À bout de souffle-7
ウィトゲンシュタインくんの場合、このヒトは数学に長けていた(バートランド・ラッセルから天才といわれた)ので、言語においても、どうしても数学的先験先行紋切り型になってきます(ラッセルを継ぐ記号論理、記号言語のpioneerですかね)。『論考』と「言語ゲーム」に関する著書は読みました(難しいのか文章が下手なのかが判別しにくいのと、解説、評論書の類も同様のことがいえる)。彼は、ハイデガーと並んで二十世紀最大の哲学者なんて称されて、荷が重かったのか、ちょっと背負っちゃったのか、生き方(生活の仕方)が下手だったのか、小学生の女の子にバカにされて、少々同情はしますが、どうして数学で有名なヒトは思考が窮屈になってしまうのか、そうですね、数の学ですからねえ(偏見ですが)。ましてさらに哲学ですから(さらに独断)、似たような感触で、彼の支持者のintelligentsiya諸氏が彼のことをかなり評価するというか、「イカれて」しまうのはワカリマス(矜持の問題か-おらぁ、ウィトゲンシュタイン理解しとるんよ-というふう)。何となく印象としては孅(かよわ)きランボーってとこでしょうか。「孅」という漢字は、主に「細くて、弱々しい」という意味で使われます。ランボーというのは、あの戦争アクション映画のヒーローではありません。/世間知らず/で片づければそれまでなんですが、で、主筆、どうなのですか。
主筆「とりあえず、彼が述べている/難しいこと/を羅列して検討していきますかネ。
1「世界は起こっている事の総体である」
これ、かなり大雑把だけど、「と、かんがえているヒトの脳に起こっているモノである」と付けましょうか。大雑把だという理由はですね、「総体」という捉え方にあるのですが、「世界では起こっていることの一部も世界である」ともいえるのです。また、「世界は起こっていることの一部と一部の関係である」とも。さらに「起こっていないことも世界である」ともいえるというのが私のかんがえです。さて、つぎ、
2「起こっている事、すなわち事象とは、諸事態の存立のことである」
「在立(ざいりゅう)」には、二つの意味があって「立ち続ける」と「生存する、存在すること」という意味です。どっちでもイイのだけど。ここで留意すべきは「事象」のほうです。事象は「現象」とはチガウということです。具体的文脈でいえば、朝のラジオの天気概況などを「事象」で述べれば「本日は晴天です」で「現象」で現せば「本日は気持ちのよいスッキリとした青空が広がっています」なんです。つぎに、
3「事象の論理像が思想(思考対象)である」
ということで、「事象」の何であるかを述べてはいるのですが、「事象の論理像」というのはイメージ化(象)された論理が「事象」であって、それを対象にするのが「思想」なんだ、ということですが、「事」の「論理」は「思想」で「思考対像」である。になり、クルっとまわって、それが「事」だ。にもどってきます。つまりこれをウィトくんお得意の記号で現すならA=A=A=A=Aになります。観てのとおりマチガイではアリマセン。スッキリしています。が、何もいっていないのと同じです。ひとつ私にいえるのは、思想が「現象」に立ち入ると、あるいは思想に「現象」が立ち入ると「感性」を伴う、とかんがえています、ですね。
4「思想は有意義な命題である」
これなどは、思想は命題を「意義ある」と「意義無い」に振り分ける。と、述べたほうが真っ当だとおもうのですが、ウィトくんは排中律のヒトなのでしょう。つぎの命題5は記号式が登場するのですが、それはルール違反ギリギリというか、つまり、あたかも記号も言語である、言語は記号である、という証明をやっているような言語学なのに、その証明に記号を含ませるという、私にはそういうウィトくんの勝手がすんなり了解出来ません。括弧閉じ、なのかな。中国語はワカラナイのですが、と「断っている」のに中国語で応えられているような感触ネ。すっ飛ばします。(もちろん、私(主筆)は、記号は記号であり言語は言語であるとおもっています)。
6「命題は諸要素命題の真理関数である」
真理関数とは、命題の「集合」のひとつなのですが(と、こう書くと如何にも数学に達者という感じがするでしょ。コピペなんだけど)。高校生の頃からいつもここで躓きますね。この集合では命題に含まれるコトバ(言語)がいつも一定の意味を最初(ハナっ)から付与されているからです。たとえば、女性が男性に「あんたなんかきらいよ」という、この「きらい」は演歌などでは、「好き」の変化球になります。「きらいさ、きらいさ、男なんて大っきらいさ」という歌詞に唄われている「きらい」は、ほんとうには「嫌い」ではナイんだなあ。ウィトゲンシュタインが小学生の女の子に簡単に騙されたのも理解出来るナア。「女のいやはイヤではナイ」という短い名言もありますから。つまり言語には/語られたどおりではナイ/コトバ、読み方、認識も多くあるということですけどネ。京女のコトバなんかはその典型。
6「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
「語りえない」ことについて語ろうとして演劇の「科白」は生まれたという立場ですから、私などはネ。言語限界を世界限界としたウィトくんのスタイルはかっこイイのですが、コトバはそんなにカッコいいものでもナイです。/しどろもどろ/もありますから。言語には限界というより「制限」というほうがよく似合う。~でと、つづくのだ
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