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カテゴリー「演劇」の記事

2025年4月27日 (日)

À bout de souffle-2

À bout de souffle-2
〈物象化〉はちいっと難しく述べると人間どうしの関係を〈物〉における「関係」と「了解」の構造(システム)に置換したようなものです(事象、現象にまで拡張もされます)。簡単に述べるのに適した具体的例を挙げてみます。演劇の舞台演技です。当然、役者がおります。そうして科白があります。客席には観客がいます。役者をAとしましょう。Aの科白「忘却とは忘れ去ることなり。然りといえど、外は雪か」。なかなかの名せりふです。こういう科白はAIにはいまのところ書けません。三つの文節にナンノ繫がりもAIには求めることが出来ないからです。けれどもヒトにはそれが出来る。それがヒトのココロの作用です。もちろん役者にもいろいろありまして、感性鋭いものも在ります。鈍感なものも。不勉強なものから熱心なものも、賢明なるものから阿呆まで。Aの場合は「自分の気持ち」を重視するほうです。コトバを換えれば自らが納得出来ていればよろしい派ですね。ところで、ほんとうはこの手の役者は困ることも多いのです。誰が困るか、観客、その前に演出が困ります。観客の中には高齢の方もあって難聴とまでいかなくとも、聴力が衰えている方もいるでしょう。演出は難聴ではナイのですが、稽古のときAの科白を聴いて、こう、注意を入れました。「Aさん、あなたは、自分の科白をどう整合化しているのだい」。Aは何を注意されているのか、やや不明の顔です。「はあっ」です。「ですからねAさん、あんたの科白は観客にまで届かない、届いていないのだ。あなたの中では消化しているのだろうけども、観客に聞こえる声はおよそ/-ぶぉやくとはれるこお。かりとど、とはきか/だろう。まるでハナモゲラ語です(ハナモゲラ語は優秀なコトバなのですが)。不穏なAにさらに演出はいいます。「その科白はあなたの中にあって、あなたが了解して納得しているだけだ。そのままだとあなたは、あなたの科白に疎外されるだけだ」ほんとうに困るのは詰まるところはAさん自身です。自らが納得して発語した科白に疎外されることになるからです。/表現は常に疎外に等しい/。これは重要な命題です。従って優れた演出ならば、こう続けるでしょう。「科白というものは自分の中だけで納得、処遇するのではなく、外化、つまり一旦は外に出さなければいけません。外に出た科白はどこに行くか。観客に往く。その観客の了解があなたに還ってくる。その往還の関係がなければ、まったく演劇の科白として成立しないものだ。一旦外に出して、それを共有して了解する。でないと、科白はあなたと観客双方にとって、クオリア(それぞれの勝手な了解)になってしまう。あなたは忘却と雪のことをせりふで語っている。しかし、観客は、不可思議なことばを語るAという存在としてしか了解しない、という関係になる。双方の了解関係をクオリアでなく成立させること、これが科白の〈物象化〉というものだ」
いってみれば、ルカーチの危惧ともとれる〈物象化〉を逆手にとった上手い使い方とでもいえます。これは極論すると科白による役者Aと観客との〈支配〉にもなります。しかし、書ける劇作家、出来る演出家なら、さらにこの先をいきます。〈物象化〉を超えるのです。コンテクストからの逸脱とでもいいますか、「クオリアさせたままで」さらに舞台を成立させるのです。この方法論を仮にいってみれば/無意識の活用/です。Aと観客を意識において統合させるのではなく、その無意識を活用してそれぞれの想像力(感性)に委ねるのです。これが出来るのがヒトの脳、能力です。進歩した生成AI(AIエージェントにもまったく出来ないコトです。つまり、役者Aの科白で観客各々が、どんな〈像〉をイメージしてもイイのです。しかしその像はまったくチガウものではアリマセン。役者Aと観客の感性の波の重ね合わせにおけるものなのです。
これを「表現の加速度化」と、主筆は名付けています。加速度重力で疎外を脱するという意味です。それは具体的に何処に現れるものでしょうか。それは、役者Aの〈身体・身体性〉にです。いいかえると科白が役者の〈身体・身体性〉に記号設置するというワケです。これを「形式表出」に対する「心的表出」といいます。これはこのアトまた論じることにします。とりあえず/演劇の場合、演技に於いて役者の身体は役者のココロと同じです/。と記憶してよろしいものです。~とりあえず、つづく

2025年4月21日 (月)

À bout de souffle-1

À bout de souffle-1
ここからは私(主筆)なりの〈物象化〉の考察です。あくまで考察です。研究のようなたいそうなものではありません。~それはマチガッテるよ~も多いとおもわれます。よって私(主筆)なりの、ということです。興味のナイかた、専門の方、は読みとばして下さればそれでイイだけのハナシです。文章は「語り体/話体 」で参ります。(二人称的にもなります)
マルクス『資本論』は第一部の「商品と貨幣」は読みました。価値形態が出てくるところです。貨幣の登場について書かれたところです。私としては、私にとってはそれで充分だとおもっています。他には『経済学批判』や『経哲草稿』などや、さまざまなサブテキストはけっこう読んでいます。『資本論』はそれら(というかマルクス経済学の)集大成らしいのですが、目次とパラパラ読みから「貨幣」の価値形態について以外は演劇の学習に関係(必要)ナイとおもったのが理由です。ともかく当時の私は科学的な「演劇論」が創りたかったので、他の分野もそのつもりで「薄学多彩」(博学多才に非ず)で勉強していたものですから。
生意気をいいますと『資本論』は先に読んだマルクスの幾つかの書籍に比するとあまり出来は良くない気がしています。理由は主には「社会学的なロマンが無い」です。さらにいうならば、「相対的価値形態」と「等価形態」から貨幣を導き出すところは、「等号、=(イコール)」の扱いが数学的にちょっと杜撰に過ぎるのではないかと感じました。とはいいつつも、「貨幣」はヒトが造ったものでありながら、ヒトは「貨幣」に支配されるという(これは『経済学批判』にもあったとおもいますが)〈疎外〉についての鮮やかな論理的手並みには敬服、畏敬するばかりでした。
と、前置きしておいて、〈物象化〉に雪駄(土足ですね)のままで上がり込んでいきます。
まず、〈物象化〉をワカリヤスク述べている、ハンガリーの哲学者ルカーチ・ジェルジの次の文言をどうぞ。/<人間が作った物が固有の法則性をもって人間を支配する>という事態を物象化と呼び、経済だけでなく政治やイデオロギーの領域にも物象化が存在する/これは、ルカーチが1923年に発表した論文「物象化とプロレタリアートの意識」からです。これならすでにマルクスは『経済学・哲学草稿』などで述べていることヤないかと、世評はそうですが、ルカーチの定義はひじょうにワカリヤスイ解釈です。『資本論』において導き出された「貨幣」は〈物象化〉の王様です。『経済学批判』(だったとおもう)では「どんなに下品、下劣、醜悪なる男でも、銭の力で美女をモノに出来る」とかなんとか、叙述していたはずです。こういうふうにくだけた感覚で『資本論』も書いていただければ、のちのちの似非共産主義革命大虐殺者(ロシアとか中国のですが)も間違うことはなかったのになあと、残念です。
実存主義の提唱者でマルクス主義者だったサルトルさんも、「殺人にはヤってイイ殺人とイカンものとがある」と宣(のたま)い、異邦人のカミュ氏が「いや、そんな区別は殺人にはナイ」と反論したのに対してさらに論争(で、サルトルは勝利したらしいのですが)、殺人というものを〈物象化〉してしまっている(それでも実存主義ですからアカンことはナイのですが)ことに気付いたとおもわれます。現在では論争に負けたはずのカミュ氏の論理のほうが支持されているとニュース(風評ですが)になっています。同じことが、マルクス×バクーニンの論争においても、いまはバクーニンが見直されているという按配(これも風評程度かな)です。しかし、このフーヒョーはけっこう納得がいきます。何故ならいまの世はかなり〈感性〉俗には感情が重要視されているようで、さらに、それ以上に身体や身体性に視線が深く注がれているからです。SNS(の身体なきコトバ)があたかも(似非)物象化のように振る舞い過ぎたことの反動かも知れません。私などが驚くくらいに「演劇」がいまや若い人のあいだで盛んなのもそのせいかもです。盛んだというだけで、身体、身体性に対するクォリティやレベルが高いというものではありませんが、身体が発する言語への直截な信頼感はあるにチガイアリマセン。
もうひとついうと、いま、「戦争」というものが、それが軍事作戦であろうとも、ともかく、何をしても、どんな手段を用いても(どれだけヒトを殺しても)、勝てば英雄、負ければ隷属と、〈物象化〉されているような気配です。と、こう書いてくると、なんとなく〈物象化〉もワカッタようになるはずです。かなり大胆に論ずれば「戦争なのだから、とどのつまり戦争は勝つ以外に〈神〉はナシ」という「戦争」そのものの〈物象化〉です。たとえばトランピィズムのカードである「関税」も一種の〈物象化〉だ、といえなくもナイご時世です。
日本政治(国会論議)は「政治とカネ」だかなんだか知らんですが、国会という場所は司法ではなく立法の場だとおもっていたら、規律の重視(まるで司法)が最重要課題のようで、他のことは後回し(まあ、国内の課題だけでもなんとか議論してもらうのは悪くはナイのでしょうが)世界状況など日本ごときがナニいったって敗戦国ですから、それはもう意味など無いのに決まっているかのようです。ふむ、そうかなあ。EUやカナダはベツモノとして(勝手に米国資本独裁国と張り合ってもらって)、ネオ・アジア・インター(グローバル・サウスという呼称はアジアを捉えるのには意味がオカシイので、私はこう称している)とのインターナショナルな、民本精神だけを復興、推進して、専制国家と渡り合っていかないと「一億玉砕本土決戦」を回避終戦した意味がアリマセン。民本主義というか民本精神は未だに在るし必要だとかんがえているのです。これは太宰治さんも同じことを掌編で洩らしていましたネ。宮澤賢治さんの法華思想も本質はそうだと理解しています。
主筆・注] 民本主義では主権の所在は問わない。主権者は一般人民の利福・意向を重んずべきことが主張される。 一見矛盾するようだが、完全に両立可能なものであるとして、主権は君主にあるか人民にあるかをあえて問わない。
ところで、ルカーチさんの理路はたしかに早とちりの感があります。あの〈物象化〉の定義は「疎外」の解釈からまったく踏み出していないようです。では、〈物象化〉について、私なりに、というのはこいつを演劇において、解説してみます。~とりあえず、つづく

2025年4月 2日 (水)

「narrative-60の謎」-14

総括。
AIもパソコンも、あるいは莫迦もハサミも同じで、けっきょくは「使い方次第」なのではないかと、アタリマエのことしか思いつかないのですが、私の都合のいいふうに定義すれば「AIはホームズにおけるワトスンのようなもの」がよろしいです。
/将来のコンピューティングでは「半導体、AI、量子技術を組み合わせ、それぞれの能力を引き出したり補ったりする技術が重要性を増す」/といわれています。AIとスパコンと量子コンピュータを揃えておけば、けっこうオモシロイものが創造出来るかも知れません。ただし、問題はその三種の神器を扱う(その一つとしてプロンプトを行う)御仁の資質と能力です。AIはイイとか悪いとか云っている時はもうオワリにしたほうがイイ。AIは未だ発展途上ではあるのですが、現に存在するのです。今後、これらをどのように用いていくかに人類の存亡から、年寄りの余生までが懸かっているといって過言はアリマセン。私などは今後は銭(私財)と心身の力が続く限り、念願の「量子コヒーレントと鬱病」について、ミステリのひとつも書ければと企てているのですが、どうなりますやら。
私たちはヒトが〈ヒトのカタチをした自然〉であることを忘れがちです。しかし、私たちは〈自然〉なのです。そうして、その〈自然〉というものは敢えて云いきれば量子に於けるアリストテレス的産物です(ここでは〈本質的〉だということを述べています)。であるならば、量子の状態(コヒーレントとデコヒーレント=環境界)は鬱病と何らかのかなり重要な/関係と了解/という〈物象化〉を持っているにチガイアリマセン。〈物象化〉については章を改めます。量子のコヒーレントとデコヒーレントという場=環境情況こそが、ヒトの心身システムの要(かなめ)です。こういうことが、AIをワトスンのようにして毎日語り合えたら素晴らしいことだ、と私はかんがえているのです。小説家志望だった私は、そのような小説(ミステリ)を書く作業で、ほんらいの夢を実現させるために、もう少し生きたい、往きたいと願うのですがねえ。酷しく、淋しいからなあ人の命は。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 (訳・此岸より彼岸へ 真理に渡りたるものよ まったく真理に到れるものよ 汝に幸あれ)
と、ここでかっこよくオシマイにするつもりでしたが、これを書いたアトで、ひょいと棚から取り出した文庫を読んで(まあ、読書の機会なんてそんなものなのですが)、そうそう、そうなんだよな、と、溜飲の下がるおもいがしましたので、それを転載しておきます。
「われわれがテレビの世界に憧れたのは、たとえば『11PM』で(大橋)巨泉さんがわけのわからないことを言っていたからなんです。僕らは高校とかか中学だから、わからないわけです。その『わからないこと』に興味を持つんです。むしろ、わからない世界でテレビをやったほうがいい。『なんだろう』『大人になったらわかるかもしれない』と思って興味を持ってくる。わからないことに、人間はよく興味を持つんです」(『ことばを磨く18の対話』加賀美幸子・編/日本放送出版(2002)←引用は『タモリ学』(戸部田誠—てれびのスキマ)ですが、戸部田さんは/タモリはこのように、昨今のテレビ番組の「わかりやすさ」に拘泥する傾向に疑問を呈している/。タモリさんがジャズにハマったのも、その「わからなさ」からだった。とコメント書きされています。
私(主筆)は、〈現代音楽〉というのを聴くのが好きなのですが(といっても、NHK/FMから流れてくるもの程度ですが)ありゃあ、「ワカル」とか「ワカラナイ」で論じていてはアカンものだなということは「ワカル」のです。もちろんジャズもロックもポップスもクラッシックも聞きますし、伝統(古典)邦楽も聞きます。古典継承邦楽(たとえば浄瑠璃とかネ)は「ワカル」のがかなり難しい。聴かない(hearingしない)と、コトバがワカラナイ。さらにチガウ意味においてコトバがワカラナイのはいまの楽曲、音楽一般を楽曲と宣(のたま)ういまの若いヒトたちの音楽です。何処がええネン。[赤い公園]あたりまでは評価出来たのですが、主宰が逝ってしまったので、ともかく残念。他はよくワカラナイ。ひょっとして、そういうヤングミュージックを聞かないヒトたちが多くあって、/ジ・アルフィー/などは還暦をはるかに過ぎて未だ全国ツアーがやれるのだろうなあとおもう次第。
AIも最近は〈汎用型とか特化タイプ〉やエージェントAIなどが出てきていて、プロンプトさへ必要なくなりつつあります。とかく便利で「ヨクワカル」ものになりつつある。しかし、逆にそういう世間(や世界)には気をつけないとヤバイなあとおもう次第です。譬えが悪いですが、特殊詐欺みたいな進化ですね。おそらく特殊詐欺はどんどん手口が巧妙になるでしょう(警察内部にお仲間をモグらせておけばイイだけなんですけど、これはもうヤっていますよ)。
~とりあえずこの章endにいたします~

2025年4月 1日 (火)

「narrative-60の謎」-13

「イージー アンダースタンド」について、ひとつエピソードを提供しておきます。ふつう演劇の本番初日には、初日乾杯というセレモニーがあります。そこで、ひとこと、作家と演出家から挨拶があるのですが、私が「今日はこちらも初日ですが、『王将戦』も初日です」と将棋の藤井王将ネタのハナシの枕をふったところ、スタッフ・キャストの皆さん、怪訝なというか、「ナンノハナシ」という表情をされました。そこで私は慌てて話題を換えて、「此度の本場のアカデミー賞では主演女優賞を初めてのアジア人ミシェル・ヨーが受賞しました」と「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」について触れたのです。けれども、皆さん関心を示さない。この映画は「エブ・エブ」の愛称まであって、主演女優賞の他、作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、編集賞、脚本賞と総なめで受賞しているのですが、残念というのか、唖然呆然というのか座組の出演者でその映画を観たひとは新人クラスの小劇場の女優一人だけ。アトは「ナンノハナシ」です。「君たち、本場のアカデミー賞映画くらい観ておきなさいよ。日本アカデミー賞は映画high-Q会社の持ち回りだからネ」と声高にいえるように私は偉くアリマセンし、そんな雰囲気でもなく、コトバに詰まって適当に挨拶を終えました。ほんとうに詰まってしまってしどろもどろになりましたネ。Producerから「あなたのハナシはあなたの作品同様によくワカラン」というお言葉を頂戴してしまいました。ミシェル・ヨーさんはアジア人では二人目のボンドガールにも選ばれたひとです。一人目は東宝女優の浜美枝さんです(第5作の「007は二度死ぬ」ボンド役はショーン・コネリー)そういうハナシもしたかったのですが、たぶんそうしても「ナンノハナシ」だったとおもいます。ですので、「イージー アンダースタンド」を邦訳する場合は「ナンノハナシ」がいいかとおもうワケです。
鈴木清順監督の『東京流れ者』(渡哲也、主演)は有名な(知っているヒトにはの範囲での)映画ですが、私は昨今、東京芸能人を「東京かわらぬ者」と称することに憚りはないなとおもっています。私が演劇を始めた当初から相変わらず「東京かわらぬ者」です。以降、初日顔合わせと初本読み(ほんとうは「読み合わせ」なのだが、いまはどこも〈本読み〉という名称を使う。〈本読み〉は初日に戯曲の作者が本編を読み聞かせるセレモニー)では自己紹介(挨拶)があるのですが、「私、本職は劇作家で戯曲を書いています。此度はこの作品の脚本スタッフです」と挨拶することに決めました。
シス・カンパニーの文学シアター等では十年余、脚本料と時には著作権料=上演料を頂いていたワケで、それで贅沢しなければ年金と合わせて半年程度は食えるのです。たいへん有り難いことで、「東京かわらぬ者」という身分もそう悪くはアリマセン。が、戯曲(脚本)上演権利期間を訊ねたところ、社長から「三年、それ以後はジャンク」ということでした。なるほど「ジャンク」か。ジャンクねえ。/Junkとは、そのまま使える見込みがないほど故障損耗し、本来の製品としての利用価値を失っている品物。販売店による動作保証のない商品もジャンク品と呼ぶことがある。下らない、役に立たないもの。がらくた。廃品。/というのが現状一般的ですが、もうひとつ意味があります。/中国水域で数千年にわたって広く使われてきた帆船の総称。/ふむ、数千年ね、三年より長いナ。よし、こっちにしよう。というココロです。
~つづく

2025年3月29日 (土)

「narrative-60の謎」-11

シス・カンパニーに書いた私の作品群に対してシスの広報がいいキャッチをつけてくれました。「文学の森を抜け 彼方へと続く」です。文学にたいする私の戯曲化の姿勢はそのとおりです。いまのところの私のかんがえを記しておくならば、AIの思考(があるとして)とヒトの思考(私のですが)を比較してみる場合、AIにはさまざまなヒトの〈生きざま=人生〉をデータ化して学習することはかなり難しいか、普通にいえば無理かとおもわれます。だからAIは駄目だといっているのではアリマセン。たとえば得意そうな、数学、これなどは計算や確率の統計のデータを文脈にして提出するなら可能でしょう。けれどもゲーデルの「不完全性定理」を理解して解説するのはどうでしょう。AIがあの『定理』をどのように理解しているのかは知りませんが、『定理』をAIにあてはめれば「もしAIが完全(正しいの)であるならば、AIは自らの完全(正しいもの)であることを証明出来ない」になります。さらに哲学はAIにはかなり難しそうだとして、音楽はどうでしょう。楽譜を並べて何らかの楽器で音を出すということは出来ますが、それを新しいオリジナル演奏というかどうかは疑問です。音楽の言語にあたる〈音符〉というものを単にデータとして連結するだけのAIには創造性も想像力も期待出来ません。「みたいなもの」ならいくらでも創りますが、それらは幾つかのネタのリミックスというものでしょう。「みたいなもの」といっても、たとえば「そろそろぞろりにはらはらぱっぱ、ペペンペンポンポンのったりこたりにジンジロゲとはゆかいだね」と鼻唄で歌ってみて、つまりオノマトペの適当メロとリズムなんですが、これをデータに端唄を創れというプロンプトは、AIには応答出来ないでしょう。オノマトペを考える認知科学からいってみれば、もっと簡単な「ポイ捨て禁止」は煙草を路上などに捨てることを禁止することだということがAIにはワカリマセン。何がかというと「ポイ」がどういうことかワカラナイのです。ものを簡単に捨てるとき、「ポイ」などという音はしません。この「ポイ」は感覚的了解の音です。AIには〈感覚〉概念の理解は出来ないようです。音楽にもどって、懐かしの少年少女活劇ドラマ『七色仮面』の歌詞には♪デンデントロリコやっつけろ♪という部分があります。さて「デンデントロリコ」ですが、子供の頃の私たちはこの部分の意味はまったくワカリマセンでした。けれども、感覚としては了解して歌っていました。♪解けない謎をトロリと解いてデンデンとトロリコ、とやっつけるのです。AIはしかし、このような文脈の了解は不可能におもえます。(ドラマとしての面白さの要因は子供がストーリーにからまないという当時としてはめずらしいものだったから、だと私はおもいますが)。AIは、流行している歌や音楽に似たような曲を創って「リスペクトです」と嘯(うそぶ)くことは出来るでしょうけど。それはリスペクトというデータに基づいてリズムとmelodyをそれらしく並べたものです。「あなたの苦悩をシンフォニーにしなさい」というプロンプトに応えたとしても、それは、それらしいタイトルのある音楽の真似、贋物、盗作の類です。(苦悩している様子の真似や模倣は出来ますが、ほんとうに苦悩するということはAIには出来ません)。
ところで、さすが公共メディア受信料徴集放送局、AIなどが話題になるずっと前、コンピュータによる作詞・作曲の歌の音楽番組を創っているのです。立命館大学・樋口耕一准教授が開発したソフト「KHコーダー」を使って、約3000曲の歌詞を入力し、時代ごとの頻出ワードを抽出、当時の社会情勢や流行のキーワードのヒントをピックアップ、明治大学教授・東京大学名誉教授の嵯峨山茂樹さんが開発したソフト「オルフェウス」を用いて、番組のために亜細亜大学教授の堀玄氏が組んだ特別プログラムを使い各時代の頻出ワード”を元に自動的に「作詞」、そこからメロデイを生成して「作曲」したというもの。仕上げに当代一流のアレンジャーが入って編曲を施しプロミュージシャンが演奏しました。できあがった「恋の夜東京」「女と愛と夏と」「愛の夢の涙」「LOVEバージョンYOU」「スペシャルMY」「NEW YEAR」。歌うのは、“ぐっさん”こと山口智充(ともみつ)さんと、ものまねタレントの福田彩乃さんで、放送はなんと十年近く前、2015年12月26日(土)午後9時~9時59分(総合テレビ)番組タイトルは『紅白The平均ソング』でした(近々に再放送があったらしい)。ちなみに、このときに歌われた「女と愛と夏と」の歌詞は、
♪恋は忘れるわ あああの人を待ちきれないで 待ちますかと二人 そんな男涙 あなたのように涙を愛す あなたのような女の愛 涙忘れればよ あなたが泣いた恋♪
現在のAIならマチガイなく、もっとまともな作詞をするでしょう。
ところで、ヒトにおいてもAIのようなヒトは存在するのではナイでしょうか。これは「ワカリヤスイ」オハナシしか理解出来ない者たちへの皮肉ですが、AIが私たちに突きつけるほんとうの問題です。
~つづく

2025年3月27日 (木)

「narrative-60の謎」-10

「narrative-60の謎」-10
このアトは能や歌舞伎でお馴染みの『黒塚「安宅」』、江戸川乱歩さんに飛んで『お蘭、登場』坂口安吾さんの『風博士』とつづいていきますが、先述した失敗作『奇蹟』についておハナシしておきますと、この作品は原作にあたる文学はアリマセン。世間はCOVID-19、コロナ騒動で、かなりタイトな時節の作品だったのですが、主役を演じる俳優の方が、ミュージカルの王子様と称される(特に女性に)人気のある名優だとは、私、まったく知りませんでした。ともかく私は芸能界には疎い。井上芳雄さんといえば、キャーッと媚態を魅せる熱烈なファンが多かったのですが、私、まったく知らなかったのです。これは劇作家としては大失策でした。AIなどはこんなマチガイはしないでしょう。井上芳雄さんが誰でどんな人物なのか、これはこれで「固有名問題」といわれます。これは深く学習していませんので今回は立ち入りません。簡単に述べておけば、そのヒトがどのようなヒトかというそれだけです。AIが俳優データ以外のそのヒトの履歴をどこまで学習しているかは不明ですが、私としましては、「出演者に対する知識が無かった」というのは致命的ミス、エラーであることは間違いアリマセン。
『奇蹟』では、ジェンダー問題を隠しテーマにしたミステリを書いてみたのですが、そこでカトリックにおける奇蹟認定をsituationとして扱いました。キリスト教には奇蹟はつきものですが、バチカンに「認められていない奇蹟」が何故「認められない」のかです。そこのところに興味があって書いてみたのです。奇遇でしたが、主役の井上さんはクリスチャンでした。キリスト教の奇蹟にはマリア関連の奇蹟が圧倒的に多く、といいますかイエスの奇蹟は殆ど無いといっていいのです。よって認定されていないものも多いのです。これが「奇蹟非認定」のひとつの答えです。もっともマリア信仰のキリスト教派もあります。なにしろ救世主を産んだ女性なのですから。母性としての愛なのですから。
/主筆・注] 宗教学的に分析すれば、あまりにも男性中心の世界で発展したキリスト教が、ともすれば欠(か)かしがちだった母性的なものへの人間の自然の憧憬をそこで満たしてきたといえる。キリスト者は病気や死の苦しみの中で自分の弱さを痛感するとき、母のやさしさをもって慰め、助けてくれる存在として、聖母にすがった。しかしそれはマリアを女神のように拝むということではナイ。そうではなく、聖母マリアが私たちとともに神に祈ってくださる、という信心がマリア信仰だ。プロテスタントでは基本的に聖人聖女を信仰せず、マリアもその対象とならない。そのため「聖母マリア」と呼ばれるのはカトリックのみで、プロテスタントでは主に「イエスの母マリア」といった呼び方をする。16世紀半ばに日本で布教を始めたイエズス会や托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会)は聖母マリアへの信仰が篤いことで知られるカトリック教会の会派。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、『第二の性』の中で、「聖母マリア崇拝は男らしさの最高の勝利の象徴である」と述べており、女性に従順・母性・純潔を求める規範であることで男性の利益にかなう存在だとの見方を示している。(月1800円のウイキペディアを含む)/
天国の玉座にはヤハウェとイエスのものは用意されているのですが、マリアの座はアリマセン。彼女の座する場所はナイ。奇蹟はマリア関連のものが多い。なのに、天国におけるマリアの場所は無い。これはもうカトリックの矛盾ともいえる男尊女卑、男女差別の鮮明な事実です。キリスト教が万人平等を説いたかどうかアヤシイところですが、天国においては万人平等です。マタイによる福音書20章1-16『葡萄園の労働者の譬え』は有名なのですが、私としては高校卒業後すぐに読んだ配布聖書の中でワカラナカッタところです。後年、教派によって解釈は異なっていますが、イエスは天国の平等についての譬えとしてこれを応えたワケですから、この譬えのとおりに読むと、天国というところの平等とは何かは理解出来ました。とはいえ、私がキリスト教を好まないのも、原始キリスト教から中世キリスト教と歴史の変遷で、そこに階級主義を嗅ぎ取ったからです。そういうワケで、『奇蹟』はこの首尾一貫としないカトリックにおけるジェンダー問題を扱って、ミステリにしてみようというプランでしたが、それに伴ってミステリの事件もその謎の解決も、それに倣うカタチでハッキリ示さないでおこうという仕掛けで、ミステリ・サスペンスの雰囲気だけは、昔のミステリ雑誌『新青年』ふうのものをと企んだのです。つまり雰囲気だけのミステリというものに挑んだのですが、演じる側で「よくワカラナイ」というクレームが多くを占めました。これはアタリマエといえばあたりまえです。だって「よくワカラナイ」ことを持ち出して、それを社会問題として扱わず、ミステリとして書いたワケですから。/マリアが女性であるから奇蹟認定が難しい/というよくワカラナイ、あるいはワカリ過ぎるほどのカトリックの男尊女卑権威主義に対する批判のつもりだったのですが、謎の解決に明確に触れない不満と、それでは演技が出来ないという不確かさが大きかったです。私にしてみれば、「世間や政治の情報、状況なんてアヤフヤなものじゃナイか」と、この辺りから情報というものに対する懐疑というものがあったのです。ちなみに井上さんはこの「ワカラナイ」騒ぎには冷静で、そんなことはお芝居においてはどうでもイイというふうな立ち位置でした。これは、私が問題にしているマリア問題、男尊女卑問題をクリスチャンとしてよく「ワカッテ」らしたのだとおもいます。彼はカトリックではなくクリスチャンですから、逆にそんな騒ぎを面白く眺めてらしたのだと、いまは解ります。そういうことを考慮するにおいて尚更この舞台はもったいない舞台でした。AIにしてみれば、もっと簡単に書けたヨウナ気がします。井上さんの歌唱を中心にハナシを進めていけばそれで良かったのですから。
これはほぼ棄てネタのつもりででしたが、マザー・テレサなどは屍蠟化して保存されることを、屍蠟化は一種の奇蹟的死体なんですけど、そいつを切に願って、世界中から集まる寄付金で病院の療養治療施設を近代化せずに、いつまでも貧民の為の病院、療養所にみせかけるために、貧乏くさいままにしておきました。つまり「哀れみの対象」を壊さなかったワケです。余剰な寄付金は自身の贅沢に使ったようです。まあこれは一説ではありますが。この説はカトリックの胡散臭さを突いています。私などはカトリックといえば、G.Kチェスタートンが好きです。彼の『ブラウン神父』シリーズはミステリ短編のお手本となるものですが、他の著作では進化論を含んだものもあります。化石を生物の石灰化として進化論を解釈するところなどは、やはり、胡散臭いといいますか、無理しているなあという感じです。チェスタートンの『正統とは何か』は私の人生の一冊なのですが、残念です。
この作品(『奇蹟』)をべつの観点からいえば、それならそれで、自信を持って不可解なまま書くべきだったのを、やはり「ワカラナイ」ままでは商品演劇として通用しないかなあと、ある程度は「ワカル」ようにしたほうがいいかという妥協的、中途半端な書き方が駄目だったということです。AIはこういうことはやらない、というか出来ないでしょう。たとえば芥川さんの小説『藪の中』のような、それを原作にした黒澤監督の『羅生門』の脚本などはAIには書けません。ひとつの問いに幾つもの解がある、まったく解釈のチガウものを一つのフレームにインすることは出来ませんし、記号接地や固有名の解釈がチガウということもあり得ません。けれども、そういったミステリはオモシロイのじゃないかと墓穴になってしまうのですが、書いたワケです。哲学者のスピノザが述べたように、/何か一つを選ぶということはそれ以外をすべて否定することだ/くらいの決意性、覚悟でナイと駄目なのです。「ワカル」ということは、どちらかに決めてくれということと同じことですから、虚構の舞台では、悪人は悪人、善人は善人であるほうが、演者にはよく「ワカル」。しかしそういった「ワカリヤスイ」オハナシは、ヒトをして脳の思考停止に追いやるのではないか、と、心配しているワケではありませんが、私にすれば~ツマラナイ~ことはたしかです。
~つづく

2025年3月26日 (水)

「narrative-60の謎」-9

続いては、長谷川伸さんの股旅ものになります。『文学シアター』の始まりはわりと、おカタイ文学路線でしたが、ここらで大衆文学路線を入れてみることにしたワケです。提案したのは私ですが、三作目は『沓掛時次郎』です。ここで私がやりたかったのは「股旅もの」そのものではアリマセン。それに重ね合わせて、以前から舞台化したかった『旅の重さ』です。日本の小説家・素九鬼子さんの小説を原作にした日本映画。1972年(昭和47年)10月28日公開。松竹製作、監督・斎藤耕一、 脚本・石森史郎 高橋洋子主演(オーデションデビュー)の映画化で、主題曲は吉田拓郎さんの「今日までそして明日から(~私は今日まで生きてきました)」です。原作は読んでいないのですが、映画は四回観ています。この小説については数奇な運命とでもいえばいいようなドラマがあります。芥川賞作家でもある由起しげ子さんが病没した際に遺品整理で蔵の中から素九鬼子(もとくきこ)名義の原稿が見つかりました。おそらく由紀しげ子さんのファンの作家志望の女性だろうと、素性を調べましたが、誰だかワカリマセン。しかし、中身はオモシロイ、そこで出版社(筑摩書房でしたか)は出版すれば作家は名乗り出てくれるだろうと本人に無断で出版しちゃったんです。こういう賭はオモシロイですね。で、それはそれで図に当たったというワケで、映画化の算段まで出来てしまいました。名乗り出た素九鬼子さんはその後、直木賞の候補にもなってらっしゃいます。わりと早くに休筆されてしまったのですが、『旅の重さ』はなかなかのドラマです。サクサクとしたあらすじを述べると、とある家庭の問題と自立への憧憬で家出をした少女が(この辺りはコテコテやらない)旅先で様々な人々に出会いながら、四国を巡礼する半ばロードムービです。林芙美子さんの『放浪記』を彷彿とさせるという批評もありますが、私はそうは感じませんでした。もっと都会派、現代的な状況描写のエロスが強かったです。エロス=生きる力です。足摺岬の近くで旅芸人・松田国太郎一座と出会い一緒に過ごすのですが、ここを中心に舞台にしたくて、この旅劇団の舞台演目に『沓掛時次郎』を入れたのです。ですから、『沓掛時次郎』をそのまま舞台でヤったワケではありません。Producerのほうから「時代劇・剣戟はお金かかるから」といわれたのを、「かからないように書きます」ということで、主要な場面お馴染みの場面を劇中劇にしてみたのです。それについてproducerは「そうよね、『沓掛時次郎』ってこれだけよね」との感想がありました。他の映画化、コミック化された長谷川伸作品の『沓掛時次郎』も参考にしましたが、やはり加藤泰監督の映画がイイです。ここにもうひとつ加えた長谷川伸作品が『暗闇の丑松』です。これは、私の単なる想像ですが、この作品を書くにあたって長谷川伸さんはシェイクスピアものを書いてみたいとおもわれたにチガイアリマセン。ですから『暗闇の丑松』は長谷川伸作品としてはかなり異質で、物語の展開がシェイクスピア作品に近いのです。私の舞台ではラストシーンは主役がヒロインの目前で敵役と一対一の決闘シーン、拳銃の一発勝負で、西部劇ふうのシーケンス(sequence 映画やテレビで、一続きのシーンによって構成されるストーリー展開上の一つのまとまり)にしました。この舞台の稽古の途中、ベテランの段田さんが役に入り込み過ぎて涙をこぼすときが何度もありました。ほんらい、それはプロの舞台では御法度らしいのですが、私は上機嫌でした。いうなれば、その舞台の量子コヒーレントの場、つまり量子の純粋状態では、そこに描かれたことは現実とみなしてイイというのが私の立場です。演劇は虚構だ、などいうのはニュートン力学における単なる常識に過ぎません。量子力学ではこの常識というものが通用しません。私が学んだ量子力学はいまや「古典」の部類(コペンハーゲン派解釈の頃のシロモノ)ですが、演劇もまた常識を超えているとかんがえる私にはワリに理解しやすいものです。
~つづく

2025年3月25日 (火)

「narrative-60の謎」-8

散文、小説における登場人物と戯曲の登場人物とでは、その身体性が大きくチガイマス。戯曲の登場人物はかなり具体的な身体を持っています。舞台で生身のヒト(役者)が演じることが前提として書かれているからです。けれどももちろんイメージ(像)としてです。たとえば戯曲には「アテ書き」という手法があります。予(あらかじ)めその役(登場人物)を何方(どなた・どの役者・俳優)演じられるのかが決まっている、その役者にアテて書くという手法です。
戯曲に書かれた身体はイメージ(像)ではあるけれど、演じるヒトはその身体(イメージ)に自らの現実の身体を重ね合わせていかねばなりません。この場合、ホンを読んでいるあいだだはその役者のイメージ(像)であったものが、舞台に立つと逆立するということです。イメージであったものが実像に、そうして現実、実像の演者はひとつの視線となって舞台の立像を批評、分析、了解、納得していくという関係になります。べつのコトバでいうと、ホンに書かれた登場人物が表現主体であり、役者はその分析者という関係がまずあるのですが、これはまさにジャック・ラカンの精神分析の如しです。これが実際の舞台に役者が立ちますと、役者は表現主体となり、視線が分析者というふうに逆立します。この関係を了解していかねば、戯曲は読めません。読むというだけでは戯曲としては完結しないのです。この逆立の記号接地はAIには真似の出来ない〈矛盾〉です。けれどもこの〈矛盾〉がなければヘーゲル弁証法的な発展(アウフヘーベン・aufheben/止揚、「アウフヘーベンする」とは「対立する考え方や物事からより高い次元の答えを導き出す」「対立する二者を超越した結論を導く」という意味。「対立物の相互浸透」からの発展、進捗)はアリマセン。こういった道程、道筋をAIが独自に可能なのか、哲学的に譬えていえば今のところAIの人工知能としての「思考」と呼ばれるものはカント辺りの段階で、ヘーゲルには進めません。ヒトの脳はヘーゲルにも進めますが、何故、それが出来るのかは脳科学として未解決です。この伝でいえばAIはヒトの脳作用(システム)のコピーとも云い難いです。f→f(1)という写像理論で現すことは難しいのです。
さて、具体的に小泉さんは、自分の演技のナニをどう分析して変化させたのでしょうか。
小泉さん自身にも訊ねましたが、ともかく「どうもカラダが納得して動いてくれないので、それまでの演技テクニックに該る部分を一端全て棄てて、カラダが納得するままに演じてみた」というふうなニュアンスの応えがあったような記憶はあるのですが、さて。
以下は彼女の演技を演出者と私とで解釈しつつ至ったとりあえずの結論ですが、私たち(作家と演出者)は彼女に変化球をたくさん教えたが、単純に直球(ツーシーム、フォーシームと称されるものですね)が良かったのではないか、でした。
/少々の解説] 球体が回転しながら空気中を移動するとき、回転する球の周囲に圧力の変化が起こります。進行方向に対して上向きの回転(バックスピン)が加わると、ボールの上下に圧力差が生じて球を下から上に持ち上げ重力に逆らう方向に力(揚力)が発生し落下しにくくなる物理現象。バックスピンのかかった速球が揚力を受ける場合に、「8の字」と表現される縫い目を持つ野球のボールには回転方向の違いから大きく分けて2つの異なるパターンがあり得ます。日本で昔から「ストレート(直球)」とされてきた握りで投げる速球は、ボールが1回転するたびにシームが4回通過することになり、「フォーシーム」と呼ばれます。これに対して、従来は「シュート」系とされてきた握りで投げる速球は、ボールが1回転するたびにシームが2回通過することになるため「ツーシーム」と呼ばれており、フォーシームとは区別されています。昨今フォーシームとツーシームでは境界層分離の発生する場所はボールの回転によって異なるものの、ボール全体に生じる空気力学的な効果はほとんど同じだということが判明。 何がフォーシームとツーシームの軌道の違いを生み出しているのかというと、「ボールの回転軸の傾き」だとのこと。この球はバットに当たったときにその力を発揮する。たいていはゴロになる。「江夏の27球」で知られる阪神タイガース江夏投手はプロ入りするまで変化球の投げ方を一切知らなかった。巨人の江川投手には「直球とカーブ、それ以外の球は要らない」という名言がある。/
小泉さんの場合、/せりふで役を演じる/というかんがえかたを一端棄てて、単純に/せりふを自分のカラダが納得するようにコントロールしていく/に換えたのですね。もちろんのこと、段田さんはゲネプロでは彼女に圧倒されていたのですが、本番では、彼女の投げるボール(せりふですね)をどう受けて投げ返すかに演技を換えてきて、ちゃんと主役をまっとうされていました。
~つづく

2025年3月24日 (月)

「narrative-60の謎」-7

次に、演劇においての戯曲の文学性と舞台における役者の身体性、これもまたAI問題とともにオハナシしていきます。具体例として恰好の例はシス・カンパニーの「文学シアター・volume・2」での『草枕』だとおもわれます。『草枕』はご存知のように夏目漱石さんの初期の小説ですが、シス・カンパニーの構想ではほんらい太宰治作品での三部作にする予定だったものが、私が最初の『グッドバイ』でさまざまに太宰作品をリミックスして用いたこともあって、producerが別の文学に舵をきったのです。じゃあ、まあ、文学らしいものとして夏目漱石にするかと、その中でも舞台化されていない作品というか、舞台化出来そうにナイ作品ということで私が選んだワケですが、ほんとうのところ、私は文学という分野にはあまり縁がなく、夏目漱石さんに至っては『坊ちゃん』と『夢十夜』程度しか読んだことがなく、『猫』もあまりのダラダラした展開に(これは新聞小説でしたから致し方なきことなんですが)途中で読むのをヤメた記憶があります。ただ、悪運が強いといいますか、私の親しい知己である映画演劇評論家の安住恭子さんがちょうどその折、『「草枕」の那美と辛亥革命』という評論で和辻哲郎文化賞を受賞されまして、そのホンは読んだワケで、こりゃあ使えると、安住さんにこの本のネタを他の演劇映画に私より先に使わせないでネ、とお願いして、それをフレーム・インしたのです。なんとならば、舞台ヒロインは小泉今日子さんということに決まっていましたので、これまたちょうどイイやと簡単に決めたのですが、本編の漱石さんの『草枕』を読んでみますと、小説というよりも日本文化に対する論評を小説に仕立てたという按配で、なるほどいままで舞台化されなかったワケがよくわかりました。AIならこれをどう記号接地するのだろうか、ほぼ不可能なんじゃないかなとおもわれます。データなら豊富なんですが、ストーリーとしてはあまりに単純です。しかし演劇、戯曲ではそれでも出来るんです。何故なら、演劇、まず戯曲というものは「棄てる」ことが出来るからです。何をかというと「要らんもの」をです。AIですと『草枕』は日本文化礼賛と欧州文化批判を組み入れての大長編になるところでしょう。それぞれのデータを繋ぐ作業というのは膨大になります。AIは「棄てません」から。というか、何を棄てていいのかが判断出来ませんから。
漱石の『草枕』は書き出しが有名です。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
この冒頭の一文はまるでお芝居のせりふのようです。私が『草枕』を選んだのはそこにあります。他に、あらすじめいたところでいえば、/日露戦争のころ、30歳の洋画家、主人公が、山中の温泉宿に宿泊する。宿の「若い奥様」の那美と知り合う。出戻りの彼女は、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」ですが、その那美から、主人公は自分の画(自画像です)を描いてほしいと頼まれます。しかし、彼女には「足りないところがある」と画家は描かないんです/。この辺は妙に芝居がかっていて興味を惹かれます。ところが、ある日、彼は那美と一緒に彼女の従兄弟(いとこ)、満州戦線へと徴集されているのですが、彼の出発を見送りに駅まで行き、その時、ホームで偶然に、満州行きの為の「御金を彼女に貰いに来た」別れた夫と、発車する汽車の窓ごしに瞬間見つめあうのです。そのとき那美の顔に浮かんだ「憐れ」を横で主人公は観てとり、画家としてインスパイアされて、「それだ、それだ、それが出れば画になりますよ」というワケです。もうこれはお芝居、舞台化するとまずオモシロイところです。こういうところが何故、舞台化するとオモシロイのか、AIにはワカリマセン。何故ならば、AIには顔がありません。身体性が、身体的な記号接地が無いからです。表情というものの「憐れ」に記号接地出来ないのです。ただし、そうanswerすることは出来ます。そこがマシンとして優秀なところでもあるのです。/画家はナミの表情に「憐れ」を発見し、それは絵画に可能だと判断した/てなanswerになるのでしょう。これは文章の上だけで、AIには「憐れ」はワカリマセン。しかしanswerを読んだヒトはそれがワカリマス。AIとヒトとの物象化はそういうものです。
ところで、キョンキョンはこの那美をどう演じたか。小説、戯曲の文章ではAIにせよヒトにせよアッサリ書けるのですが、女優であり身体、身体性を所持しているキョンキョンは「憐れ」を文字どおり「身体=表情」で現さねばなりません。こういうものはイキナリ出来るのではなく、舞台の物語の進行を追っていって出てくるものでナイとイケマセン。演出もかなりの苦労です。最後の通し稽古が終わった時点で、この演技は演出から観てうまく出来ていませんでした。演出は「出来るべき手はすべて尽くしたけど、駄目だった」とギブアップするありさまです。私も演出とは演技の方法論を話し合ったのですが、小泉さんに上手いアドバイスは出来ませんでした。ところが、最後のゲネプロ(ドイツ語の「Generalprobe(ゲネラールプローベ)の略で、本番と同じ条件で行う通しリハーサルのこと)になって、まるで嘘のように小泉さん、これをヤってのけたのです。一つ前の「通し」とはまるで違いました。驚きですね。別に戯曲を書き換えたのでもアリマセン。主役の段田さんが逆に今度はうなだれて、「いやあ、参った。もうこの芝居は姐さんに任せる」なんていう始末です。何故、そういうふうになったのか、これこそ、AIには理解不能(作用化不可能)な出来事です。
~つづく。

2025年3月22日 (土)

「narrative-60の謎」-6

従って、というつながりになりますが、producerの注文が『グットバイ』の舞台化でしたので、「従って、『麗しのサブリナ』をほんとうの主題、記号接地にしたこと」つまり私のお気に入りのラブストーリーをフレーム・インしたことは、producerにも内緒でした。作品の内容からふつう気がつくはずなのですが、どうも『麗しのサブリナ』はオードリーの映画の中でもさほど知られていない部類なのだとおもいました。みなさん気付かないのか、知らんふりしているのか、ちょっとワカラナイというのが正直なところですが。以前、自劇団へ書いた作品『こんな宿屋』は、ルイス・ブニュエルの『ナサリン』を下敷きにしたのですが、たぶん演劇関係者で識るヒトは少ないとおもい、『どん底』(ゴーリキ)を下敷きにしたと喧伝しておきましたが、それでみなさん納得していましたからね。こういう「隠しテーマ」は、R.P.Gでは「隠れキャラ」という設定でよく登場したり、含まれたりするのですが、後に書いた『奇蹟』などもテーマをまったく誰も読み取れなかった(というのが私の失敗なのですが)ということもあります。この件については後に詳細を述べてみたいところです。ともかくもAIではこのような「多重フレーム」「多重記号接地」は出来ません。「多重フレーム」「多重記号接地」が現状では不可能だということは、具体的にいえば、もしAIで戯曲を書く場合、いくらうまく書けても、「フレーム」は一つ、「記号接地」も一つということになります。これはビット計算ではなくバイト計算と理解して、バイトを重ねていくことは可能なのですが、具体的にいえば、一つのテーマ、課題に乗せてさまざまなプロットやエピソード、ナラティブを創る。それはちょっと書ける劇作家になら出来ます。これがいわゆるワカリヤスイ作品です。けれどもそういった作品を批評家的なコトバで述べると「世界が狭い」というふうにいわれることは多いですね。簡単にいえば、哀しいテーマを哀しい物語で書くという、それはフレームの狭さを物語っているということです。では、「世界か広い」となるとこの逆なのですが、たとえば映画にもなった、池井戸潤さんの「空飛ぶタイヤ」や「下町ロケット」です。これらの作品は現代版人情悲喜劇なのですが、たしかに世界は広がっていっています。中小企業が大企業に対峙する物語、さらに明日にも倒産しそうな中小企業が宇宙ロケットの部品を創ることで大企業と争い勝ち残る。その技術というものを描く、とタイトルからしてそうです。もっと身近なところでは渥美清さんの『フーテンの寅さん』シリーズの中にも秀逸な作品は散見しています。基本的には職業、教養に原因する失恋物語ですから哀しいのですが、喜劇として描いています。時々の失敗作、駄作は左翼的思惑が強く出た場合に多いようなときですね。ここでは個別には論じません。総じていえばヒューマニズムを左翼思想に直結したときが、そんなときですかね。あくまで私的感触ですが。
さて、AIの弱点であるリテラシーの未熟さは作家、劇作家、脚本家にとっては反面教師として大いに学ぶべきところです。そういった意味ではAIに下書きをさせるというのも一つの手段、手立て、方法でしょう。この辺りはAIの必要性を述べていることになります。
人情悲喜劇というところは、私の戯曲『グッドバイ』にもとり入れました。太宰さんの小説にはストーリーがどうの、テーマがどうのという前に、底辺には人情悲喜劇があります。人間関係の悲哀、私的な苦悩も多々書かれてあるのですが、それは一種の疑似私小説だからなのですが、ともかく「徹底的におのれを笑う」というヒューモア、道化に溢れています。ですから長編エッセイ小説の『津軽』や後々の『津軽通信』などは圧倒的にチェーホフの短編喜劇小説を飛び越えています。
そういうヒューモアや人情悲喜劇を私は『麗しのサブリナ』にも観たワケですから、フレーム・インさせたワケなんですが、コトバを換えればなんだか堅苦しい演劇や、芸術的表現なんかに拘らず、いわゆる「お芝居」を書くつもりで、太宰『グットバイ』をデータにしたワケです。観客が芝に居るということで「芝居」なのですが、そんな物象(観客との関係と了解)を書いたのです。思わず舞台に向けて一声かけたくなるような芝居です。
これは私の中で、かつ観客諸氏にも波状的に伝達出来たようで、教授がおでん屋のおっちゃんの励まし、あるいは一喝でヒロインのアトを追うシーンは拍手がきました。このおでん屋さんというのも重要なファクターとしてデータにしたものです。果たしてAIは「おでん屋」をどうデータとして学習、読み取ることが出来たろうか。ちょくちょくドラマや歌謡曲にも登場する「おでん屋」なのですが、そこは単におでんをツマミにコップ酒を呑むというところではナイ。むしろ、吐き出すところだ。何を、愚痴と悔恨を、敗れた夢と失った愛や恋を吐露するところなのです。ですから、知らぬどうしが小皿叩いてチャンチキおけさ、となるワケです。もちろん、太宰さんの本歌にもちゃんと出てきます。そんなところにAIは記号接地は出来ないでしょう。何故ならAIには人生がナイ。あるのは人生というデータだけである。それはつまり他人の人生という資料をなぞった物語でしかナイ。けれども、生身の役者の演じる舞台には、ほんとうの人生の成功と挫折、苦渋と再起が、文字どおりヒトの数だけあるはずです。
大事なのはここです。それらが「ヒトの数だけある」というところです。それをステロタイプ、プロトタイプ、模範演技にコピーされてはたまらない。いい役者というのはけして演技の上手い役者のことをいうのではありません。「ヒトの数だけある人生」をおのれの人生と重ね合わせて演じてみせることの出来る役者こそ優れた役者であり、その技を演技というのです。起承転結が如何に面白おかしく書かれていても、私にはそんなものには興味はナイ。ありていにいえば、私の望む演劇には、世間一般でいわれるような上手も下手もナイ。格好良くいえば、斬れば血が出る虚構こそ演劇です。
~つづく

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