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2024年12月25日 (水)

nostalgic narrative 54

承前:
たしかに /「わたしの水素」なるものは無いし、「わたしの酸素」なるものもありません。物質としての「組成」は違いますが、しかし「この体はわたしのものだ」と思っていても、そもそもその「わたしのもの」というのは地球や宇宙の時間から見れば、一瞬の刹那であって、ただ「わたしがそう思っている」というだけでしかありません/。
この部分(文言・論説)にだけは半畳とはいわなくとも、そのさらに半分くらいの畳なら入れることが出来る。~「わたしのもの」というのは地球や宇宙の時間から見れば、一瞬の刹那であって、ただ「わたしがそう思っている」というだけでしかありません~というところで、回答者(牧師)は〈刹那〉という「時間単位」を使っている。この〈刹那〉はどれくらいの 時間 なのだろうか。まず量子コンピュータの演算速度と「刹那」という時間を比較してみる。そうして/物質としての「組成」の違い/という一節を、アルゴリズム 或いはfunction(作用素)に通して、その固有値(本質)を見極めてみる。何のためにかというと、いわずもがな「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題を解くためにだ。いいかたを変えれば 量子コンピュータの作動(稼働・演算)時間速度と脳の思考時間「わたしがそう思っている」時間速度の〈量〉を比較してみたいのだ。
「刹那」という〈時間〉はいかほどのものなのか。グーグルのAIに訊いてみる(ちゃんとこんなふうに活用しているというところが図々しいのだが) と、/量子コンピュータの計算速度は、現行のスーパーコンピュータの約1億倍とも言われています。これは、現在スパコンで約3年2ヵ月かかる計算を量子コンピュータは1秒で終える能力を持つことを意味します。刹那とは、一般的に極めて短い時間のことを指す言葉で、仏教用語としての時間の最小単位を意味するケースもあります。 何秒のことかははっきりとしていないものの、一説によると1刹那は現在の単位にすれば 0.013秒ぐらいにあたります/。
するてえと、量子コンピュータにかかれば〈刹那〉で出来ることはけっこう多い ということになる。量子コヒーレントはかなり神経質な環境なのだが、現状、そこで稼働しているのだから量子ビットのチカラは侮れない。もし脳がペンローズおやじのいうように量子コンピュータ(のようなもの)であるならば「わたしのもの」という〈時間〉も侮れないということになる。
ところで、私(主筆)の疑義は もちょっと深読みしていく。たしかにAIはさまざまな過去のデータ(資料)を余さず読了し 自ら選択して演算する。だからデータがなければ空のマシンなワケだが、では、脳はどうなのだろう。ヒトの脳はヒト(その脳を持つヒト自身のこと)をどれだけ理解、了解、知識としてワカッテいて営為しているのだろうか。「脳とは脳が考えたところの脳でしかない」「脳はものを考えるところにあらず」と、先人たちはオモシロイことをいっている。ふと私(主筆)の脳のことをかんがえてみる(脳がかんがえているのだろうけど)。意外や意外、脳ってあまり自分(私)のことを識知してはいないのだ。だって、いま頭が痛いのはなんでだろう、ということや、いま何を食べるのがどの臓器に良いのだろうとか、アトどれだけ眠れば疲労回復するのか、など、physicalなことはいうまでもなく、狂ってしまいそうだ、とか、この憂鬱は何なのだ、とかmentalなことまで、あんまり識らない。もちろん、「鬱病ってなんなの」もワカッテいない。この問題を解決するには何を学べばいいのだろう、ということにしても、すぐには答は出ないし、出た答のとおりにしても失敗することが多い。脳のヤロウどうなってんだ。けっきょく、脳だって学習しなければ(データを吸収しなければ)かんがえることが出来ないじゃないの。なら、AIとなんら変わらないじゃないか。では、回答者(牧師)のいうように、脳と意識はOSとアプリみたいなものなのけ。かなり前に養老センセの『唯脳論』を読んだが、内容はほんの幾つかしか記憶にない。脳のヤロウ、記憶まであやふやじゃないか。まあ、唯脳論はここまで。別の機会にまた論考することにしてと。
~刹那でしかナイ~とはいうものの、量子コンピュータにしてみれば、刹那も永遠も変わりはナイ。だいだい、量子は「時間」という得体の知れないものを持たないからだ。これは光子(光子とは何かについての解説はかなり複雑なので、古典量子力学しか識らない私には出来ないので、単純に電磁場の波束の励起としての量子 程度にかんがえておく)に則していえることだが、サンタクロースのギフトが一夜で完了するのも、赤鼻のトナカイさんの橇が量子的(この場合は光速)で動いているからだ、というのは卓見だ。もっと譬えをいば、蜻蛉の生存七時間は、蜻蛉が光速に近い時間で生きているとすれば畏るべき、たとえば永遠に近い。これを私たちの〈死〉の刹那に当てはめると、私たちは死の刹那、永遠を生きていることになるとかんがえることも出来る。こういうことがAIに出来るのだろうか。
私的(わたくしてき)には、永遠でなくていいから、死後は冥途の旅がしたいネ。誰のものでも無い四十九日の旅は刹那であるが、永遠でもある。これはAIに勝るヒトの諸行だ。と、だいぶロマンチックになってきたみたいですナ。

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