nostalgic narrative 48
唯物論弁証法(弁証法的唯物論ともいうようですが)では、「意識・ココロ・魂・感情et cetera」を単に「観念」と称することが多い。マルクス以前の(ヘーゲルなどの)弁証法を観念論的弁証法と称するのはそのためだ。「観念」を扱えない弁証法は「タダモノ論」と呼ばれる(まあ、似非モノということで)。ではホンモノの唯物論は「観念」の存在をどう扱うのか。これを「無い」とは もちろんいわない。だって在るのだから。
ここで、ハイデガー親父などが「在る」とはナニカ、と問うたことがおもいだされる。『存在と時間』は人間存在についてのみ述べられたものではナイ、とハイデガー親父は講義している(この親父、著書は無いのだ。すべて公儀隠密ならぬ講義如是我聞しか残っていない。理由はソシュールの言語論(学)とよく似ているところがある。ソシュールの場合も著作は無いに等しい。殆ど講義録だ。それはソシュール言語論の性格からきている。つまり彼は自分の言語学に倣ったワケで、〈書く〉という営為は主語があきらかでナイ場合が多いのに比して、語る場合、発語の場合は主格がハッキリしているからという理由で発語による言語を扱った。ハイデガーの場合も「存在」には〈誰が・何が〉という主格が必要になる。ここがアリストテレス二千年の哲学主流を引っ繰り返して、二十世紀最大の哲学者といわせしめているところなんだけど、アリストテレスの場合、後にキリスト教神学とくっついてスコラ哲学となった要素があるように、「在る」の主体は「神」でよかった。旧約「天地創造」での最初のコトバは「光、在れ」だから、すべて「在る」ものは神の御業でカタがついた。
後に『実存主義とはなにか』でサルトルさんが記しているように/バターナイフはバターをパンに塗るために存在する を本質論とするならば、ヒトはその〈本質〉ではなく、バターナイフでジャムも塗れるしマーガリンだって塗れる、あげくの果てはヒトを殺すことも可能な〈実存〉である/ということになる(要するにハイデガーをジャーナリスティックに説いていったのがサルトルさんのだ。そらぁ、若者にウケたやろなあ。レビィ・ストロースとの論争に負けるまではのハナシで、それからのサルトルさんの末路は悲惨なんだけどね)。
「在る」がいろいろ在る というのが実存主義で(といっても いまふうの〈多様性〉とはかなりチガウ。ただ、在ればイイというのではナイから)。その先駆的哲学者(pioneer)がハイデガーなのだが、ハイデガーもヒトを〈本質〉としては扱わなかった。簡単にいえばアリストテレスの「在る」を「成る」に転換(展開)した。だから「在る」の主体が「神」でカタがつかなくなったワケだ。
ある日天使ルシファーがヤハウェにいった。「世界なんてヒトだけでどうにでもなりますぜ」そこでヤハウェは「そんならヒトだけで勝手にしやがれ」とルシファーに七千年だけ自由時間を与えた。このルシファーが後にハルマゲドンの大将となる地獄の王デビルで 地上での呼び名がサタン(堕天使)というワケだが、相手の天使方(軍ですが)の大将はミカエルという大天使。神の国にも階級があって、大天使といえどもイチバン上ではナイ。天使の階級でのトップは熾天使(してんし)セラフで天使の九階級のうち最上で、とにかくヤハウェの傍らで愛の炎となって燃えている。と、ここまでくると神話というよりお伽話に近くなってくるのだが。
横道ソレイユの閑話休題。つまりは「在る」をめぐってのアレコレなのだが、では「観念」はヒトのどこに在るのか、というのは唯物論弁証法においても最大の問題であることはいうまでもナイ。AIがマシンなら「唯物」なのだが、その演算装置人工ニューラルネットワークはヒトの脳のコピペ、写像なのだから「観念」が生じても不思議はナイんじゃないのということで、量子的意志なんかが論じられるようになったのは、前に書いた。のだけれど、ここでいいたいことはその意識なり「観念」が〈在る〉というのはヒトではどういう状態のことをいうのだろうか、だ。実は、それはヒトにおいてもよくワカッテいない。それならAIにしても/在る・無い/はどうとでもいえるのではナイのか。
唯物論弁証法では「観念」を観念として扱っているだけで、何処に何故在るのか、という問いには答えていないというか問題にしていない。唯物論のスゴイところは/在るものは在るんだから、在るとしてかんがえればイイのだ/と、いいきってしまうところだ。何故在るのかについては、ヒトには観念が在るからだ、という、反復同義にしかならない。
たとえば〈無意識〉が取り沙汰されるようになってから(フロイト老師あたりからだが)唯物論はこの〈無意識〉を一つのヒトの〈装置〉として扱っている。ここまでくると、AIに意識が在るだの魂がどうだ、の、と、かんがえている(問題にしている)ことのほうが、ちょっとアホらしくなってくる。つまり、問題はここで逆(さか)トンボリになる。AIの〈意識〉はいまのところワカラナイがコピーもと(原本)のヒトの脳のほうはどうなのだ。AIに〈意識〉を問うことは、哲学的にも科学的にも社会学的にも、ヒトのほうの「観念」、脳の意識、卑近にいえば「私」とはナニと、問うことになる。
***つづく(まだ、つづきます)
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