Sophism sonnet・69,11-08
戦争、その前に・3
沖縄本土復帰50年。
復帰前の沖縄が観たいという理由だけで、もちろん生徒指導部の教師、部長の否認にあったが、終業式は乗船の関係でボイコットして、沖縄に渡ったのは高校二年生の冬だった。
当時はパスポート(渡航証)が必要だっしたし、沖縄のレートはドルで、自動車は右を走っていた。あまりの素っ頓狂な行動に両親はコトバもなく、いや、父親がいったナ。「おまえ、コトバは大丈夫なのか」。果たして沖縄の言語が米語だとおもっていたのか、まったく途上国の異国語だとおもってそういったのかは、ワカラン。船底部分にある二等船客はふだんの三倍の人数で雑魚寝。めしは丼一杯のさまざま(抜け目のない者は二回並んで二度食べる)。
三泊は船底。外に出ても「これより先一等船客室につき立ち入り禁止」の札とロープ。野宿覚悟だったので、寝袋を持参していたから狭いデッキで横になりながら星を観ていたが、もどると寝場所がとられているのでこれは中止。船客の人々はみなヤマト(日本本土)からの正月の里帰り。ただし、暮れと正月の休みは一週間、六日は移動にとられるので沖縄の実家に居られるのは一日だけ。それでも、下船の数時間前になると女性たちは化粧を始める。そうよ、老若男女雑魚寝ヨ。私は船中で知り合った若者が「オレの弟も同じ十七だから、下船しての一晩くらいは泊まっていきなさい」に甘えて、下船一日目はちょっと副鼻腔炎気味の弟くんに案内されて彼の高校へ。女生徒は体育の時間ということで、薙刀の訓練。「ええっ、本土ではヤってないんですか薙刀っ。沖縄の女子高生はどこの高校でもヤってますよ」と向こうの驚きにこっちのほうが驚く。戦争終わっていても、ベトナム戦争のさなかだから、やはり守りはタイセツなんだな。「ひもずくなるど、いつもここで食っでいぐんだ」と、ガッコの傍の沖縄そば屋で弟くんと、蕎麦と中華麺のあいのこのようなのを食う。安いのだが、かなり不味い(以後十数旅の沖縄で毎度いろいろなところで食ったが。最も味が良かったのは、那覇空港レストランのソレ。ガイドブックに出ている名物そば屋のそばも全滅)。泊まりの夜の晩飯は豚と野菜を煮込んだ、なんだかワカランけど家庭料理。副食はべつに贅沢いうような身分ではナイが、この米は、この米飯は、なるほど、外米ではナイとおもったが、硬水なんだ。まだ水はタダだったからなあ。旦那は仕事で留守。「沖縄は豚よ。牛を食べているのは米兵だけ」と弟のおっ母さん。「船から子牛を降ろしていましたけど」「あれはね、石垣、宮古とかで育てられて、成牛になる前に本土のいろんなところへもどされて、いろんな名前になるの。神戸とか松坂とか、近江とかネ」このおっ母さん、スピノザくんの〈幻想〉か、ユング心理学の顕現か、沖縄に嫁にくる前の故郷が、私の実家から歩いて行けるとこ。「瀬田の唐橋、知ってるよ。建部神社知ってるよもちろん。あの裏あたりの、へーえ、いまは団地になっているの」(その団地、現在はアリマセン)
それから十年を経て、私、以降十数回、毎年沖縄に行きました。沖縄が返還されてどう変わっていくのか。好奇心は何事も凌駕する。
ひとことで云うと、エメラルドの珊瑚礁は無くなりました。石垣に行ったときは、海の水は赤くなっていました。「開発でねえ、この辺は粘土質だからねえ。それ、みんな海に棄てるからねえ」と、タクシーの運転手の言。「まあね、便利なのは、病院が何処でも24時間態勢なだけ。仕方無いのよ基地があるのは。負けたんだもの。まあね、勝っていても日本軍の基地があるだけだろうけどね」そう、復帰50年はそれがすべてです。