nostalgic narrative 8
意味なく太い巻き寿司をそのまま食べる節分の行事「恵方巻き」は私の地方で私の幼少のころはなかった。おそらく全国何処にもなかった。いや、あったのだが、なかった。これは旦那衆のお座敷の芸者遊びだったからだ。それに目をつけたコンビニチェーンがまるで古事の因習でもあるかのように尤もらしいキャッチフレーズを並べ立て、売り出したらアタッタ。それだけのことだ。あの太い海苔巻きがナニを意味しているのか、デフォルメしているか、なんのメタファーかは、推して知るより芸者衆が頬張るところをイメージすれば、その通りなのだ。
松本人志事変もおそらく同様のことだ。だから、芸人松本自身はかの行為をまさか性加害だなどと捉えてはいない。集めた芸者ならぬ素人もしくは新人女性芸人に花代が幾ら支払われたか、それは「裏金」というもので、派閥とやらの政治家連中も、陳情陳述者相手に似たような接待はしてきたろう。多寡はチガウだろうけど。そんなものを会計士が帳簿につけられるワケがナイ。ところが、12年経って、頃合いを見計らったかのようにタチの悪いのが、「あのな、銭になるハナシがあるねん」と、おなご衆に耳打ちする。節分だって年に一回、芸人松本の旦那遊びは年に一回ではおさまらない。本人はただの遊び。口説き、崩し。それがご時世では「性加害」となる。エピステーメはフラットに積まれてきたのではなく面積も不明のままずれて重ねられてきただけ、というワケだ。政治も銭なら、遊びも銭。素人の倫理や論理は入る余地はナイ。
いま、紙で契約を交わしている芸能は文学だけらしい。私は私の物書き生活のことしかいえないが、此度の戯曲、小説の出版は初刷り何部、印税~%、判子、印鑑。たいていの出版社と交わした。交わさず勝手、無断で出版して、もちろん印税も稿料も支払いナシという無礼というより犯罪ヤってる出版社もあって、私なんざひとがいいもんだから、そこの出版社をわざわざ訪ねて、これも紙にせずに厳重注意だけはした。なのに、まだ、そこはアマゾンで販売を続けている。小学館から映画化に合わせて再文庫化され、そのさいに編集者が犯罪出版のホンを読んだところ、半ばまでに八十数ヶ所の誤字脱字をみつけて驚いたというハナシは聞いた。そういう編集者がいるかとおもえば、テレビ・ドラマ化しますということで、「へい、へい」と許諾するヤカラもいるのだ。テレビ・ドラマ屋(日テレのたぶん下請け)にしてみれば、「これはうまいことヤったら企画書通るぞ。制作費もかなり安く出来るぞ」だけの判断で、原作者の許諾など、ハナっからかんがえに入れてはいない。ここもまた、エピステーメは平板に斜に重ねられただけで、お花畑育ちの原作者は、それでも自身の表現者の良心に突き上げられて「文句」はいう。せめて9話と10話は私に書かせてくださいませんか。いった、書いた、とそれをSNSに挙げたら、炎上とやらになった。そんなつもりじゃなかったのに。テレビ・ドラマ屋にしてみれば、そんな脚本などどうでもイイ。コミック原作のテレビ・ドラマや映画など、いくらでも脚色、潤色、演出でメタクタ出来るからナ。哀れお花畑原作者、瞬時にココロを病んだ。だけ、ならまだよかったが、命を絶った。
私の場合、そんなことで命を絶つなどということはナイ。こんなものは恵方巻きだとハナから勘定しているからだ。だったら美味く食える恵方巻きを創るまで。プロデューサーの意向、というのもあるが、それは銭を出すものの判断だ。本場アカデミー賞の「作品賞」というのはプロデューサー賞のことだ。ホンの書き直しのかなりの多くはエピステーメの重なり方のハメチガイによる。ヒロインがゴネる。ヤメル、交替、当然脚本は書き直し。他の役者(俳優)でも一緒。「はいワカリマシタ」以外、私はプロデューサーのmissionに逆らったことはナイ。役の入れ換えがある。脚本の書き直し。役者(俳優)の上下関係、経験序列によってのせりふの多寡を整える、初中(しょっちゅう)、常識的なこととして行われる。120分見当で書いたものが、20分cutになる。ただし、こういったことは当方も承知の上、戯曲が台本になっていく過程として捉えているに過ぎない。ともかくもプロデューサー、嘘つかない。脚本料は舞台初日に支払われる。こういうところにスジは通っている。
かつてテレビ・ドラマは表現媒体ではなく宣伝媒体だった。ドラマだけではナイ。歌謡番組もそうだ。大きなところではエネーチケーの紅白などは、歌手にとってはそのアトの営業料金の算盤となる。あんなもの名誉だとおもって出る歌手がいるのか(それが、いるらしい。阿呆だな)。
ジャニーズが潰れて、自民党がトウ壊して、次は吉本だなと笑っていたら、とんだところで悲報が横入りした。結婚して梅毒うつされて、自殺した女性詩人のことが、ふと脳裏をかすめた。「お魚さんがかわいそう」などといっている世界じゃナイのだ、芸能界は。事もあろうに米国の選挙で、アメリカ民主主義というものが〈共同幻想〉だったということが、老人二人によって暴露されんとしている。ジェンダーがどうこうだといっている間隙を縫うかのように、ひとりの戦士(レンジャー)が時世の読み違いでアッケに亡くなった。「恵方巻きなんか私は食べられないんですっ」じゃナイんだ。いまの外務大臣の100分の1、お花畑から蝶ではなく芋虫の葉を食うごとく「美しさ、ほほほほ、私、ヤクザもんは相手にはしないことにしておりますので、ほほほ」と、出さぬ声を聞かせる力があったなら。そのヤクザものは今頃「いいか、あいつだけは絶対に総理にさせるナ」と残した派閥で口角泡を飛ばしているにチガイナイ。桃太郎は、「きび団子なんてどんどんつくればイイんですよ」と松葉杖ふりまわしているのだろう。「善人なお、以て悪人といわんや」だな。