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カテゴリー「文化・芸術」の記事

2024年2月17日 (土)

nostalgic narrative 9

/みずほリサーチ&テクノロジーズの調査では「インターネット上で自身が受け取る情報のうち、何が正しいのか、何が間違っているのかを判断するのは難しい」と考える人が日本で70%に達した。「あふれる情報にどう接すればよいかわからない姿の表れではないか」と中志津馬上席主任コンサルタントは分析する。
国際大学の山口真一准教授は「誰もがだまされるという前提で情報に接する必要がある」と指摘する。ネット上などで話題になっている情報もうのみにせず、信頼性の高いソースに当たって判断することの重要性が増している。/
オープンAIでのフェイク映像、文章mission(入力)すれば1分間の映像がつくれる、の映像が公開された、日経電子版で「雨の後の新宿の街を歩く女性」だ。一度や二度ではフェイク映像だということはまったくワカラナイ。こと、観察にかけては慎重なほうなのだが、(ロールシャッハ試験で1枚だけ左右がほんの少し異なっていることを発見したことがある)、三度目の一分間で、フェイクだということがヤっと見抜けた。見抜いてしまえば簡単な理屈なのだが、とかくこういうものは、その精緻たるところに最初は驚愕して見入ってしまうため、単純なマチガイを見落とす。そいつを発見したのだけど、しかし、こりゃあ、『禁断の惑星』並に怖いものと今後私たちは付き合わねばならないことになる、ということを物語っている。これで、「女性」を固有にすれば、映画やドラマは時間的にまだ無理でも、現状、CM程度ならすぐにつくれる。生成AIは脚本も書くらしいから、のっけから、脚本、演出、映像、出演すべてAIという作品が出来るのも、こっちも時間の問題だろう。
こちとら舞台(演劇)で良かった。と、対岸の火事のように安心している場合ではナイ。

2024年2月 3日 (土)

nostalgic narrative 8

意味なく太い巻き寿司をそのまま食べる節分の行事「恵方巻き」は私の地方で私の幼少のころはなかった。おそらく全国何処にもなかった。いや、あったのだが、なかった。これは旦那衆のお座敷の芸者遊びだったからだ。それに目をつけたコンビニチェーンがまるで古事の因習でもあるかのように尤もらしいキャッチフレーズを並べ立て、売り出したらアタッタ。それだけのことだ。あの太い海苔巻きがナニを意味しているのか、デフォルメしているか、なんのメタファーかは、推して知るより芸者衆が頬張るところをイメージすれば、その通りなのだ。
松本人志事変もおそらく同様のことだ。だから、芸人松本自身はかの行為をまさか性加害だなどと捉えてはいない。集めた芸者ならぬ素人もしくは新人女性芸人に花代が幾ら支払われたか、それは「裏金」というもので、派閥とやらの政治家連中も、陳情陳述者相手に似たような接待はしてきたろう。多寡はチガウだろうけど。そんなものを会計士が帳簿につけられるワケがナイ。ところが、12年経って、頃合いを見計らったかのようにタチの悪いのが、「あのな、銭になるハナシがあるねん」と、おなご衆に耳打ちする。節分だって年に一回、芸人松本の旦那遊びは年に一回ではおさまらない。本人はただの遊び。口説き、崩し。それがご時世では「性加害」となる。エピステーメはフラットに積まれてきたのではなく面積も不明のままずれて重ねられてきただけ、というワケだ。政治も銭なら、遊びも銭。素人の倫理や論理は入る余地はナイ。
いま、紙で契約を交わしている芸能は文学だけらしい。私は私の物書き生活のことしかいえないが、此度の戯曲、小説の出版は初刷り何部、印税~%、判子、印鑑。たいていの出版社と交わした。交わさず勝手、無断で出版して、もちろん印税も稿料も支払いナシという無礼というより犯罪ヤってる出版社もあって、私なんざひとがいいもんだから、そこの出版社をわざわざ訪ねて、これも紙にせずに厳重注意だけはした。なのに、まだ、そこはアマゾンで販売を続けている。小学館から映画化に合わせて再文庫化され、そのさいに編集者が犯罪出版のホンを読んだところ、半ばまでに八十数ヶ所の誤字脱字をみつけて驚いたというハナシは聞いた。そういう編集者がいるかとおもえば、テレビ・ドラマ化しますということで、「へい、へい」と許諾するヤカラもいるのだ。テレビ・ドラマ屋(日テレのたぶん下請け)にしてみれば、「これはうまいことヤったら企画書通るぞ。制作費もかなり安く出来るぞ」だけの判断で、原作者の許諾など、ハナっからかんがえに入れてはいない。ここもまた、エピステーメは平板に斜に重ねられただけで、お花畑育ちの原作者は、それでも自身の表現者の良心に突き上げられて「文句」はいう。せめて9話と10話は私に書かせてくださいませんか。いった、書いた、とそれをSNSに挙げたら、炎上とやらになった。そんなつもりじゃなかったのに。テレビ・ドラマ屋にしてみれば、そんな脚本などどうでもイイ。コミック原作のテレビ・ドラマや映画など、いくらでも脚色、潤色、演出でメタクタ出来るからナ。哀れお花畑原作者、瞬時にココロを病んだ。だけ、ならまだよかったが、命を絶った。
私の場合、そんなことで命を絶つなどということはナイ。こんなものは恵方巻きだとハナから勘定しているからだ。だったら美味く食える恵方巻きを創るまで。プロデューサーの意向、というのもあるが、それは銭を出すものの判断だ。本場アカデミー賞の「作品賞」というのはプロデューサー賞のことだ。ホンの書き直しのかなりの多くはエピステーメの重なり方のハメチガイによる。ヒロインがゴネる。ヤメル、交替、当然脚本は書き直し。他の役者(俳優)でも一緒。「はいワカリマシタ」以外、私はプロデューサーのmissionに逆らったことはナイ。役の入れ換えがある。脚本の書き直し。役者(俳優)の上下関係、経験序列によってのせりふの多寡を整える、初中(しょっちゅう)、常識的なこととして行われる。120分見当で書いたものが、20分cutになる。ただし、こういったことは当方も承知の上、戯曲が台本になっていく過程として捉えているに過ぎない。ともかくもプロデューサー、嘘つかない。脚本料は舞台初日に支払われる。こういうところにスジは通っている。
かつてテレビ・ドラマは表現媒体ではなく宣伝媒体だった。ドラマだけではナイ。歌謡番組もそうだ。大きなところではエネーチケーの紅白などは、歌手にとってはそのアトの営業料金の算盤となる。あんなもの名誉だとおもって出る歌手がいるのか(それが、いるらしい。阿呆だな)。
ジャニーズが潰れて、自民党がトウ壊して、次は吉本だなと笑っていたら、とんだところで悲報が横入りした。結婚して梅毒うつされて、自殺した女性詩人のことが、ふと脳裏をかすめた。「お魚さんがかわいそう」などといっている世界じゃナイのだ、芸能界は。事もあろうに米国の選挙で、アメリカ民主主義というものが〈共同幻想〉だったということが、老人二人によって暴露されんとしている。ジェンダーがどうこうだといっている間隙を縫うかのように、ひとりの戦士(レンジャー)が時世の読み違いでアッケに亡くなった。「恵方巻きなんか私は食べられないんですっ」じゃナイんだ。いまの外務大臣の100分の1、お花畑から蝶ではなく芋虫の葉を食うごとく「美しさ、ほほほほ、私、ヤクザもんは相手にはしないことにしておりますので、ほほほ」と、出さぬ声を聞かせる力があったなら。そのヤクザものは今頃「いいか、あいつだけは絶対に総理にさせるナ」と残した派閥で口角泡を飛ばしているにチガイナイ。桃太郎は、「きび団子なんてどんどんつくればイイんですよ」と松葉杖ふりまわしているのだろう。「善人なお、以て悪人といわんや」だな。

2024年2月 1日 (木)

nostalgic narrative 7

まず、毎日電子版のニュースそのまま。
/雑誌に連載中の漫画「セクシー田中さん」(小学館)の作者で漫画家の芦原妃名子(本名・松本律子)さん(50)が栃木県内で死亡して見つかっていたことが、捜査関係者への取材で判明した。捜査関係者によると、芦原さんの知人らが28日、「連絡が取れなくなった」と警視庁に行方不明者届を提出していた。その後の捜索で、29日に栃木県内で遺体で見つかったという。現場の状況から、自殺を図ったとみられる。
「セクシー田中さん」は2023年、日本テレビがドラマ化した。同作の映像化を巡っては、芦原さんと制作サイドの間で意見が対立し、脚本の一部を芦原さんが直接執筆する事態になっていたという。芦原さんはSNS(ネット交流サービス)上で、「私が9話、10話の脚本を書かざるを得ないと判断した」などとする書き込みをしていた。さらに連絡が取れなくなった28日午後、自身のX(ツイッター)に「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」と投稿していた。訃報を受け、日本テレビは哀悼と感謝の意を示し、「原作代理人である小学館を通じて、芦原さんの意見をいただきながら、脚本の制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本で放送しております」とコメントした。/

「私が9話、10話の脚本を書かざるを得ないと判断した」などの原作者のSNSへの書き込みは、一部か全部か、おそらくほぼそのまま直前(生前)の毎日電子版に掲載されている。この事変については、ここからしか私は知らない。この事変の詳細、いわゆるSNS関連の「叩き」「援護」については何にも知らナイ。そんなことはいまさら騒ぐことでもナイと判断している。そのアト、いつものように関係者、同業者、読者、視聴者et ceteraのコメントが出て、拾えるものは読んだが、ワカランことが幾つかある。まず、日テレと原作者とのあいだの契約(書)についての情報はナニも出ていナイ。原作者が「不満まんまん」で自ら脚本執筆を書かざるを得ない」日テレを見切って、覚悟を示しているくらいだから、「制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本」などはウソだ。だいたい、そういうことをするテレビ・ドラマ制作会社なんぞ、耳にしたことはナイ。原作者は小学館漫画賞を二度受賞してらっしゃるから、相当の描き手だったのだろう(私は、読んでいないので、そこからの判断は出来ないのだが)。原作料が支払われていたのか、支払われていたのならナンボなのかもワカラナイ。これを推し量るに、拙作の『怪人 二十面相伝』が映画化されたとき、原作料は「ほんとかよ~円」で、運良く私の作品あたりから、原作料は日本文芸家協会(現在、私は脱会)の映画会社への懇願(だろうな)で、値上げになって、それまでは10万円だったと資料にある。誤植でなく10万円なのだ。漫画原作の場合はアニメと実写があるから、そのあたりのことは知らないが、まさかハリウッドのように「〇億円」なんてことはナイだろう。
いちばんワカラナイのは、原作者の現状社会(いまの世間)への認識(受け止め方)だ。興行と芸能との了解が、いまどうなっているのか。表現者と興行主はどういう関係でアルのか、まったく識らずにお花畑にいたワケではナイとおもうのだが、これは小学館にも捉え方の責任がある。情況はおそらく旧時代と現代が入り交じった混乱と錯綜の様相だとかんがえてマチガイナイ。これは、松本人志の事変にもいえることだ。週刊文春の位置を述べれば、知っているのに知らんふりのバナーを正義の味方の如くはためかせて銭儲けしているだけのことだ。
書いていて胸が重苦しくなるけれど、次回もこのつづきを書く。主筆も物書きだからナ。

2023年4月22日 (土)

時世録・6

毎日電子版にオモシロイ記事があったので、無断で張り付けておきます。

/「NHK離れ」「テレビ離れ」が進んでいる
NHK受信料が社会的問題になっている。なぜなら国民の多くはNHKのテレビ放送番組を見なくなっていて、できれば払いたくないと思っているからだ。
NHK放送研究所の「テレビ・ラジオ視聴の現況 2019年11月全国個人視聴率調査から」によれば、NHK総合チャンネルを1週間に5分以上見ている日本人は54.7%だった。1日ではなく、1週間である。/
もちろん、つづきは長いのですが、たしか、早稲田大学の法学部の教授の論説だったとおもいます。毎日新聞は例の『サンデーモーニング』事変があったので、それへの対応かも知れません。私は個人的に眼鏡フェチなので、レギュラーの唐橋女子アナのファンでした。
でした、と過去形なのは、テレビを観なくなってから10年くらいになりますから。ときどき通院の待合室で観る程度です。だいたい、私はテレビを持っておりません。ラジオはよく聴きます。土曜日の朝のバラカンさんからゴン・チチさんたちの番組、そうして夕方の「ラジオマン・ジャック」このあたりは、私のゴールデンタイムですね。

この記事、またどこかで出るとおもうので、そのときは、誰の論説だったかも記録して、ここにも載せます。ほんと懇切丁寧に「受信料」というものに対して大衆が納得出来うる論理展開で、胸のすくおもいでしたから。私も「観てもいないものに対して銭なんか払う必要はナイ」とおもっています。食ってもいないのに、「お前こないだラーメン屋の前、通ったやろ。ラーメン代払わんかい」同じですよね。エネーチケーが日本国内の中国共産党だということはワカッテおりますが、私、中国共産党はやっぱり好きじゃナイですが、中華人民共和国は嫌いではありません。

2022年12月24日 (土)

アト千と一夜の晩飯 第三七夜 唯一の贈り物

私には信心が無いので云えることなのだが、キリスト教は教派を問わず(そうでナイ教派もあるのだろうが)人類に唯一の贈り物(present)をした。それがChristmasのイベントだろう。世界各国の信者もそうでナイものも最近ではさまざまに灯った電飾の下でこれを愉しむ。今年はインフラを浸食されてそうでナイ国もあったろうが、それでも蝋燭一本の明かりのつくる希望は他ならぬものにチガイナイ。
クリスマスの語源は、「キリスト(Christ)」と「礼拝(mass)」。これを「Xmas」と表記する場合のXは十字架とは何の関係もナイ。「christ」をギリシア語で表記する場合は「XPIΣTOΣ」と書く。頭文字のXに「mass」を付けたギリシア語+英語の表記が「Xmas」。「Merry」は「陽気な、お祭り気分の」という形容詞。これくらいは教養として覚えておいて損はナイ。
とはいうものの、日本はひでえwhite Christmasになった。大雪である。やがて地球が雪だるまになる日も近い。私たちの子孫は次の氷期をどう乗り越えていくのだろう。ただただそれが核の冬でナイことを祈るのみだ。アーメン。ついでにこの「アーメン」の意味を調べたのは高校生の頃だったか。「然り」「そのとおり」「御心ままに」である。このアトに「ソーメン、冷やソーメン」と付けたのは日本人らしいが誰かは不明。

2022年12月18日 (日)

アト千と一夜の晩飯 第三六夜 孤独死とはなんだ 7

大澤真幸老師の『三島由紀夫 二つの謎』を読書中。文章は武骨だが充分にオモシロイ。武骨な殺陣、たとえば栗塚旭さんのような剣演も好きだからネ。私は竹田青嗣老師の著書数冊からフッサールの現象学を学んだが、竹田老師の文章はもちっとsmartだったか。竹田老師がさる保守本流の有名評論家(有名なのに自殺なさったからなのか、いや単なる記憶欠陥で名前がおもいだせない)との対談で「私はチェスタートンはまったく知りませんでした」と述べられたときには吃驚仰天したけど。知らんものは誰にでもあるのんやと安心もした。
ところで、三島由紀夫さんの太宰治嫌いはよく知られているが、ここに短文をを幾つか引用する。
/天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わたしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳!を叫びたい/
/生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない/
/その不具者のような弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは、強大な世俗的な徳目に対してすぐ受難の表情をうかべてみせたこの男の狡猾さである。この男には、世俗的なものは、芸術家を傷つけるどころか、芸術家などに一顧も与えないものだということがどうしてもわからなかった。自分で自分の肌に傷をつけて、訴えて出る人間のようなところがあった/
/もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。従って、多くの文学青年が氏の文学の中に、自分の肖像画を発見して喜ぶ同じ時点で、私はあわてて顔をそむけたのかもしれないのである。しかし今にいたるまで、私には、都会育ちの人間の依怙地な偏見があって、「笈を負って上京した少年の田舎くさい野心」を思わせるものに少しでも出会うと、鼻をつままずにはいられないのである
この中で、太宰老師の文章は最初の「パンドラの匣」だけ。他は三島老師の『小説家の休暇』『太陽と鉄』からだ。これだけで妙な顔をしていてはいけない。この文章すべてが太宰治老師のものであっても三島由紀夫老師のものであっても構わない。というより、三島老師の短文は一人称の自戒のようにも読める。A=非(ナル)Aというところが大澤老師の謎解きのミソなのだと勝手におもっているが。つまり、三島老師にとって、太宰治作品とその生き方は充分に『太宰治劇場』として『三島由紀夫劇場』を脅かすものだったのだろう。それがよくワカルところが大澤老師の理路のオモシロサともいえる。後半が楽しみです。

2022年8月23日 (火)

Sophism sonnet return 06

さ、と、さ、の差

酒井順子さんの『うまれることば、しぬことば』をなんとか読了した。
なんとかというのは、この物書き(同業だから呼び捨て御免)、婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞を2004年に(というから、1966年生まれなんだから、38歳のときだな)受賞していて、かつ「コトバ」についてのエッセー(東京-中日新聞 ではこう書く)を書いている、に、しては、文章がだらだらしているので、simple is best派の私にしてみると、「よう、姐さん、もちっとハナシ早くなんねえの」になるのだが、あんまり関係ねえかも知れねえけど、「婦人」という「女が箒だからダメ」とかいわれている阿呆な攻撃にいまなお踏ん張っている婦人公論に、〇〇もの傾向が強い講談社の賞だから、「まあ、いいか」になるのだが、こういうことを書くと、最近のハラスメントの中では「ハラハラ」になるのではないだろうかどうかは問題にしない。(「ハラハラ」というのはもちろん、私の造語である。ハラハラするでしょ)
さて、subtitleの「さ、と、さ、の差」は民謡の合いの手ではもちろんナイ。なんか酒井さん、どこかで似たようものを読んだ記憶が、おっと、斎藤美奈子女史だ。最近ご無沙汰だけど、五年前くらいまでは次から次へとさかんに読んだ。で、お二人の「差」は何かというと、まず、酒井さんの場合、読んだアト、いわゆる「溜飲が下がる」という心情からはほど遠い。これはもう、経験や学習の「差」だな。つまり「芸がナイ」。(けして年齢の差、世代の差なんていわない。だって、そんなもの私、信じてナイので)。
次は、経験や学習の「差」だな。(おんなじじゃナイかって)あのな、「経験や学習」というのは、百鬼夜行なのだ。ここでは「毒がナイ」になる。「毒をもって毒を制す」。この「もって」を最近「盛って」だとおもっているヒトがいるんだな。それはそれでオモシロイけど。
ともかく帯の「ポリコレ時代の日本語論」というのには引っ繰り返ったナ。ワカルか「ポリコレ時代」。こういうことの正反対に本文中においては「横溢」とか「凌駕」とか「ジリ貧」に「命運」「嚆矢」「禍々しさ」「寿ぐ」「軛」「跋扈」250ペ.―ジ中50ページまでに、こういうの(って、まあ、そういうのや。聞いても読んでもワカランに分類されるようなものや)が出てくる出てくる。そこからもさらに出てくる。これって読者に対する、賊心、犯意、遺恨、害意、物恨、悪念、意地悪、害心、物恨み、毒気、邪気、悪意、憎さげ、なのか。著者は東京生まれとあるが、案外、京女だったりして。
このホン『うまれることば、しぬことば』の「ことば」の特徴は、それがほぼ日常会話(話し言葉・話体)であるということだ。つまり書かれていても、少なくとも「耳ことば」だからアナログになる。書き言葉は「目ことば」だからデジタルだ。この耳ことばというのは、加齢難聴の私のようなものには甚だ聞き違いが多くて困るのだが、目ことばも昨今、わからへんカタカナが多いのなんの(たとえば「ポリコレ」や。何度読んでもワカラン)そいつについて行くのもタイヘンだが、卑近なことを例にあげると、私の場合、私の話しコトバに「困る」ひと(たとえば役者さんに/駄目だし・本来は囲碁用語/するとき)も居て、「なんかね、焦燥を催すんだ」と隔靴掻痒(読めぬワカラヌなら辞書をひけ)な演技の感想を私が述べても、「そんなぁ、漢字で云われても」と役者さんに首を捻られる。(/しょーそーをもよおす/、/カッカソーヨー/、このコトバはまだ、しんでいないはずなんだけど。アナログにでも、デジタルにでも、「嫁葉は刈る」でしょ。「嫁葉は刈る」というのは、日本お伽話に出てくる、んなワケねえだろ)。「ミザンセーヌ」をここんとこ「ミザンスが良くない」なんて使われたりすることが演劇現場でもかなり浸透してきた。(元ネタはスタニスラフスキーなんだけど、スタさん、「後から書く」と云いつつけっきょくthroughしたまま)。最初は私も元ネタから当惑した。とはいえ最近の「ミザンス」の流布で、ああそうですかと了解した。しかしそれならちゃんと「位相と近傍」と云えばイイのだ。

:ともかく、斎藤美奈子女史や、呉智英センセなんかは芸も毒もあったなあ。演劇なんてのは猛毒だからなあ。そういうのには興味がナイ御仁には、酒井さんで充分でしょう。オレの芝居なんか観てもきっとツマンナイよ。 

2022年5月29日 (日)

Sophism sonnet・69,11-16

バリバラ

劇団に在籍していた神戸浩からの依頼(紹介かな)で、NHKの『バリバラ(本タイトルは『バリバラ みんなのためのバリアフリー・バラエティー』)のトーク部分に出演してみたが、テレビが無いのでリアルタイムでは観ていないのだが、番組のDVDが送られてきて、それを観て、そうかなるほど『共同幻想論』『マス・イメージ論』とはかくなるものであったかと、今更ながら「あのホンの主旨がよくワカッタ」ので、ちょっと長年の肩の荷が降りた気分だ。「国家というものは〈共同幻想〉ではナイ」という命題も半可通だったのが理解が出来て、それだけで充分に価値ある番組だった。(私にとって、『マス・イメージ論』などは、『ハイ・イメージ論』よりも難度が高かったからな)。
いい換えれば、(二回しか観ていないのだけれど)『バリバラ』という番組はfunctionされた(テレビのバラエティ番組なので、演出、編集されたということになるのだが)マス・イメージなのだ。nonfictionでもナイ、fictionでもナイ。といってrealityがあるのは登場する「身体障害者」と呼ばれる彼らの身体以外には何もナイ。アトは、ふつうの(健常者というのだが)方々がおやりになっていること、さらにはおやりになれない〈許容度合い〉のアップされたバラエティ番組なのだ。サンプリングとリミックス、そいつを重度障害の方ではナイ、社会的ハンディの高い方々を活用して製作している、けして受け太刀ではナイ打ち太刀の番組なのだ。
ちょいとネット・レビューをみてみると、「見せ物」というコトバも(否定的な意味合いで)みられるが、たしかに「見せ物」だとおもう。製作者側が「見せ物=バラエティ」だといっているのだから確信犯なのはマチガイない。
私が出演した「神戸浩、涙のお父っつぁん編」(と、これは私が勝手にそう称している)では、番組中に神戸自身のコトバとしてあったように「ボクは世間を見返してヤリタイ。このカラダでっ」がほんとのテーマで、感動というよりリベンジだったな。リベンジというのが語弊になるなら「反抗」「抵抗」でもイイ。~かのリベンジ、反抗に雨が降らせたいと望むなら、神よ雨を降らせよ~(と、スッタニパータふう)でござんす。

2021年9月23日 (木)

治か知か、チカチカ

いわゆるAI(人工知能)と称される計算機があって(そうですよ、あれは確率計算機ですよ)、そいつでプログラムした囲碁ソフトがあって、将棋のほうはアルゴリズムがそう面倒ではナイので、早くからそういうのが出来ていて、こいつはもうすでにヒトの将棋名人なんかを打ち負かして、ちなみにチェスはもっと早く出来ていて、これもすでに世界チャンピオンを打ち負かして久しく、しかしながら囲碁はアルゴリズム(algorithm、これよく使われますネ最近。簡単に言うと~計算出来るものに対する~「手順」とか「計算方法」のことです)が複雑なので、ヒトに勝てる囲碁マシンが出来るのは100年かかるだろうといわれていたんですが、もう出来ちゃっていることはご存知ですね。囲碁の藤井聡太三冠(19歳・最年少記録)は、これで独習したりするそうです。とはいえ、そっくり踏襲、模倣するワケではアリマセン。いちいち批評して取捨選択していくワケです(たぶん)。最近の新聞(テレビ)囲碁なんかでは、解説でも「これはAI流の打ち方ですね」とか「AIならここには置かないでしょう」てのがいわれたりしています。
で、100年といわれていたのがなんで、こんなに早く出来たかというと、それはもちろんAIがかんがえたのではなくヒトがかんがえたのです。それまでは、たとえば一万手順を1秒で読むなんて方法だったんですけど、それでもヒトには勝てなかった。ヒトはヒトらしい(つまりちょっとマシンには計算出来ないような)打ち方するもんだから。一万手以外の意外なところに石を置く。以外や意外ですな。そんな手はアルゴリズムには無いと計算機は計算出来なくて負けた。ところが、さすがヒト。「待てよ、何万手も先を読むというアルゴリズムは棄てよう。確率でいこう」当時、数学は「確率論」が流行ってましたから。(いまもですけど)。で、確率を計算させることにした。三カ所くらい置く場所の候補をつくる。で、それぞれ、何%の勝ち率があるかを計算する。と、そんなふうにした。これで、一挙にAI有利になって、ついに囲碁の名人まで負かしちゃった。スゴイね確率計算機は。(あのね、人工知能じゃナイんですよ。それは通俗的な呼称ね)。
ところで、この確率計算機との三番勝負に唯一、二勝一敗で勝ち越した囲碁棋士がいるんです。他の囲碁棋士が負けちゃっているというのに。それはあの、いまでは愉快なオジサンになっている趙治勲名誉名人、二十五世本因坊。治勲老師の解かれて(説かれて)いることは、私ふうに例えていうと、全自動洗濯機×盥(たらい)でヒト、が靴下(でもパンツでもいいんだけど)の洗濯競争する。8時間で何足、綺麗に洗えるか。確率計算機囲碁マシンとヒトとの囲碁対決はそれと同じことだ。です。てっとり早くいうと、「マシンとの闘いはあくまで囲碁ゲームであって囲碁の勝負ではナイ」ですな。ヒトに勝てるように造られた機械にヒトが勝てるワケがナイ。そういうのは勝負とはいわない。
私が書いた三十年前の戯曲『悪魔のいるクリスマス』では、コンピュータ社会とは、コンピュータには出来ないことをヒトが営む社会だ、と、生意気に述べております。「デジタル庁」というのは「こども庁」と連携、連動したほうがいいんじゃないの、なんか拡がりがチガッテさ。どやっ。

2021年9月10日 (金)

それ、誰ですか

いつもは暇な(というか仕事の無い)私は、DVDでいいmysteryをみつけるとすぐ、はせひろいち氏に情報を提供して、んで、はせも観て、これまでまずアタリでハズレなし。なんつうかミステリファンというか、mystery mania(テリヲタ)がCOVID-19騒動よそ目に楽しんでいるのだが、最近のものでは、『スーパープレミアム獄門島』で盛り上がってましたワ。(NHKオンデマンドで観られます。かなり以前のものです)。金田一が『麒麟が来る』の明智光秀(主役)演じた長谷川博己さんで、彼の演技がこれまでの金田一をみごとに妖変(つまり、ぶっ壊したというか、realityを増幅させたというか、ともかく、驚いたナ)。喜安浩平さん(知らないなあ)の脚本がまたイイ翻案してて、ともかく横溝さんの金田一シリーズで唯一読めるのは『獄門島』(強いてアト一本なら好きじゃナイけど『本陣殺人事件』かな)なんだけど、そうしてこの作品は何度も映画化テレビ化されているんだけど、おそらく世界のミステリ小説に肩並べられる横溝作品はこれくらいじゃねえのと、私なんかおもっていたのだけど、ともかくトリック・プロットに無理がナイ(それなりにスジは通している)。それいい出すと横溝ミステリはキリがナイので、本論。
の、前に、最近の新本格(だろうとおもうんだけど)『屍人荘の殺人』の映画版で、はせ氏はこれをまず活字、コミックスより先にDVDで観たらしいんだけど、その理由が出演していた女優の浜辺美波ファンなんだそうで、「それ、誰よ」私、この女優ぜんぜん知りません(『屍人荘の殺人』は試写で観ているんだけどなあ。ストライクゾーンの女優いなかったからな)。ええと、私は別の理由で最近の活字ミステリは滅多に読まない。視力の衰えもそうだけれど、そも作品にハズレが多いのと、ともかく文章の表現力、描写のチカラがまったくヘナっているので読みにくいんです。
最近はいろいろと多くのミステリ賞があるようで、二冠達成とかが〈売り〉のも読んだけど、たしかに出版不況だわ、とはおもったナ。幸か不幸か、『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』という金ピカが読める世界に生きたのは感謝としかいいようがナイ。売れっ子東野さんの初期の本格ものも、本格ミステリを読み慣れているひとには退屈だろうし、大御所京極さんもいいのは京極堂のシリーズでは(ほんとは違うシリーズ名らしいけど)『鉄鼠の檻』だけだったなあ。『鉄鼠・・』はうん、スゲエなぁとおもった。禅宗仏教に対しての理解とそれゆえの動機がだけど。『姑獲鳥の夏』は最初ズウッとpedantryの開陳がつづくのだが、誤謬もある。(おそらく参考資料が古かったのだとおもう。量子力学なんかを論じさせるときは、よほど用心しないとそうなる。もっとも、京極堂の時代では、そういう認識だったと逃げることも出来るのだが)。『陰摩羅鬼の瑕』はsequenceがハナからワカリすぎて、ハイデガーまで持ち出すこたぁねえだろうとおもった。ハイデガーといえば、笠井潔さんの『哲学者の密室』(創元推理文庫版で1182ページのド厚いシロモノ)。なのに、これ、いまぼんやりと記憶あるのは探偵の矢吹駆と、それを慕う誰だったかヲトメのメロドラマくらいかなあ。だいたい、フッサールの現象学をもとにした推理思考方法なんて、逆にそっちをエポケーしないと本編自体がワカランようになってくるからなあ。
おっと、また逸れた。本論にもどすと、最近の若い俳優さん、あまりにも知らんのです。せいぜい新垣大酒呑みガッキー、綾瀬コロナ、否、はるか。すいません、ちょっと躁病に傾きました。大酒呑みは、たぶん週刊誌がかなり盛ったハナシでしょう。綾瀬クラスになると、いざというときのために医療機器が揃ってかかりつけ医師と派遣看護師がついてるホテルくらいは用意してあります。今回もそこへ行けば良かったのにツイテいたというか、入院になったんでしょう。おっと本論。つまり、二十代の方々はほぼ壊滅的に知らない。春馬くんは手合わせする前に逝っちゃったし、春馬と同じところで武道に励んでいる鈴木 亮平くんとはまだ出会ってナイからな。彼らの師匠の楠右近(武道家)が堤のだんなに「想さんは、富田流の小太刀やるんですよ」というたら、堤のだんな「ガッハッハ」と笑い飛ばしたんだって。堤さん、空手かなんかヤってんじゃないかな。あの歩き方がそんなふうだもん。役者ヤメタら、お手合わせしましょう。とにかく役者さんには傷をつけられないから。二~三段、だとしたら、こっちが素手だと傷害罪になるから、刃引き持ちますネ。
それはどうでもイイんだ。なんでいまの若い俳優さん、知らないのかな。と、つらつら考えて、そうか、オレ、映画もテレビも観ないもんな。エンタメニュースに出てくる女優、男優まったく知らない。総裁選挙、誰が勝ったって、自民党は自民党なんだろ。軟弱右翼と裏口入学の学歴が踏ん反り返って記者会見で「おまえどこの新聞だ、個人的なことしか訊かないな、朝日か。昨日の東京の感染者の数、知ってんのか。九百、九百と何人とかだぞ。(秘書に)だったよな。コロナは収束だ」なんていってる政党の神輿選びだからな。と、文脈バラついて、ついでにフテたが、実はこちとら石場さんの隠れファン。石場さんはアイドルオタクなんだけど、かつてファンだったアイドルはキャンディーズでは藤村美樹さん、通称「ミキちゃん」推し。これ、オレと同じ。