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カテゴリー「心と体」の記事

2017年3月21日 (火)

犀は撫でられた

 

Monitorで韓国映画を観ていた。『サスペクト~悲しき容疑者』、これが132分の長尺なもんで、30分に一度の休憩予定で観ていたのだが、ともかくaction scene が長すぎる。簡明なstoryで、俳優の演技の質が高く、オモシロクなくはないのだが、いや、オモシロイのだろうけど、カーチェースの部分など、もうイインじゃないのと少々うんざりはする。まあ、これは趣味の問題で、好きなひとは大歓迎なんだろうけど。私はactionの緊張感なら、まだ香港映画のドニー・イェン方面のほうが上(上手い、上質)だなと思う。同じ韓国作品の『監視者たち』は頭脳戦なのだが、その緊張感がたまらなく良かった。これは韓国映画の勝ち(これは、日本映画に対して、いってるのです)

で、本題はここからなのだが、観ている途中で、急に苦しくなってきて、映像をstop、脈拍を測定すると、115、血圧が148-95ときた。低体温のせいかと、次は体温、おっとどういうワケだか、10分前まで35,7°だったのが、36,6°まで急上昇している。何だかワカラナイが、急場凌ぎ。Β-ブロッカーを服用。20分経過、おちついたので、再度計測、117-75、36,1°(私の平常体温は36,4°)今度は急降下。1度近い体温の乱高下は、立てばふらつく、思考のedgeはボケる。

頼れるものに電話したが、あいにく旅行中。電話したのは、病院に運べとかいうcommandをいうためではナイ。こういうのが続くことになれば、いくらなんでも「もうイイんじゃナイか」という声に誘われそうになる。「すまんな、堪忍してや」になる。そこで、かねてからの『遺言書』と『告別の辞』のfileを渡して、後始末のために通帳と判子を渡しておこうと考えたのだ。

自死する気はナイが、救急車とか、救急病院は拒絶するつもりだから、意識が朦朧としているあいだに33°まで体温が下がれば、自然死になる。朝、起きたら(というか、起きないんだけど)死んでましたになってからでは遅い。

いつ、そうなってもいいように、犀を撫でることにした。

と、以上は、疾病(薬害なんだけど)に対する〈消極的シフト〉。

何か〈積極的〉なpolicy technique approachはナイのか。

セロトニンの自然分泌不全。容態は、自律神経の迷走(暴走)。

セロトニンの自然分泌が生じてくれるのか、あるいは、現状のままを耐える工夫をすればイイのか。来月で断薬から六ヶ月。ここらが離脱終了の基準なのだがこの五ヶ月、体調に変化はなく、低体温という悪化がみられるだけだ。ことのほか、生じている体調不全は、自律神経系統の失調に由来していると仮定してみる(そうせざるを得ない、他、考えようがナイ)。

そこで、自律神経失調の精神医薬を探すか。そうすると、また向精神薬に依存するところに逆戻りで、私もイヤだし、主治医も賛同しないだろう。

では、医薬品以外で対症出来る可能性は何かあるか。

漢方か、鍼灸か、信仰か、超能力者探しか。犀を撫でる。賽を投げるのでもなく、匙も投げない。

午前中に仕事すると、午後は1時間程度、眼を休めるために横になる。いつものラジオ番組が流れている。「~松尾堂」、松尾貴史さんの番組で日曜の午後はたいてい聴いている。わりとお気に入りの番組。その日のゲストのひとりが医学者で、「疲労医学」という新系統の医学分野を歩いている、1960年前後の生まれだから、まだ五十過ぎくらいかなあ。これに聞き耳が立つ。あっ、犀だ。「疲労と疲労感はチガウ」という命題。たとえば、歩く走るで足に乳酸が溜まって「疲労」というのは「嘘なんです」といいきる。疲れをとるのに、「適度な運動をする」「栄養価の高いものや精力のつくものを食べる」「温泉にいく」「友人たちとお酒を飲んで、ストレスを発散」なども、すべてマチガッテいることを、実験データで確かめたらしい。老師いわく「いままで、医学は、〈疲労〉というものに対しての学問、研究を怠ってきた」「足がだるい、肩がコル、眼精疲労などは、〈疲労感〉であって〈疲労〉ではナイ」云々。

まるでユング精神医学のシンクロニシティーみたい。(私はあまりユングは評価してナイんですけどね)。この医学者は「疲労とは、自律神経の疲労です」といいきる。

で、どうすんの。

「鶏のムネ肉の成分のイミダペプチドを毎日200㎎摂取するといいんです。これは、渡り鳥が休息なしで数千キロを飛んだり、マグロが永久に泳いでいたり出来る体力に関係していて、その両方の肉(身)にも含まれています」

ペプチドとはたしか、アミノ酸の複数結合だったから、要するに分子結合してタンパク質になる、あれだな。「鶏のムネ肉」ね。マグロね。よし。

サプリにもたぶん、あるはずだ。よし、アマゾンへgo。で、サプリを買ったが、どうしてもこういうシロモノには半信半疑になる。若い頃、テキ屋をやってたせいで、どうもテキ屋商品と重なる。すでに贋物も出回っているとか書かれてある。他の似たようなサプリを調べると、あるわあるわ、高価なのがワンサカある。ユーザーのレビュー(Amazon)は善し悪しが6:4くらいで、一応食品なのだから「効かなかった」という評価はちょっとどうかと思うが、よく効く向精神薬よりはマシかなと、副作用や飲み合わせなど、調べまくって、ここは藁にすがるかと、犀を撫でた。

/犀は撫でられた。(意味、ふつうは怖くて触れたり撫でたり出来ないことをする。転じて、思いきった営為を行使する)/

翌日、電話した相手と別の相談事があったので、「昨日の電話は云々」と話したら、「私のほうが先に死ぬかもしれませんから、お返しすることになるかも」といわれた。なるほど、最近は、同時代を活きてきた知己、友人が次々戸籍を天鬼簿に移している。死ぬことに恐怖心はナイほうなのだが、癪に障るのだ。きっと釈迦もそうだったにチガイナイ。これからはその気分を/釈迦に触る/ということにする。

2016年6月26日 (日)

涙、壊れているけれど⑦

だから、どうした

 

ここんとこえらくブログ書いてんじゃナイ、躁転してんじゃナイの。と、書かなかったら書かなかったで心配し、書けば書いたで心配し、で、で、心配してどうすんのかというと、心配するだけで、ナニかしてくれるのかというと、どうでもイイと、だいたい他人というのはそんなもんですから、で、で、ひょいと出会ったりすると「私、心配してたのよ」と、だからどうなのと、訊き返したくなるんですよ。

躁転というより想転、北村想が転がってると思えばイイじゃナイですか。そういうのは、単なるファン心理と何もチガワナイ。自分がイチバンだと思ってるだけで、何がイチバンなのか知らないけれど。

だいたい私は、いわゆるうつ病、あるいは呼称が変わっての双極性障害については、現在の医療を全否定することにしてまして、つまり、そこからもう一度始めないとダメだと、まあそんなふうに考えてんです。抗生物質が人工的につくれるようになってから、薬剤会社の黴捜しは終わりました。新しい抗生物質(黴)をみつけたら、会社は十年安泰といわれたのはむかしの話で、いまは抗生物質とはいわずに総称して抗生剤と称します。その代替品になったのが、抗鬱剤です。最初にSSRI(商品名・ソルボックス)が医療で使えるようになったとき、このときのキャッチ・フレーズが「天使のやすらぎ」(だったか、とにかく、そんなの)だからねえ。で、SNRIが次いで出てきます。この中に商品名パキシルというのがあって、これを処方された患者に異常行動がみられるということが、業界(医療界)で囁かれ始めます。ところが、問題はパキシルだけではなかったんですな。ノルアドレナリンはともかくセロトニンという、いわゆるSNRIのSです。こいつがうつ病患者には正常分泌されていないので(そのへんの構造は略しますが)、クスリで補充しちゃえという、だいたい医療とか科学は、ヒジョウに単純にものごとを考えます。私なんか、多いときはこのセロトニンが主剤のトレドミン(他にノルアドレナリンを含有)を一日100㎎服用してました。しばらくして、自律神経失調症みたいになったので、それに対して医師はレキソタンを調剤投与します。これ、依存症になって今でも飲んでますが、いまの主治医にいわせると、自律神経失調症で、このクスリを出す医者はいないということで、それはともかく、この辺りですでにセロトニン症候群に突入していたと、そ~いうワケ。

六十を過ぎて、症状が痛みに変容します。んで、こないだ、内科の主治医に、鎮痛剤が効かない話をしたら、鎮痛剤が効かないときに投与する麻薬成分が入っているんだけど、モルヒネには及ばない(ガンの痛みには効かない)、つまりボルタレンよりは効果のあるトラムセットというのを出してくれたんですが、これ、抗鬱剤と同時服用するとセロトニン症候群に陥るおそれがあると、(ネットの)注意書きにあったんで、それじゃあってんで、というか、ここで、初めて、セロトニン症候群という最近騒々しいsyndromeがなんであるのか調べてみたんです。そうしたら、何だ、ここ5年以上、辛かった症状がズラっと、まるで禿げヅラのように並んでいる。現在25㎎まで落としている抗鬱剤を、もう全廃しようと、これ、おそらく一時にやめるとたぶんタイヘンだろうからと、二週間かけて、半分まで落としました。カラダの変化に注意しつつ、アト一週間程度で全廃する予定で、めでたく、トラムセットが服用出来る、あの痛みから解放されると欣喜雀躍、近畿地方の天気は曇り、していたら、クスリを減らし始めてから痛みそのものが軽減し始めた。

だから、どうすんの、と。疲労消耗衰弱して減っていた体重も60㎏までもどった。しかし、長年のセロトニン症候群からスッと逃れられたワケではナイ。もっと長年のうつ病が治ったワケではナイ。ハムレット症候群(これは私が名付けた、朝起きて数時間は、自殺念慮との闘い、生きるべきか死ぬべきかが待っている)は、まんまだからねえ。

さてと、ですからね、「どうなんのかねえ」じゃナイのよ、ね。どうにもなんないから、ここは「どうしようかな」が正しい。以前にも書きましたが、釈迦のスゴイところは、「こりゃあ、生病老死ってのは諦めるしかナイな」と、結論した上で「では、どのように諦めればイイのか」と考えたことなんです。イエスのように「天国」に逃げることもなく、「八正道」とか、「十二因縁」とか(あんなのは、のちの上座(小乗)仏教のつくりごとなんですが)、そういうことはいわない。ただ、「中道」と述べた。これを英米人にもワカルようにいうと「good timing」です。むかしふうにいえば「宜しく計れ(謀れ・図れ・測れ)」です。いまふうにいうなら「あれでもナイしこれでもナイなら、適当にやればイイ」です。簡単にいうなら「時宜」です。従って、「色即是空 空即是色」の「空」というのは空間概念ではありません。「時間概念」です。でないと、『般若心経』は読み解けません。これを「無」と混同してご託を述べている坊主は、みんなインチキです。嘘つきです。「色即是空、物質や心はみなこれ無である」・・・アホッと、喝入れておきましょ。「物質、心象、およそこの世にあるものは時間によって変容する。時間はこの世にある物質、心象を変容させる」これが正しい読み方です。では、〈時間〉とは何か。「重力エネルギーが姿を変えたもの」としか、いまの私には答えることは出来ませんけど。簡単にいうと「時が過ぎていく」というコトバを物理学的にいえば「重力波が運動(作用)している状態」ということになります。

 

2012年10月19日 (金)

私が脳死に反対する理由

私は臓器移植という医療に反対するものではナイ。角膜移植を含め、生体腎移植、肝移植にはむしろ、それでイイと思っている。ただ、脳死臓器移植には、賛成しかねる。その理由は単純なもので、私は脳死をヒトの死というふうに認めていないからだ。脳の欠損で、ヒトは植物人間とかいうふうに呼ばれることがある。喋れない、みえない、だ。しかし、聴力は違う。聴力は感覚系統で最後まで生きている。よくいわれる幽体離脱という体験はこの聴力の他感覚カバーからきているとみてほぼ間違いない。聴力は、演劇の場合、演技において視力よりも大きな力を持っている。何故なら、せりふは聴力のたまものだし、空間把握は、視力とともに、聴力に依るところが大きい。時間把握は聴力だ。視力がデジタルなのに対して、聴力はアナログ的に空間と時間を把握していく。これら感覚機能は、意識と呼ばれるものに結びつく。もし、脳死がヒトの死であるならば、意識というものが死んでいなくてはならない。意識が死ぬということがあるならば、意識は脳内の何らかの物質としか考えられないことになる。つまり、脳のある部分が死ぬと意識がなくなるのならば、意識とはその部分という物質になる。物質であるならば、外部に取り出せることになる。意識を脳の外に取り出せるものかどうかは、医学の問題ではなく、もはや常識的な問題だ。そんなことは不可能だ。そうすると、脳死と意識とはある関係を持ってはいるが、直截なものではナイ。だから、たとえ脳死であっても、意識は残っているということは充分ありうる。具体的にいえば、脳死の状態でも聴覚は生きていて、そのぶんの意識は生きているということになる。何を脳死とするかは、脳波などの判定でなされるだろうが、私は聴力の判定をすべきだとさへ思っている。聴力ほど不思議なものはナイ。耳鳴りで悩んで聴力神経を切断したひとに、耳鳴りだけが残ったという話は存在する。聴力は視力と同様に、聴くことによって、像をイマージュすることが出来る。視力が実体を観て、それを変容させて像にするならば、聴力は実体を観なくとも、像を創り出す。あのアホ映画は、それすらアヤシイものに描いてしまったが(単なるロマンのようにしてしまったが)、意識は聴力に残るのだ。意識が残る以上、脳死などというご都合的な医療の犠牲にはなりたくはナイ。静かに自分か死んでいく事態を聴力による意識によって感じながら死んでいくのは、臨終の者の権利だろう。

2012年10月14日 (日)

中医学

私たちは「東洋医学」というコトバや「漢方医学」というコトバを耳にするが、中医学というのは、中国の歴史的な医学をいう。たとえば、東洋医学であれば、インドやチベットの医学も含まれてしまう。漢方医学は、漢方薬による処方医療とでも認識しておけばイイだろう。
ところで、五年ばかり前から右肩の痛みに悩まされていたのだが、神経科クリニックのドクターのお勧めで、ある鍼灸院を紹介された。当初は、単なる鍼治療かと思っていたのだが、ホームページをみるに、どうもそうではなさそうで、初診には90分ほどの問診を要するとある。いまどき、90分も問診する医者はいない。というか、臨床医学の発展で、原理医学である問診治療をしない医者までいる。つまりデータだけで、患者の病気を診て疾病を決めてしまうという、あの藪医者、医者オタクの医者の類だ。私はストレスを感じると咳き込むので、ともかく一応診てもらっとくかと、とある医者を訪れたことがある。で、まあ、案の定、レントゲンを撮られたのだが、驚いたことに、遮蔽室ではナイ、剥き出しのX線装置の前に立たされて、遠く離れて看護師がこっちをみているのだ。大丈夫かいなと思いつつ、医師の診断によると「レントゲンに異常はナイが肺ガンかも知れないのてCTを撮りに大病院まで行け」という。「異常がナイのにCTスキャンする根拠は」と訊ねると「ガンはレントゲンには映らないことがある」という。もう、論理的にムチャクチャだ。それなら最初からCTにすればそれで済んだのに。CTにも異常はなかったが、クスリをだすという。何のクスリかと訊ねると抗生物質だという。この医者は、完全にオカシイのだ。次ぎに呼吸器科の専門医を受診した。アレルギー検査をするという。で、結果、全てのアレルギーはマイナスで、アレルギーではナイという結果が出た。そこでその医師が私にいうには「これはアレルギーではナイ喘息です」。かくなる喘息というのはでは、何なのかの説明はナイ。つまり本態性高血圧と同じで、原因がワカラナイ喘息だということだ。
さて、そのドクターお勧めの治療院で、確かに90分ばかりの問診があり、それから脈診と触診があって、舌の写真を表裏、撮影された。そのアト、鍼治療に入るのだが、鍼は肩ではなく、足の小指の付け根あたりに一本うたれただけで、5分ばかりそのまま。5分で脱鍼して、10分休憩。それからまた舌の写真。つまり治療前、後の舌の色の変わり方をそれからみせられたのだか、治療前(鍼をうつ前)は舌の表は青味を帯びた灰色で、裏側は、どす黒い紫色だ。ところが、治療後は表も裏もピンク色になっている。中医学の医師はいう「これは気と血の循環が原因ですから根本治療をすれば治ります」。私は魔法のような舌の写真をみつめながら、軽くなった肩の変化にも驚いた。もちろん、一発で治るということはなく週一回の治療が必要らしいし、肩の痛みも、翌日にはもどっていたが、しかし、中医学、畏るべし。いつぞや、私は「科学哲学」たらいうインチキくさい本で、「似非科学としての鍼治療」というのを読んだことがあるが、鍼灸にもさまざまな流派と方法があるのだが、その「科学哲学」者はそれを学んだことも、研鑽したこともナイように思えた。単純にただ、鍼をうつ治療だけを似非科学として批評していただけだ。もしかすると、中医学の理念(人体を自然の一部として観る)に鬱病に対するヒントがあるやも知れない。

2012年3月 8日 (木)

如是想解・44

43 謎はつづく
私たちを悩ませる「歴史」というものの感覚はいつもこうだ。まず個人史というものがある。固有の歴史だ。それとは別に「歴史」というものがある。私の個人史はその歴史に巻き込まれるだけで、私は歴史をどうすることも出来ない。ほんとうは、私という個人を含めて歴史はあるはずなのだが、それとこれとは、違ったふうに進んでいるという感覚だ。いったいその感覚は何処から生ずるのだろうか。また、何故、そういう感覚に陥るのだろうか。もし、うつ病を「内部からひとりでに」生ずるという②の診断方法(発症要因)を信ずるとすれば、前述したように「外部からひとりでに」というベクトルをいうことも可能でなければならない。この外部というのは、個人(固有)史ではナイのだから、流れゆく歴史ということになる。この問題はけっこう難題のようだ。マルクスやフーコーはその哲学的思考の主題に「歴史」を導入した。マルクスでいうなら、通俗的だが「階級闘争」だし、フーコーでいうなら、「ディスクール(言説・・・その時代に波及、流布され用いられた言語、拙論))」や「エピステーメー(その時代を支配、席巻した、独自の法則、理論)」であり、二人とも「権力」というものを扱っているのだが、あるいは接近し、あるいは遠のく。例を挙げればマルクスの権力思想である「階級闘争」は、フーコーにとっては、その時代に存在した「エピステーメ」でしかない。(この辺りは、ソシュールの言語学の影響といわれているし、私も、そこにフーコーはヒントは得ているとは思う)。
この個人(固有)史と、歴史(普遍的・一般的、歴史)の並行感覚は、おそらく私たちが社会科の授業で歴史を習ったときにも、敏感な者なら抱いただろうと思う。これがなぜ難題なのかというと、科学(物理学・力学・進化学・化学、et cetera)において歴史を扱う場合には、エントロピーという「時間の矢」の存在における不可逆的な時間の流れとして扱わねばなナイ(注釈を入れておけば、エントロピーというのは物質のことではナイ。よくエントロピーの増大などといわれると、何やらそれがある種の物質のように思えてしまうが、簡便にいえば、質が量へと転化するエネルギー現象のことで、ここでは時間は不可逆、つまり一定方向にしか流れないので、「時間の矢」は光陰矢の如しの矢と同意に例えられている。「光陰」というのは「時間」の別名だ。質が量へというのは、100円ライターで火をつけると、中のガスである質は炎の熱という量に変わるということだ)。しかし、哲学や思想というもの、あるいは表現というものは、その限りではナイ。思考は幾らでも過去にもどることが出来るし、ハイデガーやキェルケゴールのいう「反復」などの概念は、ヘーゲルのいう「反省」という運動とも似て、ひとは過去から学ぶということが出来るし、逆にいえばそういう存在が人間だ。いっときは興隆を極めたアングラ演劇とマスコミにはいわれた演劇は、いま新・新劇(というんだろうか)の台頭に取って代わられている。つまり「反動」というものがある。人間は、何度でも同じ過ちを繰り返すのと同意だ。ここでは「時間の矢」はどっちに向いても飛ぶ可逆的なものになる。②における「内部からひとりでに」起きる疾病としてうつ病を捉えるならば、「内部へとひとりでに」もどっていくものとして捉えねばならないし、たしかに、うつ病にはそういう面があるのは事実だ。身体的症状も、いっとき我慢すれば、治まる。
単独では世間(歴史)に影響を与えられないのなら、「団結」すればイイのだろうか。集団としての力で何とかなるのだろうか。たしかにナチズムは、ヒトラーという単独者が始めて、集団となり団結して、歴史となった。しかし、このコヒーレンス(波動が干渉する度合い、つまりエネルギーの増大の目安となるもの)は正しかったか。この波の流れに乗っていくという個人の歴史参加は、個人史にどう影響を及ぼすのか。うつ病の発症②や、あるいは演劇の集団性を考える場合には、ここまで拡張した謎に応えうる答が必要になってくる。

2012年3月 7日 (水)

如是想解・43

42 次なる謎は
マタニティー・ブルーが、母体という自然(個体-固有の自然)と、進化論的に観た自然というものとの齟齬(すげえ漢字だな。意味は、かみ合わないとか、くい違うとか、ずれがあるということですが)にあるのではナイか、というところまでで、いまの私には論を進める自信はナイ。(とはいえ、ここまでにしておくつもりは毛頭ナイ)。ここで探偵は②に論を進めることにしたい。/②の内因性は「内部からひとりでに」起こるもので、①や③には該当しないものをいうのだが、「内部からひとりでに」というのは、うつ病にあたかも人格、物象を付与した感が否めない。もし、これを認めるなら、「外部の何かがとり憑いて」という拝み屋の対象ともなる理由をいうことも出来る。およそ、このレベルにおいては問題にならない。とはいえ、これはほんとうは問題にしなければならないものだ。そうして、現在のうつ病治療薬も、多くこの内因性の生ずる脳内物質(神経伝達物質)の制御を主な目的としている。いわゆるセロトニン、ノルアドレリンの再取り込みを防ぎ、その物質を増加させることによる制御だ。/と、前述した。「内部からひとりでに」というのは、没個的なもので、まったく固有のものだ。しかし、およそ、そういうものが存在するとすれば、独語(独り言)と似た世界を想定しなくてはならない。いわゆる完全に即時的なものだ。ここで、ちょっと回り道になるかも知れないが、西洋の哲学史をかなり大雑把に順繰り観ていくと、といっても、ギリシャ哲学まで遡っていてもしょうがナイので、たとえばヘーゲルは、この世界と個人というのはつねに関係しあって運動をつづけていくという弁証法を説いた。ところが、哲学史などを読むと、まずキェルケゴールなどがこれに反撥したことになっている。「世界のことより、自分自身のことだ」、と、彼は主張したワケだ。これが実存主義という哲学思想の初まりになっている。しかし、キェルケゴールは世界をないがしろにしたワケではナイ。無視したワケではナイ。ちゃんと「絶望の絶望」というコトバで世界と自己の関係を述べている。これはニーチェのいう「虚無」と紙一重でよく似ている。違うのは、キェルケゴールが有神論者(キリスト者)だったのに対してニーチェは高らかに「神は死んだ」と宣言したことだ。(つまり、ニーチェは無神論者ではナイ)。キェルケゴールのいう「絶望」というのは、この世界に対する絶望をいっている。自己に対する絶望をいっているのではナイ。簡単にいえば事なかれで、刹那的、享楽的に生きるというのは、神に対する絶望を意味するワケで、そういう者こそがほんとうの絶望的な人間だというのだ。従ってそういう絶望の絶望を知ってこそ、個人のほんとうの生き方が始まるということだ。だから、キェルケゴールは世界と自己は神によってつながっているというカタチで世界を認知している。これがハイデガーになると、次第に世界(ここでは歴史ということになる)と自己(ハイデガーのいう現存在)は、自己が意識したときにだけ、現れるというふうになる。つまり、歴史に対する関与、干渉というものが、自己から歴史へ向かったときと、歴史が自己に向かったときにのみ、生じてくるということになる。現象学のフッサールにおいては、歴史という客観は消される。存在はするのだが、それはある妥当な産物としてということだ。つまりそれぞれの固有の歴史の集合が全体の歴史だというふうにとってもイイようだ。だが、ここで、やっかいものが登場するサルトルだ。彼も実存主義哲学を論じて登場したのだが、自ら「実存主義という主義はナイ。単に人間が本質ではなく実存的存在であるというに過ぎない」と提起して、自らはマルクス主義者となり、この現代世界の歴史は、個人の関与によって変えられると主張した。それがあの有名なアンガージュマン(積極的に未来を変えよう)だ。つまり「革命」だ。しかし、それに反論した文学者がいる。アルベール・カミュだ。彼は哲学者ではナイが、サルトルのいう共産主義社会への歴史転換については反撥した。ここで、カミュ-サルトル論争というものが生じた。カミュは、革命の暴力性を非人道的だと認めない。それに対してサルトルは資本主義の搾取こそ暴力だと主張して譲らない。打率2割5分くらいでサクサクというと、こういうことになる。ここで問題を絞れば、「歴史」と「個人」とは、どんなふうに関わりを持っている(持てる)のだろうか、ということだ。つまり「内部からひとりでに」というのが通用するのかどうかということだ。

2012年3月 4日 (日)

如是想解・42

41 探偵は思考する(40のつづき)
このあたりまでは、『心的現象論(吉本隆明)』の受け売りというより、勝手な読み方からの私独自の展開だ。(先述したように『心的現象論』は精神医学のことが記された著作ではナイ)。①が「脳や身体に原因のあるうつ状態でないか」とうつ病診療(診断法)をまずそう考えるとき、この疑問(問いかけ)はアタリマエに過ぎて、殆ど何もいっていないのとどうようだ。何故なら感染症でナイ限り、およそ疾病は脳や身体の変調だからだ。ただ、身体因性とあるように、身体に注視した部分は、うつ病が精神疾患だと思われているのに対する異論(そして疑問)と受け取ってもイイ。しかし「脳」と「身体」とでは、進化の過程における「時間」がかなり異なる。つまり「脳」は進化の過程が新しい、短いのだ。進化論は現在は進化学として、百花繚乱、さまざまな論説と解釈の学派がある。そのまとまりがナイために「創造説」に対抗出来ない。進化学は科学だから、「創造説」を提唱する宗教とまともに論争してもしょうがナイ。科学はワカラナイことはワカラナイといわねばならないからだ。脳の進化に話をもどせば、脳が進化し始めたのは、人類が直立二足歩行を始めてからだというのが、だいたいの学派のトータルな見解だ。今西錦司の学説では、脳の進化の開始を「大脳化」と称する。順を追っていくと、ヒトが二本足で立つようになった。何故立ったのかは今西説では「立つべくして立った」ことになっている。(つまり立つ時期が到来したからだというのだが、これはオモシロイ発想だが、科学としては諸手を挙げて受け止められるものではナイ)。立って両手を使うことが自由になった。で、その手に道具を持つようになった。ここで、ヒトは手を用いて自発的に火を使う(火を創る)ことを覚えた。それまで生で食していたものを火によって調理(焼いたり煮たり)して食べるようになった。すると、硬いものが柔らかく食べられるようになった。その結果次第に歯が退化していく。歯の退化にともなう口腔の(大きさの)変化から、脳が大きくなった。と、これが大筋だ。つまり脳の進化というのは生物進化に比してかなり僅かな時間なのだ。そうすると、ここで、一旦、脳は引っ込んでもらってもよさそうに考える(とりあえず括弧にくくろう)。問題は身体だ。この進化の過程は古く、長い。「ヒトは(生命体)は何故、進化してきたのだろう」という問題についての答は前述したとおり五万とある(それだけの諸学派、学説がある)。ただ、「ヒト(生命体)は何故、進化[出来た]のだろう」ということについては、ヒトが「散逸構造」そのものだから、という説は、現在最も有力視されている。宇宙というものを平衡状態だとすると、その「ゆらぎ」として地球に非平衡状態が出現したとするものだ。「ゆらぎ」は現在のヒトの生命体としての在り方と同じだ。食物を取り入れて排泄し、成長する。あるエネルギーがエネルギーを増幅していく。
マタニテイ・ブルーにおいて出産は、用語解説でも述べたように「表出」に該る。出産は「表現」ではナイ。しかし、ヒトが他の生命体とおなじように自然(環境世界)的におこなう営みだ。で、あるのに、なぜ「ブルー」があり、うつ病発症の因となるのだろうか。一つしか答は考えられナイ。「ヒトという自然は、環境世界の自然とは違う」ということにつきる。つまり出産という「表出」は、元来、類的な営為として自然でありながら、環境世界としての自然とは異なるという、二律背反に置かれている。ここには、ヒトの進化の過程において、出産という「表出」が、自然自体に対して、ある異和として存在しているのではないかという、問題が提起される。この二律背反を母体は受け止めて、成し遂げねばならない。心的な異和を伴う精神的影響下(うつ病の発症近く)に置かれるのは、ごく当然のことと思われる。

ゆらぎとは「~」である

私たちは、数学や物理学の数式を前にして必ずたじろぐ。しかし、数学の先生や物理学の教授も、インカ帝国の古代文字の前ではたじろぐのだ。「線型力学」や「非線型力学」といわれると、またたじろぐ。しかし、前者を数式の中に用いられる記号で記すと、「線型は -」であり、「非線型は ~」だ。もちろん、ほんとうの数学や物理学ではそんな記号は使わない。ただ、私自身が解りやすく示すとすれば、イメージとして描くとすれば、そうなるといっているだけだ。上記の図を観ると「線型」は「-」だから真っ直ぐ。非線型は「~」だから曲がっている。線型はリニアといういわれ方をしているから、JR新幹線の未来の電車がリニア・モーターカーと称されるのは、殆ど直線を突っ走るからだなとワカル。そこで、平衡系宇宙を「-」(つまり波風立たない水面のようなもの)とすると、非平衡系宇宙は「~」になる。これが「ゆらぎ」というものだ。なるほど一目瞭然、ゆらいでいるでしょ。ところで、量子というものは「波動」だ。「-」は波動ではナイ。だが「~」は波だ。波動ということだ。この波動をエネルギーというふうに理解しておく(まさにそのとおりなんですが)。量子というのはエネルギーの最小単位だが、それは波動だということだ。そうすると「~」という「ゆらぎ」はエネルギーだということになる。量子はもともと、何かを創るために存在するものではナイ。存在の理由はなく、単なるエネルギーだ。イリア・プリゴジンの考えた宇宙の『散逸構造』を図にすると、以下のようになる。

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「-」の中に時折「~」が姿を現す。つまり、微少であるが、ある確率で、局所的には「ゆらぎ」の場があるということになる。何故、ここで、こんなことをいいだしたのかというと、もちろん、今後の『続・恋愛的演劇論』等に、この概念(概念というのが難しかったらというか、なんだかもう威張ったような雰囲気の漢字だからと思ったら、単にイメージでイイ)、を持ち込もうとしているからに他ならない。

2012年3月 3日 (土)

如是想解・41

40 探偵は推理する(39のつづき)
①身体因性の場合、とある考えが浮かぶ。私たち(の中)には、雨の日の雨音を聞いていると眠くなる者がある。雨の日は眠い、私もそうだ。つまり、ある鎮静。それに反して、風の吹く音には神経が覚醒する感じがする。「雨がしとしと」「風がビュービュー(ビュンビュン)」では、身体がそれを受け取る受け取り方が違うのではないか。どちらも聴感覚だ。驟雨、夕立、は心地好いものだ。しかし、これが梅雨の雨となると「じとじと」という焦燥の感覚がやって来る。これらは、環境世界から身体が受け取るものにココロが作用(反応)しているとみてイイ。もうひとつ、寒い日に家に帰って厚い風呂に入る。逆に熱い夏の日に冷たいシャワーを浴びる。どちらも身体がその心地好さを感じている。身体はココロと密接につながっている証左だ。この身体とココロの結びつきは、その現象は、「身体のナニがココロのナニ」なのだろうか。ここから私たちは、私たちが環境世界とは違う生命体でありながら、環境世界と似たような部分を持っていると、推理していいのではなかろうか。前述した心地好さは、萎れかけた花に水をやって、花が持ち直すのと類似している。ところで、これから花粉症の季節(年中そうらしいけど)が始まる。私たちも一個の自然としての生物、生命体であるならば、同じ環境世界の花粉というものに、何故アレルギーという反応を起こすのだろうか。しかも、これは万人にではナイ。私はアレルギー反応の試験をして、すべてのアレルギーは「-(マイナス)」だった。のに関わらず、ストレスを感じる状態に置かれると、咳が出る。医者はいう「これは非アレルギー喘息ですね」このいい方は血圧の高い者がその原因を持たないとき「本態性高血圧だ」といわれるのと同じだ。私もそのホンタイセイコウケツアツなのだが、血圧など、あっという間に変動する。私の場合、ストレス性の微熱もあり、これも、37,6℃が、一時間もたたぬうちに36,5℃まで下がる。こういう身体とココロの相関する精神的、肉体的な現象を「心的現象」として、「知覚精神現象」と分けてみる。そうすると①のいわんとしていることは、どうも「知覚精神現象」とは異なるのではナイかと思われる。
ここで、マタニティ・ブルーを再考してみる。昨年の東日本大震災の際、私が最もインパクトを感じたのは、原発と水だ。これは原発事故と津波のことを直截にいっているのではナイ。原発の事故で、その災害をくいとめるために何が行われたか。セシウムがどう、ベクレルがどう、と、専門家がいろいろとマスコミでああだこうだと語っていることに、私は殆ど興味がなかった。私は、原発の事故に対して「水」がただ、延々とぶっかけられたということに、奇妙な感慨をおぼえた。要するに「水」なのだ。ただ、水をぶっかけているだけなのだ。原子力という最先端科学に対して、それに対抗する手段としてやっていることは水をぶっかけ続けていることだけなのだ。水がなければ、どうにもならないという事実に、私はちょっと驚嘆した。一方では津波という水の力で大災害となり、一方では大災害をくいとめるのに水の力が必要になっている。これはアナロジーではナイ。メタファーでもナイ。水、みず、ミズ、・・・かくして私の妄想は、母体の羊水の中に浮かぶ。胎児は出産という過程では、水の中から水の外に出されることになる。まるで魚類が両棲類として陸に上がったように。これを母体である母親(女性)はやってのける。進化の過程を胎内で創造し、そうして、最も苦しかっただろうエラ呼吸から肺呼吸への大転換を出産で成し遂げる。マタニティ・ブルーは、ここに要因をみてもよいのではないか。これは、極めて大きな「心的現象」といえるのではナイか。

2012年3月 2日 (金)

如是想解・40

39 鬱病を探偵する(38のつづき)
前項①②③を現場検証しながら、探偵の捜査のように推理を組み立てていくことにスルが、確証に至ることが出来るかどうかは、いまのところワカラナイ。ただ、私たちは、このあたりがどうも気になる引っ掛かる、という部分を抜き出していくことになる。まず、①の身体因性うつ病では「身体」の関与が取り上げられているところだ。脳や身体は気質ではなく「器質」として扱われている。これはおそらく心理的、精神的な面を強調するのではなく、身体的な「器」としての身体性に注目している。つまり私たちは頭痛のする場合、脳が痛いとはいわない。単に「頭が痛い」という。この場合の「頭」が「器」に該る。それは頭蓋骨をいうのではナイことは自明で、頭痛は頭蓋骨の痛さを表明することではナイ。ところが「胃が痛い」という場合、これは胃袋、胃壁、胃の中の痛みをいうことになり、「腹が痛い」は、大腸、小腸の内部か外部を指している。もうひとつ、これとは違う痛みがある。「胸が痛い」は、実際に肺が痛い場合もあるだろうが(拳銃で胸を撃たれたら、そうなる)、「出来の悪い息子、娘のことを考えると胸が痛い」と親はいう。どうように「税金のことを考えると頭が痛い」といい、実際にそれが、胃痛となったり、頭痛となったりする。誰しも恋をすれば、恋人の一挙一動に胸を痛め、胸を熱くし、胸を焦がし、胸を膨らませ、実質的に胃痛を起こしたり(神経性胃炎というが)、恋人のことを思うと食事も喉を通らないということで食欲減衰を招いたりする。私などはたいてい神経性腸炎になって下痢をする。(私の場合、大勢の子供の中に入れられると、やはり神経性腸炎で下痢をする。これはどうも、あの子供特有の臭いがダメらしい)。男性の場合はどうだかワカラナイが、女性の場合はどういうことでか恋をされると(たぶん性ホルモンの関与なんだろうけど)男性からみると、美しくなられる。薬物の場合も、それが直截の原因ではなく、その薬が身体に与える作用(副作用)というカタチで影響を与えているようだ。ここで、ひとついえることは、うつ病というものが、身体的な失調として現れてくることが多いということだ。私の場合も、最初は、目眩、吐き気、だるさ、嫌な疲労感、微熱まで出た。現在も私自身、鬱病が悪化すると身体症状となり、関節痛から全身の震えへと進んでのたうつ、悶えることになる。そんなときは「こりゃあ、死にたくなるわなあ」と思いつつ、自殺者に同情する。私たちは、ここで、一つ、うつ病というものが、身体(肉体)と何らかの関係(あるいは了解)を切り結んでいるということを記録(file)しておいてイイ。ただし、この身体性現象とマタニティ・ブルーとは、同列に置くべきではナイとも考える。女性が子供を産むということは、男性が思うほどに単純なことではナイと思われるからだ。お産というのは、十月十日の命を環境世界に送り出すという、類的な一種の「表出」に該る。このことについては、もう一考察入れねばならないだろう。(つづく)

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