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カテゴリー「映画・テレビ」の記事

2024年2月 3日 (土)

nostalgic narrative 8

意味なく太い巻き寿司をそのまま食べる節分の行事「恵方巻き」は私の地方で私の幼少のころはなかった。おそらく全国何処にもなかった。いや、あったのだが、なかった。これは旦那衆のお座敷の芸者遊びだったからだ。それに目をつけたコンビニチェーンがまるで古事の因習でもあるかのように尤もらしいキャッチフレーズを並べ立て、売り出したらアタッタ。それだけのことだ。あの太い海苔巻きがナニを意味しているのか、デフォルメしているか、なんのメタファーかは、推して知るより芸者衆が頬張るところをイメージすれば、その通りなのだ。
松本人志事変もおそらく同様のことだ。だから、芸人松本自身はかの行為をまさか性加害だなどと捉えてはいない。集めた芸者ならぬ素人もしくは新人女性芸人に花代が幾ら支払われたか、それは「裏金」というもので、派閥とやらの政治家連中も、陳情陳述者相手に似たような接待はしてきたろう。多寡はチガウだろうけど。そんなものを会計士が帳簿につけられるワケがナイ。ところが、12年経って、頃合いを見計らったかのようにタチの悪いのが、「あのな、銭になるハナシがあるねん」と、おなご衆に耳打ちする。節分だって年に一回、芸人松本の旦那遊びは年に一回ではおさまらない。本人はただの遊び。口説き、崩し。それがご時世では「性加害」となる。エピステーメはフラットに積まれてきたのではなく面積も不明のままずれて重ねられてきただけ、というワケだ。政治も銭なら、遊びも銭。素人の倫理や論理は入る余地はナイ。
いま、紙で契約を交わしている芸能は文学だけらしい。私は私の物書き生活のことしかいえないが、此度の戯曲、小説の出版は初刷り何部、印税~%、判子、印鑑。たいていの出版社と交わした。交わさず勝手、無断で出版して、もちろん印税も稿料も支払いナシという無礼というより犯罪ヤってる出版社もあって、私なんざひとがいいもんだから、そこの出版社をわざわざ訪ねて、これも紙にせずに厳重注意だけはした。なのに、まだ、そこはアマゾンで販売を続けている。小学館から映画化に合わせて再文庫化され、そのさいに編集者が犯罪出版のホンを読んだところ、半ばまでに八十数ヶ所の誤字脱字をみつけて驚いたというハナシは聞いた。そういう編集者がいるかとおもえば、テレビ・ドラマ化しますということで、「へい、へい」と許諾するヤカラもいるのだ。テレビ・ドラマ屋(日テレのたぶん下請け)にしてみれば、「これはうまいことヤったら企画書通るぞ。制作費もかなり安く出来るぞ」だけの判断で、原作者の許諾など、ハナっからかんがえに入れてはいない。ここもまた、エピステーメは平板に斜に重ねられただけで、お花畑育ちの原作者は、それでも自身の表現者の良心に突き上げられて「文句」はいう。せめて9話と10話は私に書かせてくださいませんか。いった、書いた、とそれをSNSに挙げたら、炎上とやらになった。そんなつもりじゃなかったのに。テレビ・ドラマ屋にしてみれば、そんな脚本などどうでもイイ。コミック原作のテレビ・ドラマや映画など、いくらでも脚色、潤色、演出でメタクタ出来るからナ。哀れお花畑原作者、瞬時にココロを病んだ。だけ、ならまだよかったが、命を絶った。
私の場合、そんなことで命を絶つなどということはナイ。こんなものは恵方巻きだとハナから勘定しているからだ。だったら美味く食える恵方巻きを創るまで。プロデューサーの意向、というのもあるが、それは銭を出すものの判断だ。本場アカデミー賞の「作品賞」というのはプロデューサー賞のことだ。ホンの書き直しのかなりの多くはエピステーメの重なり方のハメチガイによる。ヒロインがゴネる。ヤメル、交替、当然脚本は書き直し。他の役者(俳優)でも一緒。「はいワカリマシタ」以外、私はプロデューサーのmissionに逆らったことはナイ。役の入れ換えがある。脚本の書き直し。役者(俳優)の上下関係、経験序列によってのせりふの多寡を整える、初中(しょっちゅう)、常識的なこととして行われる。120分見当で書いたものが、20分cutになる。ただし、こういったことは当方も承知の上、戯曲が台本になっていく過程として捉えているに過ぎない。ともかくもプロデューサー、嘘つかない。脚本料は舞台初日に支払われる。こういうところにスジは通っている。
かつてテレビ・ドラマは表現媒体ではなく宣伝媒体だった。ドラマだけではナイ。歌謡番組もそうだ。大きなところではエネーチケーの紅白などは、歌手にとってはそのアトの営業料金の算盤となる。あんなもの名誉だとおもって出る歌手がいるのか(それが、いるらしい。阿呆だな)。
ジャニーズが潰れて、自民党がトウ壊して、次は吉本だなと笑っていたら、とんだところで悲報が横入りした。結婚して梅毒うつされて、自殺した女性詩人のことが、ふと脳裏をかすめた。「お魚さんがかわいそう」などといっている世界じゃナイのだ、芸能界は。事もあろうに米国の選挙で、アメリカ民主主義というものが〈共同幻想〉だったということが、老人二人によって暴露されんとしている。ジェンダーがどうこうだといっている間隙を縫うかのように、ひとりの戦士(レンジャー)が時世の読み違いでアッケに亡くなった。「恵方巻きなんか私は食べられないんですっ」じゃナイんだ。いまの外務大臣の100分の1、お花畑から蝶ではなく芋虫の葉を食うごとく「美しさ、ほほほほ、私、ヤクザもんは相手にはしないことにしておりますので、ほほほ」と、出さぬ声を聞かせる力があったなら。そのヤクザものは今頃「いいか、あいつだけは絶対に総理にさせるナ」と残した派閥で口角泡を飛ばしているにチガイナイ。桃太郎は、「きび団子なんてどんどんつくればイイんですよ」と松葉杖ふりまわしているのだろう。「善人なお、以て悪人といわんや」だな。

2024年1月 5日 (金)

時世録・52

以前鬱病で通院していた精神科は、入りやすくするために「内科」の看板も挙げていたのだが、挙げている以上はその治療もせねばならず、とはいえ、血圧一つ計るのがうまくいかないというふうだったので(いまはたいていの病院、医院はマシンですけどね)、風邪くらいしか診療対象はなかったのだが、そこで、風邪をひいて、まだ、抗生剤が出る時代だったから(いまは出ませんよ。出す医者がいたらそこはヤメなさい。効かないんですから)、抗生剤も投薬され、医師がいうには「四日は続けて服用してください、でないとキンタイセイになりますから」なのだったが、当時、私はこの「キンタイセイ」というコトバがワカラナカったので、当然ながら質問してみた。と、「菌が耐性を持ってしまうんです」とのことで、ああ、それで「菌耐性」かと、以来、他の医師と話すときも、抗生剤投与になると「菌耐性」というコトバは使うのだが、さて、此度、シス・カンパニー公演の『シラの恋文』を観る、あるいは観たみなさま。東京は7日からだから、この「菌耐性」というコトバは、福岡公演のさい、観劇していた医師から「耐性菌じゃナイですか」という指摘受けて、そのせりふがまだ若いこのせりふだったので、「菌が耐性をもつので」に訂正した。それについては、現在通院中の総合医療医師にも訊ねたが「菌耐性」とはいわないそうで、しかし、「菌が耐性を持つ」のなら「菌耐性」といってもよく、「耐性を持った菌」ならば「耐性菌」なんじゃないですかと、副詞と名詞の用い方じゃないのかと詰め寄ったのだが、やはり「そうはいいません」と一蹴されたから、仕方なく若い俳優に恥かかせてもなあと、せりふを訂正した。
しかしだぞ、医師たち。おめえらは、「花粉症」といい、「盲腸炎」といい、「蓄膿症」といい、「パニック症候群」というてるやないか。すべて、そんな病名の疾病はあらへんやないか。「アレルギー性鼻炎」「虫垂炎」「副鼻腔炎」「心臓神経症」やないのけ。
まあ、ええけんどナ。

で、昨日、アカデミー賞受賞のミシェル・ヨーの『バナ・バナ(略しています)』を観たが、なんのことはナイ、ああいうのを書いてんだよワタシは。そうすると、小劇場演劇の場合はイイ。客も頭イイからな(と、おもうんだけど)。これが、賃仕事になると必ず役者から「難しい」といわれる。プロデューサーは「難しいけど、私は好きなの」と、さすがにまだ、勘がイイ。「重なる世界というのがあって」と字幕がでてきたときは、ざまあみろっ、という気になったなあ。とはいえ、映画解説なんかにゃ「夫の気が変になり~~」とか書いてある。チガウのよ。とはいえ(連発だな)、SNSで、「恋というものがあんなふうに成立するのはロマンです」(というふうなこと)が書かれていたのにはホッとした。


2023年11月12日 (日)

時世録・45

『ブロードチャーチ~殺意の町~』でみる英国(ミステリ)の凋落。
ずいぶんとアホらしいものをみせられたので、ちょっとレビューを覗いてみた。これがまた莫迦な行為だと理解するのに15分ばかりかかった。
『ブロードチャーチ~殺意の町~』は10年前の英国テレビ・ドラマで、シーズン3まであるのだが、私がみたのは「1」だけだ。別にネタバレとかは気にしないでイイ。このミステリ・ドラマの方法論は、ともかくアヤシイ(犯人かとおもわせる)人物を次々に仕立てていき、もっとも怪しくナイものが真犯人になるのだが、全8話において、その犯人における情報が殆ど無い。情報はアヤシイ連中に集中する。ブロードチャーチという英国の田舎リゾート地のハナシで、冒頭はなんとなくかのデビィット・リンチがミステリをと、驚かせた『ツインピークス』を彷彿させる雰囲気はある。あるのだが、リンチ演出や出演者の演技と根本的に異なって、それぞれの俳優の演技が未だにシェイクスピアを引きずっているような、日本でいうところの「クサイ芝居」ばかりなのだ。一般的にいうと大袈裟。こういうのはもう大河ドラマでしかみられないのだが、これが、レビューを読むと「演技がすばらしい」になる。ああ、そうか、配信営業メディアだもんな。☆4つ以下でも3,5までで、100ばかり読んだが、ミステリ自体に疑問を呈していたのは一つくらいしかナイ。それも、俳優〇〇の演技が良かったからヨシとする、てなことになっている。信用できないのは報道メディアだけじゃナイのだ。うちはこんなスゴイ人気のドラマを配信していますよで、「レビュー宣伝」しているのだ。整体が☆五つネット情報に提供すると、一回無料にします、なんてヤっているのと同じ。
ミステリの本場はアメリカじゃありませんよ。イギリスですよ。この凋落は、英国の国力の凋落とほぼ同じ推移で起こっているような気がする。大英帝国などすでに歴史の墓場に埋もれているのだが、ミステリまでなあ。女性ミステリ作家の80%がアルコール依存だというのも、ワカルなあ。P・D・ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』を読んで、もうどれだけ年数が過ぎ去ったことか。作家は故人となり、あの作品を読んで「このひとのホンは読まないほうがイイ、書けなくなる」とココロに刻んだのは十代の頃だっかも知れない。
いま、この『ブロードチャーチ~殺意の町~』というハナクソ・ミステリを観て、なんでもかんでも、「オワ」だなあと、愚痴いいたくなったので、ここでいってみた。そんだけ。

2023年4月23日 (日)

時世録・7

/清々しいバカは勝つ/のだ。
昨日、一昨日と二回に分けて『姿三四郎』(脚本、隆巴、岡本喜八・監督、岡本喜八・撮影、木村大作・主演、三浦友和・1977年(昭和52年)10月29日公開。東宝映画製作、東宝配給。143分)を観て、仰天し、いよいよこちとらは書けなくなった。おそらくこの作品、公開当時は評判は良くなかったろうとおもいつつ、ウイキなんぞを読むと、チラっとそんなふうに書いてある(「時代にそぐわず」というふうに)。そりゃそうだろうなあ。と納得した。かの黒澤天皇の処女作以来、『姿三四郎』は五回映画化されている。とあったが、この作品は私にとってはタダゴトではナイ。若山富三郎さんが村井半助(柔術の達人で、警視庁で武道指南を決める試合をするひと、何流だったか、調べるのが面倒なので、まあともかく三四郎の宿敵、檜垣源之助(この作品では中村敦夫さん)の師匠)なんだけど、若富さん、ほんとに柔道出来るひとだからなあ、試合シーンなんかすげえのよ。たぶん指導したんだろうなあ。それはそれとして、なんともはや驚くのは、三四郎の兄貴分の安吉(田中邦衛さんが演じている)の田中邦衛さんから田中邦衛節のせりふまわしを止めさせていること。しかし、これが臭くなくてイイのだ。さらに、ラストシーンで、檜垣兄弟との決闘に出向く三四郎とその妻となる乙美に「三年待って帰らなかったら・・」「いえ、何年でも待ちます」なんてお約束のせりふをいわせておきながら、けっきょく、乙美さんに決闘の場所まで山の岩場から谷、崖をよじ登らせて逢いにいかせるのだ。驚きですよ。こ のシーンがまた長いの。で、そこで「終」と字幕。待ってるばかりが女じゃないのよってことなんでしょうけど、これ秋吉久美子さんが演じるんですワ。こういうのは書けないよ。1977年ですぜ。ジェンダーもへったくれもナイ時世よ。喜八さんにはいつも驚かされるが、この作品は喜劇なんだろうか。あの有名なプロット、寺の蓮の池で蓮の花が咲くのを観て三四郎が「悟る」ところなんか、あっさりやめて、和尚(森繁さん)がなんか云うんだけど、たぶん、「もう上がって来い」とかだろうけど、ザバザバと上がっちゃって、清々しいバカのまま。悟ったりしない。だから、どうなんだといわれても、どうでもイイとばかりに誰にも負けない。寄るな触るな三四郎だ。百恵ちゃんの色香には負けて結婚しちゃった三浦友和そのまんま。姿三四郎のモデルは西郷四郎だといわれておりますが、この西郷四郎(実在のひと)も大きな試合中に片腕を骨折したのに、残った使える片手だけで勝ち進んで優勝した経歴(エピソード)がある清々しいバカ。オリンピック・ジュードーで、(三船久蔵十段に、あんなものは柔道ではナイといわしめたアレ)で、かの柔ちゃんが北朝鮮の選手に負けて銀メダルになったアレ、アレはですな、北朝鮮の選手の祖父が日本でかつて柔道を修練していて、孫に教えた必殺、技ではナイ、必殺柔道着の着方に理由があって、北朝鮮の彼女、逆襟に着たんですな。その後、ルール改正でそれはアカンということになりましたけど。それはともかく、私、落ち込みましたワ。これほどのホンは無理だなあ。癪だなあ。岸田森さんなんかは刺客として出てくるんだけど、これが忍者の大将の剣術使い。どんな技を使うのかワカランうちに、その存在の恐さはワカルんですが、やっぱり負けるんです。清々しいバカにかかっては、青白く暗い刺客なんて問題ナシ。一応斬られますけどね。命には別状ナシ。なんつうか岸田刺客の刀は仕込みの直刀ですから、あれでは殺せませんよ。オープニングとエンディングに青春ドラマのような主題歌が流れて、 見事なもんです。はい、負けました。喜八監督はけして/清々しいバカ/なんかじゃナイんだけどなあ。

2023年4月 4日 (火)

時世録・3

Mission Impossibleな仕事にヤッとどうにかケリをつけられたので、レンタルしたままになって数ヶ月にもなってしまった(と、おもう)『MINAMATA』(監督、アンドルー・レヴィタス、2020年・アメリカ合衆国)を観たんですが、ちょっとへんな感じの映画でした。もちろん、主演がジョニー・デップで、その役がユージン・スミスですから、どちらも好きなもんですから、観て損はなかったとおもうんですが、で、よくある「この映画は事実に基づいてつくられた」ってのが最初に字幕されるんですが、たしかに「水俣」のチッソ水銀公害病は事実ですし、その患者さんや水俣病の風景をユージン・スミスが撮ったことも事実なんですが、中身に関していえば、ユージン・スミスがこんなふうに云うせりふ「むかし、アメリカ先住民は写真を撮られると魂を抜かれると云ってのだけど、ほんとうに魂を抜かれるのは写真を撮る側なんだ」だけは、なんだか身につまされるおもいでしたが、それもほんとうにスミスが云ったことなのか脚本家がつくったのかはワカラナイ。それと同じような感触が全編にあります。全部fictionといえばそうですし、と、いうのも、水俣病が騒がれていたとき、あのときのような鬼気せまるものというものが何にもナイ。そこで、researchをかける。つまりレビューやなんかを読んだワケです。
水俣市は「制作意図が不明」ということで、この映画の後援を断わっています。なるほど、云われてみりゃそんな感じだなとおもうワケです。水俣病を撮ったのか、ユージン・スミスを撮ったのか、映画としてのfocusが判然としません。「この映画は違法映画といえる」というレビューがあって、要するに「ウソだらけ」だという長いレビューで、このひとはほんとうに怒っている。ウイキでユージン・スミスの来歴を調べもしましたが、ユージン・スミスについてもかなりイイカゲンにしか描いていない。水俣病についても然り。要するにこの映画は「だれの目で観たナニなのだ」と、私としては結論するしかナイんです。そこらあたりが「へんな感じ」の正体だなあ。
とはいえ、水俣病がまだ法廷闘争中だという字幕が最後に数多の説明字幕とともに流れて、「ええっ、へーえ、そうなのかよ」と驚いたことも確かで、この字幕はいっとう最初にもってきたほうが手法としては正解だったんじゃナイのかなと、つまり、水俣病は過去のものではナイのだということなんですが、現状、水俣市は「もう、あのことは忘れたい。そっとしておいてもらいたい」という人々も存在するワケですから、それにあの工場はまだ操業していて水俣市民が多く働いているワケで、この辺はいまの沖縄の基地問題と一緒。
ユージン・スミスの写真集のタイトルは忘却しましたが、スゲエなあと若いころそうおもって観てましたナァ。で、中にミナマタの写真もあったのだけど、私は嫌悪しました。理由はよくワカリマセン。芸術作品としての写真なのでしょうが、私自身、こういう表現はけしてヤラナイでおこうと決めたことは記憶しています。その気持ちは伊丹万作さんのエッセイでなんだったっけ、読んで、なんかフォローされた覚えがあります。

2023年4月 3日 (月)

時世録・2

『子連れ狼 (北大路欣也版)』は2002年から2004年にかけて三部作に分けて、テレビ朝日で月曜日19時台に放映された(ウイキ・私は月額1800円の寄附をしておりますが、寄附ではなく資料・取材費としての経費だと認識しています)要するにご存知の時代劇ですが、若山富三郎さん(勝プロ・映画)も全部二度観ておりますし、萬屋錦之介版(日本テレビ系)も中断された後のものは観ています。残念というのでしょうか、運命というのでしょうか、/損(そん)なもんだぜ人生は/というのでしょうか、このときの大五郎くん(第一部と二部に出演)は殺人罪で無期懲役になられまして、未だ10年はムショ暮らしだろうってんで、再放送は出来ないようです。
そんなことはどうでもイイんですが、『子連れ狼 (北大路欣也版)』は武芸者の盟友からギフトされた『時代劇チャンネル』のDVDで現在観ています。
これは、ちょっと驚きました、武芸者の右近どのも、この作品を観るまでは北大路欣也に対しては特に興味はなかったんだけど、これでビックリ、いっぺんに注目、ということだったんですが、私も同じでして、若富さん、萬屋さんは、その演技は「怨念、悲愴」まさに冥府魔道のソレだったんですが、北大路さんの拝一刀はまったくチガウcharacterで演じています。冥府魔道というよりも、冥府麻婆豆腐という感じで、ピリッと辛いのですが、豆腐の味もしっかりしている。けして怨念と遺恨だけではナイ、これは全編を通して数人の脚本家と監督がコンセプトを「親子の愛情と悲哀」から逸脱することなく、見事なホンを書き、演出をしているからですナ。柳生との死闘も東映剣会のあった頃ですから凄いときている。大五郎くんがまたイイ。武芸者によりますと、撮影現場では、この大五郎くんは「先生」とスタッフから呼ばれていたそうです。この方は幸いにして、ふつうの大人になって、俳優業ではありません。
脚本家の方々も監督さんも、私、ぜんぜん識らないんですが、競い合ってか、ともかく上手い。役者さんたちがこれまた負けてなるかとの名演技。私なんざ毎度(一日一話観ていますが)泣いています。(半分は悔し泣きです。クソっ、おれより上手いホン書きやがって)。
運悪く、私、鬱病の現象(症状)中であったにかかわらず、再来年のシス・カンの本を書いていたのですが、ぜんぜん上手くいかない。何度書き直しても通俗。三流。
時代劇というものに「時代考証・監修」なんてのがたいていはあるんですが、私見ではありますが、あんなのは/まったく必要無い/です。/あっても意味無い/です。だいたい、時代劇なんてのはチャンバラ(剣戟)なんですから、片目片腕の「しぇいは丹下、名はしゃぜん」なんかが出てきたところで、何が「時代考証」やねん、アホラシイ。
その点、原作者の小池一雄さんなんかは「公儀介錯人」なんてありもしない役職を創作したりして、あるいは「十手もん」なんてのもそうなんですが、そういうのはfictionなんだから、どうでもイイの。観ているほうが納得すればイイstanceですから、立派。
私なんざ、毎日『子連れ狼 (北大路欣也版)』が観られるので生き延びる努力をしているような按配で生きています。

2022年10月26日 (水)

アト千と一夜の晩飯

第四夜

『ミュージックボックス』(Music Box)は、ジョー・エスターハス脚本、コスタ=ガヴラス監督による1989年のアメリカ合衆国の映画。
ハンガリーにおけるユダヤ人虐殺をテーマに、戦争犯罪の容疑をかけられたハンガリー系アメリカ人の男とその弁護を務める娘を描いた法廷ドラマ。脚本を書いたエスターハスもハンガリー出身である。出演はジェシカ・ラング、アーミン・ミューラー=スタール、フレデリック・フォレスト、ドナルド・モファット、ルーカス・ハースなど。
第40回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作品。(以上、ウイキ)

こいつぁ、最近までDVD化けしなかった映画でしてね、私も最近レンタル円盤で観たんすが、日本公開は1990年なんすが、私、これ劇場で観ていますね。殆ど記憶が蘇ってくれなかったんですが、ミュージックボックス(オルゴールのことです)から写真が出てくるsceneを観て、「アッそうだよな」とフラッシュ・バックしました。
法廷もの(洋画ではですが)好きで、なんでかというと、ああいうのは私、まったく書けない(だろう)とおもう。作文技量の問題じゃなくて、どうしても「追い詰める」「追い詰められていく」は、観るぶんには、盤上の勝負のように、緊張感があって好きなんですけど、書くとなったら、ヤ、ですね。出来ませんね。ですから私、演出ってのは出来ない。どうしたって演出は役者を追い詰めますから。Profileに「演出」とあるのは消してもらっている。まんず、自分の作品だけは/間違えられないように/演出はします。と、いうか「あっ、そこ誤解、錯誤、誤謬、思い違い、錯覚、勘違い、ハズレ、嘘」というふうに演者にmissionはします。下手でもイイ、せめてウソはやらせたくないから。

『ミュージックボックス』、この映画は、/いまの世界/の映画です。観る価値があるとかどうのとかいうより、歴史は繰り返す。ヒトなんて何も変わっていない。と悲観的に観ることも出来るし、そうだなあ、核戦争になっても自業自得だなあ、ともおもいますし、やっぱ、私には「愛」というのはワカリマセンし。「神の御業」だか「寝業」だか「試練」だかもぜんぜんワカリマセンね。人間なんて屁のようなものだということはちょっとはワカリマス、しかし、この「屁」がくせもの、臭えものなんだから、けっこうスゴインじゃないでせうか。

2022年9月 1日 (木)

Sophism sonnet return 08

『シャレード』

バソコンの「マイピクチャー」ファイルには、UNICEFの機関誌のニュースの中の一枚、オードリー・ヘプバーンが子供を抱き抱えている白黒写真がコピペしてある。オードリーは子供の頃ユニセフに救われ、映画を引退した後、晩年はユニセフで働くことに費やされた。そのうちの一枚だ。
私のオードリー・ヘプバーン遍歴は変わっていて、最初に観たのが『暗くなるまで待って』という意味深なタイトルのサスペンス。中学生の頃か高校生になってからだったかは忘却した。それにオードリー・ヘップバーンのファンだったから観たというのではなく、そのsituationに引っ張られて観ただけで、これがなかなかの映画だった。(原題『 Wait Until Dark』は、1967年のアメリカ合衆国のサスペンス映画。出演はオードリー・ヘプバーンとアラン・アーキン、エフレム・ジンバリスト・Jr、監督はテレンス・ヤング。フレデリック・ノット(英語版)による同名戯曲を映画化した作品である。なお同戯曲の舞台初演は1966年だが、その初演の前からヘプバーン主演での映画化が決まっていた。盲目のヒロインをまったく盲目でナイように演ずるオードリーの盲目の演技は映画史上、伝説となるだろう)
次は『麗しのサブリナ』(1954年アメリカ公開)で、つまり、リアルタイムで観たものは全くナイ。これももともとは戯曲で、監督がビリー・ワイルダーだから観た。で、これもオードリー(お得意のというのか)オヤジ殺しの映画で、ボギーがコロっといかれるのだ。これをもとに、シス・カンパニーの「日本文学シアター」第一作「太宰治・グッドバイ」を書いて鶴屋南北賞を受賞したが、太宰さんのほうはデコっているだけで、本筋はサブリナである。
で、まあ、アカデミー賞 主演女優賞受賞の『ローマの休日』も観るには観たが、薄っぺらい絵本のような作品で、私はこの作品は買っていない。
さて、タイトルの『シャレード』だが、これはごく最近観て、えれえ衝撃を受け、すぐにアマゾンに入っていろいろ五本ばかり買い求めた。(『Charade』は、1963年のアメリカ映画。ユニバーサル・ピクチャーズ制作のロマンティック・サスペンス映画である。主演はケーリー・グラントとオードリー・ヘプバーン)。
なんで、何が衝撃だったのかよくワカラナカッタが、タイトルの『シャレード』の意味を調べてみて、やっと理解出来た。これは、脚本の手法を意味する用語なのだ。/<映像に映る“何か“を象徴として示すことで、言わんとする意味を伝達すること>。簡単に言えば、言葉でなく映像で語らせるということ。/
なるほど、このホンはそういう映画に撮れるように書かれてある。(しかし、せりふもイイのだ)。そうして、映画もそのように創られている。そうすることによってなのか、オードリーの演技、容姿、が他の作品とはずいぶんとチガウ。ドキドキさせるほど魅力的なのだ。(初めてストライクになって空振りした)と、おもったけど、チガウな。こっちはケーリー・グラント目線でオードリーを観てしまっている。グラントは当時53歳だから(オードリーは33歳)、いまなら70歳前後だ。ああ、オレも大人になったなあ。
しかし、オードリー・ヘプバーン、この世になく(1993年、スイスの自宅で「腹膜偽粘液腫」のために63歳で死去)、上岡龍太郎老師に「私の昭和は小坂一也の死とともに終わった」といわしめた、あの、永遠のboy's voiceにして、『不連続殺人事件』の巨勢博士、「北風」「ワゴン・マスター」「ライフルマン」のcountry-music singer、も、いまは風と一緒に何処へやら。
未練なんかねえな。つまらねえな。なんかオモシロイことやりたいな。

2022年5月21日 (土)

Sophism sonnet・69,11-14

映画評 『モスル ~あるSWAT部隊の戦い』

「話がみえない」というレビューもありましたが、レビュー平均は3,7~4,1です。私はたまたま「戦争」のことをブログに書いた直後に観た(といっても例によってDVD鑑賞ですから1年遅れているのですが)☆五つでイイとおもいました。
たしかに「話がみえない」というのは正しいのです。理由は二つあります。一つはこの映画はイラク戦争のSWAT(Special Weapons And Tactics)特殊部隊がイスラム国と「ある任務遂行」のために闘うだけの映画で、ストーリー(お話)のようなものはありません。あるのは「情況」だけです。しかし、この「任務」が何であるのかというのかが、シド(ミソの上)です。もう一つは、イラク戦争という史実(内容自体は事実)に基づいているので、「お話」にはならないのです。「話がみえない」と評したヒトが莫迦なのではありません(少々、世界情況に疎い、幸せな方という気はしますが)。
「モスルに勤務する21歳の新人警察官が、身内をISISに殺された者たちだけで構成されているSWAT部隊にスカウトされる。部隊がISISの要塞を目指す中、青年はチームに課された真の使命を明かされぬまま、隊員たちと壮絶なゲリラ戦を重ねていく」というふうにウイキではなっています。初公開: 2019年9月4日ですが、日本公開は2021年あたりじゃないかとおもわれます。監督: マシュー・マイケル・カーナハンです。なんとまあ、映画の中で出演者の誰一人米語は喋りません。しかし、カイヨワの述べた「内的戦争」はみごとに描かれております。SWAT部隊の10名(だったとおもいますが)の隊員は誰も米欧のことなど信用しておりません。米国のSWATなんですけど。国家、国境など、欧米によって引かれたただの線だというせりふがありますが、そうかんがえればロ×ウも、その線をめぐって殺し合いをしているだけで、「お話」などナイのです。そうおもえば、確かに「話しにならない」ことをロシアとウクライナ、広くは米欧、中国(この国はロシアのウクライナ侵攻数ヶ月前に、世界の、とりわけカナダなどからから小麦を爆買いしています。確信犯ですナ)等々はヤっているのだということがワカリマス。日本ですか、イイ国なんじゃナイかとおもいます。(安倍ってまだ国会議員しているんだ。ちょっとビックリですワ)と、そういう国ですナ。


2021年2月 5日 (金)

珍論愚談 17& 無学渡世・七

クマゴロ「&、なんてえのをつけるのは、ニイちゃんのことをあっしが話すってことで、ニイちゃんにしてみりゃ、ひとにはいえない秘密のおハナシ。秘密をこんな公のところに書いていいのかって、そりゃ、オリ・パラのあの森さんなんか老害かなんかでテレビでヤってんだから、max180のここくらい、いいんじゃナイノってことで。
栗塚旭さんと、土田早苗さんのコンビが活躍の『風』って時代劇というより時代活劇、なんつうか、明るい眠狂四郎ふうのドラマ、ルパンものみたいなのね、こいつをニイちゃん、boxで買ってきて、なんだか高校生の頃に観ていたらしくって、正味45分の一話完結だから連続ドラマなんだけどイライラしない。この何話目だかに、贋金づくりのツナギ、悪女役で猫が、ああ、猫ってのは三味線弾きのことなんけどね、そのうら若き師匠が出てくる。こいつにニイちゃんの目が釘付け糠漬けになって、「オレ、この女優さんなんだかずっと観たことあるんだけど、何かの連続ドラマでうーん」と頭抱えて、これが尋常じゃナイ。「いやあ、ただ記憶しているというふうじゃなくて、ナンカ特別な入れ込み、心情があったようなうーん」で、その日はいろいろネットをほじくったけど、ワカラナイ。ところがよくあることなんだけど、ひとってのは、急にフワッとおもいだすんだよなあ。「あっ、待てよ」と、ユーチューブ入って、引っ張ったのが『風雲黒潮丸』。これニイちゃん八つ、小学生にして二年生か三年生の頃のテレビ時代劇。ニイちゃん、エッセーで『風聞黒白〇』なんて書いているのに、つまりそれほどファンだったのに、おもいだすのが遅すぎらぁ。こいつは、全編五十六話もあるのに、フィルムは日本お得意の事情で一コマのカケラも遺っていない。フイルムグラフィーだって、まったく無い。しかし、まあ、誰だかはワカッタ。青柳三枝子って、『風雲・・・』では少年剣士だけどほんとは少女で、小夜姫(少年剣士のときは小夜丸といってた)、ニイちゃんが視聴していた当時は十五歳あたり(よって現在は七十五歳)。月刊誌にドラマの宣伝ニュース写真が二枚。「ああ、たしかにこのお嬢さんだ」って、いまはうんと年上なんだけど、時間非在論者のニイちゃんにはそんなことはどうでもイイ。「哀しいねえ、ニュートン力学世界は」。
そういや、ニイちゃんの演劇、やたら女性が少年役で出てくるんたけど、原点はここにあったようで、そういうことにもニイちゃん、やっと気付いたご様子。「もうひとり、ヒロインがいて、主役とそのヒロインは許嫁だから、何れは主役は小夜姫じゃなくてそっちと、だけど、オレは小夜姫のファンというより恋慕でいっぱいだったから、どうか主役と一緒になれますようにって、ズッとおもっていて、それで願いが叶って、黒潮丸(主役)と小夜姫は結ばれるんだ。なんかもう、シラノみたいなの、オレの存在って」
ニイちゃんのおもいで結ばれたワケじゃナイんだけど、ねえ。で、ニイちゃん、最近はビョーキ。「他のドラマ出演なんてのはぜんぜん世界がチガウの。オレは小夜姫がいいの。青柳さんなんか知らないよ」なんてこといって、ユーチューブに日参しては、主題歌歌って雑誌写真観て。おいらもう、なんか、ニイちゃんのほうが哀れでセツナクて、どうおもうご隠居さんよう。
ご隠居「ニイちゃん、八つだったんでござんしょ。ませたガキというか早熟というか、愛情がメビウスの環だねえ。長生きしないほうがよろしかろう。しんどいだけですよ。たまにいるんだよクマゴロ、こういうニイちゃんみたいな地球外生命体てのが、現実より虚構幻想の世界で昼寝してるみたいのがねえ。まあ、そっとしときな。
クマゴロ「へい。触らぬチンポコに勃ったりはナシ。

遠くでニイちゃんの歌声。

ηルソン アンナン カンボジアァ はっるかにとおくエスパニィア~

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