nostalgic narrative 52
承前:(51)で述べたことはそのまま観客の傾向にもいえることで、現状 観客の多くは(といっても私はおもに東京、大阪、名古屋のごく限られた観客しか知らないのだが)その観賞の感触(心情 或いは感性とでもいえばいいのか)は/演劇という表現で創られた「オハナシ」を観に来る/といった様相を私に与える。これはいまにはじまったことではナイのかも知れないが「オハナシ」の無い演劇にはあまり関心を示さないようだ。だから「オハナシ」のあるチェーホフやシェイクスピアが、和製ミュージカルが、単にテレビ・ドラマを舞台に持ち込んだようなだけのようなものが繰り広げられている。
戯曲の私塾を開いていた頃、塾生たちを相手に必ず最初に行った講義は/ストーリーとテーマを棄てろ/から始まった。それ をヤル(かんがえる)から書けないのだと教えた。私たちはテーマを持って生活しているワケではナイし(そういう生真面目な御仁もあるだろうけれど)、人生というモノはけして「オハナシ」ではナイ(アト付けならなんとでもいえるのだが)。それをさもテーマがあるが如く「オハナシ」にして書く(舞台化する)のだから、それを虚構というのだから、ここんところはいまなら~AIならそんなものは書いちゃうゾ~といいたいところだ。
と大見得きって、さて、「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題を解くことを踏まえて、この長々とつづいている論説をどんなふうにまとめたいのかを、とりあえず記しておく。そのほうが読者も楽だろうから(どっちにしても私のブログはあんまり楽には読めないのだけど。
量子の定義は現在「波でもあり、粒でもある、なんだかわからないもの」ということになっている(もちろん私の識る限り)。この最後の「もの」はかなりあやふやなので「エネルギー」と置き換えたほうがイイだろう。すると/量子はなんだかワカラン Energie の最小単位である/となる。「量子は進化しない」が「量子によって造られた遺伝子はヒトの進化の過程を刻んでいる」この「遺伝子の進化の中には意識と無意識が登場する」これらは「ある意味〈固有値〉=本質形態 であるが突然変異するし、相転移する」「脳(の営為)と意識との関係(関連)は、意識が先で脳が後だとかんがえる」。コトバを変えれば「脳のOSが意識だとする」となる。と、意識のOSも必要になる。「そういうOS~意識前意識~が 宇宙(ヒトも宇宙の一部ですからね)には在るとかんがえたほうが無理がナイ」。無理は無いがそれがどんなモノなんだか ナンだかワカラナイ。けれど「それはやはり量子(Energie)ではアルはずだ」と、そういう方向(思考方針)は持っている。この何処までいってもスーダララッタホイホイは まるで無限を求めるような目眩におそわれるかも知れないが、無限そのものは求めなくとも、その求め方(ニュートン力学でいうところの「極限」)がワカリさへすればイイ。そのような思考の矢におけるAIや量子コンピュータという存在はかなり面白いシロモノだ。ともかくコピペ、写像された「脳」をAIとみるならば、量子コンピュータは/刹那の演算装置/であるのだから。
****というワケでつづきます。