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カテゴリー「うた」の記事

2017年4月 2日 (日)

我が友 たち (もちろん、替え歌でござんす)

 

きみのゆくみちは のこりあと わずか

なのに なぜ ナニを求めて

きみは ゆくのか そんなにしてまで

きみのあの ひとは いまはもう いない

なのに なぜ だれをさがして

きみは ゆくのか あてもナイ のに

 

きみのゆくみちは だれも いつか たどる

そらに また 陽がのぼるとき

我が友 たちは 歩きはじめる

そらに また 陽が沈んでも

我が友 たちよ あしたまた 歩こう

2017年3月27日 (月)

うた(某有名故人作詞家のマネです)

 

日暮れ道

 

むかしのことを 歌にすれば

あいつが 笑ってる

オレもつられて 笑っている

そんなむかしの 歌になる

 

いまから五十年 前

あいつもオレも笑ってた

そんな時代に 遊んでた

日が暮れるまで

 

いま

口にすれば ことばはみんな愚痴になる

あいつと もいちど 笑いたいけど

あいつ どこ いった

 

ゆうべ 夢みた あいつのことを

あいつは やっぱり 笑ってた

あれから あれから 

オレも あいつも 五十年

あいつ どこで どうしている

 

ふえかえれば やけに さみしい

日暮れ道だけ みえる

2016年7月21日 (木)

my favorite song

可愛い子供たち 二人で何をしているの

男の子 女の子 二人で何をしているの

赤いレンガを積んでるの

ひとつひとつ 積んでるの

遠くのお空にとどくまで 

ひとつひとつ 積んでるの

どうして お空に積んでるの

お空のむこうの天国に

とどくように 積んでるの

教えてあげるよ、子供たち 可愛い子供たち

どんなに高く レンガを積んでも 天国にはとどかない

なぜなら お空の遠くには 天国はないからさ

それなら お空のむこうには 何があるの教えてよ

教えてあげるよ 子供たち

あの お空の向こうには

お空があるだけなんだよ

だったら この 赤いレンガをどうしよう

教えてあげるよ 可愛い子供たち

赤いレンガで おうちを建てなさい

そこに 二人で住みなさい

赤いレンガのおうちに 二人で住みなさい

そうしたら 子供たち

いつか二人は大人になって 愛しあえるだろ

それから二人はどうなるの

教えてあげるよ 可愛いお二人さん

そこで こどもを つくりなさい

そこで こどもを育てなさい

するとわかるよ 可愛いお二人さん

そこが 天国だということが

それから二人はどうするの

その 天国を 守りなさい

この世の地獄から

2016年7月 4日 (月)

涙、壊れているけれど⑬

古い上着よ サヨウナラ

 

自転車でね、ちょっと繁華街のほうのスーパーに買い物にいくときもあるんですが、その日は(って、今日か)なんだか「青い山脈」って歌が口から出ちゃって、つい口ずさみながら、そうかあ、池部良(享年92歳)さんが、女生徒たちに交じって自転車乗ってたなあ、それでだなあ、と、まあ、映画は観てないけど、あの頃にはあの頃の青春があったんだよなあ、と、またアドレッセンスに酔ってました。きょうは離脱症状がイヤ~な感触だから、そういうときは、ミスタッチが多くて書くのもタイヘン。頓服の痛み止め、これ麻薬成分が入ってるからっていわれてんだけど、それにしては効いてくれないんだよな。昨日は、離脱症状が出なくて、人間というのは健康なときはこんなに気分がイイもんなんだなあと、思ったりしてたんだけどね。

で、いつも聞いてるラジオの歌謡番組の時間が来て、いつもなら昼寝を30分ばかりしながら聞くんだけど、離脱症状でけっこうキツイもんだから、ベッドでコロコロしてたら、その日は「青春歌謡の特集」とやらで、「青い山脈」が流れだして、おや、シンクロニシティかよ、と、眠れそうになかったから起き出して、これ書いてんの。

世界のあちこちで、ISが自棄になってるみたいで、ああいうのはどうなんだろうかな、殺し始めると、もう止まらなくなってしまうんだろうか。テロがもう目的化してるってふうだな。とにかく腹に爆弾巻いて、人込み入ってドカンというのは、何の訓練も要らないという、戦術もへったくれもナイ。自動小銃二、三丁持って、店で乱射というのも、カラシニコフだから、子供でも1時間の訓練(というほどのものでもナイ)受ければ、10人や20人殺せる。

四十代の頃、護身術の代わりに傭兵の訓練書を買ってきて勉強したことがあるけど、映画やなんかとチガッテ、やはり戦線の現場ってのは現実的で、いわゆる格闘術は役にたたないてなことが書かれてありました。デンゼル・ワシントン主演の『イコライザー』(アメリカ・2014)では、武器なんか何一つ持たずに敵のアジトだか事務所だかへ出向いていって、まず、部屋の様子を観察して武器になるものをシミュレーションで物色、何秒でどう動いて誰をどんなふうに倒すかもシミュレーション。で、そのとおりにヤっちゃう。この戦闘術は、傭兵の戦闘としても「敵と対峙して丸腰の場合、ともかく、まず武器になるものを探せ。素手よりは有利になる」てなふうに書かれてました。戦場においては卑怯というコトバはナイ。とも。それから、闘うときの構えなんですが、「両手をだらんと下げて、やや、前屈する」。つまり構えるなというワケです。クンフーものみたいに、あんなふうには構えない。これは柳生新陰流の素手での闘いの場合の身のとり方とまったく同じです。ちなみに、宮本武蔵はいま『刃牙道』で活躍してらっしゃいますが、書き残した『五輪書』はあらたまっていて、ツマンナイんですが、他にいい伝えた兵法によれば、相手が複数の場合、三人なら「逃げよ。殆ど勝ち目はナイ」。それ以上なら、1対1と同じで、前後左右に囲まれたら、まず、正面と相対して、間隙をぬって真後ろを斬る。この場合の残り三人は、1対1と同じ。五人以上の場合は、まず、もっとも腕の立つものから斬る。これは、テキ屋のバイトやってるときに先輩から、「相手が大勢いたら、たぶんイチバン強いのは、出番が来るのを待って後ろに陣取ってるから、そいつめがけて、とにかく食らいついてでも、そいつにダメージを与えるんや」と、教わりました。つまり、どこから崩すかということなんでしょう。

ISは、そういうことは、まったく関係ナシ。帝国日本だって、大東亜共栄圏、八紘一宇、五族共和、を信じてた軍人は多かったはずなんですが。

離脱症状が少し和らいできました。「書く」ことに熱中させてみたのが功を奏したようです。

2016年6月30日 (木)

涙、壊れているけれど⑨

世去れ 世去れ と

 

achako hanabisi1 週間前

これはレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです。「夢を」は「ユメヲ」であって「ユウメヲ」ではない。「燃ゆる」は「モユル」であって「モオユル」ではない。伊藤久男先生の歌を参考にせずに、勝手に歌うからこうなるのです。はい、出直してください。/

 

これは、森昌子さんがカバーして歌っている『あざみの歌』(You tube)にたいして、ごく最近(一週間前とあるので)つけられた、「ケチ」「イチャモン」「もんく」「批評」「訓戒」「諫言」「批判」「教示」でしてね、私はこのひとのことは何も知りませんよ。こういうのを近頃は「上から目線」とかいうんでしょ。それですましゃあイイんですけど、この文言はコトバとして、私、throughすることは出来ません。こういう人間は殺したいとも思うんですが。まあ、殺したいのは単に思うだけだから、とにかくは、この文言の何処がオカシイのか、少し考えてみましょうか。

はっきりいうと、こういうコトバの用い方、嫌いなんです、私。というか、このひとが外人ならしょうがナイと思いますが、この文言は、正確な日本語とはいえません。

・・・「これはレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」・・・これを〈述語〉表現というふうにいうとします。つまり主語(主体)がナイか、あるいは不明、あるいはあやふやです。「これは」というのは主語にみえて、そうではナイ。ここでの「これ」は、もちろん『あざみの歌』です。そうすると「『あざみの歌』はレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」になります。では、「レッキ」なんですけど、これは「れっきとした」の「れっき」でしょうけど、「れっき」は岩波国語辞典によると「歴」の促音変化だということなんですが、「歴とした」ではワカンナイだろうから、と、さらに平仮名よりも、強調を狙って「レッキ」と片仮名にされたのだと思われます。いずれにせよ、「歴」ですから、「由緒正しい」という意味です。そうすると「『あざみの歌』は由緒正しい日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」になります。そうなると、「演歌」というのは、由緒が正しくナイ、つまり日本の歌だかどうだかワカンナイ歌ということになります。そうすっと「『あざみの歌』は由緒正しい日本の歌謡曲であって、日本の歌だかどうだかワカンナイ歌ではナイ」ということになります。命題を証明していくと、そうなるんだから、しょうがナイ。「演歌」が、日本の歌ではナイ歌になっちゃうんです。従って、「夢を」は「ユメヲ」と由緒正しく歌わなくてはいけない。「ユウメヲ」は日本語ではナイから。「燃ゆる」は「モユル」であって、「モオユル」では日本語ではナイ。伊藤久男先生とか、は文脈上、殆ど関係アリマセン。/勝手に・・(略)・・・はい、出直してください。/は、コトバを変えれば「おととい、きやがれっ」ですね。

ここまで書いて来ると、主語(主体)はハッキリしてきます。achako hanabisi というひとが、主語(主体)です。ですから、文言の最初に「私が思うに」か、「私が知る限りにおいて」「私の考察によると」と、付くはずです。付けねばなりません。何故なら、「演歌」が日本の歌でないかどうかは、この主体(主語)の単なるドクサ(思い込み)ですから。

ところで、東京には「アチャコ・プロダクション」という事務所が未だに存在します。従って、このアチャコ・ハナビシは、商標(あるいは著作権)上、ハンドルにつかうのは、法規上、問題があるおそれも考えられます。

ついでながら、ある例を提示します。『人生の並木道』は、ディック・ミネさんの歌った歌謡曲だと思われますが、「なあくううなあ いもおとおよお いもとおおよおお なくうなあ」と、こんな感じで歌われるんですが、私の調べた限りにおいて、この小節は楽譜に、音符で書き込まれています。つまり、ディック・ミネさんが、勝手に節回しをつけているのではナイのです。そうしますと、『人生の並木道』は「レッキ」とした歌謡曲と称していいものなんでしょうか。『人生の並木道』はもとから、由緒正しくない日本語による作詩、作曲なんでしょうか。

歌、歌謡曲、流行歌、は、演歌だろうが、popsだろうが大衆のものです。好きなように歌えばイイじゃナイですか。

おとといどころか、おととしくらいから出直してください。

2016年4月17日 (日)

悲しみ勝負

ネアンデルタールもクロマニヨンも 泣いている 亡んでしまって なにが かなしい

花と風 雪を歩いて 番傘さして いまごろ何処までいったやら

知らぬまに逝ってしまったともたちよおいてけぼりは何をすればいい

2016年3月26日 (土)

♡~36

日向ぼっこ青空は黙って青し ただ青し
(こういうのを孤独ではなく、孤愁というのかなあ。それならワカル)

この恋というにもとどかぬ雲ひとつ

若き日のきみに似ている面影がレジの少女のえりぼくろ
(古き時代の歌謡曲の sampling & remix ですね)

なんだかねえ、毎日が後片付けしているような按配で過ぎていくんだなあ。何の片付けかって、それは、私自身の過ごした時間のというか、手をつけたものに対してのケリの付け方というのかな。

お神楽の十里行くは重力波さざなみの如し白拍子の歌
(まっ、駄洒落なんですけどね。神楽はKAGRA、ジュウリイクハをジュウリョクハと駄洒落てみたワケ)

お天気いいし、部屋にくすぶっていないで、外に出ればというひともあるんだけど、べつに燻っているワケではねえんです。老いれば、一日は長く一年は短しというけれど、わたくしは、一日は短く一年は長しですね。加速度がすさまじいから、30分ほど書き仕事したかなと思うと、三時間経ってたりして。あっという間に一日は終ります。
このブログを書いているとき、この世界で生存しているのはわたくし独りで、即ち、読み手はいないような気がして。或いは、ここだけ強い重力場があって、コトバはすべて重力波のような気がして。そうなると、このブログのコトバの重力波(さざなみ)の影響を検出するために測定しなければいけない変化は、なんと10の21乗メートルあたり5㎜という想像を絶する精度。逆に1mあたりに換算すると、1ナノメートル(nano meter)10億分の1mをさらに1ナノメートルに分解して、さらに1000分の1にするんだから、伝わらないかもね。でも、それは孤独とはいわない。宇宙に、重力波のさざなみに包容されているって感じでんなあ。

2016年3月17日 (木)

♡~33

いやあ、疲れた。モヘンジョ・ダロにいきたしと思えども、彼の地はあまりに遠くせめて、旅に出でてみん。で、自由律で三句。

夕陽の丘のふもと行くバスをずっと待っている

こんなさびしい夜汽車に乗れば誰でも賢治になってしまう

峠の汽車の汽笛聞きたく無人駅で耳をすます

2016年3月12日 (土)

♡~32

静けさのなかに雨がふっている

釣り銭もらって春雨の中を帰る

春なのに碧空深くじっと飛行機をみつめる

2016年3月 8日 (火)

♡~30

春を詠む ついでに謳う余命あり

日だまりは かなわぬ恋の兆しかも

疲れたのでチガウ私で花をみている

からだじゅう痛いので微笑ってしまう

春の陽の暖かきかなカラダ冷たき

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