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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2017年1月24日 (火)

『月山』読後感

 

ご当地では日曜日の11時だったか、アットFMで作家の小川洋子さんがpersonalityをやってらっしゃる、ちょっと長ったらしいタイトルなので、いつもそれは聞き逃すのだが、内容は、つまり、小川洋子さんお薦めの読書、一冊。私はかけ流しなので、気にとまったものだけは聞くんだけど、今週は森敦さんの『月山(がっさん)』を途中から聞いて、といっても、しっかり聞いたワケではないのだが、ふと、読みたくなったので、アマゾンの古本マーケットに注文、読んでみた。

これは記憶にある一冊で、というのも、森敦さんが、これで芥川賞を受賞されたとき、六十二才だったからで、そういう年齢のひとも芥川賞って受賞するんだと、当時、そんなことを思ったけど、当時は興味がなくて、読まなかった。

此度、読んでみたくなったのは、なにやら番組内での解説が、生と死についてで、全体、よくワカラナイところが面白いということだったからで、そういうの好みだから。

長編というより、中編に近いものだったから、それに河出書房新社の単行本は活字が大きくて読みやすかったし、読めない漢字はテキトウに読んだから、一日で読めた。

で、やっぱり私は戯曲、劇作のほうに進んで良かったと思った。こういう小説は、善し悪しがワカラナイ。正直にいえば、これは折口信夫(これ、しのぶ、と読みます)の模倣で、とはいえ、圧倒的に折口信夫のほうがオモシロイ。まあ、折口さんはどちらかというと、古典エンタメだからなあ。

リアルタイムで読んでいたら、まったく読後感は変わったろうと思うのだが、この手のcategoryは、すでに日本のcomicに凌駕されていると思う。こういう感触のマンガは、ある程度、いまの日本では量産されていて、かつ質のイイものも多い(はずだ)。

私の読み方が誤読だとして、いうと、『月山』は、オチが悪い。こういうふうに落とす、決着させるか、とガッカリしたワ。それと、これは著者が何十年も放浪生活をおくった経験をもとに書かれているのだろうけど、そういうものは、当人(作者)は実際に目にしてきたものだからスイスイいけるのだが、読者としては、edge(輪郭)の鈍いspotlightの中の像を観るようで、私の脳髄ごとき想像力では、なかなか全体と部分の像が〈美しく〉きりむすんでくれないのだ。スカ屁のような風太郎さんを読んでいるようで、この小説を味わうほど、まだまだ私は成長(成熟)していないようだ。セロファン菊の女にしても、situationの描写とその女との関係の描写が、「おっさん、これは、古い、くさい、安い、の三拍子や」といいたくなるのだ。

これねえ、いっそのこと、近藤ようこさんが、マンガにしてくれたらなあ、と願う次第。

2013年8月 7日 (水)

『隻眼の少女』読後感

ご注意]本格ミステリの感想ゆえに、完全にネタバレとやらになっている。未読の読者には、以下の文言を読むことはお勧めしない。

『隻眼の少女』(文春文庫・麻耶雄高)を書店で選んで手にしたのは帯に「日本推理作家協会賞&本格ミステリ大賞 ダブル受賞」とあったからだ。私自身のミステリ狩猟は島田荘司氏で殆ど終わっていて、その後の「新本格派」「第三の波」だったっけ、そういうふうに称される作家の作品はあまり知らない。ということもあって、綾辻行人氏、北村薫氏、京極夏彦氏の作品は幾つかしか読んでいず、その後の新人作家(作品)は、まったくという程知らない。よって、要するに、いまの若い作家のお手並み拝見という気分で手にしたのと、もちろん、私だってミステリは戯曲も小説も書いていたので、どの程度のqualityがあんのかなと、自分の作品と比較するために、いっちょ読んでみるかという気まぐれが大きい。
この作品は、いわゆる「ノックスの十戒」第7項の[変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない]をミステリのルールとするならば、あきらかにルール違反だし、「ヴァン・ダインの二十則」の第2項[作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない]と第9項[探偵役は一人が望ましい。ひとつの事件に複数の探偵が協力し合って解決するのは推理の脈絡を分断するばかりでなく、読者に対して公平を欠く。それはまるで読者をリレーチームと競争させるようなものである]に抵触している。
とはいえ、これらは古典ミステリの上での話でしかなく、というか、古典中の古典、本格ミステリのpioneerの『黄色い部屋の秘密』(ガストン・ルルー)においても、すでに破られているといってもイイ。つまり、新しいミステリは、大袈裟にいえばこの「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの二十則」の裏を極めて論理的に描くことによって、そのエンターティンメント性を打ち出すかにかかっているというても過言やナイ。
そういう点においては、この作品の果敢ともいえる挑戦は成功している。
けれども、私はこの作品を読んだが、正確にいうと、読んだのは殆ど話体部分(「」の中にある会話、対話、語り)だけで、文章体を読むのは、あまりにも下手(というかprototype)に過ぎて面倒だった。話体だけでも情報は得られるし(というのは、話体があまりに説明的だということなのだが)、文章体で書かれていることが話体で繰り返されたりというふうで、好みではなかったからだ。
で、最初の事件が起こったところまでを読んだ時点で、嫁に「この探偵の少女が犯人なんてことはないよな。そんな感じなんだけど、それならオモシロイかも知れないけど」と漏らしている。さらに三分の一あたりで、犯人は探偵の隻眼の少女か、その父親との共犯(この父親は途中で殺されるので、ミス・ディレクションされてしまったが)、つまり、これは隻眼の少女が母(これも隻眼の探偵だった)を継ぐためのテストなんじゃないかと指摘はした。これは勘でいったのではナイ。探偵の事件へのスタンスが、フィールド・ワークをこえて、フィールドに入り込み過ぎていること。最初の事件の推理以降の探偵の推理が極端に遅い理由が、事件の勃発を防ぐというよりも、事件を待機しているに過ぎること。大口を叩くわりには、推理が素人っぽくて、不自然な感じがすること。脇役の種田静馬がワトスン役としては、どうしても不適当で、彼が何か重要なファクターを持っていると思われるのに、作者も探偵も、そこに深く言及しないこと。などが挙げられる。
しかし、犯人の真の目的が父親殺しで、その動機が最も後半に語られるのは、これはいくらなんでもフェアではナイ。
正直なところ、私はちょっと安堵している。もちろん、私の書いたミステリ『ぶらい、舞子』(小峰書店)やミステリ劇『踊子』のほうがオモシロイからというのがその理由だ。よく出来ているとはいえ、『隻眼の少女』はヒマなぼんぼんの趣味程度だと思う。

2012年7月 3日 (火)

『大幽霊烏賊~名探偵面鏡真澄』感想

「異能の乱歩賞作家による驚愕の精神医療ミステリー」というキャッチと、昭和のはじめ、日本で最初に出来た専門精神病院で起きた凄惨な事件、という帯の文句に乗せられて買ってみたが(講談社・2000円・ハードカバー)、黴の生えたつまらんミステリだった。3ページほど読むと、仕掛けはもうワカルのだが、要するに「まとまり」が悪い。そういう仕掛けでなら書き方はあったろうが。昭和のはじめはいう縛りがあるから仕方ないとはいえ、アインシュタインの相対性理論の応用も下手だとしかいいようがナイ。おまけに、もっとも重要な奇怪な出来事のタネがアホくさい。イイカゲンにしろよ、いいたくなる。574ページの長編なのだが、無駄がありすぎる。肝腎の「烏賊」がまたクダラナイ。読了したときのfrustrationをどうしてくれる。

2011年2月24日 (木)

マスクと読書

二カ月ほどの名古屋マンスリーマンションでの生活は、それほど退屈なものではなかった。夜は稽古だし、帰ってきてからは、風呂に湯が入る1時間20分もの長い時間(なんしろ、古い風呂なもんで、チョロチョロと水道から湯をはって、さらに追い焚きするとそれくらいかかるのだ)や、朝ミスドでコーヒーをやってから、昼に飯、それから夕方に出かけるまで、特に飲む打つ買うの趣味のナイ私は、近所に名古屋ではけっこう名のあるパチンコ店が三店あるに関わらず、横目にはみながらも一度もそのドアをくぐりはしなかったし、歓楽街にあるゆえ、飲み屋も豊富なのだが、外で飲む習慣がナイので、ポツポツと、独り、暗い酒を飲んでいるか、マスクをしながら読書をしていた。これも、近所にけっこういい書店があったので、二日に一度は出かけては、ひさしぶりに最近のミステリを買って読んだり、こういうのも閉じ籠もりというのだろうなと、マスクをしながら(くどく書くが、外に出るときははずすのだ。何故なら、借りてもらった住居は、ハウスダストがひどく、マンションとはいえ、ふつうのアパートの結構で、塗ったばかりらしい壁からの白い粒々が、カウチの前の机に点々と、拭いても拭いても、1時間ほどすると味の素をふりかけたように積もってきて、これはヤバイと、防塵マスクをしながら)本を読んでいたのだ。ミステリのことは、また次の機会に書くが、これはいい買い物をしたと思った書籍は、『東京大学で世界文学を学ぶ』(辻原登・集英社)と『量子の社会哲学』(大澤真幸・講談社)で、両方とも、いろいろと興味深いところが多々あった。前者は、文学知らずの私にとっては、「へーえ、文学というものはオモシロイもんなんだなあ」という感心と、スロフトの第2回公演用の戯曲を書く上でのこの上ないmotivationになった。後者は、その一部をチャッカリ『ゴーシュの夜の夜』の舞台美術の参考にさせて頂いた。前者は殆ど門外漢なので感服しきりであったが、後者は、やはり、量子力学についての誤解がみられた。それ以外というか、援用においてはかなり好奇心をそそられる、冒険的な内容だったのだが、著者は、社会学が専門の方なので、当然といっていいほどの誤解があるのだ。これは、おそらく参考にされた物理学の書籍自体が間違っていたに違いないと思う。具体的にいうと、量子現象における「遅延選択実験」についてなのだが(この著書では「観測」となっているが、正確に物理学的にいうと「測定」)、この量子の遅延的なふるまいについては(波動となってスリットをくぐったとたんに測定すると、また粒子になるというもの)著者が書かれているような「観測者」が関与する余地は一切ナイ。量子力学では、量子の遅延作用についても「完全に記述」する。そもそも、量子力学においては、「観測者」の入り込む部分はまったくナイ。観測者と量子とは何の関係も持たないのだ。従って「観測者がみた瞬間に波は粒子となる」というふうなことは生じない。それが「あたかも観測者を裏切るように」ということもなければ、「まるで量子のほうに[知]があるように」ということもナイ。metaphorとしては、オモシロイが、事実はそうではナイ。しかし、そういう錯誤を差っ引いても、この著作はかなり圧倒されるオモシロさがあった。こういう知識の積分のような本は大好きである。前者においては、現実、metaphor、fictionとはなんであるかということを、突きつけられるように考えさせられた。スロフト第2回作品の『この夜の果てへ~二人だけのドグラマグラ』は、ペーパーワークで、その威勢を借りて書かれたような作品だ。(公演は来年初頭ですが)。防塵マスクのおかげで、ひどくはならなかったが、未だに気管支の具合はよろしくナイ。

2010年10月 7日 (木)

東野圭吾を読む

いま平積みのミステリ作家東野圭吾を読んでみた。映画(原作)では「秘密」が面白く、よく出来た作品だが、あとは、直木賞作品も含めて、みなダメだという感想だ。そこで90年代のもの、最近文庫になったのを2冊。かつ、ミステリ作家の手並みのワカリヤスイものを選んだ。『仮面山荘殺人事件』『ある閉ざされた雪の山荘で』。いわゆるミステリの代表パタンだ。前者は5幕中、2幕で、物書きの同業者として、犯人と構造がわかったが、この作品には、それ以外にひじょうに優れたところが、ひとつ存在して、これは最後までわからなかった。アトは夢落ちのようなものだ。後者は前者に比べると、えらく単調で、なるようにして終わる。やや退屈というふう。けだし、何れもライトで読みやすい。読者サービスなのか、これくらいのものがちょうどイイんだなあ。

2009年8月16日 (日)

朝のユリイカ

今朝方、起き掛けふいに、ああそうか、いま躁の領域に入ってるんだと了解。抗鬱剤を3錠から1錠にしていたその1錠も服用をやめる。そいで、ゆんべ、あんな長文のaggressiveな文章ここに書いたんだなあと、納得。あれから、やはりやや興奮して、鎮静のために寝床で読んだのが、自由律俳句の『カキフライが無いなら来なかった』(幻冬社・せきしろ×又吉直樹)なんだけど、これがオモシロイ。せきしろさん一句め・・「落ちた歯磨き粉ここで一番白い」・・又吉さん一句め・・「二日前の蜜柑の皮が縮んでいる」・・、ということで、すぐにマネをして一句・・「いつもワカラナイあなたの怒る理由」・・これは私に向けた奥さまのコトバをほぼそのまま。次のオリジナルの一句も奥さまにいわれたことをヒントにしているのだが・・「ロマンチストただし二流私の肩書」・・で、石川美南さんの『夜灯集』も届く。最初の一首だけ読む。・・「人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす」・・、モノクロームの写真(橋目侑季)も素晴らしい。、そうそう、前述の『カキフライ・・・』の中の写真も私がよく撮るような風景写真でgoodよ。終りに一句・・「また流してみたい甲子園のような汗」・・

2009年8月 8日 (土)

そうか、学会

杉田かおるの『杉田』がオモシロイ。(小学館)2005年の出版なので、彼女が結婚で幸せいっぱいのときに書かれた本である。もちろん、斎藤美奈子さんの『文芸誤報』からの書評を読んで購入。だいたい、斎藤さんと、豊崎由美さんと、かつては米原万里さんをおさえておけば、女性評論はアトはカスみたいなもんで(というか、党派的で)、どうでも良い。『杉田』は「出生の秘密から結婚生活まで」になっているが、それに触れられているのはごく僅かでしかない。では、何について書かれているかというと、彼女の〔信仰〕について書かれている。彼女は法華経(日蓮正宗)の信者である。で、創価学会のことや池田大作のことについても、さらには、その裏側、黒幕についても書かれているのであるから、斎藤さんの書評によると、この本は宣伝出来なかったろうということなのだが、そうだろうな、これだけ内幕を書かれたら創価学会もかなりの圧力をそこいら中にかけたろう。それもそれなりにというか、戦慄するくらいオモシロイのだが、私のカテゴリーにおいては、彼女の演技術の習得の話や、バラエティに出演するための戦略など、芸能人、というより演技者としての杉田かおるには極めて興味を引かれる。役者は、一度読んでみて損はナイ。まあ、学会員は手にしないだろうけども。しかし、日本共産党も創価学会もけっきょくは、組織としての堕落と腐敗という点では目くそ鼻くそなんだなあ。

2009年4月26日 (日)

ひさしぶりになるが

池田晶子さんの『死とは何か』(毎日新聞社)、で、よくもまあ同じ内容で、さまざまな出版社の雑誌に書いて原稿料を稼いだもんだなあと冗談抜きで感服しております。とはいえ故人であります彼女の持ち味は、文中になんや知らんひとの名前を入れないということ。これ、インテリのどなたさんも最新のアメリカの哲学者○○によるととかやるのよね。香山リカせんせなんかはその最たるもので、何処ぞかの精神医学者の能書きが必ずはいってるもんな。ですからそのぶんはエライなと思いますわ。で、基本的には独我論で、死についてはハイデガーなんですが、全体としてはカントなんだなあと、無学な私が持った感想であります。依って、埴谷雄高論なんか書いてはるし、対談とかしてはっても合点がいくのであります。そりゃあ、おいおいそれを拡張するかと思うようなところも多々あるんですが、また論点論理に矛盾もけっこうあるような気がするのですが、それがなければ発展もなかったろうでしょうから、そこはそれほど突っ込みを入れるべきではナイ。まだ読み切っていないし、もう一冊『私とは何か』もあるので、またつづきはそのときに。

2009年4月15日 (水)

パンツをはかせ過ぎ

『演劇学の教科書』は二段組で600ページをこえるのだが、どうしてフランス人というのは、こういうもったいぶった作文をするのだろうか。(いい換えれば持って回った表現ですね)こんなもの一段の新書でやっつけられるのではないかと思ってしまう。おまけにワカラナイコトバが出てくる。「演戯」などはその最たるもので「演技」というコトバは登場しない。これは戯曲を演じるという意味なのだろうか。日本語訳になっていないのが「ドラマトゥルク」というもので、これは何かの役割らしいのだが、舞台監督でもナイ。偶然、CDで桂文珍さんの『愛宕山』を聞いていて、適訳を思いついた。「太鼓持ち」である。こういうふうに置き換えると、あまり支障なく読める。なるほど、そういう役割の人間が演劇現場に一人いてくれるとありがたい。で、エクリクチュールは書きコトバだったよなと、池田晴彦氏の『構造主義科学論の冒険』を取り出したが最後、またまた関係ナイところ(アインシュタインと量子力学のところだが)を座り込んで読んでしまった。こういうことを一日続けられればいいのだが、あいにく視力が持たない。ミオピン(調節機能改善点眼剤)さしつつ、だましだましで2時間かなあ。とにかく『演劇学の教科書』の悪文については、訳者は国語の教科書を先に読んだほうがいのではないか。などと、自分の頭の悪さはいつもどおり棚上げして、思うのである。

2009年3月13日 (金)

春の名のみの

旧暦ではまだ二月だ。寒いのはアタリマエだ。きょうも冷たい雨が午後から降り出して、泳ぎにいこうかという気分を屈させてしまった。もうすぐ彼岸の入りだというのにまだ風が寒そうに鳴いている。おっつけやることなしの身上にはありがたく、次々と続けて読んでいるマンガが書店の単行本のコーナーに積まれた。『プルートウ』は第7巻にして、浦沢直樹は何が面白くてこの話を描いているのかワカラナクなってきた。いままで何のためにか執拗に、その姿を現すのを避けさせていたプルートウが銅鑼の音ひとつで鍬形虫のようにポンと出てきてしまったのは、プロットとしては手抜きではないのかと洒落にもならない。で、今度は同様にボラーに重点が移された。同じことの繰り返しである。何の迫力もナイ(作者がわはそうは思ってナイのだろうけど)エプシロンとの戦い。エプシロンのキャラがこれまた失笑ものとしか思えない。子供を出すな。ましてや孤児。いったい了見が狭いとはまさにこのことだ。『あずみ』が48巻で一応の幕。ともかく強すぎる主人公であるのだから、必ずあっさり勝つことはワカッテいるので、その敵方との戦いをこちらは周到に準備している。そのことによってよくぞまあ、マンネリを切り抜けたと思う。敵方のキャラクターを描き込んだ労の成果だと思う。もう何年ものあいだ、推薦人として手塚治虫賞に推薦を繰り返してきたが、こっちは労、報われずだった。あだち充『クロスゲーム』は新刊を読む度に、主人公の樹多村光(きたむらこう)の名は、私から拝借してんじゃないかと、独り善がりの憶測。こちらはやはり野球というイチバンのグラウンドで、余裕綽々の展開である。ただ、その余裕がやや退屈に変じてしまっているのは否めない。2巻までの緊張感をどうにかとりもどして頂きたいものである。かわぐちかいじ『ジバング』は雑誌のほうは知らないからどうなっているのか39巻めまでは不明だが、私は原爆は爆発させるべきだと、で、どうすんだ、のほうが面白い気がすんだけど。沙村広明『無限の住人』はちょっともたつきすぎだろう。主人公の不死を暴くあたりのグロテスクから株価は下がっていると思える。つまり、そんなことに(ものに)読者は興味なんかなかったんじゃないのか。・・・さてまた呆然と夜がくる。

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