「narrative-60の謎」-5
ご存知のように太宰さんの『グットバイ』は太宰さんの最後の小説、かつ新聞連載の小説で十三回まで書かれたところで(十回までは編集部に、残りは仕事場の机上)、太宰さんの入水自殺でそのまま終わっている絶筆です。けれども十三回までではありますが文庫には掲載されています。読みますとこれはかなりユーモラスな小説で、続く展開に期待がもてるといいますか、読んでみたいという欲求にかられます。しかし読めないとなると、私のような職種では続きを書いてみたいという誘惑がヤってきます。そういう私自身の欲望もあって私なりに戯曲化した『グッドバイ』を書いてみたのです。
ではこれをAIに書かせるとどうなるのか。これもまたひとつのオモシロイ試みとなるにチガイありません。十三回分の現物だけではなく、太宰さんの数多の小説のデータは揃っています。「以上の数々の太宰治作品を吟味した上で、『グットバイ』の続きをコメディタッチの戯曲で完結させなさい」とプロンプト(指示文のこと)すればいいワケです。
みなさんはよく知っていらっしゃるとは承知で、太宰治『グットバイ』のデータをウィキペディアから挙げておきます。私、毎月1800円ここには支払っていますので。
/『人間失格』を書き始める前の1948年(昭和23年)3月初め、朝日新聞東京本社の学芸部長末常卓郎は三鷹の太宰の仕事場を訪れ、連載小説を書くことを依頼する/。
あらすじ/雑誌「オベリスク」編集長の田島周二は先妻を肺炎で亡くしたあと、埼玉県の友人の家に疎開中に今の細君をものにして結婚。終戦になり、細君と、先妻との間にできた女児を細君の実家にあずけ、東京で単身暮らし。実は雑誌の編集は世間への体裁上やっている仕事で、闇商売の手伝いをして、いつもしこたまもうけている。愛人を十人近く養っているという噂もある。戦後3年を経て、34歳の田島にも気持ちの変化が訪れた。色即是空、酒もつまらぬ。田舎から女房子供を呼び寄せて、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。しかし、それについて、さしあたっては女たちと上手に別れなければならない。途方に暮れた田島に彼と相合傘の文士が言った。「すごい美人を、どこからか見つけて来て、そのひとに事情を話し、お前の女房という形になってもらって、それを連れて、お前のその女たち一人々々を歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引下る。どうだ、やってみないか」田島はやってみる気になり、かつぎ屋で「すごい美人」の永井キヌ子と彼の珍騒動が始まる/。
と、こういうハナシなのですが、これだと太宰さんのことをあまり評価していなかった川島雄三監督も映画化したかもしれません。そんなタッチです。/キヌ子さんはすこぶる美人なのですが、声が酷い。カラスのようなガーガー声。そこで、主人公はキヌ子に「きみは喋ってはイケナイ」と申しつける/。さて、問題はこのキヌ子のガーガー声です。AIなら、身体性は無視というか計算出来ませんから、抵抗ナシで、そのままのキャラクターでやるでしょう。活字の上でならそれは通用します。しかし、演劇は生身の人間の身体性で演じられます。演者、ここでは美人女優が演じなければなりません。映画なら吹き替え、アフレコなどの技法がありますが、演劇はそうはいかない。そこで「フレーム問題」を想起して下さい。複数の思念を同時に処理するシステムです。私などはAIとはチガッテ「フレーム問題」を抱えてはいません。私(におけるヒトの脳)にとっては「これはフレームの重ね合わせでなんとでもなる」ものなのです。
オードリー・ヘプバーン主演(ハンフリー・ボガードのand共演)の『麗しのサブリナ』はオードリーの作品の中では私が一等好きな作品です。これは一度舞台化したかったのですが、資金がナイ。そこで、ここはうまくこのヤリタイ企画を活用すべく、『麗しのサブリナ』をフレーム・インすることにしました。とにかく中年コロシの役におけるオードリーはあの作品が最も美しい。シスがオファーしたヒロインの蒼井優さんは女学生のように初々しく、一方の主役の段田安則さんはコロされる中年紳士(教授)にはピッタリです。こういうフレーム・インはAIには無理か、かなり難しいfunction(作用・操作)です。もっとも「重ね合わせ」をかんがえれば量子コンピュータには可能かも知れません。量子(ビー)ビットは重ね合わせですから。それはひとまず置いておき、「ガーガー声」はどうしたか。これもちょっとオモシロイことをおもいついて試みました。ヒロインは自称「河内生まれ」で河内弁しか喋れないということにしたのです。「なんっかしとんねん(何、ぬかしとるねん-何を云っているのだ)」。当然、これは封じ込め、御法度となります。とにかくヒロインが口をきかないという設定にすればイイのですが、何故喋らないかは大事な逆に〈おいしい〉ファクターです。つまり「ガーガー声」より「河内弁」のほうがお芝居としてはオモシロイ。蒼井優さんが河内弁で捲くし立てる。これだけでもスゴイ身体性ですが、AIのアルゴリズムでは出来ない相談でしょう。何故なら河内弁というものにAIは記号接地することが出来ない。どこにもそんなデータは無いからです。さらに教授の愛人たちについては何故愛人にしたのかを明確に「貧困のシングルマザー」ということにしました。愛人切り捨てを、これも人情喜劇にする。こういう演劇的な世間的具体性とでもいいますか、functionの変更が演劇の醍醐味なのです。ついでにいえば「醍醐味」もAIには現実の味覚としてはワカラナイところでしょう。
不思議におもわれるかも知れませんが、太宰治さんの作品の多くは北杜夫さんのエッセイ『どくとるマンボウ』シリーズを彷彿とさせるような人情喜劇(human comedy)なんです。のちのち、読書家(読書評論家)の小泉今日子さんに太宰さんの『人間失格』読後感を聴いてみたことがありますが、「とてもユーモラスでした」と述べてらしたです。太宰さんは「道化」というコトバが好きだったようです。ウィリアム・ウィルフォードによると、〈道化〉とは、/秩序と混沌、賢と愚、正気と狂気のはざまに立ち、愚行によって世界を転倒させ、祝祭化する存在。ある時はお調子者のトリックスターとして、ある時は賢なる愚者として、あるいはスケープゴート(犠牲)として、〈道化〉は大きな役割を果たしてきた/。これを太宰治データのファクト(実際にあったことや事実、現実、実際を意味する。理想や噂、作り話ではなく、事実に基づいたデータ)として読み取れるAIはどれだけあるでしょうか。勇み足かも知れませんが、この意味合いで沈思すれば、太宰嫌いを明言してらした三島由紀夫さんの市ヶ谷駐屯地の割腹も極めての〈道化〉であったと私には感じられます。
~つづく
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