nostalgic narrative 53
「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題を解く準備になるのかどうか、興味ある論説と遭遇したので、いつものごとく無断の仕業を秘かにお詫びしつつ ぬけぬけと掲載しておく(ただし、充分に査読はしている)。SNSのひとつ『クォーラ』から。永野 健一氏(日本ナザレン教団 五井教会および2024年から越谷教会を兼任の代表役員 2024–現在)が「死んだらヒトは無になるのですか」という質問に答えたもの。途中 随所に私(主筆)の解釈が入るが、そこは我慢ガマンマンガマンガ。
/キリスト教の牧師として回答します。科学的な話をすれば、脳の活動が低下すると死よりも先に「意識活動」そのものが消失します。わたしたちの「意識/人格」というのは、脳をコンピュータにたとえると「OS上のアプリケーション」と同じで、脳の「OSそのもの」は「脳そのものの活動」として基本的に動作し続けるものです。それはわたしたちが生れる前から活動を始めており、24時間365日、一瞬の休む間もなく死ぬまで活動をし続けます。たとえば、わたしたちが睡眠中、意識が無くなったとしても「呼吸や心拍が止まる」ということはありません。つまり、わたしたちの「脳」は、そうした「意識/人格」とは別に「生命維持活動」という、コンピュータのOSに相当するような働きがまずベースにあって、そうしたOSが動作している上で、はじめて「意識/人格」という「アプリケーション」が動くわけです。「アプリケーション」はそれ自体で動作するものではなくて、あくまでも「OS」が動作していることが大前提になっていて、そういう意味では、わたしたちが認識するところの「自意識/自分」というものは、「脳の活動の全体」ではなく、「脳の全体の活動の中の一部分でしかない」ということです/。
スラスラと述べられているが、回答者(牧師)の脳と意識との関係における見解はみごとに記されている。それをコンピュータ(もちろんAIも含まれる)に比しているところは、私たちに ある解りやすさを与える。かつ 敢えて「科学的な話を」というところもイイ。
/ただし、「アプリケーション」もその人の「意識/人格」だし、「OSそのもの」もまたその人の「意識/人格」活動を支えるものなので、全体をひっくるめて「その人」になるわけですが、「脳」に酸素が供給されなくなると、先に「意識活動」が低下し、その後、脳のすべての機能が失われ最終的に脳は死んだ状態になります。ただでさえ大量に酸素を消費する脳は、酸素供給が失われてしまえばあとは死滅していくだけです。そして「意識/人格」は「神経回路」によって形成されている関係上、細胞の壊死によって回路が壊れれば、二度と同じ意識/人格が戻ることはありません/。
ここでは、個(固有)と全体の関係が述べられている。演劇に関連させれば、/役と演目全体の関係/ということになる。
/そして、わたしたちが「感じる」ことが可能なのは、「死」よりももっと手前の状態で、「意識活動の下限まで」です。それは「全身麻酔」の時の感覚に近いと思いますが、「意識を失った」という事自体を感じることはありません。あと、「死んだら無」にはならないです。あえて言葉で表現するのであれば、太陽からのエネルギーが地球上の様々な生命へと変化し、その中でたまたま「わたし」を構成していた地球上の色々な元素・分子が、「わたし」という関係性から解放され、それぞれ異なる元素・分子に変化するだけです。
わたしが生れる以前には、「わたし」を構成していた元素・分子は何か別のものを構成していたものであり、それが巡り巡って「わたし」を形づくっているわけです/。
私自身の用いるコトバでいうと ここは「量子の相転移、或いは突然変異」になる。読者諸氏には『般若心経』の一節(色即是空、空即是色) が頭に浮かぶかも知れない。
/そういう意味で、わたしたちの存在は水面に出来た「波紋」と同じようなものです。わたしたちは、地球上に存在する様々な元素・分子があつまって、たまたま「わたし」という人間を構成していただけで、個々の元素・分子に、明確な違いはありません。つまり、「わたしの水素」なるものは無いし、「わたしの酸素」なるものもありません。わたしの体を構成するすべての「水素」も、太陽で熱核融合反応を起こしている「水素」も基本的には同じで、そこに何ら異なるものはありません。物質としての「組成」は違いますが、「この体はわたしのものだ」と思っていても、そもそもその「わたしのもの」というのは地球や宇宙の時間から見れば、一瞬の刹那であって、ただ「わたしがそう思っている」というだけでしかありません。「わたしの水素」なるものは無いし、「わたしの酸素」なるものもありません。/。
宮澤賢治を読むような気分になってくるが、賢治ならこうは書かないだろうなという深読みも出来る。それは信心する宗派のチガイからくるものだともとれるし、両者の思想の本質のチガイだともいえる。この回答者(牧師)の文言は以下の聖書のコトバで締めくくられる。
/イザヤ書40章6~8節
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ/。
仏教的にいいなおすと『般若心経』の「諸行無常・諸法無我」を拡張あるいは縮小するとこうなるのかも知れない。ともかくはキリスト教徒らしい神への帰属で牧師の回答は終わる。概ねたいした異論はナイのだが、ここで終わってもらっては困惑すると、私(主筆)は苦(にが)むのだ。市井の大衆ダ、からなぁ。****というワケで つづく
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