nostalgic narrative 51
承前:演劇は文学のジャンルに入る。舞台表現になろうとも戯曲は文学が基になっているからだ。とはいえ昨今「戯曲って何ですか」というヒトも多いことは事実だ。それを踏まえて述べるが「文学は終わった」のではなくSNSをハジメとして「文学」は新たな起動に入ったおもったほうがイイ。〈起動〉であるが、それが必ずしも~新しい~とはいい兼ねる。何故なら文化というものは常にスイッチバック(スイッチしてバックすること~なんやそれ~まあ、ほんらい鉄道用語ですので)するものだからだ。
演劇(ここでは戯曲、劇作)~とAI~について述べていくと、構造的にみる限り戯曲は二つの波の重ね合わせによって成り立っている(大概がそうだ)。一つは「物語文学としての波」、もう一つは「日記文学としての波」だ。この二つの波動の重なりは戯曲の中で意外と容易にみつけることが出来る。二つの波をベクトル合成(状態ベクトル)として捉えると、その強さ大きさにおいて、その戯曲の要素が日記的文学傾向なのか物語的文学傾向なのかがワカル。たいていの戯曲はそれで読むことが出来る。ところが、
ところが、宮崎(アニメ)においては次第にそこに〈無意識=夢〉という要素の加わりが強く大きくなってきた。いわば宮崎駿さんの無意識の導入、表現だ。ラカンおじさんはこの〈無意識〉を念頭に、その意味を〈コトバ化〉させることによる精神分析を試みる。それと同じように私たちが宮崎アニメを観るとすれば宮崎無意識(=夢)を解くことが必要になってきたということになるのだが、これは、かつての小劇場演劇で多く使われ、多く体験した「表現」=「観劇」という構図になる。(小劇場演劇という名称はマスコミ・メディアがかってに名付けたものなので、今後は使わない。かつアングラなどという名称も用いない。私は私たちが勝手に呼称していた自主演劇~自主制作・自主製作演劇ともいう~と記す)。
従来の演劇(主には新劇と称されるもの)とのチガイはそこに作家の無意識が入るだけではなく、物語文学要素が薄くなっていることだろう。強いて定義するなら「日記的文学に無意識を付随させた」こいつは自主演劇の発明なのだが、これを商用(商業的)として転化させることは劇作家にとっては至難の技で、商用(商業用)は物語文学の要素なり傾向を多く交えないと観客が来ない(銭にならない)からな。
と、とっとっと、それよりも、演じるキャストや他のスタッフが道に迷うことにもなる。彼らは物語の道標を頼りに歩いているからだ。
私はいま芸能演劇の脚本で糊口をしのいでいるが、物語文学を交ぜないと同じことが起きることを経験した。プロデューサーはかなりの能力があったので、ふつうならサッパリわからんというところを、なんとなくオモシロイ、好感は持てるということでさばいてきた。それにも限度はあるからナ。最も 苦しい辛いのは、役者さん方に「ワカラン」といわれることで、つまり役者さんたちが自身の足元がよく見えないと不安を漏らすことだ(これを「演技出来ない」などとのたまうヤカラもあるが、それはナンボのものかワカランきみの〇〇不足だろう。せめて戯曲の段階の脚本を100回くらいは読んでこい)。この事象・現象は昨今、商用(商業用)芸能界の演劇から、自主演劇の世界にまで浸透してきている。浸透滅却すればそうなるだろう。芸能界演劇でも未だにチェーホフが、あるいはその傾向の作品が上演されるのは、「ワカル」=無意識領域が無い、からだ。もちろん、日本の新劇ふう演劇から、本場のブロードウェイの舞台や新旧アメリカ演劇、ミュージカル(みたいなもの)が好んで上演されるのもその理由に由るとおもわれる(あまり詳しくナイので、謙遜しておもわれる、としておく)。
演じられる舞台のqualityとは関係なく、ワカラナイものよりワカルもののほうが客が入るから(銭になるから)、ワカル演目が多くなるのも世代を貫く資本主義の生業だから仕方ナイ。先だって亡くなった(で、河出書房新社から追悼本『唐十郎 襲来!』緊急出版)唐十郎老師が存命ならば八十代になるのだが、どんなふうにいまの演劇がその眼に飛び込んでくるのだろうか。ポーの黄金虫のようにツウーッと下界に降りる途中で蜘蛛の糸を上ってくるカンダタの背中にでも貼りついてマンマロ目ん玉でひと睨みというところかな。
と、また横丁に逸れそうなので、AIに急旋回すれば、AIは私の書く戯曲をどう読むだろうか。おそらく読めないだろう。〈了解不可能・理解不能〉とスルだろう。何故なら、そのように書いているからだ。AIに最も演算がたやすいのは「プロレタリア文学」なんじゃないかな。つまり、AIに意識領域のナイことは、無意識領域が無いということから反転目視で歴然としているし、逆に現在の表現(コミック・アニメ・映画・小説なども含む)には、不思議と無意識=夢領域が広く行き渡っているのだ。優れた作品には(たとえば北野タケシ映画といえども)その領域は含まれている。(ここのところ 多少は自画自賛、自我励行ですが)。
ともかく、自燈明 自燈明。*****もう少しつづきます