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カテゴリー「旅行・地域」の記事

2022年5月15日 (日)

Sophism sonnet・69,11-08

戦争、その前に・3

沖縄本土復帰50年。
復帰前の沖縄が観たいという理由だけで、もちろん生徒指導部の教師、部長の否認にあったが、終業式は乗船の関係でボイコットして、沖縄に渡ったのは高校二年生の冬だった。
当時はパスポート(渡航証)が必要だっしたし、沖縄のレートはドルで、自動車は右を走っていた。あまりの素っ頓狂な行動に両親はコトバもなく、いや、父親がいったナ。「おまえ、コトバは大丈夫なのか」。果たして沖縄の言語が米語だとおもっていたのか、まったく途上国の異国語だとおもってそういったのかは、ワカラン。船底部分にある二等船客はふだんの三倍の人数で雑魚寝。めしは丼一杯のさまざま(抜け目のない者は二回並んで二度食べる)。
三泊は船底。外に出ても「これより先一等船客室につき立ち入り禁止」の札とロープ。野宿覚悟だったので、寝袋を持参していたから狭いデッキで横になりながら星を観ていたが、もどると寝場所がとられているのでこれは中止。船客の人々はみなヤマト(日本本土)からの正月の里帰り。ただし、暮れと正月の休みは一週間、六日は移動にとられるので沖縄の実家に居られるのは一日だけ。それでも、下船の数時間前になると女性たちは化粧を始める。そうよ、老若男女雑魚寝ヨ。私は船中で知り合った若者が「オレの弟も同じ十七だから、下船しての一晩くらいは泊まっていきなさい」に甘えて、下船一日目はちょっと副鼻腔炎気味の弟くんに案内されて彼の高校へ。女生徒は体育の時間ということで、薙刀の訓練。「ええっ、本土ではヤってないんですか薙刀っ。沖縄の女子高生はどこの高校でもヤってますよ」と向こうの驚きにこっちのほうが驚く。戦争終わっていても、ベトナム戦争のさなかだから、やはり守りはタイセツなんだな。「ひもずくなるど、いつもここで食っでいぐんだ」と、ガッコの傍の沖縄そば屋で弟くんと、蕎麦と中華麺のあいのこのようなのを食う。安いのだが、かなり不味い(以後十数旅の沖縄で毎度いろいろなところで食ったが。最も味が良かったのは、那覇空港レストランのソレ。ガイドブックに出ている名物そば屋のそばも全滅)。泊まりの夜の晩飯は豚と野菜を煮込んだ、なんだかワカランけど家庭料理。副食はべつに贅沢いうような身分ではナイが、この米は、この米飯は、なるほど、外米ではナイとおもったが、硬水なんだ。まだ水はタダだったからなあ。旦那は仕事で留守。「沖縄は豚よ。牛を食べているのは米兵だけ」と弟のおっ母さん。「船から子牛を降ろしていましたけど」「あれはね、石垣、宮古とかで育てられて、成牛になる前に本土のいろんなところへもどされて、いろんな名前になるの。神戸とか松坂とか、近江とかネ」このおっ母さん、スピノザくんの〈幻想〉か、ユング心理学の顕現か、沖縄に嫁にくる前の故郷が、私の実家から歩いて行けるとこ。「瀬田の唐橋、知ってるよ。建部神社知ってるよもちろん。あの裏あたりの、へーえ、いまは団地になっているの」(その団地、現在はアリマセン)
それから十年を経て、私、以降十数回、毎年沖縄に行きました。沖縄が返還されてどう変わっていくのか。好奇心は何事も凌駕する。
ひとことで云うと、エメラルドの珊瑚礁は無くなりました。石垣に行ったときは、海の水は赤くなっていました。「開発でねえ、この辺は粘土質だからねえ。それ、みんな海に棄てるからねえ」と、タクシーの運転手の言。「まあね、便利なのは、病院が何処でも24時間態勢なだけ。仕方無いのよ基地があるのは。負けたんだもの。まあね、勝っていても日本軍の基地があるだけだろうけどね」そう、復帰50年はそれがすべてです。

2021年6月19日 (土)

想想不一(しゃんしゃんぶーいー)6


/あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな/
このアト「ふるさとをつくれ」とつづく。知るひとぞ知る、詩人谷川雁の詩『東京へいくな』の一節。

「まん延防止等重点措置が東京で継続されるようであれば、島根県内から観戦に行くことが『不要不急の外出』の例外だとは口が裂けても言えない」(毎日新聞 2021/6/18 19:37)
かの島根県知事、またまたのクリーンヒット。お見事です。

2021年3月 9日 (火)

珍論愚談 23

ここでニイちゃんがオモシロイ、というかキジルシらしいことを述べた。
ニイちゃん「〈COVID-19撲滅主義〉と、いうんですが、なんのことやらとおもわれるのは承知ですが、これは一種のparodyなんです。かつてソビエト連邦のスターリンがとった社会主義は〈一国社会主義〉といわれています。主義といっても、一種の方法論なんですが、一国社会主義論とは、世界革命を経なくても一国で社会主義の建設が可能だとする考え方で1924年にヨシフ・スターリンが主張しました。これにトロツキーの〈世界同時革命論〉とがぶつかりあって、トロツキーは負けて失脚したというふうに歴史教科書なんかではそうなってますが、それは、たぶん誤謬ですね。スターリン、トロツキー論争なんて存在しませんでしたから。スターリンが述べたのは、ソビエトの革命を参考に近隣の国々が革命を起こす、これも教科書的なんですが、スターリンの考えというか理論、あるいは闘争は、ともかくソビエトで革命をやってみせる。そうしたら、それがヨーロッパ諸国に飛び火して、それにソビエトも軍事協力して、革命国家を増やしていくと簡単にいうとそうなりますが、実際は、ヨーロッパ(たとえばドイツ)では革命は失敗しましたし、他の国も蜂起するところは少なかった。で、スターリンは近隣国家に武力介入して、けっきょく、ソビエト連邦という連邦国家をつくるにはつくったんですが、これがスターリン独裁になっちゃった。スターリンというのは、あまり利口なひとではなかったということはたいてい知られています。レーニンの後継を誰にするかで、ともかくトロツキーなどのような煩いのはアカンから、適当なのを担ぎ上げて、トロイカ方式でやろうということに当時の革命会議でそうなったんですが、担ぎ上げたスターリンはある程度の学力、指導力はあったんだけど、それ以上に権力欲が強かったので、大粛清をやっちゃう。そこへきて、ナチスが勃興してきた。仕方ないので、スターリン権力下で、ソ連国民は闘ったワケです。と、まあ政治のハナシはこれくらいにしておいて、COVID-19は政治ではなく政策段階の阿呆なやり方で失策ばかりしているワケですが、ここで〈COVID-19撲滅主義〉をヤル。これは別名〈COVID-19一国主義〉といってもイイ。ソ連のスターリンの〈一国社会主義〉と同じようなことをするんです。まず、おのおのの自治体(日本だと都道府県)が、それぞれロックダウンする。しかし、一斉にヤルと流通が破綻しますから、少しずつヤル。たとえば、まず島根県周辺あたりが、自治体において感染者がゼロになるまで、東京とその近隣三県の往来をロックする。つづけて同じようなことを小数の複数県が自治体において感染者がゼロになるまで、東京とその近隣三県の往来をロックする。つまり、このロックダウンは東京近隣三県封じ込め作戦です。
かくして、COVID-19は東京近隣三県にしか存在しなくなる。ここで注意することは、変異株ですが、これもともかくゼロになるようにしなくちゃならない。自治体どうしで、暫し往来禁止ということも水際作戦のようにあるとおもいます。しかし、それ以外COVID-19撲滅の方法はたぶんありません。その間、東京はオリンピックでもなんでもヤってたらイイ。ただし、他府県へは選手も含めて往来出来ない。外国の選手のみなさんは、試合が済んだら成田から本国に還ってもらう。聖火ランナーの方々は役目を終えたら二週間自治体で隔離を覚悟してもらう。不要不急なんたらもこの際、厳禁。
しかしながら、東京近隣三県以外の他府県は、時短も在宅業務も感染、実行再生産が増えない限り緩和していく。東京鎖国さへしていたら、平常営業でもイイとおもいます。ともかく入れなきゃイイんですから。これでCOVID-19の感染0、実行再生産者数が1をかなり下回るまで、0.3あたりまで頑張る。
ご隠居「現状の日本じゃ、無理なハナシじゃのう。
クマゴロ「突飛で素っ頓狂で、奇天烈げすけど、なるほど、理屈じゃそうでもしないことには撲滅は無理でやすね。
ご隠居「キチガイだが仕方がナイ。って、これ、あれじゃな。『獄門島』じゃな。
ニイちゃん「ええ、まあ、キチガイの妄言ですから。〈東京鎖国〉という命名でもイイですね。歌にもできますから。
η~ああ あなたといれば あなたがいれば 生きてはいける この東京鎖国~

2016年10月 6日 (木)

百姓日記③

まぼろしの地図をひろげて北帰行

 

〈夢〉というものは、実現すると達成感なり充足感なりがあるものだと、ごくふつうにそう考えていた。ところで、私の場合、たぶん常人とはチガウせいなんだろうけど(超能力者とか、天才とかではナイ、いうなれば社会不適応者かね)、実現するたびにやってくるのは〈喪失感〉だった。つまり、プラモデルでも、折り紙でも、つくって出来上がってしまったら、それでオワリ。知恵の輪でも、外してしまったらオシマイ。私はじぶんをエライひとではナイが、少しはスゴイひとだと思い込んでいたが、実際はじぶんの思い込みほどではナイようで、そのように世間に認知されてはいないんだということに、還暦を四年を過ぎてやっと気がついた。

子供の頃読んだ乱歩さんの『少年探偵団』シリーズは面白かったが、どうしても私は二十面相贔屓で、いつかこの人物の伝記を小説に書こうと思った。で、書いた。映画化もされた。だから・・・

名古屋に出てきたとき、名古屋の演劇の卑屈さに嫌気を感じて、必ず東京で通用する演劇を創って東京で上演してみせると決意した。で、そうした。だから・・・

演劇論のあまりの幼稚さにがっかりして、いつか科学的な演劇論を記してみるぞと思い立って、三十年かかって、『恋愛的演劇論』というromanticなタイトルの単行本を出版した。だから・・・

単純なことをいうなら、劇作家で食っていこうと思った。そうしてる。だから・・・

思い上がっていいますが、私は私の生涯をかけての夢なり、目的なり、つまり、「やりたいことと、やらねばならぬこと」の9割はやっちゃった。だから・・・

だから、やることがなくなって、退屈になってしまった。

そこで、へそ曲がりの私は、やりたいと思ったこともナイことをやってみようと考えた。

それが「旅」だ。

私はグルメどころか、世界の三大料理とか、日本各地の名物料理とか、そういうものにはなんの興味もナイ。行列の出来るラーメン屋にも行ってみたが、たしかに不味くはナイが、毎日通うてな気にはなれない。日影丈吉老師はアテネ・フランセでフランス料理のコック修業のひとびとにフランス語を教えていたが、老師はこんなふうなことを書いている。「いくら美味いといっても、店屋ものは店屋ものの域を出るということはナイ」

子供の頃から風呂が好きでなく、カラスの行水といわれた。大人になっても温泉に行きたいと思ったことはナイ。それでも、あちこちの温泉に行ったりしたのは(正月三が日は温泉というのが数年あったけど)、女性はどういうワケなのか温泉が好きみたいで、これは嫁さんサービスで、私のように三回も結婚していると、誰も行かないような温泉をまず探す、これだけは楽しみだった。

素人考古学者だったりしたら、卑弥呼の墓をあちらこちらに探し回ったかも知れないが、そこまでのめり込むことはなかった。

要するに私は「旅をする」ことが、身も蓋もなくいえば「キライ」なのだ。

劇団をやっていた頃は、巡業てなことを何年もやったが、観光をしたことはナイ。劇団員たちにとっては、巡業は楽しい。飲めるものは、各地の酒、肴。北海道、九州、いやあ、廻りましたが、私は常に翌日の舞台のことを考えていなくてはならない。だから、劇場から遠く離れたことはナイ。これが旅行嫌いに輪をかけた。

で、もとえっ。

「やってみたくもナイこと」をやることにした。

で、下北半島恐山へ行ってみた。

/亡き母の真っ赤な櫛を埋めにいく恐山には風吹くばかり/(寺山修司)

寺山さんのお母さんは、寺山さんが亡くなるときもたしか生きてらしたはずだから、前半は創作なのだが、風はたしかに硫黄の臭いのきつい風が強く吹いていた。

/仏教のインチキみたさにやってきた恐山には風吹くばかり/

と、私なら詠む。

だいたい、釈尊は「霊魂不説」と述べている。のに、仏教に霊場などというものが存在することが、現代テキ屋仏教の(といって、大昔から仏教はテキ屋仏教だったんだけど)現前たる(目の当たりに出来る)証のようなもんだ。

本尊は地蔵菩薩なのだが、ナニ菩薩にせよ、菩薩というのは修行をしてやがて如来になるモノだ。釈迦如来の場合は、シッダールタの伝記物語があるので、ああそうねえ、修行というのはこうなのね、と時間的にもワカルのだが、こっちの事実を信ずると、時間認識が狂うのも事実で、ふつう、菩薩が修行して成仏するには、十億年やそこらではすまない、気の遠くなる時間がかかるらしいから、と、すると、その菩薩は修行を開始する前は人間であったハズがなくなってくる。そんな大昔には人間は存在しないからだ。

こういうことは、臨済宗一休や、曹洞宗道元はよくワカッテいたようで、それなりの持論でそこんところは克服してらっしゃる。

まんず、仏教のインチキ暴きに旅したワケではナイので、もう理屈はこねないが、しかし、旅行中、私はずっと「オレは何のためにに旅をしているのか、それは、旅というのが何なのかをかんがえるためだ」という、社会不適応者特有の理屈思考は持っていた。

今回ワカッタこと。

 旅はタイヘン疲れる。

 やってみると案外出来る。

以上。

 

2009年1月28日 (水)

やりくり三年

タイトルに意味はナイ。昨年の雑多な上演料が報告されてきた。23万円ということで例年の半分である。ちとショックだが、これは三朝温泉に三泊四日(二人)で13万円。10万円がアメリカンショートヘアーということになると帳尻はあっている。うまくしたもんでげす。三朝温泉は7月。そこで、ラドン放射線を吸い込んで(ミストサウナのある宿にした)内臓を癒す。帰ってから、ネットでペットショップのところをお気に入りに入れたので、猫を捜してココロを癒す。どの道賃仕事もなさそうだから、固定年収は120万円。内閣府によればこれワーキングプアであることは以前も述べた。しかし、作家てのは、わりと名のあるひとでも売れてないと年収200万そこそこだっちゃ。初刷り五千部だからなあ。筒井康隆さんが断筆していたとき、タレント稼業で稼いでらしたが、とある芝居コンクールの審査員をお願いしたら、ギャラは100万もしたもんなあ。まあ奥さまの弁では私は定年退職、開店休業なんだけど。必殺仕事人ですから、戯曲の仕事なら吉野屋作家だし、早い安いうまいよ。90分30~60万だ。いまならお買い得だよ。なんかブログで宣伝してるのって情けないもんだね。