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2025年3月

2025年3月31日 (月)

「narrative-60の謎」-12

妙な言い回しですが、AIにも希望はあります。量子コンピュータビットの重ね合わせをかなりうまく活用出来れば、ヒトに近い思考を辿(たど)ることは出来るのではないかということです。簡単な例は前述した芭蕉の「蛙 飛び込む」の一句の解釈です。あの一句を写実としか解釈出来ないヒトはAIに近いといえます。もっと崇高なことをいってみればAIには「神」というものが何かワカラナイでしょう。もちろん、ヒトですらその質問には答えられないのですが、信ずるという心的構造は持っているのです。これをまったく逆の方向にシフトしてしまうとどうなるでしょう。/AIについて詳しいことはよく識らないが、創られたもの(云っていること)がよくワカルならば使ったほうが便利でイイ気がする/。これってパソコンが出回ってきた当時の世間の動向、情勢、世間の反応に似ていませんか。ですから私は冒頭でAI騒動はそれと同じ出来事ですと応えたのです。
たしかに「登場人物が七人までで、男女比は問わないが、年齢的に児童と高齢者は除く。物語の内容はチェーホフ的で小劇場演劇向き、予算はハード、ソフトを含めて三百万円程度。黒字でなくとも赤字が出ないチケット売り上げ回収率。稽古期間二カ月のべ100時間くらい。上演時間は90分程度で、政治的な要素は排除。現代口語のもので出演者、製作者、観客(大人であるが)にワカリヤスイもの。笑いと感動があるとイイ」
というようなプロンプトを与えれば、AIは立ちどころに一曲の戯曲(脚本といったほうが適切かも)で応じるでしょう。この程度のことならAIは「マス・イメージ」のデータを駆使してかなりの短時間でフレーム・インし、記号接地させることが出来ます。
ところで、問題はそのようなAIとパソコン黎明期の相似性などではナイのです。先述した如く重要な問題は、このようなAIの提出した戯曲(脚本)にproducer、スタッフ、キャスト、そうして観客が「それで良し」とする「イージー アンダースタンド」(正確にはeasy to understand)です(付名・主筆)。AIがそう答えたのだから正しいのではないか、或いは「正しい」と信仰する「AI信仰」「物象化」、これこそはハルシネーション(幻覚)やシンギュラリティー(AIによる統治)より恐ろしくはありませんか。いえいえ、これこそが、AIによるハルシネーションやシンギュラリティーと称されるものです。
DX(デジタルトランスフォーメーション)。デジタル技術を活用してビジネスモデルや業務プロセスを根本から変革する取り組みですが、こいつが日本(人)に向いていない理由としての主なるものは、/実際のビジネス変革には繋がっていない多くの企業の現状がある。既存システムが老朽化・複雑化・ブラックボックス化する中では、新しいデジタル技術を導入したとしても、データの利活用・連携が限定的であるため、その効果も限定的となってしまうといった問題がある。また、既存システムを放置した場合、今後ますます維持・保守コストが高騰する(技術的負債の増大)とともに、既存システムを維持し保守できる人材が枯渇し、セキュリティ上のリスクが高まる。課題として最も多く挙がったのが、「適切な技術スキルの獲得」でした。自社の社員をスキルアップできない理由として幹部があげたものとしては、「時間不足」「トレーニングのための構造がない」「組織に知識がない」が上位の3つです。(編集・参考/もちろん、月1800円のウイキ他)/
であるのに、割合、簡単に「AI、わかりやすい、よろし」になるワケ、原因、理由というのはナンでしょう。あるいはまったく逆に「AIなんて駄目よ」というAI嫌いになる理由とは。
おそらくもっとも簡単な理由は、その程度のことならAI(人工知能)ではなくとも現状のコンピュータ(パソコン)で入出力が可能だ、というものです。つまり「ヒトでも出来る」です。「ヒトにしか」ではなく「ヒトでも」です。
~つづく

2025年3月29日 (土)

「narrative-60の謎」-11

シス・カンパニーに書いた私の作品群に対してシスの広報がいいキャッチをつけてくれました。「文学の森を抜け 彼方へと続く」です。文学にたいする私の戯曲化の姿勢はそのとおりです。いまのところの私のかんがえを記しておくならば、AIの思考(があるとして)とヒトの思考(私のですが)を比較してみる場合、AIにはさまざまなヒトの〈生きざま=人生〉をデータ化して学習することはかなり難しいか、普通にいえば無理かとおもわれます。だからAIは駄目だといっているのではアリマセン。たとえば得意そうな、数学、これなどは計算や確率の統計のデータを文脈にして提出するなら可能でしょう。けれどもゲーデルの「不完全性定理」を理解して解説するのはどうでしょう。AIがあの『定理』をどのように理解しているのかは知りませんが、『定理』をAIにあてはめれば「もしAIが完全(正しいの)であるならば、AIは自らの完全(正しいもの)であることを証明出来ない」になります。さらに哲学はAIにはかなり難しそうだとして、音楽はどうでしょう。楽譜を並べて何らかの楽器で音を出すということは出来ますが、それを新しいオリジナル演奏というかどうかは疑問です。音楽の言語にあたる〈音符〉というものを単にデータとして連結するだけのAIには創造性も想像力も期待出来ません。「みたいなもの」ならいくらでも創りますが、それらは幾つかのネタのリミックスというものでしょう。「みたいなもの」といっても、たとえば「そろそろぞろりにはらはらぱっぱ、ペペンペンポンポンのったりこたりにジンジロゲとはゆかいだね」と鼻唄で歌ってみて、つまりオノマトペの適当メロとリズムなんですが、これをデータに端唄を創れというプロンプトは、AIには応答出来ないでしょう。オノマトペを考える認知科学からいってみれば、もっと簡単な「ポイ捨て禁止」は煙草を路上などに捨てることを禁止することだということがAIにはワカリマセン。何がかというと「ポイ」がどういうことかワカラナイのです。ものを簡単に捨てるとき、「ポイ」などという音はしません。この「ポイ」は感覚的了解の音です。AIには〈感覚〉概念の理解は出来ないようです。音楽にもどって、懐かしの少年少女活劇ドラマ『七色仮面』の歌詞には♪デンデントロリコやっつけろ♪という部分があります。さて「デンデントロリコ」ですが、子供の頃の私たちはこの部分の意味はまったくワカリマセンでした。けれども、感覚としては了解して歌っていました。♪解けない謎をトロリと解いてデンデンとトロリコ、とやっつけるのです。AIはしかし、このような文脈の了解は不可能におもえます。(ドラマとしての面白さの要因は子供がストーリーにからまないという当時としてはめずらしいものだったから、だと私はおもいますが)。AIは、流行している歌や音楽に似たような曲を創って「リスペクトです」と嘯(うそぶ)くことは出来るでしょうけど。それはリスペクトというデータに基づいてリズムとmelodyをそれらしく並べたものです。「あなたの苦悩をシンフォニーにしなさい」というプロンプトに応えたとしても、それは、それらしいタイトルのある音楽の真似、贋物、盗作の類です。(苦悩している様子の真似や模倣は出来ますが、ほんとうに苦悩するということはAIには出来ません)。
ところで、さすが公共メディア受信料徴集放送局、AIなどが話題になるずっと前、コンピュータによる作詞・作曲の歌の音楽番組を創っているのです。立命館大学・樋口耕一准教授が開発したソフト「KHコーダー」を使って、約3000曲の歌詞を入力し、時代ごとの頻出ワードを抽出、当時の社会情勢や流行のキーワードのヒントをピックアップ、明治大学教授・東京大学名誉教授の嵯峨山茂樹さんが開発したソフト「オルフェウス」を用いて、番組のために亜細亜大学教授の堀玄氏が組んだ特別プログラムを使い各時代の頻出ワード”を元に自動的に「作詞」、そこからメロデイを生成して「作曲」したというもの。仕上げに当代一流のアレンジャーが入って編曲を施しプロミュージシャンが演奏しました。できあがった「恋の夜東京」「女と愛と夏と」「愛の夢の涙」「LOVEバージョンYOU」「スペシャルMY」「NEW YEAR」。歌うのは、“ぐっさん”こと山口智充(ともみつ)さんと、ものまねタレントの福田彩乃さんで、放送はなんと十年近く前、2015年12月26日(土)午後9時~9時59分(総合テレビ)番組タイトルは『紅白The平均ソング』でした(近々に再放送があったらしい)。ちなみに、このときに歌われた「女と愛と夏と」の歌詞は、
♪恋は忘れるわ あああの人を待ちきれないで 待ちますかと二人 そんな男涙 あなたのように涙を愛す あなたのような女の愛 涙忘れればよ あなたが泣いた恋♪
現在のAIならマチガイなく、もっとまともな作詞をするでしょう。
ところで、ヒトにおいてもAIのようなヒトは存在するのではナイでしょうか。これは「ワカリヤスイ」オハナシしか理解出来ない者たちへの皮肉ですが、AIが私たちに突きつけるほんとうの問題です。
~つづく

2025年3月27日 (木)

「narrative-60の謎」-10

「narrative-60の謎」-10
このアトは能や歌舞伎でお馴染みの『黒塚「安宅」』、江戸川乱歩さんに飛んで『お蘭、登場』坂口安吾さんの『風博士』とつづいていきますが、先述した失敗作『奇蹟』についておハナシしておきますと、この作品は原作にあたる文学はアリマセン。世間はCOVID-19、コロナ騒動で、かなりタイトな時節の作品だったのですが、主役を演じる俳優の方が、ミュージカルの王子様と称される(特に女性に)人気のある名優だとは、私、まったく知りませんでした。ともかく私は芸能界には疎い。井上芳雄さんといえば、キャーッと媚態を魅せる熱烈なファンが多かったのですが、私、まったく知らなかったのです。これは劇作家としては大失策でした。AIなどはこんなマチガイはしないでしょう。井上芳雄さんが誰でどんな人物なのか、これはこれで「固有名問題」といわれます。これは深く学習していませんので今回は立ち入りません。簡単に述べておけば、そのヒトがどのようなヒトかというそれだけです。AIが俳優データ以外のそのヒトの履歴をどこまで学習しているかは不明ですが、私としましては、「出演者に対する知識が無かった」というのは致命的ミス、エラーであることは間違いアリマセン。
『奇蹟』では、ジェンダー問題を隠しテーマにしたミステリを書いてみたのですが、そこでカトリックにおける奇蹟認定をsituationとして扱いました。キリスト教には奇蹟はつきものですが、バチカンに「認められていない奇蹟」が何故「認められない」のかです。そこのところに興味があって書いてみたのです。奇遇でしたが、主役の井上さんはクリスチャンでした。キリスト教の奇蹟にはマリア関連の奇蹟が圧倒的に多く、といいますかイエスの奇蹟は殆ど無いといっていいのです。よって認定されていないものも多いのです。これが「奇蹟非認定」のひとつの答えです。もっともマリア信仰のキリスト教派もあります。なにしろ救世主を産んだ女性なのですから。母性としての愛なのですから。
/主筆・注] 宗教学的に分析すれば、あまりにも男性中心の世界で発展したキリスト教が、ともすれば欠(か)かしがちだった母性的なものへの人間の自然の憧憬をそこで満たしてきたといえる。キリスト者は病気や死の苦しみの中で自分の弱さを痛感するとき、母のやさしさをもって慰め、助けてくれる存在として、聖母にすがった。しかしそれはマリアを女神のように拝むということではナイ。そうではなく、聖母マリアが私たちとともに神に祈ってくださる、という信心がマリア信仰だ。プロテスタントでは基本的に聖人聖女を信仰せず、マリアもその対象とならない。そのため「聖母マリア」と呼ばれるのはカトリックのみで、プロテスタントでは主に「イエスの母マリア」といった呼び方をする。16世紀半ばに日本で布教を始めたイエズス会や托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会)は聖母マリアへの信仰が篤いことで知られるカトリック教会の会派。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、『第二の性』の中で、「聖母マリア崇拝は男らしさの最高の勝利の象徴である」と述べており、女性に従順・母性・純潔を求める規範であることで男性の利益にかなう存在だとの見方を示している。(月1800円のウイキペディアを含む)/
天国の玉座にはヤハウェとイエスのものは用意されているのですが、マリアの座はアリマセン。彼女の座する場所はナイ。奇蹟はマリア関連のものが多い。なのに、天国におけるマリアの場所は無い。これはもうカトリックの矛盾ともいえる男尊女卑、男女差別の鮮明な事実です。キリスト教が万人平等を説いたかどうかアヤシイところですが、天国においては万人平等です。マタイによる福音書20章1-16『葡萄園の労働者の譬え』は有名なのですが、私としては高校卒業後すぐに読んだ配布聖書の中でワカラナカッタところです。後年、教派によって解釈は異なっていますが、イエスは天国の平等についての譬えとしてこれを応えたワケですから、この譬えのとおりに読むと、天国というところの平等とは何かは理解出来ました。とはいえ、私がキリスト教を好まないのも、原始キリスト教から中世キリスト教と歴史の変遷で、そこに階級主義を嗅ぎ取ったからです。そういうワケで、『奇蹟』はこの首尾一貫としないカトリックにおけるジェンダー問題を扱って、ミステリにしてみようというプランでしたが、それに伴ってミステリの事件もその謎の解決も、それに倣うカタチでハッキリ示さないでおこうという仕掛けで、ミステリ・サスペンスの雰囲気だけは、昔のミステリ雑誌『新青年』ふうのものをと企んだのです。つまり雰囲気だけのミステリというものに挑んだのですが、演じる側で「よくワカラナイ」というクレームが多くを占めました。これはアタリマエといえばあたりまえです。だって「よくワカラナイ」ことを持ち出して、それを社会問題として扱わず、ミステリとして書いたワケですから。/マリアが女性であるから奇蹟認定が難しい/というよくワカラナイ、あるいはワカリ過ぎるほどのカトリックの男尊女卑権威主義に対する批判のつもりだったのですが、謎の解決に明確に触れない不満と、それでは演技が出来ないという不確かさが大きかったです。私にしてみれば、「世間や政治の情報、状況なんてアヤフヤなものじゃナイか」と、この辺りから情報というものに対する懐疑というものがあったのです。ちなみに井上さんはこの「ワカラナイ」騒ぎには冷静で、そんなことはお芝居においてはどうでもイイというふうな立ち位置でした。これは、私が問題にしているマリア問題、男尊女卑問題をクリスチャンとしてよく「ワカッテ」らしたのだとおもいます。彼はカトリックではなくクリスチャンですから、逆にそんな騒ぎを面白く眺めてらしたのだと、いまは解ります。そういうことを考慮するにおいて尚更この舞台はもったいない舞台でした。AIにしてみれば、もっと簡単に書けたヨウナ気がします。井上さんの歌唱を中心にハナシを進めていけばそれで良かったのですから。
これはほぼ棄てネタのつもりででしたが、マザー・テレサなどは屍蠟化して保存されることを、屍蠟化は一種の奇蹟的死体なんですけど、そいつを切に願って、世界中から集まる寄付金で病院の療養治療施設を近代化せずに、いつまでも貧民の為の病院、療養所にみせかけるために、貧乏くさいままにしておきました。つまり「哀れみの対象」を壊さなかったワケです。余剰な寄付金は自身の贅沢に使ったようです。まあこれは一説ではありますが。この説はカトリックの胡散臭さを突いています。私などはカトリックといえば、G.Kチェスタートンが好きです。彼の『ブラウン神父』シリーズはミステリ短編のお手本となるものですが、他の著作では進化論を含んだものもあります。化石を生物の石灰化として進化論を解釈するところなどは、やはり、胡散臭いといいますか、無理しているなあという感じです。チェスタートンの『正統とは何か』は私の人生の一冊なのですが、残念です。
この作品(『奇蹟』)をべつの観点からいえば、それならそれで、自信を持って不可解なまま書くべきだったのを、やはり「ワカラナイ」ままでは商品演劇として通用しないかなあと、ある程度は「ワカル」ようにしたほうがいいかという妥協的、中途半端な書き方が駄目だったということです。AIはこういうことはやらない、というか出来ないでしょう。たとえば芥川さんの小説『藪の中』のような、それを原作にした黒澤監督の『羅生門』の脚本などはAIには書けません。ひとつの問いに幾つもの解がある、まったく解釈のチガウものを一つのフレームにインすることは出来ませんし、記号接地や固有名の解釈がチガウということもあり得ません。けれども、そういったミステリはオモシロイのじゃないかと墓穴になってしまうのですが、書いたワケです。哲学者のスピノザが述べたように、/何か一つを選ぶということはそれ以外をすべて否定することだ/くらいの決意性、覚悟でナイと駄目なのです。「ワカル」ということは、どちらかに決めてくれということと同じことですから、虚構の舞台では、悪人は悪人、善人は善人であるほうが、演者にはよく「ワカル」。しかしそういった「ワカリヤスイ」オハナシは、ヒトをして脳の思考停止に追いやるのではないか、と、心配しているワケではありませんが、私にすれば~ツマラナイ~ことはたしかです。
~つづく

2025年3月26日 (水)

「narrative-60の謎」-9

続いては、長谷川伸さんの股旅ものになります。『文学シアター』の始まりはわりと、おカタイ文学路線でしたが、ここらで大衆文学路線を入れてみることにしたワケです。提案したのは私ですが、三作目は『沓掛時次郎』です。ここで私がやりたかったのは「股旅もの」そのものではアリマセン。それに重ね合わせて、以前から舞台化したかった『旅の重さ』です。日本の小説家・素九鬼子さんの小説を原作にした日本映画。1972年(昭和47年)10月28日公開。松竹製作、監督・斎藤耕一、 脚本・石森史郎 高橋洋子主演(オーデションデビュー)の映画化で、主題曲は吉田拓郎さんの「今日までそして明日から(~私は今日まで生きてきました)」です。原作は読んでいないのですが、映画は四回観ています。この小説については数奇な運命とでもいえばいいようなドラマがあります。芥川賞作家でもある由起しげ子さんが病没した際に遺品整理で蔵の中から素九鬼子(もとくきこ)名義の原稿が見つかりました。おそらく由紀しげ子さんのファンの作家志望の女性だろうと、素性を調べましたが、誰だかワカリマセン。しかし、中身はオモシロイ、そこで出版社(筑摩書房でしたか)は出版すれば作家は名乗り出てくれるだろうと本人に無断で出版しちゃったんです。こういう賭はオモシロイですね。で、それはそれで図に当たったというワケで、映画化の算段まで出来てしまいました。名乗り出た素九鬼子さんはその後、直木賞の候補にもなってらっしゃいます。わりと早くに休筆されてしまったのですが、『旅の重さ』はなかなかのドラマです。サクサクとしたあらすじを述べると、とある家庭の問題と自立への憧憬で家出をした少女が(この辺りはコテコテやらない)旅先で様々な人々に出会いながら、四国を巡礼する半ばロードムービです。林芙美子さんの『放浪記』を彷彿とさせるという批評もありますが、私はそうは感じませんでした。もっと都会派、現代的な状況描写のエロスが強かったです。エロス=生きる力です。足摺岬の近くで旅芸人・松田国太郎一座と出会い一緒に過ごすのですが、ここを中心に舞台にしたくて、この旅劇団の舞台演目に『沓掛時次郎』を入れたのです。ですから、『沓掛時次郎』をそのまま舞台でヤったワケではありません。Producerのほうから「時代劇・剣戟はお金かかるから」といわれたのを、「かからないように書きます」ということで、主要な場面お馴染みの場面を劇中劇にしてみたのです。それについてproducerは「そうよね、『沓掛時次郎』ってこれだけよね」との感想がありました。他の映画化、コミック化された長谷川伸作品の『沓掛時次郎』も参考にしましたが、やはり加藤泰監督の映画がイイです。ここにもうひとつ加えた長谷川伸作品が『暗闇の丑松』です。これは、私の単なる想像ですが、この作品を書くにあたって長谷川伸さんはシェイクスピアものを書いてみたいとおもわれたにチガイアリマセン。ですから『暗闇の丑松』は長谷川伸作品としてはかなり異質で、物語の展開がシェイクスピア作品に近いのです。私の舞台ではラストシーンは主役がヒロインの目前で敵役と一対一の決闘シーン、拳銃の一発勝負で、西部劇ふうのシーケンス(sequence 映画やテレビで、一続きのシーンによって構成されるストーリー展開上の一つのまとまり)にしました。この舞台の稽古の途中、ベテランの段田さんが役に入り込み過ぎて涙をこぼすときが何度もありました。ほんらい、それはプロの舞台では御法度らしいのですが、私は上機嫌でした。いうなれば、その舞台の量子コヒーレントの場、つまり量子の純粋状態では、そこに描かれたことは現実とみなしてイイというのが私の立場です。演劇は虚構だ、などいうのはニュートン力学における単なる常識に過ぎません。量子力学ではこの常識というものが通用しません。私が学んだ量子力学はいまや「古典」の部類(コペンハーゲン派解釈の頃のシロモノ)ですが、演劇もまた常識を超えているとかんがえる私にはワリに理解しやすいものです。
~つづく

2025年3月25日 (火)

「narrative-60の謎」-8

散文、小説における登場人物と戯曲の登場人物とでは、その身体性が大きくチガイマス。戯曲の登場人物はかなり具体的な身体を持っています。舞台で生身のヒト(役者)が演じることが前提として書かれているからです。けれどももちろんイメージ(像)としてです。たとえば戯曲には「アテ書き」という手法があります。予(あらかじ)めその役(登場人物)を何方(どなた・どの役者・俳優)演じられるのかが決まっている、その役者にアテて書くという手法です。
戯曲に書かれた身体はイメージ(像)ではあるけれど、演じるヒトはその身体(イメージ)に自らの現実の身体を重ね合わせていかねばなりません。この場合、ホンを読んでいるあいだだはその役者のイメージ(像)であったものが、舞台に立つと逆立するということです。イメージであったものが実像に、そうして現実、実像の演者はひとつの視線となって舞台の立像を批評、分析、了解、納得していくという関係になります。べつのコトバでいうと、ホンに書かれた登場人物が表現主体であり、役者はその分析者という関係がまずあるのですが、これはまさにジャック・ラカンの精神分析の如しです。これが実際の舞台に役者が立ちますと、役者は表現主体となり、視線が分析者というふうに逆立します。この関係を了解していかねば、戯曲は読めません。読むというだけでは戯曲としては完結しないのです。この逆立の記号接地はAIには真似の出来ない〈矛盾〉です。けれどもこの〈矛盾〉がなければヘーゲル弁証法的な発展(アウフヘーベン・aufheben/止揚、「アウフヘーベンする」とは「対立する考え方や物事からより高い次元の答えを導き出す」「対立する二者を超越した結論を導く」という意味。「対立物の相互浸透」からの発展、進捗)はアリマセン。こういった道程、道筋をAIが独自に可能なのか、哲学的に譬えていえば今のところAIの人工知能としての「思考」と呼ばれるものはカント辺りの段階で、ヘーゲルには進めません。ヒトの脳はヘーゲルにも進めますが、何故、それが出来るのかは脳科学として未解決です。この伝でいえばAIはヒトの脳作用(システム)のコピーとも云い難いです。f→f(1)という写像理論で現すことは難しいのです。
さて、具体的に小泉さんは、自分の演技のナニをどう分析して変化させたのでしょうか。
小泉さん自身にも訊ねましたが、ともかく「どうもカラダが納得して動いてくれないので、それまでの演技テクニックに該る部分を一端全て棄てて、カラダが納得するままに演じてみた」というふうなニュアンスの応えがあったような記憶はあるのですが、さて。
以下は彼女の演技を演出者と私とで解釈しつつ至ったとりあえずの結論ですが、私たち(作家と演出者)は彼女に変化球をたくさん教えたが、単純に直球(ツーシーム、フォーシームと称されるものですね)が良かったのではないか、でした。
/少々の解説] 球体が回転しながら空気中を移動するとき、回転する球の周囲に圧力の変化が起こります。進行方向に対して上向きの回転(バックスピン)が加わると、ボールの上下に圧力差が生じて球を下から上に持ち上げ重力に逆らう方向に力(揚力)が発生し落下しにくくなる物理現象。バックスピンのかかった速球が揚力を受ける場合に、「8の字」と表現される縫い目を持つ野球のボールには回転方向の違いから大きく分けて2つの異なるパターンがあり得ます。日本で昔から「ストレート(直球)」とされてきた握りで投げる速球は、ボールが1回転するたびにシームが4回通過することになり、「フォーシーム」と呼ばれます。これに対して、従来は「シュート」系とされてきた握りで投げる速球は、ボールが1回転するたびにシームが2回通過することになるため「ツーシーム」と呼ばれており、フォーシームとは区別されています。昨今フォーシームとツーシームでは境界層分離の発生する場所はボールの回転によって異なるものの、ボール全体に生じる空気力学的な効果はほとんど同じだということが判明。 何がフォーシームとツーシームの軌道の違いを生み出しているのかというと、「ボールの回転軸の傾き」だとのこと。この球はバットに当たったときにその力を発揮する。たいていはゴロになる。「江夏の27球」で知られる阪神タイガース江夏投手はプロ入りするまで変化球の投げ方を一切知らなかった。巨人の江川投手には「直球とカーブ、それ以外の球は要らない」という名言がある。/
小泉さんの場合、/せりふで役を演じる/というかんがえかたを一端棄てて、単純に/せりふを自分のカラダが納得するようにコントロールしていく/に換えたのですね。もちろんのこと、段田さんはゲネプロでは彼女に圧倒されていたのですが、本番では、彼女の投げるボール(せりふですね)をどう受けて投げ返すかに演技を換えてきて、ちゃんと主役をまっとうされていました。
~つづく

2025年3月24日 (月)

「narrative-60の謎」-7

次に、演劇においての戯曲の文学性と舞台における役者の身体性、これもまたAI問題とともにオハナシしていきます。具体例として恰好の例はシス・カンパニーの「文学シアター・volume・2」での『草枕』だとおもわれます。『草枕』はご存知のように夏目漱石さんの初期の小説ですが、シス・カンパニーの構想ではほんらい太宰治作品での三部作にする予定だったものが、私が最初の『グッドバイ』でさまざまに太宰作品をリミックスして用いたこともあって、producerが別の文学に舵をきったのです。じゃあ、まあ、文学らしいものとして夏目漱石にするかと、その中でも舞台化されていない作品というか、舞台化出来そうにナイ作品ということで私が選んだワケですが、ほんとうのところ、私は文学という分野にはあまり縁がなく、夏目漱石さんに至っては『坊ちゃん』と『夢十夜』程度しか読んだことがなく、『猫』もあまりのダラダラした展開に(これは新聞小説でしたから致し方なきことなんですが)途中で読むのをヤメた記憶があります。ただ、悪運が強いといいますか、私の親しい知己である映画演劇評論家の安住恭子さんがちょうどその折、『「草枕」の那美と辛亥革命』という評論で和辻哲郎文化賞を受賞されまして、そのホンは読んだワケで、こりゃあ使えると、安住さんにこの本のネタを他の演劇映画に私より先に使わせないでネ、とお願いして、それをフレーム・インしたのです。なんとならば、舞台ヒロインは小泉今日子さんということに決まっていましたので、これまたちょうどイイやと簡単に決めたのですが、本編の漱石さんの『草枕』を読んでみますと、小説というよりも日本文化に対する論評を小説に仕立てたという按配で、なるほどいままで舞台化されなかったワケがよくわかりました。AIならこれをどう記号接地するのだろうか、ほぼ不可能なんじゃないかなとおもわれます。データなら豊富なんですが、ストーリーとしてはあまりに単純です。しかし演劇、戯曲ではそれでも出来るんです。何故なら、演劇、まず戯曲というものは「棄てる」ことが出来るからです。何をかというと「要らんもの」をです。AIですと『草枕』は日本文化礼賛と欧州文化批判を組み入れての大長編になるところでしょう。それぞれのデータを繋ぐ作業というのは膨大になります。AIは「棄てません」から。というか、何を棄てていいのかが判断出来ませんから。
漱石の『草枕』は書き出しが有名です。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
この冒頭の一文はまるでお芝居のせりふのようです。私が『草枕』を選んだのはそこにあります。他に、あらすじめいたところでいえば、/日露戦争のころ、30歳の洋画家、主人公が、山中の温泉宿に宿泊する。宿の「若い奥様」の那美と知り合う。出戻りの彼女は、「今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女」ですが、その那美から、主人公は自分の画(自画像です)を描いてほしいと頼まれます。しかし、彼女には「足りないところがある」と画家は描かないんです/。この辺は妙に芝居がかっていて興味を惹かれます。ところが、ある日、彼は那美と一緒に彼女の従兄弟(いとこ)、満州戦線へと徴集されているのですが、彼の出発を見送りに駅まで行き、その時、ホームで偶然に、満州行きの為の「御金を彼女に貰いに来た」別れた夫と、発車する汽車の窓ごしに瞬間見つめあうのです。そのとき那美の顔に浮かんだ「憐れ」を横で主人公は観てとり、画家としてインスパイアされて、「それだ、それだ、それが出れば画になりますよ」というワケです。もうこれはお芝居、舞台化するとまずオモシロイところです。こういうところが何故、舞台化するとオモシロイのか、AIにはワカリマセン。何故ならば、AIには顔がありません。身体性が、身体的な記号接地が無いからです。表情というものの「憐れ」に記号接地出来ないのです。ただし、そうanswerすることは出来ます。そこがマシンとして優秀なところでもあるのです。/画家はナミの表情に「憐れ」を発見し、それは絵画に可能だと判断した/てなanswerになるのでしょう。これは文章の上だけで、AIには「憐れ」はワカリマセン。しかしanswerを読んだヒトはそれがワカリマス。AIとヒトとの物象化はそういうものです。
ところで、キョンキョンはこの那美をどう演じたか。小説、戯曲の文章ではAIにせよヒトにせよアッサリ書けるのですが、女優であり身体、身体性を所持しているキョンキョンは「憐れ」を文字どおり「身体=表情」で現さねばなりません。こういうものはイキナリ出来るのではなく、舞台の物語の進行を追っていって出てくるものでナイとイケマセン。演出もかなりの苦労です。最後の通し稽古が終わった時点で、この演技は演出から観てうまく出来ていませんでした。演出は「出来るべき手はすべて尽くしたけど、駄目だった」とギブアップするありさまです。私も演出とは演技の方法論を話し合ったのですが、小泉さんに上手いアドバイスは出来ませんでした。ところが、最後のゲネプロ(ドイツ語の「Generalprobe(ゲネラールプローベ)の略で、本番と同じ条件で行う通しリハーサルのこと)になって、まるで嘘のように小泉さん、これをヤってのけたのです。一つ前の「通し」とはまるで違いました。驚きですね。別に戯曲を書き換えたのでもアリマセン。主役の段田さんが逆に今度はうなだれて、「いやあ、参った。もうこの芝居は姐さんに任せる」なんていう始末です。何故、そういうふうになったのか、これこそ、AIには理解不能(作用化不可能)な出来事です。
~つづく。

2025年3月22日 (土)

「narrative-60の謎」-6

従って、というつながりになりますが、producerの注文が『グットバイ』の舞台化でしたので、「従って、『麗しのサブリナ』をほんとうの主題、記号接地にしたこと」つまり私のお気に入りのラブストーリーをフレーム・インしたことは、producerにも内緒でした。作品の内容からふつう気がつくはずなのですが、どうも『麗しのサブリナ』はオードリーの映画の中でもさほど知られていない部類なのだとおもいました。みなさん気付かないのか、知らんふりしているのか、ちょっとワカラナイというのが正直なところですが。以前、自劇団へ書いた作品『こんな宿屋』は、ルイス・ブニュエルの『ナサリン』を下敷きにしたのですが、たぶん演劇関係者で識るヒトは少ないとおもい、『どん底』(ゴーリキ)を下敷きにしたと喧伝しておきましたが、それでみなさん納得していましたからね。こういう「隠しテーマ」は、R.P.Gでは「隠れキャラ」という設定でよく登場したり、含まれたりするのですが、後に書いた『奇蹟』などもテーマをまったく誰も読み取れなかった(というのが私の失敗なのですが)ということもあります。この件については後に詳細を述べてみたいところです。ともかくもAIではこのような「多重フレーム」「多重記号接地」は出来ません。「多重フレーム」「多重記号接地」が現状では不可能だということは、具体的にいえば、もしAIで戯曲を書く場合、いくらうまく書けても、「フレーム」は一つ、「記号接地」も一つということになります。これはビット計算ではなくバイト計算と理解して、バイトを重ねていくことは可能なのですが、具体的にいえば、一つのテーマ、課題に乗せてさまざまなプロットやエピソード、ナラティブを創る。それはちょっと書ける劇作家になら出来ます。これがいわゆるワカリヤスイ作品です。けれどもそういった作品を批評家的なコトバで述べると「世界が狭い」というふうにいわれることは多いですね。簡単にいえば、哀しいテーマを哀しい物語で書くという、それはフレームの狭さを物語っているということです。では、「世界か広い」となるとこの逆なのですが、たとえば映画にもなった、池井戸潤さんの「空飛ぶタイヤ」や「下町ロケット」です。これらの作品は現代版人情悲喜劇なのですが、たしかに世界は広がっていっています。中小企業が大企業に対峙する物語、さらに明日にも倒産しそうな中小企業が宇宙ロケットの部品を創ることで大企業と争い勝ち残る。その技術というものを描く、とタイトルからしてそうです。もっと身近なところでは渥美清さんの『フーテンの寅さん』シリーズの中にも秀逸な作品は散見しています。基本的には職業、教養に原因する失恋物語ですから哀しいのですが、喜劇として描いています。時々の失敗作、駄作は左翼的思惑が強く出た場合に多いようなときですね。ここでは個別には論じません。総じていえばヒューマニズムを左翼思想に直結したときが、そんなときですかね。あくまで私的感触ですが。
さて、AIの弱点であるリテラシーの未熟さは作家、劇作家、脚本家にとっては反面教師として大いに学ぶべきところです。そういった意味ではAIに下書きをさせるというのも一つの手段、手立て、方法でしょう。この辺りはAIの必要性を述べていることになります。
人情悲喜劇というところは、私の戯曲『グッドバイ』にもとり入れました。太宰さんの小説にはストーリーがどうの、テーマがどうのという前に、底辺には人情悲喜劇があります。人間関係の悲哀、私的な苦悩も多々書かれてあるのですが、それは一種の疑似私小説だからなのですが、ともかく「徹底的におのれを笑う」というヒューモア、道化に溢れています。ですから長編エッセイ小説の『津軽』や後々の『津軽通信』などは圧倒的にチェーホフの短編喜劇小説を飛び越えています。
そういうヒューモアや人情悲喜劇を私は『麗しのサブリナ』にも観たワケですから、フレーム・インさせたワケなんですが、コトバを換えればなんだか堅苦しい演劇や、芸術的表現なんかに拘らず、いわゆる「お芝居」を書くつもりで、太宰『グットバイ』をデータにしたワケです。観客が芝に居るということで「芝居」なのですが、そんな物象(観客との関係と了解)を書いたのです。思わず舞台に向けて一声かけたくなるような芝居です。
これは私の中で、かつ観客諸氏にも波状的に伝達出来たようで、教授がおでん屋のおっちゃんの励まし、あるいは一喝でヒロインのアトを追うシーンは拍手がきました。このおでん屋さんというのも重要なファクターとしてデータにしたものです。果たしてAIは「おでん屋」をどうデータとして学習、読み取ることが出来たろうか。ちょくちょくドラマや歌謡曲にも登場する「おでん屋」なのですが、そこは単におでんをツマミにコップ酒を呑むというところではナイ。むしろ、吐き出すところだ。何を、愚痴と悔恨を、敗れた夢と失った愛や恋を吐露するところなのです。ですから、知らぬどうしが小皿叩いてチャンチキおけさ、となるワケです。もちろん、太宰さんの本歌にもちゃんと出てきます。そんなところにAIは記号接地は出来ないでしょう。何故ならAIには人生がナイ。あるのは人生というデータだけである。それはつまり他人の人生という資料をなぞった物語でしかナイ。けれども、生身の役者の演じる舞台には、ほんとうの人生の成功と挫折、苦渋と再起が、文字どおりヒトの数だけあるはずです。
大事なのはここです。それらが「ヒトの数だけある」というところです。それをステロタイプ、プロトタイプ、模範演技にコピーされてはたまらない。いい役者というのはけして演技の上手い役者のことをいうのではありません。「ヒトの数だけある人生」をおのれの人生と重ね合わせて演じてみせることの出来る役者こそ優れた役者であり、その技を演技というのです。起承転結が如何に面白おかしく書かれていても、私にはそんなものには興味はナイ。ありていにいえば、私の望む演劇には、世間一般でいわれるような上手も下手もナイ。格好良くいえば、斬れば血が出る虚構こそ演劇です。
~つづく

2025年3月20日 (木)

「narrative-60の謎」-5

ご存知のように太宰さんの『グットバイ』は太宰さんの最後の小説、かつ新聞連載の小説で十三回まで書かれたところで(十回までは編集部に、残りは仕事場の机上)、太宰さんの入水自殺でそのまま終わっている絶筆です。けれども十三回までではありますが文庫には掲載されています。読みますとこれはかなりユーモラスな小説で、続く展開に期待がもてるといいますか、読んでみたいという欲求にかられます。しかし読めないとなると、私のような職種では続きを書いてみたいという誘惑がヤってきます。そういう私自身の欲望もあって私なりに戯曲化した『グッドバイ』を書いてみたのです。
ではこれをAIに書かせるとどうなるのか。これもまたひとつのオモシロイ試みとなるにチガイありません。十三回分の現物だけではなく、太宰さんの数多の小説のデータは揃っています。「以上の数々の太宰治作品を吟味した上で、『グットバイ』の続きをコメディタッチの戯曲で完結させなさい」とプロンプト(指示文のこと)すればいいワケです。
みなさんはよく知っていらっしゃるとは承知で、太宰治『グットバイ』のデータをウィキペディアから挙げておきます。私、毎月1800円ここには支払っていますので。
/『人間失格』を書き始める前の1948年(昭和23年)3月初め、朝日新聞東京本社の学芸部長末常卓郎は三鷹の太宰の仕事場を訪れ、連載小説を書くことを依頼する/。
あらすじ/雑誌「オベリスク」編集長の田島周二は先妻を肺炎で亡くしたあと、埼玉県の友人の家に疎開中に今の細君をものにして結婚。終戦になり、細君と、先妻との間にできた女児を細君の実家にあずけ、東京で単身暮らし。実は雑誌の編集は世間への体裁上やっている仕事で、闇商売の手伝いをして、いつもしこたまもうけている。愛人を十人近く養っているという噂もある。戦後3年を経て、34歳の田島にも気持ちの変化が訪れた。色即是空、酒もつまらぬ。田舎から女房子供を呼び寄せて、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。しかし、それについて、さしあたっては女たちと上手に別れなければならない。途方に暮れた田島に彼と相合傘の文士が言った。「すごい美人を、どこからか見つけて来て、そのひとに事情を話し、お前の女房という形になってもらって、それを連れて、お前のその女たち一人々々を歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引下る。どうだ、やってみないか」田島はやってみる気になり、かつぎ屋で「すごい美人」の永井キヌ子と彼の珍騒動が始まる/。
と、こういうハナシなのですが、これだと太宰さんのことをあまり評価していなかった川島雄三監督も映画化したかもしれません。そんなタッチです。/キヌ子さんはすこぶる美人なのですが、声が酷い。カラスのようなガーガー声。そこで、主人公はキヌ子に「きみは喋ってはイケナイ」と申しつける/。さて、問題はこのキヌ子のガーガー声です。AIなら、身体性は無視というか計算出来ませんから、抵抗ナシで、そのままのキャラクターでやるでしょう。活字の上でならそれは通用します。しかし、演劇は生身の人間の身体性で演じられます。演者、ここでは美人女優が演じなければなりません。映画なら吹き替え、アフレコなどの技法がありますが、演劇はそうはいかない。そこで「フレーム問題」を想起して下さい。複数の思念を同時に処理するシステムです。私などはAIとはチガッテ「フレーム問題」を抱えてはいません。私(におけるヒトの脳)にとっては「これはフレームの重ね合わせでなんとでもなる」ものなのです。
オードリー・ヘプバーン主演(ハンフリー・ボガードのand共演)の『麗しのサブリナ』はオードリーの作品の中では私が一等好きな作品です。これは一度舞台化したかったのですが、資金がナイ。そこで、ここはうまくこのヤリタイ企画を活用すべく、『麗しのサブリナ』をフレーム・インすることにしました。とにかく中年コロシの役におけるオードリーはあの作品が最も美しい。シスがオファーしたヒロインの蒼井優さんは女学生のように初々しく、一方の主役の段田安則さんはコロされる中年紳士(教授)にはピッタリです。こういうフレーム・インはAIには無理か、かなり難しいfunction(作用・操作)です。もっとも「重ね合わせ」をかんがえれば量子コンピュータには可能かも知れません。量子(ビー)ビットは重ね合わせですから。それはひとまず置いておき、「ガーガー声」はどうしたか。これもちょっとオモシロイことをおもいついて試みました。ヒロインは自称「河内生まれ」で河内弁しか喋れないということにしたのです。「なんっかしとんねん(何、ぬかしとるねん-何を云っているのだ)」。当然、これは封じ込め、御法度となります。とにかくヒロインが口をきかないという設定にすればイイのですが、何故喋らないかは大事な逆に〈おいしい〉ファクターです。つまり「ガーガー声」より「河内弁」のほうがお芝居としてはオモシロイ。蒼井優さんが河内弁で捲くし立てる。これだけでもスゴイ身体性ですが、AIのアルゴリズムでは出来ない相談でしょう。何故なら河内弁というものにAIは記号接地することが出来ない。どこにもそんなデータは無いからです。さらに教授の愛人たちについては何故愛人にしたのかを明確に「貧困のシングルマザー」ということにしました。愛人切り捨てを、これも人情喜劇にする。こういう演劇的な世間的具体性とでもいいますか、functionの変更が演劇の醍醐味なのです。ついでにいえば「醍醐味」もAIには現実の味覚としてはワカラナイところでしょう。
不思議におもわれるかも知れませんが、太宰治さんの作品の多くは北杜夫さんのエッセイ『どくとるマンボウ』シリーズを彷彿とさせるような人情喜劇(human comedy)なんです。のちのち、読書家(読書評論家)の小泉今日子さんに太宰さんの『人間失格』読後感を聴いてみたことがありますが、「とてもユーモラスでした」と述べてらしたです。太宰さんは「道化」というコトバが好きだったようです。ウィリアム・ウィルフォードによると、〈道化〉とは、/秩序と混沌、賢と愚、正気と狂気のはざまに立ち、愚行によって世界を転倒させ、祝祭化する存在。ある時はお調子者のトリックスターとして、ある時は賢なる愚者として、あるいはスケープゴート(犠牲)として、〈道化〉は大きな役割を果たしてきた/。これを太宰治データのファクト(実際にあったことや事実、現実、実際を意味する。理想や噂、作り話ではなく、事実に基づいたデータ)として読み取れるAIはどれだけあるでしょうか。勇み足かも知れませんが、この意味合いで沈思すれば、太宰嫌いを明言してらした三島由紀夫さんの市ヶ谷駐屯地の割腹も極めての〈道化〉であったと私には感じられます。
~つづく

2025年3月17日 (月)

「narrative-60の謎」-4

/簡潔なものは美しい/は一つの命題です。しかしこの命題が正しいかどうか、すべてにおいて一律かどうかは単独のヒトの脳においても決定することは出来ません。非決定的なものです。「簡潔なもの」というデータと「美しい」というデータはそれぞれ別々に使えます。前者は副詞的ですし、後者は形容詞ですから、数理学や社会学などではけっこう多用出来そうなので意外ではありますが、AIなどはこういった分野を得意としているのではないかという予想は出来ます。どのようにも使えるつまり扱い安いデータです。
ハナシを演劇のところにもどします。
私が創ろうとしていた演劇、創りたかった演劇とAIの演劇、ここではAIの書く戯曲ということでAI戯曲と称しておきますが例の演劇関係者の弁による「書かせたらオモシロソウ」な戯曲のことです。その相違点などを明らかにしていくことで、AI戯曲の限界、もしくは領域に迫れるだけ迫ってみたいとおもいます。
まず、その比較の具体例として、私が独自に扱ってきた戯曲よりも依頼されて書いた戯曲、いわゆる舞台脚本、いわゆる広範囲の食うための実際の仕事に触れていくほうがワカリヤスイかとおもわれるので、それらを導入してハナシをススメます。
食うために書いた舞台脚本(依頼されて書いたもの)は、大きく分けて二つあるのですが、ひとつは声優さんたちの劇団からで半ば彼らの趣味成分が濃かったので、私の表現手法も割合多く反映されています。そこでもうひとつの商品演劇であるところのシス・カンパニーの舞台脚本を取り上げます。ここは「文学シアターと」銘打って、日本文学を私が戯曲に書き換えたものをプロデュース上演したところです。商品演劇というのは私の造語で、商業演劇ほど大規模な商業的ではないが、営利を目的としているところは同じで、プロデュース演劇をヤっているのですが、専属所属している俳優さんもあります。そういう俳優諸氏のマネージメントも行いつつ、比較的チケットが売れそうな俳優さんをオファーして、少人数で東京を中心に公演する。最近は大阪や九州などにも巡演していますが、オファーされた売れっ子の方などは地方での本番1ステージ終わると最終の新幹線で東京へ帰る。で、東京の仕事をして翌日に適宜の便でまた来る、といった俳優もいました。そういう俳優商品を以て成る演劇ということで経済を第一義的にかんがえたものが商品演劇です。カンパニーというからにはむかしの有限会社と同義です。けれども、そこは有限会社という感覚より、他の意味である「仲間たち」をイメージとしてかんがえていたとおもいます。俳優の仲間たちですね。「シス」というのはラテン語で「こちら側にものが集まっている状態」になりますし、難しいところでは/勇敢で粘り強い魂を意味し、希望が消えた時に現れるという翻訳不能なフィンランド語/にも該りますが、システムの略語とかんがえてもいいかとおもいます。どれでも意味は通ります。このカンパニーの特長は、中小ユニット・プロデュース公演としては、そこにオファーされるかどうかは、業界で一種の階級的な通行手形として認められるということです。紅白に出場と似たようなものとおもえばイイです。作品チョイスにおけるproducerのクォリティ、の選択レベルは権威を持っているということです。専属俳優諸氏も一年契約で、一年ごとに契約更新となります。ここのもうひとつの特徴は私の認識ではNHK権力に左右されないということですね。NHKが舞台の録画放映をと依頼してくると、たいていのところは飛びつくのですが、シスの社長でありproducerは、シリーズ全部を録画放送するなら認める、と、まあこんなふうにしか認可しません。これは痛快です。さらに公共の助成も民営のスポンサーも採りません。何処やらから、作品の内容についてああしろ、こうしろといわれないようにする為です。これは潔いことです。
シス・カンパニーは女性社長がproducerです。まず私の戯曲作品の『寿歌』を[堤真一・戸田恵理香・橋本じゅん]で公演されたのですが、このときは、私の戯曲をほぼ戯曲どおりにおやりになったので、特に此度の参考にはなりません。その後、producerの勘というもので、太宰治さんの作品がやりたいのだけど、という依頼がありました。で、太宰さんの最後の未完結作品、絶筆の『グットバイ』を『グッドバイ』とタイトルして戯曲化したのが最初の小説⇒(転換・転位)⇒戯曲です。
さまざまなエピソードがありますが、印象に残る社長、producerのコトバを挙げておきますと、社長が私と二人きりのとき、ふいに「『日本文学』という名称を使ったのは失敗だった」と述べられました。もちろん「Why」とquestionしたのですが、すると「だって文学というコトバはもう死語だから、文学というコトバはもう死んでいるからねえ」というのが答えでした。なるほど、そう云われればそんな気がしたというか、妙に説得力があったのを記憶しています。
さて、太宰さんの『グットバイ』ですが、最初の打ち合わせのときは、社長producerと二人だけで、彼女から「太宰『グットバイ』はかくなる点でうちのシス・カンパニーで公演するには向いていない」という説明を受け、それを箇条書きにしたレジュメを渡されました。それは予想していましたので、私としては初稿をすでに書いた上で打ち合わせに臨んでいまして、「じゃあ、こんなふうなので如何でしょう」とその場で初稿を読んでもらったのです。こういう、先方の剣スジを読むことは剣法における「後の先(ごのせん)」と呼ばれていまして、相手が打ち込んできた太刀筋を受けつつ攻撃に廻るかなり効き目のある技ですが、こういったことは、やり過ぎると逆に用心されるとか、煙たがられることになります。私は社長と仕事の取引をしているだけなのですが、社長より私の信任がスタッフから大きくみえたりすると(そういうふうに社長が疑念を抱くと)「庇を貸して母屋をとられる」つまりトランプ不動産の〈ディール〉と誤解されやすいので、相手が防御にまわることも出てきます。単に当事者の注意だけではクオリアになってしまいます。
さて社長は私の初稿を一読「これなら、大丈夫」ということで、OK、ゴーサインが出ました。では、どんなふうに私は太宰さんの未完の小説『グットバイ』を戯曲化したのか。
~つづく

2025年3月14日 (金)

「narrative-60の謎」-3

簡単に述べてしまえば、現状の演劇には私が見よう見まねで戯曲に触れ始めたときよりもAIでも書けそうな「オハナシ作品」が溢れています。と私は感じています。現状といえど、演劇情況を詳細に統計調査したことではナイのですが、長年の勘というものはそう狂いません。いうなればこれは十数年 東京演劇 の脚本スタッフを仕事してきた感想批評、卑近なコトバでは「降りてきた」ものです。余談ですが、劇場の販売ブースで最近『戯曲販売』のバーナー(看板)を出していたら、客から「戯曲って何ですか」と問われました。苦笑と溜め息のアト迷いつつも「脚本のことです。舞台よりオモシロイときもありますよ」と応えました。こんなふうだからこそ、彼(大澤老師)の知人の演劇屋さんも、問われて「オモシロイものが出来るんじゃないかな」などと応えたのだとしておきましょう。商業演劇はもちろんのこと、芸術とやらを戴冠している演劇もそうです。ストーリーテラー(筋立てのおもしろさで読者をひきつける小説を書く作家)も存在します。そういうものはストーリー(オハナシ)があるので、観客にもよくワカリマス。昨今はナラティブなどと称される、/ちょっとしたオハナシ/のようなものもあります。落語の小話ではありませんが、特に物語という仰々しさのナイ〈オハナシ〉です。観客はオハナシがあるので安心して舞台を観ることが出来ます。演じる側も安心して演じられます。こういったものはどういったものなのでしょうか。と、まあ、おかしな問いかけになりますが、もし私がAIに「このような戯曲(脚本)を書け」と注文(プロンプト)する場合、予め戯曲というものがどういうものかというデータくらいは教えます(戯曲とは何かという理論ではアリマセン。簡単な解説です)。
以下の戯曲の構造という解説は私が戯曲の塾を開いているときに塾生に教えたものです。
/戯曲はかくなる構造を持っている/
① 位相の構造
② 順序の構造
③ 関数(代数)の構造
それぞれについてはここでは詳細に解説しません。①は戯曲の登場人物の相関図を近傍(トポロジー)で現したもの、②は科白を発する順番。これは一人芝居のときも同じです。③は戯曲を微分方程式で扱ったものです。これらは現代数学から取り入れたものです。たまたま塾生に高校の数学教師の方が在ったのですが、「数学的にはこれでマチガイナイです」とお墨付きはもらいました。同じことを高校演劇の部活の顧問に依頼されて講義したときには「何のことか全然ワカラン」といわれました(ついでに腹が立つので書いておきますが、当日になって講義が終わってから/講義料をマケテくれ/といわれまして、マケタのですが、その分はその後の仕上げ宴会の酒代になったそうです)
ところで、この構造をデータとしてAIには学ばせたとします。そうしますとたぶんAIはケッコーな戯曲を書くでしょう。オハナシなんてデータは腐るほどありますから。しかし、私はこの構造は塾生に対して「この通りに書け」といったことは一度もナイのです。もし、書けなくて、あるいは書いたが巧くいかなくて困った場合、この三つの構造のどれかに順当する欠陥が見つかるはずだと、教えたのです。私自身、この構造は参考にはしますが、その通りに戯曲は書きません。
では、どないして書くのか。
私の経験則を踏まえて、舞台で生ずることは全て戯曲(ホン)に書かれてはあるのだが、そのイメージ(作者のイメージ)通りには舞台には現れない(演じられない)ということを識っています。ここが身体性の記号接地が出来ないAIにとっては〈苦手〉どころか〈不可能〉に近いところです。たとえば、登場人物二人(男女を問わず)が道端で立ちバナシをしている。と、にわか雨になった。そのとき、戯曲では
〇「おや、雨だ。にわか雨ですね。
●「ああ、雨みたいだな。といって傘はナシ。濡れるかな。
〇「あそこの、庇のあるところに移動しましょう。
と、こう書くのはアマチュアか、下手なプロです。
〇「おや、(と空を観る)
●「(掌で雨粒を受けて)ああ。
〇「あそこ、どうです。
と、これでイイのです。というか、こう書くのがホンモノなんですが(そう教えましたが)、現状の演劇では前のほうでも構いません。というか、前のように書かないと「ワカラナイ」といわれたりします。AIなら間違いなく前のほうを書きます。ここからどういうことがいえるかというと、論理的帰結(まあ、理屈としては)としていまの演劇はAI(の戯曲)で充分間に合うのです。
文章の美しさで知られる昭和の文豪三島由紀夫さんなどは、水を一杯所望して、水が運ばれてきたときに、もっとも良い文章は「水がきた」だ、と述べています。簡潔な文章は美しいのです。
この「美しさ」「簡潔さ」をAIにデータで学ばせることは出来ます。ただし、それはAIの〈思考〉ではありません。データを与えたヒトと、アウトプットを読んだヒトの心情です。「美しさ」と「簡潔さ」というものをデータで繋ぐことはAIには出来るのですが、AIが/簡潔なものは美しい/ということを理解、了解、認識しているのではありません。たとえばレンブラントとモジリアニの絵画をAIにみせて、「どちらの絵が美しいか判断しなさい」とプロンプトしても、AIは答えることは出来ません。しかし、理屈を書くことならするでしょう。その理屈を読んで「ふーん、そうか」なんていっているのは単純にそのヒトの脳髄の判断解釈でしかありません。
たしかにデータを与えられた、あるいは学習したAIに戯曲を書くことは出来ます。しかしそれはずいぶんと紆余曲折した剽窃ギリギリのものがせいぜいだと、私はかんがえています。私が創ろうとしている演劇はそういったものでは まったく アリマセン。
~つづく

2025年3月12日 (水)

「narrative-60の謎」-2

大雑把な分け方ですが「フレーム問題」というのは〈空間的〉あるいは〈デジタル〉な感じが/そこはか/とします。あくまで/そこはか/ですが。それに対して「記号接地問題」になりますと〈時間的〉なあるいは〈アナログ〉な感じがやはり/そこはか/とします。大雑把な分け方での/そこはか/だということはおゆるし願うとして論をススメますが、あまりに無責任もよくないでしょうから、/そこはか/についてもう少し言及しておきます。どちらも〈像=イメージ〉に通ずるのですが、フレームというからにはやはり写真機のフレームを連想します。ですからある被写体、例えば「花」にレンズをむけているとき、花をフレームにインさせているとき、「そういえばこの花に似た花が故郷の畦道にも咲いていたな」とか「印象としてこの花はコンビニ・レジのお嬢さんの新人さんのあの娘を連想させるな」とかヤヤコシイですが、同時に脳裏に浮かべることが出来ます。「記号設置問題」が発語したコトバが現実の何を指し示しているのかという場合、その場にその固体が存在すると簡単なのですが、誰かとのハナシの途中で出てきたコトバを互いが思い浮かべるとき、それは互いの思いの像(イメージ)でしかありませんから、チガッタものになることが多いものです。こういったことを〈クオリア=主観的な感覚や体験、質感、感じを意味する言葉〉で、哲学的に比較不可ともいいます。これが固体であればまだいいのですが、例えば「歌声」「水の流れ」というふうな「音」の場合、さらにクオリアは深まります。では、そのようなクオリアを含めて、AIはコトバ(記号)をどうやって接地している(現実・固体などとくっつけている)のか。ほんとはくっつけていないんじゃないの。これが「記号接地問題」です。はい、くっつけてはいません。
さて、そこで大澤老師もおやりになったようにまず「記号接地問題」から手を付けます。何故かといいますに、先述した如くこっちのほうが言語とAIの問題を論ずるのに近隣だからです。言語学に一説を投げ掛けたソシュールさんやウィトゲンシュタインくんが、それぞれの言語学でやったように、「イヌ」という単語を取り上げてみましょう。ご両人とも同じようなことを仰っているのが、ご存知のように「一対一対応」です。「イヌ」といった場合、それに対応する現実のイヌが存在するというアレです。これは漢字で書きますと「犬」ですね。「イヌ」とAIにプロンプトした場合、AIはまず「犬」というものと対応させます。実際には観たこともなく、触れたことも噛まれたこともナイのに、です。これが記号接地です。接地と認識とのチガイは何なのか、大雑把に分けると身体感覚と脳の思考ということになります。これを説明するのに、ヒトの場合は身体がありますから、「イヌ」が「居ぬ」ということもあるでしょうし、「射ぬ」もあるでしょう。AIの場合は「犬」とプロンプトすれば「犬」ですが「イヌ」だけではさまざまな「イヌ」をデータ検索します。ヒトの場合にも発語してみてワカラナイことが在るのですが、ナニか身体動作なり、所作、営為とその記憶が加わると即座に理解、認識します。「五十度の油は熱い」「縫い針で指を突いてしまって痛さを覚えた」等々です。「身体」がナイ。これをもう少しフェーズアップしていうと「身体性」が無いということです。そこで、「身体性」で私たちが経験などで識っているように「水」というプロンプトを使ってみます。その場合、水の感触というものを私たちは身体的に記憶しています。ところがAIはそうではナイ。では、AIは「水」を何と接地させているのだろうか。アタリマエのことになりますが、さまざまなデータとです。水の冷たさ(温度)、臭いや手触りなどの事実(現実)ではアリマセン。AIはヘレン・ケラーではナイのです。これは重要なことです。「さらさらと水が流れる」こういうプロンプトはAIには難しいはずです。「皿、皿と・・」「皿の流れていく様子」と解析するかも知れません。しかしまあ、「水」などの場合は一対一対応がわりと簡単そうです。「さらさらと流れる水」というデータを幾種類も持ってさえいればAIもそれをコトバに出来ます。それでは、ここで、(水が出たところで)、これはどうでしょう。「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」、これは松尾芭蕉の有名な俳句です。これもまず「水」というものが認識、了解できていなければ解釈出来ません。ところで、この名句は写実(写生)の句ということになっているのですが、つまり、観たままを写すとされていてコトバを変えると「写生句」とでもいいましょうか、絵画などでは抽象画にたいする具象画という扱いをうけます。ヒトとヒトとの間の解釈、了解、認識も多くはそうなっています。ですが、偏屈者の私は意義アリと手を挙げます。いや、これは「心象句」だと云いだすのです。困ったものですかね。しかし、こういう困ったことを仕出かすのが演劇者の本質でもあるのです。私はこの句から寂寞の中のココロに沁みいる「孤独」、滅々たる孤独ではなく寂静たる孤独を感じたりします。この句の横に「独居」「忘我」などとsubtitleを入れたらそれがもっと鮮明になってきます。では、こういうふうなところにAIは記号を接地出来るのか。もちろん、そういうデータさえ与えて置けばそうするでしょう。ただし、それが何たるかはワカラナイというより、ワカルことを必要としない。ただ、データの結び付きが不都合でなければよろしい、というだけです。たとえば「敵手を斬り棄てたいま、古老の剣士は芭蕉翁の一句を諳じていた」の中の一句とは何かと、AIにプロンプトしても、AIは「そのデータはアリマセン」としか応えることは出来ません。あるいは辻褄だけを合わせて応えようとするだけです。もしくは芭蕉の句を幾つかひねくり出してくるか「敵手斬る 古老の剣士や 芭蕉翁」みたいに嘘の句を創作するかも知れません。これは思考の結果ではなく単なるデータの繋ぎ合わせですが、それとなく創造性を感じさせます(とはいえ、感じているのはあくまでヒトのほうだけなのですけど)。そうなのです。ひょっとしておもいだされた方もあるかとおもいますが、落語の『こんにゃく問答』こそ、がAIの最も得意とする技なのです。
では、何故、私が彼の知人の演劇問答の答えを苦笑したのか、次はそれに応えてみます。
~つづく

2025年3月 9日 (日)

「narrative-60の謎」-1

ふつつかながら、三日、四日ながらと、何日かかるかワカリマセンが、AIの言語認識と演劇についてオハナシしてみたいとおもいます。てんでバラバラな結論めいたことや、ただの感想であったりすることを述べていきますが、そもAIは専門というほどのものでもなく、最も詳しいだろうとおもわれる分野が「演劇」ですので、当然ながら「AIと演劇」という方向でオハナシ出来ればとかんがえるワケです。
まず、いきなり、それとは別に、ふと、おんや、こんなものかなというところを述べますと、現状の生成AIというもののレベルはちょうど「お年寄りの話し相手」には打ってつけ、もってこいのマシンではないかなどとおもう次第の今日この頃です。昨今は私自信もいわゆる年寄り高齢者と称される部類なのですが、話し相手があまりいない。その理由は判然としております。同年配、同世代、同業種の仲間連中がどんどんクタバリいや、逝去いたしまして、近辺にいなくなったということと、世相世間が変遷いたしまして不動産屋の成り上がりが世界一の軍事大国の大統領になって、あたかも神にでもなったかのように社会状況に波紋どころかサーファーが小躍りするごとくの大波で小さな島々を木っ端みじんにしているような世界になり、地勢(政)学がはばをきかしておりまして、そういや昔から不動産屋というのはヤクザやテキ屋同様のモノも多かったようで、地面師なんかもあれはテキ屋のスラングですから。で、私はといいますと社会学的にも、「あんたいまごろ何いうてんねん」的な存在になってしまっていることなどが主な理由でしょう。
そんなとき、小難しいハナシから卑近な出来事まで気楽にchat的に話し相手になってくれるのは生成AIに限るなあ、とおもうワケです。なにしろ、プロンプトと呼ばれている質問なりを打鍵すると即座に応答しくれます。その応答が正しいかどうかは生成AIの学習データ量如何ですが、高齢者が「最近、緑茶が美味く感じられないのけど、どうかね?」などと高齢者らしくプロンプトすると、「老化で舌が鈍感になったか、飲んでいるお茶が安物で緑茶の成分に原因があります」と、くる。そうなると「そういやここんとこペットボトルの種類も増えたな」と応じると、「ペットボトル緑茶にはほぼ国産のものが使われていますが、等級が違います」と返答する。これでしばしはハナシがはずむというものです。
AIの勉強を始めた当初(といってもつい去年)はAIの「ハルシネーション」と称される「幻覚(まあ、嘘ですな)」や「シンギュラリティー(AIによる世界制覇、かつてはフランケンシュタイン・コンプレックスとも称されていた)」なんかが問題になっていたものですが、どうもそのような騒動はパソコンが普及し始めた当時と寸分違わず、あの頃はパソコンによって世界は如何に変容するか、というなんとなくコワ~イ的話題が多かったのですが、それに似ているのではないかと私などは のほほん と述べておりました。さらにいうならば私は三十年前にはその、て、の戯曲(『悪魔のいるクリスマス』)まで書いて、現在を予言(予見くらいかな)しているのであります。ですからAIもまあそんなものだとおもいますが、なまじっか人工知能と称されている故に、AIに意識は在るか、ココロは芽生えるかなんて哲学的問題といいますか、手塚治虫さんの『鉄腕アトム』のサブテーマであるところの〈オメガ因子〉のような問題まであったものが、最近ではもっと身近なものに生成AIの諸問題は置き換わっています。その中でも代表的なものが「フレーム問題」と「記号接地問題」です。前者をちょっと具体的に述べると、人間というものはある事柄について思考しているとき、あるいは何かに脳を使っているとき、例えばテレビや配信のドラマなんかを観ているときにでもいいのですが、ふいに恋人から貰ったプレゼントのことをおもいだして、それについて同時にかんがえたりする。こういうことがAIにも起こるのだろうか、という同時に思考のフレームを複数個創れるかという問題というか視点です。後者ついて述べると、AIは「身体」を所有していませんので、AIが「熱い」とか「美味い、おいしい」「頭が痛い」という応答をした場合、いったいデータのみからどのようにそのような身体的地点に接地しているのか、あるいはほんとに出来る(している)のかという問題です。活躍中の社会学者、大澤真幸さんですが、彼もそのことについて問題にしています。これはいわゆる言語と現実におけるAIの接点についての問題です。
彼は知り合いの演劇関係者にこう質問しました。「生成AIに、データで優秀な俳優と状況設定(シチュエーションですね)を与えればオモシロイ戯曲を書くだろうか」。すると、その友人演劇人は「けっこうオモシロイものを書くとおもいますよ」と答えたそうです。冗談だとおもうのですが、真面目な答えなら、私はその答えに対して「嘘つけ」としかいいようがナイのです(他にもあるにはあります。たとえば/アホかいな/ですかね)そういったところから、すなわっち演劇とAIといったところから、AIと言語についてと、演劇と言語についてとを「茶請け話」程度にオハナシ出来ればとおもいます。~つづく。

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