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2025年3月24日 (月)

「narrative-60の謎」-7

次に、演劇においての戯曲の文学性と舞台における役者の身体性、これもまたAI問題とともにオハナシしていきます。具体例として恰好の例はシス・カンパニーの「文学シアター・volume・2」での『草枕』だとおもわれます。『草枕』はご存知のように夏目漱石さんの初期の小説ですが、シス・カンパニーの構想ではほんらい太宰治作品での三部作にする予定だったものが、私が最初の『グッドバイ』でさまざまに太宰作品をリミックスして用いたこともあって、producerが別の文学に舵をきったのです。じゃあ、まあ、文学らしいものとして夏目漱石にするかと、その中でも舞台化されていない作品というか、舞台化出来そうにナイ作品ということで私が選んだワケですが、ほんとうのところ、私は文学という分野にはあまり縁がなく、夏目漱石さんに至っては『坊ちゃん』と『夢十夜』程度しか読んだことがなく、『猫』もあまりのダラダラした展開に(これは新聞小説でしたから致し方なきことなんですが)途中で読むのをヤメた記憶があります。ただ、悪運が強いといいますか、私の親しい知己である映画演劇評論家の安住恭子さんがちょうどその折、『「草枕」の那美と辛亥革命』という評論で和辻哲郎文化賞を受賞されまして、そのホンは読んだワケで、こりゃあ使えると、安住さんにこの本のネタを他の演劇映画に私より先に使わせないでネ、とお願いして、それをフレーム・インしたのです。なんとならば、舞台ヒロインは小泉今日子さんということに決まっていましたので、これまたちょうどイイやと簡単に決めたのですが、本編の漱石さんの『草枕』を読んでみますと、小説というよりも日本文化に対する論評を小説に仕立てたという按配で、なるほどいままで舞台化されなかったワケがよくわかりました。AIならこれをどう記号接地するのだろうか、ほぼ不可能なんじゃないかなとおもわれます。データなら豊富なんですが、ストーリーとしてはあまりに単純です。しかし演劇、戯曲ではそれでも出来るんです。何故なら、演劇、まず戯曲というものは「棄てる」ことが出来るからです。何をかというと「要らんもの」をです。AIですと『草枕』は日本文化礼賛と欧州文化批判を組み入れての大長編になるところでしょう。それぞれのデータを繋ぐ作業というのは膨大になります。AIは「棄てません」から。というか、何を棄てていいのかが判断出来ませんから。
漱石の『草枕』は書き出しが有名です。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
この冒頭の一文はまるでお芝居のせりふのようです。私が『草枕』を選んだのはそこにあります。他に、あらすじめいたところでいえば、/日露戦争のころ、30歳の洋画家、主人公が、山中の温泉宿に宿泊する。宿の「若い奥様」の那美と知り合う。出戻りの彼女は、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」ですが、その那美から、主人公は自分の画(自画像です)を描いてほしいと頼まれます。しかし、彼女には「足りないところがある」と画家は描かないんです/。この辺は妙に芝居がかっていて興味を惹かれます。ところが、ある日、彼は那美と一緒に彼女の従兄弟(いとこ)、満州戦線へと徴集されているのですが、彼の出発を見送りに駅まで行き、その時、ホームで偶然に、満州行きの為の「御金を彼女に貰いに来た」別れた夫と、発車する汽車の窓ごしに瞬間見つめあうのです。そのとき那美の顔に浮かんだ「憐れ」を横で主人公は観てとり、画家としてインスパイアされて、「それだ、それだ、それが出れば画になりますよ」というワケです。もうこれはお芝居、舞台化するとまずオモシロイところです。こういうところが何故、舞台化するとオモシロイのか、AIにはワカリマセン。何故ならば、AIには顔がありません。身体性が、身体的な記号接地が無いからです。表情というものの「憐れ」に記号接地出来ないのです。ただし、そうanswerすることは出来ます。そこがマシンとして優秀なところでもあるのです。/画家はナミの表情に「憐れ」を発見し、それは絵画に可能だと判断した/てなanswerになるのでしょう。これは文章の上だけで、AIには「憐れ」はワカリマセン。しかしanswerを読んだヒトはそれがワカリマス。AIとヒトとの物象化はそういうものです。
ところで、キョンキョンはこの那美をどう演じたか。小説、戯曲の文章ではAIにせよヒトにせよアッサリ書けるのですが、女優であり身体、身体性を所持しているキョンキョンは「憐れ」を文字どおり「身体=表情」で現さねばなりません。こういうものはイキナリ出来るのではなく、舞台の物語の進行を追っていって出てくるものでナイとイケマセン。演出もかなりの苦労です。最後の通し稽古が終わった時点で、この演技は演出から観てうまく出来ていませんでした。演出は「出来るべき手はすべて尽くしたけど、駄目だった」とギブアップするありさまです。私も演出とは演技の方法論を話し合ったのですが、小泉さんに上手いアドバイスは出来ませんでした。ところが、最後のゲネプロ(ドイツ語の「Generalprobe(ゲネラールプローベ)の略で、本番と同じ条件で行う通しリハーサルのこと)になって、まるで嘘のように小泉さん、これをヤってのけたのです。一つ前の「通し」とはまるで違いました。驚きですね。別に戯曲を書き換えたのでもアリマセン。主役の段田さんが逆に今度はうなだれて、「いやあ、参った。もうこの芝居は姐さんに任せる」なんていう始末です。何故、そういうふうになったのか、これこそ、AIには理解不能(作用化不可能)な出来事です。
~つづく。

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