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カテゴリー「演劇」の記事

2024年2月 3日 (土)

nostalgic narrative 8

意味なく太い巻き寿司をそのまま食べる節分の行事「恵方巻き」は私の地方で私の幼少のころはなかった。おそらく全国何処にもなかった。いや、あったのだが、なかった。これは旦那衆のお座敷の芸者遊びだったからだ。それに目をつけたコンビニチェーンがまるで古事の因習でもあるかのように尤もらしいキャッチフレーズを並べ立て、売り出したらアタッタ。それだけのことだ。あの太い海苔巻きがナニを意味しているのか、デフォルメしているか、なんのメタファーかは、推して知るより芸者衆が頬張るところをイメージすれば、その通りなのだ。
松本人志事変もおそらく同様のことだ。だから、芸人松本自身はかの行為をまさか性加害だなどと捉えてはいない。集めた芸者ならぬ素人もしくは新人女性芸人に花代が幾ら支払われたか、それは「裏金」というもので、派閥とやらの政治家連中も、陳情陳述者相手に似たような接待はしてきたろう。多寡はチガウだろうけど。そんなものを会計士が帳簿につけられるワケがナイ。ところが、12年経って、頃合いを見計らったかのようにタチの悪いのが、「あのな、銭になるハナシがあるねん」と、おなご衆に耳打ちする。節分だって年に一回、芸人松本の旦那遊びは年に一回ではおさまらない。本人はただの遊び。口説き、崩し。それがご時世では「性加害」となる。エピステーメはフラットに積まれてきたのではなく面積も不明のままずれて重ねられてきただけ、というワケだ。政治も銭なら、遊びも銭。素人の倫理や論理は入る余地はナイ。
いま、紙で契約を交わしている芸能は文学だけらしい。私は私の物書き生活のことしかいえないが、此度の戯曲、小説の出版は初刷り何部、印税~%、判子、印鑑。たいていの出版社と交わした。交わさず勝手、無断で出版して、もちろん印税も稿料も支払いナシという無礼というより犯罪ヤってる出版社もあって、私なんざひとがいいもんだから、そこの出版社をわざわざ訪ねて、これも紙にせずに厳重注意だけはした。なのに、まだ、そこはアマゾンで販売を続けている。小学館から映画化に合わせて再文庫化され、そのさいに編集者が犯罪出版のホンを読んだところ、半ばまでに八十数ヶ所の誤字脱字をみつけて驚いたというハナシは聞いた。そういう編集者がいるかとおもえば、テレビ・ドラマ化しますということで、「へい、へい」と許諾するヤカラもいるのだ。テレビ・ドラマ屋(日テレのたぶん下請け)にしてみれば、「これはうまいことヤったら企画書通るぞ。制作費もかなり安く出来るぞ」だけの判断で、原作者の許諾など、ハナっからかんがえに入れてはいない。ここもまた、エピステーメは平板に斜に重ねられただけで、お花畑育ちの原作者は、それでも自身の表現者の良心に突き上げられて「文句」はいう。せめて9話と10話は私に書かせてくださいませんか。いった、書いた、とそれをSNSに挙げたら、炎上とやらになった。そんなつもりじゃなかったのに。テレビ・ドラマ屋にしてみれば、そんな脚本などどうでもイイ。コミック原作のテレビ・ドラマや映画など、いくらでも脚色、潤色、演出でメタクタ出来るからナ。哀れお花畑原作者、瞬時にココロを病んだ。だけ、ならまだよかったが、命を絶った。
私の場合、そんなことで命を絶つなどということはナイ。こんなものは恵方巻きだとハナから勘定しているからだ。だったら美味く食える恵方巻きを創るまで。プロデューサーの意向、というのもあるが、それは銭を出すものの判断だ。本場アカデミー賞の「作品賞」というのはプロデューサー賞のことだ。ホンの書き直しのかなりの多くはエピステーメの重なり方のハメチガイによる。ヒロインがゴネる。ヤメル、交替、当然脚本は書き直し。他の役者(俳優)でも一緒。「はいワカリマシタ」以外、私はプロデューサーのmissionに逆らったことはナイ。役の入れ換えがある。脚本の書き直し。役者(俳優)の上下関係、経験序列によってのせりふの多寡を整える、初中(しょっちゅう)、常識的なこととして行われる。120分見当で書いたものが、20分cutになる。ただし、こういったことは当方も承知の上、戯曲が台本になっていく過程として捉えているに過ぎない。ともかくもプロデューサー、嘘つかない。脚本料は舞台初日に支払われる。こういうところにスジは通っている。
かつてテレビ・ドラマは表現媒体ではなく宣伝媒体だった。ドラマだけではナイ。歌謡番組もそうだ。大きなところではエネーチケーの紅白などは、歌手にとってはそのアトの営業料金の算盤となる。あんなもの名誉だとおもって出る歌手がいるのか(それが、いるらしい。阿呆だな)。
ジャニーズが潰れて、自民党がトウ壊して、次は吉本だなと笑っていたら、とんだところで悲報が横入りした。結婚して梅毒うつされて、自殺した女性詩人のことが、ふと脳裏をかすめた。「お魚さんがかわいそう」などといっている世界じゃナイのだ、芸能界は。事もあろうに米国の選挙で、アメリカ民主主義というものが〈共同幻想〉だったということが、老人二人によって暴露されんとしている。ジェンダーがどうこうだといっている間隙を縫うかのように、ひとりの戦士(レンジャー)が時世の読み違いでアッケに亡くなった。「恵方巻きなんか私は食べられないんですっ」じゃナイんだ。いまの外務大臣の100分の1、お花畑から蝶ではなく芋虫の葉を食うごとく「美しさ、ほほほほ、私、ヤクザもんは相手にはしないことにしておりますので、ほほほ」と、出さぬ声を聞かせる力があったなら。そのヤクザものは今頃「いいか、あいつだけは絶対に総理にさせるナ」と残した派閥で口角泡を飛ばしているにチガイナイ。桃太郎は、「きび団子なんてどんどんつくればイイんですよ」と松葉杖ふりまわしているのだろう。「善人なお、以て悪人といわんや」だな。

2023年11月23日 (木)

時世録・46

観劇感想『白い砂の少女』(2023/11/22・ゲネ)
山本直樹をかなり意識して10年ばかり前に書いた戯曲の舞台化なんだけど、加藤智宏演出がここまで世界をイメージどおりに、役者(俳優)がせりふの言語感覚を忠実に表現したのには驚いた。このキャラクター、コンビネーション、アンサンブルは稽古のたまものなんだろうが、お見事、ご立派としかいいようがナイ。
本日から本番で、6ステージしかナイのが残念。
作者(私)が使ったplotは、すでに他の作品でも流用しているものなのだが、この作品では、多少の台本化はあるものの、58分という上演時間の妨げにならぬように、詩劇を成立させている。
余談だが、晩飯にマツヤでセルフサービスのハンバーグ定職を食ったが、どうしたんだろ、マツヤ。ハンバーグの価格は200円アップして、ハンバーグ自体は「これ、何の肉だ」くらいに200%ダウンしている。実にオモロナイなあと不満たっぷりだったのが、この芝居でスッカリ払拭した。飯の仇を討つとはエライもんです。ほんとうに余談ですけどね。

役者(俳優)たちは全員に、なんですか、例の俳優A賞てのを私ならあげちゃうね。こういう芝居、東京にはもうナイんじゃないのかなあ。東京なんかは(私の感じるところ)半世紀前に時間がもどっている。アニメに客をとられたのはよくワカルが、現状、そのアニメはすでに終末を迎えているようですし。あのね、これからはいまふうにいうならば「シン・小劇場演劇」ですよ。いいかげん、スマホ聞くのをやめて、読む、観るのやめて、ポケット、ポーチに一冊、ホンを。やって来た氷河期には、尻も暖かくなります。

2023年11月 5日 (日)

時世録・44

観劇記録・2023/11/3 「ミッシングリンク」劇団ジャブジャブサーキット
32年前だかのこの劇団のうんと初期の作品だそうで、当初はダンスなどもあり、2時間30分の作品だったとのこと、今回は2時間ちょい。私は持ち運び出来る(東京の作者本読みにも持っていった。次回のパンフ用クサナギくんとの対談にも使用する予定)腰を守る座用クッションを使ったので、幸い、腰痛はナシ。
ミステリを基盤にしているscience fictionのtime travelなので、頭がクルクルするのが、これが、作者(はせひろいち)の〈味〉、美味いんだよな、食い始めると。ともかく、前半はかなり苦しい、これはしょうがない。いきなり犯人が捕まるワケはなかろう。ところが後半はすばらしい加速と、加速重力による観客席の腰痛者の椅子に座り直しのカタカタコットンガチャグリの雑音が、微妙に愉快で、こういうのは、私のブログではおなじみ、トーマス・マンの『魔の山』の前半ぐだぐだ退屈、後半一気に滑降の心地よさと同じ。(『ドグラ・マグラ』もそうなんだよ。途中で挫けてしまったらオワだから、放り投げるな)。
ちょうど、ブログ一つ前は鹿目のところの観劇感想を書いているのだが、わりと対になっているんだな。いまのアルゴリズムの急速進展(生成AIなど)と、nostalgieへ向かう貧困層の乖離。私なんかは情況をそう分析(というほどじゃナイんだが)している。この乖離をうまく受け止めているのが、若きプロ将棋界隈。藤井八冠のAI活用におけるAI超え(9億手めにAIだとその打ち手が出てくるらしい)のなんとまあ、胸のすく、狡猾なる一手であるか(王座戦)。ただ相手のミスを待つという、人間ならば誰でもかんがえそうな一手。しかし、相手がミスるまで、負けられないというまさに必殺ながら狂気の死闘。こういうのが生成AIにはあらへんらしい。
で、もどって、『ミッシングリンク』。終わった瞬間、落涙したよ。涙一滴。そうなのだ、下手とか上手いではナイ。役者(最近は俳優としかメディアには出てこないけど、どこが~〈俳〉=人をおもしろがらせる芸人の意を表す-『角川新字源』~で〈優〉なのか知んないけども)、ただただ、役者はせりふを語る(というよりも「云う」)まるで、『少女ムシェット』の監督、ロベール・ブレッソンが全員素人の役者に命じたように「ただ、台本に書いてあることを喋れ」で、その空飛ぶような感覚がイイのだ。これぞ、我が演劇の、ノスタルジー。演劇に抱かれるとはこのことだ。そういうの、ヤってたんだなあ、三十数年前。で、ポロっと涙。Time travelは、虚構から舞台の上の登場人物の現実にまで変容させ、みんな若いの。32年(正確かどうかは知らんが)前にもどっているの。
鹿目系デコイ銀河から、はせデコイ銀河のナラティブを一挙にワープして、ひさしぶりの観劇に酔いしれている遅く速い寒く暑いヘンテコな秋の日のヴィオロンのため息でした。

2023年10月24日 (火)

時世録・43

観劇記録。『スワン・ケージ』-渡る-(10/23・19:30~、G ピット、作と演出・鹿目由紀)
どんな劇作家にもなんだかどんどん書けるときがあるのだが(書けない劇作家は省く)、昨今、チラシ他に鹿目由紀の露出の多いことったらナイ。で、この作品、女優さん多く出るので、ハンティングのつもりで出かける。私、観劇は趣味ではナイのだが、次の作品の女優ひとり、なかなか決まらないので、重い(痛い)腰をあげる。で、観客となる。この小屋、トイレ綺麗になったなあ。こういう感じの女優いないかなあ。と、多少、不謹慎ではあるが、気構えとしてはそんなふう。
舞台、始まる。上演時間85分とか案内あったけど、うーん、困った。この芝居、どう観ればいいのか。logicalに考える。足首回しの運動なんかしながら、自分なりの理屈を考古学していく。この作者の作者は何なのか。この演劇の構造は日記的なのか物語的なのか。
ワカランのでlogicは棄てる。感覚で観る。それもチガウようだと気づく。無心宜し。なるほど、これは「像=image」なのか。そうそう、それそれ、若いひとのこの世界のスクラップ・ブック。若いひとの「マス・イメージ」。それに気づくとやっとまともに舞台に視線が向かう。
いい芝居じゃないか。このエネルギーは苦にならない。とても素直で、新鮮で純粋なエネルギーで書かれた「詩」だなというおもいがしてくる。現状、大人(というより、バイデン、プーチン、トランプその他の老人)が若者殺しに興じているいま、この芝居のエネルギーはとても「自然」に、まるで量子の運動のように(つまり、波でもあり粒でもあるなんだかワカラナイもの)、世界の理不尽に抗っている。それが心地よくなってくる。ハンティングはどうでもよくなってくる。
こういう青春の1ページを小劇場演劇で、かつてヤッていたなあと、nostalgicになる。

さて、ハンティングのことも含めて作演の鹿目女史には、帰宅後、電話して、留守電に入れて、そうしたら、礼儀正しい劇作家から返しの電話あって、ともかく、いい芝居をありがとう、と、伝えた。連れ合いがチケット代を出してくれたので、今夜の飯は余剰の銭で上等の寿司にしよう。

2023年9月 2日 (土)

時世録・37

アナログやデジタルという単語が使い始められた頃。もちろん当方にはなんのことかぜんぜんワカラナイ。そんな頃。ある対談を読んで(といって、誰と誰の対談だったかも忘却している)、その片割れが「アナログというのは〈耳〉でデジタルというのは〈眼〉だと私は理解しているんだ。それだと簡単なんだ」と片割れに解説し始めた。つまり、対談などを雑誌でおやりになる方でもアナ・デジの区別というか、自体が何なのか知識がなかったという、そんな頃だ。これはなるほど理解が納得するいい解説だった。だからひょっとしたら解説したのは養老老師かもしれない。
「つまり耳、音楽なんかはアナログだ。つづけて聞かないことにはワケがワカラン。しかし、絵画とか写真は眼で、パッと観ればワカル。これがデジタルだ」
まるで、クマとご隠居みたいな問答だが、なるほどそうだな。眼とはいえ、写真と映画とでは前者はデジタルで後者はアナログということになる。マンガ(コミック)なんかになると、アナ・デジの融和だ。文学となると、小説と戯曲とでは前者はアナログではあるが、眼で読むのだから、読み方によってはかなりデジタル寄りになる。戯曲はせりふ一行ではまったく解読不能なので、アナログなのだが、イメージとしては舞台における光景を読み取らねばならないので、ここはデジタルということになる。双方とも合成ベクトルみたいなもんですな。最近の若い人(四十代含む)は小説を読むのが苦手なのだそうで、それはアナログをデジタル変換するアルゴリズムに問題があるのだろう。これは音楽にもいえる。スコアを観て音を脳裏で創って歌うということがかなり苦手なそうだ。簡単にいうとスコアが読めない。変換機能、量子力学でいう作用素の働きがうまくいっていない。
さて、音楽が出てきたので、それでハナシをつづける。まず音符を一つ、音階はなんでもいい四分音符でも二分音符でもイイ。これ一つでは、〈音〉ではあるが、音楽でも音曲でも最近よく耳にする楽曲でも、無い。単なる音。単音だ。しかし、この音符の数が増えていくと音階は同じでも単なる音ではない。ドドドドドドと音がつづいても音曲だ。ドッドドドドドドドドッドドド。音符の長さ、音階が決まって来ると、ドッドドドドドドドドッドドドは『風の又三郎』のテーマに近づく。あの導入の部分だ。
さて、これ、何かに相似しているなとふとおう。待てよ。コンピュータのビットやバイトなんかと似ている。普通のコンピュータ(スーパーコンピュータでもイイのだが)ビット数を増やし、バイト量を増やしていく。1バイトでは駄目だが、キロバイトでは音曲、音楽になる感じがする。しかし、これだとまだデジタルとはいわない。アナログの範疇という感覚だ。並びの〈順序〉があるからだ。ところが、これを一枚の五線譜に一度に描いてみる。たしかに音の順番とシンフォニーなら重なりだけだから、まだアナログの範疇ともいえる。しかし、この一枚の五線譜をいっぺんに眼で観てワカルのが、音楽家のプロだとすると、その方々の脳髄はデジタルになっている。そうして、これを拡張解釈すると、量子コンピュータの仕組みになる。量子コンピュータはスパコンのようにビットの組み合わせとその重ね合わせをデータ化するのではなく、数千、数万、数十万枚の五線譜をいっぺんに読む(それにつかわれるのが量子ビットという状態ベクトル(波)の重ね合わせだ)。もう時間という概念が吹っ飛んでしまう。スパコンで1万年かかる計算を数分だからな。
こういうふうなモノを戯曲で書いてみると(すべてを書くワケではなく部分的にそうしてみるだけだが)、むかしっからご一緒に私の舞台をヤってきた役者さんたちは、何の抵抗もなくそれを演じる。要するに作用素がチガウ。ところが、最近芸能界で飯を食っているので、そこでそういうことをすると、必ず「難しい」「ワカラナイ」という苦言、クレームが俳優から出てくる。飯のタネ、食うための演劇なので、それはそれで黙認、追従するしかナイ。
さて、結論めいたことをいってしまおう。
そうか、私(たち)はアナログとデジタルの融和した、あるいはその先の、量子ビットによるスコアで芝居をヤっていたんだなあ。けれど、未だに芸能界の方々はアナログなんだなあと(それが悪いといっているのではアリマセン。感覚、直感、で片づけられるところを理屈でねじ込もうとされる。まあ、新劇も伝統芸能の尾っぽですからしょうがアリマセン)と、昨今理解が深まってきたのに秋はぜんぜん深まらない夏の暑さかな、なのである。

2023年8月11日 (金)

時世録・29

熱中症(主筆は、太陽電磁波による身体傷害と称していきますが)お見舞い申し上げます。
何か書かねばな、あれもこれも書かねばな、とおもいつつ、アトからあれは余計なことだったと反省だけ。
昨日、小泉今日子さんproduceの『ピエタ』観劇。キョンキョンも石田ひかりちゃんも、私のホンを演ってもらっているので(と、気安く呼ぶところで「どや」といってますな)、かつ、原作者の大島真寿美さん(こないだ直木賞受賞した女史)は、盟友の安住女史の友人ということで、いってみれば義理観劇なんですが、なんのハナシか「ワカラン」のです。で、会場(もちろん観劇取材)に来ていた中日の小原記者をつかまえて「んでもって、これはなんのハナシなんだ」と訊ねる。大島さんともバッタリ出会ったので、似たようなことを訊ねる。こっちは七十過ぎているので(七十一歳)もはや、怖いもの無し、恥など知らずの態勢だからな。「ビバルディとピエタという孤児院とは、どんな関係なの。ビバルディって孤児だったの」ともう、ガキである。
なにはともあれ、キョンキョンとひかりちゃんには、お土産に持っていった『少女探偵・夜明』三部作と『アルミちゃん』を差し上げて、さっさと帰る。
法水探偵は「このメンツなのになあ」と、SNSでややぼやき気味だったが、それは正しい推理で、演出の焼きそばさんが、大きな劇場と、芸達者な女優さんの扱いに慣れていない(気づかって遠慮しているってことだな)のと、producer自身も、やっぱり気づかってか冒険なのか、役の配分に成功しているとはいいがたい。そりゃまあ、彼女たちはまだまだ「あした来るひと」だから、これからも、どんどんとchallengeしていただいたほうがよろしい。なんとしてでも地球に「明日」がありますように。
~地球の上に朝が来るその裏側は夜だろう~(あきれたぼういず)。裏じゃナイんだけど、ウクライナ戦争は、そろそろ終わりそうだなと推量していたら、とあるひとが、当事者でもナイのにメディアや烏鷺のプロパガンダに振り回されてそういうこといってちゃイケマセン、と諫言ありまして、そうだなと、反省。
きょうからお盆休みということで、近々のホテルで盆と正月だけの贅沢しますが、通信販売出版社(マンペイboks)や、次のミニシアターのほうもすすめていますんで、「老兵は死なず死に損なうだけ」で、さて、プール(週一)にいってくるか。満身創痍はそれでも泳ぐ。
「太陽電磁波による身体傷害」には気をつけて下さい。ともかく水は飲んだら、排泄です。適度に汗もかかなきゃダメ。
台風、しょうがねえな。/風だって狂っておりますこの夏は/

2023年5月29日 (月)

時世録・16

「好きだから」は、正直な嘘に過ぎない。

昨今の「〇〇ハラスメント」氾濫も、そういや、いたなあそういうヤロウとおもう反面、面倒なことだなともおもうんですがネ、そんなことより、労働の対価についてニュースになってバラエティなんかで取り沙汰されるのは、ごっつう銭を儲けている方々ばかりで、キツイArbeitをやりながら、タダ同然の不遇な表現(舞台活動)を続けている信じられないような、こりゃもうブラックというより常識的に漆黒(jet black)の人生の役者や裏方なんかは、むかしから一般人、庶民大衆、から憧憬蔑視がおり混ざった、いや、やっぱり「よく、そんな莫迦なことしてるわね」目線でいわれたもんです「好きだから出来る法水よね」「好きでないと出来ないわよね」。で、そうなんだろうかと自問しながらも「ええ、そうですね」と伏せ眼で生返事しておくのが常と。
たしかに「嫌いではナイ」。自求自足なんてのがあるにはある。達成感、amateurのうちはあるでしょう。
役者、裏方の方々は「正直」なんですナ。自分はけして嘘でヤっているのではナイ。この仕事、この労働、この表現はウソではナイ。自分は嘘をついてはいない。自分(の営為)は正しいはずだ。いや、正しい。と、
ここで自分を許している。
ここで、サドのジュスチーヌになっている。
自己許容の権化だ。マルキ・ド・サドは「美徳」というものが「自己許容」に過ぎないとその小説群に書いた。つまり「悪徳」となんらカワラナイのだと。
ここまで文学で哲学することはナイ。いうならば演劇とは「美徳の不幸」だ。「自己許容の不幸」だ。然るに「悪徳(ハラスメント)」を持ち込んでしまうのは当然の「流れ」「力学」というものだ。でないと成立すら危うい。「徒党を組んで悪を成す」でないと演劇なんざ成立しない。こういう人間の「表現」を仏教でもキリスト教でも、おそらくイスラムでもヒンズーでも「悪魔の仕事」のスキーム(scheme 枠組み 領分)に分別している。カントの哲学だってそうかも知れない。カントのスタイリッシュ版、インテリが大好きなウィトゲンシュタインの「仕分け」でもそうなっているかも知れない。しかし「語り得ぬものには沈黙」していてはダメだ。「私のギャラっ」を「語り得ぬもの」にしてはダメなのだ。伏せ眼で「好きだから、かな」なんていうててはアカン。
ここんところズッと、さまざまな目標、目的、夢とかやりたいことはヤったつもりなのにどうしても引きずるような「忘れ物」を加齢のせいにしてきたが、そうじゃナイな。「銭」だよな。「食う」だよな。「労働(表現)に対する対価、報酬、交換」だ。これは、半世紀前からのテーマじゃないか。いまなおニヒリズムじゃないか。正直に嘘を語っている場合ではナイのよ。

2023年1月23日 (月)

アト千と一夜の晩飯 第四十五夜 こまごまとごまめの歯ぎしり

〇岸田首相の所信表明を医院の待合室のテレビで観ていた。銭のハナシばかりだった。かつ、打出の小槌みたいなものを持っているような根拠の無い異次元の覚悟に聞こえた。要するに増税なんだな。カネはテンカのマワリモノと云ってのけたほうがまだマシだった。
「かわらんよ」。チェーホフの『三人姉妹』を下敷きにした川島雄三の『赤坂の姉妹より 夜の肌』(あんまりいいタイトルじゃないんだが)では、軍医のチェブトゥイキンに劇中劇としてのラストシーンにそういうせりふをボソッといわせている。岩波文庫では「同じことさ」だったかな。此の映画ではナレーション(ジョッキー)の語る西東三鬼の句「限りなく 降る雪なにをもたらすや」のほうがカウンターパンチになっている。川島監督は『三人姉妹』をボードヴィルとして書かれたという説に便乗したとインタビューに応えている。岸田首相の所信表明は文化、表現などについてはなあんにもいうてないので、ボードヴィルですらナイ。ナイ。ぜんぜん、ナイ。よって「わからんよ」というておく。
〇アメリカはウクライナに戦車を供与はしないと、私はおもう。NATOは幾つかの国が(おそらくドイツも折れて)それなりの戦車を提供するだろう。ドンバスの闘いは戦車戦の様相を予感させてきた。ここでの勝敗は良くて引き分けでいいと私はかんがえる。ウクライナが勝ったところで、戦闘に勝っただけで戦争に勝ったワケではナイ。ドンバスの地元の人々は、食うために政府系企業で働くか、ドンバス軍に従軍するかのどちらかしかない。親ロシア派の軍閥のために労働するか血を流すかの二択というワケだ。ドンバスの若者には仕事がなく徴兵に応じざるを得ず最前線に投入されることとなる。これはウクライナ人同士で殺し合うということだ。ロシアにとってはロシア人の戦死者数を少なくcountすることが出来る。ドンバス人の戦死者はロシア兵の戦死者として勘定しなくていいからだ。
〇avecビーズの舞台はいよいよ明日が仕込みゲネプロ。明後日から本番。日本は北極並みの大寒波だそうだ。劇場がビルの中だから、寒くないだけ、それだけはlucky。幸いは不幸中にしかナイからな。名古屋市中も雪かな。電車動くかな。観客、たいへんだろうな。胸が痛むと云いたいが、ただナンだか呆っとしているだけ。ここでも/限りなく 降る雪なにをもたらすや/だな。

2023年1月18日 (水)

アト千と一夜の晩飯 第四十四夜 なんとかカントか

昨年暮れ、読書用の眼鏡の度数が合わなくなってきたので(といっても左はガラスで右目だけなんだけど)行きつけ老舗の眼鏡屋で検眼、度数を調整したレンズに変えたのだが、これが紆余曲折、一度目は店舗ではうまく合っていたのが、帰宅して同じホンを開いてみるとこれがバランスが悪い。変だなとおもいつつ、そのうち慣れるだろうと一週間、やっぱりどうも具合が悪い。涙目になってきた。そこで二度目。検眼士が変わって(最初の方がお休みだったので)やり直して、今度こそOK、と帰宅してやっぱりダメ。ほんの僅かななのだが合わない。このほんの僅かが辛いので、ともかく元にもどしてもらった。つまり合わなくなってきた元の眼鏡が見るぶんには楽なのだ。しかし、これでは何もせずにレンズ代金を支払ったことになる。老舗の眼鏡屋は三回までレンズの交換は無料ケアということになっているので、三度目の正直、きわめて慎重に検眼。で、検眼士云うには、レンズ工学としてはこれが限界ですね。度数の合わなくなった最初のものよりはマシなのだが、スッキリみえるというほどではナイ。しかしそこから一つ上げると一度目と同じになる。ということで、妥協。というよりまあ/いい加減/ということにして、やっとなんとか読書が出来るようになった。
で、カントの『純粋理性批判』に再度取り組む。ああそうそうそうだったなあ、カントさんのヤったのは、対象を見るということについて、悟性と感性を二重に組み合わせて認識させるという、対象(物自体)がどうであれ、問題は観ている者の認識(知覚・識別)のほうを問題にすると、コペルニクス的転回をしたのだったなあと、記憶が蘇る(つまり、そんなこと忘れていた。ここがイチバン大事なんだけどネ)。ところで、以前とはチガッテふと疑問が起こる。ちょっと待て、じゃあ,〈眼(脳の外部分)〉というものはどういうシステムで対象に対してどんなアルゴリズムでfunctionして脳に認識させているのか、そこんところがカントさんにはすっぽり抜けているような気がしたのだ。
対象(物自体)の認識(知覚)には、三つの要素がある、と勉強したぞ。1眼の構造、2対象物の構造、3媒介する光線。
たしかにカントさんのコペルニクス的転回は哲学としては/なるほど/なんだけども、いまひとつもやもやするのはなんでなんだろうということなのだが、あっそうか、マスクかと思い当たった。コロナのせいで稽古場はかなり厳重な処置は施しているものの、みなマスクをして稽古しているのだが、衣裳合わせのさい役者さんにマスクを外してもらった。で、驚いた。イメージがチガウのだ。勘狂うのだ。演じる側としては、「知覚・識別」に用いる悟性と感性以前に対象(他の役者さんたち)がベツモノになる(ワケではナイのだが、マスク有る無しでは同じ対象なんだけどチガウんだろなあ)。カントの『純粋理性批判』は「決定論的」なのか「確率論的」なのか。よくワカランようになってきたのだが、ともかく早めにマスク無し稽古にしたほうがよさそうだなとだけはおもいましたワ。

2022年2月11日 (金)

Sophism sonnet・69,8-14

カタカナ文字のメモ

ちょっと前、私がまだ新進劇作家といわれていた頃、ちょっと前だから覚えている。インタビューが多かったナ。なにしろ「もっとも戯曲の完成度の高い新人」なんていわれていたのだから、ちょっと前は。インタビューしてくる御方もいろいろで、平身低頭、深謀遠慮、丁重親切なところから、いまじゃ落ち目の何処だかのメディアの女性編集者さんは助手と一緒にやってきて、「助手に〈北村想でネット検索させた〉ものを全部print outさせたらこんなに多いのよ、あ~たって、けっこ~なヒトなのね、知らなかったけどさ、私は」という矜持ツンツンなところまであった。ちょっと前のハナシだナ。
詳細、丁寧に資料をつくって特集してくれたのは「ぴあ」だったかな。そのとき、「いま、どんなホンを読んでいますか」というquestionに、「オレさ、一度に三十冊は読むからナア」とanswerして驚かれた。「だって、一冊読み始めて、ワカラナクなってくるとそのためにチガウ一冊を読まなきゃならない。で、そのホンでワカランところが出てくるとまた一冊増えるから鼠算式読書というのか、一度に三十冊くらいになっちゃう」ちょっと前だから覚えちゃいるが、いまではもうこんなことしなくてイイ。ネット検索があるからサ。読書たって、全部は読まない。必要なところしか読まない。だからfictionは殆ど読まない。これもちょっと前のことだけど。ミステリもいつも全部とは限らない、真犯人と物語のコンテンツが30ページくらい読むとワカッテしまうホンはミステリでも斜め読み。ちょっと、前だから覚えちゃいるけど、いまはもうむかしかい。それとも半年前だからおぼえているのか。

いまはネット検索とメモ・アプリを重宝しております。最近は、カタカナ文字が氾濫して、ワカラナイのが出てくるたんびに調べてはメモに残す。そうすると、ここでも自然に「重ね合わせ」が出来る。もう「ちょっと前」じゃナイのだけど、「これから先」どうすりゃいいのかなあのココロなんだろう。古希近くなっても悩める悩みは同じなのだ。『ハムレット』の名せりふ「生きるべきか、死ぬべきか」はもちっと深堀りすると「死ぬまで生きるべきか、死ぬ前に死ぬべきか」になる。そういうことがだんだんワカルようになってきた。

:テクノロジー・イノベーションセンター(TIC)異分野の企業や大学、研究機関との連携、提携、融合を通じてイノベーションを創出することを重視する/デジタル・トランスフォーメーション(DX)とはITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させるという仮説である。2004年にスウェーデンのウメオ大学教授、エリック・ストルターマンが提唱したとされる/「イノベーションの源泉」として3つの要素。それが、「哲学(Philosophy)」「人材(People)」「プロセス(Process)」の3Pである。この3つのPとDXを組み合わせての命題は「戦略が二流でも、実践が一流であればいい」/
最近メモしたもの。たぶん、演劇のイノベーションとは何だろう、とぼんやりかんがえながら拾ったさまざまな波動だろう。 

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