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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2023年5月 2日 (火)

時世録・8

『核戦争、どうする日本?「ポスト国連の時代が始まった」』(橋爪大三郎・筑摩書房)は大ちゃん先生、いや、橋爪老師の他の著作を識らないと、/何、これ、昼間は街宣車に乗って、夜は街の辻で卜占ヤってるひとが書いたのケ/てなふうになることはまずマチガイないシロモノ(のようなホン)なのだが、つまり、「ボケてんじゃねえぞっ、老いも若きもネィチャーを守れっ、日本が危ないっ」という警告、オルグ、叱咤、檄文。とはいえ、大三郎老師の論理についつい引き込まれて、「そう、そうなんだよなあ」とついつい頷く。オレ、台湾好きだしなあ。イイ国だよ。
これ一冊で日米安保から日本国憲法9条の関係、左翼intelligentsiyaの嘘、ノーテンキ、何故、日本は核武装しないほうがイイのか、たいていワカリマスわ。ただし、論理において、テキ屋よろしく「ひとの命=人生」はエポケー(カッコに括ってある)してあるので、その点は注意するのと、「自衛の方法は攻撃しかナイ」というこれまでの戦争論の域は出ていないことがそこは社会学者のスキームなのかなあともおもえます。私なんざ、いまなお太陽フレーム作戦(電磁気嵐の活用)に拘っている類ですから、果たして士気盛んにしても長射程巡航ミサイル1000発で台湾が守れるかとうかは少々疑問なんですが、大三郎老師の論理展開にはかなうワケなく、といいますか、このホンの書き方を老師自ら「太字の部分は命題として扱う」と述べてらして、つまり自問自答ではなく自問事案(自案)、で、さあどうする、という迫り方だから、うーむなるほど、とかんがえざるを得ない。
とはいえ、日米安保、9条、自衛隊、集団的自衛権、ひいては西側連合の設立と、夢は大きな少年剣士、赤銅鈴乃助(これはあだ名、本名は金野鈴乃助なんだなあ、知らんかったろ)にするすると理解が及んでいくところなんざ、さすが大三郎老師なんですワ。
さらに、とはいえ、日本に投下された核、つまり原爆は攻撃兵器というよりヒロシマ、ナガサキにおいての「実験的」要素が大きかったことについてはまったく触れられておりません。アメリカ(トルーマン大統領だったっけ)の言い分は「米兵の損害を減少させるため」なんですが、あの時点ではもう勝敗はワカッテいたのだし、米兵つったって、まず上陸してきたのはカラッドで白人じゃナイし、原爆の製造を提言して後に悔やんだアインシュタインも、べつに悔やむことはナイのだ、だって、原爆は「神の名において」投下されたのだから、殺した述べ人数でいくと、中世からこっち最も大量に殺人をヤっているのはイエスに従ったキリスト教バテレンのカトリックやらクリスチャンやら下座のものども。プーチンだってロシア正教会の信者なんだからな。
にしても、ひさしぶりに活字を読みました。たいへん、勉強になりました。腰が痛くなりました。

2022年8月18日 (木)

Sophism sonnet return 05

さらに、云うなら

/マルクスの理論は普遍的な真理ではなく、単なる時代的産物に過ぎなくなって、時代の変遷とともにいつかは廃棄されねばならぬ運命を背負っていたのである。その結果、マルクス思想は、その当時においてはだいたい適合するものであったが、今日に至っては、暫時歴史的遺物と化しつつある。/
と、これはまるでフーコーが語りそうなコトバであるが、前回と同じ『新しい共産主義批判』の著者による同書の「マルクスの人間性」の結びにあたる。著者は、マルクスのどこにも無慈悲や残忍性は見出せないとして、マルクスの共産主義の動機は人道主義的なものであったと見解している。ただ、革命の〈方法〉、即ち「暴力革命」からの演繹的な(あるルールに従っての論理展開)方法論が誤謬であったために、マルクス共産主義はサタンのものとなった、と、まあ、そうしなければ「原理」を用いてのマルクスへの批判にはならないのだが、この著者は『資本論』はもちろんのこと、マルクスのものでは『経済学批判』その他の著作にも精通しているに及ばず、当時、あるいはマルクス以前の経済学者(リカードやアダム・スミス)などの経済学なども学習した痕跡があることから、誰だかはワカラナイが、かなり頭脳明晰な経済学研究者だったことが、ワカル。特に商品の二つの価値「使用価値」「交換価値」に対する批評にいく手前では、「生産手段」「労働力」「労働対象」「必要労働」「剰余労働」et cetera(その他)に対しての説明を怠ってはいない。ついでにいえば、数理経済学てなものをヤっている帝京大教授(よく私のブログに出てくるintelligentsiya)は、「使用価値」「交換価値」のチガイを識らない。「使用価値」の高いもののほうが「価値」が高いと平然と応える。それが数理経済学なのかと揶揄すると、マルクスは読んだことが無いが、マルクスなど識らなくてもどうでもイイ存在だという返答だったが、/商品の価格は「市場」で決まるんです/と彼の新書(論文)で、スーパー・マーケットで悩む買い物客女性に説いてきかせるくだり(これは、誤謬なのだ)を読んだときは、哀しくなった。価格と価値の区別すらどうでもイイらしい。
神さんとか、サタンとか、「原理」とかを消去してしまえば、この『新しい共産主義批判』は立派な共産主義批判だといえる(正しいかどうかは別ですが)。この後、ヘーゲルの弁証法批判からレーニンの『国家と革命』批判へと筆は進むのだが、それらへの感想は、また「さらに、さらに、云うなら」で書いてみたい。ともかく齢七十にして、まだヤルことがあるので、若いときのように横道にsoleilして「太陽がまぶしい」などといっている暇がナイからな。銭もねえし、こっちは稼がないといけない。
『新しい共産主義批判』について一つ二つ書いておくと、マルクスの「価値説」は「価値形態」として商品を捉えたもので、この「形態」というところは重要なのだ。「唯物論弁証法」だから、あくまで「価値形態」なのだ。(私は、演劇論を組み立てているとき、これを「価値表現」といいなおした)。さらにマルクスは/経済学をヤルことが目的ではなく、ニンゲンを捉える場合に、まず経済学からと、出発しただけであって/、それは「存在」というものを捉えるのにハイデガーがまず人間の存在から始めたのと同じ。どちらも途上、未完成のシロモノだということは、前提として識っておくべきだ。
ともかくも、与党(といても一方は学会だからしゃあないけど)の若手議員などは、Q統一教会と耳にしてビビっていないで、あるいは中堅は居直ってんだけど、このテキストは古書店巡りしてでも捜して読んでおくべきだ。(どうせなんのこっちゃで読めないだろうとはおもうが、ムツカシイナと思うだけでもイイ)
しかし、これだけのシロモノ(テキスト)がありながら、何で壷売りなんかになったんやろなあ。この謎は未だ解けない。

2021年3月25日 (木)

珍論愚談 27

カール・ポパーは「反証出来ないものは科学に非ず」と、豪語した。これは「反証法」というふうに「弁証法」に倣って称されているが、論理のlevelは「弁証法」ほどではナイ。どころか、『科学哲学』などというけったいな科学信仰学派まで生じさせてしまった。さらに「反証法には反証出来るのか」というクルクルまでつくってしまった。
ポパーという哲学者は、かのヴィトゲンシュタインとの論争で、頭に血がのぼって火掻き棒を振り回したという逸話があるくらいだから、かなり頭の熱い思想家ではあったようだ。つるっ禿であったとも聞いている。
で、と、飛鳥新社から緊急出版(というのはつまり、ホテルでの録音缶詰執筆なんだろうけど)された『COVID-19 新型コロナ本当のところどれだけ問題なのか』(木村盛世・著)を緊急に読んでみた、半日ばかりでゴロゴロしながらあれこれの休憩時間に読めたので、読むには楽なホンだった。私はテレビは観ないのだが、著者はメディアのほうではけっこう発言されているようで、アマゾン・レビューの☆一つの方が「喋ったことをまとめただけ」とコメントされていた。たしかにそんなふう感じがした。さかんにエビデンス(科学的根拠)を述べてらっしゃるにしては、カール・ポパーが読んだら火掻き棒を振り回したんじゃナイかなとおもわせたナ。反証のしどころがナイのだから。要するに「COVID-19についてはわからないので、ワカッタふうなことをいうメディアや専門家はアカン。わかるように努力していかねばならない」というのが、概要で、しかし本質論と情況論の区別も曖昧なら、情報の領域も、私は新聞の電子版(日経・毎日)しか読んでいないのだが、そこで読んだこと以上のことは特に書かれておらず、そこより古い情報もあったしなあ。まあ、菅総理や河野厚労相をヨイショしてらしたから、河野さんが総理になられたら、民間から登用されるかも知れない。略歴に、「医師」とあったが、専門科目は記されていない。こういうところがほんとうの「医療崩壊」なのだ。なんしろ、医者は坊主の次に嘘つきだからなあ。ジョンズホプキンズ大学出身で疫学をヤっていらしたから、それなりの知識はあるんだろうけど、履歴に「作家」ともあったが、それにしては文章がお粗末としかいいようがナイ。これはまあ、語ったことのテープ起こし原稿だからだろうけど。帯に大きくビートたけし老師の激賞があったが、いくら毒舌で有名でもたけしさんは芸人だぜ。坊主の次に嘘つきなのは「芸人」だからな。(作家のほうが先ダッタかな)
とにかく「わかりません」が多過ぎる。それが知りたいから購入した我々大衆としては、こう結論するしかナイ。「なんや、けっきょくワカラヘンのかいな」☆一つです。
著者の結語としては、「獲得免疫の抗体に依る集団免疫状況を待つしかない」ということになっている。(と、読めたけど)。ただ、この結論は著者のエビデンス(信条)というより、なんとなく心情に近いナァ。心情は情況であっても現象に近い。つまり表現(image)なのだ。ということで、著者のイメージしているCOVID-19についてはワカッタんだけど。
私はべつに好んでCOVID-19を学習しているワケではなく、この春と秋に二人芝居をするので、高齢者だし、ワクチンを接種しようかどうしようかと悩んでいるだけで、だって、相手がいるからなあ(ワクチン接種しても、感染はさせる確率はけっこうある)。だから、エビデンスを数多く酸っぱくいわれても、マスクの効能について「わからない」とあるのには頭を抱える。いまのところ、マスクの効能についてくらいしかCOVID-19の確かな論議はなされていないんじゃないのかな。私しゃ、CDCに賛同しているほうだけど。それに、治癒者(退院者)の多くは著者のいう効能の「わからない」クスリの複合処方で治ってるんだから、そこんとこどうなのよ。ああでもナイこうでもナイのはワカルけど、もちっと自身のご意見を自信を持って云いなはれ。他人のコトバを引用するばかりでは、それこそ、他人の褌でなんとやらでっせ。マチガッテいたら、正せばイイのだ。それが科学(エビデンス)なんだから。このホンに対する結語は、やつがれといたしましては「医学ジャーナリズム」levelでした。
ではあるが、舞台美術を工夫することで、ソーシャルデスタンスを保ちつつ作品の内容に沿ったミザンセーヌを思いついた。やっぱワクチン接種は日本製が出来るだろう再来年を待とう。


2020年12月23日 (水)

無学渡世・四

アマゾンで本(書籍ともいうが、本屋はあっても書籍屋はナイ)を買っていると、ときどき、よく調べもせずポカをやらかして、しかしこのポカがなかなかのポカ買いになることもある。『老子講義』(五井昌久)と『道教思想10講』(神塚淑子)をとりあえず買ったが、後者はまだ開いていないので置くとして、前者は、新興宗教の開祖が突然閃いて書いたというシロモノ。にしては第一講で「道に囚われてはいけない」とえらくマトモなことを粛々と述べ始めたので、こりゃ、なかなかのものかなとおもったら、二講過ぎあたりから〈宇宙神〉というのが出てきた。そこで、ありゃあ、と、この書籍の根本教義がナンデあるかに気づいたのだが、この手のホンも意外にオモシロイところはあるのだ。まず、鬱病のとき、こういうのを読むと、いちいち「莫迦に出来る」ということで、やや、鬱が和らぐ。聖人とはなんであるかなど高校倫理のようなものを説いているかとおもえば、釈迦などは宇宙人の存在なんかは当然の如く知っておりまして、てなふうに大真面目にいわれると、それには私たちは/反論出来ない/ことにも気づくという按配で、だいたい浄土系は阿弥陀如来なんてのを/創造しなければならなかった/という論理的必然があるもんだから、まあ同じことで、大乗というのは危ういところで新興宗教と見做していいんじゃないかと脳髄が傾斜する。宇宙神も阿弥陀如来も髪の毛一本ほどの差しかナイ。少なくとも、浄土系は仏教史を辿っていかなければ、単なる新興宗教でしかナクなってしまうという勉強になる。
まあ、そういう与太は別にして、釈迦牟尼は老子の思想にはかなり影響を受けたのではないかと、もう三十年ばかり前にそう考えたことがあるのだが、〈空〉については両者(老子の思想と仏教)とでは似て非なるものだが、hintにはなったろう。
もう一冊、『偶然の本質』(アーサー・ケストラー、村上陽一郎訳)も古書で買った。これは、ニューサイエンスが流行りだした頃に読んだ懐かしい本で、ロシアがまだソ連だった頃、量子力学では、コペンハーゲン派がブイブイいわせていた頃の本で、古書なもんで、他人の持ち物だったワケだから、いろいろ書き込みが入っていてオモシロイ。かつてワクワクしながら読んだなあと、懐かしさで買ってしまった。
悪いクセで、こんなふうにホンは増えていく。三十年前は、「いま、どんな本を読んでらっしゃいますか」というinterviewに「三十冊ほどいっぺんに読んでいるんです。そういう読書の方法しか出来ないんで。で、読むのに疲れたらミステリを読んでます。新人では、島田荘司さんなんか、イイですね」なんてこといってたんだからなあ。齢を重ねるのも悪くはないねえ。
外では呑まず、博打もやらず、女はあちこちのお嬢さんお姉さんに妄想膨らませていれば銭はかからないから、自分の買い物としては本だけということになるのだが、寺山さんの如く「書を棄てよ」ではなく「書はどんどん読み棄てよ」なもんだから、「町へ出よう」といったところで、雪駄履いて、買い物にコンビニやスーパー行くのが好きだし、通院も多いし、なかなか町が巨大な書籍になるということはナイ。昭和の痕跡がないかなあと、キョロキョロとはしているけど。

2020年12月15日 (火)

珍論愚談 6

ニイちゃん、「このミステリーがすごい!」(宝島社)大賞の『怪物の木こり』(倉井眉介・文庫)を買って、なんでかというと、ニイちゃんも、ちょっとacademicなホンには厭きてきたんだもんだから、ミステリでもぼんやり読もうかという魂胆。
で、クマゴロさんが、
「この『木こりの怪物』だけども、どこがスゲエんですかね」
と、やっぱりクマゴロさん、江戸っ子の物好きで同じホンを読んだのでニイちゃんに訊く。
「いわゆる「このミス」シリーズはこういう傾向なんじゃナイでしょうかね。この、あのね、『木こりの・・』じゃなくて『怪物の・・』ネ、これ、もう何回か書き直したらオモシロクなったとはおもいますよ。発想なんかはオモシロイんですから」
とはいうものの、ニイちゃんは遠慮していっているようだ。
「そういやね、あの、タンメンとギョーザの美味いラーメン屋。あそこで常連が餃子でビール飲みながらいきなりマスターに/オレは来年は小説家になるでよ、まあ、売れっ子になってもこの店には来てやるにゃ/なんていいだして、マスター驚いてたねえ。別の席でタンメン食ってたおいらもびっくりしたけど。なんでも、スゴイtrickを考えたらしいんで。それでミステリの新人懸賞小説に応募するからって、まだ一行も書いてないらしいんだけどね」
「そういうひと多いんじゃナイですかね。ミステリはトリック小説だとおもっているひと」
「いや、このクマゴロさんもその口なんだけどね、それからそのtrickでホン書いたのかどうか、知らねえけどね。で、ネットでその、さっきの『木こり・・』いや、『怪物の・・』だったっけ、そのレビュー読んだら、だいたい大きく二つに分かれていて、ミステリ通は文章の稚拙と登場人物の書き込み不足と、なんつうか、けっこうsevereなんだよナ。ミステリと縁遠いひとは、スラスラ読めるホンだったんで、何のハナシだったのか、読んだアトから忘れたけどオモシロカッタっていってるね」
「そういうホンでしたね、確かに。登場人物がstereotypeでしたね」
「けど、ここもこのクマゴロっておいらは、ぜんぜん性格付けというか、characterが統一されてナイんじゃねえのかな」
「いいんですよ、ここはテキトーがmottoですから。あの『怪物・・』もラノベあたりで書いたほうが良かったんじゃないかな。しかし、レビュー諸氏は、よく読み込んでますね。たいてい同じ見解ですもんね。それに比すると審査員は牽強付会だったんじゃナイですかね」
「そうそう、あれね。どうしても〈けんかいふきょう〉って憶えちゃって変換出来ないのが不思議で不思議で、んで、ニイちゃんはなにかい、ミステリとかは書かないの」
ニイちゃん、ほんとうはもうけっこう書いているのだが、
「もうちょっと、編集者に頭のイイひとが出てきたら書きます」
クマゴロさんは、ふーん、そんなもんかねえといった顔。
「編集者、バカかい」
「さあ、でも、あんまりミステリすら読んでない編集者多いんじゃないかな。COVID-19と同じくらい流行している『鬼滅の刃』って、オレ、読んでナイから、そっちのほうに詳しい弟に~ドンナハナシナンダ~って訊ねたら、聴いた限りじゃ、そういうの『新青年』とか『宝石』、その後じゃ、国枝史郎さんとか、近いところで風太郎さんとか、もうすでに在るんじゃないかなという気が、いや、読んでもいないのに、そういうこといっちゃダメですね。弟のハナシ聴いたぶんには読む気も無くなったけど」
「『新青年』『宝石』、うーん、知らねえナァ」
ハッキリいって、ミステリ、つまんなくなったぞっ。東野圭吾も初期は普通の本格、書いてたんだけど、下手だったなあ。すぐに「ワカル」の。けど、『秘密』は、あれはスゴイとおもいますよ。映画も良かったし。でも、あれだけかな。物理学者の探偵、なんだっけ、ガリレオだったっけ、あれ、あのひと物理学の知識がナイというのはよくワカッタ」
まあ、あんまり他人を貶すのもどうかとおもうし、ここらで、幕。

2017年1月24日 (火)

『月山』読後感

 

ご当地では日曜日の11時だったか、アットFMで作家の小川洋子さんがpersonalityをやってらっしゃる、ちょっと長ったらしいタイトルなので、いつもそれは聞き逃すのだが、内容は、つまり、小川洋子さんお薦めの読書、一冊。私はかけ流しなので、気にとまったものだけは聞くんだけど、今週は森敦さんの『月山(がっさん)』を途中から聞いて、といっても、しっかり聞いたワケではないのだが、ふと、読みたくなったので、アマゾンの古本マーケットに注文、読んでみた。

これは記憶にある一冊で、というのも、森敦さんが、これで芥川賞を受賞されたとき、六十二才だったからで、そういう年齢のひとも芥川賞って受賞するんだと、当時、そんなことを思ったけど、当時は興味がなくて、読まなかった。

此度、読んでみたくなったのは、なにやら番組内での解説が、生と死についてで、全体、よくワカラナイところが面白いということだったからで、そういうの好みだから。

長編というより、中編に近いものだったから、それに河出書房新社の単行本は活字が大きくて読みやすかったし、読めない漢字はテキトウに読んだから、一日で読めた。

で、やっぱり私は戯曲、劇作のほうに進んで良かったと思った。こういう小説は、善し悪しがワカラナイ。正直にいえば、これは折口信夫(これ、しのぶ、と読みます)の模倣で、とはいえ、圧倒的に折口信夫のほうがオモシロイ。まあ、折口さんはどちらかというと、古典エンタメだからなあ。

リアルタイムで読んでいたら、まったく読後感は変わったろうと思うのだが、この手のcategoryは、すでに日本のcomicに凌駕されていると思う。こういう感触のマンガは、ある程度、いまの日本では量産されていて、かつ質のイイものも多い(はずだ)。

私の読み方が誤読だとして、いうと、『月山』は、オチが悪い。こういうふうに落とす、決着させるか、とガッカリしたワ。それと、これは著者が何十年も放浪生活をおくった経験をもとに書かれているのだろうけど、そういうものは、当人(作者)は実際に目にしてきたものだからスイスイいけるのだが、読者としては、edge(輪郭)の鈍いspotlightの中の像を観るようで、私の脳髄ごとき想像力では、なかなか全体と部分の像が〈美しく〉きりむすんでくれないのだ。スカ屁のような風太郎さんを読んでいるようで、この小説を味わうほど、まだまだ私は成長(成熟)していないようだ。セロファン菊の女にしても、situationの描写とその女との関係の描写が、「おっさん、これは、古い、くさい、安い、の三拍子や」といいたくなるのだ。

これねえ、いっそのこと、近藤ようこさんが、マンガにしてくれたらなあ、と願う次第。

2013年8月 7日 (水)

『隻眼の少女』読後感

ご注意]本格ミステリの感想ゆえに、完全にネタバレとやらになっている。未読の読者には、以下の文言を読むことはお勧めしない。

『隻眼の少女』(文春文庫・麻耶雄高)を書店で選んで手にしたのは帯に「日本推理作家協会賞&本格ミステリ大賞 ダブル受賞」とあったからだ。私自身のミステリ狩猟は島田荘司氏で殆ど終わっていて、その後の「新本格派」「第三の波」だったっけ、そういうふうに称される作家の作品はあまり知らない。ということもあって、綾辻行人氏、北村薫氏、京極夏彦氏の作品は幾つかしか読んでいず、その後の新人作家(作品)は、まったくという程知らない。よって、要するに、いまの若い作家のお手並み拝見という気分で手にしたのと、もちろん、私だってミステリは戯曲も小説も書いていたので、どの程度のqualityがあんのかなと、自分の作品と比較するために、いっちょ読んでみるかという気まぐれが大きい。
この作品は、いわゆる「ノックスの十戒」第7項の[変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない]をミステリのルールとするならば、あきらかにルール違反だし、「ヴァン・ダインの二十則」の第2項[作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない]と第9項[探偵役は一人が望ましい。ひとつの事件に複数の探偵が協力し合って解決するのは推理の脈絡を分断するばかりでなく、読者に対して公平を欠く。それはまるで読者をリレーチームと競争させるようなものである]に抵触している。
とはいえ、これらは古典ミステリの上での話でしかなく、というか、古典中の古典、本格ミステリのpioneerの『黄色い部屋の秘密』(ガストン・ルルー)においても、すでに破られているといってもイイ。つまり、新しいミステリは、大袈裟にいえばこの「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの二十則」の裏を極めて論理的に描くことによって、そのエンターティンメント性を打ち出すかにかかっているというても過言やナイ。
そういう点においては、この作品の果敢ともいえる挑戦は成功している。
けれども、私はこの作品を読んだが、正確にいうと、読んだのは殆ど話体部分(「」の中にある会話、対話、語り)だけで、文章体を読むのは、あまりにも下手(というかprototype)に過ぎて面倒だった。話体だけでも情報は得られるし(というのは、話体があまりに説明的だということなのだが)、文章体で書かれていることが話体で繰り返されたりというふうで、好みではなかったからだ。
で、最初の事件が起こったところまでを読んだ時点で、嫁に「この探偵の少女が犯人なんてことはないよな。そんな感じなんだけど、それならオモシロイかも知れないけど」と漏らしている。さらに三分の一あたりで、犯人は探偵の隻眼の少女か、その父親との共犯(この父親は途中で殺されるので、ミス・ディレクションされてしまったが)、つまり、これは隻眼の少女が母(これも隻眼の探偵だった)を継ぐためのテストなんじゃないかと指摘はした。これは勘でいったのではナイ。探偵の事件へのスタンスが、フィールド・ワークをこえて、フィールドに入り込み過ぎていること。最初の事件の推理以降の探偵の推理が極端に遅い理由が、事件の勃発を防ぐというよりも、事件を待機しているに過ぎること。大口を叩くわりには、推理が素人っぽくて、不自然な感じがすること。脇役の種田静馬がワトスン役としては、どうしても不適当で、彼が何か重要なファクターを持っていると思われるのに、作者も探偵も、そこに深く言及しないこと。などが挙げられる。
しかし、犯人の真の目的が父親殺しで、その動機が最も後半に語られるのは、これはいくらなんでもフェアではナイ。
正直なところ、私はちょっと安堵している。もちろん、私の書いたミステリ『ぶらい、舞子』(小峰書店)やミステリ劇『踊子』のほうがオモシロイからというのがその理由だ。よく出来ているとはいえ、『隻眼の少女』はヒマなぼんぼんの趣味程度だと思う。

2012年7月 3日 (火)

『大幽霊烏賊~名探偵面鏡真澄』感想

「異能の乱歩賞作家による驚愕の精神医療ミステリー」というキャッチと、昭和のはじめ、日本で最初に出来た専門精神病院で起きた凄惨な事件、という帯の文句に乗せられて買ってみたが(講談社・2000円・ハードカバー)、黴の生えたつまらんミステリだった。3ページほど読むと、仕掛けはもうワカルのだが、要するに「まとまり」が悪い。そういう仕掛けでなら書き方はあったろうが。昭和のはじめはいう縛りがあるから仕方ないとはいえ、アインシュタインの相対性理論の応用も下手だとしかいいようがナイ。おまけに、もっとも重要な奇怪な出来事のタネがアホくさい。イイカゲンにしろよ、いいたくなる。574ページの長編なのだが、無駄がありすぎる。肝腎の「烏賊」がまたクダラナイ。読了したときのfrustrationをどうしてくれる。

2011年2月24日 (木)

マスクと読書

二カ月ほどの名古屋マンスリーマンションでの生活は、それほど退屈なものではなかった。夜は稽古だし、帰ってきてからは、風呂に湯が入る1時間20分もの長い時間(なんしろ、古い風呂なもんで、チョロチョロと水道から湯をはって、さらに追い焚きするとそれくらいかかるのだ)や、朝ミスドでコーヒーをやってから、昼に飯、それから夕方に出かけるまで、特に飲む打つ買うの趣味のナイ私は、近所に名古屋ではけっこう名のあるパチンコ店が三店あるに関わらず、横目にはみながらも一度もそのドアをくぐりはしなかったし、歓楽街にあるゆえ、飲み屋も豊富なのだが、外で飲む習慣がナイので、ポツポツと、独り、暗い酒を飲んでいるか、マスクをしながら読書をしていた。これも、近所にけっこういい書店があったので、二日に一度は出かけては、ひさしぶりに最近のミステリを買って読んだり、こういうのも閉じ籠もりというのだろうなと、マスクをしながら(くどく書くが、外に出るときははずすのだ。何故なら、借りてもらった住居は、ハウスダストがひどく、マンションとはいえ、ふつうのアパートの結構で、塗ったばかりらしい壁からの白い粒々が、カウチの前の机に点々と、拭いても拭いても、1時間ほどすると味の素をふりかけたように積もってきて、これはヤバイと、防塵マスクをしながら)本を読んでいたのだ。ミステリのことは、また次の機会に書くが、これはいい買い物をしたと思った書籍は、『東京大学で世界文学を学ぶ』(辻原登・集英社)と『量子の社会哲学』(大澤真幸・講談社)で、両方とも、いろいろと興味深いところが多々あった。前者は、文学知らずの私にとっては、「へーえ、文学というものはオモシロイもんなんだなあ」という感心と、スロフトの第2回公演用の戯曲を書く上でのこの上ないmotivationになった。後者は、その一部をチャッカリ『ゴーシュの夜の夜』の舞台美術の参考にさせて頂いた。前者は殆ど門外漢なので感服しきりであったが、後者は、やはり、量子力学についての誤解がみられた。それ以外というか、援用においてはかなり好奇心をそそられる、冒険的な内容だったのだが、著者は、社会学が専門の方なので、当然といっていいほどの誤解があるのだ。これは、おそらく参考にされた物理学の書籍自体が間違っていたに違いないと思う。具体的にいうと、量子現象における「遅延選択実験」についてなのだが(この著書では「観測」となっているが、正確に物理学的にいうと「測定」)、この量子の遅延的なふるまいについては(波動となってスリットをくぐったとたんに測定すると、また粒子になるというもの)著者が書かれているような「観測者」が関与する余地は一切ナイ。量子力学では、量子の遅延作用についても「完全に記述」する。そもそも、量子力学においては、「観測者」の入り込む部分はまったくナイ。観測者と量子とは何の関係も持たないのだ。従って「観測者がみた瞬間に波は粒子となる」というふうなことは生じない。それが「あたかも観測者を裏切るように」ということもなければ、「まるで量子のほうに[知]があるように」ということもナイ。metaphorとしては、オモシロイが、事実はそうではナイ。しかし、そういう錯誤を差っ引いても、この著作はかなり圧倒されるオモシロさがあった。こういう知識の積分のような本は大好きである。前者においては、現実、metaphor、fictionとはなんであるかということを、突きつけられるように考えさせられた。スロフト第2回作品の『この夜の果てへ~二人だけのドグラマグラ』は、ペーパーワークで、その威勢を借りて書かれたような作品だ。(公演は来年初頭ですが)。防塵マスクのおかげで、ひどくはならなかったが、未だに気管支の具合はよろしくナイ。

2010年10月 7日 (木)

東野圭吾を読む

いま平積みのミステリ作家東野圭吾を読んでみた。映画(原作)では「秘密」が面白く、よく出来た作品だが、あとは、直木賞作品も含めて、みなダメだという感想だ。そこで90年代のもの、最近文庫になったのを2冊。かつ、ミステリ作家の手並みのワカリヤスイものを選んだ。『仮面山荘殺人事件』『ある閉ざされた雪の山荘で』。いわゆるミステリの代表パタンだ。前者は5幕中、2幕で、物書きの同業者として、犯人と構造がわかったが、この作品には、それ以外にひじょうに優れたところが、ひとつ存在して、これは最後までわからなかった。アトは夢落ちのようなものだ。後者は前者に比べると、えらく単調で、なるようにして終わる。やや退屈というふう。けだし、何れもライトで読みやすい。読者サービスなのか、これくらいのものがちょうどイイんだなあ。

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