無料ブログはココログ
フォト

« 2024年10月 | トップページ

2024年11月

2024年11月28日 (木)

nostalgic narrative 51

承前:演劇は文学のジャンルに入る。舞台表現になろうとも戯曲は文学が基になっているからだ。とはいえ昨今「戯曲って何ですか」というヒトも多いことは事実だ。それを踏まえて述べるが「文学は終わった」のではなくSNSをハジメとして「文学」は新たな起動に入ったおもったほうがイイ。〈起動〉であるが、それが必ずしも~新しい~とはいい兼ねる。何故なら文化というものは常にスイッチバック(スイッチしてバックすること~なんやそれ~まあ、ほんらい鉄道用語ですので)するものだからだ。
演劇(ここでは戯曲、劇作)~とAI~について述べていくと、構造的にみる限り戯曲は二つの波の重ね合わせによって成り立っている(大概がそうだ)。一つは「物語文学としての波」、もう一つは「日記文学としての波」だ。この二つの波動の重なりは戯曲の中で意外と容易にみつけることが出来る。二つの波をベクトル合成(状態ベクトル)として捉えると、その強さ大きさにおいて、その戯曲の要素が日記的文学傾向なのか物語的文学傾向なのかがワカル。たいていの戯曲はそれで読むことが出来る。ところが、
ところが、宮崎(アニメ)においては次第にそこに〈無意識=夢〉という要素の加わりが強く大きくなってきた。いわば宮崎駿さんの無意識の導入、表現だ。ラカンおじさんはこの〈無意識〉を念頭に、その意味を〈コトバ化〉させることによる精神分析を試みる。それと同じように私たちが宮崎アニメを観るとすれば宮崎無意識(=夢)を解くことが必要になってきたということになるのだが、これは、かつての小劇場演劇で多く使われ、多く体験した「表現」=「観劇」という構図になる。(小劇場演劇という名称はマスコミ・メディアがかってに名付けたものなので、今後は使わない。かつアングラなどという名称も用いない。私は私たちが勝手に呼称していた自主演劇~自主制作・自主製作演劇ともいう~と記す)。
従来の演劇(主には新劇と称されるもの)とのチガイはそこに作家の無意識が入るだけではなく、物語文学要素が薄くなっていることだろう。強いて定義するなら「日記的文学に無意識を付随させた」こいつは自主演劇の発明なのだが、これを商用(商業的)として転化させることは劇作家にとっては至難の技で、商用(商業用)は物語文学の要素なり傾向を多く交えないと観客が来ない(銭にならない)からな。
と、とっとっと、それよりも、演じるキャストや他のスタッフが道に迷うことにもなる。彼らは物語の道標を頼りに歩いているからだ。
私はいま芸能演劇の脚本で糊口をしのいでいるが、物語文学を交ぜないと同じことが起きることを経験した。プロデューサーはかなりの能力があったので、ふつうならサッパリわからんというところを、なんとなくオモシロイ、好感は持てるということでさばいてきた。それにも限度はあるからナ。最も 苦しい辛いのは、役者さん方に「ワカラン」といわれることで、つまり役者さんたちが自身の足元がよく見えないと不安を漏らすことだ(これを「演技出来ない」などとのたまうヤカラもあるが、それはナンボのものかワカランきみの〇〇不足だろう。せめて戯曲の段階の脚本を100回くらいは読んでこい)。この事象・現象は昨今、商用(商業用)芸能界の演劇から、自主演劇の世界にまで浸透してきている。浸透滅却すればそうなるだろう。芸能界演劇でも未だにチェーホフが、あるいはその傾向の作品が上演されるのは、「ワカル」=無意識領域が無い、からだ。もちろん、日本の新劇ふう演劇から、本場のブロードウェイの舞台や新旧アメリカ演劇、ミュージカル(みたいなもの)が好んで上演されるのもその理由に由るとおもわれる(あまり詳しくナイので、謙遜しておもわれる、としておく)。
演じられる舞台のqualityとは関係なく、ワカラナイものよりワカルもののほうが客が入るから(銭になるから)、ワカル演目が多くなるのも世代を貫く資本主義の生業だから仕方ナイ。先だって亡くなった(で、河出書房新社から追悼本『唐十郎 襲来!』緊急出版)唐十郎老師が存命ならば八十代になるのだが、どんなふうにいまの演劇がその眼に飛び込んでくるのだろうか。ポーの黄金虫のようにツウーッと下界に降りる途中で蜘蛛の糸を上ってくるカンダタの背中にでも貼りついてマンマロ目ん玉でひと睨みというところかな。
と、また横丁に逸れそうなので、AIに急旋回すれば、AIは私の書く戯曲をどう読むだろうか。おそらく読めないだろう。〈了解不可能・理解不能〉とスルだろう。何故なら、そのように書いているからだ。AIに最も演算がたやすいのは「プロレタリア文学」なんじゃないかな。つまり、AIに意識領域のナイことは、無意識領域が無いということから反転目視で歴然としているし、逆に現在の表現(コミック・アニメ・映画・小説なども含む)には、不思議と無意識=夢領域が広く行き渡っているのだ。優れた作品には(たとえば北野タケシ映画といえども)その領域は含まれている。(ここのところ 多少は自画自賛、自我励行ですが)。
ともかく、自燈明 自燈明。*****もう少しつづきます

2024年11月27日 (水)

nostalgic narrative 50

承前: 哲学にもどる、と、なると、いままでthroughしてきたデカルト旦那が顔を出してくる。「我思う、ゆえに我あり」と、これも〈在る〉についての考察の結果だ。デカルトの場合はヒトは神が創造したものであるのだから神頼みで「事象を疑っているのは〈私〉だが、我は神の造りたまえし存在ゆえ、その我の理性にマチガイがあるとは~おもえない」つまり、疑っている〈私〉を疑うワケにはいかないというニュアンスが強いのだが、カントやスピノザがこの〈理性〉や〈完全性〉を疑ったように デカルトだって、/ちょっと待て 狂う魔はスグに止まらない/と暫しは狂ったにチガイナイ。何に というと思考のスパイラルになのはいうまでもナイ。コトバを反(かえ)せば「こんなふうに考える 私が狂っていたらどうなるのだ」と、ふとおもったワケだ。これは、後々「我思う、ゆえに我あり」(ラテン語で「Cogito, ergo sum」)をすら疑った哲学者たちの叛意のデカルト批判と同じだ。こうなると、先述したように思考はスパイラル地獄に陥る。だから、だからなのだ、デカルトがここで数学の幾何学を発明考案援用したのは。幾何学における 共通規範、客観的事実、普遍性な図式を用いることによって、自問は他者の疑問と同じになる。デカルトの数学(幾何学)はそこを起点としている。
これをAI(意識)問題に持ち込むと、このデカルト的スパイラル(疑っている我をすら疑うすら疑う)はAIには不可能な作業になる。何故なら/AIがAIを疑う/ことは出来ないからだ。AIは必ず回答を出さねばならない宿命のようなものを包括している。これが哲学にもどった まず の「どやねん」だ。これ(スパイラルな悩み)を演算しだすと電気代は爆発的になる。もちろん、アルゴリズム(演算方法)はデカルト同様の幾何学になるだろう。しかし、まず「疑うこと」が起点に出来ないAIは、けっきょく「回答不能・不可能・不知我」で、電気代は払えない。こういう〈意識〉はAIには/不要のもの/とかんがえたほうがイイ。哲学は哲学に、AI演算はAIにという「餅は餅屋」で充分なのだ。
いろいろとコネ繰り回してきたが、ともかくも私自身の命題にだけは答えてみよう。つまりこの「AI」シリーズについて書き出した最初の部分に出てくる命題二つだ。「(私の)演劇表現は無意識の科白(せりふ)化だ(科というのは〈しぐさ〉のこと)」、「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題。
前者はAIの意識問題、後者は「進化論」つまり遺伝子情報と、環境世界(環界ともいう)と量子の疎外関係からハナシをつけることが出来る。この二つの命題は前出論述で大概には触れてあるが整理しながらヤっていこう。まず「(私の)演劇表現は無意識の科白化だ」から解を求めていく。ここからはAI論を含む「演劇論」になる。
ハナシをスムーズに解りやすくするための進め方として、ジブリ・宮崎駿さんのアニメを思い起こしてもらう。『ルパン三世~カリオストロの城』クローンの冒険ものに始まり、代表作『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』と、私は宮崎アニメの大ファンなのだが、次第に宮崎さん(アニメ)の〈世界〉その描き方が私にはワカラナクなってくる。『ハウル~』『千と千尋~』『もののけ姫』『~のポニョ』(順不同)にいたっては、理解出来るところ、了解可能なところ、そうして不可解、理解不能が交錯してくる。このワカリニクサは、いしいひさいち老師の四コマなどに時々みられるワカラナサとはまったくチガウものだ。宮崎アニメの『崖の上のポニョ』にいたっては、私は宮崎さんの精神疾患を疑うまでになる。
この不可解さ、疑念が氷解するのは、Mr.ジャック・ラカンがヤっと読めるようになってからだ。といってラカンの難解なテクストを査読したワケではナイ。私がいい御神籤を引いたのは『ラカンと哲学者たち』(工藤顕太・亜紀書房)からだ。この書籍ではラカンが著名な哲学者(その哲学)を精神分析するという極めつきの精神分析学の格闘についての論述が繰り広げられる。まさに衝撃とコーフンの一冊だった。ここに記されてある論理を基に、いわばMr.ラカンふうに宮崎さん(アニメ)を思い起こしてみると、「ああ、そうだったのか」と溜飲が下がる。次回はその線上で演劇というもの(戯曲というものになるが)の構造をみていく。*****ということで、まだつづきますね。

2024年11月25日 (月)

nostalgic narrative 49

承前:そうなると、けっきょく単純にいえば「哲学」に戻るしかナイ。たしかにそう答えている学者もいる。スキャナーやシンセサイザーの発明者で、人工知能(AI)の進化に関する大胆な予想で知られるレイ・カーツワイル氏は大胆にこういう。
/AIと脳の接続で人間の知能は桁外れに高まり、あらゆる病気を克服して寿命は500歳に達する/さらに、
/AIがより優れたAIを生み出すようになり、人類は脳をこれに接続することで知能を100万倍に伸ばせる/とまで同氏は予想する。シンギュラリティー後の社会はどう変わるのか。カーツワイル氏が最も大きなインパクトを期待するのがヘルスケア分野だ。/32年ごろにはAIの活用によって医療技術の進歩が加速し、1年ごとに寿命を1年延ばせるようになる/実現すれば人間は実質的に老化しないことになる。これを同氏は「寿命脱出速度」と呼んでおり、その限界値から/将来的に人類は500歳まで生きるようになる/と予想する。
カーツワイル氏が肯定的なのは「これまでの人間に不可能だったことが可能になる」と考えるからだ。/健康寿命が延び、テクノロジーによって人間の能力が補完・拡張される。生きるのがとてもエキサイティングになるだろう。いくつになっても『あすも目覚めたい』と思えるようになる。それもシンギュラリティーの一部だ/
「汎用人工知能(AGI=Artificial General Intelligence)」が2年内に実現すると主張する研究者も現れている。人間同様にふるまうAGIが出現したとき、そこに「意識」は宿るのかという問いは長年、研究者の間に論争を巻き起こしてきた。この点についてカーツワイル氏は「意識の有無は哲学的なテーマだ」とした上で、「それを調べる科学的な方法はない」と判断を留保した。しかし「人類は最終的にAIに意識があると信じるようになるだろう」と指摘する。/
うーんと、この堂々たる自信に唸るしかナイが、もう一つ、極めて優れた一点突きの論談も記しておく。
/チャットGPTなど生成人工知能(AI)が人の言語に近づくというより、人がAI仕様になっていく心配があります。AI的な書き方になって、言語の最も良質な部分が失われる感じがするんです。礼状とか、こんな記事をと言えば、AIはささっと文案を作る。それなりに気が利いていて、自分でもこううまくは書けないとも思う。自分の言いたいことをAIに先取りされた気持ちにもなる。自分から湧いた言葉ではないのに、それでよしとなる。そんなことを繰り返せば、辛うじて何かを言えたという経験を、しないままの日常に慣れてしまうんです。AI研究には最初、人の脳と似た仕組みを作ろうという考えがありました。その際、意識や感情、言葉と表現する対象とのつながりをどう教え込むかが問題になった。でも、いまは発話に至る仕組みが別でも、結果が同じならいいという実用性が先に立ち、『人と同じに』という考えが後退した感があります。他の精密機械の開発と違うのは、そこに人の心や意識、精神がわかるヒントがあるかもしれないと思うから、AI研究は尊重されてきたのです。なのに、結果は同じと開き直られると、じゃあ複雑な自動販売機と同じですねとなっちゃう。工学的なブレークスルーはあったけど、精神のあり方としてはまだ何も発見していない感じなんです/~大澤真幸(おおさわ・まさち)社会学者・毎日新聞2024/11/5 東京夕刊
喧々囂々、侃々諤々。されど、「AIもかなり電気食うで。原発どんどん稼働させんとしゃあないのとちゃうか」という実利的見解もまたあるのだ。****つづく

2024年11月24日 (日)

nostalgic narrative 48

唯物論弁証法(弁証法的唯物論ともいうようですが)では、「意識・ココロ・魂・感情et cetera」を単に「観念」と称することが多い。マルクス以前の(ヘーゲルなどの)弁証法を観念論的弁証法と称するのはそのためだ。「観念」を扱えない弁証法は「タダモノ論」と呼ばれる(まあ、似非モノということで)。ではホンモノの唯物論は「観念」の存在をどう扱うのか。これを「無い」とは もちろんいわない。だって在るのだから。
ここで、ハイデガー親父などが「在る」とはナニカ、と問うたことがおもいだされる。『存在と時間』は人間存在についてのみ述べられたものではナイ、とハイデガー親父は講義している(この親父、著書は無いのだ。すべて公儀隠密ならぬ講義如是我聞しか残っていない。理由はソシュールの言語論(学)とよく似ているところがある。ソシュールの場合も著作は無いに等しい。殆ど講義録だ。それはソシュール言語論の性格からきている。つまり彼は自分の言語学に倣ったワケで、〈書く〉という営為は主語があきらかでナイ場合が多いのに比して、語る場合、発語の場合は主格がハッキリしているからという理由で発語による言語を扱った。ハイデガーの場合も「存在」には〈誰が・何が〉という主格が必要になる。ここがアリストテレス二千年の哲学主流を引っ繰り返して、二十世紀最大の哲学者といわせしめているところなんだけど、アリストテレスの場合、後にキリスト教神学とくっついてスコラ哲学となった要素があるように、「在る」の主体は「神」でよかった。旧約「天地創造」での最初のコトバは「光、在れ」だから、すべて「在る」ものは神の御業でカタがついた。
後に『実存主義とはなにか』でサルトルさんが記しているように/バターナイフはバターをパンに塗るために存在する を本質論とするならば、ヒトはその〈本質〉ではなく、バターナイフでジャムも塗れるしマーガリンだって塗れる、あげくの果てはヒトを殺すことも可能な〈実存〉である/ということになる(要するにハイデガーをジャーナリスティックに説いていったのがサルトルさんのだ。そらぁ、若者にウケたやろなあ。レビィ・ストロースとの論争に負けるまではのハナシで、それからのサルトルさんの末路は悲惨なんだけどね)。
「在る」がいろいろ在る というのが実存主義で(といっても いまふうの〈多様性〉とはかなりチガウ。ただ、在ればイイというのではナイから)。その先駆的哲学者(pioneer)がハイデガーなのだが、ハイデガーもヒトを〈本質〉としては扱わなかった。簡単にいえばアリストテレスの「在る」を「成る」に転換(展開)した。だから「在る」の主体が「神」でカタがつかなくなったワケだ。
ある日天使ルシファーがヤハウェにいった。「世界なんてヒトだけでどうにでもなりますぜ」そこでヤハウェは「そんならヒトだけで勝手にしやがれ」とルシファーに七千年だけ自由時間を与えた。このルシファーが後にハルマゲドンの大将となる地獄の王デビルで 地上での呼び名がサタン(堕天使)というワケだが、相手の天使方(軍ですが)の大将はミカエルという大天使。神の国にも階級があって、大天使といえどもイチバン上ではナイ。天使の階級でのトップは熾天使(してんし)セラフで天使の九階級のうち最上で、とにかくヤハウェの傍らで愛の炎となって燃えている。と、ここまでくると神話というよりお伽話に近くなってくるのだが。
横道ソレイユの閑話休題。つまりは「在る」をめぐってのアレコレなのだが、では「観念」はヒトのどこに在るのか、というのは唯物論弁証法においても最大の問題であることはいうまでもナイ。AIがマシンなら「唯物」なのだが、その演算装置人工ニューラルネットワークはヒトの脳のコピペ、写像なのだから「観念」が生じても不思議はナイんじゃないのということで、量子的意志なんかが論じられるようになったのは、前に書いた。のだけれど、ここでいいたいことはその意識なり「観念」が〈在る〉というのはヒトではどういう状態のことをいうのだろうか、だ。実は、それはヒトにおいてもよくワカッテいない。それならAIにしても/在る・無い/はどうとでもいえるのではナイのか。
唯物論弁証法では「観念」を観念として扱っているだけで、何処に何故在るのか、という問いには答えていないというか問題にしていない。唯物論のスゴイところは/在るものは在るんだから、在るとしてかんがえればイイのだ/と、いいきってしまうところだ。何故在るのかについては、ヒトには観念が在るからだ、という、反復同義にしかならない。
たとえば〈無意識〉が取り沙汰されるようになってから(フロイト老師あたりからだが)唯物論はこの〈無意識〉を一つのヒトの〈装置〉として扱っている。ここまでくると、AIに意識が在るだの魂がどうだ、の、と、かんがえている(問題にしている)ことのほうが、ちょっとアホらしくなってくる。つまり、問題はここで逆(さか)トンボリになる。AIの〈意識〉はいまのところワカラナイがコピーもと(原本)のヒトの脳のほうはどうなのだ。AIに〈意識〉を問うことは、哲学的にも科学的にも社会学的にも、ヒトのほうの「観念」、脳の意識、卑近にいえば「私」とはナニと、問うことになる。
***つづく(まだ、つづきます)

2024年11月22日 (金)

nostalgic narrative 47

承前: しゃーけえ(「だけれども」の何処かの方言)、量子コヒーレント(量子が恒常的にコヒーレンスな状態であること)な時間がたとえ もんのすんごく短くても、その演算速度たるやスパコンの数万年に対しての数分ならば、極めて低温で他の〈環境〉もベリーグッドな量子コヒーレントな時間が煙草一本喫う程度あれば、スパコンがイエス・キリストはほんとうの神の子であると証明するのに数万年かけたとしても(実際いまはまだイエス生誕二千年と少しだからネ)、量子コンピュータなら数分で演算出来てしまうのではないのケ。と半畳入れることはたやすい。ペンローズ親方の「脳=量子コンピュータ論」もあながちアタリではないのケ、ということ なのだが、つまり量子AIは造れるやんか。造れんにしても、他のスパコンと団結、協力して、うまいことヤってんのやろ。と、いくらでも反論は出来そうだ。
ここで問題をマチガッテもらっては困るのだ。ペンローズ親方がいいたいのは/そういうものが出来る/のではなく、脳は「そういうものだ(ではナイのか)」というギロっとジロリの睨みなのだ。何故ならペンローズ親方にしても、AIがヒトのように〈意志〉や〈ココロ〉や〈魂〉というモノを持つことに並々ならぬ興味があるからだ。逆にAI懐疑派(用心派)なら、シンギュラリティへの道のりという心配、不安がある。これについて私(主筆)などは如何にも蛸にもアッケラカンと幾つかいうことはある。(実際、そういうことをいうためにもこの連続ブログを書いているのだが)AIは脳(もちろんヒトの脳のことをいっているのはアタリマエなので、〈脳〉としかこれまで記していないが)をコピペしているのだから、つまり脳を写像、模倣して造られているのだから、脳に似ている(姿カタチではナイよ)のはこれまたアタリマエなのはアタリマエだ。従って、脳のような〈意識〉や〈ココロ〉の領域、スキーム、現象をかいま見せることがあるかも知れない。その写像品(模造品と記すとニセモノのようなのでこう記すが)を観て、観察して、「オーッノー、おーっ脳にソックリだ」というのは科学者にありそうな(意外といるのだなそういう御方)仕方ないことだ。
そこで、虚無主義にならぬように注意しながら、形式論理の得意技である「三段論法」を試みてみよう。
〇脳は自然のものであるが、AIは人工のものだ。
〇自然は人工ではナイ。
〇従って脳はAIではナイ。
形式論理の勉強がまだまだ足りないので、三段論法についての論議も多い中、ありふれた論理形式というふうにみてもらえばイイ。だからベタな論理だが、ベタであるゆえに、また半畳入る。
人間の脳が細微的に量子という物理量で出来ているのなら、脳は〈自然〉のものといえるのか。脳もAIも物理的産物であるのなら、脳を量子コンピュータと(またはその逆に)いってもエエのではないか。
この〈なるほど反論〉は、「自然とはなにか」という大問題に繋がる。シュレーディンガー老師が、波動方程式までつくっておきながら、量子力学から足を洗わんとして(つまりその限界をみて)最前線から撤退したというハナシは、ほんとうなのかどうなのか。「猫」はイタチの最後っ屁だったのか、疑問だが、量子生物学が誕生してきた現在、これは量子医学になる道はあるだろう。ちょうど、分子生物学が医学に転用してきたように。そうすると、シュレーディンガー老師はヒトと量子との関係の未来(将来)を見越して「生命とはなにか」の講演をおこなったのではなかろうか。
「人間はヒトのかたちをした自然である」は、唯物論弁証法(ヘーゲルなどの観念論弁証法ではナイということ)における定義の一つだ。シュレーディンガー老師には、将来、必ずや量子と自然(人間)の関係(問題)が提起されるだろうという確信があったにチガイナイ。私(主筆)はここんところそうおもうようになった。では、その流れからかんがえると、AIと脳(意識・ココロ・魂・感情et cetera)の関係(問題)はどうなるのだろうか。
「演劇表現は無意識の科白(せりふ)化だ(科というのは〈しぐさ〉のこと)」「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題にここで戻って試行錯誤してみよう。
****つづく

2024年11月15日 (金)

nostalgic narrative 46

承前:
まさに、いつまでつづく泥濘(ぬかるみ)ぞ、だ。しかし、やっかいではあるが、私にとっては貴重なアイテム、ツールもごろごろしている。「(私の)演劇表現は無意識の科白(せりふ)化だ(科というのは〈しぐさ〉のこと)」という命題も 「鬱病は精神疾患ではなく、社会学的な憂鬱の量子もつれだ」という命題もその道筋で掘り出したまさに掘り出し物」だ。とりあえずその貴重なお宝にはいまは言及しないことにして、ペンローズの「脳は量子コンピュータである」という命題はそこら辺りのインテリにはオオウケだったとおもわれる。しかし、マトモな生物学者はもちろんそんな俗論には満足しない。いくら数理物理学の権威のコトバだとしても、俗論、通俗談には肯定出来ない。(だいたいペンローズは科学哲学者でもあるからナ。 鶴亀 鶴亀)。という私、主筆などは単なる庶民大衆(popular)だけども。~しかしながら、大衆はもとは仏教用語の「だいしゅ」であり、仏教に帰依した多くの僧をいって現在の大衆の語源となった、とある~
物質の最小単位は素粒子で 量(エネルギー)を持つものを量子というふうに分別(ゴミではないよ)するならば、脳だって細微(最微)は素粒子(量子)であることにマチガイはナイ。(脳内伝達手段は電気信号だしね)しかして、その力学である量子力学から発想を得た量子ビット(キュビット)で計算をする量子コンピュータであるならば、脳→AI→脳という考察から、脳が量子コンピュータだ、といってもあながち「なるほど領域」なのだ。けれども量子コンピュータにはかなり大きな弱点がある。「マチガイが多い」というのはご愛嬌で、だからこそヒトの脳に近いといえるのではナイか、とワトスンを諭すホームズのような顔も出来るだろうが、ところがこの「マチガイが多い」理由なのだが、チガウ表現をすると「孅い(か弱い)」のだ。マシンにしては壊れやすすぎるのである。といいますかね、量子コンピュータを作動、稼働させるのにはかなりの神経質な環境の配慮が必要になってくる。これはもうコアラやパンダの生育環境の比ではナイ。
〈コヒーレント・コヒーレンス〉という用語が物理には頻繁に出てくる。たしか前者が名詞で後者が~形容詞か副詞だったかなと記憶していたらそうではナイようで、さっそくグーグルのAIの答を引用すると、
・コヒーレントは波動が互いに干渉しあう性質を持つことを意味します。
・コヒーレンスは、波の位相や振幅の揃い具合、干渉縞の鮮明さを表す言葉です。波が重なり合ったときに干渉縞が作りやすい場合はコヒーレントな波と呼ばれ、レーザー光は代表的なコヒーレントな波です。
だそうです。これはまあ、要するに波の重なりやすさのことだ。たとえば〈デコヒーレント・デコヒーレンス〉となると、デが付くので干渉縞が作りにくい状態というふうに 量子力学の観測理論では、/デ付き/のほうを「混合状態」といい/デ無し/のほうを「純粋状態」というふうに記述していたのを学習した覚えがある。もちょっというと「シュレーディンガーの猫」は観測理論でいえば、未だ/デ付き「混合状態」/のほうで、ここまでだと波動関数で理屈をすすめられるのだが、ここからはマトリックス(行列関数)/デ無し「純粋状態」/までいかないと量子の運動は掴めないと、ずいぶん前に勉強した(ので、ぼんやりとしか思い出せないのだが)。 私、主筆は専門家ではナイので大雑把にハナシをすすめると、蛍光灯や太陽光というのは レーザー光のようにコヒーレンス(純粋状態)ではナイ。従って「あなたの隣に量子コンピュータを一台如何ですか」というセールスは出来ない。
つまり、量子コンピュータを設置 作動 稼働させようとするのには、かなり難しい環境を造らねばならない(ずいぶんと冷やさねばならないらしい)。かつ、そんな環境でも、量子コンピュータは長時間働いてくれない。ほんの僅かな環境の破れ(たとえば蝶々が羽ばたいたとか 量子もつれとかだ)で「マチガウ」のだ。しかし、その演算速度たるやスパコンが数万年かかってやる計算を数秒でヤルというのだから、キュビット(量子ビット~つまりはビットとビットの重ね合わせ~これを観測理論では状態ベクトルという)畏るべしだ。
が、しかし待て。私たちはたしかに細かく 細かく さらに細かくしていけば〈量子〉になる。なのに 太陽のもとで生きているではないか。というのはムチャぶりで、私たちは量子として生きているワケではナイ。量子の集合(結び付き)は量子ではナイ。誤解をおそれずに述べるならばそれは原子だし、ペプチド結合として分子であり、そこまでいかないとヒト(身体)とはいえない(常識的にはだけど)。ただし、分子生物学 があるように、この分子結合に分け入っていくと 分子というのは原子の結合だから原子の結合になるのだが、それらはさらに量子のくっつきだ(どうヤッてくっついているかにおいてクォークの登場となるのだが)。量子生物学によると陽子の結合部分は図式では破線で描かれ、その理由はその部分の結合は波動だからだ。ということになる。波の重なりで結ばれているのだ。いやあもうスゴイなとしかいいようがナイ。この辺はまたアトで語ればヤるとして、多大な熱量(電気料・電気代)を要するAIと環境的にガンガン冷やさねばならない量子コンピュータは相性が悪い。つまり、量子AIはいまのところ造れないということだ(と、私は理解している)。だから役割分担しているのだろう。
すると、ヒト(の脳)は量子コンピュータでは無いのか。そうです。そうなのだけれども、デコヒーレントな環境(世相・社会・自然)から少なからず影響されているものではある。
****つづく

2024年11月13日 (水)

nostalgic narrative 45

承前:
「意味を持たない」理由を述べてみるが これは「言語スキーム(領域)」の問題だといえなくもナイ。といってもウィトゲンシュタインの発語言語学とはまったく関係がナイことは了承して頂きたい。くだいていえば/「意識とはなにか」という問いを言語解釈すると、問いの中にすでに答が含まれている もっといえば 問い自体が矛盾を含んでいる/ということになる。
何度も書いた(述べた)ことだがいわゆる「無神論(者)」というコトバ(言語)はその最たるもので「無神論(者)」というコトバの中にすでに「神」(というコトバ、概念)が引用されているということは このコトバは「神」について語ったコトバ以外のナニモノでもナイということを示している。無神論者が「神」について語っている(デキるんかいっ)。もっと小癪ないい方をすれば「神の無いことを神という概念、意味を用いて、つまり自分の想定した「神」というものは無いと語って(述べて)いっているに過ぎない。それが〈矛盾〉だと(私などは)いいたいワケだ。
「シッタールタが悟りをひらいたとき 彼は彼の内にあったもの(悟り)に気付いたのか 天から(悟り)を授受したものなのか」という問答は、仏教では浄土系を除いて(浄土系は悟りなど認めていない)はよく取り沙汰されるらしいが、さらに多くは「もちろん、天からの啓示の授受ではなくシッタールタ自身の悟り(内部からのという意味)と解するのが正解とされていることが圧倒的に多い。これは仏陀となるためにシッタールタが前世で数十劫年も修行してから前世に生まれたという説に繋がる。何劫年であろうとそんな時間の単位など どうでもイイが、内なるも 天からも どちらもどうでもイイ。何故ならは「不二の法門(維摩経)」において、仏と我が身とは分けてとはいけない とされているのが一休宗純をはじめとしての解釈であり これが仏教の一つの信心導因となっているのだから、天だろうが 己自身だろうが 宇宙においてはデカプリング(分断)出来ないひとつのものであるのだから、それを分けて考えるとマチガッテしまうと説かれているからだ。よって/内から天からの分けての思考/は当然ながら「意味をもたない」ことになる。
さて、では「意識とはなにか」という問いを(自問でも)差し出されたとき、「意識」というものが、この「意識とはなにか」というコトバの中に含められているので、これは先述した「無神論(者)」と同様に問いにならない(矛盾を孕んでいる)。「意識というのはビヤ樽と同じ」とあたかも禅問答のようにもいえるし、尤(もっと)もらしく「ヒトのココロの作用」ともいえるのだ。どういったって〈客観たる真理〉としての答が無いのだから。
「ヒトのココロの作用」ならば、いくら何でも「ビヤ樽」じゃナイだろうということでだが、では「それはどんな作用なの」という問いが次にヤッてくる。これも独我的判断が無数にあるだけで およそ「客観」には辿り着きそうにもナイ。
よって、AIに「意識」が芽生えるか、存在するか、という問いもしくは問答は、独我論の粋を出ることはナイ。誰ぞがAIに~意識を発見~意識の生成に成功~意識とおもわれる反応~と声高に拡声しても、「ああ、そうですか」と聞き流しておくか 十人のうち九人が同調したから正しい に賛同しても それが「意識」かどうかを決める〈基準〉が確定されないうちは、ビヤ樽だろうが、鰯のアタマだろうが同じことになる。
つまり、「意味をもたない」ということになる。ではその「基準」をどうヤって求めるのか。
私(主筆)においてはAI(これがヒトだとしても似たようなものだが)の「意識」の生成、存在の有無を論じることは時間の無駄としかいいようがナイ。だから、AIの反応が如何にヒトに似ていても それが意識かどうかなどということよりも、AIによってデキ得ることがどれだけ役に立つか キケンであるかだけ 論じていたほうがイイとおもうのだが~ムニュムニュ。
AI意識論(と称しておくが)は、脳→AI→脳という観察(考察)から、数理物理学者・数学者の権威であるロジャー・ペンローズが 脳内の情報処理には量子力学が深く関わっているというアイデア・仮説を提示したことに端を発しているといってイイ(その仮説は「ペンローズの量子脳理論」と呼ばれている)。つまり、ペンローズさんは脳は「量子コンピュータとちゃうか」というたのだ。そこで、面倒だがこれもいま話題の「量子コンピュータ」というものが如何なるものかの道標を歩かねばならない。
***つづく

2024年11月10日 (日)

nostalgic narrative 44

承前:
もう一つ、せっかくフロイトが出てきたので 昨夜から読み始めた『社会学史』(大澤真幸、講談社現代新書)から〈鬱病〉についてかなり強いインスピレーションを得たことを記しておく。大澤老師によると マックス・ヴェーバーは順調な教壇生活をおくるうちに鬱病を発症して、大学から去った。のだが、彼の主著はそこからのちに書かれている。つまり鬱病が彼をして後世に残る名著を書かせたことになるのだが、では 彼の鬱病の原因は何だったのか。大澤老師はこれを「社会学的な憂鬱」といいきる。十九世紀から二十世紀初頭にかけての世界(社会)情況(環境)が主因だというのだ。環境が鬱病患者にとっては大きな変化(容態)に関係していることは精神医学においても統計的にではあるが立証されている。この頃同様にイイ仕事をしたフロイトも精神疾患に罹患している。両者は社会の病巣を個人的環境として背負ったために精神疾患(鬱病、エディプス・コンプレックスを原因とする とされている)に罹患している。この現象を社会学としては「時代の憂鬱」として捉えているのだ。他にこの時代において感性鋭敏な学者 芸術家 が共通に〈鬱病〉に見舞われている。「時代の暗澹な雰囲気が個人の疾病の増長、あるいは罹患に関係するのか」というのは実にオモシロイ問いかけだが、量子生物学をここに導入すると そういったことは(そういったことこそ)個人の精神生活(疾患)に強く影響することが明白になる。
分子生物学はシュレーディンガーの『生命とはなにか』(講演のちに書籍化)から始まったというのが定説だが、分子は原子の結び付きであり、原子は素粒子から成るならば 量子が周囲の環境から多大な影響を受けるのはアタリマエで、であるからこそ量子コンピュータは〈マチガイ〉をしでかすデリケートなマシンで あるのだ。私は以前 鬱病と争闘(疾病そのものと その因果解析と)に四苦八苦していたとき、一つの〈説〉として「重力」とヒト個体(固体)とを結びつけることが鬱病の因子となるという命題は立てられないか という設問(自問)を試みたが、これはこっちの能力をこえていて挫折 途絶えた。けれどもいまAIの勃興とヒトの脳との相関を並べてかんがえてみるとき、ほぼあきらかに 鬱病という疾病は精神医学では片づかないシロモノであることがワカル(やっとワカッタだど)。
ところで、AIと脳の周縁を幾つか述べてきたが、そも「意識・ココロ・魂」といったものがいったい何を指すのか 演繹されたものから帰納命題にしてみることを今度はスイッチバックしてかんがえてみる。
「AIに〈意識〉を発見した」「これはAIに魂が生成されたとおもわれる」という仮説はおそらくクサルほどあるはずだ。論文になったものも、二、三流科学誌に発表されたものもあるだろう。これをして「AIは核爆弾より恐ろしい」と、AIが世界を支配するシンギュラリティやAIがでたらめな情報を、あたかも真実のように答えてしまうハルシネーションに身構えているのが現状の一側面ともいえる。つまり、いまは「AIのテキ屋情況」で、その性能、生成事象がバナナのように叩き売られている世相なのだから。だがしかし法則的にワカッテいる、つまり共通項といえることは「AIはおそろしく電気を使う」だけだろう。
まずAI(とその研究者)を責める前に、私たちは自らの目の梁を取り除かねばナ。要するに そんじゃあ〈意識〉って何なのだ という問いにどう応えるのか だ。
「意識とはなにか」という問いは「神は存在するか」という問いと相似している。近似しているということなら「シッタールタが悟りをひらいたとき 彼は彼の内にあったものに気付いたのか 天から授受したものなのか」という問いもそうだ。
この問いは「意味を持たない」とおもわれる。
***つづく

2024年11月 7日 (木)

nostalgic narrative 43

さて 何から書いていくか。かんがえていくか。とりあえず設問から演繹的に進めて 途中で 帰納的に移ったりして、かな。
参考にするために読んだ資料(書籍)は『量子力学で生命の謎を解く』(ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン。理論物理学者と分子生物学者の共著)。
「量子生物学」という新しい学問のハーモニーとでもいえばいいだろうか。ジョンジョー氏の肩書が分子生物学となっていることから 賢明なる読者はシュレーディンガーの講演記録『生命とはなにか』を連想されたかとおもう。それ ビンゴ。ちゃんとこの書の中に登場する。アインシュタインと肩を並べて いま流行りの「量子もつれ」の辺りで。
「量子生物学」という分野があるということは、この書籍で初めて知ったのだが、ともあれこの書籍のタイトルに惹かれて購入した。いつかはナニかの役に立つという購入の仕方だが、私は〈引き〉がイイので さっそくそうなった。すでにこのホンには付箋が林から森になっている。若い頃から比べると圧倒的に活字離れしているのだが、かなりexcite するホンだ。量子力学をかじるようになったのは、演劇論の構築を目指していた頃からだが、希望と虚無を「重ね合わせ」持つ量子の世界観がまさに「明るい虚無」で 私には打ってつけだったのかも知れない。先だって ご逝去された楳図かずおさん(うーんとむかし、私の舞台に立って-出演して-頂いた)の代表作のひとつ『神の左手 悪魔の右手』の主役 山の辺想(やまのべ そう)の想は、私の名前から頂戴したとのこと。楳図かずお老師は次回作に量子力学に関するものをかんがえてらしたとの記事があった。目のつけどころがチガウな(と、そこはかとなく主筆自身も誇らしげ)。
人工知能(AI)が脳の写像、転写、模写、コピペであるならば 脳の生物的(生命的)作用、とくに〈意識・感情・ココロ・魂・精神〉にも触れていかねばならない。そういう 脳自体ですら解明 解析出来ないものを 人工知能(AI)は如何にそれをタコしているのか。
まず結論めいた命題を先に書いてしまうと、
Answer1・人工知能(AI)はヒトのように生命的作用〈意識・感情・ココロ・魂・精神〉は持てない。
Answer2・人工知能(AI)はヒトのように生命的作用〈意識・感情・ココロ・魂・精神〉を持つ必要はナイ。
これが私(主筆)のかんがえだ。楳図かずお老師も近似的にはその認識と一致されていて、AIの描いたマンガなどはナニもオモシロクナイと断じられている。その理由はAIの知能思考の大もとが過去資料データの寄せ集めの取捨選択に依るからだ。老師は「常にみたこともナイ新しい驚きを描く」とおっしゃっていたようだ。では、ヒトの脳はその辺りはどうしているのか。卑近な例を示せば最近の将棋対局にそれはよく現れている。と、書けば それ以上の解説は不要だろう。囲碁対局にもそれはいえることだが、将棋にせよ囲碁にせよ ヒト対AIの対局は過去行われている。(当時の)将棋名人位が負け越してから将棋のほうがどうなったのかは知らないが、囲碁では、私の知る限り(最近はヤってませんので)二勝一敗でAI(当時のコンピュータ囲碁)に勝ち越したのは 趙治勲老師だけで、趙老師はそのさい「こういう囲碁対局はまったく 面白くナイし、意味、価値もナイ。囲碁はヒトとヒトが対戦するから面白いのであって、そういうゲームなのだ」と斬れば血が出る盤上を喝破されている。
Answer1を①に「もつれ」させて考案していくと (つまり犬が西向きャ尾は東ですけど)「般若心経をわかりやすく翻訳せよ」という問いには、おそらく書かれてある通りの訳し方をして、翻訳不可能な部分は「ここからは意味がありません」と答えるだろう。あるいはかなり進んだAIならば、「この文案、文言には矛盾があります」と答えるかも知れない。そりゃそうだろう。以前述べたが 色即是空が正しいならば『般若心経』それ自体すらも〈空〉になる。一種の循環矛盾だ。
ここで、前回のつづきめいて「マチガイ」を取り上げる。もう少し具体的にこれを「いいマチガイ」にしてみる。すると、ふっと浮かぶのがジグムンク・フロイト(ここは濁点ナシの呼ばれ方でいく)の『精神分析入門』などにみられる〈いいマチガイ〉だ。この〈いいマチガイ〉は「無意識」に関係する(ここから『夢判断(分析)』が開発されるのだが)。AIのマチガイは読み込んだデータのマチガイがもとになっているものだろう。「機械(マシン)は正確にマチガウ」のだから。ところが、昨今これも話題の 量子コンピュータ はよくこのマチガイを仕出かす。その演算速度はスパコンが数万年かかるところを 数秒でヤってしまうという超~~~高速なのだが、マチガイが多いらしい。これはデータの読み違いから起こるものではなく 量子ビット(キュビット)という「量子の重ね合わせ(状態ベクトル)」の脆弱性からくるものだ。(これについてはアトでまた登場する~かも知れない)私は「量子トンネル」の堀りマチガイからかなとおもっていたが、どっちにせよ量子を扱っているのだからナイーブなんだろう。何れにせよ 無意識による〈いいマチガイ〉ではない。何故ならマシンは〈夢をみない〉=無意識領域を持たない、とかんがえてみるべきだからだ。 
**つづく

« 2024年10月 | トップページ