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カテゴリー「演劇」の記事

2017年9月25日 (月)

明日という字は

明るい日と書くのね、という歌詞の歌謡曲がありました。そういうふうにいえば、たしかにそうなんですけど、「明るい日」ではなくて、「明けての日」がほんらいの意味だから、ここはまあ、詩的表現であります。

明日が明るいのかそうでナイのか、そうでナイとおもいます。でないと、一日のうちで、ふっとなんだか「明るい時間」が訪れることがあることが説明出来ない。貧者の一灯は、暗いがゆえに凛として明るく照らす。

ゆんべはナビ・ロフトの今年のクリスマス・イベント『悪魔のいるクリスマス』公演の稽古初日。読み合わせしたんですけど(ああ、私、演出します)、なんだか「明るい時間」だったなあ。

これは、三十年ほど前に書かれた作品で、なんつうか、fantasyね。でも、なんだか「いま」を描いているようで、ちょっと気味悪くもなるのでした。

つまり、この作品が書かれた当時のエピステーメーもディスクールも、いまではチガッテきているはずなんですが、・・・難しいカタカナ使うなっておもっているあなた。昨今、おおよそパソコン用語からの引用、あるいはまんまの多用で、私がどれだけ困惑し、いちいちリサーチかけているか、それに比べれば、これは哲学用語で、言語学用語だというチガイしかナイのだぞ・・・なるほど、ちゃんと生き残ってるんだ。しかも、嫌酸素生命体のように深海にひそかにというワケでもなく、ちゃんと浮上して。

だってねえ、話が逸れる(のかどうか)かも知れんけど、中島みゆきさんの初期集大成アルバム『愛していると云ってくれ』の冒頭「元気ですか」、この詩と彼女の「語り」を私たちはこえられていないじゃないか、未だに。あのね、いわれなくてもワカッテおります。相手が悪い。昨日きょう、剣術を始めたものが宮本武蔵に挑むようなものだと、まあ、そういうことをいうかたは多いでしょう。けれども、この「語り」や『時代』の「時代」を聞くとですね、逆にミシェル・フーコーのいうたことのほうがあやしくなってきますな。「こえるってどういうことっ」と、じゃっかんhystericな声も聞こえる。「こえる」は「肥える」じゃねえぞ。いってみれば「相対化する」「普遍化する」なんだけど、なんだかワカランならば、「ちゃんと向かい合う」でイイ。「対峙する」だ。「ぶつかり稽古」だ。

とはいえ、多重な構造として考えるならば、私たちの演劇のエピステーメーは次の断層に移行して、いってみれば終わっていて、「そんな時代もあったねと」になっているのは確かなんだけど、もともと演劇たるやAsylなんだから、積層を貫通しているものなのだ。でないと、表現が残っていくことについての説明がつかない。

我がAsylは、空間を占領されても、時間まではまだまだ凌駕されてはいない。この時間、その場所がAsylに変容する。と、いうことを、しみじみ(というふうでもナイけれど、他にたとえようがナイので)味わった稽古初日でありました。

「なんだか、楽しい稽古だね」

と、のたまった演者あって、そうよ演劇って楽しかったのよ。演っても観てても、だ。趣味の演劇は、烏合と「あったよね」の痕跡を残すだけだ。宮沢賢治ふうにいうならば「ほんとうの」演劇は、そのひとに中島みゆきさん歌うところの「永久欠番」をもたらす。

どうさ、明るかったか。

 

2017年3月25日 (土)

修行無常

 

OMS戯曲賞vol.23 感想。

大賞、佳作、選評、選考経過掲載の、いつもの本が送られてきた。

そこで、胆(ハラ)に残ったコトバだけを、失礼ながら無断ながら、転載させて頂く。

乞容赦。

 

/演劇はほんらい、人間の身体という唯一無二の存在、そして決して「これ」という形では差し出せないけれども、ひとりひとりの中に確実に、かつ豊かに存在しているそれぞれ固有の精神世界というふたつの具体性に依拠した表現です。

演劇こそが、他者を、自分とは別のもうひとつの身体と精神世界をはらむ存在として、入れ子構造の物語の中にではなく、現実世界の中にもっとも深く追い求めることが出来る作業であるということを忘れてはいけないと思います。

内部の「わたし」ではなく外部の「わたし」への想像力を凝らすこと、もって自戒の弁とします/(選評より)

大賞作品『悪い癖』(福谷圭祐)の作品について

/確信犯として×を付けた。三重構造で外部がないことを徹底してやっていて完成度は高い。徹頭徹尾自己言及的で、頭のいい人。世代の越境をやらなきゃいけない。挑発したほうがいいと思い、安易に理解を示さず、一番よくできている戯曲だが、あえて×にした。外部がないのはダメと言い続けないと。愛想よく相手に近づくが本気で対話せず、関心が自分達に剥いている風潮に呑み込まれてしまう/(選考経過より)

/芝居を始めて50年になりますが、若い人の芝居を理解するふりはやめよう、今年からいやな頑固爺になる役割を担います/(同)

 

すべて、佐藤信さんのコトバだ。キチンと自らの仕事の〈足下・足元〉を観据えた発言だと、感じた。(足下と足元のチガイは、単純には身体下の面積の範囲をあらわすが、この空間性は「精神世界」・・・私は〈心的精神世界〉というふうに用いますが・・・において時間的、情況的に拡張される)

信さんの戦闘宣言と、作品として佳作の『また夜が来る』(橋本健司)だけは、収穫だった。

 

2017年3月 6日 (月)

往くも還るも ワカレテハ

二十一年に及ぶ(及ぶのかどうか、それは思うヒト次第だろうけど)伊丹の戯曲塾(『想流私塾』)に一応の区切りをつけて、後進に任せるカタチとなった。

つい先日、その最後の卒業公演を(監修)観て、最終講義のとき、influenzaで出席出来なかった飲み会(打ち上げですな)に参加はしたが、セロトニン症候群(ほんとは薬害)の断薬後の離脱症状の最後の抵抗(で、あってくれればいいのだが)、低体温状態がここ二ヶ月は続いていて、それでも、平常体温にもどる日も多くなり、とはいえ、mentalな現場に入ると、セロトニンの自然分泌がままならない低体温状態が生じ、その日も平常体温から五分ばかり下回った、乗り物酔いでもしているような体調だったが、体調不良なんぞは、ここ数年、いやいや、鬱疾患になってから慣れっこになっているので、私の直接の最後の塾生たちに、一席ぶって、席を濁して、しかし、二時間持たせることは難しく、100分ばかりで限界を感じての退席となった。

そのアト、hotelにもどってから、跡継ぎの師範に電話で、感想を少し述べておいた。ホンと演出についてはたいていのことは、宴席で語ったが、妙に印象に残る女優が二人いて、これは両極端な演技を用いるのだが、というのも、ひとりはその天性の素材の良さが産んだものだろうし、いまひとりは、かなり舞台慣れしていて、容貌やstyleも、いま流行りの団体さん少女歌手の中にいそうな雰囲気で、どちらも三十才手前といったところだと思うが、いまが〔花〕だということはマチガイなく、それぞれ、その〔花〕はタイセツに自らが育てていかねば、摘み採られたり、あるいはアト五年もたてば、ただの「おばはん」になるのではないかという危惧も持った。

かつて、唐十郎老師は、「世の中でイチバンおそろしいのは、〈少女フレンド〉を小脇にして歩いている老女だ」(ちっと脚色、入ってます)と、のたまいたるが、この〔特権的肉体〕もひさしく舞台に姿を現すことはなくなった。

 

注)〈少女フレンド〉とは、かつての少女マンガ雑誌。〔特権的肉体〕とは、唐老師独特の「風姿花伝」論。

 

偶然だが、つい先だって『あやしい彼女』(2014年公開の韓国映画『怪しい彼女』を、『舞妓 Haaaan!!!』『謝罪の王様』などの水田伸生監督がリメイクしたコメディー。73歳の頑固な女性がひょんなことから20歳の姿に戻り、失われた青春を取り戻していく姿を描く。ヒロインの20歳時を多部未華子が、73歳時を倍賞美津子が演じる。多部による1960年代から1970年代のヒット曲の熱唱あり。日本公開は2016年・・・ネットから一部編集コピぺ)をDVDで観たが、illusionを超えて、fantasyとして成立しているこの二時間の映画には泣いてしまった。(多部未華子ファンだから・・・comedienneとしての彼女が好きでしてレンタルしただけなんだけど)。この映画で〈泣く〉ということは、そうか、とことんオレも老いてきたなと認めざるを得ないのが悔しいが、昨今、持病のアドレッセンス症候群で、夢想のうちに、若い娘に懸想しかけて失敗するてなことが多々あるので、いや、アブねえアブねえとは思いつつも、近頃は若者より少々黄昏た御仁がもてる傾向ありと風聞を耳にして、身体さへなんとか具合良くなってくれば、いくらでも恋をしにいくぜ、と、嘯いたりしている。

 

さてと、本論を少し書いておく。

二十一年もやってきたので、「たいへんだったねえ」とか「おつかれさまでした」とか、「よくやったねえ」とか、よ~するに、私が何か感慨深げになっているだろうという慰めと労いの交じったコトバを多く頂戴したのだが、それが、私の資質なのか、何かの疾患なのか、残念ながら「感慨」など何もナイというのがほんとうのところなのだ。まったく、二十一年の「感慨」など無い。在るという感触ならば、この二十一年のあいだに、多くの同志を得たという、さて、いよいよまた闘えるぞ、という、奇妙な昂奮に似たワクワク感だ。

ここまで、世界(国際情勢)がcomic(マンガというよりポンチ絵だな)になってくるとは誰が想像したろうか。

いやあ、世界は荒野だ、我がリヤカーはどこまでも、ゆくのだ。Hamletを従者にDon Quijoteが、ゆくのだ。そういうオモロイ演劇のハジマリだ。

2017年2月20日 (月)

ブルカニロ博士の告白或いは、Document演劇の試み~表現論の実験による証明~

 

二年前から始められた私の「私の表現論」における演劇の実験は、観測した事実において成功したと考える。

此度のavecビーズ公演『And in the End~つまりそういうこと』は、私自身にとってはどういうことなのかというと、現実(演者たちの二年間の楽器演奏習得~document)という微分係数と、虚構(『And in the End~つまりそういうこと』という劇~fiction)という微分係数から求められる関数の方程式(微分方程式)が、[表現]というものを成立させるという、私の表現論を実験(舞台-上演)で証明し、さらに、「世界(此度の場合は演劇による創作が成したところの情況)は私の表現であり、私はその世界の表現の成したところの存在である」という命題をマチガイのナイものとして「証明」した。

これによって、「世界は〔現実それ自体〕で成立しているのではなくまた〔虚構それ自体〕というものが存在するのではナイということが立証されたことになる」コトバをちがえていえば、虚構は現実から産み出されるものだが、虚構はまた現実の存在に強く関与(影響)するということが実証されたことになる。

さらにべつのいいまわしでいえば「実生活を繰り込めない演劇は〔価値〕をもたない。演劇に携わって生きるならば、演劇を実生活に繰り込めない人生は〔意味〕をもたない」ということになる。

これは、経済学とは切り離して考えていい。「食う」ための演劇とは、幾ばくかの銭の取得のcategoryでは論じても無駄だとしかいいようがナイからだ。心すべきは、ここのところに在る。何で食ったってかまやしない。「食うべき」ということが実生活ならば、それが現実ならば、上記の論旨において、それが繰り込めない演劇論などは何の値打ちもナイといっているだけだ。

誤解されると困るので、もうひとこと付け加えておくと、前述の論旨は職能劇団の営為とは何の関係もナイ。もちろん、労働の価値云々はまったく問題にしていない。これは、ず~っと、私自身が課題にしてきた「現実と虚構」についての論考上にある論理以上のナニモノでもナイからだ。その点においては、「なんで演劇をやってるのか」という問いかけには、ハッキリと「食うためです」と応えることは出来る。

もちろん、私のそんな目論見に気付いた観客は一人もいないはずだ。それはアタリマエでイイのであって、観客に向けては、私は『And in the End~つまりそういうこと』という舞台をみせたに過ぎないし、役者、スタッフはその舞台をみごとにやり遂げたということに尽きるからだ。此度の公演は、そういうparallelな構造を持っての上演だったのだが、私は結果として「二兎を追って二兎を得た」ということになる。これは誇ってイイ。私にとっては、僥倖な時間だったと、感謝でイイのだ。And in the End、つまりそういうことだ。

自負と謝意を含め、なにはともあれ一応、書き留めておく。

2016年11月28日 (月)

百姓日記⑫

 

飛躍show熱気

 

何か苦肉のsubtitleだなあ。

しかし、こういうのを「親父gag」と鼻で笑う若い人は私からも鼻で笑われていると思ったほうがイイ。さて、「飛躍」だ。プランク定数の文字通りの「飛び道具」、量子エネルギーの不連続が戯曲とどう関係しているか、を、述べてみせるshowのはじまりだ。

以下に戯曲文学とはどういうものかをその〈飛躍〉を以て解説する。

 

ある満員の喫茶店(飲食店)で、相席を求めるシーン。

女が四人がけのテーブルにひとり、座っている。男がやって来る。

 

(文例・1)

男「すいません、お訊ねしますが、この席、空いているでしょうか。

女「この席ですか、ええ、空いてますが、何か。

男「この席、空いているなら、座ってかまわないですか。

女「ああ、相席ね。ええ、他に空いてることろがナイのなら仕方アリマセンね。

 

(文例・2)

男「すいません、あいにくこの店、満席で、同席させて頂いてかまいませんか。

女「相席ですか(店内を観まわして)ほんと、満席ね。

男「ダメでしょうか。

女「いいですわ。他に空いている席がナイんだから仕方ナイわね。

 

(文例・3)

男「ここ、いいですか。

女「えっ、

男「(店内を観まわして)満席なんです。

女「相席ね。仕方ないわね。いいですよ。

 

(文例・4)

男「あの、ここ、いいですか。(店内を観まわして)

女「(店内を観まわして)ええ、いいですよ。

 

(文例・5)

男「(店内を観まわして)あの、

女「(店内を観まわして)いいですよ。

 

(文例・6)

男「(いきなり向かい側に座って一礼)

女「(店内を一瞥するが)

男「袖すりあうも、

女「他生(多生)の縁、か。

 

この六つの文例で「戯曲」文学といえるのは(文例・6)だけだ、といったら、それはちょっとdrasticだといわれるだろうが、しかし戯曲というのはそういうものなのだ。

そういうことを考えない、気にもとめない自称劇作家は巷間数多溢れて群れている。(別の表現でいえば、/そういうことを勉強しない、戯曲をそういう対象としない、のに、劇作家と名乗っているヤカラはあちらこちらに、その数だけ多く、群れをなしている/)。それはそれで、面々のお計らいと、いいかえれば「そんなん勝手でええやん」「好きなことしてんのやさかい、ゴチャゴチャいわんといてほしわ」で、放っておけばイイんだけど、放っておいてるんだけど、ここにシノギがからんでくると、ちっとオモシロクネエよなになる。

劇作家になるのには資格試験はナイ。小説家にだってナイ。およそ表現に携わるもの、ゲージツ家と称されるものには、ナイ。ところで、「心理療法士」と「心理カウンセラー」と「臨床心理士」は似てはいるが、前者二つは〈自称〉でかまわない。国家資格も法規もナイので、そう名乗って仕事をしても(対象・・・患者あるいは相談者が自殺したりしなければ)罪にはならない。「臨床心理士」というのは、国家資格ではナイが、文科省認定の財団法人の認定資格なので、ある意味公的な資格だ。これを取得するには、大学院を卒業して、認定試験に合格しなければならない。医療機関に勤めようとするならば、この資格がナイと、ほぼ、どの医療機関の求人応募にもひっかからない。応募しても雇用対象とならない。雇わない。しかしながら、あえて「ほぼ」、というのは、昨今「心の病」とかが多い世相、「心理療法士」や「心理カウンセラー」てなのが、医療資格者の如くに存在するblack、あるいはdarkな相談所めいたところは少なからず、いんや、いくらでもあるからだ。

何がいいたいのかというと、「経験」というものだけのliteracyskillで、演劇なり戯曲なりを素人に教えて銭を取得している不埒な(もちろん、法規上ではなく、私においての倫理上だが)自称劇作家も多数いるということで、けれどもそれに対して憤慨しているのではなく、この渡世、乞食稼業だなあと憐憫しているだけだ。私だって、資格など何もナイ。じゃあ熱気はあるのかといわれると、これが、「不埒な」と私がいうたほうが、私以上に、けっこう熱気は持っとることが多いんやさかい、まあ、ゲージツはワカランのだ。ワカランものに於いて、「銭になる、ならない、仕事がナイ、食えない」などと、シノギをほざくのは虫が良すぎるのかも知れん。と、思えば気楽でええんやけど。「夢じゃ腹はふくれねえよ、けんどもよ、夢を売れば銭にはなるよ」と、私もそれらしいものを売ってきたからなあ。昨今、売れる夢も変わってきよりましたなあ。と、ため息してるってことかな。

嗚呼、みんごとなる飛躍であります。

2016年7月21日 (木)

涙、壊れているけれど・24

ドラマツルグ

 

シス・カン文学シアターvol3の稽古が始まった。

初日、顔合わせ、読み合わせ、衣装採寸。

読み合わせ一回で、寺十演出、「じゃあ、今日はこれで」とトル。これは何もceremonyなんかではナイのだ、寺十の脳髄では、読み合わせの一回で、誰にどのような演出をすればいいのか、戦略が一応描かれているワケなのよ。

今回のヒロインは、舞台virgin。ヒロインにとくに集客動員がありそうでもない、かつ初舞台の二十歳チョイの娘を持ってくるというのは、シス・カンの社長(producer)は、この文学シアターについては、ギャンブル症候群になっているとしか思えない。まさに博打、一天地六。

二日目、読み合わせ。のっけが、その少女の長めのせりふからスタートするのだが、つまりそういうprologueがあって、幕が上がるのだが、寺十、一幕に進まない。少女のせりふで「はい、ストップ」。ここからが寺十演出の真骨頂。まず、その初舞台女優に「どうして、女優になろうと思ったの」と、人生相談まがいの質問からゆっくりと〈演技というものはどういうものか〉をレクチャーするところへと、入っていく。私たちも初めて聞くそのvirgin女優の茨道。「それで、もう、ヤルことなかったから死のうと思ってたら、スカウトされて」と、こういう、固有の人生の核を寺十、絶対に手放さない。その人生をこの芝居のヒロインの人生に重ね合わせるまで、手を抜かない質問がつづく。「このヒロインの少女は、どうしてコンタクトが嫌いで眼鏡をかけているんだろう」と、その娘に〈考えさせる〉のだ。ともかく、答はいわない。「眼鏡って、何だろうね」、考えさせる。これはどの役者についてもそうなのだが、考えさせる。~台本を読む~ということは、どういうことかという、それ、ヤッてんのね。

つまり、ブレないcharacterを(ふつう役作りとかいいますが)、その場で考えさせながら創っていく。単純に個々人が勝手に考えるのではなく、役と役との関係の中で、その上で考えさせて、創っていく。ちなみに、冒頭一枚の少女のせりふに対する質疑応答は休みなく90分。そりゃそうですよ。Virginなんだから。初舞台なんだから。「演技というのは上手にやんなくてもいいの、じゃあ、どんな演技がイイ演技なんだろ」と、私ならレクチャーしてしまうのだが、寺十は、そういうことはいわずにそういうことをねじ込んでいくのヨ。役者を手込めにする演出家もいるけれど、寺十はまったくドラマツルグが違う。強姦を和姦にしちゃうのよねえ。他の役者さん、待たされて辛いだろうけど、これ、傍で聞いてるオレなんかもう、面白くてタイヘン。Virgin女優の初舞台娘が、次第に芝居というもの、演劇というものにのめり込んでいく様子がワカルから、ワクワクなのよ。目つきがオドオドから、興味津々のキラキラになっていくのを観て思わず、ニコニコ。

 

とばかりはしてられません。

五時間半の稽古二日目を終わり、やっと帰途。メトロに乗る。意識混濁してんのがワカル。こうなったら倒れてなるかの意地だけで、新幹線に座って、辿り着いた思いで血圧だけ測定してみれば、150をこえてる、下がこれまた110の大特売、脈拍は125ときた。

セロトニン症候群とその離脱症状との合わせ技で、日々、痛みと痺れの中で生きてんのが不思議なんだけど、スゴイね人間てのは、性欲(というより生殖欲かな)亢進して、なんでもイイ、誰でもイイってワケでもナイけど、ちょいと好みのタイプを観ると、孕ませたくなるんだねえ。牡の本能ってやつかねえ。

2016年7月 2日 (土)

涙、壊れているけれど⑩

そうは、おもはない

 

/一見、何も起こらないと見える舞台の上で、笑えることがいろいろおこる。それは俳優自身の「老い」だ。度忘れ、息切れ、足のしびれ、のどの渇き、セリフを忘れた綾田俊樹に、ベンガルが優しく冷静に、「(芝居を)返しましょうか」といったのもおかしかった。ストーリーも面白い。「老い」をさらけ出しているところも面白い。だけど私は、えらそうにこう言いたいの。

 「ポール・サイモンをごらんなさい」

ポール・サイモン74歳にして、新しいことに取り組むアグレッシブな作品を出したばかりである。私はあの時、睨まれたことを忘れていない観客だ。やっぱり、客と、老いと、たたかってほしいのだ。

albinstigの日記2016-06-27

劇団東京乾電池創立40周年記念本公演 『ただの自転車屋』

 

で、私はそうは思わないんだなあ。むしろ、ポール・サイモンのaggressiveな作品とやらに、なんだか、うら悲しさを感じますね。74歳でaggressiveてのは、「最近キレる老人が多い」のと、どんだけチガイがあるのってことですよ。 

うーん、あのね、40年、40年だ。40年前の演劇(小劇場演劇と、のちに、あくまで、のちに、ですよ、称される演劇ね)が、どんな無謀と覚悟を強いられ、社会的に認知もされず、しかし、やっぱりなんか意地があったんだナ。闘ってきたと思うんですよ。人生棒に振って(というか人生から棒に振られて)、疲弊して、なおかつ、まだやろうってんだから、いまさら「老いをさらけだして」なんかいないよ。「さらけ出して」ましたかねえ、連中。私には、お地蔵さんとか仏さんが、三人して遊んでいるようで、ああ、これを還相(げんそう)というんだなあ、なんて思いながら観てたけどなあ。40年、ブレてないという自分たちの表現を、命削って、粉骨砕身、とはいえaggressiveなんかに力むことなく演ってましたよ。彼らの、役者としての、〈意識過程〉としてはそうだったんじゃないかな。けれども〈自然過程〉としては、身体は老化してますよ。アタリマエじゃないですか。だいたい、劇団東京乾電池の姿勢というのは、あるいは柄本明さんの姿勢というのは、「闘わないという、闘い方もある」じゃないんですかねえ。柄本さんに最も近い思想を持つ先達を思い浮かべると、キェルケゴールでしょ。そうじゃないですか。「絶望しろ」なんていった哲学者ですよ。その先駆者ですよ。それ以前に釈迦は「諦めろ」といってますけど。何度も書きましたが、釈迦は「では、どのように諦めればいいのか」と考えた。キェルケゴールは「絶望というのは何か」と問うたわけで、いずれにせよ、「諦めないと真理はみえてこない」「絶望しないと真理には出逢えない」というところから始めたんじゃないかな。

私はこの方(albinstigさん)のことも前回の方どうよう、知りません。たくさんお芝居観る時間の余裕と銭があるひとなんだなあというくらいですかね。まあ、「好好老」なんてのは、理想であって、そう現実に存在するもんじゃナイでしょう。むしろ、日本語の「頑固爺」のほうが多いんじゃナイかな。愛称として頑固爺はイイんでしょうけど、私なんか長生きすれば、そうなるに決まってるから。ですから、ポール・サイモンも後者のほうで、そうおっしゃってんでしょう。でなきゃ、このひと、ただの「子供」「エゴイスト」あるいは「世間知らず」「痛い目にあったことがナイ」「掃き溜めインテリ」かな。

すいませんね、私もaggressiveなもんで。

2016年6月25日 (土)

涙、壊れているけれど④

柄本さんからもらった本

 

『「絶望」の授業』というのを、サイン入りでもらったんだけど、これはその、ずいぶん前にNHKが番組でやってたのを文字に起こしたもんなんだけど、あの、ほら、出身地の小学校行って、授業ヤルってあれ。

中津川演劇キャンプでも同じコードのレクチャーを観ているんだけど、これは対象が小学生。で、ポンといってしまうと、これは柄本さんの演技における〈弁証法〉なんです。でも、小学生にもワカル。というか、柄本さん自身、弁証法は勉強、たぶん、してないと思うからですね、体得してきたのが、弁証法になっちゃってるんだナ。とはいえ、戸は家にあるんだけど、この弁証法は正しいんです。スタニスラフスキー(このひとは真面目にやって間違っちゃったんだけど)よりも、ブレヒト(このひとのは、まったくの孫引き、たぶんヘーゲルを読んでいない、完全なガセ)よりも正鵠です。

でね、そのアトで、やっぱり『ゴドー』なんか演らせるの。でも、オレは『ゴドー』はまったくダメだと思ってるから、何でって、ツマンナイだもん。ふつう「わからない」といわれておりますが、私にいわせれば「ツマンナイ」。あのね、これ読むなら、太宰さんの『待つ』と、かの有名な『走れメロス』とを読めば、〈待つ〉というのはこういうもんだよ、というのがうんともっとよくワカリマス。だから『ゴドー』は大嫌い。暇つぶしにしては時間の無駄。ノーベル文学賞最大の失態。しかし、あっそうか、これ「クダラナイ」から日本の演劇業界で演じられる回数が多いのかとも思いました。クダラナイ外国(アチャラカ)戯曲、わりと日本の演劇人、好きだもんなあ。ゴーリキーの『どん底』とか、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』とか、どこがどうオモシロイわけっ。んっ。(アチャラカというのをドタバタ劇、ナンセンス劇、軽演劇と勘違いしている演劇業界人も多いんですが、何度もいうように、納戸は家の中なんだけど、アチャラカとは、〈アッチのほうの、つまり外国のほうのという意味のslangです〉

しかし、四十年、演劇やってると、かつ、誰も観てない屋上酒場のステージの余興コントから叩き上げ、鍛え上げられてると、論理が血肉化、思想が骨身になっているから、やっぱスゴイわ。オレ30年かけて演劇論のホン一冊書いて、威張ってたけど、かないませんね。いってることはだいたい同じなんだけど、それを小学生にもワカルようにレクチャー出来るというのは脱帽でしかありません。ここに十年の差があるんだろうなあ。

2016年4月 5日 (火)

♡~39

如何なるものも歴史には遺らない。何故なら、歴史それ自体が消滅してしまうからだ。

演劇は、今後は、文学としての戯曲(書かれた劇)としての発展、生成、が、いずれ「読まれる劇」という文学として、新しき分野を確立するだろう。

「演じられる劇」は、「観るもの」としては、次第にその必要性を希薄にしていく。何故なら、観手にとって「私は何をみせられているのだろう」という〈不充分〉な隷属性の支配が拡張されていくからだ。簡便、端的にいえば、観劇の多くは、観手にとって、「手応えが無い」という感想につきる。

「読むことが出来、観て、手応えのある〈芝居〉を創造していかなくては」
ひじょうに、単純なことだが、演劇、舞台、芝居、は、「観客」が観ることによって成立する。これは、観客にシンパシーを求めたり、観客サービスに腐心せよといっているのではナイ、ことは、いうまでもナイ。むしろ、100人中、一人の観客の心身を震撼させることが出来れば、残りの99人はどうでもイイ。(実は、これは、手塚治虫さんの70年代のコトバで、もちろん、手塚さんはマンガについて語っている)

2016年3月13日 (日)

劇評『PORTAL』(作・林慎一郎、演出・松本雄吉、林慎一郎)

2016/03/13於、京都ロームシアター15:00
いま、都市論めいたものを戯曲、演劇で表現しようとするならば、その時間性は空間性によって変容されたところの時間性をもって描かなければならず、逆に、空間性を描こうとすると、時間性によって変容されたるところの空間性を解いた上で、説かねばならない。さらに、都市論は〈劇〉という表現において、都市〈生活〉論に昇華されねばならない。
都市をみつめる眼差しを〈記憶〉という心象を頼りに、生活の定住と移動を往還させ、「都市の地図」はかくも緻密に大胆に、そうして正確に概念を置換されて、林慎一郎の脳髄において、作品『PORTAL』として刻み込まれた。これが、神なるものの突きつけたゲームに対する応手であろうに、さらに、その結果として、神も知らぬ、ひとの〈哀しみ〉すら浮き彫りにしてしまった。この傾向のさまざまな演劇において、これ以上の完成度をみせた舞台を、私は他に知らない。
林慎一郎の〈ハイ・イメージ〉論ともいえる、このシリーズのこの先の課題は、この都市生活幻想の中に、今回、かいまみせる程度だった〈対幻想〉を如何にして対峙させていくかにつきる気がする。
私も、林慎一郎のいう「ヤコブの梯子」の螺旋階段を昇っていくつもりでいたが、イイワケがましく述べると、長年の忌まわしい疾病のために、いまや精も根も尽き果てた。けれども、林慎一郎の成さんとしている〈仕事〉のおかげで、肩の荷をひとつ降ろすことが出来たというのが正直な気持ちだ。林慎一郎は伊丹想流私塾の塾生から師範へと、つまりは流れだけでいえば、私の弟子スジということになるが、鳶が鷹を生むとはまさにこのことをいうのかと、苦笑している。
松本さんは、よくぞ、林をツカマエテ下さった。松本さん無くば、林も私の退屈と暇つぶしに付き合ったに終わったにチガイナイ。
あたしゃ、もう、これで、アトは使い棄てられるまで使えるものを好きなように使って戯れ言を弄する仕事と、かないもしない恋がまたあるかも知れないという妄想(romanticism)に抱かれて、余生とやらを経験すればヨシということにスルわ。

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