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カテゴリー「量子力学」の記事

2016年12月 1日 (木)

百姓日記⑬

 

脳の損壊とプランク定数

 

セロトニン症候群とその離脱症状との具合は、十月半ばに服用ゼロとし、その後、いわゆる離脱症状が半年ばかり続くので、そいつとの闘病みたいになってきたが、最近(ここんとこ)これはそうだな、30年の向精神薬(現在も三種類ケイゾク)で、脳のレセプターあたりからの損壊ではナイかなと思うようになった。つまり、思考、あるいは精神がコンピュータでいうところのフラグメンテーションを起こしているのではナイかと、そういうことだ。

PCは脳を模したmachine、つまりは道具なので、身体や思考の状態、作用をこれに置き換えて説明したり考えたりすると、逆にワカリヤスイことがある。(注意を喚起しておくがPCはあくまで機械、道具です)

PCなら毎日やってるようにデフラグしてやれば、状態(運動量)は向上するのでそれてOKなのだが、こと、脳になると、もう少し複雑だと思われる。とはいえ、なんとなく(その気配としては)フラグメンテーションなので、つまり、いま少しワカリヤスク書き直すと、ほんらいなら、

AAAABBBBCCCCDDDD

あるいはこれが順序数であれば、

ABCDABCDABCDABCD

であるところを、

ABDCCBADADCBCCAB

というふうに〈飛びとび〉(たぶん3040パーセントの断片化)になっているということなので、じゃあ、デフラグかければということになるのだが、脳は機械ではナイので、損壊したところにデフラグしようと試みても、出来るワケがナイ。

ゆんべ、avecビーズの稽古に参加したんだけど、フラグメントがキツクて、思考が断片化さているなあと(そういうことはチャンと認識するんですね、脳の別の部分が)、ベントマンで買った弁当を食いながら、この幕の内は、原価100円くらいなんじゃないかなあ、なんて思いつつ、ほかほか弁当が出店されたときなどは、もう少し何だかワカラナイけど、衝撃的だったんだけど、てなことをも思いつつ、演出者のKが来たので、どういワケか、老化について歌手の場合は、声は衰えないとはいうものの、それは、ちゃんと声楽を学んだひとたち、いわゆる『懐かしのメロディ』に登場する八十代の歌手のことで、映画俳優の傍ら、あるいは女優活動のついでに歌っていたその後のひとたちは、やっぱり音が♭したりするのは、本人が気付いてナイとするなら声帯の老化ではなく、聴覚の老化だろうなあてな話をして、最近、私も歌うと高音部が10年前に比して不安定で、かつて出た音が出ないのはそのためだなとか、思いつつ、前マエの嫁さんだったTが次に来たので、初めて真っ直ぐにちゃんと顔を観て丁寧に「おはようございます」と挨拶している自分の脳がオカシクて、しかし悪いことじゃナイからまあイイかと思った瞬間、ちょっと待てよ、このフラグメンテーションを負に捉えるのではなく、プランク定数にみられる量子エネルギーの飛躍として認識してしまえば、つまり、日常言語の運動量にプランク定数を乗算していると解釈すれば、それはそれで、主観的に自他を観測出来るのではないだろうかと、そういうことにまさに飛躍的に気付いて、うん、そうすることにしようと、決めたのでありました。

だって、身体的苦痛は自分だけが耐えればイイことなんだけど、思考のフラグメンテーションは、他人に迷惑かかるからなあ。

そんで、私にしてはめずらしく、出過ぎたマネかなとは思いつつ、演技指導なんてやってんだから、まあ、しばらくは、こんな具合で堪忍してよ。

2015年8月31日 (月)

And in the End⑲

And in the End⑲
「釈迦は悟った」ということになっている。悟らねば仏陀とは呼ばれなかったろう。しかし、釈迦が悟ったかどうかについての客観的な判断は誰にも出来ない。身も蓋もなくいってしまえば、釈迦は悟ったと思い込んだだけかも知れない。「悟り」というものが〈真理〉ならば、それが真理だという〈基準〉というものが、必要になってくる。さらに、「悟り」というモノは「先験的」に存在するものでなくてはならない。でなければ、悟りの数は、そう思った固有の数だけ存在することになる。
この程度のことに釈迦が気付かなかったとは思えない。「自燈明、法燈明」という釈迦の遺したコトバは、そこに重点が置かれている。従って、小乗(上座)仏教の「結集」以降の仏教は、まったく無視してなんら釈迦の思想を損なうものではナイ。この「自燈明、法燈明」という命題は、「唯我論」に陥らぬように発せられた巧みなコトバだ。ベクトルが逆なので「法」に囚われることも防いでいる。安直にいってしまえば、「矛盾」している。これは欠陥ではナイ。ここに「妙」が在るのだ。「妙」とは〈いうにいわれぬほどすぐれていること。きわめてよいこと。また、そのさま〉。あるいは〈不思議なこと。奇妙なこと。また、そのさま〉を意味する。
私たちは、この妙あるパラドクスに従って、「釈迦は悟った」ではなく、「釈迦は私たちに悟りへの道程(導程)を開いた」と心得ておいたほうがイイように思う。
釈迦にインスパイアした「悟りへの道程」は、私たちが現在の仏教学から教えられるものとはまるでチガウ。十二因縁も、八正道も、小乗(上座・出家)仏教が、都合よく後付けしたもので、こんなものは、はやいとこ棄ててかかったほうがイイ。ひろさちや老師も、釈迦の「悟り」とは、「この世界が〈縁起〉の構造・・・相互依存関係・・・になっていることを発見した」と述べているが、素人の強みで私が述べるとするならば、それは逆なのだ。つまり、釈迦の「悟り」とは「この世界が〈縁起〉の構造・・・相互依存関係・・・になっている、〈と、人間は思い込んでいる〉という発見」が、私なりの解釈だ。
もし、この世界が〈縁起〉の構造(相互依存関係)であるならば、私たちはそこから脱することが出来ない。それでは、婆羅門のいう輪廻と似たようなものだ。つまり決定論的、必然的法則関係の存在を認めねばならない。私の考えは、ひろさちや老師の命題を次のように少しだけ書き直すだけでイイ。曰く「この世界が〈偶然〉の構造・・・確率的相互依存関係・・・になっていることを発見した」
「人間が思い込んでいるような〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉は存在しない」これが、釈迦の発見、「悟り」であり、では、どうするかという「道程」への導きだ。(注意しておくが〈法〉 とは、仏教において「真理」を意味する。けして「法則的自然観」ではナイ)。
「世界は偶然によって生じる」はエピクロスのコトバだが、釈迦のそれは、さらに微細で深度がある。
もちろん、釈迦が量子力学(どころかニュートン力学も)を知っていたワケではナイことは明白だ。ただ、相互依存関係の弁証法を「あれでもナイ、これでもナイ」として選択したと思われる。この「あれでもナイ」をd/yとし、「これでもナイ」をd/xとする微分係数と関数座標面をかんがえればイイ。〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉は存在しないということは、量子力学的公理でいえば「重ね合わせ」こそがこの世界の実相で、何かを原因として、結果が生じているということではナイということになる。
もちろん、量子力学においても、波動関数のように、偶然や確率によらない決定論的な法則は存在する。それは、このマクロの世界においても直観出来るものだ。しかし、釈迦の発見は、非直観的なものだ。その非直観的自然観(法則的自然観の正反対)こそが、釈迦の思想を形成していく。
如何にして〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉を脱する(断ち切る)か。これが釈迦の求めたものであり、私たちを「悟り」に導く思想なのだ。どういうことかというと、「世界のことは何も決定されていない」よって「世界(私)は変わって(変えて)いける」ということになる。ここから三宝印「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」が発想される。三宝印は、存在の在り方の真実を説くのではなく、もっと〈積極的な主張〉なのだ。
「自燈明」とは、自らを以て燈明とせよ、ではなく、自らを照らす燈明を求めてこそ、燈明とせよ、であり、「法燈明」とは、この世界の在り方の真理の明かりを求めてこそ、燈明とせよ、になる。

本論を記すにあたって、「空論」と「無二の法門」が説かれた『唯摩経』はたいへん参考になった。ただし『唯摩経』は在家仏教者の書であるゆえ、小乗(上座)からは仏典(教典)とはみなされず「仏説」というふうに称されている。
「色即是空 空即是色」(般若心経)にあるように、なぜ「無」を用いずに「空」としたのかという理由(筋道)は、「空」の意味そのものの解釈にある。この「空」は老子の説いた「空」とはまったくチガウものだ。私はなんとか辿り着いたが(ヒントは、この文言だけが反転した繰り返しになっていることだ)、一つ読者もお考えになられることを願う。

2015年8月 9日 (日)

And in the End・捕捉

釈迦の思想にもどる前に、少しだけ捕捉しておく。「シュレーディンガーの猫」については、量子力学の「観測論」に対するシュレーディンガーの揶揄だったことは理解出来たと思う。つまり、endless。しかし、これは波動力学の限界であって、量子力学の限界を意味しない。量子力学の「観測理論」においては〈密度行列〉がさらに必要になる。
さて、ただし、だ。要するに「観測」において「確率的」に量子の動きは完全に記述出来るのだが、それはしかし、測定された量子においての話だ。そこで、測定されない量子は、どんなふうに動いているのだろうか。何ら測定していない、検出器にはひっかからない量子(簡単にいっちゃうと、誰も観ていないときの量子)だが、それを「観測」すれば、「シュレーディンガーの猫」の矛盾に陥る。ここでは、あくまで、観測者(人間)も観測装置も、観測実験もナイ場合の量子の動きを「もし、それがみえたら」ということで述べると、そんなとき量子は「あれでもナイ、これでもナイ」というまったく〈デタラメ〉に動いている。〈デタラメ〉といういい方が不満なら「偶然」と称してもイイ。あるいは「量子力学」の測定というのは、あくまで、量子を「観測」によって捉えたところの「確率」であって、「観測」によって捉えない量子の状態を量子力学は、どんな状態も「共存」すると記述する。この「共存」という概念(category)をもう少しいうと、最近やたらめったらもちいられる「共有」とは全く異なる。たとえばある量子が「イマ、ココ」にあって、「ツギ、ドコ」に動くかは、東南西北の方向に全て存在するということだ。よってつまり、「偶然」。これは、測定と測定のあいだの量子の動きは、捉えられないから、〈デタラメ〉「偶然」としかいいようがナイといっているのではナイ。「〈デタラメ〉、偶然でしかナイと記述することが完全(正しい)な記述であって、何か、人間の知らない神秘的な、あるいは決定論的なメカニズムは自然には存在しない」という主張なのだ。ニュートン力学に慣れ親しんでいる私たちにとっては、とてもイメージすることは困難に思われる。
そうすると、次なる疑問が当然、提出される。
「では、ニュートン力学と量子力学の〈つながり〉〈境目〉、どの辺りでどのように、量子力学はニュートン力学と融合、あるいは相転移するのか」
この問題については、ミクロとマクロの単位でそれを分別しても該らない。私の考えでは、ニュートン力学が、量子力学に進入することは全くナイとしてもイイが、量子力学の、その概念的な自然観は日常的にも活用可能だと思われる。視点を変えていうと、私たちは量子力学の動き(ふるまい・状態)を、「確率」「偶然・デタラメ」と称しているが、それらは、あくまで、私たちの脳裏がイメージした位相からすると、そう称するしかナイからそうしているだけで、量子力学的自然のほうが自然本来の在り方だとすれば、「確率」も「偶然・デタラメ」も、ナイのだ。これは、よく誤解されている光速度と似ている。私たちは光の速度は秒速30万㎞と教わったし、たしかに、観測するとそうなる。観測すると、ということは、観測者がいて、stop watch で計測すればという相対的な速度だが、実際には光の速度には時間はナイ。絶対的には光速度というのは、ナイということだ。どういうことかというと、1㎞進もうと10億㎞進もうと、光がその距離を移動するのに要する時間は0秒だということだ。

2015年7月25日 (土)

And in the End⑱

(ほんらいなら「混合状態・純粋状態」などの「波の重ね合わせの状態」についての説明もあるのだが、ここでは特に必要ではなく、かえって錯綜するだけなので、端折る)。端的にいってしまえば、ノイマンが、対象と観測装置の干渉によって波動関数が限りなく続くといったのには、かなり大雑把なところがある。すごく簡単なことなのだが、「観測者が実験室で扱う装置が、全体として量子力学的状態にあるとは、とても考えられない」と、まあ、これだけのことだ。私たちの視線で観た月のことを思い出せばイイ。私たちの視線と「月」が干渉しあって、波動関数の波になるということは実際に、あり得ない。
とはいえ、検出装置(フィルムなど)については、厳密な検討は必要だ。たとえば、フィルムについては、一枚のフィルムを細かく分割し、分割された部分が直径が数ミクロン、その中に含まれる原子の数は10の18乗程度が標準とされている。
この検出装置に電子が一個、痕跡を残したとする。タイセツなのは、この電子一個は以下のごとくだということだ。
○一個でも「重ね合わせの原理」において「重ね合わせ」は行われている。このことは、電子という量子一個は、それ自体で以下の三つの形態を物語る。
1、量子一個は、全体と同じである。
2、量子一個は、全体と関係している。
3、量子一個は、全体の部分である。
このあたりのことは、拙著『恋愛的演劇論』に詳しいので、それを買って、買って、買って、読めばワカル。
ノイマンのいうような「意識」「超越自我」などのオカシナ観測者の主観による影響は、検出装置を正しいものに設定すれば、起こり得ない。「観測は、ミクロの対象とマクロの装置との客観的、物質的な相互作用であって、主観というコトバの印象が与えるような、非物質的、非因果的なものではナイ」(町田茂『量子論の新段階』)
では、装置なしではミクロの対象は存在を肯定出来ないのだろうか。そういうこともナイのだ。他の物質との相互作用によらずにその存在を知ることの出来る物質というのはナイからだ。これは物質がミクロだろうがマクロだろうが共通の客観性だ。
「密度行列」についても、拙著『恋愛的演劇論』に詳しいので、それを買って、買って、買って、読めばワカルので、前述したが、量子の時間についてもう一度述べるなら、量子が検出装置と相互作用する前の時間はt=-∞、だし、検出装置を通過して相互作用したアトは、t=+∞、になる。「猫」の場合も、観測の「瞬間」というコトバが使われるが、これはあまりに安易で、それはマクロにおける「瞬間」でしかナイ。ミクロの量子の場合の瞬間は「無限大」の時間として扱える。
以上、量子力学的な横道において、私たちに残された問題があるとすれば、では「時間」とは何なのだ。という、オソロシイ難問(アポリア、Aporia,「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」「困惑」「当惑」)だけだ。
それについては、いまのところ、以下の思いつきを箇条書きするしかナイ。

/時間が物質ではナイとすると、意識が対象としているモノではなく、それ自体になる。あるいは等価になる。/しかし、確かに時間は物質ではナイ。にも関わらず物理学的に扱われる。/蜻蛉の1時間と人間の1時間は違うのだろう。では、何が違うのか。/物質の相互作用によらずに存在を知る物質は存在しないのなら、相対的な時間は物質なのか。/
カントでいえば先験的なモノなのか。/例えば、二種類存在するというのはどうか。意識としての時間。時間子という量子としての時間。この世界全てを量子力学で観ればそれもある。/と、すると、時間はエネルギーを持つことになる。/光が粒子であり、しかし、質量は0であり、時間も0であるけど、粒子として物質であるのと同じように、時間もそれと等価なのかも知れない。/ともかく、光と何か関係してることは考えられる。つづめていえば、光の属性なのかも。/暗闇という状態は存在しない。ただ、波動をヒトが可視的に捕らえられないだけだ。/ある時は、それを光として捉え、ある時は時間として捉えるという「等価原理」があるのでは。/すると、老いていく、エネルギーの減衰、というのは、光としてのエネルギーを減衰していくこと。等価原理としていえば、時間にエネルギーを持ち去られることになる。/

でと、おつかれさま、としかいいようがナイが、ここらで、量子力学領域から、釈迦の思想(思考)へ還ろう。

2015年7月24日 (金)

And in the End⑰

「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。ここで、ちょっとタイセツ(重要)な手続きをふんでおかねばならない。それをふまないと、ウンコを踏んでしまったり、糞で置かねばならなくなったりするからだ。それは、「測定」と「観測」というコトバの定義、その差異についての正しい認識だ。んで、定義しておく。「測定とは、ある装置を使って実験し、最終的にある計器の目盛りを読み取り、その数値から、ある対象のもつある性質について知る。つまり、得られた数値から、対象の始めの状態についての情報が得られるような過程」をいう。「観測とは〈厳密〉には、装置が与えた測定値を観測者が観る過程までを含む」ものをいう。これは、町田茂さんの定義なのだが、ナンダヨ一緒じゃないか、前者はうまく観測者を消しているだけじゃないか、と、半畳入れたくなる。本人は微妙なものだとことわってらっしゃるが、もちっと簡単に分別することは出来る。私のような門外漢にもワカルように私が私にいうならば、たとえば「顕微鏡を観測者が視ている。覗いている」これはどうしたって「観測」に該る。実験されたデータが次々と送られてくる。いまなら3Gなんかのデータ通信で。それを科学者が読み取る。そこから得られる数値は測定値だから、これは「測定」になる。この場合、観測者は実験(測定)に全く関与していない。
ここまでなら、量子力学も問題なくやっていけた。ところが、後者についても疑義が発生した。「測定装置」をどう考えるか、だ。これは、私が演劇論をあーだこーだと考えてた際に、さまざまな「学」から何か演劇に使えるものはないかと、量子力学に手を出したときに、のっけから疑問だったものだ。(私は量子力学が勉強したかったワケではナイ。数学や哲学や、物理学や、およそ演劇とは縁遠いものから、演劇に応用出来るものが何かナイかと、類推〈Analogy・アナロジー〉したり、引用したりと、よくいわれるところの思考のanarchismとやらをやっていたとき、いってみるならそれぞれの概念をカスタマイズ〈customize・必要に応じて自分流に変換していく〉していたときの道程の中に量子力学という便利なものがあったというワケだ)。
で、のっけの疑問というのは、前述したと思うが、電子がスリットを通ってフィルムに到達して痕跡を残すとき、フィルムもまた量子のかたまりだから、それは、ほんとうに電子の痕跡といえるのか、反応ではないのかという、そういうものだ。
ここで、先にカタをつけておくべきだからそうするが、電子を一個発射して、フィルムに一つの点(電子の痕跡)が出来る場合も、電子という量子の「重ね合い」は生じている。何故なら、その量子は、○Aと○Bを同じに(つまり波動として)通過してきたからだ。一個の電子は○Aと○Bを通過した波の干渉なのだ。
もとえ、「測定装置」もまた量子のかたまりだ。では、何処で量子は最終的に観測出来るのだろうか。この問いを投げかけたのは、時の大数学者フォン・ノイマンで、数理経済学者なんかは、ノイマンの「ゲーム理論」なんかを、まさに「どや顔」で解説するのだが、そのわりには、現在の世界的不況がどうにかなっているとは思えない。(遠山啓老師が生きてらっしゃった頃、数理経済学については、「ちょっと勇み足なんじゃないの」みたいな発言をされている)。
「シュレーディンガーの猫」の場合、「猫」は観測(測定)の対象のように述べられている。では「猫」の何を測定しようとしているのだろうか。もちろん、蓋を開けたときに、生きているか死んでいるかということをだ。が、観測過程というのは、ミクロの対象と測定装置との相互作用の過程をいう。量子力学においては「波束の収束」が起こったときを測定の結果とする。「波束の収束」というのは、波形でいうならば、最も強い波形が現れた部分。ダブル・スリットの干渉縞でいうならば、最も密度の濃い部分をいう。つまり、「重ね合わせ」が最も多い部分だ。量子力学の場合、先述したようにたとえ一個の量子でも「重ね合わせ」だ。従って、「重ね合わせ」はあちこちに起こる。いわゆる「波束」というものだ。量子力学が〈確率〉を扱うのは、その「波束」が、もっとも収束する部分を測定するからで、これは確率でしかナイ。コトバをかえれば測定装置との相互作用によって、「波束の収束」がイチバン高く生じたところ、そこを測定最終地点とする。
ところが「猫」はどうだ。蓋を開けるまで結果は50%の確率しか持たない。これでは、観測の意味がナイ。そこでシュレーディンガーは、量子力学はこんなもんだよと、さっさと足を洗って、分子生物学の方向に進んだのだ。
フォン・ノイマンのいいぶんを聞こう。
「測定しようとするミクロの対象があるとします。もちろん、これは波動関数で表されるものです。干渉を起こし得るでしょう。それを何かの装置、たとえばフィルムを使って検出するとします。ミクロの対象もフィルムも相互作用しますから、衝突によって起こった事象の変化は、これも一つの波動関数に過ぎません。ここでも干渉が観測されます。さて、私たちはそれらを肉眼で観ることが出来ます。フィルムからの視覚刺激は網膜に入ります。すると網膜も同様に干渉を生じ、波動関数で現されることになります。そうなると、さらに視神経、脳、とどこまでいっても干渉は起こり、波動関数で現されることになります。
これはキリがありません。量子力学においては、すべてが重なった状態ですから、どこかで、非因果的過程に転移して波束の収束が起こらねばなりません。とすると、それは〈意識〉もしくは、〈抽象自我〉ということになります」
ついに観念論に到達したワケだ。
実は、シュレーディンガーは、このノイマンのいいぶんを得て『量子力学の現況』という論文を書き、そこに「猫」を登場させて、ノイマンへの批判とした。ノイマンの理論からすれば、猫も観測装置と同じになる。波動関数の中にある。よって「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせ(干渉)が生ずるというものだ。
同じことを別のバージョンでいうならば、この実験を一つの実験室で私がやって、蓋を開けて「猫」の「生死」を確認したとき、死んでいたらそのサインを出すとする。手を挙げるだけでイイ。そのアトにあんたはんが、そこに行く。すると、あんたはんからしてみると私も観測装置の一部となるので、あんたはんが自分で実験室を覗いてみるまでは、私は手を挙げた状態と挙げない「重ね合わせの状態」になる。これではキリがナイ。「シュレーディンガーの猫」をかのように解説している量子力学の本も、私は読んだことがある。この本は状況は述べているが、本質はまったくthroughしていて、けっきょく、無駄骨だった。
しかしながら、ノイマンのいいぶんでいくと、これはもう「唯我論」の世界に突入なのだ。
だから、要するにシュレーディンガーは、「猫」という対象もまた装置に変ずるので、キリがナイぞという揶揄を、この実験で述べたのだ。先述したように、足を洗いたくもなるというものだ。
では、「波束の収束」は測定出来ないのだろうか。そうではナイのだ。そこには、測定装置がマクロで、対象がミクロだという、事象と相互作用との関係と、量子の持つ「時間」とが加わってきて、「密度行列」という波動関数では現せない量子の動きがあるのだ。しかし、この辺りは、本論とかなりかけ離れたから端折ってもイイんだけどね。ついでだからなあ。

2015年7月18日 (土)

And in the End⑯

And in the End⑯
さあ、ここまで、よくワカランかっただろうと思う。少しはワカッタが途中でワカランというひともいたろう。しかし、これを全てワカルように懇切丁寧に書いていくと一冊の書籍になってしまう。
もう少しワカリヤスク書きたいのだが、残念なことに私はこのブログ欄に図を描く方法を知らんのだ。そのリテラシー(読み書きの技術)さへ駆使出来れば、百聞(書き)は一見というワケで、ああ、そういうことかとすぐに理解してもらえるのだが、まことに残念。
とはいえ、出来るだけのことはやってみる。まず、「量子力学においては古典力学のような〈法則的自然観〉というものはナイ。観測されていない自然というものは、客観的には運動していない」というのは、どういうことかというと、読んだ通りのことで、量子の運動(動き)には何の法則性もナイということだ。けれども「法則性がナイという法則はアル」のだ。ある客観性というものだが、それが、「これを観測すると、一つの結果を観ることは出来る。しかしそれは、あくまで、自然の中の〈一つ〉にすぎない」ということになる。この一つの結果を観る客観性は、ハイゼンベルクの提唱した不確定性関係としてよく知られている。この不確定性関係は数多の物理学の新書や哲学関連書、入門書、ガイドブックなどで〈不確定性原理〉と書かれていることが多い。しかし、これは原理ではなく、あくまで量子力学の幾つかの原理から導かれた結論といっていい。まともな量子力学の書籍においては「関係」と称されている。(未だに〈原理〉と書かれているなら、そのての本は棄てなさい。たいてい他の事項もアヤシイから)。いまその「不確定性関係」について詳細を書く時間も紙数もナイので(それで一冊の本になる)、ここでは省く。興味のある方は、そのての一冊本なら書店の何処かに並んでいるはずだから、捜してお読みになればイイ。
次に「これは、観測者の関与や観測機器に因るものではナイ。それらは一切、観測には入り込まない」というのは、たとえば、これも素粒子物理の新書の中でさへ、「観測者が顕微鏡をのぞくとその眼から出た波動(光)で、対象が影響を受ける」てなことが書いてあったりする。こんなのをいったいどれだけ読まされたか。読むたんびに、納得のいかない思いだけが残った。たしかに極々微細には、対象に眼からの波動はぶつかるのだが、語弊をおそれずにたとえをいえば、それは、私たちが月をみたら、どれだけ月の動きに影響があるかといっているのと同じ程度で、たしかに月もまた量子の塊なのだから、その動きに影響はナイとはいえない。が、六十億の地球人が一斉に月を観ても、月が微動だにスルことはナイ。
そもそも、イチバン重要なのは、そういうところで、量子の観測においては観測者が入り込む(関与する)ことはナイ、ということのほうなのだ。これが、「シュレーディンガーの猫」における、シュレーディンガーの皮肉をこえていくにはタイセツなのだ。
そこで、まず私たちはここまで転戦する。「古典力学では、運動量は一つだが、量子力学では、それは三つになる。○物理量(位置、速さ、方向)自体、○その測定値、○数学的表現(作用素)」だ。では何故、三つにもなるのかというと、量子というものが「波動」でもあり「粒子」でもあるという(もちろん、「波動」でもなく「粒子」でもナイという逆のいい方も可能なのだが)、これまたどうしてもイメージ不可能なモノだということを理解することから始めなければならない。適当な「オッカムの剃刀」でもあればイイのだが、ここにはそういう便利なものはナイ。だから、何故「波」であって「粒」なのかという、これこそ量子の〈原理〉を了解する作業から始める。これが理解出来れば、「重ね合わせ」ということがどういうことなのか、ワカッテくる。そうすると「猫」が生きているのと死んでいるのとの「重ね合わせ」だといわれてしまうのかという理由もワカル。
これには有名な「ダブル・スリットの実験」を解説していくのが最も適切だ。図が描けないので、苦肉の策でこんなふうに記す。
□→・・これは電子銃だ。ここから矢印の方向に電子を飛ばすことが出来る。
| ○A  ○B |・・これは実験用スリットでAとBに○こういう穴があいている。二つ穴があるのでダブル・スリットという。                    |/////////|・・これがフィルム(検出装置としてもイイ)。いまその素材の量子については便宜上、問題にしない。
これを並べる。              
□→~~~~~| ○A  ○B |~~~|/////////|
電子銃から発射された電子は~~と進んでスリットの○を通り~~と進んでフィルムに到達する。フィルムが感光する。といった具合だ。
たとえば、電子を一個発射して、それがフィルムに到達、感光がみられたとする。
□→~~~~~| ○A  ○B |~~~|///////・//|(図P)
と、こんなふうになる。ここで私たちは電子の粒子が○Aか○Bかを通ったというイメージしか持てない。たとえば電子をパチンコ玉に見立て直せば、その通りだ。けれども、それは古典力学(ニュートン力学)のカテゴリーならば、そうだということだ。ほんらい、この実験では、電子を次々に発射すると、フィルムの感光に縦縞の干渉縞が現れることから、量子(電子)の波動性をいうことに用いられるのだが(つまり電子は○A○Bの両方を同時に通っている)、
あえて、この(~~~~)の部分について言及してみよう。つまり、電子がスリットに到達、通過、フィルムに到達する、その過程において、量子はどんなふうになっているのか、ということだ。そのときは「粒」なのか「波」なのか。
(図P)においては、フィルムに到達しているその状態は「粒」だが、たとえ1時間の間隔をおいて、電子を発射しても、1秒間に数万個の電子を発射しても、フィルムには縦縞の干渉縞が現れることから、一個ずつだろうが、数万個一挙にだろうが、量子(電子)は一個の場合でも数万個の場合でも、時間の間隔にも関係なく、「波」であり「粒」として移動しているといわざるを得ない。では(~~~~~)の部分では、どこまでが波状で、どこが粒状なのだろうか。この状態を量子は、物理量(位置、速さ、方向)自体、と、数学的表現(作用素)として、運動しているのだが、(~~~~~)の部分においては、粒でもなく波でもなく、量子力学的状態として移動しているとしかいえない。ここが古典力学との大きなチガイだ。物理量自体としては、不確定性関係によって、位置と速さ、方向は同時に求められない。しかし、数学的表現としてなら、シュレーディンガー方程式によって、複素数平面の関数として求めることは出来る。これを波動関数というのだが、複素数ゆえに、二元数(実数と虚数の二つの単位を持つので)だ。(古典力学や日常世界は一元数)。複素数だということは虚数を含むので、観測機器には引っかからない。計器の目盛りに現れるということはナイ。
シュレーディンガーは、量子を「波」と考えて波動力学という量子力学を提唱した。これは一つの量子の在り方だ。「波」ということならば、量子は「重ね合わせる」ことが出来るということだ。(これを「重ね合わせの原理」というのだが、つまり「猫」が「生死の重ね合った状態にある」というのは、この辺りからきている)。
数学的には、こういうことが出来るのは、ベクトルだ。よって、波動関数の状態から、さらに波動関数を求めていくことを「状態ベクトル」と称して、これを波動力学における作用素と称する。
要するに、「シュレーディンガーの猫」において、「猫」は「生死の重なり合い」に在るということはワカルが、生死のほどは、蓋を開けないとワカラナイというのは、まさにこのことだ。では、「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。        

2015年7月10日 (金)

And in the End⑮

訃報ありて寂寞の夜に独り在りこれを孤独といわば腑に落つ

まず、量子力学に対する誤謬、錯誤がなぜ専門の物理学者においても起こりうるのか。つまりや、その御方たちの書かれた書籍を私は何冊も読んでんねん。ほんで、やっぱりオカシイと疑問符を持ち続けてきた。だから、著名な社会学者やミステリ作家が、それを応用、引用したマチガイは無理もない、としかいいようがナイねん。
ともかく、一つずついく。
☆古典力学(ニュートン力学)はマクロのものを扱うので、マクロのものとマクロのものを比較する場合、認識の仕方は同じだ。
☆そうしてそこ(の自然)には〈法則的自然観〉というもの、いいかえれば「秩序」というものがある。
☆理論は、その外部に対象を持っている。
☆すべての理論は作業仮説をその内に持っている。
ところが、
☆量子力学においては〈法則的自然観〉というものはナイ。どういうことかというと、観測されていない自然というものは、客観的には運動していない。けれども、これを観測すると、一つの結果を観ることは出来る。しかしそれは、あくまで、自然の中の〈一つ〉にすぎない。(これは、観測者の関与や観測機器に因るものではナイ。それらは一切、観測には入り込まない。・・・これが、ちと重要なとこなんや。ここでたいてい間違えるからなあ)
☆もう一つ、錯誤につながるものの代表として、「私たちは古典力学をイメージすることは出来るが、量子力学をイメージすることは出来ない」のに、ついつい、量子力学をイメージしてしまうところだ。たとえば、量子(電子としておくが)が、スリットを通過した、というイメージを私たちは、どうしても古典力学的にイメージしてしまう。しかしそれはマチガイなんや。電子は「量子力学的にスリットを通過している」のだ。それを「時間」で捉えると、マクロの時間はT=h→0でも量子力学の時間はT=∞になる。つまり古典力学でいう「瞬間」は、量子力学においては「無限大」の中の一つでしかナイということだ。瞬間的に電子がスリットを通過した、というのはあくまで古典力学のイメージにすぎない。これは、古典力学における「時間」と量子力学における「時間」とは、別々に現実に存在する、ということだ。
☆古典力学において理論的対象を数学の方程式で現すと、一つの「解」が求められる。これは測定対象の予想(現象)と1対1対応する。しかし、量子力学においては、1対1対応しないのだ。量子力学においては、その法則として「決定論的なもの」・・・これは偶然も確率もナイ(波動関数はここに入る)ものと、「確率的、偶然的対応」・・・これ非直感的というのだが、この二つがある。
☆古典力学では、運動量は一つだが、量子力学では、それは三つになる。
○物理量(位置、速さ、方向)自体、○その測定値、○数学的表現(作用素)・・・作用素とは、波動関数(状態ベクトルという)を他の波動関数に変える作用をいう。で、状態ベクトルいうのは何や、というと、「波と波の重ね合わせ」のことを、そう称するんや。つまりや、量子というのは「重ね合わせ」の状態だと、おおまかにいうとそういうこっちゃ。
☆もし、どうしてもイメージしたかったら、ある量子がダブルスリットを通過するとき、それは(シュレーディンガー方程式における複素数平面の)雲だとイメージしてもイイ。これがスリットのA、Bを通過して(ほんまは波動、波なんやけど)、フィルムに到達するときは粒子として到達すると、そう考えればイイ。
☆そうすると、量子というのは、一個それ自体で干渉していることになる(重ね合わせになっているということや)。
これだけ、量子力学と古典力学とでは、根本的な差異があるのだが、私たちは何故、この両方の世界を生きているのだろうか。というより、量子力学と古典力学の関係はどうなっているのか。これについては、
☆古典力学は、量子力学が相転移したものだ。と、考えておけばイイ。
まんず、面倒なことは省略して、ここまで解説したが、「シュレーディンガーの猫」をとっ捕まえるには、もう一つ、難問がある。これぞ、私もまた、さまざまなそのての書籍を読んで、合点のいかなかったことなんやけど、たとえば、「電子の観測をするのに、いま一個の電子をフィルムに飛ばして、フィルムに電子の痕跡が出来た」という文言は、どうしても納得出来ないでいた。そやかて、フィルムもまた量子の集まりやないか。ほな、それは電子の痕跡ではなく、電子とフィルムの反応(相互作用)とチガウんか。フィルムは決して測定装置には入らない。というものだった。これは、どの書籍に該っても明確な解説も説明もナイ。マクロなものもミクロの集合だとするなら、何を「測定装置」と呼べばいいのか。いったい、量子の測定など出来るのか。
これについては、私の「疑義・疑問」は正しかったらしく、最近になって、「観測理論」と、この分野は称されて、物理学者のあいだでも喧々囂々、侃々諤々、議論されていることがワカッタ。
んで、やっと、まともな「観測理論」に巡り逢った。町田茂さんのものだが、このひとは唯物弁証法をキチンと学ばれていることが、著作を読むうちに理解出来た。
さて、昼飯の拵えしようっと。「猫」をとっ捕まえるのは、もうちょっとやで。もらろん、そこから釈迦の思想にもどるのも、アトちょっとや。

2013年10月10日 (木)

ニュートン力学と量子力学の相関

11月に『恋愛的演劇論』を上梓するにあたり、三度目の著者校正をやってたとき、ついでに、最近買った『量子革命~アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』という、えらいタイトルの書籍を、休憩時間に読んでいた。すると、面白いエピソードに遭遇した。ハイゼンベルクは、イメージというものに一切頼らず、実験とその結果から得られる数学的演算においてのみ、量子の動きを説明しようとしていたのだが、たしかに実験ではそうなるのだが、演算が一つだけどうしても合わない。しかも、それは小学生にでも解けるような演算で、(A×B)-(B×A)=(B×A)-(B×A)にならないというものだった。これさへ解ければ、量子の力学に革命的な論説が与えられるのだが、どうしても、そうならないのだ。
そこで、彼は当時の物理学者の知己の多くに、手紙を書いたのだが、これを真に受けて考えたのは、ボルンひとりで、かつ、ボルンが、その理由をみつけ出したのだ。それは実に簡単なことだった。行列計算だったのだ。しかし、当時は行列の概念は、数学的にまだ始まったばかりで、ハイゼンベルクには、まったく行列の知識がなかった。
もちろん、私にも知識は殆どナイから、どうやって行列計算から、そうなるのかは、ワカラナイ。ワカラナイので、頭を抱え込んだが、量子の運動を測定するとき、量子を飛ばす順番によって、測定値がチガウのだということは勉強していた。たぶん、それに関係するのだろう。量子力学はこのように、簡単な算数の日常的な感覚をすら、変えてしまう。いや、変えてしまうというのは厳密な意味で正しくはナイ。自然を量子は変えるのではなく、量子力学のほうが正しい自然で、私たちのイメージのほうが間違っているのだ。
これはニュートン力学が間違っていて、量子力学が正しいということを、すぐには意味しないのではないかと、私は、前述した演劇論を書き上げて、そう思った。私の稚拙な推察では、ニュートン力学も、量子力学も、根本は同じで、その姿(形態)が変化しているのに過ぎないのではないかというものだ。どうしたって一枚の鉄板は固形の鉄板なのだが、この鉄が(元素記号は Fe)原子の段階まで微細化されると、まるで、スカスカの量子の集合になってしまう不思議と同じだ。どちらも「鉄」にチガイはナイのだが、私たちはスカスカの鉄という姿(形態)もまた、受け入れなければならない。どっちも正しいのだ。
もはや世界(自然)は、私たちの前に二通りの真実の姿をみせている。これは、私などの偏屈もんにとっては、すこぶるオモシロイことだ。いま私は、パソコンに向かって打鍵しているが、これは固形物(という姿=形態)でもあるが、電子(という姿=形態)と戯れていることでもある。keyをtouchする。その行為が、電子に及ぶ。なんともステキな関係を私たちは味わっているではないか。この時代に生まれてよかったなぁ。

2011年2月24日 (木)

マスクと読書

二カ月ほどの名古屋マンスリーマンションでの生活は、それほど退屈なものではなかった。夜は稽古だし、帰ってきてからは、風呂に湯が入る1時間20分もの長い時間(なんしろ、古い風呂なもんで、チョロチョロと水道から湯をはって、さらに追い焚きするとそれくらいかかるのだ)や、朝ミスドでコーヒーをやってから、昼に飯、それから夕方に出かけるまで、特に飲む打つ買うの趣味のナイ私は、近所に名古屋ではけっこう名のあるパチンコ店が三店あるに関わらず、横目にはみながらも一度もそのドアをくぐりはしなかったし、歓楽街にあるゆえ、飲み屋も豊富なのだが、外で飲む習慣がナイので、ポツポツと、独り、暗い酒を飲んでいるか、マスクをしながら読書をしていた。これも、近所にけっこういい書店があったので、二日に一度は出かけては、ひさしぶりに最近のミステリを買って読んだり、こういうのも閉じ籠もりというのだろうなと、マスクをしながら(くどく書くが、外に出るときははずすのだ。何故なら、借りてもらった住居は、ハウスダストがひどく、マンションとはいえ、ふつうのアパートの結構で、塗ったばかりらしい壁からの白い粒々が、カウチの前の机に点々と、拭いても拭いても、1時間ほどすると味の素をふりかけたように積もってきて、これはヤバイと、防塵マスクをしながら)本を読んでいたのだ。ミステリのことは、また次の機会に書くが、これはいい買い物をしたと思った書籍は、『東京大学で世界文学を学ぶ』(辻原登・集英社)と『量子の社会哲学』(大澤真幸・講談社)で、両方とも、いろいろと興味深いところが多々あった。前者は、文学知らずの私にとっては、「へーえ、文学というものはオモシロイもんなんだなあ」という感心と、スロフトの第2回公演用の戯曲を書く上でのこの上ないmotivationになった。後者は、その一部をチャッカリ『ゴーシュの夜の夜』の舞台美術の参考にさせて頂いた。前者は殆ど門外漢なので感服しきりであったが、後者は、やはり、量子力学についての誤解がみられた。それ以外というか、援用においてはかなり好奇心をそそられる、冒険的な内容だったのだが、著者は、社会学が専門の方なので、当然といっていいほどの誤解があるのだ。これは、おそらく参考にされた物理学の書籍自体が間違っていたに違いないと思う。具体的にいうと、量子現象における「遅延選択実験」についてなのだが(この著書では「観測」となっているが、正確に物理学的にいうと「測定」)、この量子の遅延的なふるまいについては(波動となってスリットをくぐったとたんに測定すると、また粒子になるというもの)著者が書かれているような「観測者」が関与する余地は一切ナイ。量子力学では、量子の遅延作用についても「完全に記述」する。そもそも、量子力学においては、「観測者」の入り込む部分はまったくナイ。観測者と量子とは何の関係も持たないのだ。従って「観測者がみた瞬間に波は粒子となる」というふうなことは生じない。それが「あたかも観測者を裏切るように」ということもなければ、「まるで量子のほうに[知]があるように」ということもナイ。metaphorとしては、オモシロイが、事実はそうではナイ。しかし、そういう錯誤を差っ引いても、この著作はかなり圧倒されるオモシロさがあった。こういう知識の積分のような本は大好きである。前者においては、現実、metaphor、fictionとはなんであるかということを、突きつけられるように考えさせられた。スロフト第2回作品の『この夜の果てへ~二人だけのドグラマグラ』は、ペーパーワークで、その威勢を借りて書かれたような作品だ。(公演は来年初頭ですが)。防塵マスクのおかげで、ひどくはならなかったが、未だに気管支の具合はよろしくナイ。

2010年1月23日 (土)

シュレディンガーの猫、への試問・続

おそらく前述の試問については、こういう反発がなされるだろう「『シュレディンガーの猫』という思考実験は、そういう意味の実験ではナイ」つまり、そういう反発をする者は、量子力学の持っている不確定性を強くいいたいワケだ。だが、このブログにも何度か書いたように、実験というものに「観測者」を考慮するというのは、正しいのか。また、考慮するのであれば、どういう位置づけをしなくてはならないのか。まず、観測者から超能力者は省かねばならない(もちろんジョークだが)。リー・スモーリン『宇宙は自ら進化した』(NHK出版・野本陽代訳)でも「量子論は、研究対象となっている系の外にいる観測者にとって、特別な役割があるように思える」とあって、観測者と実験の関係を取り沙汰しているが、量子力学の実験においては、観測者は一切その中には入ってこない。観測者が実験に影響を与えるというのは、通俗的な解釈、あるいは、学者のあいだにもはびこる錯覚であって、量子力学の実験、測定は(数学的にではあるが、そうなるしか仕方がない)観測者とは無関係に「完全に記述される」ものだ。そこで、観測者が箱の中の猫を扱う場合、観測(測定)した結果のアトの関係だけが問題となる。およそ、実験(思考実験も含む)というのはそういうものだ。単に実験のための実験などあるはずがナイ。実験(測定)の結果を踏まえて、実験をしたものが、それにどう関わっていくかが次の課題になるのは至極アタリマエのことだ。そうして、ここで重要なのは、実験は(人体実験は別にして)非人間的なものだが、実験後に関わるのは人間だということだ。ここをthroughすると、科学や技術というものが、まったく人間とは縁のないもののように思えてしまう。べつにバラエティ番組に白衣を着たどこやらの教授が現れて、風船が飛んだとか、電気がビリビリきたとか、あのような宴会芸みたいなところまで実験を貶めなくとも、実験は人間のためにあり、人間はその予測をして、結果において、また試行錯誤を始めるのだ。生還した猫を抱こうが、息絶えた猫を抱きしめようが、問われるのは、つねに人間(性)であることは自明である。