番外変(編とも書く)~演劇時点(事典とも記される)-2
吉本隆明老師の『言語にとって美とは何か』(勁草書房・晶文社・角川ソフィア文庫・他)には、/戯曲について/書かれた論考(一章)がたっぷりあって、私なんかは興味の上で、そこから読み始めた。(本書の白眉である〈自己表出〉〈指示表出〉についてはここでは書かない。この表出論は誤解も多いのだけど、いまさら私が解説するものでもナイ)。
/戯曲について/には、いろいろと記憶に残っているのだが、今回は「日記(文学)的」と「物語(文学)的」(というような感じで記されていた記憶)を基底に映画感想をひとつ。「日記(文学)的」と「物語(文学)的」は劇作家にとっては(もちろん私にとっては)戯作方法論の宝物みたいなものなのだけれど、〈自己表出〉〈指示表出〉もそうなんですけど、要するに状態ベクトルなんですよ。それともうひとつ、昨今はジャック・ラカンの無意識の言語化かな。どっちも「難解」「ワカラナイ」という感想批評が多いのですけど、現代詩なんてワカリマスかね。難解どころじゃナイでしょ。やっぱりアレだナ、〈心的相性〉てのがあるんじゃナイのかな。で、そいつ(そのあたりの状態ベクトル的「日記(文学)的」と「物語(文学)的」)を脚本の骨格に感じた映画を最近観た。最近といっても、私の場合は、ツタヤのレンタルDVDの新作がひとつ落ちて「準新作」になっての廉価貸し出しになってからしか観ないものだから、たいてい1年後れになるのだが(120本近くをストックしてあるもんだから、順繰りとか、最近評判とかでいくと、やっぱりそうなる)、それで別にハンディを感じたことはナイ。以前は、試写会で観ていたものだから、公開より数週間早く観ていたのだけどねえ。ゆっくりのんびり観るのもイイではないか。美味いものは宵に食えとはいうが、残り物には福があるともいうよ。で、今回観たのは~
『愛にイナヅマ』監督・石井裕也、脚本・石井裕也、出演者 松岡茉優、窪田正孝、池松壮亮、若葉竜也、仲野太賀、趣里、それと大御所の佐藤浩市。監督の石井裕也さんは『舟を編む』の監督で、あれはじっくり練り込んだ物語だったのだろうけど、今度のは、一気に書いた「日記(文学)的」と「物語(文学)的」が極めてうまく融合、織田作ふうにいうなら共鳴した140分なのではなかろうか。こっちは、腰痛(仙腸関節炎)のため、30分と座っていられないので、何度も台所に立って/おさんどん/しながらの観賞。ではあったけど、140分が苦にならない、なんだか映画の前編、後編の二本分を観たような感じでありました。映画の内容については、書かないよそんなの、だって、映画ダヨ。観るものだもの。脚本の一点突破、突撃の書き方は、時間的な制約だったではあろうけど、石井さんの石井さんたる生活者の日記心情と、表現者としての無意識の職人要素が、ときにマラソンをし、ときに短距離を疾走している太宰治さんと三島由紀夫さんの競走のような感覚で(どうい感覚かは、感覚的に感覚しないと、ワカランだろうが)ゴールに駆け込んだ二人がハグしているみたいな(別に蹴っ飛ばしあっているでもイイ)感動で演技者(役者)の好演もあって、おもわず、あるいは思った通り涙腺を刺激するのです。
私塾(想流私塾)で、戯曲は「日記(文学)的」と「物語(文学)的」の波の重ね合わせです、と論じたとき、「はあっっぁ」という顔の塾生が多かったけど、なにぶん、古典派量子力学(コペンハーゲン派が終焉するまで)が好きなもんですから。
現代、韓国映画は「物語(文学)的」はスゴイ勢いで邦画を抜いてダッシュしていますが、邦画も「日記(文学)的」ではまだまだ負けてはいないなあと、おもわせる映画でした

