nostalgic narrative 55
承前: たしかに/「わたしのもの」というのはただ「わたしがそう思っている」というだけでしかありません/。という命題は正しい。ただし、心理学(観念論)的には、というスキームにおいてだ。では、「わたしの所有している銭(金銭)」はどうだろう。いま目前に1000万円の札束がある。そうしてそれは私が所有している「私のもの」である。というものは思っているだけではなくて、確かに存在するものだ(具体的にするために 宝くじに当選した銭でもイイし、年間のボーナスがどんと支払われたでもイイ)。私はその1000万円で高級車(中古のレクサス)くらいは買える。マルクス経済学ふうにいえば、それだけの「交換価値」はあるものを私は所有していることになる。つまり私財である。刹那という時間は量子コンピュータにしてみれば、スパコンの数万年の演算時間に匹敵したが、その刹那に目前の1000万円は消えゆくものではナイ。この状況を「私は目前の1000万円と関係している」と言い替えてみることが出来る。目前の1000万円は札束だが、単なる「紙切れ」でもある。そんなことは私は充分 識っている。「紙切れ」だとワカッテはいるのだが、レクサスに交換出来るということもワカッテいる。意識的には「紙」だが、なんらかの世間の流れ(社会学的無意識)の中では「レクサス一台」だ、といえる。そんな場合における いわば客観的な/私と1000万円の「関係」/をマルクスは『資本論』で「物象化」と称した。観念(内的)から実体どうしの関係へと外化させたワケだ。
というところで、AIと物象化についてちょいとかんがえてみる。面白いニュースというか情報をここで提出すると、「1/2とは何か」を理解するのはAIには極めて難しいらしいのだ。「1/2とは何か」を理解する思考方法を「記号接地」という。その概念は、
/記号接地とは、もともと人工知能(AI)の根本的な問題として使われる言葉です。人工知能は外界や感情とをひも付けることはなく、ある記号をほかの記号で変換するということをやり続けて学習しており、それは根本的な理解に結びつかないという指摘です。とても賢い今の生成AIでもその問題は残っています。例えば、2歳ほどの子どもに家庭で「お片付けをしなさい」といいますよね。それは例えば脱ぎっぱなしの洋服をたたむ、あるいは食べっぱなしのおやつを台所に持っていくなど、それぞれの場面ですることが違います。一方で「片付ける」を言語的に表現しようと思えば、「片付いていない状態から片付いている状態に変化させる」くらいの表現しかできない。そういわれてもワカルはずがないですよね。そこで子どもはどうするのか。「片付ける」という言葉が使われるのを聞いたら、洋服ならこう、おやつを食べたお皿ならこう、おもちゃならこうするというような、自分でそれぞれ「点」をつないで「面」をつくるような作業をします。結構間違えますが、それを修正しながら面をつくるというのが大事で、そこまでを含めて「記号接地」と捉えています。算数の分数では、よくケーキやピザなど丸い形を半分にして「1/2」だと教えられます。しかしそれだけでは、子どもは丸い形を分けることが「1/2」だと思っても不思議ではない。「等分に分ける」ことを理解していなければ、2人で分けることが「1/2」、3人だと「1/3」、しかも分けられるものは丸い形に限られると考えてもおかしくない。丸い形だけではなく、人数や液体でも全体を「1」とみなせば分けることができる。その推論の過程はなかなか生まれにくく、自分で考えて間違えながらも修正していかないといけません。その過程全てが「記号接地」だという考えです/。
「物」を1/2に分けるということ。最初から「1/2」の「物」が在るのではなく、「1」を半分にするという「物」と1/2の関係性、この「点」をつないで「面」をつくるような作業がAIには難題らしい。この「記号接地」のシステムは「物象化」へのシステムと似ている。現在情況に与えられた変更、転移のmissionと、そこから生ずる情況(の予想)。これらを「記号接地」という思考で子供は学習していくのだが、AIにはこいつが難しい。何故ならAIはデータ(過去資料)というものを内部に持ち込んで分解、結合させることは出来るのだが、それは実体ではなくあくまで記号でしかナイ。AIにおいては外部で記号を実体に関係付けるという作業が難しい。
「1000万円と それを所有する私」において、1000万円というのが「紙」だというのは社会学的には「意識している」ことだ(記号化されているといってイイ)。しかし、それが「中古のレクサス」に交換出来るということは/社会学的無意識を通じて/行われているというのが実体経済(この世間)における「交換」である。ここでは誰も「紙」を(が)自動車と「交換」する(出来る) とはおもっていない。紙幣、貨幣を交換するという念で「交換」する。つまり1000万円という「紙」は「交換」においては交換出来るものと社会学的無意識で「了解」しているといっていい。そういう「記号接地」のシステムが働くからだ。Aの部屋とBの部屋があって、どちらが「片づけられた部屋」なのかを片づけた当人は知っている。何故なら、その部屋の「片づけ」と「関係」をもって「了解」しているからだ。ここに一枚のピザがある。そのピザが最初は二枚あって、二人に二等分-はんぶんこ- された一枚なら1/2のピザだ。ピザは一枚だが1/2なのだ。これはピザと当人の関係における「物象化」としての了解だ。この「1=1/2」にAIは躓く。意識過程(「紙」)=記号と無意識過程(「レクサスに交換」)=実体がAIの〈人工知能〉ではアルゴリズム(演算)出来ない。
この構造を鬱病にどう関連(関係)させるか。そのために「物象化」をその前段階ともいえる「疎外」というものに引き戻してみる。
*****で、つづきます。