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2025年3月22日 (土)

「narrative-60の謎」-6

従って、というつながりになりますが、producerの注文が『グットバイ』の舞台化でしたので、「従って、『麗しのサブリナ』をほんとうの主題、記号接地にしたこと」つまり私のお気に入りのラブストーリーをフレーム・インしたことは、producerにも内緒でした。作品の内容からふつう気がつくはずなのですが、どうも『麗しのサブリナ』はオードリーの映画の中でもさほど知られていない部類なのだとおもいました。みなさん気付かないのか、知らんふりしているのか、ちょっとワカラナイというのが正直なところですが。以前、自劇団へ書いた作品『こんな宿屋』は、ルイス・ブニュエルの『ナサリン』を下敷きにしたのですが、たぶん演劇関係者で識るヒトは少ないとおもい、『どん底』(ゴーリキ)を下敷きにしたと喧伝しておきましたが、それでみなさん納得していましたからね。こういう「隠しテーマ」は、R.P.Gでは「隠れキャラ」という設定でよく登場したり、含まれたりするのですが、後に書いた『奇蹟』などもテーマをまったく誰も読み取れなかった(というのが私の失敗なのですが)ということもあります。この件については後に詳細を述べてみたいところです。ともかくもAIではこのような「多重フレーム」「多重記号接地」は出来ません。「多重フレーム」「多重記号接地」が現状では不可能だということは、具体的にいえば、もしAIで戯曲を書く場合、いくらうまく書けても、「フレーム」は一つ、「記号接地」も一つということになります。これはビット計算ではなくバイト計算と理解して、バイトを重ねていくことは可能なのですが、具体的にいえば、一つのテーマ、課題に乗せてさまざまなプロットやエピソード、ナラティブを創る。それはちょっと書ける劇作家になら出来ます。これがいわゆるワカリヤスイ作品です。けれどもそういった作品を批評家的なコトバで述べると「世界が狭い」というふうにいわれることは多いですね。簡単にいえば、哀しいテーマを哀しい物語で書くという、それはフレームの狭さを物語っているということです。では、「世界か広い」となるとこの逆なのですが、たとえば映画にもなった、池井戸潤さんの「空飛ぶタイヤ」や「下町ロケット」です。これらの作品は現代版人情悲喜劇なのですが、たしかに世界は広がっていっています。中小企業が大企業に対峙する物語、さらに明日にも倒産しそうな中小企業が宇宙ロケットの部品を創ることで大企業と争い勝ち残る。その技術というものを描く、とタイトルからしてそうです。もっと身近なところでは渥美清さんの『フーテンの寅さん』シリーズの中にも秀逸な作品は散見しています。基本的には職業、教養に原因する失恋物語ですから哀しいのですが、喜劇として描いています。時々の失敗作、駄作は左翼的思惑が強く出た場合に多いようなときですね。ここでは個別には論じません。総じていえばヒューマニズムを左翼思想に直結したときが、そんなときですかね。あくまで私的感触ですが。
さて、AIの弱点であるリテラシーの未熟さは作家、劇作家、脚本家にとっては反面教師として大いに学ぶべきところです。そういった意味ではAIに下書きをさせるというのも一つの手段、手立て、方法でしょう。この辺りはAIの必要性を述べていることになります。
人情悲喜劇というところは、私の戯曲『グッドバイ』にもとり入れました。太宰さんの小説にはストーリーがどうの、テーマがどうのという前に、底辺には人情悲喜劇があります。人間関係の悲哀、私的な苦悩も多々書かれてあるのですが、それは一種の疑似私小説だからなのですが、ともかく「徹底的におのれを笑う」というヒューモア、道化に溢れています。ですから長編エッセイ小説の『津軽』や後々の『津軽通信』などは圧倒的にチェーホフの短編喜劇小説を飛び越えています。
そういうヒューモアや人情悲喜劇を私は『麗しのサブリナ』にも観たワケですから、フレーム・インさせたワケなんですが、コトバを換えればなんだか堅苦しい演劇や、芸術的表現なんかに拘らず、いわゆる「お芝居」を書くつもりで、太宰『グットバイ』をデータにしたワケです。観客が芝に居るということで「芝居」なのですが、そんな物象(観客との関係と了解)を書いたのです。思わず舞台に向けて一声かけたくなるような芝居です。
これは私の中で、かつ観客諸氏にも波状的に伝達出来たようで、教授がおでん屋のおっちゃんの励まし、あるいは一喝でヒロインのアトを追うシーンは拍手がきました。このおでん屋さんというのも重要なファクターとしてデータにしたものです。果たしてAIは「おでん屋」をどうデータとして学習、読み取ることが出来たろうか。ちょくちょくドラマや歌謡曲にも登場する「おでん屋」なのですが、そこは単におでんをツマミにコップ酒を呑むというところではナイ。むしろ、吐き出すところだ。何を、愚痴と悔恨を、敗れた夢と失った愛や恋を吐露するところなのです。ですから、知らぬどうしが小皿叩いてチャンチキおけさ、となるワケです。もちろん、太宰さんの本歌にもちゃんと出てきます。そんなところにAIは記号接地は出来ないでしょう。何故ならAIには人生がナイ。あるのは人生というデータだけである。それはつまり他人の人生という資料をなぞった物語でしかナイ。けれども、生身の役者の演じる舞台には、ほんとうの人生の成功と挫折、苦渋と再起が、文字どおりヒトの数だけあるはずです。
大事なのはここです。それらが「ヒトの数だけある」というところです。それをステロタイプ、プロトタイプ、模範演技にコピーされてはたまらない。いい役者というのはけして演技の上手い役者のことをいうのではありません。「ヒトの数だけある人生」をおのれの人生と重ね合わせて演じてみせることの出来る役者こそ優れた役者であり、その技を演技というのです。起承転結が如何に面白おかしく書かれていても、私にはそんなものには興味はナイ。ありていにいえば、私の望む演劇には、世間一般でいわれるような上手も下手もナイ。格好良くいえば、斬れば血が出る虚構こそ演劇です。
~つづく

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