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カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2017年5月22日 (月)

スクリューボール

だんだん少なくなっていく生きる楽しみを増やしていただいて、感謝しております/

という、観劇(『シス・カンパニー『黒塚家の娘』初日)の感想を、親しい知人から頂戴して、ふと、プレストン・スタージェス監督の、いわゆるスクリューボール・コメディの一作を思い出した。スクリューボール・コメディについても、誤解があり、ある解説などでは「頭のヘンな人々が登場する喜劇」などと大マジメに書かれているし、それをそのまんま解説している映画評論家もあるのだが、ほんとうは、「急転直下」「drastic」なストーリー展開する映画なのだ。スタージェスはハリウッドでは、天才、革命児として業界人の評価は高く、その影響も多大なものがあるのだが、日本ではあまり知られていない。ウィキペディアでも、作品について書かれているのは、ほんの数本だ。

私が観たものも、ずいぶんむかしで、DVDではなく、まだテープだった頃だったが、タイトルを逸してしまっているものの、内容は、簡単に書くと、エンタメばかり創っている映画監督が、芸術系の文学系の映画監督たちの作品に対してcomplexを持ってしまう。で、ひょんなことからその自棄が原因で事件を犯して、留置所送りになる。前科者になっちまう。もう、どん底だ。ところが、ここからがスクリューボールで(もともとは、大リーグの投手が発案した変化球で、まるでスクリューのように急激に変化する球)、囚人慰安に映画鑑賞があって、なんとまあ、それが、自身の監督した映画なのだ。娯楽のナイ囚人たちは、大喜びの大笑い、すんごく楽しむのよね。そこで主人公の犯罪者にまで落ち込んだ監督は、その情景を観て、自身の映画が、こんなに影響力を、こんなに力を、こんなに役に立っていることを認識し、自信を取り戻す。そういうの。

あのね、私はあと一ヶ月半ばかりすると、六十五歳で高齢者の仲間入りするの。誰でもそんなもんなのだろうけど、こういう経験は人生に一度しかナイから、まあ、私も自身の人生みたいなものを振り返り、難しくいうと内観してみて、「オレのやってきたことは徒労に過ぎなかったのではナイだろうか」という、根拠のナイ不安、強迫観念を持ってしまうのだ。だって世の中、なんにも良くなってネエもんなあ。役立たずだったなあオレ、と、まるで、世間のことがことごとく私の責任でもあるかのようなドクサ(思い込み)の波にのまれるの。

これが続くと、鬱疾患なんかになっちまう。そういうときに、エンタメ重視で書いている芝居の感想を前述したようなふうに頂くと、ほっとしますよ。そうよ、娯楽。娯楽になってるんだなあ。息抜き以上の、楽しみになってるんだなあ、と。

/本日、「黒塚家の娘」拝見しました。か、感涙でした。。。ありがとうございます。/

これは、私の弟子の感想。これにも感謝だなあ。とはいえ、殆どは、寺十演出と役者さんの手柄なんだけどね。「人情喜劇にしちゃったわよ。あのままのホンだと、観客、寝ちゃうからね」という、shyproducerのおコトバにも、苦笑しつつ、感謝しましたけど。

 

2017年4月26日 (水)

厭世っ、わたくしたちは・・・

もちろん、「宣誓、わたくしたちは・・・」の似非コトバなのだが(parodyともいう)、ここんとこ、そういうのばかり思いついて、困ったナだ。

「千里の道も一歩から、踏み外すこともある」

「ヤな余生だなぁ」(映画、座頭市の「ヤな渡世だなぁ」が元コトなんだけど、どっちもあんまり良くないよねえ)。

「老いたるは及ばざるが如し」(これはもう元コトはご存知でしょうけど)

たまのブログなのに、ちょっと暗いので、

/人生とは、ゆっくり時間をかけておこなう自殺である。しかし権力は一瞬にして人生を他殺する/(ベローナール・仏蘭西のjournalist・1969パリにて没)

と、これも、あんまり明るくはナイか。

2017年3月31日 (金)

エイプリル・リル

 

テレビを買い換えた(半年しか経っていないので、3,000円で前のは売れた)。32inchから39inchに画面をアップして、サンスイ製品(中国製だけれども)の和紙スピーカー。わたくしももうすぐ高齢者と称されますんでね。眼や耳にいいものにしなきゃね。

枕を買い換えた。ウレタン系はやめて、中綿で、眼の疲れに肩凝り(肩痛)首の痛みが影響しているとするならば、32個の磁石まで入っていて、ともかく面積の広いものにした。ゆんべの寝心地は良かった。

コルネットを買った。演奏出来るまで活きようと思った。

生き残ることと、いつ死んでもイイという覚悟とは、同じナンダヨ。

最近は韓国映画を多く観ている。昨日は『見えない目撃者』。いやあ、驚いた。プロットにオードリー・ヘプバーンの『暗くなるまで待って』をまんま使っている。これはマネとかパクリとかというものではなく、ハングク映画界の「勉強ぶり」でしょう。

斬新なところも多々あったが、まだまだツギハギというところがナイでもナイ。けれども、こういう真似の努力がEnergieとなり、powerとなる。

/四月の風の青空のなんだかわからん新しさ/

2017年3月10日 (金)

枯れても花の咲かんとぞおもふ

考えに考え、いわゆる思索に明け暮れてもみたが、けっきょくワカランものはワカラン。

突然、忽然、アッ、てなぐあいにワカルとき、コト、があるのかも知れないが、それならそれで、とくにどうでもイイや。

いわゆる〈道〉などというものはナイ。武道、芸道、とかく〈道〉などというものを付けて、それを「極めん」とスルのが人の道とやらいうが、「極麺」とかいうインスタントラーメンと大差はナイ。生きるしか仕様がナイから生きているまでで、それでは虚無だろうてんで、キリスト教は「天国」を創造したし、仏教は「悟り」を設定した。かたや信仰で、かたや修行で、それ自体が方法ではなく目的になる。そうするしか他、無かったろうと諦念するしか、こちとらにすべはナイのだ。「あの世」のことなど考えても所詮は答えは出ないと釈尊は弟子に諭したが、そこで、弟子は、では「この世」とは何です、という質し方ではなく、なぜ、現に在るこの世は穢土なのかと問うてみればよかったのだ。そうしたら、それを克己するために修行あり、としか釈尊も応えようがなかったろう。修行というものこそ、「方便」なのだから。(「浄土」というのは、鎌倉仏教からこっち広まった他力本願で、そらまあ、穢土があるなら浄土もあると説くのは、簡単なことだとは思うが、釈迦牟尼ではなく、阿弥陀如来、大日如来と、仏の数が増えていくというのが、何だか家元制度のようで、あまりオモシロクナイ。ついでながら、浄土宗、真宗では『般若心経』は唱えない。絶対他力の宗派にとっては、般若心経は自力の経典になる。このあたりで、わたくしとは解釈に隔たりがある。菩薩が出てきたからって、そう排他的になることはナイと思うけど)。

 

オモロウて、やがて哀しき舞台かな、なんてのを生きてきたので、まあ、それで終わるしかナイわなあと、なんだかワカランのに生まれて、なんだかワカランのに死んでいく身の上は、誰しも同じ。

 

昨今、「ヤサグレ」というのを、なんだか語感からヤクザっぽくグレているというふうに解している連中がいるが、ヤサグレるというのは「宿無し」のことで、今晩、寝るところすらナイという、路頭に迷った姿なのだ。そんなにカッコつけていうものではナイ。

路頭に迷わぬようにするには、わたくしのヨウに荒野をリヤカー引っ張って歩くしかナイのだ。あっちはどっちやワカランし、どこへいってもどこでもナイのが、わたくしの全情況なのだから。そうなのだ。荒野を彷徨うのではなく、地球のほうから廻ってくるのにまかせて、ただ、ただ、ゆくだけでイイのだ。ちゃんとワカッテるじゃナイか。

しかしまあ、半壊した心身で、明日の飯の献立なんぞを考えるときに、どうしてちっとばかし、悦びがあるのだろうか。/食うことの思案ができるありがたさ/というものかな。この冬を越した豆苗が半分以上枯れながら、それでも花を咲かせた。こいつは、オレより偉いナ。何にも考えず、何も思わずに、ただ、無心、ココロなど無いのに、活きることをやめようとしない〈自然〉は、我が小さな居庵にあっても、やはりスゴイのだ。

それをスゴイと感じる、わたくしの心情と身上だけを、わたくしはいまのところ信頼していて、あながちマチガイはナイだろう。

それにしても、先に逝ったものたちよ、きみたちはいま何処に在る。逢いたいな、逢えるよな。この身の辱を雪ぐでもなく、積もり積もった穢れのままに、そのときを、ただ、待っている。

2017年1月 5日 (木)

2017

2017

 

2017が始まった。予告どおり、ブログ小説からはじめたが、昨年の年末には書き終わる予定が、custom client からの急な注文と、生涯二度目のinfluenzaのために、およそ30%を残して中断している。従って、連載が10回くらいで一時中断になる可能性(可能性というコトバを使うのはマチガッテいるのだが、慣用されているのでそう書く)があることをお断りしておく。

出版不況とはいうけれど、私には、これは出版社の努力不足だと思われる。だいたい若い編集者自身が、かって多くのひとに読まれた多くの傑作、秀作、佳作を読んでいないんじゃないの。たとえば、近隣で蔵書が8万冊と謳っている書店を覗いても、文庫の棚にそのての本は並んでいない。消えた作家をテキトウに数名は挙げられる。柴田錬三郎、五味康拓、北杜夫、都筑道夫、山田風太郎・・・et cetera。エンタメ系列が殆どだが、純文学となると、文庫版の全集(とはいえ、一冊本なんだけど)にあるばかり。並んでいるのは、いま映画化されたりしての売れ筋(と、書店員が思い込んでいる)ものばかりで、マンガ(comic)となると、これも、どこも同じ。マンガはコンビニで、いずれゾッキ本どうように安売りされるので、急いで読まねばならないもの以外なら、それを気長に待っていたほうがイイ。最近は、コンビニにしか置かない雑誌も多々あるので、それらは単行本になるのを待ってアマゾンで買うことにしている。

新聞、テレビ、週刊マンガ雑誌、さて、これらの命脈が尽きるのは、それほどの時間を要しないだろう。

2016年10月22日 (土)

百姓日記⑦

 

関係は乖離スル

 

ジャズを聴き始めた頃はピアノはあまり好きではなかった。きょうの離脱症状は、クスリをゼロにしてから最も強いのが出た。かつてソニーCDクラブとかいうのがあって、前前嫁がすすめてくれたので、入会したら月一回クラッシックやジャズのCDの解説、宣伝があって、殆ど素人の私はこのあたりからジャズを聴き始めたのだが、とにかく飯が食えないというか、痛みは治まっているのだが、痺れとだるさで辛いのだ。とりあえず、モダンから聴き始めて、どういうワケか、ドラムとかベースの渋みがいいのが好みだったから、ピアノはいま一つ甘かった。こういうときは、食わないと体力低下で免疫低下で風邪を引き寄せるという怖さがあるので、簡単な豚キムチと味噌汁にした。ピアノがいいと思い始めたのは、そのクラブで買ったヨーロピアン・ジャズ・トリオのアルバムからで、こんなセンチメンタルなジャズもあるんだなと、洗練された演奏に驚いた。それでも豚キムチは三分の一ほど残してしまった。残り物を冷蔵庫に入れるのはイヤな性格なので、そのまま棄てた。150グラムは多かったなあ、80グラムのほうにしとけばよかったと後悔した。ヨーロピアン・ジャズ・トリオは、日本人好みなのか、日本人にファンが多い。というか、本場のアメリカでは、「こんなもんはジャズやナイ」という古老なんかがいたりするんやろ。横になると余計にひどくなるので、ただ座って、いつものように杉作、天狗のおじちゃんはね、って、過ぎ去っていくのを待つしかナイ。たしかにスタンダードのジャズ名曲集なんかと聴き比べると、主張が強くなく、雰囲気というか、独特の世界観があって、私はこの孤高の沈んでいく感じが好きなのだが、痺れてだるいカラダでは、孤高も沈んでいくもナイのだ。息苦しくなってくるので、何度もため息をつく。名曲に出逢うと、息をするのを忘れていたような気になるのだが、ヨーロピアン・ジャズ・トリオは、えてして呼吸しやすい。忙しくナイ。欧米の歴史の違いなんだろう。黒人がどうの、魂がどうのという面倒臭さがナイ。いってみればクールというのか。このクールとかホットとかいうのは、まだ使えるのだろうか。最近、〈ギャグ〉というコトバはおじさんコトバであって、若い人は〈ジョーク〉というのだそうだ。そういえば、女性は「パンティ」なんてコトバは使わないらしく、戯曲で「パンティ」の入ったせりふを書いたとき、女優に指摘された。「パンツ」でいいのだそうだ。そうすると、ズボン系統もパンツというが、どうなの、と訊いたら、話の脈絡で理解出来るじゃんと、いわれた。なるほど。「じゃん」は、最初は横浜だったか神戸だったか、そのあたりのひとびとが使い始めたらしい。

今夜はモダンを聴いているが、離脱症状は残っていて、いやあ、キツイ日です。

2016年10月18日 (火)

百姓日記⑤

 

人生は三度笠ではナイ

 

三度笠というと、渡世人、博徒の旅人姿を映像化してしまうが、ほんとは飛脚が使った傘で、映画テレビの時代劇股旅物に出てくるヤクザの旅人の旅姿は、現実にはあんな粋なものではナイ。もっと目立たぬダサいものだ。(目立たぬように旅するんだからアタリマエ)。

~人生が二度あれば、ああっ人生がっ~と歌ったのは、井上陽水だし、「これが人生か、よし、もう一度っ」と賜ったのは(「永劫回帰」てなふうにいわれてますが)ニーチェだけれど、ニーチェの場合の永劫回帰の根拠は、単純な物理学、生物学によるエビデンスで、つまり時間は永遠につづくのだから、生物学的に人間(自分)は何度も生まれる(回帰する)可能性が在る、ということなのだが、時間は重力と等価なので、それは残念ながら叶わない、と私の論理はいう。いま在る宇宙が、まんま、再度誕生、出現することは、確率論的には限りなく0に近いと考えてよい。

たとえば、「三度目の正直」を負として考えるとする。人生が三度あるとする。しかしながら、人類はやはり三度滅亡するのが「正直」なところだし、そんなことは、いまの世界情勢を鑑みても明らかなことだから、何べん人生があっても、さほど変わるものなどナイ。世界情勢でなく個人生活なんだからと、多少の情を含めて負ではなくプラスと考えても、一度「失敗したなあ」と悲嘆に暮れた人生ってのを三度もやる気力などあるかねえ。

元劇団員が口癖のように「何が幸せか、いろいろと辛いことはあっても、北朝鮮の貧民に生まれなかったということだけでも、ものスゴイ幸せだと思う。オレは父親として子供にいい聞かせていることは、それだけ」といっていたが、5秒にひとり、子供が死んでいるのが、世界の実情だ。北朝鮮の貧民でなくても、生まれるということが幸せかどうか、ね。

私の住処の両隣は、かたや若い男性、かたや若い女性、が入居しているに関わらず、名前も職業もワカラナイ。月に一度くらいは顔をチラ観することはあるが、要するに、現代、街、生活というのはそういうものだろうと、さほど気にはしていないに関わらず、出かけるときに女性のほうの住処の表を通ると、台所のすりガラスごしに、「もみじおろし」のチューブの箱や、マジックリンのスプレーなどがみえると、『じみへん』みたいに、なんでかホッとはするのだ。両隣、若いひとだから、生活はpoorだろう。こんな家賃のマンション暮らしだもんな。(家賃のわりには、バブル時代の鉄骨ワンルームだから、結構、間取りなんかはいいんだけどね)。データを信じるならば、いまの大学生、あるいは新生活者の両親の賃金は、私がその年齢であった当時より20%低いのだそうだ。どこまで信憑性があるのかどうか、ちょっと声高にはいえないが、女子大生のアルバイトに風俗が増えているらしい。学資稼ぎらしい。大学の学費は高騰しているのだそうだ。私なんかてんぷら(ニセ学生)を二年やらせて頂いて、そんな時代だったから、得したのかなとも思う。しかし、売春やら、ブラック企業のアルバイトまでして、卒業して、〈生活〉を始めてみれば、それはそれで、キツイんだからなあ。「賢く」生きろとは、よういわん。賢く生きようとして失敗すると、「ああ、アホなことした」と気持ち沈むからなあ。だから「狡く」だ。テキトーに狡く生きる。ただし、その営為が他者を犠牲にしているのならダメ(なんでかというと、他者に悪いからというのではなくて、それは自分の気分が塞ぐから、負担になるから、という狡い考えなのだが)、んで、そうしたら失敗しても「狡くはなかったんだ」からいいか、で済むという「狡い」の幾重にもなった生き方やな。誰かて、確定申告するときには、多少のズルはしてる気になる。(けっこう、それは狡いのではなく、カシコイ節税だったりもするのだが)。

まあ、ともかく、人生は一度でエエわ。

 

2016年10月17日 (月)

百姓日記④

人生が一度というのは奇怪しい

 

この前、自分はやりたいこと、やるべきことの9割はやっちゃったので、退屈だと書いた。そういう話を「カレーランチ」と称して、ときどき馴染みの店でランチ(ランチは二種類の自家製カレーしかナイ。あとは喫茶)する、女性の知己(具体的に書くと支障があるので書かないが、私が自分のワガママで、ときどき、駄弁理(だべり)につきあってもらっているだけなのだが)に話したら、9割もやってしまうってスゴイんじゃナイですか。といわれた。あっそうだな、そういう考えもあるのだ。ワリとスゴイことなのかも知れないと思いつつ、志半ばで夭折した友人知己を思い、生き残ってしまって、やりたいことやってしまって、退屈では、その連中に妬まれ恨まれるだろうなあと、逆に心苦しくなった。

ところで「三度目の正直」というコトバがあるが、私はこのコトバの意味をまったく誤解していたことにこないだ気付いた。私はこれを一回、二回失敗しても、三回目に挑んでみる、てなふうに思い込んでいたが、正確には、一回や二回の成功はマグレかも知れない、三度成功して始めて「ほんとう・正直」なのだ、らしい。

しかし、そうすると、一回生きて非業の死、夢成らずの死、若くしての死、は奇怪しいではナイか。人生が一回というのは奇怪しいではないかと、なんだか立腹してしまった。

「三度目の正直」というからには、人生も三度あるべきだ。

 

とはいえ、私としては二度とゴメンだ。

2016年8月17日 (水)

途端調風雅⑤

不義理よ今夜もありがとう

 

タイトルは思いつきだけで、とくに書くことの内容との関連はナイが、まんざらそうでもナイところに落ち着くんじゃナイかな。

前回、卓球、なるほどとおもった。宮本武蔵に勝った武芸者はおらんうーたん。中国の卓球選手ってのは、宮本武蔵なんやなあ。卓球は中国のもん。かつて相撲は日本のもんやったんやけど、いまはモンゴルのもんになってんねんけど、やがて、そういう日が卓球にもくるんやろか。柔道もジュードーになってからは、日本のもんではなくなった。(余談、蛇足になるが、団体戦をみるにつけ、福原愛は卓球というものについて、潜在的にambivalenceなトラウマがあるんじゃナイのかなあ)べつに私はナショナリストではナイし、コスモポリタンでもナイ。オリンピックはむかしからキライなほうで、いま、パラリンピックと同時に行われるこの世界的イベントは、その何れもが〈異常者〉のスポーツ競技会という点ではまったく同じだ。もちっと具体的にいえば、〈異常な能力を持ったもの〉のスポーツ競技会。(注意しておくが、パラリンピックは疾病者、の、ではけしてナイ)。

コミュニケーションとやらで、〈異常な能力〉を発揮するものには、「アスペルガー症候群」という称号が与えられ、疾病者扱いされるが、100mを10秒以下で走るという異常な能力を保持しているものは、メダルがもらえることもある。なあに、前者は生まれつきだし、後者は訓練の賜物ですから、ぜんぜんチガイマスよ。ほんとに、そうか。ならば、前者はnatural(自然)だし、後者はMan-made人工的な)というたら、nuanceがこれまたじぇんじぇ~んチガウやろ。いやいや、後者の中には天才も存在してですね、人間の能力の限界に挑む姿は・・・美しいのケ。猛々しいのケ。そうでっか、オレも戯曲を書かせたら「天才」とか「怪物」とかいわれたりすることがあるけど(昨今は「伝説」と称されたこともある)、電話ひとつかけることや、ニチジョウ会話の下手くそさや、人づきあいの不自然さにに関しては、アスペルガーといわれることが多いのだ。オレをそう認識しておくことのほうが、相手にとっては安心らしい。さて、

何か書くべきことがあって、書き始めたのだけど、何を書かねばならなかったのか、記憶がナイというのは、最近たまに起きるのだが、これはセロトニン症候群とその離脱症状との薬害のせいで、声を大にしていうが、これは疾病ではなく薬害だ。

名古屋のクリニックで変調を訴えたとき、医師はまずセロトニン症候群を疑って然るべきだったのを、いまではもうどんな精神科医も処方しないようなクスリでthroughさせて、それからのおよその6年、いまでは真っ直ぐ歩くことすら出来ない。これを断ち切るのに、アト1年~2年。たとえ断ち切っても、うつ病それ自体が再発したら、いったいどう対処すべきか。その〈恐怖〉で目覚めた朝は、一度や二度ではナイ。

こんな呪詛のような文言を連ねているより、私は〈愛〉の小説を書こう。ほんのすこうしずつだが、私にも〈愛〉というものが、何なのか、ワカッテきた気がしている。聖書に「自らを愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」(マタイ22・32~40)というのがあるが、なるほど、そうなのかと、この箴言を灯台もと暗しで読んでいたことに気がついた。まず「自らを」愛する、これは自愛(narcissism)をいっているのではナイ。愛についての〈手続き〉をいっているのだ。この命題は難しい。たとえば、どうしても和解出来ない二人の女性と、始まれば悲恋に終わるしかナイ三つの恋とを、last workとして、書いてみる。これを遺書として遺そう。

てなことをね、10年前ならかっこよくいえたのよ。

もう、いいのよ。投げたワケじゃナイんだけどね。これ以上義理のように仕事はやりたくナイんです。もう、充分です。勘弁して下さい、って、私が私にいってんだけど、ね。

でも、愛はほんとよ。すぐそこに在るんだけど、深入りすると「愛別離苦」になる。「おジャンになる」よ。

そうそう、落語『火炎太鼓』のサゲの「おジャンになる」だけど、あの「ジャン」というのは「ジャンク」のことなんじゃナイのかな。junk (がらくた,くず物)。

2016年8月10日 (水)

途端調風雅④

卓球便

 

運良く、3回戦の北朝鮮カットマン(女性なんだけどね)との対戦は、伊丹のホテルにいたのでテレビで観ることが出来た。リ・ミョンスン、ここまで、さすがに軽く相手を打倒なのか、解説によると、カットマン(女性なんだけど)としては、世界number oneだそうで、試合開始直前の解説者、担当アナの掛け合い漫才では、「強敵ですが、どうしても倒さなければならない選手です」、とかで、こういうアタリマエのことをなんか凄そうにヘラっというところがオモシロイんだけどね。倒しても倒さんでも、どっちでもエエ相手みたいなもん、おらへん、いうねん。

確かに日本選手は、カットプレイに弱い。これは、いまを猿キッキ、もうずうっと前、まだ日本と国交のなかった中国の卓球選手団と、当時世界一を有していた日本の卓球選手団による親善試合、いわゆるのちに卓球外交と称されたときから明白な事実でありました。そのとき、リアルタイムで、テレビで試合の様子を私は観ております。なんで、観たのかは忘れたが、世界選手権者の日本選手が、まったく歯がたたなかったのは記憶にあります。強打をどれだけ打ち込んでも、中国選手は無表情で、ゆう~っくり手を廻して、球を返す。つまりこれぞ中国の十八番、カットプレイなのだ。そのうち日本選手はミスをして負ける。全てこのパターン。中国卓球が、世界の表に出てきたのはこれが最初で、カットプレイはあるにはあったが、ここまで執拗なのはなかった。これを得意とし、カットして相手のミスを待ちながら、甘い球が返ってきたらすかさず強打。狡い卓球やなあ。

で、リ・ミョンスンだ。世界一のカットマン(女なんだけどね)。

これを福原愛4-0で撃破。まさに撃破だった。ストレート勝ちなんだからなあ。2セット先取されたあたりで、リ・ミョンスンの顔から汗が滝のように流れだす。福原のほうは、ひとまわり大きくなったみたいにみえるカラダなのだが、汗の一滴も流していない。これはもう、練習量が圧倒的にチガウのか、あるいは、リ・ミョンスン、「ナニヨ、コレ、オカシクナイカ、ヘンヨ、ウソヨ、ソンナハズ、ナイヨ」との蟇の膏汗かも知れない。ファイナル・セットは、もう〈死に体〉でしたからねえ。「フルセットの接戦になると思ってましたが、30分で終わってしまいました」と、アナ。まさに神懸かりか、福原愛。そんなこたねえだろ。私のような素人考え、床屋談義を述べると、福原愛は、いつもの福原愛的闘いを棄てた。これはおそらくコーチの指導の成功だと思われる。なるほど、福原愛は天才教育を受けてきて、抜群の福原愛的強さをもっている。で、いつもそれで闘ってきて、勝ったり負けたり。ところが、このオリンピックでは、それをあっさり棄てた。二度いうが、おそらくコーチの指導だ。そのあたりは、演劇歴四十余年の私にもワカル。「敵を知り、おのれを知れば、百戦百勝す」(孫子)。この兵法をもう少しかみ砕けば、「敵に応じて、自らの闘い方を整えれば、必ず勝てる」ということだ。で、福原はそうしたのだと思う。徹底的なカットマン対策があったことは、コーチの優秀さを物語っている。リ・ミョンスンの顔から汗、「ソンナ、バカナ」は、福原には、カットプレイで充分という、油断があったのだ。得意のカットプレイがまったく通じない。そりゃあ、汗もかくで。しょうがないので、相手の正面にストレートで打ち込む(こういう打ち込み方の呼称を私は知らないんだけど)、しかし、この打ち込みは、相手が弾いてミスをしてくれんことには、ピンポン球は、浮くんです。そやから、放っておいたら卓球台にかすりもせず、飛んでいく。

さて、ベスト8。相手はシンガポールというても、シンガボールに住んではる中国人。世界ランキング五位。格上。ここでも、コーチの作戦勝ちがうかがえた。。私はこれを買ったばかりのラジオで聞いていた。ラジオは「5時の方向から11時の方向に・・・」とアナがいう。まるで、太平洋戦争の空中戦みたいです。福原は相手のナントカに、この前負けている。負けたということは有利なことだ。ふつう何で勝ったのかワカランけど勝ったはあるが、負けたら、何故に負けたのか、考えまっせ。これも、演劇歴四十余年がいわせている。「下手な役者の下手が、ワカランようにするにはどうすればよいか」あるいは「下手な役者でも客に好感をもたせるにはどうすればよいか」、私の劇団公演歴は総てこれ。ラジオだから、イメージでしか脳裏にはナイのだが、たぶん、コーチの指示は、シンガポールのナンタラには「打たせなさい」だったと思う。「打って勝とうと思うな。それなら相手が一枚上なんだから、とにかく打たせなさい、それを確実に拾いなさい。確実に拾えれば必ず勝てます」。福原愛は、「打てるときまで待つ」というより「自然に打てるときに打つ」という反射で、接戦を征して4-0のストレート勝ち。

今夜、準決勝。つまり、残ってんのは四人。メダルは三つ。

相手はやはり中国。これは4-0とはいかないだろうが、フルセットまでのもつれこみはナイと思う。

4-1で、福原。で、どうやっ。

 

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