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2024年12月

2024年12月29日 (日)

nostalgic narrative 55

承前: たしかに/「わたしのもの」というのはただ「わたしがそう思っている」というだけでしかありません/。という命題は正しい。ただし、心理学(観念論)的には、というスキームにおいてだ。では、「わたしの所有している銭(金銭)」はどうだろう。いま目前に1000万円の札束がある。そうしてそれは私が所有している「私のもの」である。というものは思っているだけではなくて、確かに存在するものだ(具体的にするために 宝くじに当選した銭でもイイし、年間のボーナスがどんと支払われたでもイイ)。私はその1000万円で高級車(中古のレクサス)くらいは買える。マルクス経済学ふうにいえば、それだけの「交換価値」はあるものを私は所有していることになる。つまり私財である。刹那という時間は量子コンピュータにしてみれば、スパコンの数万年の演算時間に匹敵したが、その刹那に目前の1000万円は消えゆくものではナイ。この状況を「私は目前の1000万円と関係している」と言い替えてみることが出来る。目前の1000万円は札束だが、単なる「紙切れ」でもある。そんなことは私は充分 識っている。「紙切れ」だとワカッテはいるのだが、レクサスに交換出来るということもワカッテいる。意識的には「紙」だが、なんらかの世間の流れ(社会学的無意識)の中では「レクサス一台」だ、といえる。そんな場合における いわば客観的な/私と1000万円の「関係」/をマルクスは『資本論』で「物象化」と称した。観念(内的)から実体どうしの関係へと外化させたワケだ。
というところで、AIと物象化についてちょいとかんがえてみる。面白いニュースというか情報をここで提出すると、「1/2とは何か」を理解するのはAIには極めて難しいらしいのだ。「1/2とは何か」を理解する思考方法を「記号接地」という。その概念は、
/記号接地とは、もともと人工知能(AI)の根本的な問題として使われる言葉です。人工知能は外界や感情とをひも付けることはなく、ある記号をほかの記号で変換するということをやり続けて学習しており、それは根本的な理解に結びつかないという指摘です。とても賢い今の生成AIでもその問題は残っています。例えば、2歳ほどの子どもに家庭で「お片付けをしなさい」といいますよね。それは例えば脱ぎっぱなしの洋服をたたむ、あるいは食べっぱなしのおやつを台所に持っていくなど、それぞれの場面ですることが違います。一方で「片付ける」を言語的に表現しようと思えば、「片付いていない状態から片付いている状態に変化させる」くらいの表現しかできない。そういわれてもワカルはずがないですよね。そこで子どもはどうするのか。「片付ける」という言葉が使われるのを聞いたら、洋服ならこう、おやつを食べたお皿ならこう、おもちゃならこうするというような、自分でそれぞれ「点」をつないで「面」をつくるような作業をします。結構間違えますが、それを修正しながら面をつくるというのが大事で、そこまでを含めて「記号接地」と捉えています。算数の分数では、よくケーキやピザなど丸い形を半分にして「1/2」だと教えられます。しかしそれだけでは、子どもは丸い形を分けることが「1/2」だと思っても不思議ではない。「等分に分ける」ことを理解していなければ、2人で分けることが「1/2」、3人だと「1/3」、しかも分けられるものは丸い形に限られると考えてもおかしくない。丸い形だけではなく、人数や液体でも全体を「1」とみなせば分けることができる。その推論の過程はなかなか生まれにくく、自分で考えて間違えながらも修正していかないといけません。その過程全てが「記号接地」だという考えです/。
「物」を1/2に分けるということ。最初から「1/2」の「物」が在るのではなく、「1」を半分にするという「物」と1/2の関係性、この「点」をつないで「面」をつくるような作業がAIには難題らしい。この「記号接地」のシステムは「物象化」へのシステムと似ている。現在情況に与えられた変更、転移のmissionと、そこから生ずる情況(の予想)。これらを「記号接地」という思考で子供は学習していくのだが、AIにはこいつが難しい。何故ならAIはデータ(過去資料)というものを内部に持ち込んで分解、結合させることは出来るのだが、それは実体ではなくあくまで記号でしかナイ。AIにおいては外部で記号を実体に関係付けるという作業が難しい。
「1000万円と それを所有する私」において、1000万円というのが「紙」だというのは社会学的には「意識している」ことだ(記号化されているといってイイ)。しかし、それが「中古のレクサス」に交換出来るということは/社会学的無意識を通じて/行われているというのが実体経済(この世間)における「交換」である。ここでは誰も「紙」を(が)自動車と「交換」する(出来る) とはおもっていない。紙幣、貨幣を交換するという念で「交換」する。つまり1000万円という「紙」は「交換」においては交換出来るものと社会学的無意識で「了解」しているといっていい。そういう「記号接地」のシステムが働くからだ。Aの部屋とBの部屋があって、どちらが「片づけられた部屋」なのかを片づけた当人は知っている。何故なら、その部屋の「片づけ」と「関係」をもって「了解」しているからだ。ここに一枚のピザがある。そのピザが最初は二枚あって、二人に二等分-はんぶんこ- された一枚なら1/2のピザだ。ピザは一枚だが1/2なのだ。これはピザと当人の関係における「物象化」としての了解だ。この「1=1/2」にAIは躓く。意識過程(「紙」)=記号と無意識過程(「レクサスに交換」)=実体がAIの〈人工知能〉ではアルゴリズム(演算)出来ない。
この構造を鬱病にどう関連(関係)させるか。そのために「物象化」をその前段階ともいえる「疎外」というものに引き戻してみる。
*****で、つづきます。

2024年12月25日 (水)

nostalgic narrative 54

承前:
たしかに /「わたしの水素」なるものは無いし、「わたしの酸素」なるものもありません。物質としての「組成」は違いますが、しかし「この体はわたしのものだ」と思っていても、そもそもその「わたしのもの」というのは地球や宇宙の時間から見れば、一瞬の刹那であって、ただ「わたしがそう思っている」というだけでしかありません/。
この部分(文言・論説)にだけは半畳とはいわなくとも、そのさらに半分くらいの畳なら入れることが出来る。~「わたしのもの」というのは地球や宇宙の時間から見れば、一瞬の刹那であって、ただ「わたしがそう思っている」というだけでしかありません~というところで、回答者(牧師)は〈刹那〉という「時間単位」を使っている。この〈刹那〉はどれくらいの 時間 なのだろうか。まず量子コンピュータの演算速度と「刹那」という時間を比較してみる。そうして/物質としての「組成」の違い/という一節を、アルゴリズム 或いはfunction(作用素)に通して、その固有値(本質)を見極めてみる。何のためにかというと、いわずもがな「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題を解くためにだ。いいかたを変えれば 量子コンピュータの作動(稼働・演算)時間速度と脳の思考時間「わたしがそう思っている」時間速度の〈量〉を比較してみたいのだ。
「刹那」という〈時間〉はいかほどのものなのか。グーグルのAIに訊いてみる(ちゃんとこんなふうに活用しているというところが図々しいのだが) と、/量子コンピュータの計算速度は、現行のスーパーコンピュータの約1億倍とも言われています。これは、現在スパコンで約3年2ヵ月かかる計算を量子コンピュータは1秒で終える能力を持つことを意味します。刹那とは、一般的に極めて短い時間のことを指す言葉で、仏教用語としての時間の最小単位を意味するケースもあります。 何秒のことかははっきりとしていないものの、一説によると1刹那は現在の単位にすれば 0.013秒ぐらいにあたります/。
するてえと、量子コンピュータにかかれば〈刹那〉で出来ることはけっこう多い ということになる。量子コヒーレントはかなり神経質な環境なのだが、現状、そこで稼働しているのだから量子ビットのチカラは侮れない。もし脳がペンローズおやじのいうように量子コンピュータ(のようなもの)であるならば「わたしのもの」という〈時間〉も侮れないということになる。
ところで、私(主筆)の疑義は もちょっと深読みしていく。たしかにAIはさまざまな過去のデータ(資料)を余さず読了し 自ら選択して演算する。だからデータがなければ空のマシンなワケだが、では、脳はどうなのだろう。ヒトの脳はヒト(その脳を持つヒト自身のこと)をどれだけ理解、了解、知識としてワカッテいて営為しているのだろうか。「脳とは脳が考えたところの脳でしかない」「脳はものを考えるところにあらず」と、先人たちはオモシロイことをいっている。ふと私(主筆)の脳のことをかんがえてみる(脳がかんがえているのだろうけど)。意外や意外、脳ってあまり自分(私)のことを識知してはいないのだ。だって、いま頭が痛いのはなんでだろう、ということや、いま何を食べるのがどの臓器に良いのだろうとか、アトどれだけ眠れば疲労回復するのか、など、physicalなことはいうまでもなく、狂ってしまいそうだ、とか、この憂鬱は何なのだ、とかmentalなことまで、あんまり識らない。もちろん、「鬱病ってなんなの」もワカッテいない。この問題を解決するには何を学べばいいのだろう、ということにしても、すぐには答は出ないし、出た答のとおりにしても失敗することが多い。脳のヤロウどうなってんだ。けっきょく、脳だって学習しなければ(データを吸収しなければ)かんがえることが出来ないじゃないの。なら、AIとなんら変わらないじゃないか。では、回答者(牧師)のいうように、脳と意識はOSとアプリみたいなものなのけ。かなり前に養老センセの『唯脳論』を読んだが、内容はほんの幾つかしか記憶にない。脳のヤロウ、記憶まであやふやじゃないか。まあ、唯脳論はここまで。別の機会にまた論考することにしてと。
~刹那でしかナイ~とはいうものの、量子コンピュータにしてみれば、刹那も永遠も変わりはナイ。だいだい、量子は「時間」という得体の知れないものを持たないからだ。これは光子(光子とは何かについての解説はかなり複雑なので、古典量子力学しか識らない私には出来ないので、単純に電磁場の波束の励起としての量子 程度にかんがえておく)に則していえることだが、サンタクロースのギフトが一夜で完了するのも、赤鼻のトナカイさんの橇が量子的(この場合は光速)で動いているからだ、というのは卓見だ。もっと譬えをいば、蜻蛉の生存七時間は、蜻蛉が光速に近い時間で生きているとすれば畏るべき、たとえば永遠に近い。これを私たちの〈死〉の刹那に当てはめると、私たちは死の刹那、永遠を生きていることになるとかんがえることも出来る。こういうことがAIに出来るのだろうか。
私的(わたくしてき)には、永遠でなくていいから、死後は冥途の旅がしたいネ。誰のものでも無い四十九日の旅は刹那であるが、永遠でもある。これはAIに勝るヒトの諸行だ。と、だいぶロマンチックになってきたみたいですナ。

2024年12月18日 (水)

nostalgic narrative 53

「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題を解く準備になるのかどうか、興味ある論説と遭遇したので、いつものごとく無断の仕業を秘かにお詫びしつつ ぬけぬけと掲載しておく(ただし、充分に査読はしている)。SNSのひとつ『クォーラ』から。永野 健一氏(日本ナザレン教団 五井教会および2024年から越谷教会を兼任の代表役員 2024–現在)が「死んだらヒトは無になるのですか」という質問に答えたもの。途中 随所に私(主筆)の解釈が入るが、そこは我慢ガマンマンガマンガ。
/キリスト教の牧師として回答します。科学的な話をすれば、脳の活動が低下すると死よりも先に「意識活動」そのものが消失します。わたしたちの「意識/人格」というのは、脳をコンピュータにたとえると「OS上のアプリケーション」と同じで、脳の「OSそのもの」は「脳そのものの活動」として基本的に動作し続けるものです。それはわたしたちが生れる前から活動を始めており、24時間365日、一瞬の休む間もなく死ぬまで活動をし続けます。たとえば、わたしたちが睡眠中、意識が無くなったとしても「呼吸や心拍が止まる」ということはありません。つまり、わたしたちの「脳」は、そうした「意識/人格」とは別に「生命維持活動」という、コンピュータのOSに相当するような働きがまずベースにあって、そうしたOSが動作している上で、はじめて「意識/人格」という「アプリケーション」が動くわけです。「アプリケーション」はそれ自体で動作するものではなくて、あくまでも「OS」が動作していることが大前提になっていて、そういう意味では、わたしたちが認識するところの「自意識/自分」というものは、「脳の活動の全体」ではなく、「脳の全体の活動の中の一部分でしかない」ということです/。
スラスラと述べられているが、回答者(牧師)の脳と意識との関係における見解はみごとに記されている。それをコンピュータ(もちろんAIも含まれる)に比しているところは、私たちに ある解りやすさを与える。かつ 敢えて「科学的な話を」というところもイイ。
/ただし、「アプリケーション」もその人の「意識/人格」だし、「OSそのもの」もまたその人の「意識/人格」活動を支えるものなので、全体をひっくるめて「その人」になるわけですが、「脳」に酸素が供給されなくなると、先に「意識活動」が低下し、その後、脳のすべての機能が失われ最終的に脳は死んだ状態になります。ただでさえ大量に酸素を消費する脳は、酸素供給が失われてしまえばあとは死滅していくだけです。そして「意識/人格」は「神経回路」によって形成されている関係上、細胞の壊死によって回路が壊れれば、二度と同じ意識/人格が戻ることはありません/。
ここでは、個(固有)と全体の関係が述べられている。演劇に関連させれば、/役と演目全体の関係/ということになる。
/そして、わたしたちが「感じる」ことが可能なのは、「死」よりももっと手前の状態で、「意識活動の下限まで」です。それは「全身麻酔」の時の感覚に近いと思いますが、「意識を失った」という事自体を感じることはありません。あと、「死んだら無」にはならないです。あえて言葉で表現するのであれば、太陽からのエネルギーが地球上の様々な生命へと変化し、その中でたまたま「わたし」を構成していた地球上の色々な元素・分子が、「わたし」という関係性から解放され、それぞれ異なる元素・分子に変化するだけです。
わたしが生れる以前には、「わたし」を構成していた元素・分子は何か別のものを構成していたものであり、それが巡り巡って「わたし」を形づくっているわけです/。
私自身の用いるコトバでいうと ここは「量子の相転移、或いは突然変異」になる。読者諸氏には『般若心経』の一節(色即是空、空即是色) が頭に浮かぶかも知れない。
/そういう意味で、わたしたちの存在は水面に出来た「波紋」と同じようなものです。わたしたちは、地球上に存在する様々な元素・分子があつまって、たまたま「わたし」という人間を構成していただけで、個々の元素・分子に、明確な違いはありません。つまり、「わたしの水素」なるものは無いし、「わたしの酸素」なるものもありません。わたしの体を構成するすべての「水素」も、太陽で熱核融合反応を起こしている「水素」も基本的には同じで、そこに何ら異なるものはありません。物質としての「組成」は違いますが、「この体はわたしのものだ」と思っていても、そもそもその「わたしのもの」というのは地球や宇宙の時間から見れば、一瞬の刹那であって、ただ「わたしがそう思っている」というだけでしかありません。「わたしの水素」なるものは無いし、「わたしの酸素」なるものもありません。/。
宮澤賢治を読むような気分になってくるが、賢治ならこうは書かないだろうなという深読みも出来る。それは信心する宗派のチガイからくるものだともとれるし、両者の思想の本質のチガイだともいえる。この回答者(牧師)の文言は以下の聖書のコトバで締めくくられる。
/イザヤ書40章6~8節
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ/。
仏教的にいいなおすと『般若心経』の「諸行無常・諸法無我」を拡張あるいは縮小するとこうなるのかも知れない。ともかくはキリスト教徒らしい神への帰属で牧師の回答は終わる。概ねたいした異論はナイのだが、ここで終わってもらっては困惑すると、私(主筆)は苦(にが)むのだ。市井の大衆ダ、からなぁ。****というワケで つづく 

2024年12月14日 (土)

nostalgic narrative 52

承前:(51)で述べたことはそのまま観客の傾向にもいえることで、現状 観客の多くは(といっても私はおもに東京、大阪、名古屋のごく限られた観客しか知らないのだが)その観賞の感触(心情 或いは感性とでもいえばいいのか)は/演劇という表現で創られた「オハナシ」を観に来る/といった様相を私に与える。これはいまにはじまったことではナイのかも知れないが「オハナシ」の無い演劇にはあまり関心を示さないようだ。だから「オハナシ」のあるチェーホフやシェイクスピアが、和製ミュージカルが、単にテレビ・ドラマを舞台に持ち込んだようなだけのようなものが繰り広げられている。
戯曲の私塾を開いていた頃、塾生たちを相手に必ず最初に行った講義は/ストーリーとテーマを棄てろ/から始まった。それ をヤル(かんがえる)から書けないのだと教えた。私たちはテーマを持って生活しているワケではナイし(そういう生真面目な御仁もあるだろうけれど)、人生というモノはけして「オハナシ」ではナイ(アト付けならなんとでもいえるのだが)。それをさもテーマがあるが如く「オハナシ」にして書く(舞台化する)のだから、それを虚構というのだから、ここんところはいまなら~AIならそんなものは書いちゃうゾ~といいたいところだ。
と大見得きって、さて、「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題を解くことを踏まえて、この長々とつづいている論説をどんなふうにまとめたいのかを、とりあえず記しておく。そのほうが読者も楽だろうから(どっちにしても私のブログはあんまり楽には読めないのだけど。
量子の定義は現在「波でもあり、粒でもある、なんだかわからないもの」ということになっている(もちろん私の識る限り)。この最後の「もの」はかなりあやふやなので「エネルギー」と置き換えたほうがイイだろう。すると/量子はなんだかワカラン Energie の最小単位である/となる。「量子は進化しない」が「量子によって造られた遺伝子はヒトの進化の過程を刻んでいる」この「遺伝子の進化の中には意識と無意識が登場する」これらは「ある意味〈固有値〉=本質形態 であるが突然変異するし、相転移する」「脳(の営為)と意識との関係(関連)は、意識が先で脳が後だとかんがえる」。コトバを変えれば「脳のOSが意識だとする」となる。と、意識のOSも必要になる。「そういうOS~意識前意識~が 宇宙(ヒトも宇宙の一部ですからね)には在るとかんがえたほうが無理がナイ」。無理は無いがそれがどんなモノなんだか ナンだかワカラナイ。けれど「それはやはり量子(Energie)ではアルはずだ」と、そういう方向(思考方針)は持っている。この何処までいってもスーダララッタホイホイは まるで無限を求めるような目眩におそわれるかも知れないが、無限そのものは求めなくとも、その求め方(ニュートン力学でいうところの「極限」)がワカリさへすればイイ。そのような思考の矢におけるAIや量子コンピュータという存在はかなり面白いシロモノだ。ともかくコピペ、写像された「脳」をAIとみるならば、量子コンピュータは/刹那の演算装置/であるのだから。
****というワケでつづきます。

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