À bout de souffle-8
駄筆「ウィトゲンシュタインは多くの友人知己をして『論考』が理解されなかったことを嘆いていますが、それについてはどうなのでしょう。
主筆「コトバというのは、自分がワカッテいればイイんじゃないかにゃ。自分にもワカッテいないことを語るヒト、多いから、それはダメよ。特に政治屋とか一夜漬けのコメンテーターに。
駄筆「主筆が書かれる戯曲は「ワカラナイ」とよく云われるそうですが。
主筆「それはネ、演じる役者の守備範囲においてです。狭いヒト多いから。それとね、宮崎駿ショー(アニメ)は、ワカッテいる顔するヒト多いのよ。アニメはいいよね。歌舞伎と一緒でワカラナクとも観ていられるから。ジャズだってそうじゃナイの。理屈でワカッテ聴くものじゃナイけど、不思議とワカッテ聴いているんだから。「マイルス・デイビスのペットは悲しい」って、AIは表記することが出来ても理解しているワケじゃナイし、表現ではナイでしょ。宮崎さんは彼の無意識の表現だから、解釈、分析が本格的というか本気で取り組むとオモシロイけど難しいのだけどね。まんま溶け込んで融和して観ていると気分はイイかもね。
ウィトゲンシュタインくんは、感触だけでいうと、言語をクラッシックのスコアのように数式化出来るとおもったんだろうな。クラッシックのスコアだって、そのままオーケストラが演奏して管弦楽が成立するなら指揮者は不要ですよ。演劇でいうなら演出というのは、役者の動きをコントロールするヒトじゃアリマセン。「あなたはこう動け」などという演出はちょっとどうかナ。たとえば、このあいだの私どもの舞台では、出演者が揃って荒野に咲く「花」を観るのだけど、「花を観る視線は何処に合わせればイイですか」という質問に「自分がみえたところでイイよ」にしたけど、イイカゲンでしょう。でも、それがオモシロイのです。役者の意思 (こいつも無意識領域)というのはバカになりません。指揮者も演奏する連中に云うのよ「吹雪だっ、風雪だ。その中で凍えながらも必死で演奏しているのだ」「今日最愛のヒトを失くしたのだ」とおもって下さいとかね。これで楽団、演奏者の気持ちというか立ち位置がハッキリします。演劇なら心情のsituationが。
駄筆「ウィトくんはそれが望みというか、そういうことに至る共通規範を言語に与えたかったのじゃナイでしょうか。
主筆「それは言語学者や哲学者の夢、望みじゃナイでしょ。むしろ科学者のソレでしょ。言語をクオリアから解き放つというか。コトバのコンテクスト(文脈、背景、状況、意味)の統一というか。そういうのは演劇でも平田オリザ王子が試みたようです。つまり「机」といえば、その演目の全ての出演者が同じ「机」をイメージするという仕掛けです。そうなると演出もやりやすい。けど、それはコトバを換えれば〈独裁下〉とか〈専制下〉と同じです。『言語ゲーム』もゲームである限り、そういうルールから始まります。
/哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは考えたのである。(ウイキより)/
これも、数学者らしいかんがえです。哲学者の仕事がそういうものだとは私も識らなかったナ。そういう仕事だったにせよ、哲学者たちが「言語の使い方を誤っていたために生じた」のが哲学の客観の問題なのではアリマセン。哲学は論理的統一ではアリマセン。コトバの使い方をマチガッタので、問題が生じたワケでもナイ。ものごとの意味を統一すること、「机」のイメージを揃えりゃイイってものじゃナイのです。方法的独我論ならフッサールが現象学で提唱しましたが、それはあくまで方法的なものです。整数論が詩的なのと同じ。哲学は感性を論理化しますが、まず論理対象を感性で捉えられなければ、その哲学者はアカンです。「古池やかわず飛び込む水の音」を英訳するとThe sound of an old pond and a frog jumping into the water.になります。これを小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、Old pond―frogs jumped in―sound of water.としました。どっちが正しいかと、議論することに意義がありますかね。前者はウィトくんいうところの「事象」です。後者は「現象」です。「事象」即ち象(しょう)に事(こと)は、表現は入り込みません。「現象」は象を現すのだから表現のことです。世界というものを科学的に捉えるには「事象」の命題で、ということが、『論考』なのでしょうが、「科学的」というコトバ(副詞)自体がすでに表現です。ウィトくんのような作業はいうなれば「メタ哲学」、哲学を哲学(あるいは言語学)しちゃうのですが、この仕事、作業はすでにカントさんが気付いて『純粋理性批判』でヤってらっしゃる、とおもいます。カントさんの場合は/何が哲学するのに値するか/ですけど。じゃあ、こうもいえる。何が演劇の言語に値するのか。各自のイメージの統一でしょうか。まったくそうはおもわない。都はるみさんは、自分の持ち歌の中の歌詞の〈波止場〉を外国、シカゴの港か何処かをイメージして歌っていらしたそうですけど、それでも、ちゃんと演歌になっています。この記号設置のケッタイな面白さ。
駄筆「なるほど、主筆のいうところの/ウィトゲンシュタインの言語論は演劇では役に立たない/という主旨がなんとなくワカッテきました。しかし、そんなことを一介の劇作家が軽く述べて、大丈夫ですかね。
主筆「intelligentsiyaには鼻で笑われるでしょうね。
~なことで、つづく
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