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2024年11月22日 (金)

nostalgic narrative 47

承前: しゃーけえ(「だけれども」の何処かの方言)、量子コヒーレント(量子が恒常的にコヒーレンスな状態であること)な時間がたとえ もんのすんごく短くても、その演算速度たるやスパコンの数万年に対しての数分ならば、極めて低温で他の〈環境〉もベリーグッドな量子コヒーレントな時間が煙草一本喫う程度あれば、スパコンがイエス・キリストはほんとうの神の子であると証明するのに数万年かけたとしても(実際いまはまだイエス生誕二千年と少しだからネ)、量子コンピュータなら数分で演算出来てしまうのではないのケ。と半畳入れることはたやすい。ペンローズ親方の「脳=量子コンピュータ論」もあながちアタリではないのケ、ということ なのだが、つまり量子AIは造れるやんか。造れんにしても、他のスパコンと団結、協力して、うまいことヤってんのやろ。と、いくらでも反論は出来そうだ。
ここで問題をマチガッテもらっては困るのだ。ペンローズ親方がいいたいのは/そういうものが出来る/のではなく、脳は「そういうものだ(ではナイのか)」というギロっとジロリの睨みなのだ。何故ならペンローズ親方にしても、AIがヒトのように〈意志〉や〈ココロ〉や〈魂〉というモノを持つことに並々ならぬ興味があるからだ。逆にAI懐疑派(用心派)なら、シンギュラリティへの道のりという心配、不安がある。これについて私(主筆)などは如何にも蛸にもアッケラカンと幾つかいうことはある。(実際、そういうことをいうためにもこの連続ブログを書いているのだが)AIは脳(もちろんヒトの脳のことをいっているのはアタリマエなので、〈脳〉としかこれまで記していないが)をコピペしているのだから、つまり脳を写像、模倣して造られているのだから、脳に似ている(姿カタチではナイよ)のはこれまたアタリマエなのはアタリマエだ。従って、脳のような〈意識〉や〈ココロ〉の領域、スキーム、現象をかいま見せることがあるかも知れない。その写像品(模造品と記すとニセモノのようなのでこう記すが)を観て、観察して、「オーッノー、おーっ脳にソックリだ」というのは科学者にありそうな(意外といるのだなそういう御方)仕方ないことだ。
そこで、虚無主義にならぬように注意しながら、形式論理の得意技である「三段論法」を試みてみよう。
〇脳は自然のものであるが、AIは人工のものだ。
〇自然は人工ではナイ。
〇従って脳はAIではナイ。
形式論理の勉強がまだまだ足りないので、三段論法についての論議も多い中、ありふれた論理形式というふうにみてもらえばイイ。だからベタな論理だが、ベタであるゆえに、また半畳入る。
人間の脳が細微的に量子という物理量で出来ているのなら、脳は〈自然〉のものといえるのか。脳もAIも物理的産物であるのなら、脳を量子コンピュータと(またはその逆に)いってもエエのではないか。
この〈なるほど反論〉は、「自然とはなにか」という大問題に繋がる。シュレーディンガー老師が、波動方程式までつくっておきながら、量子力学から足を洗わんとして(つまりその限界をみて)最前線から撤退したというハナシは、ほんとうなのかどうなのか。「猫」はイタチの最後っ屁だったのか、疑問だが、量子生物学が誕生してきた現在、これは量子医学になる道はあるだろう。ちょうど、分子生物学が医学に転用してきたように。そうすると、シュレーディンガー老師はヒトと量子との関係の未来(将来)を見越して「生命とはなにか」の講演をおこなったのではなかろうか。
「人間はヒトのかたちをした自然である」は、唯物論弁証法(ヘーゲルなどの観念論弁証法ではナイということ)における定義の一つだ。シュレーディンガー老師には、将来、必ずや量子と自然(人間)の関係(問題)が提起されるだろうという確信があったにチガイナイ。私(主筆)はここんところそうおもうようになった。では、その流れからかんがえると、AIと脳(意識・ココロ・魂・感情et cetera)の関係(問題)はどうなるのだろうか。
「演劇表現は無意識の科白(せりふ)化だ(科というのは〈しぐさ〉のこと)」「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題にここで戻って試行錯誤してみよう。
****つづく

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