉なのだということです。しかし、ここでも肝腎の〈空〉の概念が未だに不鮮明です。

達磨太子の有名な逸話に、知ったかぶりの禅師が「カラダなんて実体じゃナイんですよね」と達磨にむかって述べた瞬間、その鼻っ柱を拳固で殴ったとあります。そうして「実体ではナイものが殴られて何故それほど痛がるのか」と高笑いしたそうです。 

達磨の教示したかったことはおそらくこうです。「カラダはおもいどおりになるような、あんたが思っているような実体ではナイ」あるいは「諸行無常」「諸法無我」に遵守して「痛いも実体ならば、痛くなくなったのも実体、よって常なる実体というものはナイ」かも知れません。

そもそも「実体がナイ」という規定を充てはめれば、このコトバは「述語」ですから「主語」が必要になります。では〈空〉が主語に該当するのでしょうか。するとその文言は〈自同律〉に転じてしまうことになります。「空は実体が無い。何故、空に実体が無いのかというと、実体が無いから空なのだ」は〈自同律〉〈同一性〉「同義反復」です。(同じ意味だが、哲学と科学では用語がチガウ)「あなたは莫迦なのです。何故あなたが莫迦なのかというと、莫迦というのはあなたのことだからです」と同じ意味合いになります。

では副詞でしょうか。「実体のナイ〇〇〇」でしょうか。「実体の無い空。もし空に実体があれば空では無い。何故なら空には実体が無いからだ」それでも、「同義反復」は免れません。「では何故、空に実体が無いのかというと、空だからだ」です。

ここで判明することは、何れにせよ〈空〉をそのように(実体がナイ、物理量ではナイ)と解すれば〈空〉それ自体が無くなってしまうということだけです。そうなると「色/五蘊」も無いものだ、になってしまいます。すると『般若心経』は無いものを記述した教典/教説、ということになります。そうすると当然の帰結として/教典・教説自体の存在(理由)は無くなることになります/たしかにそのような結語をもって『般若心経』は終わるのですが、それはちょっとバカバカしいことです。修業が足りず悟りに至っていないわたくしのような衆生の偽らざる心情です。

それを察してか、仏陀からシャーリープトラに対する説法のトーンが少々変わってきます。

2018年11月 6日 (火)

塾長lecture ⑤

等式のルールより抜粋

〇〈等号は左辺の記号を右辺で定義するために使うことが出来る〉

このルールからみれば「色」は「空」を〈定義〉していることになります。また「空」は「色」を〈定義〉していることになります。

〇〈等式の両辺に同じものを加えたり、両辺から同じものを引いたりすることが許されるのは、そのような操作をした結果の両辺がともに「意味」を持つときのみである〉

逆にかんがえればよくワカリマス。操作の結果、その意味が左辺と右辺とでチガッテしまう場合は、そのような操作は出来ないということです。

〇〈物理単位の異なる量は等号でつなぐことは出来ない〉

これは「色/五蘊」が物理量ならば(というか、あきらかに物理量なのだが)「空」も物理量でなければならないということを示しています。これは単純にみえて、驚愕すべき部分です。「空」は〈物理量〉なのですから。 

これによって、〈空〉を解して空っぽとか空しいとか何も無いとか、ゆめまぼろし幻想に過ぎないなどと述べるインテリや、坊主たちの〈空論〉は、おしなべて「虚偽」であるという証左となり得ます。

〔「空」も物理量として〈存在〉する「存在」である〕

この命題は重要です。

けれども、一休禅師をはじめとして、〈空〉とはなにかの説明になるとどうしてもそのような〈コジツケ〉の感を免れません。

一休禅師は「即」を「そのまま」と訳しています。それはそれでかまわないのですが、その後の解釈がアヤシイのです。 

たいていの〈空〉の解釈は/「色」を在るものとおもいこんでいるが、すべては夢、幻の如しで、それが〈空〉なのだ/という結論を導いています。

すると五蘊は在るものではなく実体の無いものなのだ、ということになります。

では、なぜそれを〈無〉といわずに〈空〉と論じ、自身の肉身もまた実体が無いなどと、三流詩人の「気分的」に過ぎる絵空事にまで貶めたのでしょうか。それではあまりに〈抽象〉に過ぎます。かくしてその解釈、解説も抽象になる傾向が強くなります。/抽象から具象は求められない/というのは数学の常識です。この経典・教説の弱点もそこにあるのです。卑近にいえば、浮世離れし過ぎているものは世間での実生活には何の役にもたちません。 

どうしたってわたしたちの肉身は在ります。ゆえに釈迦仏陀は、まずその思想の最初に「四諦 したい」/生まれること病むこと老いること死ぬことは、どうしても諦めなくてはいけないことだ/と説いたのです。これは後に「四苦 しく」とされてしまいますが、ほんとうは「四つの諦めるべきこと」(一休禅師によると受け入れること)であって、生まれることは肉身を持つということですから、まず、生まれたこと/肉身をもったこと/それを初めとして /病/老い/死/それらは「諦めねばならぬ」という思想が釈迦の思想の原初、原点なのです。(従って、哲学的には〈如何にして諦めるか〉という問題となる)。

2018年11月 5日 (月)

塾長lecture ④

色即是空 空即是色/しきそくぜくう くうそくぜしき/

色と空はなぜ分けられないのかという解釈、説教が、この繰り返しの文言にあたるのですが、この繰り返しはナニを意味しているのでしょうか。

そのために、ここではまず両者を結んでいる〈即 すなわち〉がなにを意味するのかに注目してみましょう。

〈即〉が、どういう意味(理由、理路)で用いられているのかが正しく理解されねばなりません。

段取りとしてこの文言を普遍的、客観的なものに近づけます。ここではその方法として〈即〉を、普遍性の高い数式に書き改めます。

すると〈色=空〉〈空=色〉となります。〔つまり等号で左辺と右辺を結んだ等式になる〕

しかしこの等号〈=〉は安直に用いると大きなマチガイを招くことになります。その典型的な例がマルクスの『資本論』における貨幣価値を導くための「価値形態」論だと、私はかんがえています。マルクスは価値の形態を「等価価値形態」と「相対的価値形態」に分けて、それを等号で結び、みごとに貨幣とは何かを導きました。名著『資本論』の冒頭「商品と貨幣」です。

たとえば、

20エレのリンネル=一着の上着

この等式がいわんとしているところは「20エレのリンネルは一着の上着に値する」です。つまり、リンネルと上着の価値形態を「等価価値形態」と「相対的価値形態」に分けて、双方の価値は等しいと述べたのです。ところで双方の〈どんな・ナンノ〉「価値」が〈等しい〉のでしょうか。マルクスによると使用価値ではなく〈交換出来る価値〉が等しいことになるのですが、そうして、このあたりから〈貨幣〉というものナニかが見事にあぶり出されていくのですが、この等式は「交換価値」が右辺と左辺とでは同じということを意味しているだけでそれ以上の意味はアリマセン。

けれども〈等号〉は数学においては「右辺と左辺が等しいこと表す」という素朴な概念、それのみを意味しているだけ、あるいは示しているというワケではナイのです。

あまり知られてはいませんが、数学においては数式における等号には〈十五とおりのルール〉が存在します。また等号は「右辺と左辺が思想的に同じ表現である」という重要な定義としても用いられています。つまり数式というものは、哲学と同じ意味合いを持って読むべき〈表現〉だと心得たほうがイイのです。

『経済学批判』や『経済学哲学草稿』で経済に対して思想的かつ〈浪漫・物語〉的に接近し、さらにそれを表現しながら、マルクスは『資本論/商品と貨幣』でそれを捨象してしまった感が強いのです。何故かここにおいてのみ、唯物弁証法は後退しリンネルも上着も、その「表現価値」を消去されたかのようにみえます。まるで悪しき形式論理の操作に陥ったかのような雰囲気が漂います。

 マルクスの最大の発明と思しき「貨幣」という価値の導きは、のちに誤解を生みます(というか、正しく理解されません)。その理由は等号を形式的にだけ(ルールの一つだけ)に操作したという、たったそれだけの油断だったようにおもわれるのです。

2018年11月 4日 (日)

塾長lecture ③

舎利子 色不異空 空不異色/シャリシ しきふいくう くうふいしき/

舎利子は仏陀の弟子の中でもっとも頭脳明晰だった弟子、シャーリープトラのことですが、この「教説/教典」(すべての宗派がこの教典を認めているワケではナイので、そんな場合は教説と称される)は、シャーリープトラに仏が教えを説くというカタチになっています。それがまず〈色不異空 空不異色〉として述べられているのです。単純にこれを訳せば「色は空と異ならない 空は色と異ならない」になります。〈色〉とは五蘊だったことから、そのとおりに〈代入/交換〉すれば、先述した如く「五蘊と空は同じものだ」になります。しかし、ここで混乱と迷走と錯綜の扉が開く音を、わたしたちは聞くことになります。何故「五蘊と空が同じなのか」がワカラナイのは必定と予想されるからです。

そこで、ここを「色と空は同じものだ」というよりも、前述したごとく「色と空は分けられないものだ 分けてはいけないものだ」と訳してみましょう。こちらのほうが理にかなっているはずです。

ここを安直に「色と空は同じものだ」と訳すと、先述したようにさまざまの錯誤が生じてきます。何故なら〈空〉とはナニかがワカッテいない/説かれていない/からで、そこで諸々雑多の〈空〉論が説かれることになるのです。ここは「色と空は分けられないものだ 分けてはいけないものだ」としたほうが、次の「色即是空 空即是色」へと簡明につづく論理を生み出すことになるはずです。でないと単に論理は混迷し、解釈 解読の多産は錯綜し、まさに机上の空論になってしまいます。

色は前述した如く五蘊として認識/理解が出来るとして、では〈空〉とはナンなのか。この前後を転じて繰り返される文言「色不異空 空不異色 色即是空 即是色異」は、おそらく釈迦仏陀の〈悟り・発想 発見〉として存在するところの、つまりここが『般若心経』の〈キモ〉なのだとかんがえてマチガイありません。ここで古今東西の坊主たち、また仏教学者の諸々の思想が展開されてきました。そうして、そのことごとくは「ドクサ/dox/思い込み/ワカッタつもり/宗派によるguideline」という程度ゆえに、この教典/教説は、おそらくマチガッテ流布され伝えられてしまったといってイイのです。再度述べますが、ここは『般若心経』のいわば胸突き八丁、正念場です。

2018年11月 2日 (金)

塾長lecture ②

照見五蘊皆空 度一切苦厄/しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく/

この世界の事象 現象 変容 事物 といった物質的なものから 想念 認識 観念といった心の集まりを五つの「蘊 うん」(集める まとめるの意味)にまとめたのですが、ここでたいせつなのは構成物を五つに分けてそれをまとめ集めたことではアリマセン。

とかく仏教は婆羅門教やヒンドゥー教の影響から、四苦八苦やら八正道やら十二因縁やら 箇条書きを踏襲する傾向にありますが、そのようなものは釈迦の死後、釈迦の教えを弟子たちが持ち寄って編集、編纂しただけで釈迦の思想とは本質的に寄り添うものではアリマセン。これは「阿南/アーナンダ(釈迦とともに托鉢行脚し、その入滅に立ち合った従者)」が明言していることです。

釈迦は、ほんらい待機説法(それぞれのひとびとにそれぞれの方便を持って教義を説く)のひとですから、それを「一つにまとめる」ことを危惧していました。それゆえ、そのようなことが入滅後、行われるであろうことを察知、予知して、阿南には遺言(いごん)として、「自燈明・法燈明」といい遺したのです。

つまり、「法-教義」よりも「自己」のほうを上位に置いたワケです。

「自燈明」とは「自らが燈明となれ」とも解釈できますし、「自らを照らす燈明を求めよ」とも解せます。

たとえば、「四苦八苦」とは「四諦 したい(四つの諦め・・・うけいれ)」に対するマチガッタ解釈でしかなく、「八正道」とは「八つの正しい道」ではなく、「八つ」とは数そのものではなく数の多さをいっているに過ぎず、その何れにも「それぞれの正しい対応がある」と述べているワケですし、「十二因縁」も、「多くの因縁は因果応報などではなく、因縁は覆せるものだ」という解釈が正しいのです。

ここで大事なのは、わたしたちを構成しているモノは、そういった五蘊がすべてだということです。そうしてそれらが苦しみのもとになるということなんですが、いってみれば、ここはアタリマエのことをアタリマエに捉えて述べたというだけで、さして驚くほどのことは説かれていません。

ただ、それら五蘊がすべて〈空〉だといいきったところが玄奘の確信的な訳しどころなのだとおもわれます。しかしそれは、この教説(経典)を難解に導いてしまっているところでもあります。この訳し方どおりにすすめると、一切の苦厄は〈空〉によってとりのぞかれるとあるのですから、依って〈空〉とはなんぞやという難題に挑まねばならないことになるからです。

〔『般若心経』では当然ここから、その〈空〉とはなんぞやが説かれることになります〕

2018年11月 1日 (木)

想流私塾・2018/10/15 塾長lecture ①

当日、時間不足(というより横道に逸れてつまらぬハナシばかりしていたので)により、完遂出来なかったlectureを最初からここに何回か連載で掲載しておきます。

(という、塾生たちへの約束でしたからね)

 

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

唐三蔵法師玄奘 訳〔口語訳・解説・北村想〕

 

まず、この経典のタイトルを私なりに訳しておきますと、〔わたしたちとはナンであるかについての釈迦仏の教え〕というふうになります。もちろん意訳です。

経文全文はそこいらにいろいろと掲載されている書籍がありますし、ウィキペディアでも調べられますので、ここに記すのは略します。

まず、

観自在菩薩/かんじざいぼさつ/

ですが、「観自在菩薩」とは 〔すべてを自由自在に観ることの出来るもの、また、「衆生 しゅじょう」、大衆のことでんな、これらのひとびとを救おうとする〈悟りたる衆生〉である存在、あるいは、そのために永劫の修行を続けている存在〕とされています。つまり、菩薩もまたひとりの衆生だということです。で、この菩薩というのは何処におるんかというと、菩薩はわたしたちの〈内〉においても存在しており、けして、わたしたちの〈外〉に在るものだけをいうのではナイとこの経典はいうてます。これは、釈迦仏陀もまた同じようにわたしたちの〈内〉に在るのであって、従って、けして「わたし」と「菩薩」や「仏」を分けて隔ててかんがえてはいけないということになります。

これは、「悟り」というものが、釈迦の外から釈迦にやってきたものではなく、釈迦が自身の〈内〉に在るものを悟ったというかんがえに由来しています。

この戒めを「摩訶 まか」と称します。経典のタイトルのあたまにある「摩訶」とは「仏と衆生を分けず 隔てない大きなこころ」という意味になります。

このかんがえかたを「摩訶」の智恵、「般若 はんにゃ」と称します。このように『摩訶般若波羅蜜多心経』を説いた(解いた)のは臨済宗の一休宗純禅師なので、ここでは一休禅師の解釈を基本に『般若心経』とはナンであるかをかんがえていくことにします。

 

もちろん他にもさまざまによく似た解釈はあります。

たとえば、曹洞宗道元はこう述べています。/「只管打坐 しかんたざ/座禅とは釈迦と同じ心境になり、ただひたすら座ることである」/

また、大乗仏説の『維摩経 ゆいまぎょう』においてはこの「分かつことなく隔てナイ」を「不二の法」と説いています。「法」とはもともと仏教用語で、訳すと「真理」という意味になります。

「不二の法」とは、たとえば一枚の紙が表と裏のように分けられるようにみえても、それは一枚の紙であり、なにごとも、ほんらいはひとつである、すなわち、すべての相反するようにみえるものも、ほんらいはひとつであるという考えかたです。この〈分けられない〉という理(ことわり)は釈迦仏陀の思想の真髄といえるのではないかと私はかんがえています。コトバをすすめていえば〈分けられない〉は〈分けてはいけない〉という積極性を持ち、そもそも「分けることが出来ないものを分ける」ことによって、そこに煩悩や苦悶が生ずることになるのだという教えに発展していくからです。

この〈分けることは出来ない・・・分けてはいけない〉は『般若心経』の重要な要素、概念 意味、価値だとわたくしはかんがえています。何故なら、分けてはいけない〈内〉とはナニか、〈外〉とはナニかという問いかけと、その理解が『般若心経』の解読にとって必要不可欠なものとなる、と、予感しているからです。これが、私のいちおうのalgorithmです。

 

行深般若波羅蜜多時/ぎょうじんはんにゃはらみったじ/

菩薩が〈此岸/しがん「衆生世界」〉から〈彼岸/ひがん「煩悩を解脱/げだつ」した世界〉に渡る修行をしたのち、つまり、もう修行すべきことのナイところまでいったときということですが、『法華経/ほけきょう/正式名称は妙法蓮華経/』によると菩薩は彼岸に至って仏陀となったアト、再び菩薩にもどって修行を始めるとあります。このcycle

は、修行とは 〈永久革命〉と同じことであるというかんがえかたで、宮澤賢治の『法華経』信仰もこれと同じかんがえであるとおもえます。 

だからこそ、あの北一輝や石原莞爾も法華経の信者だったのです。

 

〔ともかくも菩薩はこの教説ではとりあえずいったところまではいった、ということにしておきます〕  

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