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カテゴリー「量子力学」の記事

2023年9月 2日 (土)

時世録・37

アナログやデジタルという単語が使い始められた頃。もちろん当方にはなんのことかぜんぜんワカラナイ。そんな頃。ある対談を読んで(といって、誰と誰の対談だったかも忘却している)、その片割れが「アナログというのは〈耳〉でデジタルというのは〈眼〉だと私は理解しているんだ。それだと簡単なんだ」と片割れに解説し始めた。つまり、対談などを雑誌でおやりになる方でもアナ・デジの区別というか、自体が何なのか知識がなかったという、そんな頃だ。これはなるほど理解が納得するいい解説だった。だからひょっとしたら解説したのは養老老師かもしれない。
「つまり耳、音楽なんかはアナログだ。つづけて聞かないことにはワケがワカラン。しかし、絵画とか写真は眼で、パッと観ればワカル。これがデジタルだ」
まるで、クマとご隠居みたいな問答だが、なるほどそうだな。眼とはいえ、写真と映画とでは前者はデジタルで後者はアナログということになる。マンガ(コミック)なんかになると、アナ・デジの融和だ。文学となると、小説と戯曲とでは前者はアナログではあるが、眼で読むのだから、読み方によってはかなりデジタル寄りになる。戯曲はせりふ一行ではまったく解読不能なので、アナログなのだが、イメージとしては舞台における光景を読み取らねばならないので、ここはデジタルということになる。双方とも合成ベクトルみたいなもんですな。最近の若い人(四十代含む)は小説を読むのが苦手なのだそうで、それはアナログをデジタル変換するアルゴリズムに問題があるのだろう。これは音楽にもいえる。スコアを観て音を脳裏で創って歌うということがかなり苦手なそうだ。簡単にいうとスコアが読めない。変換機能、量子力学でいう作用素の働きがうまくいっていない。
さて、音楽が出てきたので、それでハナシをつづける。まず音符を一つ、音階はなんでもいい四分音符でも二分音符でもイイ。これ一つでは、〈音〉ではあるが、音楽でも音曲でも最近よく耳にする楽曲でも、無い。単なる音。単音だ。しかし、この音符の数が増えていくと音階は同じでも単なる音ではない。ドドドドドドと音がつづいても音曲だ。ドッドドドドドドドドッドドド。音符の長さ、音階が決まって来ると、ドッドドドドドドドドッドドドは『風の又三郎』のテーマに近づく。あの導入の部分だ。
さて、これ、何かに相似しているなとふとおう。待てよ。コンピュータのビットやバイトなんかと似ている。普通のコンピュータ(スーパーコンピュータでもイイのだが)ビット数を増やし、バイト量を増やしていく。1バイトでは駄目だが、キロバイトでは音曲、音楽になる感じがする。しかし、これだとまだデジタルとはいわない。アナログの範疇という感覚だ。並びの〈順序〉があるからだ。ところが、これを一枚の五線譜に一度に描いてみる。たしかに音の順番とシンフォニーなら重なりだけだから、まだアナログの範疇ともいえる。しかし、この一枚の五線譜をいっぺんに眼で観てワカルのが、音楽家のプロだとすると、その方々の脳髄はデジタルになっている。そうして、これを拡張解釈すると、量子コンピュータの仕組みになる。量子コンピュータはスパコンのようにビットの組み合わせとその重ね合わせをデータ化するのではなく、数千、数万、数十万枚の五線譜をいっぺんに読む(それにつかわれるのが量子ビットという状態ベクトル(波)の重ね合わせだ)。もう時間という概念が吹っ飛んでしまう。スパコンで1万年かかる計算を数分だからな。
こういうふうなモノを戯曲で書いてみると(すべてを書くワケではなく部分的にそうしてみるだけだが)、むかしっからご一緒に私の舞台をヤってきた役者さんたちは、何の抵抗もなくそれを演じる。要するに作用素がチガウ。ところが、最近芸能界で飯を食っているので、そこでそういうことをすると、必ず「難しい」「ワカラナイ」という苦言、クレームが俳優から出てくる。飯のタネ、食うための演劇なので、それはそれで黙認、追従するしかナイ。
さて、結論めいたことをいってしまおう。
そうか、私(たち)はアナログとデジタルの融和した、あるいはその先の、量子ビットによるスコアで芝居をヤっていたんだなあ。けれど、未だに芸能界の方々はアナログなんだなあと(それが悪いといっているのではアリマセン。感覚、直感、で片づけられるところを理屈でねじ込もうとされる。まあ、新劇も伝統芸能の尾っぽですからしょうがアリマセン)と、昨今理解が深まってきたのに秋はぜんぜん深まらない夏の暑さかな、なのである。

2021年7月22日 (木)

無学渡世・第二幕の7

「ボクは今年、高校を卒業したばかりで、理系ではなく、数学も数Aでしたから、オカシナな質問になるかとおもいますが、シュデンガーの猫も高校三年のときに理系の数Ⅲの友達から聞いたことはあるんです。そのとき、その友人に質問したら良かったんですが、数Ⅲからみたら、なんかアホな質問になるんやないかとおもうて、しなかったんですが、塾長ならうまいこと応えてくれはるかとおもうて、訊くんですけ・・・」
「ほな、オレはアホか」
「いえいえ、そんな、でも、ちょっとはそういうとこ、あるから」
「まあ、ええわ、いうてみ」
と、その未熟なのか不躾なのか、塾生は語り始めた。私は塾生との質疑応答はしないことにしているのだが、どういうワケか、その場はそんな雰囲気になってしまった。
「シュデンガーの猫がどないやて」
「はい。数Ⅲの友人のハナシでは、猫の生死は五分五分で、つまり半分生きて半分死んでる猫が蓋を開けたら出てくるとかいうとったんですが、ボクはその五分五分はオカシイんやないかとおもうたんです。それやったら、たとえば、四分六なら、どうなんねん、三七ならどうなんねん、丁半博打の壷の中のサイコロも、開けてみんことにはワカランけど、博打やから丁半五分五分に出てきます。しかし、出てくる賽の目が半分丁で半分が半みたいなことには絶対ならんワケやから、猫の生死が五分五分ということは、生きて出てくるときが半分、死んでるときが半分というのが正しいのやないかと。半分生きて半分死んでるというのは文系のポエムなら通用するけど、理系では通用せんやろ、そら、シュデンガーさんが、量子力学はアテにならんと身を引いたのも道理やとおもたんです。塾長、どないなんでしょか」

お復習いのつもりで書いておくと、シュレディンガーの猫とは、フタ付きの箱の中に
① 「猫一匹」と
① 「1時間以内に50%の確率で崩壊する放射性原子」と
② 「その原子の崩壊が検出されると青酸ガスが出てくる装置」
を入れた場合、1時間後には「生きている状態と死んでいる状態が確率が50%なのだから1:1の/生死の重なり合った状態の猫/」という不可思議な存在が出てくるのではないか、という思考実験だ。

ほんらいは、量子力学の「波の重なり合った状態(波束の収縮)」はいつ起こるのか、に対するシュレディンガーからの批判なのだが、昨今では確率50%では確率にならないとか、「何事もやってみなきゃワカンナイ」みたいに誤解されている。
この塾生の疑問はもっともだ。/生死が重なり合った状態/とはなんぞや、そんな面倒なことをいわないでも、生きてるのが出てくるのと死んでるのが出てくるのだったら、それも確率50%ではないかと、この塾生は疑義を申し立てているのだ。
「あのな、シュデンガー、正確にはシュレディンガーだけども、このひとのいわゆる「猫」の思考実権は、量子力学の確率論(重なり合った状態)の完全な「解」ではなくて、いうてみたら未だ途上なんや」
「途中なんですか」
「そうやねん。きみのいうように、/生死が重なり合った状態の猫/はオカシイというのは、どこがオカシイのやろ」
「数Aではワカリマセン」
「私、塾長は数ⅡBや。それでも、こういう疑義はいえる。/生死が重なり合った状態の猫/がよしんば存在するとして(ほんらいの思考実験では蓋を開けたときにしかワカラナイ)そんな猫が箱の中で「いつ」造られるのか」
「そうですね、そうですワ。数Aでもワカリマス」
「シュレディンガーの量子力学に対する反問もそこにあったんや」(「密度行列」という作用素を用いなければ、波束の収縮は完全に答えられない)
で、これは鬱疾患についての思考の思案の試行だから、塾生の疑義から、入力→作用素→出力だけでは、鬱疾患の固有状態についての「解」は得られないとだけ賢くなっておこう。もちろん、問題は鬱疾患(入力)が鬱疾患(出力)としかならない作用素の在り方だ。
(ちなみに波動方程式はニュートン力学における方程式なので、「確率」という概念は含んでいない)。


2019年12月22日 (日)

港町memory 71

ヒトの死にもどります。
/ヒトの死とはヒトにおける量子としての波動が純粋状態から混合状態に相転移することです/
つまり、波の重ね合わせが起こらないので、状態ベクトルによる波束の収縮がナイということです。これは確率として作用素の発現することが無いということです。つまりは量子がヒトの生としての活動を休止、停止、している状態です。
しかし、
/量子は時間という質や量を伴った存在ではありません/
時間はあくまでニュートン力学的世界での便宜上の概念(自然といってもいいのですが)で、量子力学的世界(自然)おいては、存在しません。ですから宇宙の年齢やら、開闢後の数万分の1秒に何が起こったかなどという時間は問題になりません。ところが、
/私たちヒトは日常的(生活習慣)にはニュートン力学の(~に影響を受ける)存在としてしか生きられません。量子力学の世界にナンデカワカラヘンネンけど、突如として現出したニュートン力学的存在、それが私や私たちの世界なのです/
この本質的に(せよ、現象的にせよ)矛盾した存在、それが私たちなのです。これはアリストテレスもプラトンも喫驚(びっくり)の世界(自然)です。つまりですな、うどん粉で饅頭をつくったようなものですから。それならまだ出来そうですが、フランスパンの刺身のようなもの、ゴボウ茶飲んだら天然痘が完治したようなもの、結核患者さんでも走れるマラソンコースが出来たような・・・、のようなもの、です。
この二つの世界(自然)での最も大きなチガイは前述した「時間」というシロモノ(いや、もはやキワモノ)です。
〈空〉が相転移した場合、実体(色)には〈時間〉が付加されたようにみえます。時間のナイものが、時間が在るかのようにみえるのです。何故ならニュートン力学的世界でのさまざまなものは、過去→現在→未来へと〈動いて〉いるからです。(諸行無常ですら、時の変遷です)。これを「時間の矢」といいますが、これが私たちにみえている世界(自然)です。
この〈動く〉ということは、量子力学にも在りますが、量子力学の世界においてはニュートン力学のように〈時間〉は存在しません。
たとえばニュートン力学では、自動車の速さと時間によって、到達点までの距離を求めます。到達点までの時間によって速度を求めることも出来ます。もっとも簡単なニュートン力学の誰にでもワカル説明がこれです。ところが、量子力学の場合、量子が動くということは、その三つともが無効になります。三つともというのは、時速というもの、距離(場所)、かかった時間、速度の三つが整わないということです。(よく知られたものに、ハイゼンベルクの不確定性関係、ファインマンの経路積分があります)。コトバを変えていえば、ある一点にある量子が、次に、何処に、どんなふうに、どんな速さで、動くのかが確率でしかワカラナイということです。(かつ、この確率は純粋状態でしか求められません)

重力は、ニュートン力学でも扱われます。そこで、私はかなりおもいきった「とんでも理論」で、次のようにかんがえました。
重力波や重力子が存在することが明瞭でも、容易に発見、測定、検知されないのは、「ディラックの海」の陽電子のように、私たちを含めてこの世界すべてが〈重力〉に満たされている、包み込まれている、もっとdrasticにいえば、私たちが重力そのものだからではナイか。私たちもまた重力ならば、本質的には量子力学的世界(自然)のように「時間」を持つものではナイ。それでも「時間」を感知、知覚、体感してしまうのは、この世界(自然)と私たちの重力の関係に横たわるある種の〈勘違い〉である。そう、カンチガイなのです。でも、何でカンチガイするんでしょうか。もちろん、成長、老化や死があるからです。どうしたってそれは「時の歩み」と文学化されます。
私たちは過去→現在→未来といういわゆる「時間の矢」の現在に在る、というのが私たちの認識(或いは感覚)ですが、この過去→現在→未来という「時間の矢」の現在を貫いて直行するような線を引いてみます。これを私たちの「世界線(四次元時空の中で、ある粒子、物体が動く経路)」だとします。すると私たちが存在しているのはこの世界線上だけで、時間の矢の線上には他の何処にも私たちは在りません。過去や未来といった時間の矢は、私たちの記憶や想像にしか過ぎナイといことです。パラレルワールド(いわゆる多重世界)などはscience fictionなどではよく登場しますが、状態ベクトルで波束の収束が一つである確率の世界(このニュートン力学的世界がそうなんですけど)では、パラレルワールドの存在の可能性はアリマセン。(かといって、そういうのがあるというほうがオモシロイんですけど)。
では、老化はどうして生じるのか。死は何故避けられないのか。
/老化や死は、重力の変貌、変容、転移なのです。あくまでニュートン力学的世界の存在である私たちの自然の出来事/です。世界線上の重力は常にenergyを変化させています。これが、現在が次々と未来や過去になっていくようなカンチガイを私たちに経験させるのです。
純粋状態から混合状態への相転移と、散逸構造のコヒーレントにおける、未知の、本質としての〈自然〉が現行の自然のさらに奥に存在する。ヒトの死(ニュートン力学的世界での存在としての終焉)は、その〈本質自然〉への回帰、旅立ちといえるのではないか。そのために私たちは光子還元でno side(仕切り直し)される。これが物理学(量子力学)で捉えた(かんがえた)ヒトの死です。
さて、本質自然にはどんな〈自然〉が待ち受けているのだろう。
電磁場というものが在るように、重力場も在ります。(もっともその重力ですら、ブラックホールでは消滅するのですが)私たちという波動はそこで新たなコヒーレントを迎えることでしょう。それまでは願わくば「涅槃寂静」といきたいもんです。そうして、胸いっぱいの予感の中にある、先逝したものたちとの再会と邂逅も、波の重ね合わせにおいて、そこで実現すると、そう信じている私です。(了)

2019年12月21日 (土)

港町memory 70

(承前)
では、何故、どんなワケアリで〈空〉である量子、の波動は、実体〈色〉に転移、変容するのでしょうか。
それは波動の「状態ベクトル」とイアン・ブリゴジンの学説「散逸構造論」に登場する中心的キーワドの、コヒーレンス、コヒーレントとインコヒーレントに密接な関係がありそうですが、それ以上はいまのところワカリマセン(もちろん、私には、ですが)。むしろ、何故そういったこと(ほんらい量子力学的な世界にニュートン力学的世界が生じたという、ありそうもナイ、まるでillusionなこと)が起こってしまったのか、のほうが私にとっては問題です。
コヒーレンスとコヒーレントの違いについて解釈を入れておきます。
単純にいってしまうと、コトバの上での二つのチガイは、
名詞 coherence コヒーレンス
形容詞 coherent コヒーレント
でしかありません。そこで、もちっとばかりクルクルした脳髄の錯綜を整理整頓、納得させましょう。
/コヒーレンス(Coherence)とは、波の持つ性質の一つで、干渉のしやすさ(干渉縞の鮮明さ)を表す。干渉とは、複数の波を重ね合わせるとき、波が打ち消し合ったり強め合ったりすることをいう。レーザーはコヒーレントだが、太陽光は、その逆、インコヒーレントといえる。コヒーレントな光とは一つの定まった波長をもつ光で、連続的に続いていて光の山と山、谷と谷が一致する規則正しい光のことであり、レーザの光はこのコヒーレント性をもっているが、太陽光のような自然光はこのような性質は持っていない。したがってインコヒーレントな光と呼ばれている/
ということになります。つまり、コヒーレンス(Coherence)とは、波の持つ性質の一つで、干渉のしやすさ(干渉縞の鮮明さ)がたいへんヨロシイということです。

私は以前はコヒーレンスとコヒーレントをそれぞれの逆の意味合いと勘違いしていましたが、その勘違いはさほど論理的に致命的なものではなく、つまりコヒーレンスを純粋状態、コヒーレントを混合状態という位相に置き換えて思考していたのですが、論理(かんがえかた)や用い方としては、あまり破綻はしていないとおもっています。量子の混合状態は散逸構造に従って次第に相転移し、つまり、混合状態コヒーレンスから純粋状態コヒーレントへと生成され、ふたたび「色」と成る、てな、転移の状態を書いたりしていますが、勘違い、マチガイなので、訂正しなくてはならないことは確かです。

ついでに、位相について触れておきます。アナログ時計を思い浮かべます。その時計には短針が無く、長針だけが左回りに動いているとします(もはや時計とはいえないのだけれど、物理学なんてのは、こういうことを平気でヤルんだからナァ)。右側に紙(screenでもいいんだけど)を置き、この時計に左側から光を当てると、右側に置いた紙(screen)に長針の影が映ります。時計の針を左回りにどんどん回転させていくと,紙に映った針の影も上下(波動のよう)に動きます。もっとimageしやすくすると例えば扇風機を回して、その羽根の回転の先端がつくる線をどんどん平面に移して現していくと、波形に書けるということです。
ここで,時計の針が水平方向となす角度θ(シータ、簡単にいえば、針の角度です)と、針の影(screenの波形)がつくる波の上下の動きを比較すると、波の上下の動きは、ちょうど角度θに対応していることがわかります(アタリマエなんですけどね)。この角度θを位相と称します。つまり、波の位相(角度θ)は、周期的に変化する波の状態が1周期進行すると、次の(周期の)段階に移ることを表すものと考えることができるということです。1秒間に繰り返す波の数を周波数、隣同士の山の間隔を周期と呼んでいます。(余談でした)。

レーザーのコヒーレンスには2種類あります。異なる時間にレーザーを出発した光波の干渉に関するものと、同じ時刻に異なる場所を出発した光波の干渉に関するものです。前者が時間コヒーレンスで、後者が空間コヒーレンスです。これも余談ですけど。(つづく)

2019年12月19日 (木)

港町memory 69

(承前)
音(波)の状態を音楽(実体)の状態にするには、音(波)を重ね合わせねばなりせん(たとえば♪ドという音の状態を創らねばなりません)。この波の重ね合わせ(のことを「状態ベクトル」と呼称します)が完全にできるばあいを、量子力学では純粋状態、そうでないばあい(重ね合わせが出来ないか、不十分で波として扱えない場合)は混合状態と称されます。つまり、波の重ね合わせが乱雑な状態です。量子の状態には、そのような二つの状態があります。この事実によって、よく知られた「シュレーディンガーの猫」問題は、量子力学としては解決されています(ドラマなんかではmetaphorとして使われていますが)。「猫」の思考実験は、混合状態での中の特殊な状態ベクトルにおけるもので、未だ波の重ね合わせ、「状態ベクトル」が創り出されてはいないのです。シュレーディンガーの波動方程式(波動関数)では、純粋状態の波の重ね合わせまでは明察出来ます。しかし混合状態から波の重ね合わせを知ろうとするには、「密度行列」という、さらにすすんだ量子力学的方法が使われます。
この「行列式」とハイゼンベルクの「行列式」を混同した(錯綜した)ために、拙著『恋愛的演劇論』の末尾部分は誤謬に陥っています。はたして生きているあいだに訂正出来るかしらん、というふうでござんす。

さて、ヒトの〈死〉についてここで仮説をたてます。
/ヒトの死とは量子力学的には、量子の波動が純粋状態から混合状態に相転移することです/というふうになります。以下にもちっと詳しく説明しますが、ここは一踏ん張り、投げ出さないでおくんなさいまし。
ヒトという実体を波動の作用素とかんがえます。(「作用素」とは外から「入力」を受取り、それに何らかの規則的な変換を行って出力された営為、その結果のことです。量子力学の用語としては、それを「作用素」或いは「演算子」と呼びます。パソコン用語や数式に用いるfunction(操作)と似ていますが、量子力学では、アルゴリズム(「アルゴリズム」というのは、コンピューターで計算を行うときの「計算方法」のことですが、簡単にいえば、何か物事を行うときの「やり方」「plot」のことだ、で、かまいません)が少々異なって、この作用素(物理量)は非可換量-(積の右辺と左辺を交換するとチガッタ答えになってしまうので、交換が出来ないのです)-になります。これも量子力学の特質です。ヒトを作用素として存在するものだとすると、ヒトの量子の状態も純粋状態の状態ベクトルです。波の重なり合いや(波束の収縮)も完全に生じます。ですから、ヒトの死は、この重ね合わせがうまくいかない混合状態(ちょうど蛍光灯の中のような状態-(気体の乱雑な運動のために、波の山や谷の位置・・位相・・がそろわないので干渉は起こらない)-になったものだと仮定します。(という仮説です)。
つまり、ヒトの死とは、「色」が「空」に、実体(純粋状態)が(混合状態)の波動に転化することをいうことになります。こういう転化のことを相転移と称します。
ですから、私が死んでも(実体でなくなっても)波動としては、とりあえずは遺るワケです(ただし、混合状態ですから、状態ベクトル-波の重ね合わせは不整です)。ここで、どのみち仮説なのですから〈意識〉という得体の知れない(のか知れているのかワカランもの)も、何らかの状態(〈相〉或いは〈場〉でもイイとおもうのですが、完全に放散されることがない状態)で遺るとします。意識とは何かということがハッキリとわかっていない現代(現状)なのでかくなる突飛なこともいえるワケです。この場合、遺るというのは、意識というものがニュートン力学・物理学の現象では観測(計測)出来ない、私たちが自然と称しているもののさらに奥にある自然の〈本質〉として遺ることを述べています。(いってみれば、量子力学とは、その自然の本質を探求する学問です)。従って、現存するヒト(実体)とは異なる状態、或いは作用素なので、両者の直截の交信は出来ナイでしょう。宮澤賢治さんは、そういう理由でトシさんと交信出来なかったといえます。とはいえ、私や、死者と称される元ヒトだった実体は、いまなお量子の波動として散逸構造のまま飛び交っている(のかじっとしているのかは不明だけれど存在している)ことは確かです。つまり〈空〉の状態です。量子には時間という概念がアリマセン。量子は時間という質や量を伴った存在ではナイのです。ですから宇宙は出来てから135億年だとか、開闢の瞬間に起こったことに10の何億分の1秒のような単位をつかうことはあまり意味がありません。時間というものは存在しないからです。
量子は、量子力学的にenergyが消滅するまで無時間のまま存在します。これが自然というものの奥にある〈本質〉であることを量子力学は突き止めつつあります。そうして、量子のenergyの消滅の仕方たるや、すべて、光子に還元されてしまうことです。(つづく)

2019年12月18日 (水)

港町memory 68

(承前)
これ(ニュートン力学的世界)と(量子力学的世界)は般若心経の「色即是空・空即是色」で捉えるとワカリヤスイとおもわれます。
たとえばヒトを〈色〉という実体とするならば、量子力学の領域は〈空〉になります。
何故なら、量子はすべて波動(波)だからです。波動なのに、どうして量子という粒子の名称がついているのでしょうか。これは、ダブル・スリットによる実験(slitとは、切り込み、隙間のこと。これは思考実験ではなく実際の実験です)で、よくワカリマス。たとえば、電子という量子を一個、穴(切り込み、隙間)が二つ穿ってあるスリットに向けて発射し、その向こうがわのスクリーンに到達させるという実験です。電子は一個ですから、スリットのどちらかの穴を通過するはずなんですが、実験の結果では、ダブル(二つの)穴を同時に通過したことがワカッテいます。ところが、スクリーンには一個の電子の到達痕しか残りません。つまり、電子はスリットを通過するとき、いったん波に変わり、さらにまた粒子となってスクリーンに到達したワケです。いったん波になることは、次々と電子を飛ばしてスリットを通過させると、スクリーンに干渉縞が現れることで証明出来ます。電子の次々の時間を一秒ごとにしても一時間後にしてもたとえ百年ごとにしても同じ干渉縞になります。つまりたった一個の電子でも、いったん波となってスリットを抜けた以上は、干渉するということです。何故こんな不可思議なことが起こるのか、それは量子という運動の本質だとしか答えようがアリマセン。/量子というものは、波だか、粒子だか、なんだかワカラナイもの/、これが現在の(といっても私の知り得る限りのですが)量子力学の量子に対する定義です。(量子そのものは、energyの最小単位です)。すでに古典量子力学と称されているニールス・ボーアの量子解釈である〈相補性〉=「量子はあるときは波でありあるときは粒子である」(いわゆるコペンハーゲン派解釈)は、すでに実験によって否定されています。
さてと、ハナシをもどして、波、波動も実体ではナイのかと、おっしゃる方には、次のような解釈をひとつの例として述べておきます。前提としての注意ですが、「空」は「無」ではアリマセン。
/音楽とは、波動=音=〈空〉が分子段階に相転移して〈色〉=実体となったものだ/
私たちは音楽(演奏・歌唱)を聴きますが、音そのものは音波という単なる波にしか過ぎません。それが波動の作用素(作用素については後述しますが、簡単にいえば、なんらかの作用によって生じた結果)として音符に書かれ、楽譜になり(と、この辺りを分子段階としておきます)、演奏、歌唱が出来る音楽となり、私たちはそれを感受します。単なる音(波)には音楽としての実体はありませんが、私たちの聴く音楽は実体です(波としてではなく音楽として感受できますから)。そこで楽譜〈色〉という分子段階をもとの音、単なる波にもどせばすなわち〈空〉になるということです。これが「色即是空 空即是色(色即ち是れ空と成り、空即ち是れ色と成る)」のかんがえかたです。(つづく)

2019年12月17日 (火)

港町memory 67

ここからは、私が遺書(遺すことば)のsub textとして記したものに、出来るだけの解説などを加筆したものです。難しいというより、それは不慣れなだけなんですが、ブログですからちょっとずつ参りましょう。
ここでは、ヒトは死んでしまったアト(生存という実体の消滅したアト・私のコトバでいうと「ニュートン力学的存在の終焉」のアト)どうなるのか、私の考え(仮説)を記しておきます。


告別・別記(sub text)
~人間という存在、死とはどういうものかについての私的考察~

ひとの死は自然現象である。生まれて死ぬことはまったきの自然、の、ように私たちにはみえる。(認識している、というふうにもいえます)。しかし、ほんとうにそうだろうか。これが私のようなヘソマガリ或いはアスペルガーな資質の疑問の始まり。
それはただ、そう思い込んでいるだけではないのか。果たして私たちのみているものは、ほんとうにほんとうの自然なのだろうか。宮澤賢治が作品中で「ほんとうの」を多用したのは、野山を歩いていて、「ワケがワカラナイけど、何かちがう自然に巡り逢うことがあり、なにか自然には自然に隠された「ほんとうの」ナニかが在るのではないかと、直感したのではナイだろか。

そうして、それに応えてくれたのが私の場合は量子力学であったワケでやんす。

/〈自然〉とは、私たちがみているとおり、おもっているとおりのモノではナイ/
量子力学が私たちに教えるものは、そういうdrastic(抜本的、果敢)な自然です。

前提として、この世界(宇宙)には
〇重力
〇電磁気力
〇核力
があります。いわゆる宇宙の「四つの力」です。電磁気力は、電力と磁力が同じものだということがワカッテ、こう呼ばれるようになりました。双方とも電荷(+・-)を持っています。電荷というのは、その名の通り電気のお荷物。+と-ですから逆方向のナニかです。だいたい、量子力学には、この「ナニか」はよく出てきます。ワカンナイけどナニかです。カント哲学では、これを先験的(経験以前の存在)なんてふうに表しています。このナニかが流れると電流と呼ばれ、収斂、集まると、電場と呼ばれたりします。磁力の場合も同じです(電磁場)。ですからプラスとかマイナスとかは便宜上人間の付けたコトバ、名称でしかアリマセンが、そう称して差し支えはアリマセン。いうなれば、普遍的名称ですナ。
さらにもう一つヒトが創った(といいますか発見した)世界があります。ニュートン力学的世界です。最初の三つ(四つ)は量子力学のcategory、もう一つはニュートン力学のcategoryです。この二つcategory(領域)が混在しているために、この〈世界〉は理解出来にくいのです。また、これは先述したように、『維摩経』の不二法門(ふにほうもん)のかんがえ、ともいえます。
さらにさらにいうと、世界は自然であるはずなのに、ヒトだけが、自然ともう一つ非自然を両有しています。自然でナイモノでも在るのです。ヒトは、その二つが重なりつつ存在するために、生きにくいのです。(たとえば、「生病老死」は自然のものなのですが、ヒトにとってはこれは苦しみになります)。

重力、電磁力、核力、は前述のごとく量子力学の領域ですが、私たち(physical、mental)の構成最少単位(最小energy)でもあります。
であるのに、私たちヒトは日常的にはニュートン力学の存在(energy)としてしか生きられません。量子力学の世界に突如として現出したニュートン力学的存在、それが私や私たちの世界(自然)なのですが、なんでまた、そんなものが現れたのか、これはワカラナイ。ワカラナイけれどもまったくチガウ(ですから、どうもこの自然はアヤシイとおもってイイのではナイか)。
では、このへんからかんがえていきましょう。

2019年5月 9日 (木)

港町memory 10

港町memory 10

さらに、つづきです。
「量子」と、簡単に称していますが、そも「量子」とは何か。(私、戯曲に「りょうこ」と読ませる女性キャラを登場させたこともありますが)。量子とは、energieの最小単位ということになっています。で、これをニュートン力学で現しますと波、波動、つまり(~)こんなのだったり、粒、粒子(・)こんなのだったりするワケです。波とか粒とか、そういう呼称の仕方はニュートン力学から(として)の観方ですから、ほんとの形状はワカリマセン。
実験装置もニュートン力学世界の装置になります。あの有名なダブル・スリットの実験(これは思考実験ではありません)もそうです。スリットの二つ開いた遮蔽物に対して電子銃で電子を一個飛ばす。で、それがスリットの両方を同時に通過して、スクリーンに到達する。と、これだけ書いただけでも、かなりのニュートン力学世界が混在しています。まず、電子を一個ですが、一発でもいいんですけど、ともかく撃たなきゃしょうがないので〔一個〕としか書きようがナイし、実験の場でもそうするしかしょうがない。スリットを同時に通過するから、波だとしか考えられない。ところがスクリーンに到達するときはまた粒子になってる。そんなバカな、そんな不思議な、というのは、あくまで電子をニュートン力学世界のモノとして観ているからで、電子という量子の定義は/なんだかワカラナイモノ/ですから、/波でもあり粒でもある/というよりは/波でもなし粒でもなし/といったほうがイイのかも知れません。スリットまでの距離もニュートン力学世界ですし、スクリーンの材質だってこの世界のものてす。いい換えますと、ハイデガー的な実験をアリストテレスの装置で行っていると、そんなふうにたとえることも出来ます。
ともかくニュートン力学世界に現出するときは、量子は波動、粒子として捉えることは出来るというだけの話です。
「重力」も量子ですので、「重力子(グラビトン)」といわれたり、「重力波」といわれたりしていますが、波だか粒だか、ワカンナイ。
宇宙が開闢したのは、いまから130億年ばかり前ですが、このとき何が起こったのか。現状では、時間も空間も無いところに、粒子(energie)がトンネル効果というもので何処からか出てきた。これがインフレーションを起こしてビッグバン(大爆発)になった。そうしたところ、粒子と反粒子の数がどちらかが一個多かったので、宇宙は爆発のアト、消滅することなく、膨張を開始した。
こんなこと、お伽話より信じ難いのは無理ありません。だいたい/時間も空間も無いところに/って、どんなところだっ、と怒鳴りたくなります。たった一個が膨らんで爆発して、この広大無辺の宇宙に、なるのかよおっ、といいたくもなります。トンネル効果については解説を省きますが、つまり何処からかenergieが出てきたんです。何処からかって何処からよ、出てきたって何処に出てきたのよ時間も空間もナイのに。これはもうimage出来ません。
キリスト教の創世記で神が「光あれっ」といった、のと少しも変わりません。ですからそれでもイイんですが、ただ、この場合「光あれ」というコトバが存在したことになります。
ヒトより先に言語が在ったということです。

さて、調子こいて、この話、エネルギーの第一、第二法則(現在、科学で法則はこの二つしかありません)からイアン・ブリゴジンの「散逸構造論」にすすんで、ヒトは死んだらどうなるかにまで、駄法螺を拡げることにいたします。
つづく。

2019年5月 6日 (月)

港町memory 8

つづき、です。
ニュートン力学の忍び込み、といっても、アインシュタインの相対性理論はニュートン力学における考察なんですから、忍び込みというのは正確ではありません。ただ、一般相対性理論では〔加速度重力〕を扱いますから、このあたりは量子力学とのborder lineということになります。問題はこの〔重力〕というシロモノ。これはニュートン力学においても量子力学においても扱います。扱い方がチガイマスが。
さてと、勘違いが何処で始まるかといいますてえと、「相対性理論」という命名がまずソウなんです。相対性というものを考えましょう。新幹線なんかに乗車しますと、プラットホームから発車していく場合、プラットホームをじっと観ていますと、プラットホームが動いているように錯覚してしまうことがあります。もちろん動いているのは「のぞみ700系」のほうなんですけど。
地球とロケットなんてことをいわずに原理だけを考えたら、プラットホームとのぞみ700系と、地球とロケットはまったく同じです。片方は止まっている片方は動いている。しかし、相対的にみると、どっちが動いていても止まっていてもかまわない。
けれども「止まっている」ものと「動いている」ものは実際には違います。なので、「相対性」などといわずに「相違性」といったほうが錯覚をうまずにすんだんです。
なにが〔相違〕なのか。ロケットは加速することがありますが、地球は加速しません。いくらプラットホームが動いているようにみえても、加速しているのはのぞみ700系のほうです。ロケット(のぞみ700系)が加速して地球(プラットホーム)を時速100㎞で離れていっても、地球(プラットホーム)は動いてはいません。いちいち駅が動いていたら、何処で乗って降りたらいいのかわからなくなります。
では、地球(プラットホーム)とロケット(のぞみ700系)は「相対的」ではナイのか。はい、ナイんです。
ロケットが加速したとき、加速度重力というものが働きます。地球は加速しませんから加速度重力は働きません。相対的には加速しているようにおもえるかも知れませんが、相対的ではなく相違的なんです。
この〔重力〕が働いたとき、ロケットはどうなるか。ニュートン力学から量子力学に移行します。ロケットは加速を続けていくと〔重力〕が大きくなっていきます。この場合、[重力]という量子力学的な「場」を持ちつつ飛んでいるワケです。
ところで、〔重力(重力波)〕にはニュートン力学における「時間」という便宜上の概念は在りません。量子に時間は〔非在〕なんです。地球のほうじゃ相変わらずニュートン力学における生活が便宜上の「時間」でつづいておりますが、ロケットのほうでは時間は非在ですから、その飛翔中は0hourということになります。ニュートン力学における便宜上の時間はロケットの加速度重力飛翔中には在りません。時間が0(無い)んですから、双子の片割れが加齢することはありません。
この話、もう少しつづきます。


2019年5月 5日 (日)

港町memory 7

/相対性理論とウラシマ効果/~何を勘違いしてしまうのか。

アインシュタインが特殊相対性理論、一般相対性理論、を発表、重力波の存在を予言してから100年余。そのてのガイドブックやら虎の巻本は数多、手を変え品を換え出版されていますが「これならワカル相対性理論」ふうなのを読んでも、たいていが「それでもワカラン」になっちまいますねえ。学問に王道はありませんから、手っとり早くてのは止したほうが宜しい。
とはいえ、今更もうどうでもイイやなら、それはそれでイイんです。そういうのなら黙していればイイだけのことです。
ところが、「これはオカシイではナイか」と相対性理論のマチガイやら矛盾を指摘する方がワリと在るんです。簡単な指摘ならむかしから有名と、いうか、たいてい持ち出される論法が「光速のすれ違い列車」です。
時速100㎞で走っている列車があります。これが上下線ですれ違う時の速度は時速200㎞になります。だったら光速で走っている列車を想定して、これをすれ違わせば、時速は光速の二倍になるんじゃないの、という論理です。
そうならないんですが、なんでそうならないのかが、納得出来ないんですナ。
もう少し凝った理屈に「巨大なハサミ」論法というのがあります。
これは/いま刃の部分を拡げられたハサミを想定して、交差しているところ・・・支点ですね・・・に近い部分に印をつける。光速で閉じていったら、刃先はその印の部分より長い距離を同時に動くので、光速より速く動いていることになる/という論理です。
なるほど理屈はそうです。
では、何故、それがマチガイなのかというと、実に単純なことなんです。
どちらも/[時間]というニュートン力学の概念をごくごく自然に論理に入れ込んでしまっている/、と、ただこれだけのことです。

長い連休でした。三日ほど旅をしました。
で、帰ってきて、ぼおっとするより、早く日常生活に戻りたかったので、いつものごとく思考の世界に閉じ籠もり、と、そうしまして、「相対性理論」について考えたのです。
(ほんとうは逆なんですけどね。ほんとうは/何故ニュートン力学世界が在るのか/について考えたんですけどネ)。

そこで、みなさん、お悩み(だろうとおもうんですけど、私も悩んだ経験があるからいってるだけなんですけど)の「ウラシマ効果」について、の、〔勘違い〕について解説、といいますか理屈をコネコネしてみます。

「ウラシマ効果」というのは/双子の兄弟がいる・・・姉妹でもイイ・・・片方が地球に残り、片方がロケットに乗って光速に近い速度で、ちょいと宇宙を一回りしてくる。地球時間で50年経ったとします。ロケットが帰って来る。地球の双子の片割れは五十歳、齢をとっている。もう頭髪薄く、あるいは老人になっているかも知れない。ところが、帰宅した片割れは光速に近いロケットに乗っていたので、加齢していない。むかしの若いママ。けれども、「相対性理論」なんだから、ロケットが光速で飛んでいるなら、相対的に地球だって、光速と同じ速さでロケットを離れていっているはずだから、片方だけが加齢しているのはオカシイではナイか/であります。はい、これも勘違い。ニュートン力学時間の忍び込みからきている勘違いなんです。
えーと、旅の疲れがとれるまで、ちょっとこのお話をつづけます。
では、また次回まで、つづく。