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カテゴリー「演劇」の記事

2020年11月 9日 (月)

港町memory 153

「バイデン、勝ったみたいですよ」
 院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんに、ニイちゃんは小声でいう。
「ニイちゃん、あのな、選挙に勝つくらい屁みたいなもんや」
「トランプは/法廷闘争/、ああ、懐かしいなあこのコトバ。とかをする、いうてますよ。やれんことはナイとおもいますが、法規社会ですから、でも、勝ち目はナイというか、万が一勝ったとしても、アメリカ中に混乱どころか、暴動、いや内乱が起こるだけですよ。負けは負け、四年後におばさんのいうとおり、また出てきたらイイんじゃナイですかね」
「包茎痘瘡、まあ、銭があるぶんヤレばエエねんけどな、しかしまあなんやな、ビックリしたのは、ニイちゃん、アメちゃんの7000万人以上の選挙民がトランプに投票しとんねん。つまりや、ほぼ半分はトランプでエエ、トランプがエエ、いうとんねん。四年後に出てきたら、また勝つかも知れへんで。アメリカ合衆国はそんなとこ、そんもんや。わしらはな、そのまた奴隷やねんけどな。要するに、わしらはバイデンにでも、トランプにでも、投票権がナイ連中とおんなじ、ちゅうこっちゃ。そやのに、勝ったほうにへいこらや。まあ、しゃあないわ敗戦国民やからなあ。戦争はヤッたらあかん。ヤッても何一つエエことあらへん。しかし、どないしてもヤラナアカンねんなら、負けたらオワリや。戦争は負けたら負けや。選挙とはだいぶんにちゃうわ。ニイちゃん、わしらはなあどっちが勝っても負けても、シミジミと敗戦国民やいうことを骨の髄までしゃぶっとったらエエねん。ガッコの教育でも、まずセンセが生徒にいうことは、ほんまはこうや。/みなさん、ボクらは敗戦国民です。これはけして忘れてはいけないことです。大日本帝国政府が公式にポツダム宣言受諾による降伏文書に調印した1945年9月2日を通常敗戦の日としています。つまり、もはや戦後半世紀以上、百年近くたちましたが、ボクらが敗戦国民だということに変わりはナイのです/
「おばさん、いつから右翼になったんですかね。雰囲気、そうですよ。遺恨が露出していますよ」
「離婚はしたことあるけどな。遺恨は知らんわ。まあ、帝国が勝ってもたいしてチガイはなかったかも知れへんけどな。いまさらにツルコウの唄が身に沁みるは~何から何まで真っ暗闇よ~スジの通らぬことばかり~右を向いても左をみても~バカとアホウの絡み合い~や。~ど~こに男の夢がある~ついでに女の夢もナイ~や」
ちょっと、自棄になっているのかなと、ニイちゃんはこのときおもったが、次の一撃がキツかった。
「ニイちゃん、あんた、シバイとか、しとんにゃろ。シバイは夢売る商売か。ほんまにニイちゃん、あんた、夢、売ってんのかっ。夢て、売れるもんなんけ」
ニイちゃんは黙した。
「もし、売ってんにゃったら、なにか、あんた、夢を銭に変えてんのか。そら、魔法やな」
ニイちゃんは歯ぎしりをしながら、涙堪えて、その場にうっ付した。
しかし、ニイちゃんっ、泣くなニイちゃん。この世は地獄だ。地獄だからこそ、夢も銭と交換出来るのだっ。天国や極楽では夢は売れんっ。夢みたいな惚けたところで夢が売れるワケがナイ。
「夢を売るお伽話」というのがあるのではナイ。夢を売ることこそがお伽話なのだ。地獄の鬼にも家族があるかも知れん。鬼にも女房子供がおってな、と、亡者にそうおもいこます、賽の河原の迷子をたらしこむ、それがこの世という地獄のお伽話、夢というものなのだぞっ。
~虎が屁こいて トランプゥ あほれ 梅毒もんのデングリガエリが、バイデンやほれ~
ついにおばさんは、院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしながら歌いだした。院外処方箋薬局には、そういう病人に使う薬はナイ。
おう、それでイイではナイか。瓦礫と灰塵の地平に咲いた一輪の真っ赤な曼珠沙華、それがニホンだボクラのクニだ。では、その花言葉を何といおう。
/握られて屍の手に咲く花の願いかなえん我が手おどりは/
まるで時代劇の予告編の口上のようになってきて、今回は幕。

2020年11月 4日 (水)

港町memory 151

ニイちゃんの劇団の稽古が始まったらしい。おばさんが、
「稽古て、どんなことすんねん」と訊ねた。
「せりふ、ですけどね。せりふって〈書いてある〉んです」
「ほら、アタリマエやがな」
「これを役者はまず目で読みます。声に出して読む役者もいますけど。これをね、ちょっと難しくいうと、これは哲学者(ジャーナリスト)のサルトルという方が造っただか、よく使っただか知りませんが〔即自的〕といいます。自分が自分に読んで聞かせるんですから、まあ、その役者さんのイメージのとおりに読んでいればいいんです。それから次に/読み合わせ/というのがあって、そのせりふを音声、声に出して読みます。これは、自分にも聞こえますし、これを〔対自的〕というんですが、他の役者さんにも聞こえるワケですから、それに演劇には観客もいますし、観客にも聞こえますから〔対他的〕といいます。この三つをいっぺんにやらなければいけないので面倒なんです。これはさらに難しくいうと数学的には/微分幾何学されたコトバ/というふうに説明されます。ワカルひとにはワカルでしょうけど、微分を幾何学的にするんですが、簡単にいえば、微分を曲面(曲線)を含む立体にするということです」
「どこが簡単やねん。邯鄲の枕の夢みたいなハナシやな」(おばさんは能の『邯鄲』の知識をそれでも知っているようだ)
「自分の語ったコトバ(のnuance)が正しいかどうか、これってなかなか自分ではワカラナイもんなんです。自分では正しいとおもっていてもチガウときもありますし、正しくナイとはおもうんだけど、どうも正しいのがワカランという場合があります。そこで演出者の出番になります。しかし、その演出者のいうことが正しいかどうかを誰が決めるのかというと、これはもう「永遠回帰」になります。
そこで、インテリや、頭のエエ演出家は、難しい演劇理論とかで説得するんですが、うちの演出はアホではナイのですが、『ホノアノコ』(ある童話の主人公)みたいなもんで、めちゃアタリマエなことしかいいません。まず、
〇そのせりふは、誰に向けて発せられているのか。
〇その相手はどんな役の、或いははどんなヒトなのか。
〇そのヒト、その相手役に対して、せりふは語られるように語られているか。
〇そうして、そのせりふは観客という相手役でナイものにもワカルようにしなければならないので、常に頭の片隅に観客は置いておく。
〇とはいえ、観客といっても数多種類があるので、誰にというワケではなく、観客席に自分を観客としてひとり坐らせておいて、その観客(自分)に向ければイイ。
〇およそ、これがせりふのすべてだ。どんなせりふでも、これだけかんがえておけばイイ。
ですね」
「なるほど、そういわれたら、そやな」
「せりふは、どれが/正しい/のか、というより、語ってみて、なんか違和感がある。不自然だ。相手の役者が受けるのに困っている。観客席の自分が気持ちよく聞いていない。という、/正しくない/というほうを感じたら、それをなおしていくのがイイのです。単純に「おはよう」というのにも、マチガイも正しいも、何通りもあるということです」
「しゃあけど、正しくないのを探すのも、それはそれで難しそうやんけ」
「まあ、そうですけど、それはカラダが教えてくれるんです」
「要するにあれか、よういわれる/カラダでおぼええ/いうヤツか」
「そうです。語ってる自分のカラダが緊張せずにリラックスしてたらそれはそんでもう正しいんです。ここでよくマチガエルのは、リラックスして緊張せずにせりふを語るのではなく、せりふを語るときにリラックス出来なかったらそれは正しくナイということです。ですから、楽に語れるようなせりふの語り方を探すんです」
「なるほどなあ、緊張すると、コトバにならんわな」
「誰(どの役者)に向かって、緊張のナイ語り方でせりふをいう、稽古って、それが出来るように、そういうことをするんですよおばさん」
「演出家とかに聞かせるんやないのけ」
「そんなん、演出家みたい、別に、隣の魚屋さんでもカマワナイんです。/なんや、おかしいで/とか/上手やなあ/というてくれたら、演出家はそれだけの仕事です。まあ、うちの演出は、アホやナイですから、それくらいのことはいいます。役の心理がどうたらとか、気持ちがこもってないとか、そういう手の上に乗らないようなこと、絵に描いた餅みたいなことはいいません。どうせ、なんぼ稽古しても、本番になっていよいよ出番になったら/よし、もうおもいきっていこっ/としかかんがえませんよ役者なんて」
院外処方箋薬局の入り口付近でラジオ体操をしているおばさんは、ふーん、とかいながら、ラジオ体操を続けるのだった。

2020年7月11日 (土)

港町memory 122

「さあ、ニイちゃん、もうすぐおばさん死ぬけどな、そらまあ、歳やさかいにしゃあないわ。ニイちゃん、アト何年生きんねん。ええっ、コロナの都合でアト三年我慢せなアカンのか。そら、しんどいなあ。ここの院外処方箋薬局がクスリ扱こうてる病院は、あれで救急病院やさかいにな、二十四時間営業や。そやから、医者を集めるのがたいへんやわな。噂、ほんなもん悪いで、ボロクソや。退院するときはみなご臨終やいわれてる。しかし、それを覚悟、というよりも、緩和ケアよりマシやとおもうて、みな入院してんのやから、そんでエエのんや。本田宏ちゅうひとが書いた『「医療崩壊」のウソとホント』いうホンではな、いまの日本の医療は〈医師不足や赤字などが原因で病院や診療科が閉鎖され、患者さんが住んでいる地域で医療そのものを受けられなくなる状態〉なんやて。なるほどそうやわ、そういうのニュースでようやってるわ、テレビ。「救急患者のたらい回し」みたいなもん、COVID-19から始まったんやないで、今の東京では常識らしいわ。2025年になると、団塊世代が75歳(後期高齢者年齢)になるさかいに、救急車がもう、来てくれんようになるらしいしな、doctorがもう60歳超えてくるから、老老医療やねんで。そんな将来、というてももうちょいやけどな。いまみたいCOVID-19と豪雨災害になるとな、/災害時は保育園が閉鎖、医療スタッフ、特に女性が九割を占める看護師に影響/やで、どうおもう。2018年のdataやけどな、人口1000人あたり医師数はなんとまあ、2,4人やで、埼玉県なんかは1,7人やったらしいわ。まあ、おばさんも、地獄みたいな入り口で先に逝けて、ちょっとだけ得したワ。ニイちゃん、あんた地獄やなあ。可哀相になあ」
「けども、私は、この野戦病院好きですよ。私は合わせて六つ病院、医院に通ってますけど、看護師が笑い、患者とため口で話し、平気で患者に「あんた、臭いナ、ちゃんと風呂入らないなら、もう来たらアカン」みたいなことを平気でいってるところはありません。余所のところはみなお上品で息が詰まります」
「ほんなこというて、注射してもろてから、30分もベッドであぐらかいて処置室の様子をボーッと観てる、オカシナ患者やとおもわれてるんやろ」
「イイじゃないですか、私にとっては実に平穏、慰安、鎮静化された時間です。看護師はテキパキと働き、走って引っ繰り返り、医師はそろそろと歩き、/せんせ、しんどいんです/という患者に、/そういう日もある/、といいつつ、滑って転んでしっくり帰り、ちょっとみられない風景ですね」
「ニイちゃん、あんた長生きすんのちゃうか、アホやなあんた、ほんま」
雨は滅びの象徴のように、まるで、ノアの洪水を予兆するかのように、院外処方箋薬局の表に降り続いているのであった。
いつからか、私は、この院外処方箋薬局が担当する病院の処置室の風景を、遊びなれた砂浜に建つ病院、白い塀で囲われた、花々が咲き乱れる墓場がある病院、門という門は閉ざされ、窓という窓には釘の病院、かの唐十郎老師の名作『吸血姫』のシークエンスに重ねているのだった。

2019年10月31日 (木)

港町memory 52

何処の誰がいい始めたのか、ワカラナイ用語というのが、業界ごとに多々あります。かつ、その内容(内実)も不明というのもあります。
私は演劇のほうで糊を口にしておりますから、そこから一つ。
「役づくり」
これは、業界生活45年を経て、いまなお「謎」の、いってみれば「呪文」です。
アスペルガーですから、すんませんが、「役づくり」について拘らせて頂きます。
この「役づくり」というコトバ、まるで、「ちょっとトイレに」くらいに軽度に飛び交っています。「ちょっとトイレに」は具体的でよろしい。トイレですることといったら排便、排尿、強姦(和姦もアル)ですから、ヤルことはたいていワカル。ハナシをわかりやすくするために、dialogueふうに記してみましょう。
登場人物は私とどなたかの役者さんです。屋久緒さんということにしておきます。
「浮かぬ顔ですね、屋久緒さん」
「いやあ、今度の役は役づくりが難しくてねえ」
「役づくりというのをヤってらっしゃるんですか」
「みなさん、そうでしょ」
「そうですかね。私は演出もやりますが、役者で舞台に立つこともあります。そういうワケのワカランことはヤッたことがありませんよ」
「ワケがワカランとは、役者、いや演出家としてもあるまじきお言葉ですな」
「あるまじきか、armadilloかは知りませんが、そもそもその〈役づくり〉とやらは、どうやって何をスルんです。何かそれなりの方法論とかがあるんですか」
「というか、北村さんは、役者で舞台に立つときにはどんなことをなさるんですか、たとえば、その役に対して」
「とくに変わったことはしませんね。せりふは台本に書いてありますから、そのせりふをマチガイなく読む練習はしますが」
「それだけですか」
「うーん、それだけ、です、ね」
「この〈役〉はこれこれこういう性格だとか、ここはこんな心理で演ずるとかは」
「そういうのは、しませんね。強いてヤルとすれば、相手役にどんなふうに合わせていけばいいか、考えるくらいかな」
「相手役の演技が奇怪しい場合も合わせるんですか」
「それは、相談して、合意の上で、演出家に決めてもらいますが」
「演出家は、この役は、こんなふうだとか注文出すでしょ。それに対してはどうするんです」
「注文どおりにやる練習、稽古をしますが、たとえば、自分のideaといいますか、こんなふうにも、せりふをいえますがとは、一応お伺いしてみますがネ」
「それで、演出家と対立するときもあるでしょ」
「ナイです。演出の指示、missionどおりに、演じるのが役者だとおもっているので」
「それで、観客からあれは、miss castだとかいわれたりしたらどうるんです」
「それは演出家の責任ですから私に責任はありません。屋久緒さんの場合役づくりとかをして、演出に、それはチガウといわれたら、またやりなおすんですか」
「まあ、やりなおしますが、自分の役づくりに自信のある場合は、論争になることもありますね。だって、無能な演出家って多いもの」
「それはね、私の場合は、その、無能な演出家が演出をする舞台には出演しないようにしているだけです」
「役づくりをしない、か。それでよく役者がやれますねえ」
「せりふさへ、マチガイなく語れればOKです。ですから、三種類くらいは用意してはおきますが、これだとおもうのは一つだけですね。その一つを探すのが難しいんですけど。私の場合は、役づくりじゃなくて、せりふ探しかなあ」
以上、でござんして、演出から、~こんなふうに~といわれたら、そんなふうに〈役〉の雰囲気くらい幾つでも変えることは即座に出来ます。ただ、せりふのいい方はそうはいかない。私の場合はせりふが「呪文」ですね。

2017年9月25日 (月)

明日という字は

明るい日と書くのね、という歌詞の歌謡曲がありました。そういうふうにいえば、たしかにそうなんですけど、「明るい日」ではなくて、「明けての日」がほんらいの意味だから、ここはまあ、詩的表現であります。

明日が明るいのかそうでナイのか、そうでナイとおもいます。でないと、一日のうちで、ふっとなんだか「明るい時間」が訪れることがあることが説明出来ない。貧者の一灯は、暗いがゆえに凛として明るく照らす。

ゆんべはナビ・ロフトの今年のクリスマス・イベント『悪魔のいるクリスマス』公演の稽古初日。読み合わせしたんですけど(ああ、私、演出します)、なんだか「明るい時間」だったなあ。

これは、三十年ほど前に書かれた作品で、なんつうか、fantasyね。でも、なんだか「いま」を描いているようで、ちょっと気味悪くもなるのでした。

つまり、この作品が書かれた当時のエピステーメーもディスクールも、いまではチガッテきているはずなんですが、・・・難しいカタカナ使うなっておもっているあなた。昨今、おおよそパソコン用語からの引用、あるいはまんまの多用で、私がどれだけ困惑し、いちいちリサーチかけているか、それに比べれば、これは哲学用語で、言語学用語だというチガイしかナイのだぞ・・・なるほど、ちゃんと生き残ってるんだ。しかも、嫌酸素生命体のように深海にひそかにというワケでもなく、ちゃんと浮上して。

だってねえ、話が逸れる(のかどうか)かも知れんけど、中島みゆきさんの初期集大成アルバム『愛していると云ってくれ』の冒頭「元気ですか」、この詩と彼女の「語り」を私たちはこえられていないじゃないか、未だに。あのね、いわれなくてもワカッテおります。相手が悪い。昨日きょう、剣術を始めたものが宮本武蔵に挑むようなものだと、まあ、そういうことをいうかたは多いでしょう。けれども、この「語り」や『時代』の「時代」を聞くとですね、逆にミシェル・フーコーのいうたことのほうがあやしくなってきますな。「こえるってどういうことっ」と、じゃっかんhystericな声も聞こえる。「こえる」は「肥える」じゃねえぞ。いってみれば「相対化する」「普遍化する」なんだけど、なんだかワカランならば、「ちゃんと向かい合う」でイイ。「対峙する」だ。「ぶつかり稽古」だ。

とはいえ、多重な構造として考えるならば、私たちの演劇のエピステーメーは次の断層に移行して、いってみれば終わっていて、「そんな時代もあったねと」になっているのは確かなんだけど、もともと演劇たるやAsylなんだから、積層を貫通しているものなのだ。でないと、表現が残っていくことについての説明がつかない。

我がAsylは、空間を占領されても、時間まではまだまだ凌駕されてはいない。この時間、その場所がAsylに変容する。と、いうことを、しみじみ(というふうでもナイけれど、他にたとえようがナイので)味わった稽古初日でありました。

「なんだか、楽しい稽古だね」

と、のたまった演者あって、そうよ演劇って楽しかったのよ。演っても観てても、だ。趣味の演劇は、烏合と「あったよね」の痕跡を残すだけだ。宮沢賢治ふうにいうならば「ほんとうの」演劇は、そのひとに中島みゆきさん歌うところの「永久欠番」をもたらす。

どうさ、明るかったか。

 

2017年3月25日 (土)

修行無常

 

OMS戯曲賞vol.23 感想。

大賞、佳作、選評、選考経過掲載の、いつもの本が送られてきた。

そこで、胆(ハラ)に残ったコトバだけを、失礼ながら無断ながら、転載させて頂く。

乞容赦。

 

/演劇はほんらい、人間の身体という唯一無二の存在、そして決して「これ」という形では差し出せないけれども、ひとりひとりの中に確実に、かつ豊かに存在しているそれぞれ固有の精神世界というふたつの具体性に依拠した表現です。

演劇こそが、他者を、自分とは別のもうひとつの身体と精神世界をはらむ存在として、入れ子構造の物語の中にではなく、現実世界の中にもっとも深く追い求めることが出来る作業であるということを忘れてはいけないと思います。

内部の「わたし」ではなく外部の「わたし」への想像力を凝らすこと、もって自戒の弁とします/(選評より)

大賞作品『悪い癖』(福谷圭祐)の作品について

/確信犯として×を付けた。三重構造で外部がないことを徹底してやっていて完成度は高い。徹頭徹尾自己言及的で、頭のいい人。世代の越境をやらなきゃいけない。挑発したほうがいいと思い、安易に理解を示さず、一番よくできている戯曲だが、あえて×にした。外部がないのはダメと言い続けないと。愛想よく相手に近づくが本気で対話せず、関心が自分達に剥いている風潮に呑み込まれてしまう/(選考経過より)

/芝居を始めて50年になりますが、若い人の芝居を理解するふりはやめよう、今年からいやな頑固爺になる役割を担います/(同)

 

すべて、佐藤信さんのコトバだ。キチンと自らの仕事の〈足下・足元〉を観据えた発言だと、感じた。(足下と足元のチガイは、単純には身体下の面積の範囲をあらわすが、この空間性は「精神世界」・・・私は〈心的精神世界〉というふうに用いますが・・・において時間的、情況的に拡張される)

信さんの戦闘宣言と、作品として佳作の『また夜が来る』(橋本健司)だけは、収穫だった。

 

2017年3月 6日 (月)

往くも還るも ワカレテハ

二十一年に及ぶ(及ぶのかどうか、それは思うヒト次第だろうけど)伊丹の戯曲塾(『想流私塾』)に一応の区切りをつけて、後進に任せるカタチとなった。

つい先日、その最後の卒業公演を(監修)観て、最終講義のとき、influenzaで出席出来なかった飲み会(打ち上げですな)に参加はしたが、セロトニン症候群(ほんとは薬害)の断薬後の離脱症状の最後の抵抗(で、あってくれればいいのだが)、低体温状態がここ二ヶ月は続いていて、それでも、平常体温にもどる日も多くなり、とはいえ、mentalな現場に入ると、セロトニンの自然分泌がままならない低体温状態が生じ、その日も平常体温から五分ばかり下回った、乗り物酔いでもしているような体調だったが、体調不良なんぞは、ここ数年、いやいや、鬱疾患になってから慣れっこになっているので、私の直接の最後の塾生たちに、一席ぶって、席を濁して、しかし、二時間持たせることは難しく、100分ばかりで限界を感じての退席となった。

そのアト、hotelにもどってから、跡継ぎの師範に電話で、感想を少し述べておいた。ホンと演出についてはたいていのことは、宴席で語ったが、妙に印象に残る女優が二人いて、これは両極端な演技を用いるのだが、というのも、ひとりはその天性の素材の良さが産んだものだろうし、いまひとりは、かなり舞台慣れしていて、容貌やstyleも、いま流行りの団体さん少女歌手の中にいそうな雰囲気で、どちらも三十才手前といったところだと思うが、いまが〔花〕だということはマチガイなく、それぞれ、その〔花〕はタイセツに自らが育てていかねば、摘み採られたり、あるいはアト五年もたてば、ただの「おばはん」になるのではないかという危惧も持った。

かつて、唐十郎老師は、「世の中でイチバンおそろしいのは、〈少女フレンド〉を小脇にして歩いている老女だ」(ちっと脚色、入ってます)と、のたまいたるが、この〔特権的肉体〕もひさしく舞台に姿を現すことはなくなった。

 

注)〈少女フレンド〉とは、かつての少女マンガ雑誌。〔特権的肉体〕とは、唐老師独特の「風姿花伝」論。

 

偶然だが、つい先だって『あやしい彼女』(2014年公開の韓国映画『怪しい彼女』を、『舞妓 Haaaan!!!』『謝罪の王様』などの水田伸生監督がリメイクしたコメディー。73歳の頑固な女性がひょんなことから20歳の姿に戻り、失われた青春を取り戻していく姿を描く。ヒロインの20歳時を多部未華子が、73歳時を倍賞美津子が演じる。多部による1960年代から1970年代のヒット曲の熱唱あり。日本公開は2016年・・・ネットから一部編集コピぺ)をDVDで観たが、illusionを超えて、fantasyとして成立しているこの二時間の映画には泣いてしまった。(多部未華子ファンだから・・・comedienneとしての彼女が好きでしてレンタルしただけなんだけど)。この映画で〈泣く〉ということは、そうか、とことんオレも老いてきたなと認めざるを得ないのが悔しいが、昨今、持病のアドレッセンス症候群で、夢想のうちに、若い娘に懸想しかけて失敗するてなことが多々あるので、いや、アブねえアブねえとは思いつつも、近頃は若者より少々黄昏た御仁がもてる傾向ありと風聞を耳にして、身体さへなんとか具合良くなってくれば、いくらでも恋をしにいくぜ、と、嘯いたりしている。

 

さてと、本論を少し書いておく。

二十一年もやってきたので、「たいへんだったねえ」とか「おつかれさまでした」とか、「よくやったねえ」とか、よ~するに、私が何か感慨深げになっているだろうという慰めと労いの交じったコトバを多く頂戴したのだが、それが、私の資質なのか、何かの疾患なのか、残念ながら「感慨」など何もナイというのがほんとうのところなのだ。まったく、二十一年の「感慨」など無い。在るという感触ならば、この二十一年のあいだに、多くの同志を得たという、さて、いよいよまた闘えるぞ、という、奇妙な昂奮に似たワクワク感だ。

ここまで、世界(国際情勢)がcomic(マンガというよりポンチ絵だな)になってくるとは誰が想像したろうか。

いやあ、世界は荒野だ、我がリヤカーはどこまでも、ゆくのだ。Hamletを従者にDon Quijoteが、ゆくのだ。そういうオモロイ演劇のハジマリだ。

2017年2月20日 (月)

ブルカニロ博士の告白或いは、Document演劇の試み~表現論の実験による証明~

 

二年前から始められた私の「私の表現論」における演劇の実験は、観測した事実において成功したと考える。

此度のavecビーズ公演『And in the End~つまりそういうこと』は、私自身にとってはどういうことなのかというと、現実(演者たちの二年間の楽器演奏習得~document)という微分係数と、虚構(『And in the End~つまりそういうこと』という劇~fiction)という微分係数から求められる関数の方程式(微分方程式)が、[表現]というものを成立させるという、私の表現論を実験(舞台-上演)で証明し、さらに、「世界(此度の場合は演劇による創作が成したところの情況)は私の表現であり、私はその世界の表現の成したところの存在である」という命題をマチガイのナイものとして「証明」した。

これによって、「世界は〔現実それ自体〕で成立しているのではなくまた〔虚構それ自体〕というものが存在するのではナイということが立証されたことになる」コトバをちがえていえば、虚構は現実から産み出されるものだが、虚構はまた現実の存在に強く関与(影響)するということが実証されたことになる。

さらにべつのいいまわしでいえば「実生活を繰り込めない演劇は〔価値〕をもたない。演劇に携わって生きるならば、演劇を実生活に繰り込めない人生は〔意味〕をもたない」ということになる。

これは、経済学とは切り離して考えていい。「食う」ための演劇とは、幾ばくかの銭の取得のcategoryでは論じても無駄だとしかいいようがナイからだ。心すべきは、ここのところに在る。何で食ったってかまやしない。「食うべき」ということが実生活ならば、それが現実ならば、上記の論旨において、それが繰り込めない演劇論などは何の値打ちもナイといっているだけだ。

誤解されると困るので、もうひとこと付け加えておくと、前述の論旨は職能劇団の営為とは何の関係もナイ。もちろん、労働の価値云々はまったく問題にしていない。これは、ず~っと、私自身が課題にしてきた「現実と虚構」についての論考上にある論理以上のナニモノでもナイからだ。その点においては、「なんで演劇をやってるのか」という問いかけには、ハッキリと「食うためです」と応えることは出来る。

もちろん、私のそんな目論見に気付いた観客は一人もいないはずだ。それはアタリマエでイイのであって、観客に向けては、私は『And in the End~つまりそういうこと』という舞台をみせたに過ぎないし、役者、スタッフはその舞台をみごとにやり遂げたということに尽きるからだ。此度の公演は、そういうparallelな構造を持っての上演だったのだが、私は結果として「二兎を追って二兎を得た」ということになる。これは誇ってイイ。私にとっては、僥倖な時間だったと、感謝でイイのだ。And in the End、つまりそういうことだ。

自負と謝意を含め、なにはともあれ一応、書き留めておく。

2016年11月28日 (月)

百姓日記⑫

 

飛躍show熱気

 

何か苦肉のsubtitleだなあ。

しかし、こういうのを「親父gag」と鼻で笑う若い人は私からも鼻で笑われていると思ったほうがイイ。さて、「飛躍」だ。プランク定数の文字通りの「飛び道具」、量子エネルギーの不連続が戯曲とどう関係しているか、を、述べてみせるshowのはじまりだ。

以下に戯曲文学とはどういうものかをその〈飛躍〉を以て解説する。

 

ある満員の喫茶店(飲食店)で、相席を求めるシーン。

女が四人がけのテーブルにひとり、座っている。男がやって来る。

 

(文例・1)

男「すいません、お訊ねしますが、この席、空いているでしょうか。

女「この席ですか、ええ、空いてますが、何か。

男「この席、空いているなら、座ってかまわないですか。

女「ああ、相席ね。ええ、他に空いてることろがナイのなら仕方アリマセンね。

 

(文例・2)

男「すいません、あいにくこの店、満席で、同席させて頂いてかまいませんか。

女「相席ですか(店内を観まわして)ほんと、満席ね。

男「ダメでしょうか。

女「いいですわ。他に空いている席がナイんだから仕方ナイわね。

 

(文例・3)

男「ここ、いいですか。

女「えっ、

男「(店内を観まわして)満席なんです。

女「相席ね。仕方ないわね。いいですよ。

 

(文例・4)

男「あの、ここ、いいですか。(店内を観まわして)

女「(店内を観まわして)ええ、いいですよ。

 

(文例・5)

男「(店内を観まわして)あの、

女「(店内を観まわして)いいですよ。

 

(文例・6)

男「(いきなり向かい側に座って一礼)

女「(店内を一瞥するが)

男「袖すりあうも、

女「他生(多生)の縁、か。

 

この六つの文例で「戯曲」文学といえるのは(文例・6)だけだ、といったら、それはちょっとdrasticだといわれるだろうが、しかし戯曲というのはそういうものなのだ。

そういうことを考えない、気にもとめない自称劇作家は巷間数多溢れて群れている。(別の表現でいえば、/そういうことを勉強しない、戯曲をそういう対象としない、のに、劇作家と名乗っているヤカラはあちらこちらに、その数だけ多く、群れをなしている/)。それはそれで、面々のお計らいと、いいかえれば「そんなん勝手でええやん」「好きなことしてんのやさかい、ゴチャゴチャいわんといてほしわ」で、放っておけばイイんだけど、放っておいてるんだけど、ここにシノギがからんでくると、ちっとオモシロクネエよなになる。

劇作家になるのには資格試験はナイ。小説家にだってナイ。およそ表現に携わるもの、ゲージツ家と称されるものには、ナイ。ところで、「心理療法士」と「心理カウンセラー」と「臨床心理士」は似てはいるが、前者二つは〈自称〉でかまわない。国家資格も法規もナイので、そう名乗って仕事をしても(対象・・・患者あるいは相談者が自殺したりしなければ)罪にはならない。「臨床心理士」というのは、国家資格ではナイが、文科省認定の財団法人の認定資格なので、ある意味公的な資格だ。これを取得するには、大学院を卒業して、認定試験に合格しなければならない。医療機関に勤めようとするならば、この資格がナイと、ほぼ、どの医療機関の求人応募にもひっかからない。応募しても雇用対象とならない。雇わない。しかしながら、あえて「ほぼ」、というのは、昨今「心の病」とかが多い世相、「心理療法士」や「心理カウンセラー」てなのが、医療資格者の如くに存在するblack、あるいはdarkな相談所めいたところは少なからず、いんや、いくらでもあるからだ。

何がいいたいのかというと、「経験」というものだけのliteracyskillで、演劇なり戯曲なりを素人に教えて銭を取得している不埒な(もちろん、法規上ではなく、私においての倫理上だが)自称劇作家も多数いるということで、けれどもそれに対して憤慨しているのではなく、この渡世、乞食稼業だなあと憐憫しているだけだ。私だって、資格など何もナイ。じゃあ熱気はあるのかといわれると、これが、「不埒な」と私がいうたほうが、私以上に、けっこう熱気は持っとることが多いんやさかい、まあ、ゲージツはワカランのだ。ワカランものに於いて、「銭になる、ならない、仕事がナイ、食えない」などと、シノギをほざくのは虫が良すぎるのかも知れん。と、思えば気楽でええんやけど。「夢じゃ腹はふくれねえよ、けんどもよ、夢を売れば銭にはなるよ」と、私もそれらしいものを売ってきたからなあ。昨今、売れる夢も変わってきよりましたなあ。と、ため息してるってことかな。

嗚呼、みんごとなる飛躍であります。

2016年7月21日 (木)

涙、壊れているけれど・24

ドラマツルグ

 

シス・カン文学シアターvol3の稽古が始まった。

初日、顔合わせ、読み合わせ、衣装採寸。

読み合わせ一回で、寺十演出、「じゃあ、今日はこれで」とトル。これは何もceremonyなんかではナイのだ、寺十の脳髄では、読み合わせの一回で、誰にどのような演出をすればいいのか、戦略が一応描かれているワケなのよ。

今回のヒロインは、舞台virgin。ヒロインにとくに集客動員がありそうでもない、かつ初舞台の二十歳チョイの娘を持ってくるというのは、シス・カンの社長(producer)は、この文学シアターについては、ギャンブル症候群になっているとしか思えない。まさに博打、一天地六。

二日目、読み合わせ。のっけが、その少女の長めのせりふからスタートするのだが、つまりそういうprologueがあって、幕が上がるのだが、寺十、一幕に進まない。少女のせりふで「はい、ストップ」。ここからが寺十演出の真骨頂。まず、その初舞台女優に「どうして、女優になろうと思ったの」と、人生相談まがいの質問からゆっくりと〈演技というものはどういうものか〉をレクチャーするところへと、入っていく。私たちも初めて聞くそのvirgin女優の茨道。「それで、もう、ヤルことなかったから死のうと思ってたら、スカウトされて」と、こういう、固有の人生の核を寺十、絶対に手放さない。その人生をこの芝居のヒロインの人生に重ね合わせるまで、手を抜かない質問がつづく。「このヒロインの少女は、どうしてコンタクトが嫌いで眼鏡をかけているんだろう」と、その娘に〈考えさせる〉のだ。ともかく、答はいわない。「眼鏡って、何だろうね」、考えさせる。これはどの役者についてもそうなのだが、考えさせる。~台本を読む~ということは、どういうことかという、それ、ヤッてんのね。

つまり、ブレないcharacterを(ふつう役作りとかいいますが)、その場で考えさせながら創っていく。単純に個々人が勝手に考えるのではなく、役と役との関係の中で、その上で考えさせて、創っていく。ちなみに、冒頭一枚の少女のせりふに対する質疑応答は休みなく90分。そりゃそうですよ。Virginなんだから。初舞台なんだから。「演技というのは上手にやんなくてもいいの、じゃあ、どんな演技がイイ演技なんだろ」と、私ならレクチャーしてしまうのだが、寺十は、そういうことはいわずにそういうことをねじ込んでいくのヨ。役者を手込めにする演出家もいるけれど、寺十はまったくドラマツルグが違う。強姦を和姦にしちゃうのよねえ。他の役者さん、待たされて辛いだろうけど、これ、傍で聞いてるオレなんかもう、面白くてタイヘン。Virgin女優の初舞台娘が、次第に芝居というもの、演劇というものにのめり込んでいく様子がワカルから、ワクワクなのよ。目つきがオドオドから、興味津々のキラキラになっていくのを観て思わず、ニコニコ。

 

とばかりはしてられません。

五時間半の稽古二日目を終わり、やっと帰途。メトロに乗る。意識混濁してんのがワカル。こうなったら倒れてなるかの意地だけで、新幹線に座って、辿り着いた思いで血圧だけ測定してみれば、150をこえてる、下がこれまた110の大特売、脈拍は125ときた。

セロトニン症候群とその離脱症状との合わせ技で、日々、痛みと痺れの中で生きてんのが不思議なんだけど、スゴイね人間てのは、性欲(というより生殖欲かな)亢進して、なんでもイイ、誰でもイイってワケでもナイけど、ちょいと好みのタイプを観ると、孕ませたくなるんだねえ。牡の本能ってやつかねえ。

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