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カテゴリー「映画・テレビ」の記事

2017年8月 6日 (日)

映画感想『ハローグッバイ』

菊地健雄・監督、萩原みのり、久保田紗友、2017(2016製作)作品。

久しぶりに映画館(名古屋シネマテーク)で映画を観た。とくに何を期待、というワケではなく、ダブル主演の萩原みのりは、2017の夏、シス・カンで初舞台でヒロインを演じているのだが、このときオーディションで残った二人のどちらをとるかで、(このどちらをとるかが、勝負の別れ道だったんだとおもうが)いったん決まった一方をヤメ、演出の「下手なほうで」という選択にproducerも一発賭けたのだが、そのヒロインが、そう、だったからで、なるほど、この映画のcrank inが2017の初夏とあるから、シス・カンの舞台の前だ。映画ではここまでカメラと監督が撮ってくれるものなのだなあと、初舞台の「下手なほう」の萩原みのりは、とても舞台では通用する技量はなく、それを例によって、演出の「誘導尋問的演出」で鍛えられて、ずいぶん得をしたなあと、まず、そうおもった。

いまの映画はフィルムではナイので、撮り直しに銭がかからないから、時間のゆるす限りのテークが撮れるから、ランスルー、リハーサルを一回で本番となるのだが、かつては、撮影一日のうち一回もカメラを回さない監督もいた。

とはいえ、この脚本はただごとではナイと、ちょうど寺山修司が、井上陽水の『傘がない』を聞いて詩を書くのをヤメル決意をしたのと同じく(そんなにたいそなもんやないけど)、けっこうヤルじゃねえか。とおもいつつ、冗談じゃねえなに変化して、参ったなあに至ったのだが、脚本は加藤綾子になってはいるが、監督とプロデューサとの三人で、ああでもないこうでもないと、かなりの練られたものだとワカッタときにはほっとした。こんなもの、ひとりでヤラレちゃかなわねえよ。

一見、バラバラなものを扱いながら、そのさまざまな波がコヒーレントしていく。Imageでいえば、いろんな波を一本の糸のついた針が貫いて縫っていく、と、そんなふうで、その縫い方のみごとさに、これを私ひとりDVDで観ていたのなら、遠慮なく嗚咽していたとおもう。

つまり、てんでテキトーにみえたもの、が、もたいまさこの老婆登場から糸が締まっていくのだ。混合状態だった量子が純粋状態に移行して、密度matrixをつくり、ついに波束の収縮となる。そんな感じかなあ。

いや、驚きました。この監督、producer、まだまだ日本の映画は健全です。

2017年8月 3日 (木)

DVD感想『マグニフィセント・セブン』

黒澤明『七人の侍』のリメイク、というよりトリビュート。主役のデンゼル・ワシントン演じるチム・チザム(このひとがリーダー)、リベンジを依頼するヒロインのエマ・カレン(ヘイリー・ベネットが演じる)は、復讐を目的としていることがハッキリしているが、チザムについていく六人の目的は報奨でも、名誉でも、ナイ。ガンマンとしての正義の遂行という大義名分はあるにしても、それが目的というワケではナイ。

要するに〈死に場所〉を求めて、なのだ。それも積極的なものというほどではナイ。「どうせ死ぬなら」程度だ。

劇中チザムは、コマンチ族のレッドと遭遇、一触即発の情況かと思いきや、チザムはレッドにこういう「悪人を退治しにいく。みんな死ぬ」(こんなふう)。これを聞いてレッドは、では自分もと、仲間に入る意志を示す。チザムのコトバを聞いたからには、コマンチ族の誇りとして、黙って立ち去るワケにはいかないからだ。つまり、動機は、みなこんな感触だ。

相手は400人以上のガンマンとガトリング砲。悪党たちというより、傭兵の軍だ。それだけで、同様リメイク映画『荒野の七人』よりもqualityの高いウエスタン・アクションになっている。それはそれで、かなりのオモシロさなのだが、何よりも、私を引きつけるのは、このなんとなくの〈死に場所〉へ向かう妙な気概だな。とくに屹立しているワケでも凛としているワケでもナイ。〈死に場所〉で、まっ、イイか。「男だって虹のように砕けたいのさ」という、潜在的な虚無感。時代は西部劇の時代、アメリカの開拓時代なのだが、充分に〈いま〉の世界の鬱蒼は映画の中に垂れ込めている。

どうしても、私の変なクセで、ガンマンたちが死んでいくところより、最後の晩餐のごとく、ともに飯を食うシーンが印象に残る。それは、黒澤『七人』も同じ。黒澤『七人』はただ、百姓たちの「腹いっぱい白飯を食わす」という条件のみで、侍たちは〈死に場所〉に立った。

いいよね、それで。なんとなく〈死に場所〉で。

 

こんな夏の息苦しさで死ぬのはゴメンだな。「なんとなく」、rear carを止めて、荒野を観ている。

2017年7月21日 (金)

これは〈無理〉です。DVD感想『あのひと』

半年ばかり前に「これはオモシロイよ」と、どのひとかから頂戴した『あのひと』(山本一郎、監督・脚本、織田作之助・・推定)は〈無理〉な映画だとしかいいようがナイ。いんろなintelligentsiyaや、ゲイジツ家、業界の方々が「お褒め」のコトバをなんぼもろてか、あるいは好意とか付き合いでか、お書きになっているが、なるほど、うまいこというねえ、としかこれもまたいいようがナイのだ。

映画の傾向をコジツケでいうならば、戦中のATG映画、とでも呼称、あるいは小劇場演劇映画、になるのだが、脚本が織田作之助のものかどうかなどということは殆ど問題にならない。たしかに筆致はそうなのだが、この程度のものは、私の弟子たちなら課題提出レベルで書いてしまうもので、タイトルにしてからがマズい。『あのひと』で戦中の脚本であるならば、劇中でいくらはぐらかしても、それが〈天皇〉を示していることは歴然としており、英語訳されたタイトルの『The one』のほうが的確ではないかな。

戦争コミックには、未だ大東亜戦争が続いていたら、や、もし、ミッドウェーで日本海軍が負けなかったら、などのIFものがけっこうあるのだが、この映画もその方法をとりながら、とりあえずは「反戦」映画の範疇に入り込んでいるのだろう。しかしそれは〈無理〉だ。

「お褒め」のコトバの中に四方田犬彦さんが「キアロスクーロも申し分なく」なんてことをいっているが、こういう専門用語を使われると、へーえ、そうなのかと私ども素人は思い込んでしまうのだが、なんで「画面の明暗、コントラスト」といえないのか。それでなら、とてもじゃナイが、へーえ、なんて納得はしないな。レフ板の輝き一つとっても、それがワザとなのか、ワザとなら、どういう効果が狙いなのか、さっぱり素人の私にはワカラナイ。長く同じ釜の飯を食った神戸浩などは、一生懸命に最低の(私の知る限りだけど)演技をしていて、うら悲しいったらありゃしない。演技のことについては触れるようなレベルではナイのでやめておくが、結局、ちょっと出の福本晴三さんの、演技などではナイ、存在感という「演」にアッというまに持っていかれて、チョンかな。

だいたい、日本の国ほど、戦中はともかく、現在もまた天皇、皇族を上手に活躍させている国家はめずらしいのであって、公務と名付けられた奮闘ぶりには頭が下がるし、感動して涙が出る。現防衛相が、先だっての九州豪雨のときも、陣頭指揮に立たず、獅子奮迅の自衛隊を労いもせず、「台風来てんのっ」などというとったんやから、もうこのアホは首相の任命責任がどうのではなく任命理由のほうをハッキリさせるか、いっそ、死んでもらえ。その手の裏組織が存在することくらいは、素人の私でも知っている。私も命が惜しいのでその組織については都市伝説にしておく。

こんなもんに「不気味」がってたり「戦争とはと問いかける」などと他人事みたいに呑気なこというてる連中は、あの『陸軍中野学校』『兵隊やくざ』の増村保造監督の、もう一つの戦争映画『赤い天使』(若尾文子・主演)でも観てみるとイイ。一度も休むことなく、観果せたらたいしたもんだ、と、当方、脱帽する。(私は血圧の具合が急変して二度休んで観た)

織田作の未発表脚本が出てきた。それ、撮っちゃえ。この監督は、もう数年は脚本と格闘すべきだったと、これが、織田作を舐めてかかったようにしか思えなかった私の感想だ。

2017年6月23日 (金)

千年医師と赤い天使

なんか調子こいて、きょうはサービスにもう一本。あのね、『千年医師物語 ペルシアの彼方へ』(詳細はネットで調べてね。何も私がわざわざここに書き写すこともナイと思うから。それとでんな、こういうところでも、イスラム攻撃はあるねんなと、ちょっとは思ったんですが、それを針小棒大とはいわんけど、そこをpickupして、この映画はウソと書いてるウェブもあったなあ。そういうことはどうでもエエねんけど)。んで、『赤い天使』(大映・196610月公開。増村保造監督(私、このひとのことはヤスゾーではなく、タモゾウさんと親しみと畏敬をこめて称しております。『兵隊やくざ』も撮れば、『陸軍中野学校』も撮っちゃう。前者は勝新太郎、後者は市川雷蔵、カツライスの黄金時代の名監督)原作が『兵隊やくざ』の有馬頼義。んで、なんつうても、主演の若尾文子。若尾文子さんは川島ダンナの『女は二度生まれる』がサイコーなんですが、こういう「芸術祭参加作品」にして「成人映画指定」というややこしい、リアルというより、グロに近い映画でも、屹立してはんねん。

『千年医師』が、医学の進歩と希望にあふれる映画なら、『赤い天使』は、戦時中の戦場の医療を描いていますから、厭戦映画。従って、医学もへったくれもナイ。軍医の外科医に「ここには治療などはナイ。カタワをつくっているだけだ。たまには治療のようなことをやらんとキチガイになってしまう」といわしめる、三分に一回カタワというせりふが出てくるスンゴイのなんの。オレなんか、110分のこの映画、二度、血圧アップで中断しつつ観たってんだから、もう。そういやねえ、私の祖母は、縁日で傷痍軍人をみかけると、「あんなもんニセモンや」と吐き棄てるようにいうてました。私の子供の頃には、まだいてはったんです。傷痍軍人のテキ屋。そう、テキ屋なんです。私、そのこと知ったのは、テキ屋のアルバイトをしたときですワ。「きょうは何すんねん」「きょうは、そやなあ、カタワでいきまっさ」「傷痍軍人かいな」で、テキ屋の親分さんが、白衣、帽子、包帯、松葉杖、アコーディオンなんてのを揃えて、「ほな、しっかりやりや」と、こういうもんなの。

ところで、なるほど、この映画の中のせりふにあるように、負け戦の野戦病院にクスリなんかナイから、手も足も切断しなければしょうがナイ。で、そういう兵隊は、内地に還れても、故郷の土を踏むことはナイ。特殊施設に死ぬまで軟禁状態となる。「そりゃあ、そうでしょう。私のような両腕のナイものが人目につくところに戻ったら、いっぺんに国民は戦争に嫌気を持つでしょう。ですから、内地に還っても、妻には逢えません」というせりふもある。で、こっからErosが始まり、それがTanatosになるのであります。

偶然に両方を日を置かずDVDで観たんですけど、『赤い天使』はフランスでは評価が高いんですが、日本ではイマイチ。日本人はこういうのは好みではナイということは、一目瞭然でして、若尾さん演じる従軍看護婦にしても、好みじゃナイでしょう。

オレ、思う。慰安婦がどうたらこうたらいうてる連中は、一度この『赤い天使』観てみはったらどない。あのな、「従軍」と付いたら、もう慰安婦も看護婦も掃除婦も一緒やで。

2017年4月 3日 (月)

こういうのはゆるせない、ナ

 

映画『フレンチアルプスで起こったこと』(2014/スウェーデン、デンマーク、フランス、ノルウェー 上映時間118分 監督・脚本:リューベン・オストルンド)

ゆるせないといっても、そんな権限など私にはナイんだけど、も、だ。ただですね、映画のテクニックとしての創りは上手いんですけどね、何も彼もが「ご都合」的かつ、アホみたいな、いわば出来レースでしょ。映画とはいえ、いくらなんでもこれはアカンです。

実にツマラン夫婦喧嘩、痴話喧嘩をえらく深刻にみせているだけで、何かそれが男や女や家族の重要な問題だとか、哲学的課題を含んでいる雰囲気だとか、そ~んなこと在るワケ、ネエだろ。北欧と、仏蘭西の頭脳レベルは、現状、こんな程度なのかよと呆れます。ところがこの映画、何だか人気があるようです。この映画を観て、あ~だ、こ~だ、と、議論とお喋りを混淆して夢中になってるcoupleとかたぶんいるんだろうな、と思うと、オレ、虫酸が走るワ。

銭を返せとはいいません。私の場合、118分の視力疲労を返してもらいたい。

2017年3月29日 (水)

命をかけてくつがえす

 

映画『超高速参勤交代リターンズ』は、「よく出来ている」といより、「よく創っている」といったほうがたぶんアタッテいる。映画好き(マニアではナイ)で時代劇好き(オタクではナイ)が集まって軍議をもち、「映画、創るだ」という決意をもって、「くつがえすだっ」と衆にして集にあらずの映画(時代劇)を創った。前作がそうだったが、今作も、more wonderful な出来映えで、私などは(DVDなんですけど)、観終わった余韻にひたって、しばらくは心身脱落(しんじんだつらく)していたワ。

前作の感想に書いたが、ふざけっぷりの潔さもさることながら、殺陣がイイ。殺陣がイイというのは「正しい」(あくまで時代劇として、とひとこと入れてもイイが)ということだ。

たとえば、敵の使い手(柳生新陰流の達人)が、鞘を払う所作。鞘を左手で握り、二寸ばかり腰から前に出して抜刀しやすくする。ここで、左のほうにやや斜めに鞘ごと傾げる。鍔に親指を、と、これはふつうに時代劇ならみられるところなんだけど、ここで、親指の位置を鍔の中央にかけるのではなく、少し右に外れたところにかけて鯉口を切る。この殺陣の所作をキチンとやってるとこなんざ、いやあ、ため息出ますな。

他にも気に入ったとこ、いっちゃうと、まず、主要登場人物には、かならずその役どころでの見せ場を用意してある。深田恭子の化けッぷりの艶やかさ(この女優、よくぞまあ、中途半端なアイドルから、女優に変身したナァ)。そうして佐々蔵(佐々木蔵之助ですけど)、つまり主役のお殿さん、南部藩々主のせりふの妙。「世の中で、たいせつなことは、誰と出逢うかだ」のキメなんかは、グッときますね。

青森、岩手にまたがる南部藩は、事実でいうと、東北の最北にあって、一万五千石とはいえ、その三分の一も米の収穫が難しい貧困の藩だった。このさいだからいうとくけど、江戸時代の各藩の石高は、それだけ米の収穫が保証されているというのではなく、徳川将軍家(お上ですな)が定めた「そんだけは収穫しなさい」という布令であって、その布令による石高から算出して、幕府にどんだけ年貢を納めるかを決める。だから、親藩、譜代などの石高は実際より少なめにしてある。外様なんかは、逆に多くしてある。加賀百万石というのは、metaphorであって、ほんとうに百万石も米の収穫があったワケではナイ。さらに、一口に藩といっても、その境界はかなりあいまいで、大名も「大」とつくような族は、さほど多くはなく、現在の市町村程度の藩も少なくなかった。これらは、小大名などという妙な呼び方をされたりしている。しかし、この頃の賃金は米だ。コメダといってもコーヒーではナイ。とはいえ物々交換ではナイので、「札差」という商人が登場してくる。この札差に貧困大名は銭の前借りをするなんてことがある。従って凶作になれば、借金はかさむ一方ということになる。

さて、本論にもどって、そういう点からみれば、『超高速参勤交代リターンズ』は、まるで理想郷のお伽話ということになる。虚構はそれでもイイのだ。このお伽話映画には、かの正統の巨人、ギルバート・K・チェスタートンのいったように「お伽話には必ず教訓がひそんでいる」というコトバがピッタリだろう。チェスタートン曰く、その教訓とは「小さなものが巨悪を倒す」というのが一つでんな。

オワリに一言、この映画を「ベタだ」という御仁とは、金輪際、決別する。私にとってはbetterだから。(創作を批評するのに「ベタだ」という紋切り文句を用いる批評者とも決裂する)

この映画は、「ベタだ」という紋切り文句を完璧に〈くつがえしている〉。

2017年3月24日 (金)

最後の一匙

 

『四十九日のレシピ』(映画版・2014・永作博美主演)は、囲碁に例えるなら、ヨセ終盤までのリードを、たった一石で逆転され、コミ分が出せずに負けた、と、いうような印象の映画だった。囲碁ではそういうことがよく起こる。要するに「蟻の一穴、千丈の堤を破る」だ。原作にもあるのだろうけど、良平(石橋蓮司)の姉、珠子(淡路恵子)は、ホンの段階で落とせばよかったと思う。このキャラクターのinputoutputが仇になった。ほんとうに終盤アト10分までは、これも囲碁コトバでいう「勝ちました」だったんだけどなあ。

レンタルを観たアト、購入するかどうか、悩みに悩んだけど、けっきょく買った理由は、カメラアングルと、ワンカット、ワンカットの映像が、静止画としても美しいと感じたからだ。また、そのsceneにおける俳優の演技も実にイイのだ。ただ、主要なmotifとなっている、川の存在が、伸び悩んだまま一気に萎縮して、それまでのsequenceも凡庸なものに感じられてしまうという、ほんとうに惜しい映画だった。「四十九日のレシピ」はレシピの最後の一匙の匙加減を間違えたといってイイ。

ヒロインの永作博美は、この女優がキライ、イヤダというひとはいない、などと評価されているだけの、永遠の少女(童顔ということなんですけど)だが、演技の実力も、これまた誰しも認めるところだし、石橋蓮司の衰えを知らぬ名演技は、充分に納得がいくものだし、なんつうても、よくぞ、あの二階堂ふみという、熱演専門のアバズレをここまで、ゆるく演技させたという監督の演出はおみごとだった。ただ、珠子の淡路恵子に対する配慮と遠慮が、この映画の堤を崩してしまった。そやから、ホンの段階でなあ・・・、あのね、やっぱり、ホンは重要です。それを痛感しましたワ。

そういったプラスとマイナスからいろいろ勉強になりました。そんで、DVD買いました。

2017年3月23日 (木)

遅き夢みし

 

試写会や映画館で映画を観られないものだから(目がイケナイので)、前者からすると、みたい作品を観るのにほぼ1年、後者でなら1年半かかる。つまり、DVDの新作か、旧作で観ているので、「遅ればせながら」になるワケで、旧作の場合は2年以上前のものを観ることもしばしばなのだが、これはこれで、ほうほう、あの頃(もう2~3年前は〈あの頃〉なのだ)はこんなふうな傾向の映画が流行っていたんだなあ、と思い起こせよ梅の花。だから、旧作の邦画を観ると、途中でヤメルことが多い。ああ、そうね、なんとなくドキュメントふうで、ほんで、なんとなく長回しで、そいで、演技してません自然ふうです、で、と、思えば、芸人監督の映画でテンポが悪かったりで、このシーンは長いよ、ここはもう2カットは挟んだほうがイイと思うけど、てなふうで、それなりに勉強になりますが。園子温監督なんかは、何だか人気なんだそうだけど、ふざけ方の下品さと、ハッタリと、過去の遺産(すでにそういうことは、かつての名監督がやっている)の下手な模倣には辟易して、何本か観たけど、もうヤ~メタにした。この監督、たぶんロマン・ポルノで学習したんじゃナイかな。

で、いまツタヤは旧作50円なので、数本いっぺんにレンタルしては、観てるけど、30分でgive upが多いな。作品が悪いとかじゃなくてね、こんな映画はオレには何の価値もナイわ、と思ったらヤメルの。なんしろ、目が悪いもんで、一日に使える時間が貴重なのよ。

さて、最近観た旧作、『凶悪』。これは凶悪というよりは、「正義の醜悪」を描いている作品だけど、監督や脚本のそれなりの力量は認めます。とても素人に出来るワザではナイ。冒頭に「事実に基づいたフィクションである」と出るんだけど、虚構というのはふつう、そういうものなんだから、こういうphraseは、断りではなく、いいわけ、に属するとわたくしはおもいます。多少マズイところがあっても「事実」なもんですから、とcoverしているようなもんだから。で、時系列のmatrixはすごくイイと思いますよ。けれど、どうしても「作り物」なんだよなあ。そりゃあ、fictionは作り物なんでしょうけど、映画は作り物なんでしょうけど、創ったほうが「上手く創った」とコーフンしているさまが伝わってくるようじゃ、観ているほうは肩がコリます。池脇千鶴さんは、田中祐子さんと並んで、このひとが出演しているのなら観ておこう、と、ついつい引っ張られる馴染みのお店みたいな女優さんですから、この程度の演技はアタリマエなんですけど、アタリマエのことなら、べつに池脇さんでなくっても、ねえ。もったいないなあ、と、思わせたら、もう創り手の負けなんだぞっ。もの食うシーン、単純に食事のシーンが数回ありますが、それをみてああ「作り物」だあ、と思いました。この監督は、自分で飯つくって食ったことはナイだろう。小津安二郎監督の映画は、食ってるシーンも多々あるけど、箸をつけてなくても、その料理の味がワカルというオズの魔法がありますから。えーと、テーマは、ジャーナリストの苦悩ですか、ふつうのサラリーマンだって、派遣社員だって、近頃ではアルバイターだって苦悩、苦労、苦吟、苦、苦、苦、苦、苦です。嘘ついても謝ったらOKは、政治の世界だけ。嘘つかないと生きていけない、嘘をうまくつけば生きていける、こんな世間だから、春になっても、いつまでも風が冷たいんだよなあ。韓国映画(ドラマではナイ)に、最近、秀作、佳作が多いのは、韓国の実社会(世間、世相)が暗澹としているから、せめて映画の中だけでもって、そんなベクトルがあるからなのかなあ。日本だってかなり暗澹としているんだけどナア。

2016年10月27日 (木)

百姓日記⑧

 

『リ・ゴジラ』

 

何か、ひとに会う度に、『シン・ゴジラ』の感想を訊ねられるので、いまは目が良くないのでDVDになるまでは、と聞き流していたのだが、弟が「あれは、まだしばらくは上映が続くで」というもんだから、しょうがねえなと、観に行くことにした。二時間、邦画だからなんとかなるだろうと、なんとかなって、エンドロールはさすがにキツかったが、ともかくは観た。で、ひとことで感想を述べるなら、『シン・ゴジラ』という作品は、昭和29年の『ゴジラ』第一作のリメイクなんだなと、それ以上ではもちろんないし、それ以下であることもマチガイナイ。

昭和29年の第一作の『ゴジラ』の持っていた、モンスター映画の恐怖感、このときは、原水爆だったのが、『シン・ゴジラ』では、核燃料廃棄物と、原発(動く原発ダナ)になっていて、29年ものの〈オキシジェン・デストロイヤー〉が、やっぱり、どっかの人嫌い博士の凍結剤になっているだけで、要するに、リメイク。閣僚たちのチンドンも、ご愛嬌なんだが、ご愛嬌に柄本明さんや、余貴美子さんを使う贅沢は、というかどっちも私、ファンなもんで、やや苦ったが、それは別にして、アト何か観るべきものはあったかというと、巷のワイワイした評判ほどのものはナニにもなかった。おそらくこの映画(『シン・ゴジラ』)を神輿にしているひとは、本歌29年の映画を観ていないんじゃないかとさへ思う。

29年もののような名シーン(私的な選択だが、例の実況アナ、銀行前に座り込んで抱き合う母子、そのせりふ。さらに、何気ない汽車の中の風景で「また、疎開かよ」なんていわせる、そーいうとこ)はなく、あの人気女優らしい、(らしいのではなく、そうなんでしょう)石原さとみのキャラが、集団的自衛権や、安保体制の直截批判めいたシーンよりも、アメリカというものをヒジョーによくシンボライズ(というより茶化して)いたように私には思えたが、この映画で、これはいいアイデアでオモシロイと思ったのはその辺りだけかな。タラコ唇も使い方次第だな(身体的なことに触れての揶揄がイケナイのは、素人の方だけで、女優という営業をやってる方には遠慮する理由はナイ)。戦闘シーンについては、「新・ガメラ」シリーズのほうが、よほどリアルで、アメリカだって自衛隊だって、もちっとマシでしょうと、苦笑した程度。(ほんとにいろいろ出すと、軍事機密に関わってくるから、あの程度にしたんでしょうけど)。

もちろん、のことだが、この映画の世界はフィクションだから、この世界では天皇陛下という存在は存在しないことになっているのはアタリマエだと思わないと、その辺を突っ付いても何の意味もナイ。ともかくは『空母いぶき』の(かわぐちかいじ)のほうが、右傾化は同じでも、よく出来ている。と、いうのが私の感想です。

追記:やっぱり伊福部昭さんの音楽はイイねえ。

2016年10月21日 (金)

百姓日記⑥

 

巌流島のコペルニクス

データをまず記しておく。『宮本武蔵』(2014年3/15、3/16、2夜連続でテレビ朝日開局55周年記念番組として系列局で放送されたスペシャルドラマ。原作 吉川英治、監督 兼﨑涼介、脚本 佐藤嗣麻子、宮本武蔵に木村拓哉、佐々木小次郎に沢村一樹、お通が真木よう子。アクション監修に、ジャッキー・チェンが会長を務める香港動作特技演員公會の唯一の日本人会員である谷垣健治を迎え、殺陣のシーンでは、刀を「本当に当てる」という今までにない手法が取り入れられた)。

目が悪くなるというのも、まんざらではなく、このワード・ワープロの扱いにくさに比すれば楽なほうだ。ここまで字数、大きさを揃えてコピペを修正して、書くのに30分かかってるからナ。これでまた30分目を休めるのに、コインランドリーでも行くか。

ただいま。

で、脚本が佐藤嗣麻子さん(彼女は、『K-20』の脚本・監督)ということもあるから、2年前の作品ではあるが、ツタヤしてみて、圧倒的に巌流島の決闘で倒されたのは私だ。

というても何のことかワカランだろうから、ちょっと順を追って(ふつう、そうなんだろうけど)、まず、武蔵が京流吉岡道場の道場破り、と、ここから始まって、その殺陣が香港アクション映画をかなり取り入れていることで、ちょっと驚く。データをひもとくと、やっぱりなるほど。ここはここで、圧倒的ではあるのだが、そりゃそうだよ、『るろうに剣心』というお子さま時代劇映画で、フェンシングみたいな殺陣をみせられて、私の知己の殺陣師(真剣帯刀を許可されている)なんかは、怒りのあまりポプコーンをばらまいたそうで、「絶対にもう、映画館でポプコーンは買わんっっ」と、なんやワカラン怒り方をしてたくらいだから、さすが、香港アクションと拍手もしたくなる。ちなみにこの殺陣師とは、2020年のオリンピックの外人客をあてこんで、時代劇のイベント舞台でも創ろうかてな話もしてて、『秘剣鍔鳴り~重 四郎(かさね しろう)忍者斬り』てな、まんまのタイトルだけは考えている。

で、嗣麻子さんのホンは吉川老師の正統を遵守しつつも、斬新な解釈(脚色)をノンシャランと垣間見せるのだが、極めつけは巌流島の武蔵と小次郎の決闘の概念を引っ繰り返したことだ。といっても、小次郎が勝つワケじゃナイんだけど。

まず、沢村小次郎は、登場時に刀の柄を右肩にしていることで、おんやと首を傾げるのだが、たとえば、内田吐夢監督の錦之助武蔵五部作では、高倉健さん小次郎は、伝統に従って、もの干し竿長剣の柄を左肩からにしているのはいうまでもない。あの長さの刀を抜くには、いったん肩に担ぐようにしてそれから抜くので、右肩では都合が悪い、というより抜けないのだ。

ところが、そこは抜け目がナイというか、沢村小次郎の場合、肩からぶら下げているように描かれていて、高倉小次郎のような固定ではナイので、なるほど、あれなら抜けるワナ。

さて、真骨頂。これまで何人もの武蔵と小次郎が巌流島で決闘したが、たった二人、立ち会い人もナシ、というのは嗣麻子さんのホンが初めてで、かつ、士官がどうの、藩の面目がどうのという面倒なものはきれいさっぱり棄てられていて、ただ、二人、「限界の向こうが観たい」という、兵法家の夢のためにのみ闘う。このplot、sequenceには引っ繰り返った。まさにコペルニクス的転換。決闘の概念をコロッと変えられちゃった。見事に。さらに、武蔵は先に一太刀浴びて、苦戦。あの長剣の届かぬところ(つまり、身切りですな)に飛び上がればイイのだと、剣客の本能で飛び上がって櫂を振り降ろすという心情理路がワカルように描かれている。

いやあ、もう、佐藤嗣麻子さんと、西川美和さん、この二人こそ、いまの映画界の武蔵、小次郎ですわ。

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