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カテゴリー「うた」の記事

2024年7月 4日 (木)

nostalgic narrative 28

ミステリにはいろいろな「殺し方」が出てくる。大乱歩はそのトリックを一冊の本にまとめた。海外、国内を問わずに。『幻影城』だったか、まったく別のタイトルだったか。ちょっとさだかでナイのだが。
サブリミナル効果という暗示効果があって、これは映画がまだフィルムの頃、何コマ目かごとにたとえばお菓子の名前を入れる。映画を観ているぶんにはまったく気がつかない。ところが観終わって街に出ると、妙にそのお菓子が食べたくなってくる。これは実験で実証された。もし、このサブリミナルに「死ね」「〇〇を殺せ」といれると、その暗示によってひとが殺せるかも知れない。そういうことで、この効果を用いることは禁止になった。(いくつかはすでに宣言、広告に使われたらしい)
この〈暗示効果〉で人を殺めるというものはさまざまなミステリに登場してきたはずだ。実は私も最近それと似た情況に遭遇した。
鬱病の症状の一つに不眠と早朝覚醒がある。なかなか眠くならないのだが、特に苦にもならないので、スマホをいじってみた。といってもふだん電話としてしか(計算機もあるけど)利用しない私の様な人種が、音楽(無料)を聞いてみた。「懐かしの昭和メロディ」とか「洋画70年代」とかけっこういろいろあって、適当に0時まで聞いていたのだが、「懐かし」シリーズでほぼ必ず出てくる歌がある。かなりイイ歌なのだが、懐かしにしては聞いたことがナイ。スマホの細かい文字でタイトルを読むと『水鏡』とある。鈴木一平・詞・曲なのだが、初耳(ではなくて一見かな)。そこで、スマホ・ユーチューブで聞いてみた。当然、画像がある。竹内結子のドラマ、映画のコラボになっている。で、中村獅童もチョイと出てくる。最後に、音楽が終わってから三浦春馬が出てくる。竹内結子に思い入れはないが、春馬が自死して間を置かずにやはり自死したトップ女優だくらいは知っている。(ドラマも映画もまったく観たことはなく中村獅童と結婚、実子あり程度しか知らない)。けれど春馬は、彼の剣道の師匠が私の知己で、春馬と二人でよく朝稽古したハナシは聞かされていたので、一度手合わせしたいななどとおもったりしていた。春馬の死も竹内結子の死も陰謀論めいた事象はつきまとっている。この実写画像を編集した映像作家はかなりの手練だというふうにみていたのだが、ある夜、「引っ張られた」。
私は好みとタンパク質供給のためにほぼ毎日「ささみフライ」を食べる。フライものは(とくに天麩羅などはまったく)口にしないのだが、この年齢になれば、糖質以外は油質もある程度は食べておいたほうがイイので、近所のマーケットで買い求めるのだが、そこのお姉さん(といっても年齢は私とそう変わらない)がいつもわざわざ大きめのを選ってくれる。まだ揚がってナイときなどは、店内を一回りしているあいだに揚げったものをわざわざ持ってきてくれる。それが母性と重なって、その曲を聞き終わったとたんに「あれが母性、母の愛情というものなんだな」と、終に和解なく母性も愛情も知らずにいまに至る私は落涙してしまった。
これは危険信号だ。朝、目覚めると自殺念慮が強い。おそらくあの歌と映像のせいだ。こういうとき、画像を消し去る方法もあるのだろうけど、そういうテクニック、スキルは私にはない。あってもそうはしない。影響の根をリサーチして解決しないことには収まらない。歌は古いものだ。歌手(作曲・作詞)はいまはもう73歳だ。すると、あの歌にフィッティングして製作されたあの巧みな映像のほうに仕掛けがあるはずだ。何回か映像を観る。もちろんデジタル映像なのでサブリミナルな暗示効果は仕込めない(として)、編集は、歌に合わせるかのように失恋、悲しみ、立ち直り、笑顔、新しい恋、悦び、苦しみ、涙、笑顔、笑い、道化、覚悟、と、情感に溢れている。仕掛けはそういうものではなさそうだ。でも何か映像に引っ掛かりを感じる。何だいったい。
で、餅は餅屋、ヤッとみつけた。シーンが変わるカットのツナギの秒数がこちらの心的転換スピードより僅かに速いのだ。つまり余韻を感じるほんの0,3~5秒前にカットが切り替わって次シーンに移る。このフラストレーションが重なる。で、最後に音楽がすべて終わったときに春馬との二人のシーンがある。こは5秒程度なのだが、シーンが切り替わることはナイ。春馬が手をさしのべる。竹内結子がその手を掴む。これは引っ張られる。frustrationがスっと解けるのだから。
このハナシを、鬱病の担当の精神科医師に実際に映像をみせながら、すでに自殺しているものもいるんじゃないかなと話したところ。「気持ちよく逝ったでしょうね」とのひと言に、ああそうか、こういう自殺念慮を利用した殺人方法もあるかも知れないなと、殺人の新手になるなとおもったりした。

2022年6月13日 (月)

Sophism sonnet・69,12-07

一句、付けて一首

紫陽花の咲きて氷河期長袖のシャツ
夏は名のみの雨の冷たさ

:季語、そんなものもう世界には無いでしょう。

2021年8月 5日 (木)

賛美歌・1

我らがなのか誰なのか知らぬが主よ
/憐れみたまえ/などとはいいません
この国のニンゲンの死に lyricismが消えました
きょうから汝の子は 狂気の沙汰に まきこまれるでしょう
願わくは 黙って お笑いのほどを

我らがなのか誰なのか知らぬが主よ
/憐れみたまえ/などとはいいません
この国のニンゲンの死に humanismが消えました
きょうから汝の子は 狂気の沙汰に のたうちまわるでしょう
願わくは スプーンに水を一杯 それでよろしいのです


捕) 感染者、疫病患者は、ふつう隔離となる。それが自宅(つまり、家族がいるか、あるるいは独り暮らしか、そんなことはどうでもよく)、巷間に拘束するというのが、常識的に為政者のすることなんだろうか。と、上記のうたを書いたが、そのアトすぐ、毎日電子版で中村文則さんの呟きを読んで、なんとまあユング的などとおもいつつ、不安の種子がよくワカッタ。ところで、中村さんの最新刊『カード師』は、ブック・オフでは引き取ってくれなかった。(たいていのfictionは読んだらすぐ売ってしまいます。スンマセン中村さん)。えっ、これ新刊だよ、と、理由を訊いたら、「ここです」と担当の従業員が、カバーのニミリほどのヤブれを指差した。そのなんだか理不尽な心情と、この国の狂いどころが同じような気がして胸騒ぎだけ、した。

2017年8月 3日 (木)

おわかれですね お姉さん

 

夏の日の白い雲が夕陽に焼けてしだいにあかくなっていく

台所から外にぬける裏口の戸をあけはなって 

あなたはそこに立っていました

まなざしを田園に向けて 背を向けて

あなたが田圃をみていたのか 夕陽をみつめていたのか

みつめているものなどナニモなく

ただ眼をひらいていただけなのか 風などナイのに吹かれていたのか 

あのとき十六歳の わたしには知るスベなどなく

あなたの痩せた背中に 沈黙のことばをつぶやいていただけでした

けれども お姉さん

あなたは 恋に破れたことを負けたと思わず悔やみも憎みも恨みもせず

こういうわかれかたもあるのだと もう泣きもせず

だからよけいに 余命をしらされた カラダの こけた頬だけが痛ましく

二十代の半ばにして 消えていくあなたが悲しくて

わたしは息をすることすら くるしかったのに

あなたの後ろ姿に張りつめたせつなさが それでも冷たくなかったのは

おそらく もうあなたは そこにまぼろしだけを縫いつけて

あなたのたましいは すでにそこにアルのではなく

わたしの心臓をつらぬいて その その 情景を わたしのあらゆる神経と

わたしを流れる すべての血のなかに 溶かしてしまったからだったのですね

 

あんしんしてください お姉さん

あの日 あのときの あなたのあの絵姿は いまでもじゅうぶんに わたしの涙を誘い

記憶の糸を引けば ほほをつたいます

 

あなたは わたしのけはいに気がついて

ふりむくと 少しのあいだ わたしをながめ

なにをおもったか やさしい顔をつくって それがわたしには笑顔にみえた

 

あれから五十年 

あなたを棄てたおとこは すでにその眼を奈落に落としています

ことし七十七の喜寿だというのに 喜びも寿(ひでし)こともなく

生きながら亡者でいます

 

あなたは 勝ったのだと わたしはおもいます

わたしも そんな勝ちかたをしてみたい

ですから お姉さん

きょう あなたと いつものように おわかれをしても

さきほどまでのように もう泣きません

たとえ泣いても 負けません 勝てなくても 負けません

あなたに 笑顔を おかえしいたします

ふりむいて あなたに笑顔を

 

2017年4月 2日 (日)

我が友 たち (もちろん、替え歌でござんす)

 

きみのゆくみちは のこりあと わずか

なのに なぜ ナニを求めて

きみは ゆくのか そんなにしてまで

きみのあの ひとは いまはもう いない

なのに なぜ だれをさがして

きみは ゆくのか あてもナイ のに

 

きみのゆくみちは だれも いつか たどる

そらに また 陽がのぼるとき

我が友 たちは 歩きはじめる

そらに また 陽が沈んでも

我が友 たちよ あしたまた 歩こう

2017年3月27日 (月)

うた(某有名故人作詞家のマネです)

 

日暮れ道

 

むかしのことを 歌にすれば

あいつが 笑ってる

オレもつられて 笑っている

そんなむかしの 歌になる

 

いまから五十年 前

あいつもオレも笑ってた

そんな時代に 遊んでた

日が暮れるまで

 

いま

口にすれば ことばはみんな愚痴になる

あいつと もいちど 笑いたいけど

あいつ どこ いった

 

ゆうべ 夢みた あいつのことを

あいつは やっぱり 笑ってた

あれから あれから 

オレも あいつも 五十年

あいつ どこで どうしている

 

ふえかえれば やけに さみしい

日暮れ道だけ みえる

2016年7月21日 (木)

my favorite song

可愛い子供たち 二人で何をしているの

男の子 女の子 二人で何をしているの

赤いレンガを積んでるの

ひとつひとつ 積んでるの

遠くのお空にとどくまで 

ひとつひとつ 積んでるの

どうして お空に積んでるの

お空のむこうの天国に

とどくように 積んでるの

教えてあげるよ、子供たち 可愛い子供たち

どんなに高く レンガを積んでも 天国にはとどかない

なぜなら お空の遠くには 天国はないからさ

それなら お空のむこうには 何があるの教えてよ

教えてあげるよ 子供たち

あの お空の向こうには

お空があるだけなんだよ

だったら この 赤いレンガをどうしよう

教えてあげるよ 可愛い子供たち

赤いレンガで おうちを建てなさい

そこに 二人で住みなさい

赤いレンガのおうちに 二人で住みなさい

そうしたら 子供たち

いつか二人は大人になって 愛しあえるだろ

それから二人はどうなるの

教えてあげるよ 可愛いお二人さん

そこで こどもを つくりなさい

そこで こどもを育てなさい

するとわかるよ 可愛いお二人さん

そこが 天国だということが

それから二人はどうするの

その 天国を 守りなさい

この世の地獄から

2016年7月 4日 (月)

涙、壊れているけれど⑬

古い上着よ サヨウナラ

 

自転車でね、ちょっと繁華街のほうのスーパーに買い物にいくときもあるんですが、その日は(って、今日か)なんだか「青い山脈」って歌が口から出ちゃって、つい口ずさみながら、そうかあ、池部良(享年92歳)さんが、女生徒たちに交じって自転車乗ってたなあ、それでだなあ、と、まあ、映画は観てないけど、あの頃にはあの頃の青春があったんだよなあ、と、またアドレッセンスに酔ってました。きょうは離脱症状がイヤ~な感触だから、そういうときは、ミスタッチが多くて書くのもタイヘン。頓服の痛み止め、これ麻薬成分が入ってるからっていわれてんだけど、それにしては効いてくれないんだよな。昨日は、離脱症状が出なくて、人間というのは健康なときはこんなに気分がイイもんなんだなあと、思ったりしてたんだけどね。

で、いつも聞いてるラジオの歌謡番組の時間が来て、いつもなら昼寝を30分ばかりしながら聞くんだけど、離脱症状でけっこうキツイもんだから、ベッドでコロコロしてたら、その日は「青春歌謡の特集」とやらで、「青い山脈」が流れだして、おや、シンクロニシティかよ、と、眠れそうになかったから起き出して、これ書いてんの。

世界のあちこちで、ISが自棄になってるみたいで、ああいうのはどうなんだろうかな、殺し始めると、もう止まらなくなってしまうんだろうか。テロがもう目的化してるってふうだな。とにかく腹に爆弾巻いて、人込み入ってドカンというのは、何の訓練も要らないという、戦術もへったくれもナイ。自動小銃二、三丁持って、店で乱射というのも、カラシニコフだから、子供でも1時間の訓練(というほどのものでもナイ)受ければ、10人や20人殺せる。

四十代の頃、護身術の代わりに傭兵の訓練書を買ってきて勉強したことがあるけど、映画やなんかとチガッテ、やはり戦線の現場ってのは現実的で、いわゆる格闘術は役にたたないてなことが書かれてありました。デンゼル・ワシントン主演の『イコライザー』(アメリカ・2014)では、武器なんか何一つ持たずに敵のアジトだか事務所だかへ出向いていって、まず、部屋の様子を観察して武器になるものをシミュレーションで物色、何秒でどう動いて誰をどんなふうに倒すかもシミュレーション。で、そのとおりにヤっちゃう。この戦闘術は、傭兵の戦闘としても「敵と対峙して丸腰の場合、ともかく、まず武器になるものを探せ。素手よりは有利になる」てなふうに書かれてました。戦場においては卑怯というコトバはナイ。とも。それから、闘うときの構えなんですが、「両手をだらんと下げて、やや、前屈する」。つまり構えるなというワケです。クンフーものみたいに、あんなふうには構えない。これは柳生新陰流の素手での闘いの場合の身のとり方とまったく同じです。ちなみに、宮本武蔵はいま『刃牙道』で活躍してらっしゃいますが、書き残した『五輪書』はあらたまっていて、ツマンナイんですが、他にいい伝えた兵法によれば、相手が複数の場合、三人なら「逃げよ。殆ど勝ち目はナイ」。それ以上なら、1対1と同じで、前後左右に囲まれたら、まず、正面と相対して、間隙をぬって真後ろを斬る。この場合の残り三人は、1対1と同じ。五人以上の場合は、まず、もっとも腕の立つものから斬る。これは、テキ屋のバイトやってるときに先輩から、「相手が大勢いたら、たぶんイチバン強いのは、出番が来るのを待って後ろに陣取ってるから、そいつめがけて、とにかく食らいついてでも、そいつにダメージを与えるんや」と、教わりました。つまり、どこから崩すかということなんでしょう。

ISは、そういうことは、まったく関係ナシ。帝国日本だって、大東亜共栄圏、八紘一宇、五族共和、を信じてた軍人は多かったはずなんですが。

離脱症状が少し和らいできました。「書く」ことに熱中させてみたのが功を奏したようです。

2016年6月30日 (木)

涙、壊れているけれど⑨

世去れ 世去れ と

 

achako hanabisi1 週間前

これはレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです。「夢を」は「ユメヲ」であって「ユウメヲ」ではない。「燃ゆる」は「モユル」であって「モオユル」ではない。伊藤久男先生の歌を参考にせずに、勝手に歌うからこうなるのです。はい、出直してください。/

 

これは、森昌子さんがカバーして歌っている『あざみの歌』(You tube)にたいして、ごく最近(一週間前とあるので)つけられた、「ケチ」「イチャモン」「もんく」「批評」「訓戒」「諫言」「批判」「教示」でしてね、私はこのひとのことは何も知りませんよ。こういうのを近頃は「上から目線」とかいうんでしょ。それですましゃあイイんですけど、この文言はコトバとして、私、throughすることは出来ません。こういう人間は殺したいとも思うんですが。まあ、殺したいのは単に思うだけだから、とにかくは、この文言の何処がオカシイのか、少し考えてみましょうか。

はっきりいうと、こういうコトバの用い方、嫌いなんです、私。というか、このひとが外人ならしょうがナイと思いますが、この文言は、正確な日本語とはいえません。

・・・「これはレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」・・・これを〈述語〉表現というふうにいうとします。つまり主語(主体)がナイか、あるいは不明、あるいはあやふやです。「これは」というのは主語にみえて、そうではナイ。ここでの「これ」は、もちろん『あざみの歌』です。そうすると「『あざみの歌』はレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」になります。では、「レッキ」なんですけど、これは「れっきとした」の「れっき」でしょうけど、「れっき」は岩波国語辞典によると「歴」の促音変化だということなんですが、「歴とした」ではワカンナイだろうから、と、さらに平仮名よりも、強調を狙って「レッキ」と片仮名にされたのだと思われます。いずれにせよ、「歴」ですから、「由緒正しい」という意味です。そうすると「『あざみの歌』は由緒正しい日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」になります。そうなると、「演歌」というのは、由緒が正しくナイ、つまり日本の歌だかどうだかワカンナイ歌ということになります。そうすっと「『あざみの歌』は由緒正しい日本の歌謡曲であって、日本の歌だかどうだかワカンナイ歌ではナイ」ということになります。命題を証明していくと、そうなるんだから、しょうがナイ。「演歌」が、日本の歌ではナイ歌になっちゃうんです。従って、「夢を」は「ユメヲ」と由緒正しく歌わなくてはいけない。「ユウメヲ」は日本語ではナイから。「燃ゆる」は「モユル」であって、「モオユル」では日本語ではナイ。伊藤久男先生とか、は文脈上、殆ど関係アリマセン。/勝手に・・(略)・・・はい、出直してください。/は、コトバを変えれば「おととい、きやがれっ」ですね。

ここまで書いて来ると、主語(主体)はハッキリしてきます。achako hanabisi というひとが、主語(主体)です。ですから、文言の最初に「私が思うに」か、「私が知る限りにおいて」「私の考察によると」と、付くはずです。付けねばなりません。何故なら、「演歌」が日本の歌でないかどうかは、この主体(主語)の単なるドクサ(思い込み)ですから。

ところで、東京には「アチャコ・プロダクション」という事務所が未だに存在します。従って、このアチャコ・ハナビシは、商標(あるいは著作権)上、ハンドルにつかうのは、法規上、問題があるおそれも考えられます。

ついでながら、ある例を提示します。『人生の並木道』は、ディック・ミネさんの歌った歌謡曲だと思われますが、「なあくううなあ いもおとおよお いもとおおよおお なくうなあ」と、こんな感じで歌われるんですが、私の調べた限りにおいて、この小節は楽譜に、音符で書き込まれています。つまり、ディック・ミネさんが、勝手に節回しをつけているのではナイのです。そうしますと、『人生の並木道』は「レッキ」とした歌謡曲と称していいものなんでしょうか。『人生の並木道』はもとから、由緒正しくない日本語による作詩、作曲なんでしょうか。

歌、歌謡曲、流行歌、は、演歌だろうが、popsだろうが大衆のものです。好きなように歌えばイイじゃナイですか。

おとといどころか、おととしくらいから出直してください。

2016年4月17日 (日)

悲しみ勝負

ネアンデルタールもクロマニヨンも 泣いている 亡んでしまって なにが かなしい

花と風 雪を歩いて 番傘さして いまごろ何処までいったやら

知らぬまに逝ってしまったともたちよおいてけぼりは何をすればいい

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