Sisyphus descending from the summit-35
私はそこを「共同スタジオ」と称しています。正式には『大須七つ寺共同スタジオ』とかいうのですが、略して〔七つ〕と呼ばれてもいるようです。が、それは、七寺という大須の寺が近所にあるからで(稲園山七寺)、他、何の関係もありません。それを「大須の七つ」なんていうから、寺のほうからクレームがきました。むかしのハナシです。
「共同スタジオ」で、『二人のアリス』という自主映画を観たのは、二十歳前後の頃。別役実さんのアリスものをコラージュした芝居のfilm versionなのですが、〔二人〕のというのは、前半と後半で主役のアリスを演じた方が違うからでした。というのも、やはり科白を全て記憶するのは無理だったようで、やはり、というのは、役者さんは一人(青年座の方)を除いて、全て某精神病院の患者さん。つまりアマチュアでして、主役の女性はかなり科白が多かったのです。(ついでに書いておきます。科白は〈せりふ〉と読みます。台詞もせりふですが、科白のほうは、身体的動作-しぐさ、も含みます)
私は同化能力がイイものですから、わりに役者さんのモノ真似が上手いのです。芸達者ともいわれます。(ですから、演出するときは、身振りではミッションしませんでした。そいつをすると、私のほうが上手くヤってしまうからです)。しかし、その私が、フィルムではありましたが、登場する役者さんの誰一人として真似出来ませんでした。圧倒的に真似出来ないのです。役者が精神疾患者だからではアリマセン。訴えてくるエネルギーがチガウのです。当時、私はまだ役者を兼業していましたが、わりと〔天狗〕になっていまして、その天狗の鼻をへし折られたという感じでした。
彼らにはまったく敵わない。そんなふうでしたから落胆、悲観したかというと、そうでもないのです。「これだよな、これなんだよ」と、私は〈演ずる〉〈演技〉〈演技力〉の本質を発見しちまいました。この辺りを演劇論にしなければいけないナと、思いはしたのですが、若いというのは将来の時間が有り余るほど在ると錯覚しますから、勉強し始めたのは三十歳を過ぎた頃からです。横道に逸れて述べておきますと、水泳の練習もその辺りからで、それまで私は泳げませんでしたが、私の水泳はまったくの独学で、フォームを褒められるくらいに泳げるようになりました。
さて、簡単に、論理解釈しておきましょう。ワークショップなどで、「演ずるとはなにか」「演技とは何か」「演技力とはなにか」という、問題(課題)を提出しますと、簡単なようで、スッキリ回答出来るひとはまずいません。極めて簡単に論じてしまいますと、「演ずる」とは、〈役を演ずる〉ということです。まず、〈役〉をイメージして、それに近づけて科白(コトバとしぐさ)を付けていくことです。たいせつなのは、役にどういうイメージを描くかということと、役のイメージどおりに声とコトバを操る術を用いなければならないということで、こいつが難しい。これを「演技(演ずる技術)」というのです。では、「演技力」というのは何かといいますと、コイツは、よく勘違いされていますが(プロの方にも勘違いしている方は大勢います)演技の実力のことではありません。「あの人は演技力がある」なんて、よくいったりしますが、それをいうなら「演技に長けている」が正しいのです。そういう云い方はまず、しませんし、聞きませんけどネ。
「演技力」というのは、諸説ある、と百歩ゆずってはおきますが、私の場合は、マルクス経済学にある〈労働力〉から拾ってきました。解り易くこれをいい替えると、運動エネルギーというより、位置エネルギーに置換できます。「蓄積」されたエネルギーといってもいいのです。これはポテンシャル・エネルギーといいますが、メディアでは違った意味合いでこのポテンシャルというコトバを使っていますから、ここはちょいと、AIにプロンプトしてみましょう。
AIのassist・answerは/「ポテンシャル(potential)」とは、まだ発揮されていない才能や将来性、潜在能力を指す言葉で、ビジネスでは「伸びしろがある」「将来有望」といったポジティブな意味で使われ、経験や学習によって成長する可能性を秘めた状態を指します。物理学では「位置エネルギー」などの、目に見えないエネルギーを指す場合もありますが、一般的には「潜在能力」「将来性」「可能性」を意味し、現在のスキルではなく未来の成長力に注目する際に用いられます/でした。なかなかイイanswerです。これをそのまま用いてもよろしいですし、その役者の演技の深度として捉えてもよろしいですし、もう一つ、これが最もタイセツなところですが、/そのヒト(役者)がそのヒトの人生において、固有値として潜在、顕在を問わず、持ち合わせている能力/のことです。
私は、ついこのまえ、『うつろ座』というシニア・ユニットのお芝居(『いっぽんのキ』於、ひまわりホール)を観ましたが、演技の上手い下手よりも、私は演技力を重視しますので、各自の固有値である演技力に堪能しました。演技の上手いヒト(役者)はプロにもアマにもいっぱいいますが、それらの多くは演技術(テクニック)であることが多いのです。そんなものには、厭き厭きしていますので、私は、かつて観た『二人のアリス』のあの役者さんたちのあの蓄積された人生の演技と演技力と同様に、舞台という時空に、自身の演技力時空を貫徹させる(しか方法がナイのだ、としても)役者さんたちのお芝居は、かつての私の劇団の劇団員たちのテクニックそっちのけのソレのようで、とても懐かしく、愛すべきものでありました。演劇は虚構です。けれどもそれは、/自分自身の人生の虚構/でなくてはなりません。それをあの唐十郎老師は〈特権的肉体〉と名付けました。ひさしぶりにそいつを観ることが出来ました。ありがとうごさいます。

