À bout de souffle-6
「表現価値形態」として、避けて通れないのがタモリさんの「ハナモゲラ語」です。「ハナモゲラ語」の特徴は〈文法・ルール・論理〉がナイということです。しかし、ここは重要なことなのですが/通じないと駄目/というところです。その辺りで、主筆の提唱している「氷河穴居期言語発生説」と似ているところがあります。そこんところを、並行、交差させながらかんがえていきます。
〈文法・ルール・論理〉がナイ、のに/通じないと駄目/、とはどういうことなのでしょう。
この「〈文法・ルール・論理〉がナイ、のに/通じないと駄目/、とはどういうことなのでしょう」という文章(文脈)自体もヘンな感じです。何がヘンなのか、まず主格(主語)がナイので、ワカリニクイということなのですが、主語(主格)をつけると、こうなります。「ハナモゲラ語」は〈文法・ルール・論理〉がナイ、のに/通じないと駄目/」、こうするとかなりワカリヤスクはなります。タモリさんはソシュール言語学を〈なんだかアヤシイ〉と感じていたと、とある文献(『タモリ学』戸部田 誠、文庫ぎんが堂)にはありますが、ともかくも早稲田でジャズ研に所属ですから、流行りの言語学に触れることはあったでしょう。言語や音楽には普通のヒト以上に興味と好奇心を持っていらしたのですから、そういう情況は当然です。ソシュールがヘンならウィトゲンシュタインも大いにヘンだと思われたでしょう。双方の類似点を挙げていくことは面倒ですので、ひとかたまりに、どちらも「発語」されたコトバの構造に関する仮説だということは同じだ、とここではいっておきます。何故、仮説なのかというと、主筆の思考領域では、「説」というものは『エネルギーの保存則』以外は全て「仮説」ということになっているからです。仮説がアカンということではアリマセン。仮説で充分なのです。そのほうが気楽でイイ。頑迷に自説にしがみつくのは骨が折れる。ふーん、なるほどそういう「説」もあるのか、くらいで丁度イイのです。
主体をハッキリさせるという意図で/発話が言語/が主幹というソシュール言語学の王様マークに主筆は疑問を持っていました。と同時によく耳にする「差異」「一体一対応」にも。まずソシュール言語学って何よ、を/AIに訊ねて/みます。
「ソシュールは、言語を「構造」で捉え、言語は単に言葉の羅列ではなく、相互に意味を区別し合うシステムであると考えました。つまり、言語は「差異(区別)の体系」であるというのです。また、言語は「ラング」(言語体系)と「パロール」(発話)の2つに分けられるとしました」これがAI(グーグル提供)の答です。いやあ、AIって便利だなあとおもいます。とはいえ、ある程度の知識がナイと「なんのこっちゃ」になります。主筆は「懐かしいなあ。こういうの三十年以上前にヤったなあ」と相好(そうごう・顔つきのこと)を崩します。「なんのこっちゃ」の方にもワカル(らしい)解説もあったので、そっちのほうも記しておきましょう。
/ざっくり、ソシュールのどこがすごいのかというと、「言語で世界ができている」ということを見事に説明したからです。私たちは、普通、目の前にまず物理的対象が実在的に存在し、それに言葉のラベルを貼り付けていると考えています。たとえば、「猫」という実体が先に外界に実在していて、それに「ネコ」という言語のラベルを貼り付けたのだと考えます。しかし、この世の動物がすべて猫だったら、わざわざ「猫」と言わなくてもいいでしょう。犬がいるから猫がいるという感じで、あらゆる語は他の語との「差異」によって規定されていると考えられるのです。先に世界が区切られているのではなく、言語で世界を区切っている。たとえば、ゴミを可燃物や不燃物に分別するようなもので、言語が世界の分別をしているのです。では、言語と物はどのように結びついているのか。ソシュールは、言語には、シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)があるとしました。それは、コインの裏表のように一体化しています。シニフィアンは音声の聴覚的な映像によって形成され、シニフィエは言語記号がその内部に持つ概念(意味)として形成されます。シニフィアン(記号表現)は、「猫」という文字や、「neko」という音声です。シニフィエ(記号内容)は猫のイメージや、猫というその意味内容です。これらをあわせて「シーニュ」(記号)と呼びます/。
/おお、お見事だ/。というか喝采する方々が多かったのでしょうね。しかし、主筆のようなへそ曲がりはそうはいきません。
駄筆「これ、ダメなんですか。
主筆「オカシイと、おもいませんかんヤマト。
駄筆「何処がでスカンジナビア。
主筆「幾つかあるのですが、まず、この論理でいくと、猫より先に「猫」というコトバの存在が必要なのじゃナイでしょうか。アタリマエのことですけど。ソシュールさんは、このアタリマエのことにどうカタをつけたのか。たとえばですね、猫は洋の東西を問わず鳴き声は「ニャー」とか「ミュー」とかでしょ。鶏だと「コケコッコー」は日本で亜米利加では「クックドウドウドウ」というそうですが、何故「ネコ」「cat」なんですかね。鶏は英語では「hen」と「chicken」でしょ。たしかにソシュールさんのいうとおりに猫と鶏は「cat」と「chicken」によって「差異化」はされます。しかし、誰がそれを最初に「ヤった」のかです。シニフィアンは/音声の聴覚的な映像によって形成される/とのことですが、猫「cat」の、どの部分が音声として聴覚的に映像化されるのでしょうか。鶏のどの部分が同様に「chicken」で聴覚映像として鶏になるのでしょうか。この辺りが私には全くワカラナカッタです。もっとケチをつけてみましょうか。猫が歩いてきて目の前を横切った。初めてその動物を観たひとが、その動物の像を観て「おお、キャットだな」この映像感覚は、何処から表出されたのでしょうかということです。むしろ、「ニャー」「ミュー」と鳴いたなら、その傾向をアテる音声にならねばなりません。そうすると、今度は世界的に「ニャー」や「ミュー」が共通規範として含まれて然るべきでしょ。しかし、それぞれの国で猫の銘々は、ぜえ~んぜんチガイます。「neko」「cat」です。これなら有名な逸話であるカンガルーの語源の誤解。/クック船長がオーストラリアを訪れた際に、先住民に動物の名前を聞いたとき、「カンガルー」と答えたことが、この名前を広めたとされている。「カンガルー」という言葉が「あなたの言っていることがわからない」という意味だと誤解されていたという逸話があり、これは伝説であり、実際には先住民の動物の名前として使われていたとされている/。のオハナシのほうがオモシロイ。~でと、つづく
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