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2025年3月17日 (月)

「narrative-60の謎」-4

/簡潔なものは美しい/は一つの命題です。しかしこの命題が正しいかどうか、すべてにおいて一律かどうかは単独のヒトの脳においても決定することは出来ません。非決定的なものです。「簡潔なもの」というデータと「美しい」というデータはそれぞれ別々に使えます。前者は副詞的ですし、後者は形容詞ですから、数理学や社会学などではけっこう多用出来そうなので意外ではありますが、AIなどはこういった分野を得意としているのではないかという予想は出来ます。どのようにも使えるつまり扱い安いデータです。
ハナシを演劇のところにもどします。
私が創ろうとしていた演劇、創りたかった演劇とAIの演劇、ここではAIの書く戯曲ということでAI戯曲と称しておきますが例の演劇関係者の弁による「書かせたらオモシロソウ」な戯曲のことです。その相違点などを明らかにしていくことで、AI戯曲の限界、もしくは領域に迫れるだけ迫ってみたいとおもいます。
まず、その比較の具体例として、私が独自に扱ってきた戯曲よりも依頼されて書いた戯曲、いわゆる舞台脚本、いわゆる広範囲の食うための実際の仕事に触れていくほうがワカリヤスイかとおもわれるので、それらを導入してハナシをススメます。
食うために書いた舞台脚本(依頼されて書いたもの)は、大きく分けて二つあるのですが、ひとつは声優さんたちの劇団からで半ば彼らの趣味成分が濃かったので、私の表現手法も割合多く反映されています。そこでもうひとつの商品演劇であるところのシス・カンパニーの舞台脚本を取り上げます。ここは「文学シアターと」銘打って、日本文学を私が戯曲に書き換えたものをプロデュース上演したところです。商品演劇というのは私の造語で、商業演劇ほど大規模な商業的ではないが、営利を目的としているところは同じで、プロデュース演劇をヤっているのですが、専属所属している俳優さんもあります。そういう俳優諸氏のマネージメントも行いつつ、比較的チケットが売れそうな俳優さんをオファーして、少人数で東京を中心に公演する。最近は大阪や九州などにも巡演していますが、オファーされた売れっ子の方などは地方での本番1ステージ終わると最終の新幹線で東京へ帰る。で、東京の仕事をして翌日に適宜の便でまた来る、といった俳優もいました。そういう俳優商品を以て成る演劇ということで経済を第一義的にかんがえたものが商品演劇です。カンパニーというからにはむかしの有限会社と同義です。けれども、そこは有限会社という感覚より、他の意味である「仲間たち」をイメージとしてかんがえていたとおもいます。俳優の仲間たちですね。「シス」というのはラテン語で「こちら側にものが集まっている状態」になりますし、難しいところでは/勇敢で粘り強い魂を意味し、希望が消えた時に現れるという翻訳不能なフィンランド語/にも該りますが、システムの略語とかんがえてもいいかとおもいます。どれでも意味は通ります。このカンパニーの特長は、中小ユニット・プロデュース公演としては、そこにオファーされるかどうかは、業界で一種の階級的な通行手形として認められるということです。紅白に出場と似たようなものとおもえばイイです。作品チョイスにおけるproducerのクォリティ、の選択レベルは権威を持っているということです。専属俳優諸氏も一年契約で、一年ごとに契約更新となります。ここのもうひとつの特徴は私の認識ではNHK権力に左右されないということですね。NHKが舞台の録画放映をと依頼してくると、たいていのところは飛びつくのですが、シスの社長でありproducerは、シリーズ全部を録画放送するなら認める、と、まあこんなふうにしか認可しません。これは痛快です。さらに公共の助成も民営のスポンサーも採りません。何処やらから、作品の内容についてああしろ、こうしろといわれないようにする為です。これは潔いことです。
シス・カンパニーは女性社長がproducerです。まず私の戯曲作品の『寿歌』を[堤真一・戸田恵理香・橋本じゅん]で公演されたのですが、このときは、私の戯曲をほぼ戯曲どおりにおやりになったので、特に此度の参考にはなりません。その後、producerの勘というもので、太宰治さんの作品がやりたいのだけど、という依頼がありました。で、太宰さんの最後の未完結作品、絶筆の『グットバイ』を『グッドバイ』とタイトルして戯曲化したのが最初の小説⇒(転換・転位)⇒戯曲です。
さまざまなエピソードがありますが、印象に残る社長、producerのコトバを挙げておきますと、社長が私と二人きりのとき、ふいに「『日本文学』という名称を使ったのは失敗だった」と述べられました。もちろん「Why」とquestionしたのですが、すると「だって文学というコトバはもう死語だから、文学というコトバはもう死んでいるからねえ」というのが答えでした。なるほど、そう云われればそんな気がしたというか、妙に説得力があったのを記憶しています。
さて、太宰さんの『グットバイ』ですが、最初の打ち合わせのときは、社長producerと二人だけで、彼女から「太宰『グットバイ』はかくなる点でうちのシス・カンパニーで公演するには向いていない」という説明を受け、それを箇条書きにしたレジュメを渡されました。それは予想していましたので、私としては初稿をすでに書いた上で打ち合わせに臨んでいまして、「じゃあ、こんなふうなので如何でしょう」とその場で初稿を読んでもらったのです。こういう、先方の剣スジを読むことは剣法における「後の先(ごのせん)」と呼ばれていまして、相手が打ち込んできた太刀筋を受けつつ攻撃に廻るかなり効き目のある技ですが、こういったことは、やり過ぎると逆に用心されるとか、煙たがられることになります。私は社長と仕事の取引をしているだけなのですが、社長より私の信任がスタッフから大きくみえたりすると(そういうふうに社長が疑念を抱くと)「庇を貸して母屋をとられる」つまりトランプ不動産の〈ディール〉と誤解されやすいので、相手が防御にまわることも出てきます。単に当事者の注意だけではクオリアになってしまいます。
さて社長は私の初稿を一読「これなら、大丈夫」ということで、OK、ゴーサインが出ました。では、どんなふうに私は太宰さんの未完の小説『グットバイ』を戯曲化したのか。
~つづく

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