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2025年5月 9日 (金)

À bout de souffle-5

ここに/指輪=表現主体/と/所有者=(指輪の関係者、了解者)/がある。と、このような並べ方が出来ます。指輪=指輪の所有者です。この場合の=は、右辺と左辺の関係の何かが等しいということを示してはいるのですが、それを「両者の関係の強さ・引き合う強さ(引力)」ということにしてみます。所有者にとって、その指輪は「母の形見」かも知れません。たとえ夜店で売られている廉価なものだとはいえ、初恋の相手からプレゼントされたものかも知れません。それはいうなれば両者の関係の強さ、力、が〈価値〉であるということです。この価値形態こそが「表現」です。この指輪にある価値は「固有性」ですし、その価値は「固有値」ということが出来ます。従ってdiamondの指輪と等式では並べることは出来ません。あえて並べれば/diamondの指輪 <「固有値」のある指輪/になります。(もっともそうとは限らず両辺の関係としての記号は≠、≧、≦、であるかも知れませんが)
では、この固有の指輪に交換価値は無いのでしょうか。そんなことはありません。もしこの固有の指輪を「紙幣」や「数字」と交換するとすれば、〈rate・レート、〉いわゆる「評価」「評価価値」が問題にされます。固有のものを評価して、普遍的な価値を一時的に持たせるのです。
生前、ゴッホの絵画は一枚しか売れませんでした。ムンクの絵画はかなりのあいだ、美術館の中でも倉庫でもなく、軒下に雨ざらし同然だったことも逸話にはあります。けれどもいまではどちらとも、億単位です。評価が変わったのです。このような価値は別名として「投資価値」ともいえます。将来、価格上昇のものに投資する。これも一種の交換価値の方法です。そこには「投資家」の〈読み〉があります。現在のセメント産業などはその主なものですが、ここではそういう物質以外の「表現価値」を形態として扱います。
芸術、芸能も表現分野ですから、その「価値」に相当します。「母の形見」という固有のものはともかく、芸能ということでかんがえれば古典芸能は価値の下落はさほど無いものに分類されます。ですから封建的ともいわれそうですが、『風姿花伝』などは一子相伝の技術論的価値でもあります。実際、「銭には換えられない」といわれるようなものが、古典芸能に多いのは事実です。しかし、「売り物・買い物」である以上は、価値形態にチガイはアリマセン。では、そのような古典芸能が現代まで生き延びてきた理由は何でしょう。ひとつには「庇護」でしょう。これは現在でもそうでしょう。人間国宝といわれる無形文化財に選出されるのは圧倒的に古典芸能です。たとえば「能・狂言」はいまから四百年前の表現を再現します。ヒト、演者、だけではなく、装束も四百年前のものです。その「技」の多くは「形・(型)」ですから伝承しやすいことが現存している理由です。この「形」の表出を「形象表出」と主筆は呼称しています。これに対して演者の気持ちの現し方を「心象表出」と称します。この二つは別個に存在するものではなく、いわば状態ベクトルとして、重なり合っているとかんがえるとワカリヤスイのです。状態ベクトルの利点として、これらの表出は〈物象化〉に囚われることが少ないのです。表出のどちらかに重きをおくのは一種のバランスとしてはアリとしても、どちらかだけを一方的に重要視することは〈物象化〉になります。この最たるものは、スタニスラフスキー・システムにみられます。スタ・システムの欠点のひとつは弁証法の誤読、誤解だといえるでしょう。これはソ連社会主義芸術論の優越的論理の失敗です。レーニン、スターリンは云うに及ばず、マルクスの『芸術論』ですら、首を傾げるものでした。
とはいえ主筆にはクラッシック・バレエの歴史的遺産については、未だにワカラナイことが多いようです。あきらかにクラッシック・バレエの技術は本質的なものです。あらゆる舞踏の土台となるもので、それは「固有値」です。コンテンポラリーにせよ、暗黒舞踏にせよ、その基本(土台)はクラッシック・バレエです。ですからクラッシック・バレエの固有値としての歴史は源流を辿って研究されているはずなのですが、主筆は残念なことに、未だに出くわしてはいません。基本のバターンを幾つか教えてもらったことがあって、その経験で「こいつはスゲエ」と感じ入ってはいるのですがネ。~とりあえず、つづく

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