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2024年11月27日 (水)

nostalgic narrative 50

承前: 哲学にもどる、と、なると、いままでthroughしてきたデカルト旦那が顔を出してくる。「我思う、ゆえに我あり」と、これも〈在る〉についての考察の結果だ。デカルトの場合はヒトは神が創造したものであるのだから神頼みで「事象を疑っているのは〈私〉だが、我は神の造りたまえし存在ゆえ、その我の理性にマチガイがあるとは~おもえない」つまり、疑っている〈私〉を疑うワケにはいかないというニュアンスが強いのだが、カントやスピノザがこの〈理性〉や〈完全性〉を疑ったように デカルトだって、/ちょっと待て 狂う魔はスグに止まらない/と暫しは狂ったにチガイナイ。何に というと思考のスパイラルになのはいうまでもナイ。コトバを反(かえ)せば「こんなふうに考える 私が狂っていたらどうなるのだ」と、ふとおもったワケだ。これは、後々「我思う、ゆえに我あり」(ラテン語で「Cogito, ergo sum」)をすら疑った哲学者たちの叛意のデカルト批判と同じだ。こうなると、先述したように思考はスパイラル地獄に陥る。だから、だからなのだ、デカルトがここで数学の幾何学を発明考案援用したのは。幾何学における 共通規範、客観的事実、普遍性な図式を用いることによって、自問は他者の疑問と同じになる。デカルトの数学(幾何学)はそこを起点としている。
これをAI(意識)問題に持ち込むと、このデカルト的スパイラル(疑っている我をすら疑うすら疑う)はAIには不可能な作業になる。何故なら/AIがAIを疑う/ことは出来ないからだ。AIは必ず回答を出さねばならない宿命のようなものを包括している。これが哲学にもどった まず の「どやねん」だ。これ(スパイラルな悩み)を演算しだすと電気代は爆発的になる。もちろん、アルゴリズム(演算方法)はデカルト同様の幾何学になるだろう。しかし、まず「疑うこと」が起点に出来ないAIは、けっきょく「回答不能・不可能・不知我」で、電気代は払えない。こういう〈意識〉はAIには/不要のもの/とかんがえたほうがイイ。哲学は哲学に、AI演算はAIにという「餅は餅屋」で充分なのだ。
いろいろとコネ繰り回してきたが、ともかくも私自身の命題にだけは答えてみよう。つまりこの「AI」シリーズについて書き出した最初の部分に出てくる命題二つだ。「(私の)演劇表現は無意識の科白(せりふ)化だ(科というのは〈しぐさ〉のこと)」、「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題。
前者はAIの意識問題、後者は「進化論」つまり遺伝子情報と、環境世界(環界ともいう)と量子の疎外関係からハナシをつけることが出来る。この二つの命題は前出論述で大概には触れてあるが整理しながらヤっていこう。まず「(私の)演劇表現は無意識の科白化だ」から解を求めていく。ここからはAI論を含む「演劇論」になる。
ハナシをスムーズに解りやすくするための進め方として、ジブリ・宮崎駿さんのアニメを思い起こしてもらう。『ルパン三世~カリオストロの城』クローンの冒険ものに始まり、代表作『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』と、私は宮崎アニメの大ファンなのだが、次第に宮崎さん(アニメ)の〈世界〉その描き方が私にはワカラナクなってくる。『ハウル~』『千と千尋~』『もののけ姫』『~のポニョ』(順不同)にいたっては、理解出来るところ、了解可能なところ、そうして不可解、理解不能が交錯してくる。このワカリニクサは、いしいひさいち老師の四コマなどに時々みられるワカラナサとはまったくチガウものだ。宮崎アニメの『崖の上のポニョ』にいたっては、私は宮崎さんの精神疾患を疑うまでになる。
この不可解さ、疑念が氷解するのは、Mr.ジャック・ラカンがヤっと読めるようになってからだ。といってラカンの難解なテクストを査読したワケではナイ。私がいい御神籤を引いたのは『ラカンと哲学者たち』(工藤顕太・亜紀書房)からだ。この書籍ではラカンが著名な哲学者(その哲学)を精神分析するという極めつきの精神分析学の格闘についての論述が繰り広げられる。まさに衝撃とコーフンの一冊だった。ここに記されてある論理を基に、いわばMr.ラカンふうに宮崎さん(アニメ)を思い起こしてみると、「ああ、そうだったのか」と溜飲が下がる。次回はその線上で演劇というもの(戯曲というものになるが)の構造をみていく。*****ということで、まだつづきますね。

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