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カテゴリー「心と体」の記事

2023年7月24日 (月)

時世録・26

ほぼ1年ぶりに、脳神経外科頸椎狭窄疾患におけるMRIを撮りましたが、結論だけ記せば「現状、打つ手ナシ」。それ以外の疾病と複合して(鬱病と両膝とも緩衝材が磨り減っていますから)歩行は不自由。加齢、老害(半世紀に及ぶ仕事の影響で腰痛をプラス)というのはそういうものなでしょう。で、アトは、どう生きるかではなく、そういう生き延び方をいつヤメルかだけですネ。
To be, or not to be: that is the question.と、これはいわずと知れた『ハムレット』ですが、answerなどはナシというに尽きます。
猫と同化しての私からの七十年の感想ならいえマスね。
〇ひとに頼ってはダメ。腹がタツというより、莫迦をみるだけ。笑ってオワリになればなかなか微笑ましい。といえば、そんな感じ。
〇ひとに頼られてもダメ。ここで多くは「最近、近親交友、世間、冷たくなったなあ」と、自分のあしらわれ方をマチガイます。おもいだしてごらんなさい。そんなに頼られてなんかいなかったですよ、いまもそうですよ。対人関係なんて「温かい」というより「あ闘い」だったじゃナイですか。それはそれでオモシロイもんでしたけど。
〇人生についてかんがえたのは失敗。こういうものなんだが正解。まあ、みなさんみんなこれで失敗しているんですけどね。勘違いして成功している方も多々いらっしゃるようですけど。
ナチの強制収容所を経験され、卑劣な環境の中で生き延びた精神科医の故ヴィクトール・フランクルのコトバを引用。
「そもそも我々が人生の意味を問うべきではありません。我々は人生に問われている立場であり我々が自分の人生の責任を引き受けることにのみ、その問いかけに答えることができるのです」
「責任」かどうかはともかく、引き受けてはきたとおもっていますが。その証左ですか、それって成した悪事の数々のことですかネ。

さて、昼飯。本日のポンチ絵おわり。

2022年2月 9日 (水)

Sophism sonnet・69,8-13

無題放免

「剰余価値について」というのがSophism sonnet・69,8-13のタイトルでこれをお読みになった方もあるとおもうが削除した。理由は鬱疾患の症状が書かせた文章(文案)だからだ。2/4あたりから強い鬱疾患の症状があったのだが、ともかく2/7にブースターワクチン(三回目接種)だったので、それまでなんとか誤魔化して(鬱疾患における対策、対応には誤魔化すというのも必要な手練手管なのだ)。
ともかく接種は終わって、熱が低体温(といっても35,6℃だから医療的には低体温とはいわないが)、血圧は多少高く、143-85だったが、私のような高齢者でこの年齢(六十九歳)の平均値は145-90だから、まあ、たいしたことはナイ。ただ、さすがに副反応というだけあって、ヒトの弱みに(弱点にかな)付け込んでくる。鬱疾患の症状がひどくなってきた。自殺念慮が強く、普通は朝だけのeventなのだが、これが日中、四六時中続く。その反動というか、打ち消しとでもいうか、ここでは書けない〇〇・・・nの連中をスコープ・ライフル(狙撃銃)でひとり一人狙い撃ちしたくなる。Aggressiveになって、いろいろなことに腹が立ってくる。しかし、そういうのは、鬱疾患の症状が治まれば「まったくマチガイ」ということで納得するので、ただ、いつものように(ではナイが、不機嫌と無口になるのだが、出来るだけ)振る舞っている。とはいえ気力の落ち込みで何にも出来ない。以前にも書いたが、「喉が乾いて水が欲しい、目の前にコップ一杯の水がある。手が届くのに取ろうとする意欲が消されている」という意味で出来ない。出来ることをと、何かブログを書くと、「なんじゃ、これはっ」になって赤面逆上。ただただ「泳ぎたい」という欲望だけはある。素潜りで50mばかり泳いでクロールでターン。きっと気分がイイだろうなとおもう。
こういうときはいつも、パソコンも付き合いが良く、動作が妙になる。朝からデスクトップのアイコンが変化したままだ。
晩飯は何をつくっていいのかワカラナイ。とりあえず浅蜊の味噌汁の準備だけはした。
アルコールでもぶち込むかとおもうが、経験上こういうときの酒は痛みを誘発する。
本日は精神科の担当医との電話診療の日で、ともかく現状を報告して終り。世間では精神科の診療についての誤解が多い。私はいまの医師とは長い付き合いなので、たいていこちらが報告をして、向こうがcommentをして10分で終わる。それ以上時間をかける精神科医はヤブである。何かクスリを出すなんて医師はキケンである。下手な役者の何が下手か一回の演技で見抜けない演出家や、別のtakeをと、さまざまなtakeを要求する監督もヘボだとおもったほうがイイのと同じ。客観でも主観でもナイ高画質な視観(high image)を求めないとダメだ。 

2021年10月25日 (月)

愛と性をみつめて

中学生のときでしたナ。県大会の女子体操予選会場にまさか自分の通学している中学校の体育館が使われるとは、そら、おもいもしまへんでしたワ。部活で新聞部の友達がおりましてナ、いやもう当時のレオタードみたいなもんまだ切れ目の浅いおとなしいもんでしたけど、そらもう股間を押さえながら(抑えながら)いまでいうアスリートの写真撮りに付き合いました。いやもう、勃つは起きるは、鼻血は出るワで、けっきょくその日は早引きさせてもらいました。花の命は短くてとはいうものの、あのアスリートさんたちもいまでは七十歳前後。箪笥の奥に仕舞い込んであるあの日のレオタードを時々出して、そっと触れて、思い出にひたる、てなことあるんやろか。
/東京オリンピックではドイツの女子体操選手が性的な視点で見られることへの抗議の意味も込め、レオタードではなく、足首まで隠れる「ユニタード」で競技会場に現れ大きな話題になった/(さまざまなメディア)
ルッキズム:外見的な美醜を重視して人を評価する考え方。容姿による差別をいう。(『デジタル大辞典』)
/7月のビーチハンドボール欧州選手権ではノルウェー女子代表がビキニパンツを拒否し、男性には認められている短パンでプレーに臨んだことで罰金を科せられた。/(ウイキ)
/アメリカ形成外科学会の統計によれば、過去10年のうちに、男性が美容整形外科手術を受けるケースが急激に増加しており、2017年だけでも1300万件以上の美容整形外科手術が行われたという/(ウイキ)
/2000年代初頭、韓国では就職活動を有利に進めるため、男性の9.3%、女性の22.3%が「リクルート整形」を行なっているという報道がなされた/(ウイキ)
/2003年には、日本でも就職活動を行う大学生や再就職を目指す中高年男性がプチ整形を行なっているという報道がなされたという/(ウイキ)
『風姿花伝』(世阿弥・能楽秘伝書)にいう花とは、あくまでも風に吹かれる花の姿です。風にそよぐ花の美しさです。花そのもの、それ自体ではありません。その書では老いたる花についても述べてあります。ここに記すと長くなりますので、それくらい買って読め。
コント・1
部下「部長、どないしますねん、A子さん、めちゃ美人でスタイル抜群でっせ。しかし、事前リサーチのデータによると、ちょっと仕事のほうが。B子さん、仕事バリバリのキャリア・ウーマンやそうですけど、あの面、いやお顔と図体、いやスタイルでは。
人事部長「阿呆やなおまえ、そんなもんどうにでもなるがな。「いや、A子さんには将来性があるんだ」とか「こういう局面では強いんだ」とか、人事を正当化するためには、なんとでもいうことができるんや。美人やから選んだということを客観的に裏付ける証拠はどこにも存在しないんやで。なぜかというたら、それは心の中の問題やからや。恣意的にいくねん。胸を張っていうたらええねん。「A子さんが美人。そんなこと思ってません」こんでしまいや。
部下「なあるほど。
コント・2
「こないだの東京五輪の女子床運動、良かったなあ。ユニタードいうんか。俺はああいうピッチリした垂れ尻のみえへんの好みやなあ」
コント・3
「今回のビーチバレー、久々にコーフンしたなあ、ビキニパンツみたいな見厭きたもんやのうて、ショーパンやったからなあ。もう、隙間からこぼれてのぞくんやないかと。はあっっ」

えー、とかく「愛」の問題は難しいのであります。
女性アスリートの「たくましさ」「力強さ」、男性アスリートの「やさしさ」「可愛さ」を観たいというてるひとのほうが変態やと、69歳の老いぼれはおもいます。

2021年7月20日 (火)

無学渡世・第二幕の6

結論を手にして行っている作業ではナイので、前述した部分もいくぶんかの書き直しを含んでいることを断っておく(面倒でも読み直してくなはい)。けれど、
/ココロの状態が精神病疾患で包括し得る脳内物質の変調ではない/
このあたりまでは打率三割で進んではいるようにおもえる。
この命題は「因果関係」についていっていることになる。いい方を換えると
/鬱疾患(ココロの状態)⇒結果は、精神病疾患で包括し得る脳内物質の変調が⇒原因ではナイ/ということだ。このように「固有状態」という状態は、因果律を否定してしまう。
物理学に限らず、医学や経済学や心理学でも、「原因に法則が作用して結果を生じる」と考えるのがニュートン力学の常識的な論理だ。この「原因→法則→結果」の形式は、「入力→作用素→出力」と一致している。ところが、固有状態というのは、原因(入力)と結果(出力)が一致する状態だから、これは、「因果関係」という枠組からみると(ニュートン力学的な論理からみると)系外の事態が生じていることになる。私たちの自然感覚、自然観察、環境実感からみるに矛盾としかいいようはナイ。けれどもこの/系外の特殊な状態/である「固有状態」は、量子(力学系)世界では「普通の状態」の常識な世界、自然なのだ。
鬱疾患という「固有状態」は、ニュートン力学世界の因果律では捉えられない「普通の状態」であるというparadoxな状態だ。
/「矛盾」が「普通の状態」/、それは、どんな「状態」なのかと問うとなにやら奇妙な感じだが、実際の鬱疾患においては、これは「いい得て妙」「当を得ている」「的を射ている」こんなふうに鬱疾患は苦悩する。しょうがナイ。ニュートン力学系の世界に生きて、量子力学系の世界感覚に放り込まれているのだから。
私たちは、従来の物理学(精神医学)⇒が発展して⇒量子力学(鬱疾患)に辿り着くのではなく、それまでの常識を捨象して、精神医学(科学)によって鬱疾患を探求、学究、研究するのではなく、鬱疾患によって精神医学を解くという、まるで上段の構えから下段八双脇構えに姿勢を転じる覚悟を強いられる。あたかもミシェル・フーコーが『狂気の歴史』で論じてみせたごとく、これはいってみれば、paradigmの転換だ。夢野久作が『ドグラ・マグラ』で「脳はものを考えるところに非ず」という命題を提示したのとおんなじやんけ、の世界だ。うん、オモシロイじゃないか。私たち鬱疾患は、いったいどんな「状態」に在るというのだろう。
コネコネとちっちゃいことをいっていても埒があかない気配がするので、ここはこういっておくのが妥当だろう。
/ナニカワカランものが、相転位された「状態」を鬱疾患という/
たしかに、識り得る限りではプラズマのような「状態」に転位しているようにおもえるか゛プラズマは物体、物質でもある。けして「状態」だけの存在ではナイ。鬱疾患ガプラズマ現象だと断定、定義、命題化しているワケではナイ。
たとえば、「明日」という日がどんな日になるのかワカッテ私たちは今日を生きているのではナイ。ある程度の経験と想定のもとに「明日」におもいを馳せているだけだ。この先どうなるかワカラナイ位相に私たちは常に存在している。これは不条理だが、だれも毎日の暮らしが不条理だと了解しているワケではナイ。「さほど、たいして変わらんだろう」という、根拠はナイがワカランのだから心配しても仕方がナイ、が日常として定着しているだけだ。ニュートン力学系においては、「原因→法則→結果」の定義は変わらない。この日常もそういう世界だから、私たちは結果も知らずに単に原因だけを生きていることになる。ところが鬱疾患はそれを赦さない。
目の前にあるリンゴが食べたいのに腕を動かす意思が極めて薄弱な場合があるとする。そういう場合、私たちはその原因をかんがえる。痺れでもきれて手が動かないのか、否、動かないのは手を伸ばそうとする「こころ」のほうだ、と、気付いたとき、私たちは少なくとも身体の異変を感覚的に捉えるだろう。リンゴは食べたい。そうしてすぐ手の届くところにリンゴは在る。であるのに、そこまで手を伸ばそうとする意思がどういうワケか想起しない。そのままだとリンゴを食することは不可能だ。手を伸ばせばいいのに。伸びるのに。なぜ、「こころ」は〈手を〉動かしてくれないのか。まさに鬱疾患の症状(「状態」)はこれだ。
ここで相転位されているものはなんだろう。いわずと知れた「自己」だとしかおもいあたるものはナイ。自己が自己ではナイものに転位してしまっている。「原因→法則→結果」「入力→作用素→出力」が固有状態に転じている。リンゴを手にすると何か良くないことがあるのか、リンゴを手にしないほうがイイ理由があるのか、逡巡でも躊躇でもナイ。「ワカラナイが、そうなっている」だけが鬱疾患だ。
ところで、戯曲塾をヤっているとき、シュレディンガーの猫についての「固有状態」の「盲点」を述べた塾生が在った。

2021年7月10日 (土)

無学渡世・第二幕の4

鬱病(うつ病ともいうが)の治療法はある。治療して治る鬱病は無い。治療できるうつ病もあれば出来ない鬱病もある。鬱病(うつ病)とはそんなヤヤコシイ病気、疾病、疾患だというふうな捉えられ方をしている。なんでやのん。
此度、また鬱病について書こうなんて気になった一因は、「コロナうつ」というコトバを目にしたからだが、これはCOVID-19のウイルスでうつ病にあるというものではナイ。てっとりばやく結論を先にいってしまえば「不要不急」の時間というものが、このニュートン力学世界においてはたいへん「必要」なものだったということに人類が気付いた(そんなこととっくに知っているヒトもいたけれど)ということで、この詳細はミヒャエル・エンデの『モモ』に書かれてある。
ちょうど、いまの「緊急事態」というのは『モモ』における「不要な時間」を消去させていって、必要なことだけをスル世界にしましょう、という、あの「時間どろぼう団」の暗躍する事態なんだなあ。そこでうつ病が増えた。この答えは半分しかいい得ていない。
うつ病という病気(疾患・疾病)は〈こころの病気〉だ。けれども、けして精神疾患ではナイ。私なんかはふだんはうつ病に対して、常識的に精神疾患というコトバを使うけれど、ほんとうはそうではナイ。精神科医の中にも同じような情況に身を置いている者も在るとおもわれる。
では、「精神疾患」と〈こころの病気〉とでは何がチガウんだろう。
簡単に雰囲気だけでいってしまえば、「精神疾患」には倫理的な負い目、/疵/のにおいがする。何か倫理的な疵が視覚化される。でも〈こころの病気〉であるうつ病はそうではナイ。よく「傷ついた心」とかいうけれど、それはまったく視覚化されず、倫理的な負債のために気分を害しているだけなんじゃないかナと、私は「私、傷ついてしまったワ」、どうしてくれるのよと、責めてくるヒトにはいつも「それは怒っている、気分を害しているの、と、どうチガウのですか」と訊ねる。そうすると「そんな責められると、よけい傷ついちゃう」といわれるだけだけどね。そのヒトは腹が立っているだけで、それは視覚化されてよくワカルのだけど、けして〈こころ〉が疵ついているのじゃナイ。そんなものは視覚化不能だ。疵ついたというひとは矛先に向けて「あなたは倫理的に私に対して負債を持ったのよ」といっているのだ。この「倫理的負債」と「精神疾患」は因果関係の何処かでヒモ付きだとおもう。〈こころの病気〉に倫理的なナニかが侵入した場合、それは「精神疾患」になる。
では〈こころの病気〉とは、ナニか。これは、/ワカッテイナイ/といってしまったほうがスッキリする。〈こころの病気〉とは、ナニか。いま私に在る〈こころ〉は自分のものではナイところの〈ココロ〉だ、ということしか自分にはワカラナイ。
うつ病には、倫理のヒモは付いていない。うつ病(鬱疾患)と「倫理的負債」は何の関係もナイ。〈うつ〉な〈こころ〉は「倫理」なんて、これっぽっちも感じていやしない。
だから、またまた簡単にいってしまえば、「倫理的負債」さへ消去させることが出来ればうつ病が精神疾患になることはナイ。
COVID-19、コロナで陽性といわれて、「すいません」と泣いて謝ったりするひとは、〈こころ〉に負債を持ち込んだりひるひとだから、うつ病自殺なんてことになって、と、先がみえている。「コロナうつ」というのはそういう類の疾患なのだ。しかし、それはうつ病ではなく精神疾患だ。そこで向精神薬治療が始まる。けして本質のうつ病が治療されているのではナイ。
養生訓・「こころに倫理的負債を持ち込んではいけません」
倫理的負債を持ち込むと、うつ病治療は精神疾患治療に移行する。つまり、ということは、うつ病(鬱病)は「精神疾患」以前のfunction(作用素)ということになる。

2021年7月 9日 (金)

無学渡世・第二幕の3

統合失調症が、精神分裂症といわれていた時空世界(時代)では、疾患者の比率は100人に一人ということだったが、昨今もこの数は変わっていないようだ。(2018/06/25現在)。最近の世界は五大精神疾患に加えられたうつ病のほうに話題、news、weight、社会情況は移っているようで、うつ病のほうの疾患者比率は4人に一人(2019/02/04 現在)だ。つまり4人ヒトが集まっていると、そのうちの一人はうつ病というワケで、私たちのよう小劇場演劇屋は、かつては一回のステージで相手にする四十人ばかりの観客のうち十人はマルキなんだなあ、とおもったりしていたこともあったが、のべ観客400人程度になると、全公演(演目)で100人のマルキを相手したことになる。
「え~~っ」
だろうけど、この数は「へ~え」と驚くほど正確ではナイ(それより、日本のJKの5~6人に一人が性病だというほうに驚いているほうがよほどマトモだ)。驚くに値しない主なる理由は、「うつ病」というのがどんな病気であるのか、「情況証拠」はあっても「物的証拠」のナイ捜査と同じで、「うつ病だろう」「うつ病だとおもわれます」という医師の、エビデンスの少ない/面倒だから、そうしちゃえ/がこの疾患者の中にかなりの数含まれているからだ。この病、本質のハッキリしない疾病で、医師(精神科医も含む)の中でも意見、見解はさまざまに分かれたままなものだから、医師にとっても面倒で、そこで、さまざまな病名だけが発案されてレッテル貼りされる。ある程度の普遍性は持っているのだが、固有性が強く、〇〇さん型うつ病とか、鬱病〇〇氏タイプといってもマチガイではナイ。近頃ヤッと一昔前のように憂鬱になるのが鬱病だ、という社会的誤謬、世間的勘違いからは脱したようだ。それでもまだ「気持ちの持ち方の問題じゃないの」などという立派な弁護士を私は知人の中に数えている。
逸話だが、うつ病の世界的権威といわれる医師でさへ、世界うつ病学会の国際会議で「未だに私はいったい何を治療しているのかワカラナイでいる」と自省、自嘲、自戒のコトバをblack humorのように語り残したことは有名だ。また、同じく第一人者のうつ病学者の「私はカトリック信者なので神は〈完全〉だとおもっている。さらに、医学者なので神は完全なうつ病だとおもわざるを得ない」と、憤りともつかぬjokeも一部流布されて知られている。
もう一つ、この比率指数(この場合の指数は、統計などで同種のものの時間的変動を示す数値。基準となる時点の値を100とし、百分比によって表したもの)がえらく多いのは、医師自体がうつ病についての知識が浅薄であったり、学習が底浅であったりしているのをエポケーしたまま患者を/つくっている/ということにも原因がある。これは逆に皮肉ると、日本の医療業界では儲かるとなると何処もかしこも診療科目看板を一枚増やすことが出来ることの弊害だ。要するになんだかワカラナイ痛みを「神経性疼痛」と名付けたり、この先どうなるかワカラナイ高血圧を「本態勢高血圧」と論述するのと同じように、うつ病が双極性障害と呼称されるようになったと思い込んでいる医師や、精神神経関連の疾病、たとえば(神経性胃炎とか、ね)も扱うphysical医療従事者(心療内科という怪しげな看板を掲げる医師)、さらに皮膚科における原因不明の蕁麻疹に遭遇した医師の逃げ口上として「うつ病の身体性具現」を唱える医師もこの身内なので、比率指数は、指数関数に倣って(患者を関数とした場合のうつ病指数)どんどん足し算出来るほどに増加していく。
というところで、次回からは、私の四十余年の鬱病との対策と、鬱病の本質について触れていくつもりだが、こういう企画・記事は以前にもヤったことがあることくらいは記憶にあるので、認知障害と一緒にされても困る。認知障害というのは、現東京五輪関係者の連中のことをいう。いや、こやつらは、もはやタダの阿呆といったほうがイイ。これはこれで、また想想不一するから、お楽しみに。

2021年3月17日 (水)

無学渡世・十三+珍論愚談 25

無学渡世・十三+珍論愚談 25
いま仏蘭西では、かつての芸術家たちの恋愛問題あるいは放蕩が取り沙汰されている、というニュースを読んだ。取り沙汰というのが何かというと、「それ」が是か非かだということが論議を呼んでいるということだ。
こういうことは、ひょっとすると、このCOVID-19禍において何かしら蛇のように鎌首をもたげててくるのではなかろうかと、ふと気になったことがあった。コロナ禍において、ヒトは統制を余儀なくされる。それは管理の範疇ではあるのだが、何かを剥奪されている、従属されているような錯覚(とも言い難いのだが)に囚われるのではなかろうかというmentalityがまとわりつくのだ。芸術は、おそらくそういうものへの反抗、叛乱だったはずだ。だから、そこにポピュリストの矛先が向かう。(矛先なんてどこでも何でもイイんだけどネ)
かつての芸術家(自称、他称に関わらず)の遊蕩などどうでもよいことでもあるし、それは芸術というものに見入られたものにとって必須の生活条件だったかも知れないともおもうが、一歩マチガウと、合衆国の前大統領や、現ブラジルの大統領のごとくに崖から転がり落ちてしまう羽目になる。英国王室の色素差別scandalも、同じような地平にあるような気がする。いまさら人種が肌の色がどうだというのだ。動転してんじゃないの。と、声を大にしてみると、はて、そうかなと逆の疑義に陥る。これが、ニーチェ曰く「暗闇を覗き込んでいるものは暗闇に覗き込まれているのだ」という類だ。私たちはいま、追い詰められた気分、心情のまま、世間のドタバタを覗き見ている。ところが、それは逆でそういう世間に自身が踊らされているのだ。
クマゴロ「科学なんか信用しなきゃそれで済む、なんてご隠居はいってたけど、ほんとにそれでイイのかい。
ニイちゃん「信用するんじゃなくて、いまはただ認識するに留まっているが正しいんじゃナイのかナ。科学は、こと医学に至っては信用する対象じゃなくて、単に認識する対象というべきなのかな。その認識、そう判断している自分自身が正しいのかどうかも奇しい。ワクチンは効果はある。しかし、そのアトが闇だ。治癒したアトの道のり、道標がまったくナイ。自燈明の明かりが揺らいでいるという感じだな。悪しき共同幻想のさなかを歩かされている気分だな。中華独裁主義帝国なんかは、いまなら、他国との同盟ならぬ限り合衆国と戦っても勝てるとおもっているだろう。合衆国も通常兵器での戦争は単独では中華に勝てないことを自覚しはじめている。ついこのあいだまでは、完璧に優位だったのが、この四年のあいだにひっくり返されてしまった。これは、シミュレーションの段階では、事実そうなんだから、バイデン大統領も足が地につかない。一国資本主義の欠陥は、自国も栄える部分が多いが、他国の先進性、急進性をゆるしてしまうってことだ。勝手にしろ、ということだ。それをトランプがヤっちまったからな。
クマゴロ「なんだかしらねえが、怖いよう。
ニイちゃん「そうなんだ、クマゴロさん。なんだか知らないが怖い。怖いし、恐い。恐いという漢字はいまはふつう使わない。たまに正しくはナイけど、自分もコワイが他人も同じだという場合、「恐ろしい」場所とか、「恐ろしい」出来事、のコワイは恐いになる。本来は常用漢字として怖いで事足りていることが、「恐怖」の「恐」が怨念の「怨」に酷似しているところから、心情的にいまの世の中は「恐い」になっている。コワイのなら「怖がって」いればイイと、おれなんかそうおもうように気張っているけどね。ところが、「恐がって」しまう世間になっていて、いまにも戦争が起こりそうだし、明日にでも地震が来そうだし、ワクチンの副反応で、一種のワクチン接種が中断されているけれど、ワクチンはウイルスに対しての免疫をつくることを目的にしているため、必ず副反応は起こる。その中でもやっかいなのが炎症性サイトカインと称されるもので、こいつが強すぎると、血栓が出来たり、死亡したりする。これを極力抑えるワクチンの治験が経験則だけで、今回の数々のワクチンは世に出された。これはたしかに「恐ろしい」ことだとおれはおもってるね。けれども、ケセラセラだ。起こるべきことは起こるべくして起こる。「仕方なく大急ぎで」承認されたワクチンだから、それまでの経験則が豊富でも、やはり弊害は出てくるんじゃナイかな。おれなんざ既往症が多いので、どの既往症がbattingするかワカンナイから、高齢者だけど、此度のワクチンは見合わせる。来年末まで、なんとか自燈明で予防して、第三相治験の終わったところでの、日本が自国製造したワクチンが出るまで待つよ。「恐い」のは「怖い」。けれども、何が「怖い」のかワカッテいれば、「怖さ」は「恐さ」から減少するだろう。
ともかく、ご隠居がいうように、おれは、COVID-19より、医学のほうが怖いのさ。ウイルスに変異種が出来ることは医学的にワカッテいることなのに、まるで、宇宙人襲来みたいに事を荒立てているメディアもダメだけど、正確に納得いくように応えない医学もワルイ(というか、研究が足りない)。
クマゴロ「でも、こええなあ。
ニイちゃん「しかし、ケッキョクこええのは、こええ、こええと恐がって包丁振り回す、ニンゲンのほうだぜ。

2020年1月 8日 (水)

港町memory 74

身近なヒトの死というものは、自然にdocumentaryになってしまうのかも知れません。
母親が口腔癌と診断されたのは、一昨年の十一月で、そのときから滋賀医大の口腔外科に月一回の通院が始まったのですが、当初の当初は二年ほど前、町の開業歯科医からの紹介状を持っての受診でした。この初診時はまだ診断がつかず、一年ほどの様子(観察治療)を経ての、決定診断でした。
その時点において、母親の年齢は八十八歳でしたから、抗ガン剤の効果は期待出来ません。鼻腔部分も削り取るという手術は体力的に無理(部位が顔面になりますから予後が厳しいだろうナ、ですナ)、と、私が判断しました。このときは、ネットで口腔癌などのガン治療を調べてみて、/七十五歳以上の高齢者には抗ガン剤は効果がなく、副作用による体力、心身の影響はみられる/、というresearch結果(国立がん研究センター)でしたが、とりあえず一ヶ月は抗ガン剤の投与は試みてみました。たしかに、少量からでしたので副作用は強くはありませんが、あるにはありましたネ。高齢化すると、その方面の感覚も鈍るらしく、「たくさん食べると胃の具合が悪くなるので少しずつ食べる」というふうに申しておりましたが、なるほど、副作用は如実に出ています。そこで、年齢から鑑みて「無治療」という方針で観察通院にしました。doctorのハナシではそういう方も高齢者ではけっこうあるとのことでした(ネットresearchでは六十五歳あたりで18%ですから八十八となると、これはもう天寿完うか、癌死だかワカリマセン。よって、緩和ケアを睨んでのQOLとなります。
で、まず、私がdoctorにした質問は「無治療(この場合、ただ放っておくというのとも少々チガウのですが)にすると、固形物が食べられるのはどれくらいの期間でしょうか」です。doctorの応えは「半年くらいですね」ということで、たしかに、半年はふつうに食事をしておりましたが、次第に流動物、固形といえばトマトやバナナが食べられるといったところでした。月に一度の通院は私と弟の二人か弟だけが付き添ってでしたが、ほぼ一年の通院は、ご当人様は杖ナシで歩いてました。それどころか、診察の待ち時間に、足踏み運動をやってました。これ、一日に千歩(そんなに激しいものでなく、軽くつまさきの踏み卸し程度なんですけど)するといってました。
私は施設入居を検討して、すすめたのですが、「施設に入るくらいなら死んだほうがマシだ」と、この「施設」というimageをいやがりましたネ。ですから「死んだほうがマシって、あんた死ぬんやけどな」と宥めすかして、まあ、一応専門業者のほうにいざ入居となったらすぐにでも出来るように準備はしましたが。この業者さんは懇切丁寧でした。感謝しております。
そこで、在宅医療ということになったワケですが、要支援から要介護にレベルが上がったあたりですか、在宅診療(訪問医療ですナ。むかしでいう往診というアレが月二回)と訪問看護(週三回)と、毎日のヘルパーさん(買い物と掃除)は安否確認のために頼みましたが、私は名古屋、弟は京都、ご当人様は滋賀の大津ですから、時間的には、通勤時間圏内ではあっても(私の場合で約100分)毎日通うワケには行きませんので、そのための最低限の介護方針でござんす。(ケアマネージャーが私のことを長男さん、弟を次男さんと呼称するのは最初戸惑いましたネ。けしてお兄さん、弟さんとはいわないんですナ)。
で、この辺りからがjet coasterとなります。高齢者の癌はこれがスゴイ。口腔癌ですから、口腔内から腫れと出血が始まりました。これも滋賀医大の口腔外科doctorから予め聴いていたとおりで、(出血を止める方法は無いということ、次第に量も増えるということ、痛みは増すということ、と、聴いておりました)。訪問診療のdoctorは優秀な方でした。専門が血管外科でしたので、カテーテルを用いた方法で、出血がなんとかならないかと、医大のdoctorにお訊ねになった矢先のこと、ちょうど私、帰宅していまして(この頃は週に二回ほど新幹線です)、目前で昼の出血とやらを目にしました。(ちょっと馬から落馬みたいな書き方ですけど)。血液の量そのものには驚きませんでしたが(とはいえ、中ジョッキ程度のプラ容器に四分の一)「これが夜中に三回、一時間ちょっとつづくねん。突然やから、肩掛けしてる間がのうて、寒うてな」どころやナイつうねん。これは、もう独りの力ではどうにもならんと、急遽、業者さんに、二十四時間看護師付属の施設を近辺に探してもらったんですが、じゃあ、ここにしようなんて話しているうちに、私、東京に仕事で、ホテル泊まりの朝、訪問看護の看護師さんから「救急搬送します」の電話です。訪問診療の医師の指示で医大病院のほうへQQ搬送されまして、そこで、東京での二日の仕事を終えて、即、病院。貧血による輸血治療ということで、なんとかまだ流動物はストローで食べられてましたが、これは、あくまで救急搬送の貧血による失血性心不全の抑止のための治療だとおもわれます。ガン患者に輸血は基本、いたしません。
で、医大doctorとsocial workerから、別病院の緩和病棟のベッドが空いたら、すぐに緩和ケアをということで、そうなったんですが、要するに母親が次に家に帰ったときは、ご遺体としての安置ということになります。
一週間ほど医大のほうにいましたが、市民病院の緩和ケア病棟ベッドが空いたので、そこに入院。このときもまだストロー飲食はベッドに腰掛けながら出来ていたんです。ただ、むかしのヒトなもんですから、看護師さんに「痛いですか」と訪ねられても「痛い」とはいわない。これは訪問医療のときもそうでした。痛いのは我慢せなナランという躾けをされてますからネエ。で、私が耳もとで「痛いんやろ」と訊ねると、首を縦にコクンと肯定する。看護師さんに、鎮痛剤は何を使ってますかと訊くと、朝夕は〇〇、これはオピオイド(モルヒネのような鎮痛剤)だとわかりましたが、昼はアセトアミノフェンを600㎎、「そんなもん、効きませんよ、1500㎎ぐらいじゃないと。すぐにオピオイドにして下さい」と、お願いしまして、そうしましたら、痛みも治まったのか、すっと眠りました。もうこのあたりからストロー食事も、吸う力なく、水は飲めました。
「ああ、美味しい、ああ、美味しい」と、飲みましたので、ああ、これが末期の水になるなあと、私、覚悟しました。
で、翌週来院したところの容態で、これは今週中かな、で、三日後来院したところで、これは今日明日だな、で、準備に名古屋にとって返しているあいだに、亡くなりました。最期はスマホをスピーカーにしてもらって、弟が看取る中、こちらは声をかけて名前をよんでみたりしましたが、一度は頷いたそうです。
芝居なんかしてますと、親の/死に目/に逢えるのはluckyなようで、私は両親とも死に目とは縁がありませんでした。べつにそれが不幸だとはまったくおもってはいませんが。

2019年12月22日 (日)

港町memory 71

ヒトの死にもどります。
/ヒトの死とはヒトにおける量子としての波動が純粋状態から混合状態に相転移することです/
つまり、波の重ね合わせが起こらないので、状態ベクトルによる波束の収縮がナイということです。これは確率として作用素の発現することが無いということです。つまりは量子がヒトの生としての活動を休止、停止、している状態です。
しかし、
/量子は時間という質や量を伴った存在ではありません/
時間はあくまでニュートン力学的世界での便宜上の概念(自然といってもいいのですが)で、量子力学的世界(自然)おいては、存在しません。ですから宇宙の年齢やら、開闢後の数万分の1秒に何が起こったかなどという時間は問題になりません。ところが、
/私たちヒトは日常的(生活習慣)にはニュートン力学の(~に影響を受ける)存在としてしか生きられません。量子力学の世界にナンデカワカラヘンネンけど、突如として現出したニュートン力学的存在、それが私や私たちの世界なのです/
この本質的に(せよ、現象的にせよ)矛盾した存在、それが私たちなのです。これはアリストテレスもプラトンも喫驚(びっくり)の世界(自然)です。つまりですな、うどん粉で饅頭をつくったようなものですから。それならまだ出来そうですが、フランスパンの刺身のようなもの、ゴボウ茶飲んだら天然痘が完治したようなもの、結核患者さんでも走れるマラソンコースが出来たような・・・、のようなもの、です。
この二つの世界(自然)での最も大きなチガイは前述した「時間」というシロモノ(いや、もはやキワモノ)です。
〈空〉が相転移した場合、実体(色)には〈時間〉が付加されたようにみえます。時間のナイものが、時間が在るかのようにみえるのです。何故ならニュートン力学的世界でのさまざまなものは、過去→現在→未来へと〈動いて〉いるからです。(諸行無常ですら、時の変遷です)。これを「時間の矢」といいますが、これが私たちにみえている世界(自然)です。
この〈動く〉ということは、量子力学にも在りますが、量子力学の世界においてはニュートン力学のように〈時間〉は存在しません。
たとえばニュートン力学では、自動車の速さと時間によって、到達点までの距離を求めます。到達点までの時間によって速度を求めることも出来ます。もっとも簡単なニュートン力学の誰にでもワカル説明がこれです。ところが、量子力学の場合、量子が動くということは、その三つともが無効になります。三つともというのは、時速というもの、距離(場所)、かかった時間、速度の三つが整わないということです。(よく知られたものに、ハイゼンベルクの不確定性関係、ファインマンの経路積分があります)。コトバを変えていえば、ある一点にある量子が、次に、何処に、どんなふうに、どんな速さで、動くのかが確率でしかワカラナイということです。(かつ、この確率は純粋状態でしか求められません)

重力は、ニュートン力学でも扱われます。そこで、私はかなりおもいきった「とんでも理論」で、次のようにかんがえました。
重力波や重力子が存在することが明瞭でも、容易に発見、測定、検知されないのは、「ディラックの海」の陽電子のように、私たちを含めてこの世界すべてが〈重力〉に満たされている、包み込まれている、もっとdrasticにいえば、私たちが重力そのものだからではナイか。私たちもまた重力ならば、本質的には量子力学的世界(自然)のように「時間」を持つものではナイ。それでも「時間」を感知、知覚、体感してしまうのは、この世界(自然)と私たちの重力の関係に横たわるある種の〈勘違い〉である。そう、カンチガイなのです。でも、何でカンチガイするんでしょうか。もちろん、成長、老化や死があるからです。どうしたってそれは「時の歩み」と文学化されます。
私たちは過去→現在→未来といういわゆる「時間の矢」の現在に在る、というのが私たちの認識(或いは感覚)ですが、この過去→現在→未来という「時間の矢」の現在を貫いて直行するような線を引いてみます。これを私たちの「世界線(四次元時空の中で、ある粒子、物体が動く経路)」だとします。すると私たちが存在しているのはこの世界線上だけで、時間の矢の線上には他の何処にも私たちは在りません。過去や未来といった時間の矢は、私たちの記憶や想像にしか過ぎナイといことです。パラレルワールド(いわゆる多重世界)などはscience fictionなどではよく登場しますが、状態ベクトルで波束の収束が一つである確率の世界(このニュートン力学的世界がそうなんですけど)では、パラレルワールドの存在の可能性はアリマセン。(かといって、そういうのがあるというほうがオモシロイんですけど)。
では、老化はどうして生じるのか。死は何故避けられないのか。
/老化や死は、重力の変貌、変容、転移なのです。あくまでニュートン力学的世界の存在である私たちの自然の出来事/です。世界線上の重力は常にenergyを変化させています。これが、現在が次々と未来や過去になっていくようなカンチガイを私たちに経験させるのです。
純粋状態から混合状態への相転移と、散逸構造のコヒーレントにおける、未知の、本質としての〈自然〉が現行の自然のさらに奥に存在する。ヒトの死(ニュートン力学的世界での存在としての終焉)は、その〈本質自然〉への回帰、旅立ちといえるのではないか。そのために私たちは光子還元でno side(仕切り直し)される。これが物理学(量子力学)で捉えた(かんがえた)ヒトの死です。
さて、本質自然にはどんな〈自然〉が待ち受けているのだろう。
電磁場というものが在るように、重力場も在ります。(もっともその重力ですら、ブラックホールでは消滅するのですが)私たちという波動はそこで新たなコヒーレントを迎えることでしょう。それまでは願わくば「涅槃寂静」といきたいもんです。そうして、胸いっぱいの予感の中にある、先逝したものたちとの再会と邂逅も、波の重ね合わせにおいて、そこで実現すると、そう信じている私です。(了)

2019年12月19日 (木)

港町memory 69

(承前)
音(波)の状態を音楽(実体)の状態にするには、音(波)を重ね合わせねばなりせん(たとえば♪ドという音の状態を創らねばなりません)。この波の重ね合わせ(のことを「状態ベクトル」と呼称します)が完全にできるばあいを、量子力学では純粋状態、そうでないばあい(重ね合わせが出来ないか、不十分で波として扱えない場合)は混合状態と称されます。つまり、波の重ね合わせが乱雑な状態です。量子の状態には、そのような二つの状態があります。この事実によって、よく知られた「シュレーディンガーの猫」問題は、量子力学としては解決されています(ドラマなんかではmetaphorとして使われていますが)。「猫」の思考実験は、混合状態での中の特殊な状態ベクトルにおけるもので、未だ波の重ね合わせ、「状態ベクトル」が創り出されてはいないのです。シュレーディンガーの波動方程式(波動関数)では、純粋状態の波の重ね合わせまでは明察出来ます。しかし混合状態から波の重ね合わせを知ろうとするには、「密度行列」という、さらにすすんだ量子力学的方法が使われます。
この「行列式」とハイゼンベルクの「行列式」を混同した(錯綜した)ために、拙著『恋愛的演劇論』の末尾部分は誤謬に陥っています。はたして生きているあいだに訂正出来るかしらん、というふうでござんす。

さて、ヒトの〈死〉についてここで仮説をたてます。
/ヒトの死とは量子力学的には、量子の波動が純粋状態から混合状態に相転移することです/というふうになります。以下にもちっと詳しく説明しますが、ここは一踏ん張り、投げ出さないでおくんなさいまし。
ヒトという実体を波動の作用素とかんがえます。(「作用素」とは外から「入力」を受取り、それに何らかの規則的な変換を行って出力された営為、その結果のことです。量子力学の用語としては、それを「作用素」或いは「演算子」と呼びます。パソコン用語や数式に用いるfunction(操作)と似ていますが、量子力学では、アルゴリズム(「アルゴリズム」というのは、コンピューターで計算を行うときの「計算方法」のことですが、簡単にいえば、何か物事を行うときの「やり方」「plot」のことだ、で、かまいません)が少々異なって、この作用素(物理量)は非可換量-(積の右辺と左辺を交換するとチガッタ答えになってしまうので、交換が出来ないのです)-になります。これも量子力学の特質です。ヒトを作用素として存在するものだとすると、ヒトの量子の状態も純粋状態の状態ベクトルです。波の重なり合いや(波束の収縮)も完全に生じます。ですから、ヒトの死は、この重ね合わせがうまくいかない混合状態(ちょうど蛍光灯の中のような状態-(気体の乱雑な運動のために、波の山や谷の位置・・位相・・がそろわないので干渉は起こらない)-になったものだと仮定します。(という仮説です)。
つまり、ヒトの死とは、「色」が「空」に、実体(純粋状態)が(混合状態)の波動に転化することをいうことになります。こういう転化のことを相転移と称します。
ですから、私が死んでも(実体でなくなっても)波動としては、とりあえずは遺るワケです(ただし、混合状態ですから、状態ベクトル-波の重ね合わせは不整です)。ここで、どのみち仮説なのですから〈意識〉という得体の知れない(のか知れているのかワカランもの)も、何らかの状態(〈相〉或いは〈場〉でもイイとおもうのですが、完全に放散されることがない状態)で遺るとします。意識とは何かということがハッキリとわかっていない現代(現状)なのでかくなる突飛なこともいえるワケです。この場合、遺るというのは、意識というものがニュートン力学・物理学の現象では観測(計測)出来ない、私たちが自然と称しているもののさらに奥にある自然の〈本質〉として遺ることを述べています。(いってみれば、量子力学とは、その自然の本質を探求する学問です)。従って、現存するヒト(実体)とは異なる状態、或いは作用素なので、両者の直截の交信は出来ナイでしょう。宮澤賢治さんは、そういう理由でトシさんと交信出来なかったといえます。とはいえ、私や、死者と称される元ヒトだった実体は、いまなお量子の波動として散逸構造のまま飛び交っている(のかじっとしているのかは不明だけれど存在している)ことは確かです。つまり〈空〉の状態です。量子には時間という概念がアリマセン。量子は時間という質や量を伴った存在ではナイのです。ですから宇宙は出来てから135億年だとか、開闢の瞬間に起こったことに10の何億分の1秒のような単位をつかうことはあまり意味がありません。時間というものは存在しないからです。
量子は、量子力学的にenergyが消滅するまで無時間のまま存在します。これが自然というものの奥にある〈本質〉であることを量子力学は突き止めつつあります。そうして、量子のenergyの消滅の仕方たるや、すべて、光子に還元されてしまうことです。(つづく)