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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2020年12月23日 (水)

無学渡世・三

アマゾンで本(書籍ともいうが、本屋はあっても書籍屋はナイ)を買っていると、ときどき、よく調べもせずポカをやらかして、しかしこのポカがなかなかのポカ買いになることもある。『老子講義』(五井昌久)と『道教思想10講』(神塚淑子)をとりあえず買ったが、後者はまだ開いていないので置くとして、前者は、新興宗教の開祖が突然閃いて書いたというシロモノ。にしては第一講で「道に囚われてはいけない」とえらくマトモなことを粛々と述べ始めたので、こりゃ、なかなかのものかなとおもったら、二講過ぎあたりから〈宇宙神〉というのが出てきた。そこで、ありゃあ、と、この書籍の根本教義がナンデあるかに気づいたのだが、この手のホンも意外にオモシロイところはあるのだ。まず、鬱病のとき、こういうのを読むと、いちいち「莫迦に出来る」ということで、やや、鬱が和らぐ。聖人とはなんであるかなど高校倫理のようなものを説いているかとおもえば、釈迦などは宇宙人の存在なんかは当然の如く知っておりまして、てなふうに大真面目にいわれると、それには私たちは/反論出来ない/ことにも気づくという按配で、だいたい浄土系は阿弥陀如来なんてのを/創造しなければならなかった/という論理的必然があるもんだから、まあ同じことで、大乗というのは危ういところで新興宗教と見做していいんじゃないかと脳髄が傾斜する。宇宙神も阿弥陀如来も髪の毛一本ほどの差しかナイ。少なくとも、浄土系は仏教史を辿っていかなければ、単なる新興宗教でしかナクなってしまうという勉強になる。
まあ、そういう与太は別にして、釈迦牟尼は老子の思想にはかなり影響を受けたのではないかと、もう三十年ばかり前にそう考えたことがあるのだが、〈空〉については両者(老子の思想と仏教)とでは似て非なるものだが、hintにはなったろう。
もう一冊、『偶然の本質』(アーサー・ケストラー、村上陽一郎訳)も古書で買った。これは、ニューサイエンスが流行りだした頃に読んだ懐かしい本で、ロシアがまだソ連だった頃、量子力学では、コペンハーゲン派がブイブイいわせていた頃の本で、古書なもんで、他人の持ち物だったワケだから、いろいろ書き込みが入っていてオモシロイ。かつてワクワクしながら読んだなあと、懐かしさで買ってしまった。
悪いクセで、こんなふうにホンは増えていく。三十年前は、「いま、どんな本を読んでらっしゃいますか」というinterviewに「三十冊ほどいっぺんに読んでいるんです。そういう読書の方法しか出来ないんで。で、読むのに疲れたらミステリを読んでます。新人では、島田荘司さんなんか、イイですね」なんてこといってたんだからなあ。齢を重ねるのも悪くはないねえ。
外では呑まず、博打もやらず、女はあちこちのお嬢さんお姉さんに妄想膨らませていれば銭はかからないから、自分の買い物としては本だけということになるのだが、寺山さんの如く「書を棄てよ」ではなく「書はどんどん読み棄てよ」なもんだから、「町へ出よう」といったところで、雪駄履いて、買い物にコンビニやスーパー行くのが好きだし、通院も多いし、なかなか町が巨大な書籍になるということはナイ。昭和の痕跡がないかなあと、キョロキョロとはしているけど。

2020年12月15日 (火)

珍論愚談 6

ニイちゃん、「このミステリーがすごい!」(宝島社)大賞の『怪物の木こり』(倉井眉介・文庫)を買って、なんでかというと、ニイちゃんも、ちょっとacademicなホンには厭きてきたんだもんだから、ミステリでもぼんやり読もうかという魂胆。
で、クマゴロさんが、
「この『木こりの怪物』だけども、どこがスゲエんですかね」
と、やっぱりクマゴロさん、江戸っ子の物好きで同じホンを読んだのでニイちゃんに訊く。
「いわゆる「このミス」シリーズはこういう傾向なんじゃナイでしょうかね。この、あのね、『木こりの・・』じゃなくて『怪物の・・』ネ、これ、もう何回か書き直したらオモシロクなったとはおもいますよ。発想なんかはオモシロイんですから」
とはいうものの、ニイちゃんは遠慮していっているようだ。
「そういやね、あの、タンメンとギョーザの美味いラーメン屋。あそこで常連が餃子でビール飲みながらいきなりマスターに/オレは来年は小説家になるでよ、まあ、売れっ子になってもこの店には来てやるにゃ/なんていいだして、マスター驚いてたねえ。別の席でタンメン食ってたおいらもびっくりしたけど。なんでも、スゴイtrickを考えたらしいんで。それでミステリの新人懸賞小説に応募するからって、まだ一行も書いてないらしいんだけどね」
「そういうひと多いんじゃナイですかね。ミステリはトリック小説だとおもっているひと」
「いや、このクマゴロさんもその口なんだけどね、それからそのtrickでホン書いたのかどうか、知らねえけどね。で、ネットでその、さっきの『木こり・・』いや、『怪物の・・』だったっけ、そのレビュー読んだら、だいたい大きく二つに分かれていて、ミステリ通は文章の稚拙と登場人物の書き込み不足と、なんつうか、けっこうsevereなんだよナ。ミステリと縁遠いひとは、スラスラ読めるホンだったんで、何のハナシだったのか、読んだアトから忘れたけどオモシロカッタっていってるね」
「そういうホンでしたね、確かに。登場人物がstereotypeでしたね」
「けど、ここもこのクマゴロっておいらは、ぜんぜん性格付けというか、characterが統一されてナイんじゃねえのかな」
「いいんですよ、ここはテキトーがmottoですから。あの『怪物・・』もラノベあたりで書いたほうが良かったんじゃないかな。しかし、レビュー諸氏は、よく読み込んでますね。たいてい同じ見解ですもんね。それに比すると審査員は牽強付会だったんじゃナイですかね」
「そうそう、あれね。どうしても〈けんかいふきょう〉って憶えちゃって変換出来ないのが不思議で不思議で、んで、ニイちゃんはなにかい、ミステリとかは書かないの」
ニイちゃん、ほんとうはもうけっこう書いているのだが、
「もうちょっと、編集者に頭のイイひとが出てきたら書きます」
クマゴロさんは、ふーん、そんなもんかねえといった顔。
「編集者、バカかい」
「さあ、でも、あんまりミステリすら読んでない編集者多いんじゃないかな。COVID-19と同じくらい流行している『鬼滅の刃』って、オレ、読んでナイから、そっちのほうに詳しい弟に~ドンナハナシナンダ~って訊ねたら、聴いた限りじゃ、そういうの『新青年』とか『宝石』、その後じゃ、国枝史郎さんとか、近いところで風太郎さんとか、もうすでに在るんじゃないかなという気が、いや、読んでもいないのに、そういうこといっちゃダメですね。弟のハナシ聴いたぶんには読む気も無くなったけど」
「『新青年』『宝石』、うーん、知らねえナァ」
ハッキリいって、ミステリ、つまんなくなったぞっ。東野圭吾も初期は普通の本格、書いてたんだけど、下手だったなあ。すぐに「ワカル」の。けど、『秘密』は、あれはスゴイとおもいますよ。映画も良かったし。でも、あれだけかな。物理学者の探偵、なんだっけ、ガリレオだったっけ、あれ、あのひと物理学の知識がナイというのはよくワカッタ」
まあ、あんまり他人を貶すのもどうかとおもうし、ここらで、幕。

2017年1月24日 (火)

『月山』読後感

 

ご当地では日曜日の11時だったか、アットFMで作家の小川洋子さんがpersonalityをやってらっしゃる、ちょっと長ったらしいタイトルなので、いつもそれは聞き逃すのだが、内容は、つまり、小川洋子さんお薦めの読書、一冊。私はかけ流しなので、気にとまったものだけは聞くんだけど、今週は森敦さんの『月山(がっさん)』を途中から聞いて、といっても、しっかり聞いたワケではないのだが、ふと、読みたくなったので、アマゾンの古本マーケットに注文、読んでみた。

これは記憶にある一冊で、というのも、森敦さんが、これで芥川賞を受賞されたとき、六十二才だったからで、そういう年齢のひとも芥川賞って受賞するんだと、当時、そんなことを思ったけど、当時は興味がなくて、読まなかった。

此度、読んでみたくなったのは、なにやら番組内での解説が、生と死についてで、全体、よくワカラナイところが面白いということだったからで、そういうの好みだから。

長編というより、中編に近いものだったから、それに河出書房新社の単行本は活字が大きくて読みやすかったし、読めない漢字はテキトウに読んだから、一日で読めた。

で、やっぱり私は戯曲、劇作のほうに進んで良かったと思った。こういう小説は、善し悪しがワカラナイ。正直にいえば、これは折口信夫(これ、しのぶ、と読みます)の模倣で、とはいえ、圧倒的に折口信夫のほうがオモシロイ。まあ、折口さんはどちらかというと、古典エンタメだからなあ。

リアルタイムで読んでいたら、まったく読後感は変わったろうと思うのだが、この手のcategoryは、すでに日本のcomicに凌駕されていると思う。こういう感触のマンガは、ある程度、いまの日本では量産されていて、かつ質のイイものも多い(はずだ)。

私の読み方が誤読だとして、いうと、『月山』は、オチが悪い。こういうふうに落とす、決着させるか、とガッカリしたワ。それと、これは著者が何十年も放浪生活をおくった経験をもとに書かれているのだろうけど、そういうものは、当人(作者)は実際に目にしてきたものだからスイスイいけるのだが、読者としては、edge(輪郭)の鈍いspotlightの中の像を観るようで、私の脳髄ごとき想像力では、なかなか全体と部分の像が〈美しく〉きりむすんでくれないのだ。スカ屁のような風太郎さんを読んでいるようで、この小説を味わうほど、まだまだ私は成長(成熟)していないようだ。セロファン菊の女にしても、situationの描写とその女との関係の描写が、「おっさん、これは、古い、くさい、安い、の三拍子や」といいたくなるのだ。

これねえ、いっそのこと、近藤ようこさんが、マンガにしてくれたらなあ、と願う次第。

2013年8月 7日 (水)

『隻眼の少女』読後感

ご注意]本格ミステリの感想ゆえに、完全にネタバレとやらになっている。未読の読者には、以下の文言を読むことはお勧めしない。

『隻眼の少女』(文春文庫・麻耶雄高)を書店で選んで手にしたのは帯に「日本推理作家協会賞&本格ミステリ大賞 ダブル受賞」とあったからだ。私自身のミステリ狩猟は島田荘司氏で殆ど終わっていて、その後の「新本格派」「第三の波」だったっけ、そういうふうに称される作家の作品はあまり知らない。ということもあって、綾辻行人氏、北村薫氏、京極夏彦氏の作品は幾つかしか読んでいず、その後の新人作家(作品)は、まったくという程知らない。よって、要するに、いまの若い作家のお手並み拝見という気分で手にしたのと、もちろん、私だってミステリは戯曲も小説も書いていたので、どの程度のqualityがあんのかなと、自分の作品と比較するために、いっちょ読んでみるかという気まぐれが大きい。
この作品は、いわゆる「ノックスの十戒」第7項の[変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない]をミステリのルールとするならば、あきらかにルール違反だし、「ヴァン・ダインの二十則」の第2項[作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない]と第9項[探偵役は一人が望ましい。ひとつの事件に複数の探偵が協力し合って解決するのは推理の脈絡を分断するばかりでなく、読者に対して公平を欠く。それはまるで読者をリレーチームと競争させるようなものである]に抵触している。
とはいえ、これらは古典ミステリの上での話でしかなく、というか、古典中の古典、本格ミステリのpioneerの『黄色い部屋の秘密』(ガストン・ルルー)においても、すでに破られているといってもイイ。つまり、新しいミステリは、大袈裟にいえばこの「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの二十則」の裏を極めて論理的に描くことによって、そのエンターティンメント性を打ち出すかにかかっているというても過言やナイ。
そういう点においては、この作品の果敢ともいえる挑戦は成功している。
けれども、私はこの作品を読んだが、正確にいうと、読んだのは殆ど話体部分(「」の中にある会話、対話、語り)だけで、文章体を読むのは、あまりにも下手(というかprototype)に過ぎて面倒だった。話体だけでも情報は得られるし(というのは、話体があまりに説明的だということなのだが)、文章体で書かれていることが話体で繰り返されたりというふうで、好みではなかったからだ。
で、最初の事件が起こったところまでを読んだ時点で、嫁に「この探偵の少女が犯人なんてことはないよな。そんな感じなんだけど、それならオモシロイかも知れないけど」と漏らしている。さらに三分の一あたりで、犯人は探偵の隻眼の少女か、その父親との共犯(この父親は途中で殺されるので、ミス・ディレクションされてしまったが)、つまり、これは隻眼の少女が母(これも隻眼の探偵だった)を継ぐためのテストなんじゃないかと指摘はした。これは勘でいったのではナイ。探偵の事件へのスタンスが、フィールド・ワークをこえて、フィールドに入り込み過ぎていること。最初の事件の推理以降の探偵の推理が極端に遅い理由が、事件の勃発を防ぐというよりも、事件を待機しているに過ぎること。大口を叩くわりには、推理が素人っぽくて、不自然な感じがすること。脇役の種田静馬がワトスン役としては、どうしても不適当で、彼が何か重要なファクターを持っていると思われるのに、作者も探偵も、そこに深く言及しないこと。などが挙げられる。
しかし、犯人の真の目的が父親殺しで、その動機が最も後半に語られるのは、これはいくらなんでもフェアではナイ。
正直なところ、私はちょっと安堵している。もちろん、私の書いたミステリ『ぶらい、舞子』(小峰書店)やミステリ劇『踊子』のほうがオモシロイからというのがその理由だ。よく出来ているとはいえ、『隻眼の少女』はヒマなぼんぼんの趣味程度だと思う。

2012年7月 3日 (火)

『大幽霊烏賊~名探偵面鏡真澄』感想

「異能の乱歩賞作家による驚愕の精神医療ミステリー」というキャッチと、昭和のはじめ、日本で最初に出来た専門精神病院で起きた凄惨な事件、という帯の文句に乗せられて買ってみたが(講談社・2000円・ハードカバー)、黴の生えたつまらんミステリだった。3ページほど読むと、仕掛けはもうワカルのだが、要するに「まとまり」が悪い。そういう仕掛けでなら書き方はあったろうが。昭和のはじめはいう縛りがあるから仕方ないとはいえ、アインシュタインの相対性理論の応用も下手だとしかいいようがナイ。おまけに、もっとも重要な奇怪な出来事のタネがアホくさい。イイカゲンにしろよ、いいたくなる。574ページの長編なのだが、無駄がありすぎる。肝腎の「烏賊」がまたクダラナイ。読了したときのfrustrationをどうしてくれる。

2011年2月24日 (木)

マスクと読書

二カ月ほどの名古屋マンスリーマンションでの生活は、それほど退屈なものではなかった。夜は稽古だし、帰ってきてからは、風呂に湯が入る1時間20分もの長い時間(なんしろ、古い風呂なもんで、チョロチョロと水道から湯をはって、さらに追い焚きするとそれくらいかかるのだ)や、朝ミスドでコーヒーをやってから、昼に飯、それから夕方に出かけるまで、特に飲む打つ買うの趣味のナイ私は、近所に名古屋ではけっこう名のあるパチンコ店が三店あるに関わらず、横目にはみながらも一度もそのドアをくぐりはしなかったし、歓楽街にあるゆえ、飲み屋も豊富なのだが、外で飲む習慣がナイので、ポツポツと、独り、暗い酒を飲んでいるか、マスクをしながら読書をしていた。これも、近所にけっこういい書店があったので、二日に一度は出かけては、ひさしぶりに最近のミステリを買って読んだり、こういうのも閉じ籠もりというのだろうなと、マスクをしながら(くどく書くが、外に出るときははずすのだ。何故なら、借りてもらった住居は、ハウスダストがひどく、マンションとはいえ、ふつうのアパートの結構で、塗ったばかりらしい壁からの白い粒々が、カウチの前の机に点々と、拭いても拭いても、1時間ほどすると味の素をふりかけたように積もってきて、これはヤバイと、防塵マスクをしながら)本を読んでいたのだ。ミステリのことは、また次の機会に書くが、これはいい買い物をしたと思った書籍は、『東京大学で世界文学を学ぶ』(辻原登・集英社)と『量子の社会哲学』(大澤真幸・講談社)で、両方とも、いろいろと興味深いところが多々あった。前者は、文学知らずの私にとっては、「へーえ、文学というものはオモシロイもんなんだなあ」という感心と、スロフトの第2回公演用の戯曲を書く上でのこの上ないmotivationになった。後者は、その一部をチャッカリ『ゴーシュの夜の夜』の舞台美術の参考にさせて頂いた。前者は殆ど門外漢なので感服しきりであったが、後者は、やはり、量子力学についての誤解がみられた。それ以外というか、援用においてはかなり好奇心をそそられる、冒険的な内容だったのだが、著者は、社会学が専門の方なので、当然といっていいほどの誤解があるのだ。これは、おそらく参考にされた物理学の書籍自体が間違っていたに違いないと思う。具体的にいうと、量子現象における「遅延選択実験」についてなのだが(この著書では「観測」となっているが、正確に物理学的にいうと「測定」)、この量子の遅延的なふるまいについては(波動となってスリットをくぐったとたんに測定すると、また粒子になるというもの)著者が書かれているような「観測者」が関与する余地は一切ナイ。量子力学では、量子の遅延作用についても「完全に記述」する。そもそも、量子力学においては、「観測者」の入り込む部分はまったくナイ。観測者と量子とは何の関係も持たないのだ。従って「観測者がみた瞬間に波は粒子となる」というふうなことは生じない。それが「あたかも観測者を裏切るように」ということもなければ、「まるで量子のほうに[知]があるように」ということもナイ。metaphorとしては、オモシロイが、事実はそうではナイ。しかし、そういう錯誤を差っ引いても、この著作はかなり圧倒されるオモシロさがあった。こういう知識の積分のような本は大好きである。前者においては、現実、metaphor、fictionとはなんであるかということを、突きつけられるように考えさせられた。スロフト第2回作品の『この夜の果てへ~二人だけのドグラマグラ』は、ペーパーワークで、その威勢を借りて書かれたような作品だ。(公演は来年初頭ですが)。防塵マスクのおかげで、ひどくはならなかったが、未だに気管支の具合はよろしくナイ。

2010年10月 7日 (木)

東野圭吾を読む

いま平積みのミステリ作家東野圭吾を読んでみた。映画(原作)では「秘密」が面白く、よく出来た作品だが、あとは、直木賞作品も含めて、みなダメだという感想だ。そこで90年代のもの、最近文庫になったのを2冊。かつ、ミステリ作家の手並みのワカリヤスイものを選んだ。『仮面山荘殺人事件』『ある閉ざされた雪の山荘で』。いわゆるミステリの代表パタンだ。前者は5幕中、2幕で、物書きの同業者として、犯人と構造がわかったが、この作品には、それ以外にひじょうに優れたところが、ひとつ存在して、これは最後までわからなかった。アトは夢落ちのようなものだ。後者は前者に比べると、えらく単調で、なるようにして終わる。やや退屈というふう。けだし、何れもライトで読みやすい。読者サービスなのか、これくらいのものがちょうどイイんだなあ。

2009年8月16日 (日)

朝のユリイカ

今朝方、起き掛けふいに、ああそうか、いま躁の領域に入ってるんだと了解。抗鬱剤を3錠から1錠にしていたその1錠も服用をやめる。そいで、ゆんべ、あんな長文のaggressiveな文章ここに書いたんだなあと、納得。あれから、やはりやや興奮して、鎮静のために寝床で読んだのが、自由律俳句の『カキフライが無いなら来なかった』(幻冬社・せきしろ×又吉直樹)なんだけど、これがオモシロイ。せきしろさん一句め・・「落ちた歯磨き粉ここで一番白い」・・又吉さん一句め・・「二日前の蜜柑の皮が縮んでいる」・・、ということで、すぐにマネをして一句・・「いつもワカラナイあなたの怒る理由」・・これは私に向けた奥さまのコトバをほぼそのまま。次のオリジナルの一句も奥さまにいわれたことをヒントにしているのだが・・「ロマンチストただし二流私の肩書」・・で、石川美南さんの『夜灯集』も届く。最初の一首だけ読む。・・「人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす」・・、モノクロームの写真(橋目侑季)も素晴らしい。、そうそう、前述の『カキフライ・・・』の中の写真も私がよく撮るような風景写真でgoodよ。終りに一句・・「また流してみたい甲子園のような汗」・・

2009年8月 8日 (土)

そうか、学会

杉田かおるの『杉田』がオモシロイ。(小学館)2005年の出版なので、彼女が結婚で幸せいっぱいのときに書かれた本である。もちろん、斎藤美奈子さんの『文芸誤報』からの書評を読んで購入。だいたい、斎藤さんと、豊崎由美さんと、かつては米原万里さんをおさえておけば、女性評論はアトはカスみたいなもんで(というか、党派的で)、どうでも良い。『杉田』は「出生の秘密から結婚生活まで」になっているが、それに触れられているのはごく僅かでしかない。では、何について書かれているかというと、彼女の〔信仰〕について書かれている。彼女は法華経(日蓮正宗)の信者である。で、創価学会のことや池田大作のことについても、さらには、その裏側、黒幕についても書かれているのであるから、斎藤さんの書評によると、この本は宣伝出来なかったろうということなのだが、そうだろうな、これだけ内幕を書かれたら創価学会もかなりの圧力をそこいら中にかけたろう。それもそれなりにというか、戦慄するくらいオモシロイのだが、私のカテゴリーにおいては、彼女の演技術の習得の話や、バラエティに出演するための戦略など、芸能人、というより演技者としての杉田かおるには極めて興味を引かれる。役者は、一度読んでみて損はナイ。まあ、学会員は手にしないだろうけども。しかし、日本共産党も創価学会もけっきょくは、組織としての堕落と腐敗という点では目くそ鼻くそなんだなあ。

2009年4月26日 (日)

ひさしぶりになるが

池田晶子さんの『死とは何か』(毎日新聞社)、で、よくもまあ同じ内容で、さまざまな出版社の雑誌に書いて原稿料を稼いだもんだなあと冗談抜きで感服しております。とはいえ故人であります彼女の持ち味は、文中になんや知らんひとの名前を入れないということ。これ、インテリのどなたさんも最新のアメリカの哲学者○○によるととかやるのよね。香山リカせんせなんかはその最たるもので、何処ぞかの精神医学者の能書きが必ずはいってるもんな。ですからそのぶんはエライなと思いますわ。で、基本的には独我論で、死についてはハイデガーなんですが、全体としてはカントなんだなあと、無学な私が持った感想であります。依って、埴谷雄高論なんか書いてはるし、対談とかしてはっても合点がいくのであります。そりゃあ、おいおいそれを拡張するかと思うようなところも多々あるんですが、また論点論理に矛盾もけっこうあるような気がするのですが、それがなければ発展もなかったろうでしょうから、そこはそれほど突っ込みを入れるべきではナイ。まだ読み切っていないし、もう一冊『私とは何か』もあるので、またつづきはそのときに。

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