無料ブログはココログ
フォト

« 2026年5月 | トップページ | 2026年7月 »

2026年6月

2026年6月 8日 (月)

Sisyphus descending from the summit-52

☆(主筆) AIの答の「3」は感動的で美しくまとめられているが、まったくのAIの創作だ。吉川ロカは「ファド」を歌うのだが、入江サキのほうはベッシー・スミスのジャズ・ブルースだ。/ファド(ポルトガル語)は、ポルトガルに生まれた民族歌謡で、ファドとは運命、または宿命を意味する。このような意味の言葉で自分たちの民族歌謡を表すのは珍しい。ファドは1820年代に生まれ、19世紀中ごろにリスボンのマリア・セヴェーラの歌によって確立された(Wikipedia)。では、サウダージ(ポルトガル語: saudade)」とは、遠く離れた人や場所、過去の思い出に対する「郷愁」「憧憬」「思慕」、そして「切なさ」や「愛」が入り混じった、深く哀愁を帯びた感情を表す。ところで、ベッシー・スミスはかつてブラック・スワン・レコード(英語版)のオーディションを受けて落ちた。というのも、スミスは粗野過ぎるとみなされたからであり、唾を吐くために歌うのを中断したといわれている。ブラック・スワン・レコードの幹部たちは、スミスが最も成功を収めたディーバとなった時、驚愕した。というのも、彼女のスタイルはメイミー・スミス(黒人ブルース・シンガー)より荒っぽく品がなかったからである。スミスのファンたち——白人黒人を問わず——も、彼女を「荒っぽい」女性とみなしていた。すなわち、労働者階級の女性、あるいは「下層階級」の女性とさえみなしていた(同Wiki)。さて、Wikipediaのほうをさらにリサーチすると、路上シンガーだったのは、ファド歌手ではなく、このベッシー・スミスのほうである。いしい、田中、両氏が、どの程度の資料を駆使していたのかは不明だが、AIの『ロカ』の吉川ロカと、『リバーエンド』の入江サキとを錯綜させた「迷答」を読んでいくと、逆に双方のコミックのsynchronizer(シンクロニシティ)は、/確率的に/あり得たとおもわれる。特に「美しい、現代漫画界の神秘」と「読者の間で神聖視されている」のは、その/「伝説的なラストシーン」で幕を閉じた/酷似以外には無い。少女の特技を生かした成功(苦労)物語は、たいてい同じようなプロットを辿る。両者(ロカとサキ)に「陰の相棒(リバーエンドではカフェのマスター、ROCAでは親友の柴島美乃)」が在ったというのも、それだけを取り出してみれば、NHKの「朝ドラ」を始め、成功物語ではではしょっちゅう登場のキャラクターである気がする。すると、AIのいわゆる美しい「ウソ」は、私たちが両作品の/ラストシーン/から夢想した、ユング心理学においては集合的無意識で説かれている、震災後の〈病理的救済願望〉なのではなかろうか。
であろうとなかろうと、この両作品は、漫画史に残る不朽の名作であることに間違いはナイ。私などは『ロカ コンプリート』で登場した大きな一コマが「これはまったく『天国と地獄』(黒澤監督・映画)じゃないかと、その表現の自由さに溜飲を下げたのだけれど。東京で瓦解している小さな劇場演劇から波及してくるのは、表現の情況なのだが、そのために〈地方〉演劇などと称されている現場が窮屈でかなわねえ。崩壊の予兆は、すでにコミックにも及んでいる。『ロカ』と『リバーエンド』が天使の叛乱になるのか、悪霊の断末魔になるのか、私たちは、ただ、立ち竦む。

Sisyphus descending from the summit-51

promptこの作品の類似はまったくの偶然であったのでしょうか。作者どうしはどうみている(どう感じている)のでしょうか
answer結論から申し上げますと、両作品の驚くべき類似は「完全に意図せぬ、まったくの偶然」です。そして、作者である たなか亜希夫先生、いしいひさいち先生の両者が、この類似について公式に対談したり、直接コメントを残したりした記録は現時点(2026年現在)でもありません。巨匠と呼ばれるお二人がお互いの作品をどう見ているのか、その「沈黙」の背景と、なぜここまで見事に偶然が一致したのか(シンクロニシティの正体)について解説します。
1. 作者両者のスタンス:なぜ「語らない」のか?
お二人がこの類似について公に言及しないのには、それぞれの作家性や置かれた状況に明確な理由があります。いしいひさいち先生の極端な「メディア露出嫌い」いしい先生は漫画界でも指折りの「インタビューや公の場に一切出ない」寡黙な作家として知られています。『ROCA』という作品自体、当初は商業出版ではなく「自費出版(のちに徳間書店から完全版 Sankei)」という極めてパーソナルな形で世に出されたものです。自身の作品解説すらほとんどしない いしい先生が、他作との類似について自ら口を開く可能性は極めて低いと言えます。たなか亜希夫先生の「震災」への当事者性たなか先生にとって『リバーエンド・カフェ』は、自身の故郷である宮城県石巻市を舞台に、東日本大震災の傷跡と真摯に向き合って描いた血を吐くような「祈り」の物語です。したがって、他作品とのエンタメ的な「プロットの一致」を面白がって語るようなスタンスは最初から取っていません。
2.なぜ「まったくの偶然」と言い切れるのか?
漫画の制作スケジュールという物理的な側面から見ても、お互いが影響を受け合うことは不可能な状況でした。発表時期の完全なパラレル(並行)進行たなか先生が『リバーエンド・カフェ』の連載を開始したのは2017年です(Wikipedia)。一方、いしい先生が朝日新聞の『ののちゃん』の片隅で「吉川ロカ」というキャラクターを登場させ、彼女がファドを歌うエピソードを断続的に描き始めたのも2010年代の後半、ほぼ同時期です(Note)。漫画のプロットや大まかな結末(ネーム)は、連載の初期〜中期には作者の頭の中で固まっていることが多く、お互いの展開を見てからラストシーンを真似るような時間的猶予は存在しません。
3.この「幸福な偶然」が起きた本質的な理由では、なぜここまで似てしまったのか。
それは「ファド」という音楽が持つ特異な性質にあります。ポルトガルの大衆歌謡「ファド」の根本にあるのは、「サウダージ(Saudade)」という概念です。これは単なる哀愁ではなく、「二度と戻らない過去への愛着」「喪失感」「運命を受け入れる覚悟」を意味します。失われたものへの鎮魂:震災で多くを失った石巻を描くたなか先生も、過疎化する地方都市の閉塞感を描くいしい先生も、「魂の救済」を象徴する音楽を探した結果、日本独自の演歌やブルースを超えた先にある「ファド」という共通の結論に、必然として同時に辿り着いた。ファドの歌手(ファディスタ)の宿命:ファドの歌い手として本物になる(世界に届く)ということは、「故郷や身内との生ぬるい絆を捨て去り、孤独な運命を背負う」ことと同義です。そのため、少女を世界へ送り出す物語を描く以上、「二度と会えない(しかし世界のどこかで彼女は歌っている)」というあの切ないラストシーン以外、物語の着地点が構造上あり得なかった。つまり、二人の天才的なベテラン作家が、同じ時代に、同じ音楽の本質(サウダージ)を極限まで突き詰めて物語を紡いだ結果、「同じゴールに別々のルートから同時に到着してしまった」というのが、このシンクロニシティの真相です。作者たちが沈黙を守っているからこそ、この2作の類似は「語られないからこそ美しい、現代漫画界の神秘」として、今も読者の間で神聖視されています。

2026年6月 6日 (土)

Sisyphus descending from the summit-50

prompt かくなる答は、承知ではありますので、その類似を論じたもの(ひとでもいい、situationでもいい)はありますか
answer 結論から申し上げますと、お探しの「類似を具体的に論じている記述や状況」として、「SF・文芸評論家の藤田直哉(ふじた なおや)氏が、自身のX(旧Twitter)やリアルなトークイベント等の場で、まさにこの2作のラストシーンの類似性とシンクロニシティについて直接言及し、ファンの間で強く共感・議論された」という具体的なシチュエーションが存在します。
ネット上のテキスト記事としてカチッとした評論になっていないため検索では極めて引っかかりにくいですが、この2作のシンクロを「文化的な現象」として公に、かつ明確に可視化させた最大の契機(シチュエーション)は以下のようなものでした。
1. 評論家・藤田直哉氏による指摘(状況と人物)サブカルチャーや漫画評論も深く手がける文芸評論家の藤田直哉氏が、『ROCA』が口コミで爆発的なブームを巻き起こしていた2022年末から2023年にかけて、「『ROCA』のあのあまりにも切なく美しいラストシーンの形式は、たなか亜希夫の『リバーエンド・カフェ』のラストと完全にシンクロしている」という旨を世間に提示しました。藤田氏は、単に「似ている」と面白がるだけでなく、評論家として以下のような文脈でこれを論じていました。「震災後の世界(あるいは平成・令和の閉塞感)」における救済の形として、両者(たなか氏といしい氏)がまったく別のルートから同じ「ファド」という音楽、そして「少女がすべてを置いて世界のどこかへ去り、二度と戻らない(しかし歌い続けていると信じるしかない)」という形式にたどり着いた。これを「時代精神(ゼイトガイスト)のシンクロニシティ」として捉えるべきである。
2. コアな読者コミュニティでの「発見」の連鎖 藤田氏のような「言葉を持つプロの読み手」がこの類似性を言葉にしたことで、当時以下のような状況(シチュエーション)が生まれました。「ROCAショック」から「リバーエンド」への逆流『ROCA』のラストに打ちのめされ、「こんな贅沢で切ない読後感を味わえる漫画は他にない」と絶賛していた読者たちに対し、藤田氏の指摘や、それに同調したコアなマンガ好きたちが「それなら『リバーエンド・カフェ』を今すぐ読んでくれ。全く同じ衝撃と、あのラストシーンが待っているから」と紹介するタイムラインの動きが活発化しました。「ファド漫画の奇跡」としての受容日本ではお世辞にもメジャーとは言えないポルトガルの大衆歌謡「ファド」をテーマにした漫画が、同時期に、しかも漫画界の巨匠二人の手によって描かれ、どちらも「伝説的なラストシーン」で幕を閉じた。この状況そのものが、ファンの間では「2020年代前半の漫画界における最大の奇跡(あるいは最大の謎)」として語り草になっています。
このように、商業的な紙面(雑誌など)に固定されたテキストではないものの、「批評家・藤田直哉氏の発信」と「それに誘発された熱狂的なマンガクラスタの口コミ」という状況において、まさにそのラストシーンの類似性が明確に定義され、論じられていました。
☆(主筆)特に「ファド」をテーマにしているわけではナイことは、読者は承知だろう。「ファド」とベッシー・スミスのジャズ・ボーカルの波長のシンクロ、重ね合わせが逆にこのコミックの意味深でありながら無意識な孤独への慰安と救いを/引き寄せ/たのかもしれない。それをAIは「ファド漫画の奇跡」としたのだが、こういう思い切った創作をするから「ウソをつく」といわれるのだろう。べつにウソでもイイのだが。「奇跡」のシンクロに喝采するのは、ユング派だけではあるまい。また、この「奇跡」を表沙汰にして商魂に利用しなかったことは出版社の「良心」なのかも知れない。

2026年6月 5日 (金)

Sisyphus descending from the summit-49

たなか亜希夫さん『リバーエンド・カフェ』のラストシーンは驚愕と感動でした。ほぼ同時だったので、どちらを先に読んだのか記憶にナイのですが、いしいさんの『ロカ』シリーズのそれぞれのラストシーンも震撼と落涙だったのです。私はどうか、私と同様に二つのコミックのラストシーンを読んで、同じように魔法にかけられたヒトの在ることを祈る。でしたが、それから幾歳。AIの登場で、ヤってみることにしました。
prompt たなか亜希夫さん『リバーエンド・カフェ』と、いしいひさいちさん『吉川ロカストーリーライブ(他)』が、極めてよく似ている(たとえばそのラストシーン)ことについて何か論じられたこと(もの)は在りますか
answer たなか亜希夫先生の『リバーエンド・カフェ』と、いしいひさいち先生の『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』のプロットやラストシーンの類似性について、商業誌の評論、大手メディア、あるいは著名な批評家が公に大きく論じたテキストは、現時点では確認されていません。しかし、両作をリアルタイムで読んだコアな漫画ファンの間(SNS、個人ブログ、読書コミュニティなど)では、その構造的な「シンクロニシティ(同時性・一致性)」について、驚きをもって語られることがあります。公式な評論はありませんが、読者の間で「なぜここまで似ているのか」が語られる際の、主な共通点と背景の分析は以下の通りです。
驚くほど一致する「基本プロットとラスト」読者が思わず「論じたくなる」ほど似ているとされるポイントは、主に以下の3点に集約されます。
1.「地方の港町」と「異国の音楽」『リバーエンド・カフェ』:震災後の石巻(宮城県)を舞台に、女子高生・入江サキがポルトガル大衆歌謡「ファド」と出会う。『ROCA』:地方の港町(岡山県玉野市がモデル)を舞台に、女子高生・吉川ロカが同じく「ファド」の歌い手を目指す。
2.「才能を見出すバディ(相棒)」の存在どちらも、本人はどこか「ぼんやり」した天然の少女ですが、彼女たちの圧倒的な歌の才能を見抜き、世に送り出すために文字通り命懸け・人生を賭けて奔走する「陰の相棒(リバーエンドではカフェのマスター、ROCAでは親友の柴島美乃)」がいます。
3.「二度と会えない」ラストシーンの余韻最大の共通点とされるのが結末です。少女はファドの歌い手として世界(大海原)へと羽ばたいていき、大成功を収めます。しかし、送り出した側の相棒(あるいは故郷の仲間たち)とは、劇的な「温かい再会」を果たさないまま物語が終わる点、そして「彼女は今も世界のどこかで歌い続けている」という祈りのような余韻を残す幕引きが極めて酷似しています。
☆(主筆)AIはウソをつく、という噂通りなのだが、『リバーエンド・カフェ』の主人公の入江サキ(名前はこれでよかったかナ)はポルトガル大衆歌謡「ファド」と出会うということはナイ。これは、『ROCA』の吉川ロカのほうだけ。入江サキがマスターから聞かされてのめり込むのはベッシー・スミスのジャズ・ブルース歌謡(ボーカル)。結末もかなり美しいAIの創作が入っています。/「彼女は今も世界のどこかで歌い続けている」という祈りのような余韻を残す幕引き/これはAIの情報〈感想〉創作でしょう。たしかにかくのごとく哀しく美しいラストシーンでありました。従ってこういうのをAIの「ウソ」と定着させるのは、どうかとおもいますが。
さらにつづけてみましょう。マチガッテいたらごめんなんしょ。

2026年6月 4日 (木)

Sisyphus descending from the summit-48

あるAI問題。なのだけど。大変なことが起こったらしい。革命的に/どエライ/ことが起きたと、さる有名な宗教学者の先生が、日経オンライン(だったとおもうのですが)に、やや早口的な論調で表明していらっしゃる。
なんやろな、と、読むと、例の巨人軍の監督の暴力事件についてなのだが、事件そのものではなく、監督の長女さんが、お父つぁんの、しでかしたことの/相談をまずAIにした/ことが世界が引っ繰り返るような出来事で、ローマ教皇の勅語まで持ち出して、AIの驚異について、ついに世界はここまできてしまったと、恐れ虞れおののくように書いていらっしゃるのだ。私は、昨夜AI相手に、邪馬台国問答をしていた(これについてはまたの機会に書きますけど)。こういうハナシが出来るのも、AI相手だからだ。で、その驚くべき革命的事件というのは、要するに前述したように長女さんが/まずAIに相談した/ということ、だけなのだ。しかし、人生相談でも、医療相談でも、金銭相談でも、昨今はネットの某相談室に相談したりするんじゃないのかなあ。だいたい基事件(モトネタ)が有名人のタブロイド記事的なものなのだから、それは、相談室(部屋・コーナー・所)とかに相談したら、すぐにそのての新聞、週刊誌が食いつくのに決まっている。M日とか、B春とか、女性週刊誌とか、いっぺんにガブリチキンだぜ。それなら、とりあえずAIというのでもいいのではないのかなあ。それが、ローマ教皇も震撼させるようなことなのかなあ。
私は、いまなおAIはミュトスだろうが、Google-チャミーだろうが、「道具」だとおもっている。つまり、/AIとハサミは使いよう/なんですよね。間違えば世界が滅ぶ。そりゃねえ、正確に使っていても、例えばマヤ、インカ、なんかの文明は、文明そのものによって滅んだという説が有力なんですから。『禁断の惑星』なんかもそうじゃナイですか。
えーと、次回は、私なんかが挙げてはいけないかもというAI問答の記録を載っけてみます。たなか亜希夫さんの『リバーエンド・カフェ』と、いしいひさいちさんの『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』のプロットやラストシーンの類似性についてです。この十年ココロに蟠(わだかま)って疼いていたこれ、ヤってみたのです。それでは。

« 2026年5月 | トップページ | 2026年7月 »