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カテゴリー「アニメ・コミック」の記事

2024年2月 3日 (土)

nostalgic narrative 8

意味なく太い巻き寿司をそのまま食べる節分の行事「恵方巻き」は私の地方で私の幼少のころはなかった。おそらく全国何処にもなかった。いや、あったのだが、なかった。これは旦那衆のお座敷の芸者遊びだったからだ。それに目をつけたコンビニチェーンがまるで古事の因習でもあるかのように尤もらしいキャッチフレーズを並べ立て、売り出したらアタッタ。それだけのことだ。あの太い海苔巻きがナニを意味しているのか、デフォルメしているか、なんのメタファーかは、推して知るより芸者衆が頬張るところをイメージすれば、その通りなのだ。
松本人志事変もおそらく同様のことだ。だから、芸人松本自身はかの行為をまさか性加害だなどと捉えてはいない。集めた芸者ならぬ素人もしくは新人女性芸人に花代が幾ら支払われたか、それは「裏金」というもので、派閥とやらの政治家連中も、陳情陳述者相手に似たような接待はしてきたろう。多寡はチガウだろうけど。そんなものを会計士が帳簿につけられるワケがナイ。ところが、12年経って、頃合いを見計らったかのようにタチの悪いのが、「あのな、銭になるハナシがあるねん」と、おなご衆に耳打ちする。節分だって年に一回、芸人松本の旦那遊びは年に一回ではおさまらない。本人はただの遊び。口説き、崩し。それがご時世では「性加害」となる。エピステーメはフラットに積まれてきたのではなく面積も不明のままずれて重ねられてきただけ、というワケだ。政治も銭なら、遊びも銭。素人の倫理や論理は入る余地はナイ。
いま、紙で契約を交わしている芸能は文学だけらしい。私は私の物書き生活のことしかいえないが、此度の戯曲、小説の出版は初刷り何部、印税~%、判子、印鑑。たいていの出版社と交わした。交わさず勝手、無断で出版して、もちろん印税も稿料も支払いナシという無礼というより犯罪ヤってる出版社もあって、私なんざひとがいいもんだから、そこの出版社をわざわざ訪ねて、これも紙にせずに厳重注意だけはした。なのに、まだ、そこはアマゾンで販売を続けている。小学館から映画化に合わせて再文庫化され、そのさいに編集者が犯罪出版のホンを読んだところ、半ばまでに八十数ヶ所の誤字脱字をみつけて驚いたというハナシは聞いた。そういう編集者がいるかとおもえば、テレビ・ドラマ化しますということで、「へい、へい」と許諾するヤカラもいるのだ。テレビ・ドラマ屋(日テレのたぶん下請け)にしてみれば、「これはうまいことヤったら企画書通るぞ。制作費もかなり安く出来るぞ」だけの判断で、原作者の許諾など、ハナっからかんがえに入れてはいない。ここもまた、エピステーメは平板に斜に重ねられただけで、お花畑育ちの原作者は、それでも自身の表現者の良心に突き上げられて「文句」はいう。せめて9話と10話は私に書かせてくださいませんか。いった、書いた、とそれをSNSに挙げたら、炎上とやらになった。そんなつもりじゃなかったのに。テレビ・ドラマ屋にしてみれば、そんな脚本などどうでもイイ。コミック原作のテレビ・ドラマや映画など、いくらでも脚色、潤色、演出でメタクタ出来るからナ。哀れお花畑原作者、瞬時にココロを病んだ。だけ、ならまだよかったが、命を絶った。
私の場合、そんなことで命を絶つなどということはナイ。こんなものは恵方巻きだとハナから勘定しているからだ。だったら美味く食える恵方巻きを創るまで。プロデューサーの意向、というのもあるが、それは銭を出すものの判断だ。本場アカデミー賞の「作品賞」というのはプロデューサー賞のことだ。ホンの書き直しのかなりの多くはエピステーメの重なり方のハメチガイによる。ヒロインがゴネる。ヤメル、交替、当然脚本は書き直し。他の役者(俳優)でも一緒。「はいワカリマシタ」以外、私はプロデューサーのmissionに逆らったことはナイ。役の入れ換えがある。脚本の書き直し。役者(俳優)の上下関係、経験序列によってのせりふの多寡を整える、初中(しょっちゅう)、常識的なこととして行われる。120分見当で書いたものが、20分cutになる。ただし、こういったことは当方も承知の上、戯曲が台本になっていく過程として捉えているに過ぎない。ともかくもプロデューサー、嘘つかない。脚本料は舞台初日に支払われる。こういうところにスジは通っている。
かつてテレビ・ドラマは表現媒体ではなく宣伝媒体だった。ドラマだけではナイ。歌謡番組もそうだ。大きなところではエネーチケーの紅白などは、歌手にとってはそのアトの営業料金の算盤となる。あんなもの名誉だとおもって出る歌手がいるのか(それが、いるらしい。阿呆だな)。
ジャニーズが潰れて、自民党がトウ壊して、次は吉本だなと笑っていたら、とんだところで悲報が横入りした。結婚して梅毒うつされて、自殺した女性詩人のことが、ふと脳裏をかすめた。「お魚さんがかわいそう」などといっている世界じゃナイのだ、芸能界は。事もあろうに米国の選挙で、アメリカ民主主義というものが〈共同幻想〉だったということが、老人二人によって暴露されんとしている。ジェンダーがどうこうだといっている間隙を縫うかのように、ひとりの戦士(レンジャー)が時世の読み違いでアッケに亡くなった。「恵方巻きなんか私は食べられないんですっ」じゃナイんだ。いまの外務大臣の100分の1、お花畑から蝶ではなく芋虫の葉を食うごとく「美しさ、ほほほほ、私、ヤクザもんは相手にはしないことにしておりますので、ほほほ」と、出さぬ声を聞かせる力があったなら。そのヤクザものは今頃「いいか、あいつだけは絶対に総理にさせるナ」と残した派閥で口角泡を飛ばしているにチガイナイ。桃太郎は、「きび団子なんてどんどんつくればイイんですよ」と松葉杖ふりまわしているのだろう。「善人なお、以て悪人といわんや」だな。

2023年6月25日 (日)

時世録・22

並行に脳は使われた。
最近、評判らしい「デカミス(警察やら弁護士やら記者がらみで若いヒロインがいての、ミステリ・コミックを読みつつ、具体的には『クジャクのダンス誰がみた?』ですが)、/最近、多いなあこういうコミック/。「海老オペラ」とはいうけれど、こういうのが「文化の廃れ」の前兆なんじゃないだろうなと、ちょいと心配になりつつ、しかし、『ダイマシン』といい『イリオス』といい、リチャード・ウーには完敗だなあとおもうのだ。物語のinspirationというか、situationのぶったまげさというか、要するに刑事ミステリ(小説)を漫画にしているその他大勢の時流屋連中に、アキレスの亀の如く平然と(あきらかに放り投げ作品も含めて)差をつけフラッグを立て続けているのは、そうしてそれがもう、山風さんを抜いているのは、驚くしかナイのだ。つまりコミックとしての虚構の〈世界〉を悠然と武器にして、逆にリアルな「デカミス」を書いているということだ。コミックは『ミステリとはいう勿れ』からなのか(これは少女が主人公ではないけれど、少女・女性が重要な登場人物として登場する)、あちこち、そういう「デカミス」の増殖、雨後の竹の子なのだが、なんだか、時代劇が衰退したときのように、みょうにリアリズム(時代劇でいうなら時代考証)を持ち込もうとして、そいで、つまりstoryにrealismを持たせようとしているのだが、考えても(考えなくても)みよ、『ドグマグ』『黒死館』『虚無供』のどこにリアリズムなどというゲスがある。演劇というものも戦後リアリズム演劇なんてのが云いだされて、romanticism文学は蹴散らされ、で、けっきょくそのリア(リズムの)王さまも、唐十さんの現代幼童歌舞伎に押し流され、不幸なことに、唐さんの疾病で、今度は伝統芸の歌舞伎のほうが取り沙汰となっている。しかしながらリアリズム演劇は、この厚顔無恥がとおもうほどに何食わぬ顔してのさばっているのだ。
と、まあ、並行の一つはそんなふうなこと。
もう一つは自殺念慮について。
ひょっとすると、これは老年性鬱病なのかも知れない。と推論してしまった。意味なく(意味はあるんだろうけど)この年齢(私、71歳)になると、半世紀に及ぶ演劇人生で犯した罪の数々、ペテンの数々が、自らの嘘として、自己許容出来ない性格、資質を持つものには、襲って来る刻なのかも知れない。以前は、あのときああしていれば、あの娘は助かった、扶けることがでけたのに、と悔やんでいたものが、ちょいと波がカタチをかえて、ああしなかったから、こうしたから、いま、あの娘はこんなに(どんなんかは詳しく知らんのだが)なったんだぞ、と、自責になっていて、それが自罪となり、自殺念慮への誘いとなっている。と、こうい理屈なのだが、そこで、もうそりゃああんた、罪は罪、罰は罰、世の中が罪と罰で出来ていなければ、神様も出番はなかろう。けだし、私は神でもこの世界の住人でもナイ。どっから来たのかワカランけれど、来たんだからもうすぐ還るから、それまでは、もう「成り行き」ということで、泣いておこう。
さて、水菜と油揚とキノコの煮出しでもつくろう。晩飯だ。

2016年8月31日 (水)

途端調風雅⑥

 発想トンビ

かつて大映のSF映画で、『透明人間と蝿男』(1957)というのがあって、これはタイトルほど荒唐無稽な内容でもなく、特撮も工夫されていて、いまでも充分鑑賞に耐える。んで、一気に本論に入ると、ヤクザと透明人間が闘うマンガ『アダムとイブ』(作・山本英夫、画・池上遼一)は、二巻で完結したが、発想の斬新さは驚くべきもので、物語の展開も見事だったのだが、量子力学を手品のタネにしたことで、殆どがおジャンになった。

山本英夫には『殺し屋1』という優れた作品があるし、池上とくれば大家なんだから読ませぬワケはナイのだが、五感の異常に鋭いヤクザたちを殺しまくる透明人間が何処から現れたかの謎解きに該るところで、応用物理学の博士号を18歳で取得、米国国防総省で量子コンピュータの研究をしていた、双子の姉妹を登場させ、まあ、天才リケジョということで、池上センセも、例の細胞問題でなんやかんやあった彼女を彷彿とさせる顔だちの女性を描いてらっしゃるのだが、ここで「量子の世界では、極端にいうと『月は見ているときだけ存在している』ということになるの」と発言させ、みていないときは「ゆらいでいる」と答えさせ、「分散して、透明な存在」で、「観測したときだけ粒として凝縮して存在を表すの」とさらに述べさせ、それは科学的実験でも立証されていて、アインシュタインも渋々認めていると、語らせる。これは、山本さんのマチガイというより、完全にデタラメなことだ。

まず「量子の世界では」というのは「量子力学においては」としなくては文脈が通らない。「極端にいうと」ではなく、この月についての発言は、実はアインシュタインがいいだしたことで、アインシュタインは「私はいま月を見ている。月はたしかにそこにある。しかし、私が月を見るのをやめれば、量子力学が正しければ、月がその位置にあるということはできない。こんな馬鹿なことを信じられるか」なんだけど、これは、波動関数によって求められる量子(たとえば電子)の状態が、確率によることについて、「神はサイコロをふらない」と噛みついたアインシュタインからすれば、物体がすべて量子で出来ているとすれば、とても納得出来る答ではナイ。

マンガ原作の山本さんはそれを踏襲しているのだが、参考資料に読んだ物理学の書籍が不味かったとしかいいようがナイ。マチガイというよりデタラメはいっぱいある。まず、月の問題と「ゆらぎ」とは何の関係もナイ。また「観測したときだけ凝縮」というのもデタラメで、量子の状態は、観測の影響をまったく受けない。観測と量子の動きとは何の関係もナイ。アインシュタインはべつに渋々認めたのではなく、ボーアとの熱烈な論争の末、これを受け入れたのだ。だいたい、科学者たるものが〈渋々〉学説を受諾するなどあり得ない。

月の問題について、ここにつらつら書いても、何だかワカラナイだろうから、結論だけ書いてしまえば、「月は、見ていなければ、そこにあるとはいえない」というのは、量子力学的に原理的な意味では、正しいのだが、現実の観測や日常経験では、ニュートン力学に入るため、まったく可能性はナイ。つまり、月も量子の固まりであることにはチガイナイのだが、その質量から考えて古典物理の法則に従うのは明白なのだ。透明人間が何処から来たかについては、マンガだから、納得するしかないが、『幻魔大戦』ほどぶっ飛んでいればともかく、現代ヤクザとの格闘というsequenceになると、少々首を傾けざるを得ない。その『幻魔大戦Rebirth』も、いいかげん、「並行宇宙」を「平行宇宙」と表記するのは恥だからヤメタほうがイイ。

 

2015年12月29日 (火)

私想的生活-08

シミュラークルというシロモノは、ほんとうは存在しない。それが元ネタのナイ模造品、贋物だからというのではナイ。『恋愛的演劇論』は〈現実と虚構〉についての論考だから、そっちを読んで頂ければ、すぐにその理由はワカル。だから、ここでは述べない。
シミュラークルを拡張してみると、擬似的なものにテンプレートてなのがある。/テンプレート(template)は、文書などのコンピュータデータを作成する上で雛形となるデータ/
/具象的なテンプレートは、それ自体文書であり、数箇所の修正または空白への書き込みで目的の文書となる。元の意味は建築物の梁受けで、そこから、鋳型のように働くさまざまなものを意味するように派生した/と、「ウィキペディア」にはあるが、要するに「型紙」あるいは「クリシェ(活字印刷の場合に頻繁に出てくる組型)から、定型的文章をこういう」。ルーチンワークなんかをするときには便利なシロモノだ。
落語などの語り芸において、その主要な(あるいは頻繁な脇役)登場人物(たとえば、ご隠居とか、クマとか与太郎とか、キーコとか、大店の旦那とか、宿屋の女中・・・et cetera)をいちいち創りだしていたら、おそろしく面倒になる。こういうとき、テンプレートを何枚かファイルしていると、それを取り出して、ちょっと書き込みするだけでイイ。多くの落語家は、この方法でやってる。
情報や知識、教養にしても、テンプレートを脳の中にファイルしておけば、そこからサンプリングして組み合わせていけば、戯曲の一曲くらい書けなくもナイ。昨今のコミックスなんかは、ほんとうにテンプレートへの書き込みだけ、てのばかりだ。たいていの大元は、山田風太郎さんの創作の中に存在している。つまり亜流でしかナイ。(時折、それとは逸脱して『女子攻兵』みたいな〈キチガイよろし〉の作品もあるが)。帯などに「アニメ化決定」とある場合、それはまったく逆で、最初からアニメ化出来るかどうかを吟味した上で、出来そうなのを雑誌で先行掲載しているだけだ。非情なことに、コミック雑誌は売れない。単行本が赤字にならず、アニメに出来ると、やっとマンガ家の懐も潤う。最近のマンガ家がペンなど使わず、パソコンで描くのは、そのほうがのちのちアニメにしやすいからだ。しかしながら、「実写決定」となると、要するに昨今のproducerはマンガしか読んでいないという証明にしか過ぎない。かつての文学映画は観るに堪えた。小津映画など、リアルタイムの当初では「芸術映画」だなどと思って鑑賞した庶民は誰もいない。あれはあれで、娯楽映画の一分野(小津落語てふうにいわれた)だったのだ。
ハリウッドですら、絶対ヒットの映画しかやんなくなった。『スターウォーズ・フォースの覚醒剤』(一字余分)などはそのいい例だ。映画興行は、洋画が多いという感触、雰囲気はあるが、ほんとうはその三倍程度は邦画が封切られているのだ。すぐ終わるけど。DVDに「劇場公開」と書き込むためだけの興行だから。(さて、もう一回くらいやるか)

2010年9月 3日 (金)

ルバイヤート

太宰治の著作権がきれたので、ちょうど、宮沢賢治のときのように、関をきって、雪崩のように、出るわ出るわ、コミックから映画まで。やっぱピカレスクなのかなあ。かつて、とある有名劇作家の愛人やってた女優がいったね。「私は悪人のほうが好き。だって、悪人のほうが断然、魅力があるもの」んで、その後、結婚されたのは善人だったのか悪人だったのか、おらは知らない。・・・しかし、古屋兎丸の『人間失格』には、脱帽です。このひとのコミック、以前、何か読んで、そのときも驚いたんだけど、さすが新潮社(太宰の最たる版元)、たぶん、脚色がみごとだから、編集者もいいのだと思われる。2巻までだが、『ルバイヤート』を持ち出したのにまた仰天。太宰を読んだのは40年前だから、記憶がさだかでないので、原作に出てきたかどうか。太宰は、「相対化」もしくは「対象化」するのに時間もかかる。そう出来なくて終わるひともいる。ともかくも、短編は、海外文学ですら、追随をゆるさない。ところで『ルバイヤート』、古屋さんのには、「ままよ、どうあろうと」の(84)が使われていて、

恋する者と酒のみは地獄に行くと言う、

根も葉もない戯言にしかすぎぬ。

恋する者や酒のみが地獄に落ちたら、

天国は人影もなくさびれよう!

である。ちなみに、「解き得ぬ謎」から、かましてくれるぞ。(2)と(3)をみてみよう。

(2)

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、

生きてなやみのほか得るところ何があったか?

今は、何のために来たり住みそして去るのやら

わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

(3)

自分が来て宇宙になんの変化があったか?

また行けばとて格別変化があったか?

いったい何のためにこうして来たり去るのか、

この耳に説きあかしてくれた人があったか?

しかし、古屋兎丸さんの『人間失格』は、ちょっと女性がステロタイプ過ぎます。そのあたりだけは不満。脚色は、いいのよ。