無料ブログはココログ

カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2018年4月 2日 (月)

こころの距離はいつも1センチメンタル・8

(8)吉本さんと橋爪さん

橋爪大三郎さんの『永遠の吉本隆明』(2003・初版・洋泉社新書)を再読してみたのは、ともすれば、自分が何を学んできたのか〈疑わしく〉なるからだ。

で、橋爪さんは1948年生まれだから、私より四つ上だが、やはり全共闘世代で、全共闘で、吉本学徒から学問を始めたので、私が劣等生、橋爪さんが優等生という部分を無視すれば、同じ吉本学徒だ。

橋爪さんのこの著作のタイトルからしてワカルように橋爪さんはクリスチャンだ。と、ここでそうことわっておくと、アトアトのことがワカリヤスクなる(はずだ)。

この書籍が出版された頃、吉本さんは存命で、まだ『ハイイメージ論』が連載されていたのではないかとおもう。このホンの内容については、読んだほうが早いし正確だからここでは省略するが、特徴をいうと、橋爪さんは(その学問は)、吉本さんの著作を読んで圧倒されつつも、どうしても繰り込めない理論、論理に疑問を抱き、それを解決するには自分が勉強するしかナイと考えたからで、このあたりも吉本さんの方法論(追求動機)を踏襲しているのだが、この中で「重要な疑問」の三つのうち一つに、ここで触れてみる。

それは、

〇権力がなぜ、悪いのだろう。どうして権力は、最後に消滅しなければいけないのか。

なんだけど、これは、本論以外の「付録」で論じられている。

まず、/どうして権力は、最後に消滅しなければいけないのか/については、これは共産主義の理想的目標の国家の消滅と同じことをいっている。(共産主義では国家権力は消滅する。そのための装置として「国家」は必要とされる・・・この論理については、マルクスとバクーニンのあいだで激しい論争があった。当時はマルクスに分があったが、現在ではバクーニンの・・・このひとはanarchistなんですが・・・論理がみなおされている)。

で、と、問題は/権力がなぜ、悪いのだろう/というところに、ほんとうはつきている。

こうかんがえると、では「権力とはナニか」に踏み込まねばならない。

つまり、くだいていってしまえば、橋爪さんには「良い権力だってあるんじゃないか」という信条・心情があるのだから。(だって、クリスチャンですからね。〈神〉に対しては、たとえ無教会主義者であろうと、主従の関係で、〈神〉は、まごうことなく「権力」だもの)。

そこで、もっとも「権力」という名で現しやすい「国家権力」というところにまず立ち寄ってみると、こりゃあ、ヤだねえ。この「国家権力」に抗するために日本国憲法が在ることくらいは識っておいたほうがイイ。第九条にしても、国民がその敵と闘うことを禁じているのではナイ。「国権の発動による」戦争を放棄しているのだからナ。日本は「法治国家・・・法がひとを治める」ではナイ。立憲国家で、人権が国家よりも優先しているのだからナ。それを保証しているのが、現状憲法なんだからナ。

ここで、吉本思想の著作『共同幻想論』から、ずばりその〈共同幻想〉の概念を拝借してくるが、たいていのひとは、共同幻想の最高形態が「国家」だとおもったり、或いは「共同幻想=国家」だというふうに錯覚している。そう、それは、錯覚だ。

しかしながら、共同幻想の生まれるところには、たしかに〈権力〉は派生する。この場合は、〈権力〉はその共同幻想のcore(核)に該る。それがあったほうが都合がイイのだ。ここはふつうかんがえられているのとは順序がチガウところだ。core(核)があって、そこに集まって共同幻想が生まれたワケではナイ。

さて、国家は共同幻想ではナイが、共同の何かのシステムにはチガイナイ。従って、ここに〈共同幻想〉が生ずることはあり得る。つまり、権力構造が働くから「国家」なのだ。それに服従するから、それが共同幻想なのだ。

では、と、〈対幻想〉はどうだ。

〈対幻想〉とは、恋愛、つまり〈性〉に対しての幻想だ。さほど考え込まなくても、ここにだって〈権力構造〉は形成され得る。語弊をおそれずにいうと、近代の「イエ」というもの、あるいは、男女の関係における主従関係の如き「男尊女卑」などと称された類のもの。これは「男女同権」なんてコトバがあるのだから、逆によくワカル。

もう一つ。〈個幻想〉はどうだ。

ここにも私は〈権力構造〉がアルとかんがえる。私が私を支配する。逆にいえば、私が私を支配出来ない。これは〈疎外〉というふうにマルクスの自然哲学ではいわれるが、これだって、権力といえるのではナイか。

つまり、〈権力〉は、「共同」「対」「個人」を問わずに働くということだ。

そうなってくると、いちがいにその善し悪しをいうことは不可能に近い。

この「権力」について、生涯(道半ばにして死んじゃったけど)考察を続けたのは、フーコーで、これは橋爪さん(などの)構造主義思想が専門だが、私なんざの頭脳ではとても読解出来るシロモノではナイ(ということがワカルだけは一応ヤッたけど)。ともかくも、フーコーが執拗に「権力」というものと取り組んだ理由は理解出来た。おそらく人類の抱えた、もっとも難しくて重要な「謎」が〈権力〉だ。

果たして、「権力とはなんぞや」。

ぼちぼちと、は、かんがえられるように、ココロの片隅に置いておく。

2018年3月18日 (日)

こころの距離はいつも1センチメンタル・7

(7)信仰のフィジカル~親鸞と日蓮~

 

もともと宗教には〈根拠〉というものは無い。これが科学とは絶対的に異なるところだ。かといって、科学の〈根拠〉がアテになるかどうかは別問題とだけ記しておくが。

 

親鸞(1173~1262)は師匠の法然の「念仏第一」主義に対して、念仏すら棄て、「信心第一」主義の立場をとった。くだいていえば、念仏を唱和することよりも、信仰が大事ということだ。もっと否定的にいえば、信仰のナイもの、信心の薄いものが、いくら念仏(ここではもちろん南無阿弥陀仏だが)を唱えても意味がナイということになる。これは従来の小乗(上座)仏教に対して、ひじょうにワカリやすかったので、非知識層の農民や、武士にも浸透した。浄土系は菩薩すら否定したので、「修行」の必要がなかったのも流布した理由がある。ところで、信心の対象となるべく、その阿弥陀如来だが、釈迦如来(仏陀)が歴史上の実在人物であるのに比して、出自が経文(経典)の中だけにしかナイのだ。すると、創作だということになるが、誰の創作なのかも、よくワカラナイ。これは真言宗の大日如来も同じ。このような事例は、ヒンドゥーの多神教との関係が大きいと考えるべきだ。(ただし、ヒンドゥーの多神教は、実は一神教で、他はみな化身ということになっている・・・他の考え方も当然あるが・・・)

このような信仰(かんがえかた)に対して、日蓮が反駁したのは当然のことだ。

日蓮の他宗批判は、舌鋒鋭く「真言亡国・禅天魔・念仏無間」と、こと有名だが、バラバラに批難しているようにみえても、けっきょくは、釈迦牟尼仏を無視、あるいは阿弥陀仏の下位において、その阿弥陀如来などという在りもしない仏を信心することに対する批判なのだから、一貫しているといえば、そういえる。(いや、在るというのが宗教なのだが、もちろん、何の根拠もナイのも宗教だからだ)

また、その論理でいうなら、日蓮は釈迦の残した「自燈明・法燈明」に忠実だったともいえる。日蓮からすれば、親鸞の説く「他力本願」は「法燈明」に該るからだ。(それは二番目。先に自燈明がある)。とはいえ、日蓮の信奉する『法華経』も経典の一つにしか過ぎないし、当時の『法華経』は漢語からの和訳だったから、矛盾が多い。(しかしながら、サンスクリット原典でも、途中から差し込まれたと推測される「品」が幾つかみられ、これが内部矛盾をつくりだしている。そのことについては、鎌倉当時はまだワカッテいなかった。そのため、日蓮自身も漁師の子供という出自に対しては、かなり腐心している。何故なら漁師などの賤しきものに近づくのはイケナイという記述があったからだが、これは原初法華経にはなかったということが後の研究で明らかになっている。で、ないと、この「品・・・『安楽行品』」はあきらかに法華経の教えとは矛盾することになる。歌舞音曲の類、つまり芸術、芸能もダメとなっているゆえ、宮沢賢治もここで苦悩した。他、『陀羅尼品』以下は後世の追加、附属ということだが、私もこの学説・・・植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』・・・を支持する)。

矛盾が多いことは『聖書(Bible)』だって同じなのだが、聖書のほうの矛盾は、編纂、編集の出鱈目さからくるもので、チェスタートンのいう、「聖書に矛盾がみられるとき、この世界の矛盾と対応している」てな、名文句による解釈では片づかない。

『歎異抄』にせよ『立正安国論』にせよ、けっきょくのところ、現代に至っては、他の宗教と同じように、対立と抗争を産み出すことになった。根拠が無いのだから、そうなることは論理的帰結としかいいようがナイのだが、と、私などは高校生のときに読んで、まったくイカレてしまった『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍、著)にどっぷりだから、こと仏教においては、「釈迦の思想」としてしか繰り込まないし、その視点からいけば、過ぎたる「他力本願」も、過ぎたる「釈迦信仰」も、釈迦の思想の神髄の「中道」からハズレたものとなる。

釈迦の思想と、仏教とは、メンタルな差ではなく、フィジカルなものと考えたほうが納得がいく。釈迦曰く/過ぎたる苦行はアカン。テクニックだけの瞑想もアカン。もちろん、過ぎたる快楽もアキマヘン/・・・これらは、フィジカルに識るべきことだ。

2018年3月 5日 (月)

こころの距離はいつも1センチメンタル・6

(6)ひろげた風呂敷のたたみかた

星野之宣さんの『レインマン』が単行本「07」で完結した。

「01」「02」を読んだときの、星野さんの新しい挑戦には脱帽したが、「03」あたりから、拡げすぎた風呂敷をどうたたむかで、星野センセイ、ブレはじめたようで、宗像教授が登場したあたりからは、私は読者としては、なんの興味ももてなくなった。それはいつだったか、ブログにも書いたような気がする。なんつうか、あまりイイときではナイ、石ノ森章太郎さんが踏み込んで道に迷った、これを路頭に迷うといってもイイのだが、それとおんなじことをヤッてんじゃナイのかなと、そうおもったもんだ。

で、「07」の半ばあたりで「量子力学」の援用が長々と始まる。しかし、このハッタリは、ちょっと、ひろげた風呂敷のやぶれを繕うには無理に過ぎた。

アインシュタインの思考実験「ERPパラドックス」は作中の人物が述べるような/量子力学最大の問題/などではナイことは、量子力学をかじったものにでもすぐにワカルことだし、/可能性の重ね合わせ/・・・これは「状態ベクトル」(波の重ね合わせ)のことを示唆しているのだが、これを、かの思考実験とくっつけるのはムチャとしか、いいようがナイ。「重ね合わせ」はたしかに量子力学では重要な部分なのだが、なぜなら、ここから波束の収縮へと、量子の観測研究(観測理論)は進んでいくのだが、簡単に重ね合わせが起こるワケではなく、量子の場というものにも、「混合状態」と「純粋状態」があることをワザと避けて、都合のイイ部分だけを貼り合わせていくのは、読んでいて、もはやチカラワザというものをも逸脱しているとしかおもえない。

そこから、ニュートン力学、アインシュタインの相対性理論(作品では、単純にそう書かれているが、これは「一般相対性理論」のことだ)が、あたかも、ニュートン力学を超えたかのような書き方は、まるでアインシュタイン力学てなものがあるかのごときで、もちろん、そんなものはナイ。アインシュタインの一般相対性理論も、加速度や重力を扱うところはニュートン力学なんだから。(ブラックホールの研究に及んでは、重力すら無効化されるんですけど)

で、順序よく、コペンハーゲン派のニールス・ボーアを登場させて、ここからさらに量子力学のレクチャーが始まる。ところで、「量子は〈粒子〉でありながら同時に〈波〉である」と、まるでこれをボーアの提唱のように描かれるとなると、半畳どころか十畳くらい投げ入れたくなる。ボーアは「量子はあるときは粒子、あるときは波、これを相補性という」と述べたんだけど、これは、量子力学においては、すでに否定されている。あるときもへったくれもなく、量子というのは「〈粒子〉でありながら同時に〈波〉である、なんだかワカラナイもの」というのが、現在の量子に対する量子力学の概念定義で、このあたりから、何故そうなのか、と、いう学問がさらに発展しているのが現状だ。

ところが、ここで、星野センセイは、量子の運動を「幽霊波」という展開に引っ張って、超心理学、超常現象などと、いっきにくっつけてしまう。これはもはや、逸脱ではなく乱暴だろう。

ここに引っ張っていくために、おなじみの「二重スリット」の実験・・・これは思考実験ではナイ・・・がレクチャーされるのだが、ここも、大事なことをスルーしている。たしかに感光スクリーンには、干渉縞が生じるのだが、問題は、このスクリーンのほうにある。本編ではまったく触れられていないが、スクリーンというものもまた「物質」なので、スリットが一つだろうが、二つだろうが、発射された量子(電子や光子)は、このスクリーンに到達するときに、このスクリーンと、物質的にぶつかるのだから、当然、スクリーンとの量子的作用がどうなるのかが取り沙汰されねばならない。(これは、観測理論によって、深く論じられていますが)

ともかくも、星野センセイは、なにがなんでも、量子力学と超能力(超常現象)とを結合しようとヤッキなのだけれど、(そうしないと、作品が破綻するからな)それは、ちょいとどころか、ずいぶんと無理やりだ。というより、物語がどんどん薄っぺらくなっていくのだ。

ひろげた風呂敷はみごとなものだった。けれども、このたたみ方が、昨今の星野SFにせよ、星野考古学にせよ、同じような題材を扱っているもう一つの「星」、諸星大二郎さんに比して、まったく説得力を欠くのは否めない。劇画だからといっても、それなりのエビデンスは提示しないとなあ。つまり、もちっとうまく騙してもらわないとなあ。

作品の展開に行き詰まったら「ゾンビ」を出すか「量子力学」を出せば、それなりになんとかなるのは、あまりいい風潮とはいえない。世界はそこまでご都合主義ではナイ。

これは、自戒でもある。私も拙著『恋愛的演劇論』の最終章で、マチガッテ(マトリックスの扱いを勘違いしている)るからな。

意外に、この、事実と虚構の1センチメンタルは遠く離れているのだ。それは、テレパシーとやらが簡単に届く距離でもナイようにおもわれる。

2018年3月 3日 (土)

こころの距離はいつも1センチメンタル・5

(5)役づくり という けったいなもの

「役づくり」というコトバがナニをさしているのか、ということを問題にする前に、このコトバが、誰によっていつ頃から、そういった関連の業界に出回ったのかが、私には興味があって、ウィキペディアを覗いてみたが、該当するところ、「この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください」とあった。たしかに、記事内容もそのごとしで、それ以上のことはナイ。

古典の芸談『役者論語』では「心がけ」「心得」といういい方は出てくるが「役づくり」というコトバは、みあたらない。

おそらく「役づくり」というのは、西洋(アチャラ)からの持ち込みだろうと推測される。そうなると、リアリズム演劇がアチャラから引っ張ってきたもので、さしずめ、スタ・システムの「内に向かって」の修業あたりを指すものだとおもわれる。で、それは「役づくり」どころか「役立たず」なものだということは、何故「役」に立たないのかを論理的に拙著『恋愛的演劇論』では小述してある。

スタ・システムの出発点は、上手な役者(俳優)から、特殊性(固有性)を引き算して、普遍性を抽出することだった。

このあくまでの出発点が、主だった方法論に転換されてしまったため、唯物弁証法からの発案だったはずのシステムが、アリストテレス哲学に後退してしまった。

唯物弁証法では「素材は表現に優先する」という立場をとる。具体的にいえば、仏像を造る場合、木製なのか、金属製なのか、陶製なのかで、出来映えにはチガイが出るということなのだが、この木製、金属、陶も、さらに細かくカテゴライズされるから、それぞれ、材料(素材)を選ぶことから、創造が始まる。絵画においても、油絵と水彩、版画では趣がチガウ。

しかしながら、演技の場合、「素材は表現に優先する」とは必ずしも正しい命題にならない。

演技の場合は、素材(役者の身体)と表現(役の身体)とは、係数(比率)になる。

「役づくり」とやらをヤッてらっしゃる役者の方々をみての、私の感想は、多くの方々が自身の身体を無視するか、括弧に入れてしまってらっしゃるということだ。

ロバート・デニーロさんが、役によって、体重を何十㎏も減らしたり、増やしたりしたので、スゴイとか、そーいうことに驚いているのはマスコミ媒体だけでよろしい。

さらに感想を述べさせてもらえば、「役づくり」というのをヤッてらっしゃる方々をみるにつけ、それは「役づくり-づくり」じゃないのかネと、半畳入れたくなることだ。よーするに「役づくり」というのを、「つくって」るだけじゃナイのか。

いまふうにいえば、customizeしてるだけじゃないの、だ。

では、おまえはどうしているのか、あるいは、おまえが演出するとき、役者にどう指示するのかと、問われれば、応答はごく単純で、「正確にせりふをいいなさい」だけだ。せりふには、必ず〈正確・正しい〉いい方が在る。それをホンから掘り出してこなくてはならない。それが無い「ホン」は「ホン」が悪い。つまり、ホン書きも「正確・正しい」せりふを書かねばならないということだ。

身体とコトバの、「役」との距離の1センチメンタルは、かくも困難だ。

2018年2月23日 (金)

こころの距離はいつも1センチメンタル・4

(4)銀のバターナイフ

タイトルの『銀のバターナイフ』という小文を書いたとき、初めて私は、自分の文章が書けたとおもった。そのカタストロフィは、これからは文章を書いてヤッテいけるという漠然とした自信につながった。

文章の内容は、ある追悼文で、当時の劇団員で最年長のかたの(顧問というカタチでの参加でスタッフや役者ではナイ)長女が自裁したときのものだ。葬儀にも参列したが、この顧問氏から幾つか、長女さんのハナシを聞いた。彼女はソープで働いていた。ソープは一勤一休で、そうでナイとカラダがもたない。賃金は月に50万円(当時)。ご当地の組の親分さんから譲り受けた二尺の匕首(ドス)が箪笥にしまわれていた。自裁の日、住居はきれいにかたづけられており、何も彼もが整然と、ゴミ一つ落ちていない状態でありながら、台所の流しタンクに、バターナイフだけが片隅に洗われないまま放置されていた。

「なんでなんだろうなあ」

と、顧問氏は首をひねっていたが、私にはその理由がワカルようにおもえた。

たぶん、と、私は顧問氏にいった。

「それは、彼女の、ある、生活の痕跡なんじゃないでしょうか。死ぬ前に何もかもキレイにした。けれども、それでは生活のアトすらすべて消し去ってしまうようで、ここで、生きた、というよりも、ここで〈生活した〉名残の一つくらいあってイイのではないかと、彼女はかんがえたんでしょう」

そういったことを、追悼の文案にした。

 

ここ数年、私は自身の命の長さ(残りかな)を、他人の死という現実を尺度に計測しながら、それをmotifに、自分がproduceの一端を担う劇団への戯曲を書いてきた。経済的にも心身の衰えからも計測は可能だったが、私くらいの年齢(六十五歳)になると、私と同年配、あるいはちょいと上、少し下の方々が、多くは疾病で他界する。それは身近なひとであったりもするし、長年のファンの方だったりもする。

大杉漣さんは、実際にお逢いしたことはなかったが、『寿歌』を演りたいなあとおっしゃっていたという噂は耳にしたことがある。その頃は「転形劇場」(ここで、大杉さんの演じた沈黙劇『小町風伝』太田省吾、作・演出を、私は観ている)を退団されて、本格的に芸能活動をはじめられたアタリだったとおもう。

マスコミ業界の報道、などでは、「下積み時代」というふうにいつも表現されるのだが、その「食うため」の芸能営業は、下積みというよりも、立派な「修行・修業」の時代だったのではないか。

また、「実力派」とか「演技派」というふうなletterをマスコミは貼りたがるのだが、私自身のコトバで語弊をおそれずにいわせてもらうならば、大杉さんは〈technique〉を持たない役者だったとおもう。あるいは持っていらしたのかも知れないが(ともかくいろんな役を演じられているので)、さまざまな役でたとえ業界から「300の顔を持つオトコ」と称されていても、~このひとは不器用だなあ~と、私は〈賞讃〉するのだ。

つまり、大杉漣さんは、どんな役でもやれたひとだが、どんな役をやっても大杉漣で、逆に視れば、誰も、大杉漣を演じることは不可能だろう。

このことを別のいいかたで述べれば、その作品が大監督の芸術作品だろうが、新人無名の監督の作品だろうが、「やってることは同じなんです」ということになる。

ともかくも、結びの常套句として「ご冥福を」と書いておくが、ずいぶんと失礼、無礼を省みず、「この方とも、1センチメンタルの距離だったなあ」と、悲しみではない、すがすがしい深呼吸をさせて頂く。

2018年2月17日 (土)

こころの距離はいつも1センチメンタル・3

(3)

「演劇なんてのは、徒党を組んで悪を成す心構えでナイとやれないよ」という名文句を残したのは、徒党を組んで善を成す『水戸黄門』の主役も演じた、西村晃さんだが、いまどきは、何が悪で何が善だかワカランので、さらに、悪というものが、かなり気色の悪いものにカテゴライズ(分類)されるようになってしまったので、私はこの文言を「徒党を組んで銀行強盗する」と、かなり具体的に語る場合がある。

つまりは「用意周到、計画は緻密に、行動は大胆に」ということがいいたいワケで、とはいえ、しかし、この路線で国家を機動させているのが、北朝鮮なんだから、飢え死にしたり、粛清が激しかったりするこの国家からも、学ぶものは多々あるとしかいいようはナイのだけれど、それはまあpoliticalな範疇としてと、うーん、と、ともかく「無計画とad-lib」を以て宗とすべし、が信条の我が〈演劇〉からかんがえるに、「用意周到、計画は緻密に、行動は大胆に」と「無計画とad-lib」との距離は1セチメンタルというところにハナシがおちつけばイイ。

と、同時に、ルイス・ブニュエル監督の、『ナサリン』と『皆殺しの天使』は、ブニュエル監督の生涯の主題である〔キリスト教迎撃〕映画ではあるのだが、大傑作とされる後者に比して、あまり知られていない前者を、私はうんと評価したいと、この距離は、かなりあるんじゃないかと、いま、『皆殺しの天使』を観て、この映画をこきおろすことにした。

『皆殺しの天使』は巷間(あるいは評論家かな)では、「シュールレアリスムと不条理の融合」で、何度観てもワカランけど面白いということになっているが、何度観てもワカランというのはどうかなあ。一度観れば(というか、私は退屈で、早送りしたけど)もう充分で、『ナサリン』のようにボディブローのような効き目もなく、要するに巨匠ブニュエル監督の作品にしては、下等、屑、糞のような作品だ。

何故、そうなのか、以下、解説する。

この映画の解りにくさ(といわれているのだが、私はそうはおもわない)の理由は、「シュールレアリスムと不条理の融合」などというものとは、ぜんぜん関係がナイ。単純に解述するのには、数学的な思考(方法)が間に合うので、そうするが、この作品がワカリニクイのは、/微分方程式にすることが出来ない/からだ。くだいていうと、「部分を観て、全体を予想することが出来ない」ということになる。なんで、そうなるのかといえば、不条理だとか、シュールだ、とかとは、まったく関係ナイ。むしろ「不条理やsurréalisme」への誤解から生じた錯誤、錯綜、錯乱から創作されているといったほうがイイ。

これは、よく劇作家も陥ることなのだが、/具体から抽象へは行けるが、抽象から具体へは行けない・或いは行こうとしてはいけない/という数学の命題(これは証明されている)に則していない、というよりも、私がよく後塵に対して訓戒する、/抽象から抽象を描いてはいけない/を、そのまんまヤッたような作品だからだ。ワカリニクイのは、マチガイなくこの作品、ブニュエル監督が失敗しているからだし、ブニュエル自身、それに気づいていない(というより悦に入ってらっしゃる)からだ。

えー、どういうことなの。

って、数学的批評はここまで。数学のワカルひとには、ワカル。ワカランものにもそれなりにうんうん、くらいはいうことは出来るとおもう。

キリスト教を迎撃するのはオモシロイ。なにしろ相手がバチカンだからねえ。しかし、それなら『ナサリン』のほうが数段、数十段、上です。

この作品ではもう一つ、ブニュエルの射程には、bourgeoisie が含まれているのだが、批評、批判、揶揄、嘲笑、それらは表現するにヤッてもイイが、「殺す」のはアカンとおもう。そういう論理でいくなら、「キライなヤツは作品の中で殺してしまう」という表現も可なり、ということになるのだが、まさにこの作品はそれをヤッちゃっているのだが、そこはブニュエルらしくナイ、単純なHysterie(ヒステリー)だ。他人のヒステリーに付き合うほど身のほどが疲れるものはナイ。徒労、の一語に尽きるから。 

だんだん、ワカッテきたぞ。私はこの作品は、ルイス・ブニュエル監督のヒステリーに過ぎないとおもう。何がシュールレアリスムと不条理の融合」なものか。どんなに偉い監督が創ろうとも、下等、屑、糞は、下等、屑、糞、以外のナニモノでもナイ、と、同義反復するほかはない。

で、ハナシはおちついていないが、私もこの映画を観たアトは、感情的で、ブニュエル監督とこの作品の差は1センチメンタルどころか(ふつう、表現者・・・作者・・・と表現(作品)との差は、それくらいはあるのだが)まったく無いのだ。あんまりピッタリと自身にくっついているものには、表現者は要心したほうがイイ。それは単純に、自身の影でしかナイことが多い。

2018年2月14日 (水)

こころの距離はいつも1センチメンタル・2

(2)

『寒い国から来た男』というのがタイトルだったとおもうが、依頼原稿でけっこう長文を書いた。長文とはいえ、「川島雄三・論」としては短いものだが、今年出版だとか聞いているので、幾つもの優れたエッセイの末席に静かに座っていることだろう。

川島雄三監督の作品との出逢いはご多分にもれず『幕末太陽伝』だが、これは劇場でみている。それが何処だったのか、記憶にナイ。作品についていまさら記すのは愚行なので、ナシにしといて、彼の出自を記せば、青森県下北だ(現在のむつ市)。で、父親が近江商人だったか、その裔だったかで、この辺りは、資料を繰っているときに識ったのだが、私の祖父も近江商人だから、奇妙な縁を意識するのに充分だ。

下北半島まで、特に用事はナイのに遠出をしたのは一昨年の秋だったが、そのときは、川島雄三監督の出自は知らずにいた。これまた、奇妙な縁だ。

川島雄三監督は、当初、松竹でプログラム・ピクチャーを量産していたが、「私はヤワな男だから、こういう生きやすい環境にいると、破滅方に傾いてしまう。だから」という理由で日活に移籍する。その辺りからいわゆる「重喜劇」が創られ始める。

こんなことを書いていると、なんだかウィキを写しているような錯覚に陥るので、またも中止。

ところで、川島雄三監督は『全部精神異常あり』(昭和41215日(1929年。1215日)封切り 、松竹鎌田撮影所の斎藤寅次郎監督による映画、『西部戦線異常なし』アメリカのアカデミー賞映画のタイトルをもじっただけ)は観たにチガイナイ。

シェイクスピアは『ハムレット』を書いたとき、『ドンキホーテ』を読んでいたのかと考えたが、どうもセルバンテスの『ドンキホーテ』のほうが後に書かれているので、それは逆なんだろう。

もちろん、『全部精神異常あり』のフィルムは現存していない。だいたいの内容はウィキペディアを調べればワカル。『西部戦線異常なし』のほうは観たが、たぶん、前者のほうがオモシロイ。

「積極的逃避」などという、川島雄三監督の造語は、『全部精神異常あり』なんてのを観ていないと浮かんでは来ない。(と、おもうんだけどなあ)

「花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ」が川島雄三監督の座右の銘だったが、これは、世間に向けたカッコツケで、川島雄三監督の「重喜劇」を観ると、「ステキにみんな狂っていたほうがイイ」と、おもうのだ。

そういえば、いにしえの女芸人が「浮世は夢よ、ただ狂え」と歌って踊ったナ。彼女は真っ当だ。真っ当な人間が真っ当に生きようとすると〈喜劇〉になる。それが川島雄三監督の「重喜劇」というもので、『ハムレット』から『ドンキホーテ』までの距離は1センチメンタルしかナイ。

 

2018年2月 8日 (木)

こころの距離はいつも1センチメンタル・1

(1)

年頭所感などを書こう書こうとおもいつつ、年末からの多忙と、「身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれホトトギス」なんて、無理を承知のこの稼業で、心身を癒す時間がなく、壊れっぱなしで、なんとかそれを斬り抜けて、ここまできた。

で、いまさら念頭所感でもあるまいから、それはすっ飛ばすとして、この冬の厳しさはいつもの冬のそれとはチガウという、体感から、ゲノムの記憶を呼び覚ますまでにいたって、いよいよ氷河期も本格的になったなと、感じざるを得ない。

我が祖先は、氷河期を幾度かこえてはきたが、脆弱になった私たちにそれが出来るのかどうか。なんしろ、influenzaの罹患者の多くが二十代未満というから、その免疫力の低下やおそるべし。

此方(こち)とらは、アト半年で66歳のゾロ目となるが、これくらいの年齢になると、「どう生きるか」よりも「どう死ぬか」のほうが難しい。誰しものことだが、「死に方は選べない」からだが、その誰しもが「必ず死ぬ」ときているのだから、ここは皮肉な矛盾をはらんでいる。

覚悟は覚悟、さだめはさだめ、ということなんだな。

この歳になっても、学ぶことは多くあり、またそれは楽しい。何にせよ、何かに好奇心、探求、学究心があるというのは、学問にせよ、恋愛にせよ、在ったにこしたことはナイ。とはいえ、創作意欲や、ideaはあるのだか、心身が伴わないというのもこの歳の辛さだ。

 

ウディ・アレンの『カフェ・ソサエティ』をやっと観たが、ナレーションをウディ自身が担当していることもあってか、そのtempoの良さは最近の作品の粗雑さからやっと脱してくれたようで、96分の中に人生をぶち込んでしまうやり口は、もはや潔いとしか評する他はナイ。厭世でもなく、humanismでもなく、いわば憐憫に近い感覚だ。

/ああ、私もそうだったなあ/とおもわせる、いつものウディ節というところ。

 

健康寿命というのがあるそうだが、これはアヤシイ。何故なら、健康をいうなら、私のそれは、二十五歳で終わっている。鬱疾患の始まりがそこだから、それ以降は、健康ではナイことになる。これには物的証拠のようなものがあって、いわゆる生命保険系統の保険ではたいていハネられてきた。現在の保険でも、新しく別のものに移行することは出来ない。

病持ちのものに対しての保険が増えてきたのは、「老齢社会」という世相だからで、これを「長寿社会」などといいかえてもらっても、アホラシイとおもうだけだ。

 

荒野をゆく、我がrear carの独り旅は、予定されている続編では、キョウコを失ったゲサクが、生存者と遭遇し、旅に疲れたので、ちょっと、このあたり(どのあたりでもナイこのあたり)を一緒に耕してみるかと、荒れ地に鍬を入れることになっているが、さて、これもまたideaはあるが、書けるかどうかはワカラナイ。

「ああ、荒野というた詩人がおりましたな」

「そのかたは、どうしていらっしゃるの」

「街の中に消えよりましたな」

「あなたは、どうされます」

「ちょっといっぷく、していこかな」

「ご飯でも食べます」

「そら、よろしおまんな。食わんとするところから、何事も始まる」

「それは、どなたがおっしゃったんですか」

「どなたがいうても、ふしぎやおまへんな」

Plotは、あるには、あるのだが。

 

 

 

2017年11月18日 (土)

漢方薬について

 

まず、私の常備薬としての漢方薬をあげておく。

「麻黄附子細辛湯(マオウブシサイシントウ)」と「柴胡桂枝乾姜湯(サイコケイシカンキョウトウ)」の二種。鼻水の多い鼻炎(鼻風邪)のときは、「小青竜湯」を用いることがあるが、これは、前の二つとbatting(和製英語として、重なる、ぶつかりあう、の意訳)ので、併用するときは注意が必要。

てなふうに、漢方薬といえど、なんでもかんでも適当に服用してイイものではない。

なんで、こんなことをブログのネタにしているのかというと、昨今の医薬に対する民間の不信が大きく、また、医師にしても、漢方薬への見直しと研究がなされているので、良心的で研究熱心な医師は、漢方薬を処方する機会が増えているということ、と、漢方薬に対する無知な医師が、適当に漢方薬を処方して、失敗している例も枚挙に暇がない、さらに、使い方の自らの誤謬、錯誤による失敗であるのに、「漢方薬は効果がナイ」と、鬼の首でもとったように断言する輩もあったりするので、という、それだけなんだけど、この「それだけ」はけっこう重要なのだ。

基本的(原則的)に漢方薬というのは、漢方処方の薬剤師と、man-to-manで、相談しつつ、自分にあったものを処方、調剤してもらうもの、なんだけども、昨今は市販さているので、ついついお手軽にそれを購入するということになる。これでの失敗を漢方薬の効能のせいにする、のは、明らかに責任転嫁というものだ。

同じ名前のクスリでも、漢方薬は、その調剤内容(量)がチガッテくる。ここがよくいわれる「匙加減」というものだ。

私が勧めるのは、まず、信用のおける漢方薬薬剤師のところで、自身の心身の情況について相談し、調剤処方してもらい、それで、持病が軽減するようであれば、それを信頼のおける医師に伝え、保険の効くように処方箋を書いてもらうか、医師の出す同種の漢方薬を服用。こんだけの手間をかけるべし、だ。

比較的ゆっくり効果の出る漢方薬もあれば、即効性のものもある。また、飲んだら死ぬものだってある。だってクスリは毒なんだから。 

下手な民間療法に頼るよりは、「匙加減」の出来る漢方薬剤師と、医師を探せ。ですね。

2012年のWHOの統計では、鬱疾患者は、全世界で三億五千万人。それから、5年を経て、通院などしていない罹患者を想定すると、四億人の鬱病者が世界にはいるだろう。世界の人口は約76億人。このうちの4億人は鬱罹患者だ。100人ひとが集まれば、おおよそそのうち5~6人は鬱病です。これは、統失患者の約六倍です。

おかしな締めくくりかたになっちまうが、危ない、あやしいと感じたら、行ってはいけないのが心療内科や神経内科という「内科」。それよりは、まず、漢方薬を試してみて、それから医院へ、あるいは、医院と漢方薬剤師を両方とも、というのが、漢方の向精神薬に代わるうまい用い方だとおもうが。 

2017年9月19日 (火)

ナマケモノ

「怠け者」のことではナイ。あの、森(密林、ジャングル)に生息する動物なんだけど、ありゃあ、ナンのためにいるのかがまずワカラナイ。一日20時間は寝ている。従って、あまり食わなくてイイ(一日およそ8グラムの木の葉っぱを喰う)。イイどころの話ではナイ。食わなくてそのまま餓死することも多い。一週間から十日に一度、排便をする。自分の住んでる木の根元まで降りていって、そこであたかも肥料でもヤルようにする。完全なる自給自足。ところで、食物連鎖の世界で生きているワケだから捕食される。抵抗しない。ただ、食われるだけ。それでも種が存続しているのは、殆ど動かないので目立たないからだ。

釈尊も達磨もここまでは悟れないナイだろう。

ニンゲンはどうだ。ナマケモノより酷いといえば酷い。国境なき医師団のresearchでは、5秒に一人、子供(5歳未満)が死んでいる。毎度、寄付するたんびに、自分の貧乏がイヤになる。せいぜいが五千円から1万円(老齢年金、月6万円の中からね)。いくら貧者の一灯とはいえ、これはもう、ペストに対する反抗(カミュ・『ペスト』のベルナール・リウー)にも及ばない。ほんとうに貧者なんだから仕方ないのだが。

現在(2017年)の飢餓人口は約8億人。この世界の9人に一人が、食えていない。かつて、マルクスが「全世界のプロレタリアート(無産階級)よ、団結せよ」と『共産党宣言』で雄叫びをあげたとき、誰だったか、ちょっと記憶にナイんだけど、「搾取とか、剰余価値とかいうけれど、要するに、飢えて死にたくないだけなんじゃナイかな」と、ボソっというた市井の民が在ったとさ。

「ウォール街を占拠せよ」と叫んでも、「働いて、競争して、勝ち残ったものが富を得るのだ」というのが、アメリカ資本主義の基本だから、本質的に、いいですか本質的にですよ、アメリカは、北朝鮮をとやかくいう資格なんざ基よりナイのだ。北朝鮮は、アメリカに対して、競争して勝ち残って、生き残るるつもりなんだから。

北朝鮮では、餓死するものも、貧困ももうすぐ根絶することになる。なぜなら、餓死するものは、みな餓死し、貧困者はみな餓死するだろうから、北朝鮮国家から餓死も貧困も消えるという寸法だ。

銭を出せっ、さもなくば、核攻撃するぞっ。そういう方法的生存ネ。

核は国家を救う、だ。

しかし待てよと、歌謡曲、演歌でもポップスでもなんでもいいんだけど、歌詞の中によく出てくるのが「愛」だよな。あの「愛」を「核」に置き換えても、そんなに違和感ナイんだよな。具体的に書くと、JASRACに叱られそうなんでヤメルけど。「夢」もそうだな。

~いっているいるお持ちなさいな いつでも核を いつでも核を~(古いところですけど)

で、ナマケモノだけど、一日20時間寝るのなら,起きてる4時間なんて大したことナイから、いっそ24時間寝たらどうか。つまり一生寝てんの。そうすりゃナンの苦労も不安も悩みもなくなるね。そういうひと、いるよ実際に、不治の病かなんかで、人工冬眠(冷凍保存)されちゃって、100年後くらいに起きるらしいけど、人類自体が100年もつかなあ。

えーと、次回は未来は明るいって話にします。

より以前の記事一覧