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カテゴリー「映画・テレビ」の記事

2017年3月24日 (金)

最後の一匙

 

『四十九日のレシピ』(映画版・2014・永作博美主演)は、囲碁に例えるなら、ヨセ終盤までのリードを、たった一石で逆転され、コミ分が出せずに負けた、と、いうような印象の映画だった。囲碁ではそういうことがよく起こる。要するに「蟻の一穴、千丈の堤を破る」だ。原作にもあるのだろうけど、良平(石橋蓮司)の姉、珠子(淡路恵子)は、ホンの段階で落とせばよかったと思う。このキャラクターのinputoutputが仇になった。ほんとうに終盤アト10分までは、これも囲碁コトバでいう「勝ちました」だったんだけどなあ。

レンタルを観たアト、購入するかどうか、悩みに悩んだけど、けっきょく買った理由は、カメラアングルと、ワンカット、ワンカットの映像が、静止画としても美しいと感じたからだ。また、そのsceneにおける俳優の演技も実にイイのだ。ただ、主要なmotifとなっている、川の存在が、伸び悩んだまま一気に萎縮して、それまでのsequenceも凡庸なものに感じられてしまうという、ほんとうに惜しい映画だった。「四十九日のレシピ」はレシピの最後の一匙の匙加減を間違えたといってイイ。

ヒロインの永作博美は、この女優がキライ、イヤダというひとはいない、などと評価されているだけの、永遠の少女(童顔ということなんですけど)だが、演技の実力も、これまた誰しも認めるところだし、石橋蓮司の衰えを知らぬ名演技は、充分に納得がいくものだし、なんつうても、よくぞ、あの二階堂ふみという、熱演専門のアバズレをここまで、ゆるく演技させたという監督の演出はおみごとだった。ただ、珠子の淡路恵子に対する配慮と遠慮が、この映画の堤を崩してしまった。そやから、ホンの段階でなあ・・・、あのね、やっぱり、ホンは重要です。それを痛感しましたワ。

そういったプラスとマイナスからいろいろ勉強になりました。そんで、DVD買いました。

2017年3月23日 (木)

遅き夢みし

 

試写会や映画館で映画を観られないものだから(目がイケナイので)、前者からすると、みたい作品を観るのにほぼ1年、後者でなら1年半かかる。つまり、DVDの新作か、旧作で観ているので、「遅ればせながら」になるワケで、旧作の場合は2年以上前のものを観ることもしばしばなのだが、これはこれで、ほうほう、あの頃(もう2~3年前は〈あの頃〉なのだ)はこんなふうな傾向の映画が流行っていたんだなあ、と思い起こせよ梅の花。だから、旧作の邦画を観ると、途中でヤメルことが多い。ああ、そうね、なんとなくドキュメントふうで、ほんで、なんとなく長回しで、そいで、演技してません自然ふうです、で、と、思えば、芸人監督の映画でテンポが悪かったりで、このシーンは長いよ、ここはもう2カットは挟んだほうがイイと思うけど、てなふうで、それなりに勉強になりますが。園子温監督なんかは、何だか人気なんだそうだけど、ふざけ方の下品さと、ハッタリと、過去の遺産(すでにそういうことは、かつての名監督がやっている)の下手な模倣には辟易して、何本か観たけど、もうヤ~メタにした。この監督、たぶんロマン・ポルノで学習したんじゃナイかな。

で、いまツタヤは旧作50円なので、数本いっぺんにレンタルしては、観てるけど、30分でgive upが多いな。作品が悪いとかじゃなくてね、こんな映画はオレには何の価値もナイわ、と思ったらヤメルの。なんしろ、目が悪いもんで、一日に使える時間が貴重なのよ。

さて、最近観た旧作、『凶悪』。これは凶悪というよりは、「正義の醜悪」を描いている作品だけど、監督や脚本のそれなりの力量は認めます。とても素人に出来るワザではナイ。冒頭に「事実に基づいたフィクションである」と出るんだけど、虚構というのはふつう、そういうものなんだから、こういうphraseは、断りではなく、いいわけ、に属するとわたくしはおもいます。多少マズイところがあっても「事実」なもんですから、とcoverしているようなもんだから。で、時系列のmatrixはすごくイイと思いますよ。けれど、どうしても「作り物」なんだよなあ。そりゃあ、fictionは作り物なんでしょうけど、映画は作り物なんでしょうけど、創ったほうが「上手く創った」とコーフンしているさまが伝わってくるようじゃ、観ているほうは肩がコリます。池脇千鶴さんは、田中祐子さんと並んで、このひとが出演しているのなら観ておこう、と、ついつい引っ張られる馴染みのお店みたいな女優さんですから、この程度の演技はアタリマエなんですけど、アタリマエのことなら、べつに池脇さんでなくっても、ねえ。もったいないなあ、と、思わせたら、もう創り手の負けなんだぞっ。もの食うシーン、単純に食事のシーンが数回ありますが、それをみてああ「作り物」だあ、と思いました。この監督は、自分で飯つくって食ったことはナイだろう。小津安二郎監督の映画は、食ってるシーンも多々あるけど、箸をつけてなくても、その料理の味がワカルというオズの魔法がありますから。えーと、テーマは、ジャーナリストの苦悩ですか、ふつうのサラリーマンだって、派遣社員だって、近頃ではアルバイターだって苦悩、苦労、苦吟、苦、苦、苦、苦、苦です。嘘ついても謝ったらOKは、政治の世界だけ。嘘つかないと生きていけない、嘘をうまくつけば生きていける、こんな世間だから、春になっても、いつまでも風が冷たいんだよなあ。韓国映画(ドラマではナイ)に、最近、秀作、佳作が多いのは、韓国の実社会(世間、世相)が暗澹としているから、せめて映画の中だけでもって、そんなベクトルがあるからなのかなあ。日本だってかなり暗澹としているんだけどナア。

2016年10月27日 (木)

百姓日記⑧

 

『リ・ゴジラ』

 

何か、ひとに会う度に、『シン・ゴジラ』の感想を訊ねられるので、いまは目が良くないのでDVDになるまでは、と聞き流していたのだが、弟が「あれは、まだしばらくは上映が続くで」というもんだから、しょうがねえなと、観に行くことにした。二時間、邦画だからなんとかなるだろうと、なんとかなって、エンドロールはさすがにキツかったが、ともかくは観た。で、ひとことで感想を述べるなら、『シン・ゴジラ』という作品は、昭和29年の『ゴジラ』第一作のリメイクなんだなと、それ以上ではもちろんないし、それ以下であることもマチガイナイ。

昭和29年の第一作の『ゴジラ』の持っていた、モンスター映画の恐怖感、このときは、原水爆だったのが、『シン・ゴジラ』では、核燃料廃棄物と、原発(動く原発ダナ)になっていて、29年ものの〈オキシジェン・デストロイヤー〉が、やっぱり、どっかの人嫌い博士の凍結剤になっているだけで、要するに、リメイク。閣僚たちのチンドンも、ご愛嬌なんだが、ご愛嬌に柄本明さんや、余貴美子さんを使う贅沢は、というかどっちも私、ファンなもんで、やや苦ったが、それは別にして、アト何か観るべきものはあったかというと、巷のワイワイした評判ほどのものはナニにもなかった。おそらくこの映画(『シン・ゴジラ』)を神輿にしているひとは、本歌29年の映画を観ていないんじゃないかとさへ思う。

29年もののような名シーン(私的な選択だが、例の実況アナ、銀行前に座り込んで抱き合う母子、そのせりふ。さらに、何気ない汽車の中の風景で「また、疎開かよ」なんていわせる、そーいうとこ)はなく、あの人気女優らしい、(らしいのではなく、そうなんでしょう)石原さとみのキャラが、集団的自衛権や、安保体制の直截批判めいたシーンよりも、アメリカというものをヒジョーによくシンボライズ(というより茶化して)いたように私には思えたが、この映画で、これはいいアイデアでオモシロイと思ったのはその辺りだけかな。タラコ唇も使い方次第だな(身体的なことに触れての揶揄がイケナイのは、素人の方だけで、女優という営業をやってる方には遠慮する理由はナイ)。戦闘シーンについては、「新・ガメラ」シリーズのほうが、よほどリアルで、アメリカだって自衛隊だって、もちっとマシでしょうと、苦笑した程度。(ほんとにいろいろ出すと、軍事機密に関わってくるから、あの程度にしたんでしょうけど)。

もちろん、のことだが、この映画の世界はフィクションだから、この世界では天皇陛下という存在は存在しないことになっているのはアタリマエだと思わないと、その辺を突っ付いても何の意味もナイ。ともかくは『空母いぶき』の(かわぐちかいじ)のほうが、右傾化は同じでも、よく出来ている。と、いうのが私の感想です。

追記:やっぱり伊福部昭さんの音楽はイイねえ。

2016年10月21日 (金)

百姓日記⑥

 

巌流島のコペルニクス

データをまず記しておく。『宮本武蔵』(2014年3/15、3/16、2夜連続でテレビ朝日開局55周年記念番組として系列局で放送されたスペシャルドラマ。原作 吉川英治、監督 兼﨑涼介、脚本 佐藤嗣麻子、宮本武蔵に木村拓哉、佐々木小次郎に沢村一樹、お通が真木よう子。アクション監修に、ジャッキー・チェンが会長を務める香港動作特技演員公會の唯一の日本人会員である谷垣健治を迎え、殺陣のシーンでは、刀を「本当に当てる」という今までにない手法が取り入れられた)。

目が悪くなるというのも、まんざらではなく、このワード・ワープロの扱いにくさに比すれば楽なほうだ。ここまで字数、大きさを揃えてコピペを修正して、書くのに30分かかってるからナ。これでまた30分目を休めるのに、コインランドリーでも行くか。

ただいま。

で、脚本が佐藤嗣麻子さん(彼女は、『K-20』の脚本・監督)ということもあるから、2年前の作品ではあるが、ツタヤしてみて、圧倒的に巌流島の決闘で倒されたのは私だ。

というても何のことかワカランだろうから、ちょっと順を追って(ふつう、そうなんだろうけど)、まず、武蔵が京流吉岡道場の道場破り、と、ここから始まって、その殺陣が香港アクション映画をかなり取り入れていることで、ちょっと驚く。データをひもとくと、やっぱりなるほど。ここはここで、圧倒的ではあるのだが、そりゃそうだよ、『るろうに剣心』というお子さま時代劇映画で、フェンシングみたいな殺陣をみせられて、私の知己の殺陣師(真剣帯刀を許可されている)なんかは、怒りのあまりポプコーンをばらまいたそうで、「絶対にもう、映画館でポプコーンは買わんっっ」と、なんやワカラン怒り方をしてたくらいだから、さすが、香港アクションと拍手もしたくなる。ちなみにこの殺陣師とは、2020年のオリンピックの外人客をあてこんで、時代劇のイベント舞台でも創ろうかてな話もしてて、『秘剣鍔鳴り~重 四郎(かさね しろう)忍者斬り』てな、まんまのタイトルだけは考えている。

で、嗣麻子さんのホンは吉川老師の正統を遵守しつつも、斬新な解釈(脚色)をノンシャランと垣間見せるのだが、極めつけは巌流島の武蔵と小次郎の決闘の概念を引っ繰り返したことだ。といっても、小次郎が勝つワケじゃナイんだけど。

まず、沢村小次郎は、登場時に刀の柄を右肩にしていることで、おんやと首を傾げるのだが、たとえば、内田吐夢監督の錦之助武蔵五部作では、高倉健さん小次郎は、伝統に従って、もの干し竿長剣の柄を左肩からにしているのはいうまでもない。あの長さの刀を抜くには、いったん肩に担ぐようにしてそれから抜くので、右肩では都合が悪い、というより抜けないのだ。

ところが、そこは抜け目がナイというか、沢村小次郎の場合、肩からぶら下げているように描かれていて、高倉小次郎のような固定ではナイので、なるほど、あれなら抜けるワナ。

さて、真骨頂。これまで何人もの武蔵と小次郎が巌流島で決闘したが、たった二人、立ち会い人もナシ、というのは嗣麻子さんのホンが初めてで、かつ、士官がどうの、藩の面目がどうのという面倒なものはきれいさっぱり棄てられていて、ただ、二人、「限界の向こうが観たい」という、兵法家の夢のためにのみ闘う。このplot、sequenceには引っ繰り返った。まさにコペルニクス的転換。決闘の概念をコロッと変えられちゃった。見事に。さらに、武蔵は先に一太刀浴びて、苦戦。あの長剣の届かぬところ(つまり、身切りですな)に飛び上がればイイのだと、剣客の本能で飛び上がって櫂を振り降ろすという心情理路がワカルように描かれている。

いやあ、もう、佐藤嗣麻子さんと、西川美和さん、この二人こそ、いまの映画界の武蔵、小次郎ですわ。

2016年7月 8日 (金)

涙、壊れているけれど⑯

なるほど、朝日か

 

『悪人』をDVDで観て、たぶん、原作はイイんだろうと思ったし、映画だって真面目につくってんだから、悪くないはずなんだけど、どういったらイイんだろ。これ、弘兼憲史さんの『人間交差点』くらいの尺で、さらさらっと読んでたら、胸に迫る感動もんだったろうなと、つまりね、あのね、チャーシューメン頼んだら、フルコースの中華料理が出てきて食わされたみたいな、そんな感じなんですよ。あれだけ贅沢なキャスティングすれば、どんな監督が撮ったって、そこそこの映画にはなりますよ。みいんなハマリ役だし、そのうえ、キチンと演技されてますし、とにかく上手い俳優さんばっかりだから、ね、だからね、ああこりゃよく出来た「お話し」だなあって、な~んか、職業柄そのぶん〈ウソくせえ〉という心情というんですか、嗅覚がして、コミックスの虚構ならこれで充分なんだけど、実写となると、出来すぎ創り過ぎは良くねえなと、そいで最後に流れるロール観てたら、なんだ、朝日新聞のイッチョカミかよ。そいで、すううっと納得出来ましたんっ。何がって、ナニカがですけど。同業種としていうなら、ラストシーンのタクシーの中のせりふは必要なかったなあ。女が献花する、そこで遺族とすれ違う。この映像だけで語れますよ。なのに、そこにレクチャーみたいせりふが入る。あれが、朝日新聞なんだよなあ。ちゃんと面(つら)出してやんの。

長崎が舞台か。なんだか、江戸の仇を長崎で、になったみたいで、このブログも味が良くないなあ。

2016年7月 3日 (日)

涙、壊れているけれど⑫

おとこ 純情の

 

森川信というと、『寅さんシリーズ・・・男はつらいよ』の初代おいちゃんなんですけど、彼がコメディアン当時、巡業でいった町、たぶん小さな町だとは思うんですが、すぐ近所にあったデパートの女子従業員を全員妊娠させたというのは、伝説になってますね。

森川信のことは、安吾もエッセイで書いてます。「スゴイ役者をみた」とか、何がすごかったのかはあまり詳しく書かれてなかったんですけど、とにかく驚いたというふうに書いてます。

神代辰巳監督だったと思うんですが、神代監督の日活(にっかつ)ロマン・ポルノはすべて観てます。ファンでしたから。映画のタイトルが何だったか、まあ、タイトルなんてテキトーでしたから、神代さんは「濡れた」ってつけるのが好きだったかなあ。マルキ・ド・サドの原作で『森は濡れた』ってのは、一日でアゲられちゃって、初日に観て正解でした。観たほうも、これ、イカれるんじゃナイかなと心配するくらいの描写でしたから、やっぱりイカれたというか、上映禁止でアゲられました。ですから、それはもう忘却の彼方で風に吹かれてるんですけど、もう一つのタイトル忘却のほうは、落語家の、前座だったか二つ目だったかが主人公で、ストーリーらしきものはまったくないんです。日本は大東亜戦争に突入しているようなんですが、主人公は、そんなことはいっこうに気にしないで、ともかく、出会った女、これすべてに手を出して、出したものは手じゃナイんだけど、ともかく手当たり次第というのはこのことをいうてな具合。なんしろ、〈何の理由もナイ〉んだもん。ちょっとすれ違ったり、道を訊かれたりした程度から、兄弟子の嫁さんとか、お手伝いさんとか、師匠の娘さんとか、片っ端からヤっちゃって、そうしたら、赤紙がきて、出征するんですが、それをバンザイしてみおくる女性たち、つまり手を出された女たちの腹がみんな大きいの。バンザーイっていいながら、女たちがみおくって主人公のモノローグが入ってオワリなんだけど、そのモノローグが「男と女はこれしかないさ」だったと記憶してんですが。戦場に出て行くのも、ちょっと買い物にいくようなシレっとした意味のナイ顔で、「これしかナイ」というのが、「要するに戦争で死ぬしかないさ」にも聞き取れて、ただ、そんだけの映画で、まるでカミュがフザケて書いたような、あるいは、石原慎太郎さんの初期の短編『完全なる遊戯』(これは、名作だと思います)のおフザケモードとでもいうべきか、これこそ、神代監督のサイテー傑作です。大好きな映画です。

アト二日で六十四歳になりますが、これまでいろんなインタビューを受けたんですけど、インタビュアーが女性のときは、「今後、やりたいことってなんですか」という質問に、「出逢った女はすべて、孕ます」と、答えると、「ほんとはなんですか」と冗談扱いされて、もちろん、一度も掲載されたことはアリマセンね。

そこで、あまりにアツカマシイのかと反省し、最近は「出逢った女はすべて」というのではなく、「気になる女は」と、これは、うんと遠慮してるんですよ。おとこ純情の愛の星の夜、なんとなく、現代の女性には孕みたい願望があり、男には孕ませたい願望があるような気がしてならない、が、如何せん「育てるのはイヤ」みたいで、「まあ、三つか、せいぜい五つくらいまでなら何とか面倒みてあげるから、アトは勝手に生きてってネェ」みたいで、そんでイイんじゃないかなと、イイんじゃないのそんで、イイよねえ。

『源氏物語』だって、要するにそういう話じゃないの。(対訳でしか読んでナイけど。イチバン人気は与謝野晶子の訳で、最低作品は、瀬戸内婆というのが、もっぱらの世評ですけどね)。

朝から二度、コンビニスーパー行きましたが、きょうのあの娘は表情が曇っていて、たぶんレディス・デーなんじゃないかなあ。てなこと考えるのは、劇団なんかの座長を長いことやってて、女優の「月」の具合ばかり心配していたからですよ。

性欲というのは、究極(つまるところ)は、孕みたい=孕ませたいという生殖の欲求ですから、この辺りは、アダルト・ビデオの傾向が、そのような作品を多く創るようになってきたところからもワカリマス。かつては結合部分をみせればよかったのが、いくらmosaicを薄くしても、そんなものは見飽きてしまって、cellrentalする場合の選択肢は、女優のタイプに依るというとこらあたりになっている。だいたい、私がそうですから。私、からみのシーンでは、モザイクの部分なんて観ないです。女優の表情しか観ない。だから、女優の喜悦がヨロシイものは、よろしいんです。それを観れば、これはワザとやってる演技(といっていいのかどうか、いわゆるウソ)だなとか、この女優さんは、ほんとにイってるなとか、その程度は、演劇を長くやってきてますからワカリマス。

男も女も、本質的には純情なんです。

2016年1月11日 (月)

♡~7

『眠狂四郎』の生みの親柴田錬三郎さんは松本清張やなんかと同世代なんだけど、『イエスの裔』で直木賞を受賞してからも食えなかった。つまり、文壇への登場が早過ぎた。しかしのちに氏の語るところによると(といっても、虚ろ覚えなんですがね)、その時代にたつき(食い扶持)のためにやった仕事が後々自分の生涯を支えたという。何をしていたかというと、大人向けの中国伝記なんかを少年向け小説に書き直していたのだ。従ってこの頃、殆どの中国文学は読破したらしい。なるほど、いま「ウィキペディア」でみると、直木賞後の著作・出版は少年向け小説の出版社からのホンばかりだ。これはたいへん勉強になったと述べてらっしゃる。中国伝記小説を読むだけでなく、その長ったらしい小説を「わかりやすく、短く」少年小説に書き直すのだから、一種、編集能力も身につく。
私もとある出版社の企画で『ブラウン神父』シリーズを三編ばかり少年向けに書き直したが、編集者がそれを読んで「ああ、こういう話だったのか。すごくオモシロクなってますね」と賞賛。(残念ながら、編集者病いのため、まだこの企画は出版にこぎつけてナイ)。
そのシバレン(柴田錬三郎さんのことを私たちはそう称した)さんに、これほど面白い時代小説は読んだことがナイといわせしめたのが『柳生武芸帳』(五味康祐、作者の死により中断)なんだけど、登場人物のあまりの多さにコンガラガッテくるらしく、映画化された映画を試写で観た作者の五味康祐は「そうか、こういう話だったのか、よくワカッタ」とコメントしたという逸話がある。つまり作者もコンガラガッテいたのだが、映画を創る側も、やっぱりコンガラガッテいて、ひとことでいうと〈無茶苦茶〉な映画。役者(主役は三船敏郎なんだけど)がナニをやっているシーンなのかワカランところが随所にあって、それはそれなりに見どころでもアル。私はリアルタイムではないが観てはいるのだが、一緒に鑑賞した劇団のものに、観終わってから「○◎はありゃあ、ナニをしてんですか」と幾つかワカランsceneを指摘されて、「おそらく、監督も脚本家も役者も、要するに誰もがワカッテナイんじゃナイのかな」と応えた。そんなふうに映画が撮られるのかというと、案外、そういうのは捜せばあるのだ。たとえば『必殺』劇場版の『黄金の血』は、脚本が遅れに遅れ、出来たシーンから撮っていたので、監督も助監督も役者もスタッフも、話の何処のナニを撮っているのかワカラナカッタという。編集で何とかつないだようだが、先述の『柳生武芸帳』は、これよりさらにワカラン。
片岡狂四郎第七話の女優さんは、佐藤万里さん。この女優さんは、現在は引退されてカタギの主婦、57才。主役こそナイが(と、思うんだけど)、たいていのテレビ時代劇のシリーズには必ずといっていいほど、重要なバイプレーヤーとして出演。現代劇でも、しょっちゅう顔をみるので、なんだか顔なじみのお姉さんで、はい、好きですよモチロン。
仇を討ってもらおうと、狂四郎に〈情を乞う〉のだが(あのね、情を乞うって、何のことかワカンナイでしょ。まあ、イイけど)、「女は死ぬために抱かれるのではナイ。生きるために抱かれるのだ」と、諭される。オレなんか、そういう難しいこと抜きで・・・
えーと、晩飯の献立は決まってます。納豆、あおさ汁、玉子焼きです。

2016年1月 8日 (金)

♡~3

しあわせな夢をみるために眠ろう
たとえ 眠りからさめなくとも
しあわせな夢は つづく

やっと『舟を編む』(石井裕也 監督)を観る。豪華なというより贅沢な出演俳優たち。いくらなんでもと、つまり、この程度の役にこの俳優を、かよ、なんだけど、まあ、銭があるならやりゃあイイでしょう。絵に描いたような(ほんとは小説が原作・・三浦しおんさん・・なんだけど)善人しか出てこない映画で、薄っぺらい『おくりびと』なんだけど、私、こういう仕事やりたかったなあと、なんて幸せな仕事なんだろうと、それはもう羨望をもって観ました。尺が長かったので、三回ほど休憩しましたけど。原作は読んでません。小説は読まないひとですし、最近は活字が辛いので、という理由ですが、レビューを少々読むと、原作はかなり密度があったようです。こういう、まず現実には絶対に存在しないような男女、夫婦、隣人、上司、学者、社員、は、ここまで徹底すると、ウソでもいいやという気になるもんです。だって映画なんだもの。ウソではナイんだけど浮世離れしていてもイイじゃナイ。だから、映画が観たくなるんだもの。芝居もそうなんじゃナイでしょうか。私もそういう芝居、書いてます。酒は涙かため息か、映画も芝居も涙かため息かでイイですよ。この世の憂さのステロイド。よく効きます。
そういう映画、演劇を少なくとも〈表現者・同業者〉がそれを理由に批判するなら、ひとこといっておきます。「悔しかったら、一度、書いてごらん」。

2015年12月31日 (木)

私想的生活-09

小劇場演劇において、「特権的肉体〈論〉」は、唐十郎さんから初まり、つかこうへいさんをもって、終焉した。「特権的肉体」とは何か、「肉体的特権」とどうチガウのか、については、機会があれば一項設ける。ここで述べるには、長くなり過ぎる予感がする。なのにのっけから、そんなことを書き出したのは、終焉したのは、小劇場演劇における〈演劇〉だな、という感慨深い2015年だったからだ。語れば愚痴、述べれば悪罵になりそうなので、これは一項設けることなく、あざみの花にしておく。
そういや、シミュラークルを語るさい、これ、いっときゃなきゃ、というのを思い出したんだけど。元ネタがナイという創造物(表現)というと、演劇、映画において、そういうのはゴロゴロあるんだ。たとえばShakespeareの歴史劇はともかくとして、ロミオもジュリェットもハムレットも、主役なんだけど、元ネタはシェイクスピアの戯曲の中に描かれているだけで、現実には存在しない。ふつうはこれを〈虚構〉という。シャーロック・ホームズもルパンも〈虚構〉だ。しかし、坂本龍馬は歴史上の人物だが、私たちはホンモノのことは知らん。「これが、そうだ」というドクサによって、勝手にイメージしているだけだ。つまり〈虚構〉と殆ど変わらない。「ほんとはこうだった」と実録を示されても、「それは実際の坂本龍馬でしょ。そういうのはニセモノよ」という次元物理学みたいな応えをするものだっている。そういう輩に、龍馬は写真が残っているので、それをみせると、「ぜ~んぜん、イメージとチガウ。こんなの龍馬じゃナイっ」と一蹴される。こういう〈現実と虚構〉についてどう考えたらいいのか、という問いかけから始まった演劇論が拙著『恋愛的演劇論』(松本工房)なので、黙って読めばピタリとワカル。
さて、八艘飛びして、と。ツタヤ・レンタルで片岡孝夫(現・片岡仁左衛門)主演の眠狂四郎の第二部を全巻観たのだ。ツタヤディスカスでは、どーいうワケか第二部しかレンタルしてないので、そいつを観たんだけど(しょうがないので、第一部はアマゾンで購入した・・・これはまだ未見・・・)ざっと、データを書くと/『眠狂四郎無頼控』(ねむりきょうしろう ぶらいひかえ)1983年(昭和58年)4月6日から8月31日まで、テレビ東京系列で毎週水曜日の21:00 - 21:54に放映された連続時代劇/で、必殺シリーズの下降はすでに始まっているが、同時代のものだ。というワケでもナイだろうが、映像カットからクレジット、など、いろんなものが殆ど同じなので、スタッフが同じなのはマチガイなく、脚本はイイとはいい難いが、ともかく片岡孝夫の殺陣は一種の舞踏のように美しい。それを観るだけでも価値がある。さすがに歌舞伎役者、正中線に乱れがナイので、すこぶる速い殺陣なのだが、一瞬のブレもナイ。市川雷蔵狂四郎のニヒリズムは凄味があるが、ダンディズムなら片岡狂四郎に軍配があがりそうだ。歩き方も片岡狂四郎のほうがやはり美しい。再度いうが、正中線の乱れのなさは、歌舞伎の修練の賜物だろう。しかし、歌舞伎の殺陣と時代劇剣劇の殺陣はまるで異質のものでありながら、いまひとり、柴田錬三郎に最も愛された、田村正和狂四郎の殺陣が、まったくの舞踊もどきであるのに比して、片岡狂四郎はみごとな時代劇的剣戟をみせている。一芸に秀でたるものの〈芸〉のスゴサてのが、あるんだよな。円月殺法の構えも、市川狂四郎が下段(柳生新陰流でいうところの無形の位)から刀を回すのに対して、上段から青眼、そうして、下段へと移行する。たしかにこっちのほうが剣法としても理にかなっている。ここでも正中線の乱れはナイ。腕枕で横になっているときも、同じく正中線は乱れない。見事なもんだ。だからぁ~っ、十五代片岡仁左衛門(重要無形文化財保持者・人間国宝)になった現在(来年72才か)、よりも(土左衛門みたいな名称より)、孝夫がエエですねえ。孝夫が長かったからなあ。必殺の劇場版映画にも、助っ人出演されてましたが、あの蝶々のひらひらで、ほんで、扇でスパッての。
で、と。2015年は本日で終り。有終の美、在りや無しや。憂愁なら溢れるほど在るんだけどなあ。

2015年11月 9日 (月)

Words of the nincompoop ⑩

○『妻への家路』(チャン・イーモウ監督・コン・リー主演、2015、中国)は、日本の文芸童話を彷彿とさせる。あるいはある「寓話」「笑話」のように観ることが出来る。ある意味で、おそろしく淡々としたこの映画は、映像やストーリを観客にみせる作品ではナイ。ただ、純粋に俳優の〈演技〉というものをみせる。映画、演劇において、ほんとうに観るべき、みせるべきは、それなのだという監督の辿り着いた信念が胸に迫る。
ところで私が他に重要だと観たのは、本編ではなく特典映像の中の、チャン・イーモウ監督のインタビューにおける、次のコトバだ。
「文化大革命など知らなくてイイ。そんなものは、どんな国でも歴史の中で、一度や二度は必ずあるものだからだ」
 矮小化をおそれずにいえば、こんなふうにも用いることが可能だ。
「従軍慰安婦など、政治のカードにすべきではナイ。そんな存在は、どんな国でも歴史の中に、必ず存在する事柄でしかナイ」

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