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2025年7月 5日 (土)

Sisyphus descending from the summit-14

/通常いかなる命題(判断)も真か偽のいずれかであると考えられている。/~「命題」というコトバはかなり間違った使われ方をしています(至上命題とかネ)。ここに括弧書きされているように〈判断〉あたりでイイとおもいます (命題 めいだい〈英語: proposition〉は、論理学において判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつもの)~ですね。従ってその「文」「論理」「判断」が正しいかどうかは検証しなければなりません。リサーチ(調査)でもイイとおもいます。たとえば「正しい睡眠の仕方は」などの命題はあふれるほど誌上に登場します。みな仮説でしかありません。似たものに「正しい枕選びとは」とかね。同じレベルです。どちらもたいてい当てはまりません。こういうのは主語を必要とします。たとえばどんなに「いい女」でもあなたにとってはどないかな、です。相性ですね。「割れ鍋に綴じ蓋」です。これはかなり難しいのです。主語にもうひとつ条件が加わるからです。「あなたとのsexにとって」「あなたとの経済生活にとって」「仕事のpartnerとして」「あなたとの子供にとって」「あなたの老後の相手として」とまあ、クサルほど出てきやがるからです。もちろん若いとき(デキルとき、ヤレルとき)は迷うことなく「sex」をとったほうがイイでしょう。西欧の女性は日本人男性が性営為において「つまらない」とこぼすことが多いそうですが、日本人だって『古事記』の時代、弥生・縄文の頃はおおらかであったようですが。『古事記』なんざ読んでみると、女⇒観る⇒ヤル、だけですネ。でなきゃ、ヤマト民族は増えていません。
/カーゲーベー【KGB】ソ連邦の政治警察。 Komitet gosudarstvennoi bezopasnostiの略称で,国家保安委員会と訳す。/現在は呼称も名称も変わっていますが、現在のプーチン氏の側近はみなここの出身らしいですね。どうも専制国家は諜報国家に傾倒していくようです。まことしやかな言説(ディスクール)をバラマキます。プーチン氏を暗殺すると、核兵器(大陸弾道弾)の発射スイッチが入る、とか。プーチン氏の護衛は常に黒い鞄(ここにICBMのスイッチが入っている)を手にしているとか。そんなふうに装っていますけど。そうです、リアルな戦争に初めてそいつを使ったのはやはりプーチン氏です。対ウクライナです。ウソみたいですけど、ウクライナ侵攻が始まったときは、その戦術は効果があったようです。著名なエンタメ作家さんなんかは本気で日本を脱出したそうですけど。私なんかは「核戦争があるなら老後のことを心配しなくていいから楽なのに」とNHKで喋ったものですから、対談の相手方の評論家氏は冷や汗ダラダラでした。いやいや、リハーサルだとおもっていただけなんですけどネ。
/「連邦の衰退は明らかだった」プーチンは彼が国外で任務にあたっていた当時をそう振り返った。「そして機能不全という状況の下、終末期もしくは不治の病いにかかっていた。国家権力の機能不全だ」/~と、これがウクライナ侵略の動機になっているそうです。そういう意味ではプーチン氏も愛国者だったワケです。と同時にジュードーの有段者ですので、「返し技」を知っています。ここらへんも彼の対NATO戦略のひとつでしょう。
/「エピステーメー」(〈ギリシャ〉epistēmē) 知識。ドクサ(臆見(おっけん)。根拠のない主観的信念)に対して、学問的に得られる知識。フランスの哲学者フーコーの用語。各時代の基盤にある、知の総体的な枠組み。マルクス経済学もフーコーさんにいわせると、ある時代のエピステーメーということになります。前述のディスクール(言説)は、その時代に特有の言語活動です。このエピステーメーは積み立て重ねディスクなのですが、それを錐で垂直に貫くのが網野歴史観です。ジブリの宮崎駿さんなどは、網野善彦史観から『もののけ姫』を製作しました。網野史観は簡単にいえば、「中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし、天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究に影響を与えた。また、中世から近世にかけての歴史的な百姓身分に属した者たちが、決して農民だけではなく商業や手工業などの多様な生業の従事者であったと主張」になるのですが、オモシロイのは、「アジール」です。「アジール(Asyl)とは、一般的に、世俗的な権力や法規制が及ばない、あるいはその影響が少ない自由な空間、聖域、避難所、無縁所などを指す言葉」。いま、「演劇」が「アジール」として見直されています。といっても東京演劇ではアリマセン。地方に分散し、年齢的にも多様化され、固有値を持った才能と、SNSの空虚さ陰険さ浅薄さに対して「身体性」を持ったアンチ虚無表現として、スマホゲームの対極にある演劇です。そいつはまさに現代社会(世間からの)「アジール(避難所)」かもです。中沢新一さんの新書本『僕の叔父さん 網野善彦』は入り口として最適です。私もここからです。どうぞ、試行あれ。

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