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2025年3月27日 (木)

「narrative-60の謎」-10

「narrative-60の謎」-10
このアトは能や歌舞伎でお馴染みの『黒塚「安宅」』、江戸川乱歩さんに飛んで『お蘭、登場』坂口安吾さんの『風博士』とつづいていきますが、先述した失敗作『奇蹟』についておハナシしておきますと、この作品は原作にあたる文学はアリマセン。世間はCOVID-19、コロナ騒動で、かなりタイトな時節の作品だったのですが、主役を演じる俳優の方が、ミュージカルの王子様と称される(特に女性に)人気のある名優だとは、私、まったく知りませんでした。ともかく私は芸能界には疎い。井上芳雄さんといえば、キャーッと媚態を魅せる熱烈なファンが多かったのですが、私、まったく知らなかったのです。これは劇作家としては大失策でした。AIなどはこんなマチガイはしないでしょう。井上芳雄さんが誰でどんな人物なのか、これはこれで「固有名問題」といわれます。これは深く学習していませんので今回は立ち入りません。簡単に述べておけば、そのヒトがどのようなヒトかというそれだけです。AIが俳優データ以外のそのヒトの履歴をどこまで学習しているかは不明ですが、私としましては、「出演者に対する知識が無かった」というのは致命的ミス、エラーであることは間違いアリマセン。
『奇蹟』では、ジェンダー問題を隠しテーマにしたミステリを書いてみたのですが、そこでカトリックにおける奇蹟認定をsituationとして扱いました。キリスト教には奇蹟はつきものですが、バチカンに「認められていない奇蹟」が何故「認められない」のかです。そこのところに興味があって書いてみたのです。奇遇でしたが、主役の井上さんはクリスチャンでした。キリスト教の奇蹟にはマリア関連の奇蹟が圧倒的に多く、といいますかイエスの奇蹟は殆ど無いといっていいのです。よって認定されていないものも多いのです。これが「奇蹟非認定」のひとつの答えです。もっともマリア信仰のキリスト教派もあります。なにしろ救世主を産んだ女性なのですから。母性としての愛なのですから。
/主筆・注] 宗教学的に分析すれば、あまりにも男性中心の世界で発展したキリスト教が、ともすれば欠(か)かしがちだった母性的なものへの人間の自然の憧憬をそこで満たしてきたといえる。キリスト者は病気や死の苦しみの中で自分の弱さを痛感するとき、母のやさしさをもって慰め、助けてくれる存在として、聖母にすがった。しかしそれはマリアを女神のように拝むということではナイ。そうではなく、聖母マリアが私たちとともに神に祈ってくださる、という信心がマリア信仰だ。プロテスタントでは基本的に聖人聖女を信仰せず、マリアもその対象とならない。そのため「聖母マリア」と呼ばれるのはカトリックのみで、プロテスタントでは主に「イエスの母マリア」といった呼び方をする。16世紀半ばに日本で布教を始めたイエズス会や托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会)は聖母マリアへの信仰が篤いことで知られるカトリック教会の会派。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、『第二の性』の中で、「聖母マリア崇拝は男らしさの最高の勝利の象徴である」と述べており、女性に従順・母性・純潔を求める規範であることで男性の利益にかなう存在だとの見方を示している。(月1800円のウイキペディアを含む)/
天国の玉座にはヤハウェとイエスのものは用意されているのですが、マリアの座はアリマセン。彼女の座する場所はナイ。奇蹟はマリア関連のものが多い。なのに、天国におけるマリアの場所は無い。これはもうカトリックの矛盾ともいえる男尊女卑、男女差別の鮮明な事実です。キリスト教が万人平等を説いたかどうかアヤシイところですが、天国においては万人平等です。マタイによる福音書20章1-16『葡萄園の労働者の譬え』は有名なのですが、私としては高校卒業後すぐに読んだ配布聖書の中でワカラナカッタところです。後年、教派によって解釈は異なっていますが、イエスは天国の平等についての譬えとしてこれを応えたワケですから、この譬えのとおりに読むと、天国というところの平等とは何かは理解出来ました。とはいえ、私がキリスト教を好まないのも、原始キリスト教から中世キリスト教と歴史の変遷で、そこに階級主義を嗅ぎ取ったからです。そういうワケで、『奇蹟』はこの首尾一貫としないカトリックにおけるジェンダー問題を扱って、ミステリにしてみようというプランでしたが、それに伴ってミステリの事件もその謎の解決も、それに倣うカタチでハッキリ示さないでおこうという仕掛けで、ミステリ・サスペンスの雰囲気だけは、昔のミステリ雑誌『新青年』ふうのものをと企んだのです。つまり雰囲気だけのミステリというものに挑んだのですが、演じる側で「よくワカラナイ」というクレームが多くを占めました。これはアタリマエといえばあたりまえです。だって「よくワカラナイ」ことを持ち出して、それを社会問題として扱わず、ミステリとして書いたワケですから。/マリアが女性であるから奇蹟認定が難しい/というよくワカラナイ、あるいはワカリ過ぎるほどのカトリックの男尊女卑権威主義に対する批判のつもりだったのですが、謎の解決に明確に触れない不満と、それでは演技が出来ないという不確かさが大きかったです。私にしてみれば、「世間や政治の情報、状況なんてアヤフヤなものじゃナイか」と、この辺りから情報というものに対する懐疑というものがあったのです。ちなみに井上さんはこの「ワカラナイ」騒ぎには冷静で、そんなことはお芝居においてはどうでもイイというふうな立ち位置でした。これは、私が問題にしているマリア問題、男尊女卑問題をクリスチャンとしてよく「ワカッテ」らしたのだとおもいます。彼はカトリックではなくクリスチャンですから、逆にそんな騒ぎを面白く眺めてらしたのだと、いまは解ります。そういうことを考慮するにおいて尚更この舞台はもったいない舞台でした。AIにしてみれば、もっと簡単に書けたヨウナ気がします。井上さんの歌唱を中心にハナシを進めていけばそれで良かったのですから。
これはほぼ棄てネタのつもりででしたが、マザー・テレサなどは屍蠟化して保存されることを、屍蠟化は一種の奇蹟的死体なんですけど、そいつを切に願って、世界中から集まる寄付金で病院の療養治療施設を近代化せずに、いつまでも貧民の為の病院、療養所にみせかけるために、貧乏くさいままにしておきました。つまり「哀れみの対象」を壊さなかったワケです。余剰な寄付金は自身の贅沢に使ったようです。まあこれは一説ではありますが。この説はカトリックの胡散臭さを突いています。私などはカトリックといえば、G.Kチェスタートンが好きです。彼の『ブラウン神父』シリーズはミステリ短編のお手本となるものですが、他の著作では進化論を含んだものもあります。化石を生物の石灰化として進化論を解釈するところなどは、やはり、胡散臭いといいますか、無理しているなあという感じです。チェスタートンの『正統とは何か』は私の人生の一冊なのですが、残念です。
この作品(『奇蹟』)をべつの観点からいえば、それならそれで、自信を持って不可解なまま書くべきだったのを、やはり「ワカラナイ」ままでは商品演劇として通用しないかなあと、ある程度は「ワカル」ようにしたほうがいいかという妥協的、中途半端な書き方が駄目だったということです。AIはこういうことはやらない、というか出来ないでしょう。たとえば芥川さんの小説『藪の中』のような、それを原作にした黒澤監督の『羅生門』の脚本などはAIには書けません。ひとつの問いに幾つもの解がある、まったく解釈のチガウものを一つのフレームにインすることは出来ませんし、記号接地や固有名の解釈がチガウということもあり得ません。けれども、そういったミステリはオモシロイのじゃないかと墓穴になってしまうのですが、書いたワケです。哲学者のスピノザが述べたように、/何か一つを選ぶということはそれ以外をすべて否定することだ/くらいの決意性、覚悟でナイと駄目なのです。「ワカル」ということは、どちらかに決めてくれということと同じことですから、虚構の舞台では、悪人は悪人、善人は善人であるほうが、演者にはよく「ワカル」。しかしそういった「ワカリヤスイ」オハナシは、ヒトをして脳の思考停止に追いやるのではないか、と、心配しているワケではありませんが、私にすれば~ツマラナイ~ことはたしかです。
~つづく

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