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2025年4月

2025年4月27日 (日)

À bout de souffle-2

À bout de souffle-2
〈物象化〉はちいっと難しく述べると人間どうしの関係を〈物〉における「関係」と「了解」の構造(システム)に置換したようなものです(事象、現象にまで拡張もされます)。簡単に述べるのに適した具体的例を挙げてみます。演劇の舞台演技です。当然、役者がおります。そうして科白があります。客席には観客がいます。役者をAとしましょう。Aの科白「忘却とは忘れ去ることなり。然りといえど、外は雪か」。なかなかの名せりふです。こういう科白はAIにはいまのところ書けません。三つの文節にナンノ繫がりもAIには求めることが出来ないからです。けれどもヒトにはそれが出来る。それがヒトのココロの作用です。もちろん役者にもいろいろありまして、感性鋭いものも在ります。鈍感なものも。不勉強なものから熱心なものも、賢明なるものから阿呆まで。Aの場合は「自分の気持ち」を重視するほうです。コトバを換えれば自らが納得出来ていればよろしい派ですね。ところで、ほんとうはこの手の役者は困ることも多いのです。誰が困るか、観客、その前に演出が困ります。観客の中には高齢の方もあって難聴とまでいかなくとも、聴力が衰えている方もいるでしょう。演出は難聴ではナイのですが、稽古のときAの科白を聴いて、こう、注意を入れました。「Aさん、あなたは、自分の科白をどう整合化しているのだい」。Aは何を注意されているのか、やや不明の顔です。「はあっ」です。「ですからねAさん、あんたの科白は観客にまで届かない、届いていないのだ。あなたの中では消化しているのだろうけども、観客に聞こえる声はおよそ/-ぶぉやくとはれるこお。かりとど、とはきか/だろう。まるでハナモゲラ語です(ハナモゲラ語は優秀なコトバなのですが)。不穏なAにさらに演出はいいます。「その科白はあなたの中にあって、あなたが了解して納得しているだけだ。そのままだとあなたは、あなたの科白に疎外されるだけだ」ほんとうに困るのは詰まるところはAさん自身です。自らが納得して発語した科白に疎外されることになるからです。/表現は常に疎外に等しい/。これは重要な命題です。従って優れた演出ならば、こう続けるでしょう。「科白というものは自分の中だけで納得、処遇するのではなく、外化、つまり一旦は外に出さなければいけません。外に出た科白はどこに行くか。観客に往く。その観客の了解があなたに還ってくる。その往還の関係がなければ、まったく演劇の科白として成立しないものだ。一旦外に出して、それを共有して了解する。でないと、科白はあなたと観客双方にとって、クオリア(それぞれの勝手な了解)になってしまう。あなたは忘却と雪のことをせりふで語っている。しかし、観客は、不可思議なことばを語るAという存在としてしか了解しない、という関係になる。双方の了解関係をクオリアでなく成立させること、これが科白の〈物象化〉というものだ」
いってみれば、ルカーチの危惧ともとれる〈物象化〉を逆手にとった上手い使い方とでもいえます。これは極論すると科白による役者Aと観客との〈支配〉にもなります。しかし、書ける劇作家、出来る演出家なら、さらにこの先をいきます。〈物象化〉を超えるのです。コンテクストからの逸脱とでもいいますか、「クオリアさせたままで」さらに舞台を成立させるのです。この方法論を仮にいってみれば/無意識の活用/です。Aと観客を意識において統合させるのではなく、その無意識を活用してそれぞれの想像力(感性)に委ねるのです。これが出来るのがヒトの脳、能力です。進歩した生成AI(AIエージェントにもまったく出来ないコトです。つまり、役者Aの科白で観客各々が、どんな〈像〉をイメージしてもイイのです。しかしその像はまったくチガウものではアリマセン。役者Aと観客の感性の波の重ね合わせにおけるものなのです。
これを「表現の加速度化」と、主筆は名付けています。加速度重力で疎外を脱するという意味です。それは具体的に何処に現れるものでしょうか。それは、役者Aの〈身体・身体性〉にです。いいかえると科白が役者の〈身体・身体性〉に記号設置するというワケです。これを「形式表出」に対する「心的表出」といいます。これはこのアトまた論じることにします。とりあえず/演劇の場合、演技に於いて役者の身体は役者のココロと同じです/。と記憶してよろしいものです。~とりあえず、つづく

2025年4月21日 (月)

À bout de souffle-1

À bout de souffle-1
ここからは私(主筆)なりの〈物象化〉の考察です。あくまで考察です。研究のようなたいそうなものではありません。~それはマチガッテるよ~も多いとおもわれます。よって私(主筆)なりの、ということです。興味のナイかた、専門の方、は読みとばして下さればそれでイイだけのハナシです。文章は「語り体/話体 」で参ります。(二人称的にもなります)
マルクス『資本論』は第一部の「商品と貨幣」は読みました。価値形態が出てくるところです。貨幣の登場について書かれたところです。私としては、私にとってはそれで充分だとおもっています。他には『経済学批判』や『経哲草稿』などや、さまざまなサブテキストはけっこう読んでいます。『資本論』はそれら(というかマルクス経済学の)集大成らしいのですが、目次とパラパラ読みから「貨幣」の価値形態について以外は演劇の学習に関係(必要)ナイとおもったのが理由です。ともかく当時の私は科学的な「演劇論」が創りたかったので、他の分野もそのつもりで「薄学多彩」(博学多才に非ず)で勉強していたものですから。
生意気をいいますと『資本論』は先に読んだマルクスの幾つかの書籍に比するとあまり出来は良くない気がしています。理由は主には「社会学的なロマンが無い」です。さらにいうならば、「相対的価値形態」と「等価形態」から貨幣を導き出すところは、「等号、=(イコール)」の扱いが数学的にちょっと杜撰に過ぎるのではないかと感じました。とはいいつつも、「貨幣」はヒトが造ったものでありながら、ヒトは「貨幣」に支配されるという(これは『経済学批判』にもあったとおもいますが)〈疎外〉についての鮮やかな論理的手並みには敬服、畏敬するばかりでした。
と、前置きしておいて、〈物象化〉に雪駄(土足ですね)のままで上がり込んでいきます。
まず、〈物象化〉をワカリヤスク述べている、ハンガリーの哲学者ルカーチ・ジェルジの次の文言をどうぞ。/<人間が作った物が固有の法則性をもって人間を支配する>という事態を物象化と呼び、経済だけでなく政治やイデオロギーの領域にも物象化が存在する/これは、ルカーチが1923年に発表した論文「物象化とプロレタリアートの意識」からです。これならすでにマルクスは『経済学・哲学草稿』などで述べていることヤないかと、世評はそうですが、ルカーチの定義はひじょうにワカリヤスイ解釈です。『資本論』において導き出された「貨幣」は〈物象化〉の王様です。『経済学批判』(だったとおもう)では「どんなに下品、下劣、醜悪なる男でも、銭の力で美女をモノに出来る」とかなんとか、叙述していたはずです。こういうふうにくだけた感覚で『資本論』も書いていただければ、のちのちの似非共産主義革命大虐殺者(ロシアとか中国のですが)も間違うことはなかったのになあと、残念です。
実存主義の提唱者でマルクス主義者だったサルトルさんも、「殺人にはヤってイイ殺人とイカンものとがある」と宣(のたま)い、異邦人のカミュ氏が「いや、そんな区別は殺人にはナイ」と反論したのに対してさらに論争(で、サルトルは勝利したらしいのですが)、殺人というものを〈物象化〉してしまっている(それでも実存主義ですからアカンことはナイのですが)ことに気付いたとおもわれます。現在では論争に負けたはずのカミュ氏の論理のほうが支持されているとニュース(風評ですが)になっています。同じことが、マルクス×バクーニンの論争においても、いまはバクーニンが見直されているという按配(これも風評程度かな)です。しかし、このフーヒョーはけっこう納得がいきます。何故ならいまの世はかなり〈感性〉俗には感情が重要視されているようで、さらに、それ以上に身体や身体性に視線が深く注がれているからです。SNS(の身体なきコトバ)があたかも(似非)物象化のように振る舞い過ぎたことの反動かも知れません。私などが驚くくらいに「演劇」がいまや若い人のあいだで盛んなのもそのせいかもです。盛んだというだけで、身体、身体性に対するクォリティやレベルが高いというものではありませんが、身体が発する言語への直截な信頼感はあるにチガイアリマセン。
もうひとついうと、いま、「戦争」というものが、それが軍事作戦であろうとも、ともかく、何をしても、どんな手段を用いても(どれだけヒトを殺しても)、勝てば英雄、負ければ隷属と、〈物象化〉されているような気配です。と、こう書いてくると、なんとなく〈物象化〉もワカッタようになるはずです。かなり大胆に論ずれば「戦争なのだから、とどのつまり戦争は勝つ以外に〈神〉はナシ」という「戦争」そのものの〈物象化〉です。たとえばトランピィズムのカードである「関税」も一種の〈物象化〉だ、といえなくもナイご時世です。
日本政治(国会論議)は「政治とカネ」だかなんだか知らんですが、国会という場所は司法ではなく立法の場だとおもっていたら、規律の重視(まるで司法)が最重要課題のようで、他のことは後回し(まあ、国内の課題だけでもなんとか議論してもらうのは悪くはナイのでしょうが)世界状況など日本ごときがナニいったって敗戦国ですから、それはもう意味など無いのに決まっているかのようです。ふむ、そうかなあ。EUやカナダはベツモノとして(勝手に米国資本独裁国と張り合ってもらって)、ネオ・アジア・インター(グローバル・サウスという呼称はアジアを捉えるのには意味がオカシイので、私はこう称している)とのインターナショナルな、民本精神だけを復興、推進して、専制国家と渡り合っていかないと「一億玉砕本土決戦」を回避終戦した意味がアリマセン。民本主義というか民本精神は未だに在るし必要だとかんがえているのです。これは太宰治さんも同じことを掌編で洩らしていましたネ。宮澤賢治さんの法華思想も本質はそうだと理解しています。
主筆・注] 民本主義では主権の所在は問わない。主権者は一般人民の利福・意向を重んずべきことが主張される。 一見矛盾するようだが、完全に両立可能なものであるとして、主権は君主にあるか人民にあるかをあえて問わない。
ところで、ルカーチさんの理路はたしかに早とちりの感があります。あの〈物象化〉の定義は「疎外」の解釈からまったく踏み出していないようです。では、〈物象化〉について、私なりに、というのはこいつを演劇において、解説してみます。~とりあえず、つづく

2025年4月 2日 (水)

「narrative-60の謎」-14

総括。
AIもパソコンも、あるいは莫迦もハサミも同じで、けっきょくは「使い方次第」なのではないかと、アタリマエのことしか思いつかないのですが、私の都合のいいふうに定義すれば「AIはホームズにおけるワトスンのようなもの」がよろしいです。
/将来のコンピューティングでは「半導体、AI、量子技術を組み合わせ、それぞれの能力を引き出したり補ったりする技術が重要性を増す」/といわれています。AIとスパコンと量子コンピュータを揃えておけば、けっこうオモシロイものが創造出来るかも知れません。ただし、問題はその三種の神器を扱う(その一つとしてプロンプトを行う)御仁の資質と能力です。AIはイイとか悪いとか云っている時はもうオワリにしたほうがイイ。AIは未だ発展途上ではあるのですが、現に存在するのです。今後、これらをどのように用いていくかに人類の存亡から、年寄りの余生までが懸かっているといって過言はアリマセン。私などは今後は銭(私財)と心身の力が続く限り、念願の「量子コヒーレントと鬱病」について、ミステリのひとつも書ければと企てているのですが、どうなりますやら。
私たちはヒトが〈ヒトのカタチをした自然〉であることを忘れがちです。しかし、私たちは〈自然〉なのです。そうして、その〈自然〉というものは敢えて云いきれば量子に於けるアリストテレス的産物です(ここでは〈本質的〉だということを述べています)。であるならば、量子の状態(コヒーレントとデコヒーレント=環境界)は鬱病と何らかのかなり重要な/関係と了解/という〈物象化〉を持っているにチガイアリマセン。〈物象化〉については章を改めます。量子のコヒーレントとデコヒーレントという場=環境情況こそが、ヒトの心身システムの要(かなめ)です。こういうことが、AIをワトスンのようにして毎日語り合えたら素晴らしいことだ、と私はかんがえているのです。小説家志望だった私は、そのような小説(ミステリ)を書く作業で、ほんらいの夢を実現させるために、もう少し生きたい、往きたいと願うのですがねえ。酷しく、淋しいからなあ人の命は。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 (訳・此岸より彼岸へ 真理に渡りたるものよ まったく真理に到れるものよ 汝に幸あれ)
と、ここでかっこよくオシマイにするつもりでしたが、これを書いたアトで、ひょいと棚から取り出した文庫を読んで(まあ、読書の機会なんてそんなものなのですが)、そうそう、そうなんだよな、と、溜飲の下がるおもいがしましたので、それを転載しておきます。
「われわれがテレビの世界に憧れたのは、たとえば『11PM』で(大橋)巨泉さんがわけのわからないことを言っていたからなんです。僕らは高校とかか中学だから、わからないわけです。その『わからないこと』に興味を持つんです。むしろ、わからない世界でテレビをやったほうがいい。『なんだろう』『大人になったらわかるかもしれない』と思って興味を持ってくる。わからないことに、人間はよく興味を持つんです」(『ことばを磨く18の対話』加賀美幸子・編/日本放送出版(2002)←引用は『タモリ学』(戸部田誠—てれびのスキマ)ですが、戸部田さんは/タモリはこのように、昨今のテレビ番組の「わかりやすさ」に拘泥する傾向に疑問を呈している/。タモリさんがジャズにハマったのも、その「わからなさ」からだった。とコメント書きされています。
私(主筆)は、〈現代音楽〉というのを聴くのが好きなのですが(といっても、NHK/FMから流れてくるもの程度ですが)ありゃあ、「ワカル」とか「ワカラナイ」で論じていてはアカンものだなということは「ワカル」のです。もちろんジャズもロックもポップスもクラッシックも聞きますし、伝統(古典)邦楽も聞きます。古典継承邦楽(たとえば浄瑠璃とかネ)は「ワカル」のがかなり難しい。聴かない(hearingしない)と、コトバがワカラナイ。さらにチガウ意味においてコトバがワカラナイのはいまの楽曲、音楽一般を楽曲と宣(のたま)ういまの若いヒトたちの音楽です。何処がええネン。[赤い公園]あたりまでは評価出来たのですが、主宰が逝ってしまったので、ともかく残念。他はよくワカラナイ。ひょっとして、そういうヤングミュージックを聞かないヒトたちが多くあって、/ジ・アルフィー/などは還暦をはるかに過ぎて未だ全国ツアーがやれるのだろうなあとおもう次第。
AIも最近は〈汎用型とか特化タイプ〉やエージェントAIなどが出てきていて、プロンプトさへ必要なくなりつつあります。とかく便利で「ヨクワカル」ものになりつつある。しかし、逆にそういう世間(や世界)には気をつけないとヤバイなあとおもう次第です。譬えが悪いですが、特殊詐欺みたいな進化ですね。おそらく特殊詐欺はどんどん手口が巧妙になるでしょう(警察内部にお仲間をモグらせておけばイイだけなんですけど、これはもうヤっていますよ)。
~とりあえずこの章endにいたします~

2025年4月 1日 (火)

「narrative-60の謎」-13

「イージー アンダースタンド」について、ひとつエピソードを提供しておきます。ふつう演劇の本番初日には、初日乾杯というセレモニーがあります。そこで、ひとこと、作家と演出家から挨拶があるのですが、私が「今日はこちらも初日ですが、『王将戦』も初日です」と将棋の藤井王将ネタのハナシの枕をふったところ、スタッフ・キャストの皆さん、怪訝なというか、「ナンノハナシ」という表情をされました。そこで私は慌てて話題を換えて、「此度の本場のアカデミー賞では主演女優賞を初めてのアジア人ミシェル・ヨーが受賞しました」と「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」について触れたのです。けれども、皆さん関心を示さない。この映画は「エブ・エブ」の愛称まであって、主演女優賞の他、作品賞、監督賞、助演男優賞、助演女優賞、編集賞、脚本賞と総なめで受賞しているのですが、残念というのか、唖然呆然というのか座組の出演者でその映画を観たひとは新人クラスの小劇場の女優一人だけ。アトは「ナンノハナシ」です。「君たち、本場のアカデミー賞映画くらい観ておきなさいよ。日本アカデミー賞は映画high-Q会社の持ち回りだからネ」と声高にいえるように私は偉くアリマセンし、そんな雰囲気でもなく、コトバに詰まって適当に挨拶を終えました。ほんとうに詰まってしまってしどろもどろになりましたネ。Producerから「あなたのハナシはあなたの作品同様によくワカラン」というお言葉を頂戴してしまいました。ミシェル・ヨーさんはアジア人では二人目のボンドガールにも選ばれたひとです。一人目は東宝女優の浜美枝さんです(第5作の「007は二度死ぬ」ボンド役はショーン・コネリー)そういうハナシもしたかったのですが、たぶんそうしても「ナンノハナシ」だったとおもいます。ですので、「イージー アンダースタンド」を邦訳する場合は「ナンノハナシ」がいいかとおもうワケです。
鈴木清順監督の『東京流れ者』(渡哲也、主演)は有名な(知っているヒトにはの範囲での)映画ですが、私は昨今、東京芸能人を「東京かわらぬ者」と称することに憚りはないなとおもっています。私が演劇を始めた当初から相変わらず「東京かわらぬ者」です。以降、初日顔合わせと初本読み(ほんとうは「読み合わせ」なのだが、いまはどこも〈本読み〉という名称を使う。〈本読み〉は初日に戯曲の作者が本編を読み聞かせるセレモニー)では自己紹介(挨拶)があるのですが、「私、本職は劇作家で戯曲を書いています。此度はこの作品の脚本スタッフです」と挨拶することに決めました。
シス・カンパニーの文学シアター等では十年余、脚本料と時には著作権料=上演料を頂いていたワケで、それで贅沢しなければ年金と合わせて半年程度は食えるのです。たいへん有り難いことで、「東京かわらぬ者」という身分もそう悪くはアリマセン。が、戯曲(脚本)上演権利期間を訊ねたところ、社長から「三年、それ以後はジャンク」ということでした。なるほど「ジャンク」か。ジャンクねえ。/Junkとは、そのまま使える見込みがないほど故障損耗し、本来の製品としての利用価値を失っている品物。販売店による動作保証のない商品もジャンク品と呼ぶことがある。下らない、役に立たないもの。がらくた。廃品。/というのが現状一般的ですが、もうひとつ意味があります。/中国水域で数千年にわたって広く使われてきた帆船の総称。/ふむ、数千年ね、三年より長いナ。よし、こっちにしよう。というココロです。
~つづく

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