Sisyphus descending from the summit-47
シーシュポス(シジフォス)が山頂まで持ち上げた岩が、また、転げ落ちる。その岩をシーシュポス(シジフォス)はまた、山頂まで自らの力で運び上げる。この永遠の刑罰。けれども、アルベール・カミュはこの刑罰の中に唯一の欠陥であり、救済にも似た時間を見出した。それはシーシュポス(シジフォス)だけが所有する時間である。カミュふうにいうならば、永遠に対する反抗の時間だ。シーシュポス(シジフォス)が麓に降りるまで、次の行為である刑罰の〈岩の押し上げ〉は、始まらない。だからなのか、シーシュポス(シジフォス)はゆっくりと麓へ向かう。その道々からは、遥かに広がる街の灯がみえる。この時間、その風景こそは、誰のものでも無い、シーシュポス(シジフォス)だけの時間である。
というふうなことを妄想しながら、私(主筆)は、此度、AIを引っ張り出して、幾つかの問答を試みた。まず、AIの精度??(よくいわれるところの/うそつき度/を確かめるために、仏教哲学と量力学についての問答をヤってみた。そうして、現在学習進行中のスピノザ学を用いての、世界の「大きな問題」についての問答。
結果、前者、後者とも、まあ、そうなのだろうな、という/ある程度の予想を裏切らない回答/をAIは示した。いや、私よりもっとあたまのイイ〈言語化〉を明示した。なるほど、これではAIに人格あるいは〈心的〉なものがあるのではないか、もしくは将来、生成するのではないかという学説も、まあ、頷けてしまいそうになる。
スピノザの『エチカ』については/自己=自意識の消滅と自己保存/このアンチ・デカルトな命題の発見は当時としては、いやいや現在においてもたいしたものだ。そうしてこれらは、もちろんのことだが、基盤である「神=自然」からくる方程式からの帰納と、演繹へと連なる。
「大きな問題」のほう。皮肉にも、イスラエルは、かつて残虐な殺戮にあったナチスと同じ道程を「預言者」に従って繰り返しているように目に映る。この「自然選択」が私の最も気がかりだった政治的な思想的帰結だったが、これは現状、世界情況の社会学的帰結でもあるようでもある。イラン×米国んんん、そんなものの何処に思想的な課題があるのだ。寄り合い所帯国家どうしのギクシャクを見せつけられているだけじゃナイか。アホラシイ。
スピノザの『神学・政治論』では、人々は自らの未来の選択に「預言者」のコトバを指針とする。(預言者とは、神のコトバを伝えるひとで、予言者とはまったくチガウ者である。マチガエナイでね)預言者はそのような指針を出した(預言した)ことについてまったく記憶していない。しかし、人々はその〈預言〉を信じる。何故なのか。預言者のコトバが正しいと信じているからだ。では、何故、その預言者のコトバは正しいといえるのか。正しいという確信があるからだ。どこまでいっても、このメビウスの輪は続く。確信の確信、この「信じ方」は、はるか昔に学んだ吉本学における〈関係の絶対性〉に辿り着く。これは、〈関係の絶対性〉は、現在でも通用するのだろうか。社会学にしても「共同幻想論」や『マス・イメージ論』がパイオニアだとはおもわないが、二つの論文はそれに近いものではなかったか。当時、その「論」にさまざまな評論家、学者が「オタウヨ」されていましたけど。私なんかも〈差異〉というコトバには翻弄されました。「犀」がイメージとして出てきたりしたのだから。
そこで私(主筆)は、此度、AIを問答の相手に選んだ。何故ならば、AIは人工知能といわれるが、もちっと現実的にいえば、人工確率選択機械だからだ。最も確率的に高いものを選択して言語化するmachineだから。さらに付け加えるならば、私は〈関係の絶対性〉を〈関係の絶対(の確率)性〉と、たぶん、ワカリヤスクいいなおしている(「絶対」などというのは存在しないという観点からです)。而、そうすると、/人々/は(あるいは民主制は)確率として、最も「アタリ」だとおもわれるものを/人々/によって選択していることになる。現在の民主主義とは簡単にいってしまえば、「宝籤主義」なワケだ。日本においては、ハズレの責任を誰がとるのかについて、誰もとらなくてイイことになっている。選挙の結果に、選挙民は責任を持たないことは憲法で保証されている。では、選挙という宝籤の正当性の保証は何処にあるのか。選挙にイカサマはナイのか。預言者においても、「偽預言者」というのが存在する。もちろん、スピノザは預言者(為政者)に対する人民の反抗の権限は認めているのだが。世界という情況に眼を向けてみれば、どうも預言者より、偽預言者のほうが人民を掌握しているのではないかという気がする。怪しく跋扈しているのは偽預言者ばかりじゃないか、のようにみえる。その証拠はいっぱいあるのだ。ところで、
ところで、スピノザに拠ればそういう擬制国家は自滅することになっている。ここで、ふと足もとをみて立ち止まる。国家の自滅はそのような上部構造のせいばかりではナイのではなかろうか。足もとをみる。下部構造をみる。靴下をみる。中共帝国製のものは、四足幾らのものを買ってもまともなのは、たいてい三足だけだ。「楽しい玉転がし/和製/玩具」という/和製/ではナイ中共所為のものは、玉が転がらない。木の細工が歪だからだ。なにしろ14億の民がいるのだから、故障した自国所為(製)新幹線をそのまま埋めてしまって、ナカッタことにしてしまうのだから。難しい上部主義の失敗など省みなくとも、何れ自滅するのではないか、とおもっている間に米国とG2とかになってますね(なんやねん)。なるほど、中共帝国が滅んだことが無いのは歴史をみても顕かで、首のすげ替えと庶民の総入れ換えがあっただけだ(中国四千年は遺っているワケだ)。シーシュポス(シジフォス)はかんがえる。歩を休めて、街の灯を観る。「待てよ、あの岩を頂上に持ってはいかないで、あの灯の街に目掛けて転がしたらどうろう」。シーシュポス(シジフォス)はかんがえる。スピノザに対するエピクロスのように。

