「narrative-60の謎」-9
続いては、長谷川伸さんの股旅ものになります。『文学シアター』の始まりはわりと、おカタイ文学路線でしたが、ここらで大衆文学路線を入れてみることにしたワケです。提案したのは私ですが、三作目は『沓掛時次郎』です。ここで私がやりたかったのは「股旅もの」そのものではアリマセン。それに重ね合わせて、以前から舞台化したかった『旅の重さ』です。日本の小説家・素九鬼子さんの小説を原作にした日本映画。1972年(昭和47年)10月28日公開。松竹製作、監督・斎藤耕一、 脚本・石森史郎 高橋洋子主演(オーデションデビュー)の映画化で、主題曲は吉田拓郎さんの「今日までそして明日から(~私は今日まで生きてきました)」です。原作は読んでいないのですが、映画は四回観ています。この小説については数奇な運命とでもいえばいいようなドラマがあります。芥川賞作家でもある由起しげ子さんが病没した際に遺品整理で蔵の中から素九鬼子(もとくきこ)名義の原稿が見つかりました。おそらく由紀しげ子さんのファンの作家志望の女性だろうと、素性を調べましたが、誰だかワカリマセン。しかし、中身はオモシロイ、そこで出版社(筑摩書房でしたか)は出版すれば作家は名乗り出てくれるだろうと本人に無断で出版しちゃったんです。こういう賭はオモシロイですね。で、それはそれで図に当たったというワケで、映画化の算段まで出来てしまいました。名乗り出た素九鬼子さんはその後、直木賞の候補にもなってらっしゃいます。わりと早くに休筆されてしまったのですが、『旅の重さ』はなかなかのドラマです。サクサクとしたあらすじを述べると、とある家庭の問題と自立への憧憬で家出をした少女が(この辺りはコテコテやらない)旅先で様々な人々に出会いながら、四国を巡礼する半ばロードムービです。林芙美子さんの『放浪記』を彷彿とさせるという批評もありますが、私はそうは感じませんでした。もっと都会派、現代的な状況描写のエロスが強かったです。エロス=生きる力です。足摺岬の近くで旅芸人・松田国太郎一座と出会い一緒に過ごすのですが、ここを中心に舞台にしたくて、この旅劇団の舞台演目に『沓掛時次郎』を入れたのです。ですから、『沓掛時次郎』をそのまま舞台でヤったワケではありません。Producerのほうから「時代劇・剣戟はお金かかるから」といわれたのを、「かからないように書きます」ということで、主要な場面お馴染みの場面を劇中劇にしてみたのです。それについてproducerは「そうよね、『沓掛時次郎』ってこれだけよね」との感想がありました。他の映画化、コミック化された長谷川伸作品の『沓掛時次郎』も参考にしましたが、やはり加藤泰監督の映画がイイです。ここにもうひとつ加えた長谷川伸作品が『暗闇の丑松』です。これは、私の単なる想像ですが、この作品を書くにあたって長谷川伸さんはシェイクスピアものを書いてみたいとおもわれたにチガイアリマセン。ですから『暗闇の丑松』は長谷川伸作品としてはかなり異質で、物語の展開がシェイクスピア作品に近いのです。私の舞台ではラストシーンは主役がヒロインの目前で敵役と一対一の決闘シーン、拳銃の一発勝負で、西部劇ふうのシーケンス(sequence 映画やテレビで、一続きのシーンによって構成されるストーリー展開上の一つのまとまり)にしました。この舞台の稽古の途中、ベテランの段田さんが役に入り込み過ぎて涙をこぼすときが何度もありました。ほんらい、それはプロの舞台では御法度らしいのですが、私は上機嫌でした。いうなれば、その舞台の量子コヒーレントの場、つまり量子の純粋状態では、そこに描かれたことは現実とみなしてイイというのが私の立場です。演劇は虚構だ、などいうのはニュートン力学における単なる常識に過ぎません。量子力学ではこの常識というものが通用しません。私が学んだ量子力学はいまや「古典」の部類(コペンハーゲン派解釈の頃のシロモノ)ですが、演劇もまた常識を超えているとかんがえる私にはワリに理解しやすいものです。
~つづく
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