À bout de souffle-1
À bout de souffle-1
ここからは私(主筆)なりの〈物象化〉の考察です。あくまで考察です。研究のようなたいそうなものではありません。~それはマチガッテるよ~も多いとおもわれます。よって私(主筆)なりの、ということです。興味のナイかた、専門の方、は読みとばして下さればそれでイイだけのハナシです。文章は「語り体/話体 」で参ります。(二人称的にもなります)
マルクス『資本論』は第一部の「商品と貨幣」は読みました。価値形態が出てくるところです。貨幣の登場について書かれたところです。私としては、私にとってはそれで充分だとおもっています。他には『経済学批判』や『経哲草稿』などや、さまざまなサブテキストはけっこう読んでいます。『資本論』はそれら(というかマルクス経済学の)集大成らしいのですが、目次とパラパラ読みから「貨幣」の価値形態について以外は演劇の学習に関係(必要)ナイとおもったのが理由です。ともかく当時の私は科学的な「演劇論」が創りたかったので、他の分野もそのつもりで「薄学多彩」(博学多才に非ず)で勉強していたものですから。
生意気をいいますと『資本論』は先に読んだマルクスの幾つかの書籍に比するとあまり出来は良くない気がしています。理由は主には「社会学的なロマンが無い」です。さらにいうならば、「相対的価値形態」と「等価形態」から貨幣を導き出すところは、「等号、=(イコール)」の扱いが数学的にちょっと杜撰に過ぎるのではないかと感じました。とはいいつつも、「貨幣」はヒトが造ったものでありながら、ヒトは「貨幣」に支配されるという(これは『経済学批判』にもあったとおもいますが)〈疎外〉についての鮮やかな論理的手並みには敬服、畏敬するばかりでした。
と、前置きしておいて、〈物象化〉に雪駄(土足ですね)のままで上がり込んでいきます。
まず、〈物象化〉をワカリヤスク述べている、ハンガリーの哲学者ルカーチ・ジェルジの次の文言をどうぞ。/<人間が作った物が固有の法則性をもって人間を支配する>という事態を物象化と呼び、経済だけでなく政治やイデオロギーの領域にも物象化が存在する/これは、ルカーチが1923年に発表した論文「物象化とプロレタリアートの意識」からです。これならすでにマルクスは『経済学・哲学草稿』などで述べていることヤないかと、世評はそうですが、ルカーチの定義はひじょうにワカリヤスイ解釈です。『資本論』において導き出された「貨幣」は〈物象化〉の王様です。『経済学批判』(だったとおもう)では「どんなに下品、下劣、醜悪なる男でも、銭の力で美女をモノに出来る」とかなんとか、叙述していたはずです。こういうふうにくだけた感覚で『資本論』も書いていただければ、のちのちの似非共産主義革命大虐殺者(ロシアとか中国のですが)も間違うことはなかったのになあと、残念です。
実存主義の提唱者でマルクス主義者だったサルトルさんも、「殺人にはヤってイイ殺人とイカンものとがある」と宣(のたま)い、異邦人のカミュ氏が「いや、そんな区別は殺人にはナイ」と反論したのに対してさらに論争(で、サルトルは勝利したらしいのですが)、殺人というものを〈物象化〉してしまっている(それでも実存主義ですからアカンことはナイのですが)ことに気付いたとおもわれます。現在では論争に負けたはずのカミュ氏の論理のほうが支持されているとニュース(風評ですが)になっています。同じことが、マルクス×バクーニンの論争においても、いまはバクーニンが見直されているという按配(これも風評程度かな)です。しかし、このフーヒョーはけっこう納得がいきます。何故ならいまの世はかなり〈感性〉俗には感情が重要視されているようで、さらに、それ以上に身体や身体性に視線が深く注がれているからです。SNS(の身体なきコトバ)があたかも(似非)物象化のように振る舞い過ぎたことの反動かも知れません。私などが驚くくらいに「演劇」がいまや若い人のあいだで盛んなのもそのせいかもです。盛んだというだけで、身体、身体性に対するクォリティやレベルが高いというものではありませんが、身体が発する言語への直截な信頼感はあるにチガイアリマセン。
もうひとついうと、いま、「戦争」というものが、それが軍事作戦であろうとも、ともかく、何をしても、どんな手段を用いても(どれだけヒトを殺しても)、勝てば英雄、負ければ隷属と、〈物象化〉されているような気配です。と、こう書いてくると、なんとなく〈物象化〉もワカッタようになるはずです。かなり大胆に論ずれば「戦争なのだから、とどのつまり戦争は勝つ以外に〈神〉はナシ」という「戦争」そのものの〈物象化〉です。たとえばトランピィズムのカードである「関税」も一種の〈物象化〉だ、といえなくもナイご時世です。
日本政治(国会論議)は「政治とカネ」だかなんだか知らんですが、国会という場所は司法ではなく立法の場だとおもっていたら、規律の重視(まるで司法)が最重要課題のようで、他のことは後回し(まあ、国内の課題だけでもなんとか議論してもらうのは悪くはナイのでしょうが)世界状況など日本ごときがナニいったって敗戦国ですから、それはもう意味など無いのに決まっているかのようです。ふむ、そうかなあ。EUやカナダはベツモノとして(勝手に米国資本独裁国と張り合ってもらって)、ネオ・アジア・インター(グローバル・サウスという呼称はアジアを捉えるのには意味がオカシイので、私はこう称している)とのインターナショナルな、民本精神だけを復興、推進して、専制国家と渡り合っていかないと「一億玉砕本土決戦」を回避終戦した意味がアリマセン。民本主義というか民本精神は未だに在るし必要だとかんがえているのです。これは太宰治さんも同じことを掌編で洩らしていましたネ。宮澤賢治さんの法華思想も本質はそうだと理解しています。
主筆・注] 民本主義では主権の所在は問わない。主権者は一般人民の利福・意向を重んずべきことが主張される。 一見矛盾するようだが、完全に両立可能なものであるとして、主権は君主にあるか人民にあるかをあえて問わない。
ところで、ルカーチさんの理路はたしかに早とちりの感があります。あの〈物象化〉の定義は「疎外」の解釈からまったく踏み出していないようです。では、〈物象化〉について、私なりに、というのはこいつを演劇において、解説してみます。~とりあえず、つづく
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