「narrative-60の謎」-12
妙な言い回しですが、AIにも希望はあります。量子コンピュータビットの重ね合わせをかなりうまく活用出来れば、ヒトに近い思考を辿(たど)ることは出来るのではないかということです。簡単な例は前述した芭蕉の「蛙 飛び込む」の一句の解釈です。あの一句を写実としか解釈出来ないヒトはAIに近いといえます。もっと崇高なことをいってみればAIには「神」というものが何かワカラナイでしょう。もちろん、ヒトですらその質問には答えられないのですが、信ずるという心的構造は持っているのです。これをまったく逆の方向にシフトしてしまうとどうなるでしょう。/AIについて詳しいことはよく識らないが、創られたもの(云っていること)がよくワカルならば使ったほうが便利でイイ気がする/。これってパソコンが出回ってきた当時の世間の動向、情勢、世間の反応に似ていませんか。ですから私は冒頭でAI騒動はそれと同じ出来事ですと応えたのです。
たしかに「登場人物が七人までで、男女比は問わないが、年齢的に児童と高齢者は除く。物語の内容はチェーホフ的で小劇場演劇向き、予算はハード、ソフトを含めて三百万円程度。黒字でなくとも赤字が出ないチケット売り上げ回収率。稽古期間二カ月のべ100時間くらい。上演時間は90分程度で、政治的な要素は排除。現代口語のもので出演者、製作者、観客(大人であるが)にワカリヤスイもの。笑いと感動があるとイイ」
というようなプロンプトを与えれば、AIは立ちどころに一曲の戯曲(脚本といったほうが適切かも)で応じるでしょう。この程度のことならAIは「マス・イメージ」のデータを駆使してかなりの短時間でフレーム・インし、記号接地させることが出来ます。
ところで、問題はそのようなAIとパソコン黎明期の相似性などではナイのです。先述した如く重要な問題は、このようなAIの提出した戯曲(脚本)にproducer、スタッフ、キャスト、そうして観客が「それで良し」とする「イージー アンダースタンド」(正確にはeasy to understand)です(付名・主筆)。AIがそう答えたのだから正しいのではないか、或いは「正しい」と信仰する「AI信仰」「物象化」、これこそはハルシネーション(幻覚)やシンギュラリティー(AIによる統治)より恐ろしくはありませんか。いえいえ、これこそが、AIによるハルシネーションやシンギュラリティーと称されるものです。
DX(デジタルトランスフォーメーション)。デジタル技術を活用してビジネスモデルや業務プロセスを根本から変革する取り組みですが、こいつが日本(人)に向いていない理由としての主なるものは、/実際のビジネス変革には繋がっていない多くの企業の現状がある。既存システムが老朽化・複雑化・ブラックボックス化する中では、新しいデジタル技術を導入したとしても、データの利活用・連携が限定的であるため、その効果も限定的となってしまうといった問題がある。また、既存システムを放置した場合、今後ますます維持・保守コストが高騰する(技術的負債の増大)とともに、既存システムを維持し保守できる人材が枯渇し、セキュリティ上のリスクが高まる。課題として最も多く挙がったのが、「適切な技術スキルの獲得」でした。自社の社員をスキルアップできない理由として幹部があげたものとしては、「時間不足」「トレーニングのための構造がない」「組織に知識がない」が上位の3つです。(編集・参考/もちろん、月1800円のウイキ他)/
であるのに、割合、簡単に「AI、わかりやすい、よろし」になるワケ、原因、理由というのはナンでしょう。あるいはまったく逆に「AIなんて駄目よ」というAI嫌いになる理由とは。
おそらくもっとも簡単な理由は、その程度のことならAI(人工知能)ではなくとも現状のコンピュータ(パソコン)で入出力が可能だ、というものです。つまり「ヒトでも出来る」です。「ヒトにしか」ではなく「ヒトでも」です。
~つづく