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2024年11月10日 (日)

nostalgic narrative 44

承前:
もう一つ、せっかくフロイトが出てきたので 昨夜から読み始めた『社会学史』(大澤真幸、講談社現代新書)から〈鬱病〉についてかなり強いインスピレーションを得たことを記しておく。大澤老師によると マックス・ヴェーバーは順調な教壇生活をおくるうちに鬱病を発症して、大学から去った。のだが、彼の主著はそこからのちに書かれている。つまり鬱病が彼をして後世に残る名著を書かせたことになるのだが、では 彼の鬱病の原因は何だったのか。大澤老師はこれを「社会学的な憂鬱」といいきる。十九世紀から二十世紀初頭にかけての世界(社会)情況(環境)が主因だというのだ。環境が鬱病患者にとっては大きな変化(容態)に関係していることは精神医学においても統計的にではあるが立証されている。この頃同様にイイ仕事をしたフロイトも精神疾患に罹患している。両者は社会の病巣を個人的環境として背負ったために精神疾患(鬱病、エディプス・コンプレックスを原因とする とされている)に罹患している。この現象を社会学としては「時代の憂鬱」として捉えているのだ。他にこの時代において感性鋭敏な学者 芸術家 が共通に〈鬱病〉に見舞われている。「時代の暗澹な雰囲気が個人の疾病の増長、あるいは罹患に関係するのか」というのは実にオモシロイ問いかけだが、量子生物学をここに導入すると そういったことは(そういったことこそ)個人の精神生活(疾患)に強く影響することが明白になる。
分子生物学はシュレーディンガーの『生命とはなにか』(講演のちに書籍化)から始まったというのが定説だが、分子は原子の結び付きであり、原子は素粒子から成るならば 量子が周囲の環境から多大な影響を受けるのはアタリマエで、であるからこそ量子コンピュータは〈マチガイ〉をしでかすデリケートなマシンで あるのだ。私は以前 鬱病と争闘(疾病そのものと その因果解析と)に四苦八苦していたとき、一つの〈説〉として「重力」とヒト個体(固体)とを結びつけることが鬱病の因子となるという命題は立てられないか という設問(自問)を試みたが、これはこっちの能力をこえていて挫折 途絶えた。けれどもいまAIの勃興とヒトの脳との相関を並べてかんがえてみるとき、ほぼあきらかに 鬱病という疾病は精神医学では片づかないシロモノであることがワカル(やっとワカッタだど)。
ところで、AIと脳の周縁を幾つか述べてきたが、そも「意識・ココロ・魂」といったものがいったい何を指すのか 演繹されたものから帰納命題にしてみることを今度はスイッチバックしてかんがえてみる。
「AIに〈意識〉を発見した」「これはAIに魂が生成されたとおもわれる」という仮説はおそらくクサルほどあるはずだ。論文になったものも、二、三流科学誌に発表されたものもあるだろう。これをして「AIは核爆弾より恐ろしい」と、AIが世界を支配するシンギュラリティやAIがでたらめな情報を、あたかも真実のように答えてしまうハルシネーションに身構えているのが現状の一側面ともいえる。つまり、いまは「AIのテキ屋情況」で、その性能、生成事象がバナナのように叩き売られている世相なのだから。だがしかし法則的にワカッテいる、つまり共通項といえることは「AIはおそろしく電気を使う」だけだろう。
まずAI(とその研究者)を責める前に、私たちは自らの目の梁を取り除かねばナ。要するに そんじゃあ〈意識〉って何なのだ という問いにどう応えるのか だ。
「意識とはなにか」という問いは「神は存在するか」という問いと相似している。近似しているということなら「シッタールタが悟りをひらいたとき 彼は彼の内にあったものに気付いたのか 天から授受したものなのか」という問いもそうだ。
この問いは「意味を持たない」とおもわれる。
***つづく

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