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2025年3月12日 (水)

「narrative-60の謎」-2

大雑把な分け方ですが「フレーム問題」というのは〈空間的〉あるいは〈デジタル〉な感じが/そこはか/とします。あくまで/そこはか/ですが。それに対して「記号接地問題」になりますと〈時間的〉なあるいは〈アナログ〉な感じがやはり/そこはか/とします。大雑把な分け方での/そこはか/だということはおゆるし願うとして論をススメますが、あまりに無責任もよくないでしょうから、/そこはか/についてもう少し言及しておきます。どちらも〈像=イメージ〉に通ずるのですが、フレームというからにはやはり写真機のフレームを連想します。ですからある被写体、例えば「花」にレンズをむけているとき、花をフレームにインさせているとき、「そういえばこの花に似た花が故郷の畦道にも咲いていたな」とか「印象としてこの花はコンビニ・レジのお嬢さんの新人さんのあの娘を連想させるな」とかヤヤコシイですが、同時に脳裏に浮かべることが出来ます。「記号設置問題」が発語したコトバが現実の何を指し示しているのかという場合、その場にその固体が存在すると簡単なのですが、誰かとのハナシの途中で出てきたコトバを互いが思い浮かべるとき、それは互いの思いの像(イメージ)でしかありませんから、チガッタものになることが多いものです。こういったことを〈クオリア=主観的な感覚や体験、質感、感じを意味する言葉〉で、哲学的に比較不可ともいいます。これが固体であればまだいいのですが、例えば「歌声」「水の流れ」というふうな「音」の場合、さらにクオリアは深まります。では、そのようなクオリアを含めて、AIはコトバ(記号)をどうやって接地している(現実・固体などとくっつけている)のか。ほんとはくっつけていないんじゃないの。これが「記号接地問題」です。はい、くっつけてはいません。
さて、そこで大澤老師もおやりになったようにまず「記号接地問題」から手を付けます。何故かといいますに、先述した如くこっちのほうが言語とAIの問題を論ずるのに近隣だからです。言語学に一説を投げ掛けたソシュールさんやウィトゲンシュタインくんが、それぞれの言語学でやったように、「イヌ」という単語を取り上げてみましょう。ご両人とも同じようなことを仰っているのが、ご存知のように「一対一対応」です。「イヌ」といった場合、それに対応する現実のイヌが存在するというアレです。これは漢字で書きますと「犬」ですね。「イヌ」とAIにプロンプトした場合、AIはまず「犬」というものと対応させます。実際には観たこともなく、触れたことも噛まれたこともナイのに、です。これが記号接地です。接地と認識とのチガイは何なのか、大雑把に分けると身体感覚と脳の思考ということになります。これを説明するのに、ヒトの場合は身体がありますから、「イヌ」が「居ぬ」ということもあるでしょうし、「射ぬ」もあるでしょう。AIの場合は「犬」とプロンプトすれば「犬」ですが「イヌ」だけではさまざまな「イヌ」をデータ検索します。ヒトの場合にも発語してみてワカラナイことが在るのですが、ナニか身体動作なり、所作、営為とその記憶が加わると即座に理解、認識します。「五十度の油は熱い」「縫い針で指を突いてしまって痛さを覚えた」等々です。「身体」がナイ。これをもう少しフェーズアップしていうと「身体性」が無いということです。そこで、「身体性」で私たちが経験などで識っているように「水」というプロンプトを使ってみます。その場合、水の感触というものを私たちは身体的に記憶しています。ところがAIはそうではナイ。では、AIは「水」を何と接地させているのだろうか。アタリマエのことになりますが、さまざまなデータとです。水の冷たさ(温度)、臭いや手触りなどの事実(現実)ではアリマセン。AIはヘレン・ケラーではナイのです。これは重要なことです。「さらさらと水が流れる」こういうプロンプトはAIには難しいはずです。「皿、皿と・・」「皿の流れていく様子」と解析するかも知れません。しかしまあ、「水」などの場合は一対一対応がわりと簡単そうです。「さらさらと流れる水」というデータを幾種類も持ってさえいればAIもそれをコトバに出来ます。それでは、ここで、(水が出たところで)、これはどうでしょう。「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」、これは松尾芭蕉の有名な俳句です。これもまず「水」というものが認識、了解できていなければ解釈出来ません。ところで、この名句は写実(写生)の句ということになっているのですが、つまり、観たままを写すとされていてコトバを変えると「写生句」とでもいいましょうか、絵画などでは抽象画にたいする具象画という扱いをうけます。ヒトとヒトとの間の解釈、了解、認識も多くはそうなっています。ですが、偏屈者の私は意義アリと手を挙げます。いや、これは「心象句」だと云いだすのです。困ったものですかね。しかし、こういう困ったことを仕出かすのが演劇者の本質でもあるのです。私はこの句から寂寞の中のココロに沁みいる「孤独」、滅々たる孤独ではなく寂静たる孤独を感じたりします。この句の横に「独居」「忘我」などとsubtitleを入れたらそれがもっと鮮明になってきます。では、こういうふうなところにAIは記号を接地出来るのか。もちろん、そういうデータさえ与えて置けばそうするでしょう。ただし、それが何たるかはワカラナイというより、ワカルことを必要としない。ただ、データの結び付きが不都合でなければよろしい、というだけです。たとえば「敵手を斬り棄てたいま、古老の剣士は芭蕉翁の一句を諳じていた」の中の一句とは何かと、AIにプロンプトしても、AIは「そのデータはアリマセン」としか応えることは出来ません。あるいは辻褄だけを合わせて応えようとするだけです。もしくは芭蕉の句を幾つかひねくり出してくるか「敵手斬る 古老の剣士や 芭蕉翁」みたいに嘘の句を創作するかも知れません。これは思考の結果ではなく単なるデータの繋ぎ合わせですが、それとなく創造性を感じさせます(とはいえ、感じているのはあくまでヒトのほうだけなのですけど)。そうなのです。ひょっとしておもいだされた方もあるかとおもいますが、落語の『こんにゃく問答』こそ、がAIの最も得意とする技なのです。
では、何故、私が彼の知人の演劇問答の答えを苦笑したのか、次はそれに応えてみます。
~つづく

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