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カテゴリー「北村想のポピュリズム」の記事

2016年9月12日 (月)

途端調風雅⑦

エンサ~こらやっと

 

釈迦はこの世界が何であるのか、考えるのをやめた。たとえ、世界がどんなものであっても、そうでしかナイのだから、仕方がない。これを「不問」にした。来世や死後の世界(Afterlife)も、そうしている。

釈迦が考えたのは、/では、この世界に、人間はどう関係するのが正しいのか/だ。

では人間とは。という当然の問いがやってくる。

そうして、「そういうものなんだ」と、結論した。世界と人間についての答をlinearすると、「そうでしかナイところに、そういうものなんだ」が生きているということになる。

つまり、釈迦は欧米の哲学者たちが畏れたように「虚無」を開述したのではナイ。全肯定したのだ。ともかく認めてしまわないとしょうがナイものは、認めるしかナイ。これは後に「四諦」と称される。そこまでなら、凡人坊主にでも出来る。釈迦は、そうして、そののち、「否定」を始めた。自己と世界を否定していくにはどうすればイイか。ここから彼の真の闘い(修行)が始まる。これは、キルケゴールの説いた「絶望の絶望」や、アルベール・カミュの表現した「反抗」とよく似ている。(似ているだけで、同義というワケではナイ)。

 

現代のこの浮世(せけん)・・・〈社会〉といってもイイけれど、私には人間が〈社会〉などという高尚な(hyperな)システムを共有しているとは思えない・・・をmass communicationでは「閉塞」というコトバで掴もうとしているが、ほんとうにそうか。閉じているか。塞がっているか。否、私にはそうは思えない。そういうふうにいうならば、開き方(開かれ方)がマチガッテいる(マトモではナイ)。そういうふうに開いてはイケナイのに、そう、開いてしまった。そう、開くとどうなるか。おそらく怨嗟(ルサンチマン)が飛び出す。

ニーチェをちょいと持ち出してくることにいたしますけども。

/キリスト教道徳や,そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は、弱者の強者に対する恨みや復讐心を道徳として表した奴隷の道徳なのである。/(思想の科学研究会「新版哲学・論理用語辞典」)

/また偽りは復讐し得ぬ無力を『善意』に変え、臆病な低劣を『謙虚』に変え、命令者に対する屈従を『従順』(その方が屈従をお命じになると、彼らが言うところの者――彼らはその者を神と呼ばわる――に対する従順)に変える。弱者の歯牙なさが、その目に余る臆病さまでが、戸口に立ち尽くしていること、やむなく待たざるを得ないということが「寛容」などという都合のよい名を冠せられ、また徳でもあると見なされている。復讐し得ないということが復讐を望まないこととされ、おそらくは赦しとまで見なされている/。

/全ての高貴な道徳が、自己自身への勝ち誇った肯定から生じて来るのに対して、奴隷道徳は始めから外部”“他者”“自己でないものに対して否を言う。そしてこの否が奴隷たちの[せめてもの]創造的行為なのである。この価値付与の眼差しの転回  自己自身へと立ち返らずに外部へと向かうこの必然的な方向  はまさにルサンチマンに属するのである。奴隷道徳は成立するためには、いつもまず対立した外部世界を必要とするのであり、生理学的に言うなれば、そもそも行為するためには外的な刺激を必要とするのである。- 彼等の行為は根本的に反応 [反感]なのである/『道徳の系統』

これらは、ニーチェのキリスト教への痛烈な批判なのだが、現代、いまの世情、世間、そのものと酷似してやしないか。

世間は閉塞なんかしてないぞ。「怨嗟でいっぱい」なのだ。キリスト教とは何の関係もナイが、奴隷道徳によって、互いに潜在的な〈反感〉を腹の底に抱えている、という具合だ。

これは、そうなんだから仕方ない。肯定しようではないか。で、さてと、どうやって釈迦のように、この「そうなんだから仕方ない」を〈否定〉すればイイんだろうか。

2016年8月 2日 (火)

途端調風雅①

怪談

 

夏なので「怪談」の一つもやってみる。

名古屋に出てきて数年の頃、たつきを立てるために、私はあるタレント事務所に所属しながら雑多なタレント仕事をなんでもかんでも引き受けていた。当然だが、ラジオCMの仕事もあった。(奇妙なことでもナンデモナイのだが、この頃のギャラと、現在のギャラは殆ど変化がナイ。これはこれで怪談ともいえるのだが、理由をいえば簡単なことで、ベテランと称されるタレント諸氏が、その頃のギャラでいまも仕事を引き受けているだけのことだ)

怪談といっても、幽霊、心霊の類はでてこない。だいたい私はそのての怪談はまるっと信じてナイので。しかし、私なりに心底ゾッとしたことはあるのだ。

ラジオCMは、語るほうがボックス(金魚鉢とスラングでいわれる)に入り、カフ(on offのスイッチ)とマイクのあるデスクに座る。窓一枚で隔たれた調整室では、ディレクターやらクライアントが私の語りを聞いていて、注文を出す。これは、スピーカーを通じてか、イアホンを通じて、私に聞こえるようになっている。

たいていのCMは15秒、30秒、60秒、とこの三種類だが、ときには一発芸のような5秒というものもある。もちろん、その長さで読み切れる原稿を読むワケなのだが、その日手渡されたのは、ざっとみて800字ほどあったろうか。これは長いなあと思いつつ、出来るだけ間違えないように、テイクを少なくやんなきゃなあと緊張もしつつ、ボックスに入った。ラジオCMの難しさは、15秒なら1秒の狂いもなく15秒で、30秒なら30秒で、原稿をキチンと読まねばならないところだ。時計を睨みながらやるワケではナイので、そこはだいたいの勘というもので、読み切る。

さて、怪談の始まり。

ディレクターのほうからスピーカーを通じて指示がきた。

「えーと、30秒CMなので、よろしく」

・・・この長いのを30秒、こりゃ猛烈に速く読まないと、いや、それでもちょっと・・・

「はい、どうぞ」

私は、これ以上の速さは無理というくらいの速さで読み始めた。すると、途中で、

「ストップッ、速いよ、そんな早口で読んじゃダメだよ」

・・・・「わかりました」・・・

私は速度をちょっと落とした。

「ストップ、まだ速い。ふつうの速さで」

・・・・「あの、これ30秒ですよね」・・・3分のマチガイじゃナイよなあ。・・・・

私は、ふつうの速度で読んだ。と、しばらくして、

「速さはそれでいいんだけど、2分以上かかってるよ。30秒だよ30秒」

これは技術の問題ではナイと、私は思った。何か勘違いしてんじゃナイだろうか。もちろん、ディレクターのほうがだ。

・・・・「あの、原稿はあってますよね」・・・・

「うん、」と、いったまま、原稿に目を通して口を動かしているディレクター。自分で読んでどれくらいかかるか、ストップ・ウォッチを片手にしている。やがて、

「ちょっと、原稿が長すぎるので、カットするワ」

アタリマエだろ。で、10分ほど休憩して、ディレクターはカットした原稿を私に差し出した。なるほど、カットされている。三行ほど。

で、この怪談の結末がどうなったのか、それを述べる。原稿のカットは繰り返されたが、一行、二行というカットの仕方で、30秒に近づけるのには、ほど遠く、けっきょく貸しスタジオの時間が切れて、録音は延期になった。その後、誰にこの仕事がまわされたのか私は知らない。

私はこういう人間に出会うと、心底、ゾッとする。

2016年7月14日 (木)

涙、壊れているけれど⑳

終わるんじゃなく消えるんだよ

 

永六輔さんには同世代という意識が薄いので、その死についての痛みはナイが、ザ・ピーナッツ、妹のユミさんもお亡くなりになって、4年ほど前に姉さんのほうのエミさんが他界されているので、これは、キツイわ。「しゃぼん玉ホリデーっ、なにがなんだかピーナッツ」という声は、いまでも聞こえてきます。

75歳、まあ、女性としては早いほうじゃないのかねえ。余命計算しても、アト5~10年くらいはあったんじゃないのかなあ。しかし、七十代のザ・ピーナッツを観たいとはとうてい思えない。こういうところって、美形だった女性って損だよなあ。

で、どんどん昭和が、私(たち)の時代が終わっていくてなこと思ったけど、どうも、チガウんだな。「終わる」んじゃナイのよ。そう、「消える」の。「消えていくの」私(たち)の時代が。うん、消えていくの。そこで、なるほどそうなのか、時代というのはその当時の世相、世間ではなく、当時生活した、固有、個人が所有、背負っていたものなのかと、初めて気づいた。タトゥー(刺青)のように背負ってんだ。(いまどきの若い子や外人さんがやってるあのババチイ、汚いデザインいれずみ、あれ、なんとかなんないのかね。刺青って美しいもんですよ。日本の芸術文化ですよ。あんな焦げ跡みたいなもんじゃアリマセン)。

塾のレクチャーで、戯曲の塾ですから、昭和の時代の俳優、女優、歌手、芸人の名前出しますよね、うーん、知らないんだよ、塾生が。これはgeneration gap じゃありません。勉強してないだけなんだ。私だってディック・ミネさんが『人生の並木道』歌うの、リアル・タイムで聞いたことナイもの。と、書いた瞬間、ちょっと待て、大東亜戦争において、太平洋戦争では、日本軍はアメリカと戦っているのだが、日本軍が中国大陸で戦った相手って誰なんだ、と、ふと疑問に思ったら、容易に答えられない自分に唖然とした。なんだ、オレも勉強不足じゃないか。たしか、蒋介石の国民軍とは戦ってたよな。けど、八路軍てのは共産ゲリラで、こっちのほうが手強かったんじゃなかったっけ。で、国民党の中国軍との関係はどうなってたんだっけ。だって、この9月に中国のほうじゃ、「攻日戦争勝利の記念パレード」をこともあろうに、あの天安門広場でやるらしいじゃん。なあ~んかねじれてんなあ。

ということで、ともかく調べました。その結果はここに記すとややこしいんで、記しませんが、概ね、八路軍は共産軍としてゲリラ戦術を展開していたようです。とはいえ、国民党の軍の組織下にあります。で、ゲリラ戦術ですので、(こちらは行きつけ毛沢東がヘッドですが、司令官ではありません。それは別におります)こっちのほうが手強かったようです。としか答えられないのは、諸説紛々あるからで、だいたい、中国戦線の戦闘というのは、ハッキリ歴史的事実として残っていないことのほうが多いワケ。そりゃ、あんた、『源平盛衰記』のようには、いきませんよ。

さてと、うん、勉強してませんね。だから、慰安婦問題とかゴチャゴチャいわれるんでしょう。「性奴隷」って、ピンク映画のタイトルみたいにいわれてるけど、そんじゃあれかい、いまのフーゾクのお姉さんや、アダルト女優は、ありゃ「性奴隷」かい。それが年間400億円も稼いでらっしゃるのかなあ。奴隷ってただ働きじゃナイの。

えーと、そういう話をしたかったんじゃないノヨ。消えていくんですよ、時代が。オレだって死んだら、一つ時代が消えるんだから。偉そうにいってんじゃナイのよ。もちろん、オレの時代が消えるってことですよ。ああ、ため息。

ちょっと恋でもしにいこうっと。

2016年7月12日 (火)

涙、壊れているけれど⑲

死ぬことに平等などナイ

 

第24回参院選があって、与党が勝って、権力は磐石、つまり「アベノミクス」は正しかったらしく、にしては、なんだかいろいろな矢を、安倍総理は何本か射たらしいけど、で、当初は庶民大衆にその成果による影響が出始めるのはしばらくアトで、時間がかかるというようなことをニュースやバラエティなんかで耳にしたけど、だいぶ時間は経ってると思うんだけど、特に変わったことはなく、不況で貧乏で、失業者いっぱいで、仕事なくて、けど、与党が勝ったんだから、「アベノミクス」は正しいと有権者は判断したんだろうし、これからは「積極的平和主義」になって、現政権による改憲はマチガイなくあるだろうし、それにも有権者は賛成したんだから、そうすると、私は政治には素人だけど、こういう芝居なら創れるなと思ったことをいうと、この不況とか、貧乏人を救済するには、「積極的平和主義」といのは都合がイイので、食い詰めたひとは、みな、自衛隊に入れるようにすればイイ。徴兵というのではナイ。貧困救済だ。自衛隊マルヒ部隊。このマルヒは秘密の「ヒ」なのではなくて、もちろん「貧困」の「ヒ」だ。もちろん、「弾除け部隊」だから、さほどの訓練など必要ナイ。「囮部隊」だから、カッコだけつけとけばイイ。とはいえ、貧乏人の中にも頭脳明晰、あるいは体技優秀なのもいるだろうから、そういうのは選抜して、まともに訓練して、適材適所。そうすると、いろいろと経済問題も解決するだろうし、というのは、戦争というのは銭になるのだ。銭になるから、世界のあちこちでやってんですよ。正義とか主義主張とか思想とかは、アトヅケでよろしい。武器は売れる。瓦解した町を建築しなおすのに、土木産業が必要になる。葬儀屋は儲かる。兵隊さんたちのためにフーゾクも必要だろうから、そのての店もハンジョウする。兵隊さん飯食うから、食材産業も潤う。情報科学戦争だから、そのてのIT産業も金回りがよくなる。なるほど「アベノミクス」というのは「積極的平和主義」とガッチリ手を組んでの戦略だったか、それなら有権者も賛同するよな。

「しかし、ひとが死ぬんですよ」ひとなんて、毎日死んでるし、誰だっていつかは死にますよ。「あなた、あなたの入れた一票に責任持てますか」「あのね、日本国憲法第三章、国民の権利及び義務、第十五条4項読んでごらん。一票にはなんの責任もナイってこと、ワカルから」「つまり、貧乏人は死ねというのっ」「チガウ、チガウ、死ねなんて誰もいえないよ。死ぬしかねえなあ、と、そう思うだけよ」

まあ、オレなんか、余命を考えたら、別にどうってことないんだけど、これからの若い人はちょっと気の毒だとは思うね。 

と、そういう芝居、ね。でも、オレは創らないよ、こんな誰もがかんがえつきそうで、誰でも創れそうな芝居なんて。

なんだかなあ、老い始めてから、地獄みなきゃなんないのかよ。後味悪いねえ。もちっと頑張ろうかなぁ。せめて犬死にしないように。

2016年6月26日 (日)

涙、壊れているけれど⑥

てんで、ばらばら

 

英国がEU離脱を国民投票で決定したんですがね、ウソみたいな話になるんだけど、英国民の半数以上が、そもそもEUとは何なのか知らなかったらしいと、これは直後のある統計で判明したとか。ね、ねってまあ、要するに「気分」なんだよなあ。ところで、その英国のスコットランドが、英国からの独立を国民投票するような気配だってんで、スコットランドは、62パーセントがEU離脱反対だったから、まあ、これは当然でしょう。

なんだか、今年はこの〈離脱〉ってコトバが流行するんじゃナイかと。「私、アナタからもう離脱します」とか、「この会社とは離脱です」とか、ね。

離脱ってのは、薬物依存のときにみられる症状なんですがねえ。苦しいですよ。特に向精神薬を突然ヤメルなんてことしたら、覚醒剤の比ではありません。私はいま二種類の薬物依存ですけど、ヤメルのに3年かかるから、ヤメルのをやめることにしているだけで、特に飲まなくてもいいクスリ、いわば非治療薬を二種類飲んでんだよなあ。

Virtual sex machine が売り出されたんだってね。あのね、開発されたんじゃナイのよ。売りよ、売り。で、どうなるかというと、要するにいままでのようにダッチワイフ人形にプラスして、そのmachineを装着すると、あの映画『マトリックス』みたいになるワケ。これで、数年後には、アダルト・ビデオ業界は壊滅するでしょう。フーゾク業界も大打撃。価格がまだ少々高いんだそうですけど、もうsexするのに相手は不要。どんなにもてない男だって、自分の好みの女性(女優とかも含む)と、ナニ出来るんだから、もう世界は不要に、というか滅びるしかナイんじゃないのかねえ。

けども、けれどもよ、これで出来るのはsexだけですから、ね。恋愛は出来ません。恋愛は生でナイと出来ない。とはいえ、恋愛ってなんだろうなあと考えると、また考え過ぎになるんですが、うーん、考え過ぎになるから、判断停止。

NHKがねえ、ラジオで、地震のときの注意点を毎日、ニュースの終わりに流してんの。

同じことを日替わりでいってるだけなんだけど、余計なお世話というより、「そんなこと、出来るワケねえだろ、バカッ」てのがあって、「普段からご近所で、役割を決め、救護班、炊き出し係、情報収集班、トイレ担当などの分担を話し合っておきましょう」って、あのね、ここはスイスじゃないっての。スイスは、常に臨戦体制に入れるような訓練してます。それやりながら、兵器産業での稼ぎが国費を支えているんだから。だいたい、隣に住んでいるのが、地球人なのかどうかってのもワカンナイのに、話し合い(大きなマンションには組合があって、そういうの、やってますが)って、話しどころか挨拶すらしないのに、あのね、要するに、私、マンションに住んでます。ワンルームとはいえ、12畳、でシステムキッチンで、バス、トイレ、洗面、独立、クローゼット付き。共益費、保証人代行費含むで5万3千円。おっ、いいね。じゃナイのよ。要するにですよ、私の感触としてはスラムと何処がチガウのって感じかなあ。巣乱(すらむ)ですよ。

こないだ、浴室の天井から、漏れがあって、業者に調べてもらったら、二階の部屋がどうしようもなくヒドイ状態で、配管からやりなおさないと(つまりぶっ壊さないと)錆がときどきは落ちるでしょう。って天気予報じゃナイんだから。 

ほんとに誰が住んでんの。こないだなんか、中学生らしき子供たちが大挙して、階段降りてきて、廊下に置かれていた自転車で帰っていきました。塾でもやってんのかな。左隣は夜逃げしたみたいだしね。オレんところなんか、毎日アマゾンが来るから、なんだろうなんて思われてるだろうしね。二階の何処かが小犬飼ってて、高音でときどき吠えるから、ドキッとすんのよ。四階建てで十六室あるんだけど、大家も十六人いるの。だから、各部屋でルールーがチガウワケよ。ミシミシ、ドンドン音がするのは、何処かが牛でも飼ってんじゃナイのかなあ。

 

 

 

2016年3月18日 (金)

♡~34

父の浮気相手は、事実上父の切り盛りしている下請けの町工場にパートで来ている女性で、そんなことは、私にしてみればどうでもよかったのだが、その女性の娘が、私と同じクラスの転校生で、私は小学生だったが、だからその転校生も小学生なのだが、子供の世界もさほど大人の世界と大差はなく、彼女から「うちのママと、あんたのお父さんとは出来ていて、それが噂になって、ママは機嫌悪いんだけど、どうしてくれるの」と、責められたときは、私は〈立場〉というものが、まるでなんだかさっぱりワカラナクなった。
おまけにコマッタことに、その転校生は、どうやら私に気があるらしく、私の父親の浮気のせいで、自分の〈恋心〉がうまく進まないということにも憤慨しているようで、そこまで踏み込まれて責められるとなると、だいたい、〈浮気〉して、大人がナニをするのかさへ知らない十一歳の無知なウブな存在は、路頭に迷うしかナカッタ。
幸いにして、というか、当然の成り行きなのだろうけど、転校生は三カ月ばかりでまた転校していった。父親はいなかったらしい。まだ、「団地」というものが新しく、そこに暮らすのが、当時の主婦の夢に近かった時代で、彼女とその母親は、その団地に住んでいた。日活ロマンポルノに、『団地妻シリーズ』が登場するのは、それからさらに十年ばかりのちのことだ。
私が、散文(小説)のほうに進んでいたら、この事実の私史を書いていたかどうか。おそらく書かなかったろう。私はこういうplotには何の興味もナイのだ。子供というモノは、な~んだって知っている。それを知らないような顔をしているのだから、世の中に子供ほどウソをつくことが上手な存在はナイ。だから、いわゆる「名子役」などと賞賛される役者などにも、まったく興味はナイ。業界では「子供と動物には勝てない」などという通俗的な命題があるが、そんなことを口にする役者は、どんなものにも勝てっこナイのに決まっているのだ。
蛇足になるが、清純派としてブレイクした吉永小百合さんは、三十歳を過ぎたあたりで、インタビューに答えてこんなことをいっている。「あの頃は、イメージというものがありましたから、どんなタイプの男性が好きですかと訊かれたら〈ジャガイモのようなひと〉と答えてました。もちろん、ウソでした」
私は若い頃の吉永小百合さんには、まったく興味はなかったが、彼女に注目しだしたのは、『細雪』(1983年、市川昆監督、東宝映画)の 蒔岡雪子(三女)からで、とはいえ「サユリスト」とはほど遠く、1973年(昭和48年)にフジテレビのディレクター、岡田太郎氏と15歳差で結婚したときも、このひと、ファザコンなのかなあ、てなくらいにしか気にとめなかった。
彼女も71歳。とはいえ、その美貌に衰えを知らないのは、岸 惠子さんが83歳でもエレガンス(上品な美しさ、優雅、気品)に陰りがナイのに匹敵する。赤座美代子さんも吉永さんと殆ど同年の72歳だ。シャーロット・ランプリングには〈老いて〉の美があるが、この日本女優さんたちとなら、まだヤレる、という勇気を持つことが出来る。
どうして、こういう品のナイ終わらせ方なのかねえ。どうでもイイや。

2016年2月23日 (火)

♡~27

歌謡曲『寒い朝』はは1962年4月20日にビクターレコードから発売された吉永小百合のデビューシングルだ。和田弘とマヒナスターズと共に歌っている。
北風の吹き抜く寒い朝も、こころひとつであたたかくなる、北風の中に待とう、呼ぼう、春を。というふうな歌詞になっている。「寒い朝」や「北風」や「春」をmetaphorとするならば、つまり、私たちは、1962年から「春」がやって来るのを「北風」の中で待っていることになる。そんで「春」は来たのか。そんなことを考えると、ベケットの『ゴドーを待ちながら』にまで思いを馳せねばならない。よく上演されたり、一字一句の変更を許可しないという条項があるので、似たような趣向の作品や、捩った、パロった作品は日本にも多くある戯曲だが、私はこの、のったりのたりした、ハッキリとしない、思わせぶりな戯曲が大キライだ。と、この件については、また一♡設ける。
要するに1962年には、もう人々は「春」を「北風」の中に待っていたのだ。呼ぼうとしたのだ。然りといえども、いまは「冬」だ。季節のことをいっているのではナイ。経済の冷え込みと、世知辛くなった世間をいっている。
この後、いったい何年、この日本は寒い朝を迎えるのだろうか。寒い朝くらいなら暖房と防寒具でなんとかなるかも知れないが、これが「氷河期」なら、もはや、春を待つも呼ぶもへったくれもナイ。せめてへったくれくらいはあって欲しいが(〈へったくれ〉の語源は不明だが、基もとは関西弁だったのではナイかといわれている。つまりヘッタ+クレということになるのだろうが、ヘッタが蔕なのかどうか、判然とはしていない)。
寒い朝というのが、metaphorでもナンデもない、そのまま存在するのが、東日本震災の仮設住宅だ。西成のドヤよりひどい、このヤサに、まだ、半数近くの住民が住んでいるのだ。
大臣の失言やみみっちい銭の収賄にケチをつけてるヒマがあるなら、網走番外地並のこの住居環境をいいかげん、なんとかしたらどうだ。それが出来るまでは、私はけして現政権のあらゆる言明、言説も信用しないことにしている。
寒い朝ではナイが、寒い夜に、毎年食ってた常夜鍋(豚小間とほうれん草だけの鍋)に用いるほうれん草の、その価格を観て、こっちが凍てつくワ。ピーマン一個が特売で一個51円という情けなさにも凍りつく。
もちっと文化的な話をすれば、シネコンというところの従業員はバイトばかりで映像技術に関する者は、ひとりも配置されていない。総て通信で送られてくるからだ。バイトはポップコーンの販売と掃除ともぎりをやっていればイイ。この前、画面と映像の比率があきらかにチガウ通信ミスがあったので(具体的にいうと、映像の両切りなんだけど)、苦情をいったが、なんともならないということで、苦情をいった私も、受送信の中間設定設備が館内にはナイということは、初めて知った。
小さな単館上映映画館も、フィルムから通信への切り換えを余儀なくされているが、これに最低1千万かかる。かけても数年後には、また更新させねばならない。洋画ばかりが喧伝されているが、上映本数でいえば、洋画の倍以上の邦画が創られていて、一週間から、ひどいのになると土日だけ上映され、DVDに「劇場上映版」などと記されて、レンタルされたり、セルされたりしている。このDVDの価格は、驚いたことに、セルよりレンタル用のほうが高いのだ。もちろん、レンタル用のほうが多く円盤になっていく。最近では映画も通信になってきて、欧米ではすでに円盤より通信のほうが多いのだが、日本人はそのお国柄か、あまり通信を信用してはいないようだ。アダルトになると、セルとレンタル用とでは、映像がチガウ(らしいが、これは、まあ、聞いただけ)。
かつて、石原裕次郎は、浅岡ルリ子さん(存命者には敬称をつけます)と『夕陽の丘』をデュエットして(1963年9月1日)この売上げは143万枚(テイチクによる)だったそうだが、歌詞に「また呼ぶ秋はないものを」とある。『寒い朝』の1年後には、もう「秋」ですら、呼ばねば(呼んでも)来ないことになっていたのだ。最近は四季の区別があやふやになって、とは、よく耳にするが、そんなものは、1960年代初頭からのことだ。
で、お清めの塩の代わりに二句詠んでみた。

窓を開けて小さな春を入れた(日和よき午近く)

シリウスよずっと地球をみつめていたか(冬の夜、外に出て空をみつめて)

2016年2月10日 (水)

♡~23

「悟りを得る」という命題は偽。何故なら悟りは「開く」ものだからだ。「得る」としたなら、「悟り」とうものが、何処かに存在することになる。「開く」のは自分だ。その方法が「中道」だ、と釈尊は述べた。あたしゃ仏教学者でも坊主でもナイけどね、一応、釈迦の思想は自分なりに学んだかんね。これいうと、上座(小乗)の修行ボンズ(これ、ポルトガル語、ボンズ、差別用語です)からは、本読んだだけでしょ。そんなものはダメなのよといわれる。んじゃ、あれかい、聖徳太子は、ありゃダメかい。修行なんかしてないみたいだけど。と、まあ、揶揄することにしている。
「中道」というと、苦行はダメ、けど楽もダメ、だからその中程をって、なんだか妥協のように流布されているけど、それも上座のウソ。中道というのは、「道」なんだなぁ。だって中道だもん。
釈尊自身が悟りを開いたかどうか、それはまあ、どうでもイイ。「開く」っていうからには、「叩け、さらば開かれん」で、叩かなきゃいけない。で、どこにそんな門があるのかというと、ワカンナイ。だから、中道。まあ、中くらいの(ほどほどの)速度で道を歩いていけばいいんじゃないの。リヤカー牽いて、荒野を。何処かに門くらいあるだろうって、そんないい加減な感じで。拙作『寿歌西へ』は、そういう作品です。
自分との闘い。闘病というのをこういうふうに誤解してはいけない。自分と闘ったって仕方ない。闘うのは自分の「疾病」とだ。なんでなら、それが自分を楽にする中道だから。この道の歩き方は、ニュートンが「無限」に対して定義した〈極限〉と同じ。だから、負けたってイイじゃん。自分に負けたワケではナイ、自分は闘って、疾病に負けたと、まあそういうことですから。闘った自分を褒めてあげるべきです。
で、ありますから「自分との闘い」なんて誰がいったのか知らないけど、そういう聞こえはイイが、マチガッタことはしてはイケナイ。〈自分の何〉と闘うのか、冷静に考えてから、闘いはやんなさい。六十四歳なんだから、これくらいの説教はお許しあれ、だ。
闘い方、いろいろあるでしょう。けんども、普遍的にいえるのは、「自分の何か」と闘うときは、「みんな独り、ひとは他人」が前提。「孤独」は分け隔てなく、人間が持っているもの。(私のような例外も中には存在するけど。私は孤独ではナイといってんじゃナイのよ。〈孤独〉というのが、よくワカランの。〈愛〉もだけど。愛情、人情ならワカルんだけどな)。「ひとは他人」です。このほんとうを解すれば、腹もたたないはずなんだけど、怨みもしないはずなんだけど、なかなかそういう境地にはねえ。しかし、「他人」のために何かする。これ「情はひと(他人)の為ならず」です。とはいえ、ここはまた難しい。「善かれと思ってしたことが、必ずいい結果になる」とは限らない。因果ってのはナイの。因縁もナイ。あるのは「関係の偶然性」或いは「関係の確率性」。この結果を産んだ要因は、これこれってのはナイ。結果は一つしかも知れないが、要因、原因は、数多あるから勘定できない。よって、そんなものを結果の因なんかには出来ない。自然世界には原因、要因、つまり因はアリマセン。結果だけがあるのです。その偶然と確率とだけがあるのです。
「断舎利」ってのが、流行ってんだってな。「断=入ってくる要らない物を断つ」「捨=家にずっとある要らない物を捨てる」「離=物への執着から離れる」。やましたひでこって御仁がヨーガの行法、「断行」「捨行」「離行」という考え方を応用して考案したもので、人生や日常生活に不要なモノを断ち、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れられるという考え方、生き方、処世術です。(やましたさんは「断捨離」という言葉を商標登録しています。商標登録第4787094号。こういうのは、お捨てにならないでしっかり持ってらっしゃる)
私の場合「入ってくるものが要るのか要らないのかワカラナイことが多いので、とりあえず脳内に情報としてファイルしておく」。「要らないものは捨てないで、それを要しているところに送る。あるいはまったく別の使い方がないかを考える」(そういうことが出来ないものはもちろん棄てる)。「何事にも執着する」(固執はイケマセン。しかし、投げ出すのはもっとイケナイ。柔軟にいかないと。私は能無しだから、ただただ粘る。粘って考える。で、これは執着する必要なしと結論したらハイ、それまでよ、です)。これも、「中道」の考え方です。でも、ちょっとアレって思うでしょ。しかし、「執着しない」ということは出来ない相談なんです。論理的にもいえます。ひとは執着しないと決めたら、執着しないことに執着してしまう存在です。それと、「とりあえずファイル」ってのは、・・・方法があるんですが、また次の機会ということで、はい。「断舎利」、ヨーガの行、くっだらネエ。

2016年1月21日 (木)

♡~17

機械というものは、正確に間違う。人間はスピノザにいわせると「もともとマチガッテいる」ので・・・そういうふうにはいっていないが、そういうふうなことはいった。・・・最近は気候が変だとか、日本(人)は平和ボケしているとか、正しそうにマチガッタことをいってる。気候というのは〈自然〉なのだから、間違ったりしない。自ら然りあるがごとくに振る舞っているだけで、それは「振る」「舞う」だから、じっと突っ立っている人間にしてみれば〈変〉にみえるだけだ。「平和」でボケたひとなど私に限っていえば観たことはナイ。ひとは「戦争」によって気が変になるのだ。アタリマエじゃないか。つまり、論理に従っていえば「平和ボケしている」といってるひとが惚けているだけだ。平気でひとの首をナイフで斬って落せるのも、戦争で気が変になっているからじゃないのか。そういう連中を「とにかく駆逐、殺せっ」と、ヒステリックになっている民主主義、あるいは共和主義国家の為政者も、要するに「オカシイ」。違うかっ。
日本人ほど臆病な人種はいない。おそらく、イチバン濃くホモ・サピエンスの血(いまふうにいえば遺伝子・・・遺伝子とDNAとはチガウ・・・)を受け継いでいるのとちがうか。ホモ・サピエンスは、臆病だったので、一所懸命に「考えた」。何をかというと、生き抜く方法、生き延びる手だてを。だから、ネアンデルタールやホモ・エレクトスが滅亡したあとも、幾つかの氷河期を生き残った。
40歳から45歳になる心身の変容と、六十歳からの1年ごとの心身の変容は、まったくチガウ。還暦を過ぎると、ひとは、未知の体験ゾーンに入るらしい。これは、穴居時代の人類にはなかったことだ。何故なら彼らはそんなに長命ではナイ。もちろん、縄文人にもなかった。縄文人の推定平均寿命は5~10歳だそうだ。せいぜい長生きしても三十歳の人間しか、その時代にはいなかったから、彼らは、六十年生きるなどという経験値を遺伝子に残してくれなかったようだ。     
「いま、世界中の人間に平等に食料を分配したら、世界中の人間は数日で総て餓死する」と、ブラック・ジョークだか、あるいはほんとうのことだかをいった御仁がいて、袋叩きにされたそうだが、殴ったり蹴ったりしているほうも、「待てよ、ひょっとすると」てな気になってきて、「ちょっと待て、まあ、一杯やろう」と、共にしみじみ飲んだ、というニュースを何処かで読んだ。これは、私は良いニュースだと思う。

2016年1月14日 (木)

♡~11

テレビを観ないので、たいていラジオを聞いている。聞いたり聴いたりしている。私は浪花節が好きなので、いまどき浪曲なんかをやってるのはある局だけだから、午前(ひるまえ)などはたいていここだ。とはいえ、この局はオペラが好きなようで、多いのよオペラが。さすがに1時間ちかく「オ~ワ~ヤ~ッッ」なんてのを聞いてると疲れるので、民放に切り換える。すると、けっこう長い時間、いわゆる「ショッピング」のコーナーがある。テレビ通販と似たりよったりだが、ラジオだからたいていアナとの掛け合いになる。これは私にいわせると、まったくの「テキ屋商法」だ。
売り手はコーフン気味に、スゴイ商品を本日販売するてなことを報告。アナはいわゆるテキ屋のコトバで「トーハ(鳩のスラング、客に交じって客の側から煽動する役目)」だ。いちいち驚いて感心してみせる。この辺はテレビとチガッテ映像がナイので、そのイメージを補うために、どうしてもかなりの大袈裟な商品紹介となる。売り手はその「商品」がどんなにスゴイかを、自身の経験やら、いまこの放送局の方にも試してもらいましたらもう、みなさん大仰天のビックリなんてことをいう。扱うものは意外と限られていて、たとえば、超音波ハブラシ。別に何処にでも売ってるシロモノだが、掛け合いで「ひぇ~っ」「わおっ」とやられると、そんなもんかねという気になる。で、価格に突入。「安いっ」と「トーハ・アナ」。この時点ではほんとに安いのかどうか、ワカラナイ。(ちなみに同じ商品をアマゾンで検索したらアマゾンのほうが安かった)。しかし、ここからがテキ屋のやり口なんだけど、「しかも、きょうはさらに、もう一本お付けします」。ここで、聴衆は「安い、かどうか」より「損か得か」に心理誘導される。そりゃあ、あんた、同じ商品をもう一本付けられたら、半額で購入していることになるので、得に決まっている。とはいえ、最初の値段はそんなに安値ではナイのだ。さて、そこに追撃、「これが本日は50組」とくる。えっそれだけしかナイの。放送電波を使って売るんだから、50組は少ない。つまり急いで申し込まないと売り切れる、と消費者(聴衆)はまた心理誘導される。おそらく少なくとも一桁少なくいってるのはマチガイない。で、一本分で二本の価格というのは、二本買ったときとさほど差はない。その程度の割り引きなら、ネット検索すれば安値でやってる店舗はある。さらに「遠近調節メガネ」のときは、アマゾンで同じものを扱っていたので(しかも安く)レビューを読んだが、「常用にメガネとしては使えない」という☆一つから、良心的に「あくまで非常用ですね」☆三つがせいぜい。「自宅でホワイティング」という液体歯磨きにいたっては「こんなものを何故売るのか、まったく効果はナイ」が殆どで、たいていは☆一つ(ともかく☆をつけないとレビュー掲載されないので一つは付く)。これもあれも、「もう一本、もう一個同じものをお付けして」だ。
テレビ通販の場合、一回の放送で数億円の売り上げがあるらしい(あくまで〈らしい〉だけど)。買った(申し込んだ)ときは胸ワクだが、いざ手にしてみて冷静になると、そんなに得でもナイなと、たいてい思うはずだ。だってそれが「テキ屋商法」だもん。
次回は、同じような手口で、実際に私自身が舞台の上演台本を売りさばいた体験談を、述べることにしましょうか。

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