「narrative-60の謎」-3
簡単に述べてしまえば、現状の演劇には私が見よう見まねで戯曲に触れ始めたときよりもAIでも書けそうな「オハナシ作品」が溢れています。と私は感じています。現状といえど、演劇情況を詳細に統計調査したことではナイのですが、長年の勘というものはそう狂いません。いうなればこれは十数年 東京演劇 の脚本スタッフを仕事してきた感想批評、卑近なコトバでは「降りてきた」ものです。余談ですが、劇場の販売ブースで最近『戯曲販売』のバーナー(看板)を出していたら、客から「戯曲って何ですか」と問われました。苦笑と溜め息のアト迷いつつも「脚本のことです。舞台よりオモシロイときもありますよ」と応えました。こんなふうだからこそ、彼(大澤老師)の知人の演劇屋さんも、問われて「オモシロイものが出来るんじゃないかな」などと応えたのだとしておきましょう。商業演劇はもちろんのこと、芸術とやらを戴冠している演劇もそうです。ストーリーテラー(筋立てのおもしろさで読者をひきつける小説を書く作家)も存在します。そういうものはストーリー(オハナシ)があるので、観客にもよくワカリマス。昨今はナラティブなどと称される、/ちょっとしたオハナシ/のようなものもあります。落語の小話ではありませんが、特に物語という仰々しさのナイ〈オハナシ〉です。観客はオハナシがあるので安心して舞台を観ることが出来ます。演じる側も安心して演じられます。こういったものはどういったものなのでしょうか。と、まあ、おかしな問いかけになりますが、もし私がAIに「このような戯曲(脚本)を書け」と注文(プロンプト)する場合、予め戯曲というものがどういうものかというデータくらいは教えます(戯曲とは何かという理論ではアリマセン。簡単な解説です)。
以下の戯曲の構造という解説は私が戯曲の塾を開いているときに塾生に教えたものです。
/戯曲はかくなる構造を持っている/
① 位相の構造
② 順序の構造
③ 関数(代数)の構造
それぞれについてはここでは詳細に解説しません。①は戯曲の登場人物の相関図を近傍(トポロジー)で現したもの、②は科白を発する順番。これは一人芝居のときも同じです。③は戯曲を微分方程式で扱ったものです。これらは現代数学から取り入れたものです。たまたま塾生に高校の数学教師の方が在ったのですが、「数学的にはこれでマチガイナイです」とお墨付きはもらいました。同じことを高校演劇の部活の顧問に依頼されて講義したときには「何のことか全然ワカラン」といわれました(ついでに腹が立つので書いておきますが、当日になって講義が終わってから/講義料をマケテくれ/といわれまして、マケタのですが、その分はその後の仕上げ宴会の酒代になったそうです)
ところで、この構造をデータとしてAIには学ばせたとします。そうしますとたぶんAIはケッコーな戯曲を書くでしょう。オハナシなんてデータは腐るほどありますから。しかし、私はこの構造は塾生に対して「この通りに書け」といったことは一度もナイのです。もし、書けなくて、あるいは書いたが巧くいかなくて困った場合、この三つの構造のどれかに順当する欠陥が見つかるはずだと、教えたのです。私自身、この構造は参考にはしますが、その通りに戯曲は書きません。
では、どないして書くのか。
私の経験則を踏まえて、舞台で生ずることは全て戯曲(ホン)に書かれてはあるのだが、そのイメージ(作者のイメージ)通りには舞台には現れない(演じられない)ということを識っています。ここが身体性の記号接地が出来ないAIにとっては〈苦手〉どころか〈不可能〉に近いところです。たとえば、登場人物二人(男女を問わず)が道端で立ちバナシをしている。と、にわか雨になった。そのとき、戯曲では
〇「おや、雨だ。にわか雨ですね。
●「ああ、雨みたいだな。といって傘はナシ。濡れるかな。
〇「あそこの、庇のあるところに移動しましょう。
と、こう書くのはアマチュアか、下手なプロです。
〇「おや、(と空を観る)
●「(掌で雨粒を受けて)ああ。
〇「あそこ、どうです。
と、これでイイのです。というか、こう書くのがホンモノなんですが(そう教えましたが)、現状の演劇では前のほうでも構いません。というか、前のように書かないと「ワカラナイ」といわれたりします。AIなら間違いなく前のほうを書きます。ここからどういうことがいえるかというと、論理的帰結(まあ、理屈としては)としていまの演劇はAI(の戯曲)で充分間に合うのです。
文章の美しさで知られる昭和の文豪三島由紀夫さんなどは、水を一杯所望して、水が運ばれてきたときに、もっとも良い文章は「水がきた」だ、と述べています。簡潔な文章は美しいのです。
この「美しさ」「簡潔さ」をAIにデータで学ばせることは出来ます。ただし、それはAIの〈思考〉ではありません。データを与えたヒトと、アウトプットを読んだヒトの心情です。「美しさ」と「簡潔さ」というものをデータで繋ぐことはAIには出来るのですが、AIが/簡潔なものは美しい/ということを理解、了解、認識しているのではありません。たとえばレンブラントとモジリアニの絵画をAIにみせて、「どちらの絵が美しいか判断しなさい」とプロンプトしても、AIは答えることは出来ません。しかし、理屈を書くことならするでしょう。その理屈を読んで「ふーん、そうか」なんていっているのは単純にそのヒトの脳髄の判断解釈でしかありません。
たしかにデータを与えられた、あるいは学習したAIに戯曲を書くことは出来ます。しかしそれはずいぶんと紆余曲折した剽窃ギリギリのものがせいぜいだと、私はかんがえています。私が創ろうとしている演劇はそういったものでは まったく アリマセン。
~つづく
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